とらじぇでぃが色々書くやつ

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主にVTuberの記事を投稿中。

VTuberの現世と前世は別人か? 同一人物か? : 久遠千歳とEMAの場合

 

幽体離脱のイラスト

 

 この記事ではVTuberの「転生」について、久遠千歳とEMAを軸に据えながら述べる。両者が別人なのか、それとも同一人物なのかを考えたい。

 なお、ここで取り上げる「転生」はあるVTuberからVTuberへのタイプであり、他のタイプではない。留意願う。

 

 

久遠千歳とEMA

 この記事を開いた読者のみなさんには不要のことかと思うが、念のため久遠千歳とEMAについて簡潔に説明する。

 

 まず、久遠千歳とは、2019年1月にデビューした、にじさんじ所属のバーチャルライバーである。しかし彼女は2019年8月末に引退を発表。リスナーに惜しまれながら最後の配信を終えた。

 

 

 

 その後の2019年10月、KAMITSUBAKI STUDIOにDUSTCELLが登場。そのボーカルがEMAであった。その際、有名VTuber花譜が、尊敬している人物として久遠千歳に言及したこと、また歌声も酷似していることなどから、リスナーの間では「EMAが久遠千歳の転生先だろう」と話題に。そして運営も、EMAの「転生」(移籍)自体は認めており、その点を考慮しても、久遠千歳を辞めたある人物が、EMAを演じ始めたことはほぼ間違いない。

 

 

note.com

 

 そういうわけで、この記事内では、久遠千歳からEMAへの「転生」は事実であるとして扱う

 

結論

 さて、ここでの問いは、この両者が別人か、同一人物かというものであった。

 

 この問いは、キャラクターを重視するか、人間を重視するかによって返答が変わる。久遠千歳、EMAというそれぞれのキャラクターの個別性を重く見るなら、前者と後者は別人になるだろうし、久遠千歳とEMAを演じる人間が共通していることを重く見るなら、前者と後者は同一人物ということになるだろう。

 VTuberの性格に根差した、なんとも難しい問いである。

 

 さあ、まず結論を述べよう。

 久遠千歳とEMAは別人である、と私は考える。

 

 理由は一言で言ってしまえば、「両者は記憶を共有しないから」だ。

 これは言葉のままである。別の表現が良ければ、「久遠千歳の記憶をEMAはもっていないから」と言い換えても良い。

 

反論と応答

 これだけ言ってしまえば、もちろん反論もあろう。「久遠千歳とEMAは同じ人物が演じているのに、『記憶を共有していない』はおかしい」と。

 

 たしかに、久遠千歳とEMAは同じ人が演じているし、久遠千歳であった人間がEMAを演じたとたん記憶を失う、ということはまずありえない。当然、久遠千歳を演じていた人間は、久遠千歳を演じていたときの記憶をいつでも保持できているはずである。

 であれば、私の言っていることはおかしいのではないか。

  

 いや、私が言いたいのはそういうことではない

 

 第一に、この反論がVTuberの側に立ったものであることは、お分かりだろう。久遠千歳やEMAを演じる側から見れば、記憶はたしかにあるといえる。

 

 しかし、そうではない。私はこの話題を、リスナーの側から考えるべきだと思っている。VTuberの側に立った考えは、想像や推察に過ぎない。だが一方、リスナーの側に立った考えでは、記憶の問題を想像や推察ではなくて、より強力な客観的事実に根拠を持てる。

 私はこの後も同じようなことを述べるのだが、あるVTuberのことが分かるのはそのVTuberのみだ。そして私たちはそのVTuberではない。私たちは他人でしかない。私たちは、ある特定のVTuberではない存在として、一人のリスナーなのであるこれを忘れてはならない

 だから、想像でしかないうえに知り得ないVTuberの側に考えを巡らせるよりは、実際に私たちが立っているこのリスナーという側からこの話題を考えるほうが妥当だろう。

 

 第二に、私が「久遠千歳とEMAは記憶を共有しない」と言うのは、何もそれらを演じる人間が記憶喪失に陥っているという意味ではない。久遠千歳とEMAが、それぞれのキャラクターとして記憶を共有していないと言いたいのである。

 これはVTuberの側からではなくて、リスナーの側から客観的に見た事実である。

 というのも、もしEMAが久遠千歳の記憶を持っているのであれば、彼女には久遠千歳のリスナーに謝罪するなり、そうでなくても軽く挨拶するなりの義務が発生するだろう。しかし、実際はそうでない。なぜか。EMAはその設定上、久遠千歳の記憶を持っていないからである。

 

現実世界の転生

 ここで思考実験を一つ挟んでみよう。

 現実世界に、ある男がいる。その人は、織田信長を前世に持っていることが確実だとしよう。さて、その男は、今までの戦で殺した兵士たちに謝罪する義務を負うだろうか。

 

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 答えは否である。なぜか。

 その男は織田信長の記憶を持っていないからである。

 

織田信長を前世に持っている」と言われた時、読者のみなさんは織田信長の記憶を持った男」を想像したかもしれない。事実、創作での転生はそのように描かれることが多いし、ライトノベルによくある「異世界転生」も、現実世界の記憶を持ったまま異世界に生まれることが多い*1。そうであれば、その男は墓前での謝罪の義務を負うかもしれない。

 

 しかし、記憶の移行は、はっきり言って虚構だ。死者の記憶が別の人間に移るなど、現実には考えられない。転生は死を前提とするが、死んだ人間の脳に依存する記憶が、まったく別の人間に移ることはあり得ない。

 だから、先の男は織田信長の記憶を持たないのである。

 

 ……しかし、だとしたら困ったことになる。では「転生」とは一体何だ?

 先のように「転生が記憶を継承すること」だとは思っていなかった人も、改めて問われると答えられないだろう。

 

 字義に戻ると、転生とは、ある者が死んで、また新たにこの世へ生まれ出ることであった。

 

 ここで「転生はおとぎ話です、終了」とできれば良いが、しかしここは粘って考えてみよう。前世から現世へと受け継がれるものは何か無いだろうか。

 

 そうして考えてみたとき、私は意識がそれだと思い当たった。

 

 意識?

 

意識と記憶

 ここでいう意識とは、痛いとか、苦しいとか、悲しいとかいった、その人しか感じられない感覚のことである。

 

 この感覚は、自分でない人には感じられない。また、同じく他人の感覚を自分が感じることもできない。

 

 たとえば、私が道で転んで膝をすりむいたとする。血が出た。痛い。ところでこの痛みは、私にしか感じられない。通りがかった人たちは、私の痛みを感じられない。私も、通りがかった人たちも、同じような身体構造を持っているはずなのに、しかし、痛みを感じるのは、この私だけだ。

 

 ここで言いたいのはそういう意識である。

 

 これは、その人に固有の「視点」であるとも言い換えられる。喩えるなら、カメラのレンズや、画家の視点である。写真や絵を創るために、レンズや画家は必須だが、しかしその写真や絵には、レンズや画家は表れてこない。

 

 伝わるだろうか? もしピンと来なくても、この先を読んでいたらなんとなく分かってもらえるかもしれない。永井均の著作を読んだ方なら、「端的な私」を連想してもらえばよい。

 

 ところで、付け加えだが、この意識=視点は唯一「私」にしかないと同時に、誰もが持っている。たとえば、「私しか痛みを感じない」と言ったとき、他の人は「私も痛いと感じるけど」と言い返せる。たしかにその通りで、全員が痛いという感覚を覚える。つまり、この意識は誰もが備えているのだ。しかし、現実には、この痛みは世界でただ一人にしか感じられない。「私」の痛みを感じる人間は、「私」の他にはいない。

 

 誰もが持っていながら、一人しか持っていないもの、それがこの意識なのである。

 

 そしてこの唯一の意識は、死ぬとどうなるのだろうか。一つの宗教的でスピリチュアルな発想では、この意識は魂のように漂って、また別の人に乗り移るのではないだろうか。そしてまた、世界で唯一の意識を持った人間が誕生するのだ。

 

 具体的に言えば、現実世界にいるある男の意識が、たまたま以前は織田信長のものだったときに、「その男は織田信長の生まれ変わりだ」といえるのではないかと、私はそう言いたいのである。

 

 ここで注意だが、この意識は記憶とは全く別物だ。意識が乗り移ったからといって、記憶は引き継がれたりしない。意識が移って起こるのは、世界で唯一痛いとか苦しいとかいった感覚を感じる人間が「織田信長」から、「ある男」へ成り代わることだけだ。

 

 もちろん、その成り代わった意識が以前誰のものであったか分かる人は、実際のところ誰もいない。その意識を持っている本人ですら分からない。なぜなら転生において記憶は引き継がれないのだから。なぜ記憶が継承されないかといえば、それは先に言った通り、別の人間の記憶を産まれながらに保持している、という状況は普通ありえないからだ。

 

 以上から、結局のところ、「織田信長を前世に持っている男」とは、「織田信長の記憶を産まれながらに持っている男」ではなくて、織田信長だけが持っていた世界でただ一つの意識、視点を受け継いだ男」のことだと言える。

 

 つまり、転生がもしあり得るとすれば、それは、ある死者の記憶は肉体に置き去りにしてしまって、その死者のものだった世界を見る意識=視点のみが、別の肉体に宿ることをいうのである。

 

VTuberの転生

 久遠千歳とEMAの件も、同様に、類比的に考えることができる。

 

現実世界の転生との共通点

 まず、EMAは「久遠千歳の記憶を持って生まれた存在」ではない。それは彼女の言動が証明している*2

 

 そして、「転生は死を前提とする」とさらりと述べておいたが、久遠千歳からEMAへの転生にも、引退という「ほとんど死」の現象が経由されている*3。久遠千歳はバーチャル上で死んだ存在であり、今はインターネットの外にある「生身」だけが生きていると考える。

 

tragedy.hatenablog.com

 

「生身」

 「生身*4とは、簡単に言うとVTuberを演じる何者か」のことである。また抽象的に言えば、インターネットの外にあって、リスナーにはアクセスできない手の届かない場所のことだ*5

 この久遠千歳とEMAの共通項である「生身」すなわち簡単に言うところの「演じる人」が、先ほどの織田信長の例でいう「意識」にあたる。

 意識とは在って無いようなもので、それ自体が思考能力を持つことはない。それはお分かりいただけると思う。

 それと同様に、私は、「久遠千歳とEMAを演じる人間」は思考能力や記憶を持たないと考えている。

 「はて?」と思った方も多いだろうから、順に説明する。

 

「演じる人」は無属性である

 まず「久遠千歳とEMAを演じる人間」とは、どこにいるのだろうか。もちろん、リアルの世界、すなわちインターネットの外である。もちろん彼女は人間だから、思考能力も記憶も持っているだろう*6

 しかしインターネット内においては事情が異なる

 私たちリスナーがインターネットを通して久遠千歳やEMAをみるとき、「演じる人」は背景に退いているだろう。前面にはキャラクターの画像があって、「演じる人」は外に押し出されている

 つまり、そこでは人格のみがインターネットのチェックを通過して、「演じる人」は排除されてしまうのだ。

 

 どういうことか。

 

 Twitterが一番分かりやすい。

 Twitterではみんな思い思いの画像をアイコンに設定する。それはネコだったり、リアルの女の子だったり、少女のイラストだったりするだろう。読者のみなさんも多くはTwitterを利用していると思うが、みなさんのツイートはそのアイコンとともに発信されるわけである。すると、そのアイコンは次第に、アバターのような役割を果たすようになる。最初はそうではないかもしれないが、呟いているうちにイメージがフォロワーに植えつけられていって、時間が経てば、まるでそのアイコンがツイート内容を喋っているように感じられる。このとき、前面にはアイコンがあって、リアルの人間は押し退けられている。つまり、実際呟いているのはリアルの人間であるにも拘らず、受け手にとってはアイコンの少女が呟いているように感じられるのだ。

 

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無表情の少女が「草」と言っているように見え、大変シュールである

 

 そういったように、私たちは久遠千歳やEMAを観るとき、実際に考えたり喋ったりしているのはリアルの人間であるのに、あたかも久遠千歳やEMAが考えたり喋ったりしているように感じているのだ*7

 

 つまり、「久遠千歳やEMAを演じる人」の人格や記憶などは、久遠千歳やEMAの人格や記憶などとして現れていると言える。

 

 そうして、人格や記憶をキャラクターに吸収された「演じる人」は、先に説明した意識のように、ただ世界を見る視点としてのみ働くのである。

 

 

溶け合って生まれる人格

 ところでその「演じる人の人格が久遠千歳やEMAの人格として現れる」とは、どうすれば認知できるのだろう。というか、私たちは「この表象は演じる人に由来する」などと知りうるのだろうか。つまり、にじさんじのようなVTuberたちの、とある言動が、演じる人に由来するのか、はたまた設定に由来するのかを、私たちは判別できるのだろうか

 

 私はできないと考える。

 

 たとえば久遠千歳には久遠千歳というキャラクターの設定と人格があった。加えて、「演じる人」の人格もそこに存在している。つまり、久遠千歳には、「生身」から派生した「演じる人」の人格と、「キャラクター」の人格が2つ同時に存在することになる。

 しかし、この両者は一見したところ区別がつかない。なぜなら、この2つの人格は混ざり合い、溶け合うからである。

 

 どういうことか。

 

 たとえば委員長(月ノ美兎)の「もつ鍋とビール」は委員長の最初の設定に反する発言だ。高校生はビールを飲めない。ゆえに、私たちの多くは、「おそらく高校生ではない、委員長を演じる何者かの嗜好が不意に出てきてしまったのだ」と考える。これは委員長およびにじさんじの自由なスタイルからいえば、自然な発想といえる。

 しかし、逆も考えられるのではないか。というのも、世の中には、飲酒する高校生も存在するのである。法律上望ましくはないが。だから、逆の考えでは、「委員長は事実高校生だが、背伸びをしてこっそりと飲酒している」となる。その密やかな飲酒がバレてしまったから、委員長は誤魔化しを挟んだのではないか、と。

 

 

 

 これら解釈に名前をつけるなら、一般的な前者は「中の人連想」、やや穿った後者は「設定連想」といえるかもしれない*8

 

 だが、どちらが事実であるかは不可知である*9。ゆえに私たちにわかるのは、「委員長*10はもつ鍋とビールが好きだ」という事実のみで、それ以上でもそれ以下でもない。「演じる者の人格」と「キャラクターの人格」のどちらが今の言動に表れてきたかを明言することは、私たちにはできないのである。両者は明確に境界線を引かれて別個に存在するわけではなくて、委員長の中では綺麗に混ざり合って存在している。

 そうして二つの人格が溶け合った結果として、委員長という一個の人格が生まれるのだ*11


 委員長と同様に、久遠千歳においても、「演じる者の人格」と「キャラクターの人格」の両者が合わさって、久遠千歳という人格が成立していると言える。

 

溶け合って生まれる人格の帰属先

 少し振り返ると、私はこの記事の最初で「この問題はキャラを重視するか人間を重視するかで答えが変わる」といった。しかし、今示した通り、その両者は私たちリスナーの前には一体となってしまっている。そのため、そもそも問いの前提となっていた両者の判別が厳密には付けられず、解答できなくなってしまった。

 

 するとこの問いは、また別の問いに更新される。

 

 この混ざり合いの末に生成された一個の人格が、久遠千歳(EMA)に所有されるのか、演じる者に所有されるのか、という問いだ。

 

 この生成された人格は「演じる者」と「久遠千歳」が少しずつ人格を出し合って生まれたようなものである。だから、どちらに所有権が発生するのかは考える余地がある。

 

 そして私はこの場合、これら人格は一旦、久遠千歳のものであると見なすべきだと思う。何せ二つの人格の見分けがつかない以上、それらは、「演じている何者か」よりは、その言葉が発せられる口のついた、久遠千歳のものであると考えるべきだ。口というのは重要である。なぜなら、私たちは他人の口を視認し、そしてそこから発せられる言葉をもって、その人のことを知るのであるから

 

まとめ

 そういうわけで、インターネット外に在る「演じる人」は、久遠千歳やEMAの無属性的な、世界を見る視点としてのみ働き、その「演じる人」はインターネット内の存在である彼女らに対しては記憶や人格も持たないといえる。記憶や人格は、久遠千歳、EMAといったキャラクターそれぞれが独自に保持しているのだ*12

 

久遠千歳とEMAは別人:再反論

 このことから、「キャラクターを演じる人物」という共通項からは、久遠千歳とEMAの同一性を主張できないことも分かる

  演じる人物は無属性であり、偶然共通しているにすぎない。溶け合う人格は久遠千歳(EMA)に帰属し、また再三言っている通り、久遠千歳とEMAは記憶を共有しない

 

 たしかに、久遠千歳とEMAを演じる人物は、偶然にも同じである。しかし、その言葉が発せられる口はその演じる人物に付いているのではなくて、久遠千歳とEMAそれぞれに付いているのだ。たしかに、もし私たちがモニター越しの光景を想像すれば、喋りは同一人物に帰属してしまうだろう。しかし、私たちが見ているのはモニターの向こう側の景色だろうか。、その手前、前面である。私たちはモニター上でVTuberが発話するのを聴くのだ。


 私が言っているのは、要するに、「久遠千歳は久遠千歳であり、EMAはEMAである」というごく当たり前のことである。

 

 繰り返しになるが、これに対して、「でもやっぱり、事実としてEMAの前世は久遠千歳ではないか」とそう言う人もいるかもしれない。たしかに、前世は少し調べれば分かる。VTuberの前世はネットにいくらでも漂っている。だから、あなたたち(私を含め)は彼女の前世を知っている。ネットという不思議な力で、見通すことができる。だから、EMAの前世は久遠千歳で、彼女もそれは受け入れるはずだ――

 

 いや、待ってほしい。

 

 織田信長が前世である男の例を思い出してもらいたい。そして今回は読者のあなたも登場する。あなたは前世占い師だ。占った人の前世が分かる能力があり、それは実際に正しい。そしてマジカルなパワーで、君はある男の前世が織田信長であると見抜いた。そこで君は言う。

 

「あなたの前世は織田信長だ!」

 

 ……彼はキョトンとしたあと、吹き出した。笑っている、馬鹿にしたように。君は力説するが、彼はもう構わないでくれと離れていく。

 

 当然である。なぜなら、彼は織田信長ではないし、そんな記憶も無いから! 彼は彼でしかない! 彼は彼の人生を生きているのだ、誰が前世占い師の話など聞くだろうか。

 

 つまり、私たちはいわば神の視点にいて、なぜかEMAの前世を知っているのだ。しかしEMAのほうは「誰が自分の前世か」など知らない。転生は事実だが、しかし記憶は引き継がれないから。だから、「私はお前の前世を知っているぞ!」と叫んでみたところで普通は気持ち悪いだけだし、得体の知れない前世で崇められても怖いだけだろう。いや彼女がそう思っているかは分からないが、一般的にはそうだ*13。たぶん。

 

 

総括

 

 今回は転生について書いた。

 久遠千歳とEMAという、公式も半ば認めている「転生」の関係を取り上げさせてもらい、「両者は別人である」という私の考えをなんとか示せたかと思う。

 この発想は、設定の(ほぼ)存在しないねこます氏らのタイプを除けば、他のVTuberにもある程度適用できる、かもしれない。

 

 最後に念のため書いておくが、この記事で述べたことは全て私個人の考え*14であり、読者のみなさんを強制しようと試みたものではない

 また、注釈をいくつか入れているので、時間があればそこも読んでいただければと思う。

 

 

 何はともあれ、EMAに多くの幸があらんことを祈るばかりだ。

 

 

参考にしたもの

 

存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)

存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)

 

 

lichtung.hateblo.jp

 

ecrito.fever.jp

*1:多いというか、すべてそうだろう

*2:たとえば、彼女の自己紹介では久遠千歳に触れられることはなかったし、今後触れられる様子もない。もし記憶があれば、遠回しにでも話題にするものではないか?

*3:先の記事で、私は引退を、「死刑までは行かない、仮出所の可能性がある無期懲役」と喩え、「引退≒死」、つまりほとんど死であるとした

*4:VTuberの見えない領域 ~魂と生身〜 - とらじぇでぃが色々書くやつ

*5:「久遠千歳/EMAの生身」といえば、それはインターネット外に存在していて、両者の橋渡し的基盤として働く、とある人間のことを指す。しかし、この「人間」とは、特定の人物のことではない。決して、例えばSさんといった一個の人物を指すのではない。もしそうなら、「演者」や「中の人」といった言葉で事足りる。しかし私が言いたいのはそうではなくて、インターネット外にある本人以外には未知の(いや本人にも分からない場合も多いだろうが)、VTuberを動かすいわばエネルギーのようなものを示したいのである。たとえば、この「人間」は一人でなくても良い。ネットの外では複数人が台本を考えていて、VTuberはその台本を読んでいるだけという例もあろう。「演者」や「中の人」はそれに対して混乱するが、「生身」は混乱しない。そこにメリットがある。また、「生身」は「演者」をVTuberと同列に組み入れる。ウェザーロイドのポン子は演者が誰であるかほとんどの人に知られているが、この時、演者=生身ではない。「生身」はインターネットの外にある。だからこの場合は演者とポン子の共通項であり余剰であるその思想信条や無意識が生身となる。

*6:人間でないなら話は別だが……

*7:そしてそうやって立ち上がる虚構は、ほとんどのVTuberに共通のお約束だろう。

*8:「高校生だった時に……」といった失言に対しても、かなり苦しいが後者をとることもできよう。

*9:場合によっては、ネット上に中の人の情報が存在し、検証可能な場合もあるだろう。しかし、たとえその検証で「中の人連想」とVTuberの発言が合致しても、「設定連想」の否定とはならないだろうし、ゆえに「中の人連想」を真とも言い切れない。

*10:二つの人格が溶け合った結果生まれる人格としての委員長のこと。次の段落で述べる

*11:私の理解が正しければ、これはナンバユウキさんの言うメディアペルソナと同じだと思う。

*12:もちろん見かけ上であるが

*13:これは「一般的な反応はこうだろう」と書いたまでである。さすがにEMAに対して直接久遠千歳について問うのは様々な面で問題があるが、「久遠千歳が好きだからEMAも好きだ」という考えは直感的で自然であるし、私も直感的にはそう思う。

*14:意識や記憶、そして転生のアイデア永井均先生からお借りした。この箇所はそのオリジナリティを主張するものではない