とらじぇでぃが色々書くやつ

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主にVTuberの記事を投稿中。

グッズが遺品になるとき

 

「これが——生だったのか」わたしは死にむかって言おう。「よし! それならばもう一度」と。(ニーチェ ツァラトゥストラⅡ 中公クラシックス p373) 

 

 

 

 VTuberは引退する。遅かれ早かれ、必ずである。例外はない。引退しないVTuberは、人間という存在から完全に離れたもの以外あり得ない。仮に演じる人間を何度すげ替えたとしても、彼らはいつか引退する。AIですら、人間が運営している限りは引退があり得る。これは間違いない。

 

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 2019年5月。蒼月エリが引退する、そう聞いたとき私は多少のショックを受けながらも、「ふーん」と流していた。別に気にすることも無いと思っていた。私は二次元キャラが好きだが、「推しができた」とか「ガチ恋」とかの気持ちは分からなかった。私は名取さなの言うところの、中途半端な、オタクになりきれないオタクなのだろう。

 しかし、蒼月エリは事実として、ハニーストラップにとってかけがえのない1ピースであった。彼女が引退してからそう気付くと、途端に気持ちが落ち込んだ。ハニーストラップの姉妹グループ、あにまーれから引退が出たとき、悲しんでいた人たちの気持ちが分かった気がした。

 

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 私の端末には、蒼月エリの「蒼い蝶」が入っていた。少し辛そうにも聴こえるが、しかし力強い歌声。お気に入りの曲だった。いやもちろん今も気に入っているのだが、しかし、彼女が引退した今では、胸に切ない気持ちがこみ上げる。

蒼い蝶

蒼い蝶

  • 蒼月エリ
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

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 最近、VTuberと死について考えているVTuberの引退は死である」とはよく聞くテーゼだが、それは比喩以上の説得力を持っている気がした。そうしてあれこれ考えていると、蒼月エリが引退した後残されたこの蒼い蝶は、遺品という位置付けになるのではないか、と思うようになった。

 

 ところで、なぜVTuberの引退は死なのだろうか。

 よく「引退は死だから悲しい」とか「引退という死には種類がある」とかいったことを聞くが、なぜ引退は死なのか書いた人はまだいないように思う。なので軽く触れる。理由は三点

 

 まず、死は絶対に訪れ、そして死者は絶対に復活しないことがある。知っての通り、死から生が帰還することはない。死んでしまえば終わりである。

 

もし死者が生き返ることができ、そしてもしこの死者の死が単なる一時的中断であったならば、それは(……)その死はすこしも死ではなかったということを証明することになろう。せいぜい長い冬眠か、ちょっとした気絶、なにか麻痺か潜勢化のようなものだ。 死 V.ジャンケレヴィッチ みすず書房 p83

 

 その意味では、実はVTuberの引退は死ではない。引退から舞い戻った笹木咲はゾンビではなくて、実際にまだ生きていると私たちは思う。それに引退が死だとしたら、復活はできないはずだ。だから、引退=死ではない

 

 しかしながら、引退からの復帰は困難を極める。個人勢ならまだしも、企業勢の引退は、言い換えれば退社だ。退職願を出した会社に戻りたいと思う人が一体何人いることか。

 また、引退はファンをひどく傷付ける。たとえば近親者が亡くなったとき、私たちは深い悲しみに打ちひしがれる。そこから立ち直るには、とても長い孤独の時間と、膨大な心的エネルギーが必要だ。いなくなった存在と心の内で対話して、なんとか、なんとか死を受け入れていく……。そういったように、引退はファンに莫大なリソースを消費させる。そうしたファンの姿を見ながらも復帰するのは、なかなか難しい

 だから、私は引退とは近似的な死だと思っている。たとえるなら、死刑に対する無期懲役だ。死刑は死が確実だが、無期懲役はわずかに仮出所の可能性がある。これは「引退=死」論ではなくて、「引退≒死」論だといえる。

 

 また、VTuberの引退が死に思えるのは、その特性にも関わっている気がする。VTuberは、私たちと同じ時間軸に存在するキズナアイは、バーチャルYouTuberについて次のように言う。

 

たぶんアニメのキャラにはその意味*1で「実在する」とは言えないのかもしれない、なぜなら同じ時間軸を生きていないから。本当のパーソナリティというのは、リアルタイムに同じ世界に存在していると認識できることだと思うんです。 ユリイカ2018年7月号 キズナアイインタビュー p35

 

 アニメやマンガのキャラクターの死は確かに死だが、それはいわば閉じた死である。そのキャラの死は、どこか別のところで、別の時間に起こった死で、フィクションの域を出ない。また、マンガの完結もキャラクターの死を意味しない紙の上の物語は、「今ここ」には無い。また、時間軸がそこだけで完結しているから、マンガが終わっても、その物語は時間が止まるか、永遠に続くかで、死を迎えることはない。キャラクターの死は想定できるかもしれないが、連載終了が直ちに死を意味したりしない

 しかしVTuberは、私たちと時間を共有する。だから相互的関係(双方向性)が生まれるし、彼ら自身がTwitterで呟いても違和感がない。彼らは、私たちと同じく生きているのである。だからこそ、引退という消滅は、死と形容される。完結が、直ちに死になるのだ。死は訪れた後何も残さない。無が広がるのみである。

 もちろん例外もある。先ほど触れた笹木咲や、たびたび夢月ロアの雑談に登場した「友だち(おそらく引退した久遠千歳)」などである。前者は復活であったが、後者は「生きていることの暗示」だ。後者をどう考えるか。たしかに暗示されてしまえば、「今どこかで生きている」ことにはなる。しかし、その「生きている」のは誰なのか? 久遠千歳だろうか。そう考えることもできる。否定はしないし、むしろその方が微笑ましくて良い。しかし一方で、私たちの知らない、VTuberでない「中の人」が生きているとも考えられる。もし「引退≒死」から考えるのであれば、そういう解釈になる。死とは消滅であり無になることだ。VTuberは消滅してしまっているから、そこで言われているのはネットに出てこない中の人である*2。とはいっても、久遠千歳と中の人は同じ人物でもあるから、些細な差ではあるかもしれない。

 

tragedy.hatenablog.com

 

 話が複雑になってきたので次に移る。

 

 また、引退は突然であることも根拠になる。死は絶対に訪れるが、それがいつかは分からない。同様に、全てのVTuberの引退は現状間違いないのだが、それがそれぞれいつなのかは分からない。今月中か、来月か、半年後か、5年後か、場合によっては200年後か……。それは分からない。

 ただ、引退がいつか、本人には分かるということが、一つ矛盾するところではある。死は自分で定めることができないからだ。自殺? そう形容したければしても良いが、あまり気持ちの良い表現ではない。ともかく、引退の日、時刻は本人が決め得るということが、死とは異なる点である。

 しかし、リスナーにとっては(そして今ここではまさにリスナーにとっての話をしている)、引退はいつか分からない。第三者であるリスナーが引退の日取りを決定付けることは絶対にできない。引退は突然訪れ、私たちはその別離によって、深い悲しみに突き落とされる……。その意味で、リスナーにとっての引退は死である

 

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 先日、なんとなくにじさんじの東京タワーくじを引いた。

 

 

 普段はグッズを買ったりしないのだが、本当になんとなく、夢月ロア目当てで5回。缶バッチで夢月ロアが出た。

 喜んだのも束の間、蒼月エリと蒼い蝶のことが頭に浮かんで、消えて、虚しくなった。夢月ロアが引退したらどうしよう。当たったこのグッズが、また遺品になってしまうじゃないか。もう、ふと目にして悲しくなるようなことは嫌だ。

 買わなければ良かったと後悔した。グッズは2月に届くという。長すぎる。もっと早く送ってくれないか。

 ……でも、思えば、遺品にならないものの方が少ない。私の祖父はいつまでも居るような気がしていたが、認知症で行方不明になり、亡くなった。捜索願を出しては帰ってくることの繰り返しを見ていたから、薄々そんな気はしていたが、本当に死ぬとは思っていなかった*3。休みのたびに行くのが楽しみだった祖父母の家が、途端に変わってしまったような気がした。いつも祖父が座っていた座椅子や、いつも使っていたペン、いつも見ていたテレビ番組、全部見るたび切なくなった。

 今生きている私の両親も、間違いなく死ぬ。そのとき、両親の周りのものはみんな遺品になる。

 ロアちゃんだって、ずっといるわけではない。演じる人の体が持たなくなれば、VTuberの体も持たない。そうしたら引退だ。グッズが遺品になるのは、仕方のないことだ。そう割り切るしかないんだろう。人間の宿命だ

 

 しかし、死をプラスに捉える仕方もある

 哲学者のジャンケレヴィッチ曰く、「人生の意味は決して生涯のうちに表れない*4らしい。たとえば元号の数少ない意義の一つに、「区切りをつける」ことがある。そうすることで、「昭和とは」「平成とは」と、それぞれの時代を語れるようになる。そういったように、人が生涯を終えることで初めて、残された人間は、その人がどのように生きたかを語れるようになる。死があるからこそできることがある*5

 

「引退=死」でよく言われる「語り続けているうちは生きている」「忘れないうちは死んでいない」は、はっきり言ってしまえば死からの逃避、一時的な慰めだろう。もちろんそれもある程度必要だが、それが到達点ではない。そうではなくて、死んでしまったからこそ語るのだ私たちの時間軸から消えてしまった、もう生きることのない存在について、事後的に語ること、これが私たちにできることだいなくなってしまったからこそ、言えることがあるはずなのだ

 

 冒頭の「これが生だったのか。よし!それならばもう一度」は、ニーチェの言葉で、いわば現在を肯定する合言葉だ。人生は虚無に満ちているが、しかしあえてそれを肯定していく言葉である。それは容易いことではない。しかし必要とされているのはその、もう一度」言える強さなのだろう。

 

 

*1:前述に、キズナアイの写真集を入手した人たちは、それを画集ではなく写真集として捉えるが、それは彼らがキズナアイをたしかに存在するものと考えているからではないか、とある。

*2:つまり過去記事でいう生身に属する部分だ

*3:思うに、「本当に」が大事だ。

*4:死 p136

*5:否定神学ではあるが、死にはこういうものが必要だとも思う