とらじぇでぃが色々書くやつ

とらじぇでぃが色々書くやつ

主にVTuberの記事を投稿中。

【雑記】VTuberと構造

立方体の写真素材|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

 

九鬼周造の『いきの構造』が、私にとってはとても面白く感じられた。野暮と意気などの対立概念を四面体に写しこんで、整理を行っていく様は、見事だった。たぶん、私は構造分析みたいなものが好きなんだと思う。こんがらがって見えるものを、ほどいて、赤と青に色分けする。それぞれの特徴を記述して、なぜ絡まってしまったのか考える。今のところ、これが一番やっていて面白いし、しっくりくる。

私がそういう風に書いた初めての記事が、キズナアイ分裂について考えた記事だった。

tragedy.hatenablog.com

 キズナアイの分裂は当時最も注目された話題でもあったし、記事にナンバユウキさんや東浩紀さんを初めとした著名な方々が反応してくださったこともあって、この記事は多くの人に読んでもらえた。ここではキズナアイ分裂について肯定的な見方と否定的な見方が真っ二つに割れていたことを受け、それぞれの立場の名付けとなぜ対立が起こっているのかを主に論じた。そして、最後に背伸びをして観光客論を援用し、キズナアイをいかに受け入れていくかという策を提示してみた。

ファンとクリエイターという区別は、近からずも遠からずだったと今では思っている。切り分け自体はおそらく間違っていない。しかし、根拠が違う。遠い。というのは、この記事での区別は、それぞれの立場の結果として生まれる「感情」に主に依拠しているからだ。そうではなく、それより前の、根本的な部分を考えるべきだ。

そしてその根本的な部分とは、思い浮かべるVTuber像である。ファンの思い浮かべるVTuber像は、にじさんじやホロライブといった企業系VTuberのイメージにかなり引っ張られたものだった。すなわち、一つの体に一つの魂という固定観念に縛られたものだった。一方でクリエイターの思い浮かべるVTuber像は、もっと自由なものだ。すなわち、「バーチャルに」できることならなんでもやっていこう、という寛容な意思と情熱だ。

ファンの立場では、同じ体が複数あって、さらにそれぞれ別々の人間が入っている状況は受け入れられない。一方、クリエイターの立場からは、「一つの身体には一つの精神のみが宿る」という見方はバーチャルの可能性を狭めるものと映るだろう。バーチャルを発展させたい彼らにとって、キズナアイのようなトップインフルエンサー(当時、今は知らない)の冒険は歓迎すべきことだったはずだ。

ファンには、クリエイターのマッドサイエンティスト的な発想——クローンを作成するようにキズナアイを分裂させ、それぞれに別人格を移植するという反直感な発想——が信じられないし、クリエイターにはファンの目が曇っているようにしか見えない。分かり合えないはずである。

キズナアイは、雑誌ユリイカのインタビューで、私はVTuberという言葉を使わない、とわざわざ発言していた。私はVTuberではなくて「バーチャルユーチューバー」なのだと。これはつまり、キズナアイVTuber界の親分ではなく、もっと別の方向を目指している存在なのだという決意表明だった。にも拘わらず、キズナアイはリスナーの中でVTuberという括りに吸収され続けてしまった。VTuberとはっきり決別できれば、キズナアイの分裂はひょっとしたら、上手くいったのかもしれない。

 

前に書いた、DWUの記事も、先の記事と同じような構成を意識した。

tragedy.hatenablog.com

 発達障害を扱う点で非常に危ういものだったし、実際何件かお叱りの声が散見された。さらにそれだけでなく、「自分も発達障害なのかもしれない……」というショックを受けたような人まで現れたので、さすがにこれはいかんと、いくつかの補足を行った。いつもは鬱陶しいほどに留保をつけるのだが、今回は分かりやすさを重視して省きまくったので、それがあまり良くなかったのだと思う。扱うテーマの繊細さをもっと考慮すべきだった。

この記事は先の記事に匹敵するか、それを超えるほどの拡散ぶりだった。ゆがみんさんを初めとしたインフルエンサーの方々に拡散いただいたのが大きな要因だと思う。ありがとうございました。

この記事では、セバスチャンの行動原理と、仕事/遊び概念を活用した読み解きを考えた。「遊び」をポジティブに捉えてみたことに価値がある、と自分では思っているのだが、どうだろうか。

この記事は少し説明不足があったと思うから、ここで補足したい。編集で加えればいいと思うかもしれないが、たぶん読みにくくなるし既に8000字を超えているのであまり得策ではないだろう。それに、たぶん分かる人には、この補足を読まなくても言いたいことが既に伝わっていると思う。

補足事項は、①「脱」という表現と、②「遊び」の扱いについてだ。

「脱-社会的」のハイフンはフランス生まれの哲学用語(非-知とか)みたいにちょっとカッコつけただけなので気にしないでほしいのだが、「脱」という表現にはちゃんと意味がある。ここは最初、反-社会的という表現を考えていた。しかし、セバスチャンは、社会に反しているわけではない。社会に反すると言えば、アナーキストとか、テロリストとか、カタギでない人とか、そういう人が連想されるが、セバスチャンはそうではない。言うなれば、なるべく社会を避けながら、どうしても必要なときに社会に降りてくる、ツァラトゥストラのような隠遁者。そういうイメージだ。彼らは「社会の全く外」にいるのではなくて、「社会から脱け出た場所」にいる。社会の補集合ではない。社会の存在をぶち壊そうとは思っていないけど、面倒だからそんなに関わりたくない、社会から脱出して好きに暮らしている人々。だから脱-社会的。

「遊び」の扱いについてだが、こんな反論があった。「セバスチャンは遊びでやっているというけれど、VTuberに関する契約とかは結んでいるわけでしょう。それは社会的な仕事なのでは?」というものだ。

だが、その契約は、遊びの範疇である、と私は考えている。
野球のたとえがあったことを思い出してほしい。彼らは野球の面白い動画を撮りたくて、プロを連れてきた。プロを使うには報酬を支払わなくてはならない。だからそれは契約だ。
しかし、契約を行っているから動画撮影がただちに社会的な仕事だ、とはならない。なぜなら、目的が遊びだからである。あなたが野球をしたいとき、手元にボールが無ければボールを買うだろう。でも、それは仕事だろうか。そんなわけはない。売買そのものは社会的ではあるが、仕事ではない。遊びのための売買も存在する。

これは①の話にも関わってくる。彼らは脱-社会的で、社会の外側にいる。だけれど、社会を拒絶しているわけではない。つまんないと言っているだけで、面白いことのためには進んで3Dモデルも発注するだろうし、アダルトグッズも制作するだろうし、プロ声優も雇ってくるだろう。問題は、"彼らにとって"それが「仕事か遊びか」なのだ。彼らのルールにどれだけ適っているか、それが問題なのだ。だからこそ、人によっては理解に苦しむ事態が発生している(た)。

 

オチが無くて困った。

そういえば、当のDWUの配信をこの前覗いてみたのだが、ついに3Dモデルが新しくなっていた。前と比べると見た目が少し柔らかくなった印象がある。私はどちらかと言えばこっちの方が好きだ。

肝心の配信内容はゲーム実況やASMRなどで、にじさんじと変わらない。それだけだと、確実に埋もれてしまうだろう。ただ、マンガ動画を公開するなど独自路線を開拓しようとする熱意はかなり感じるので、こちらには応援したい気持ちが湧いてくる。

そういえば先日のピアノは少し驚いた。セバスチャン体制下でアンダーグラウンドなガサツお嬢様みたいなイメージが付いてしまっていただけに、品行方正な上流階級お嬢様みたいな特技が見られるとは思っていなかった。にじさんじやホロライブでは見られない特技なので、ピアノを前面に押し出していくのも良いんじゃないかとも思う。「今日はこの曲を練習してきたからオタクくんたちに披露するね」というだけでも、みんな盛り上がるのではないか。

ともかく、DWUは「応援するに値するVTuberだ」と、そう思わせてくれる点で、もう既に抜きんでた存在だ。自信を持って頑張ってほしいなあと、1人のリスナーとしてそう思う。

以上。