とらじぇでぃが色々書くやつ

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【レジュメ】②(p.63〜p201)『死』V.ジャンケレヴィッチ著

第一部

第一章

3.婉曲叙法と否定的転倒

・人は死を考えることからは逃れられない。しかし死について語ることは避けられる。

ここでは、こちら側の死の名付け得ないもの、言い得ないものについて考える。

・言いえない…生の終わりの曖昧さ、不確定さによる。

・語る=あれかこれか、一義的に言うこと

このいいえなさを回避するには三つの方法がある

①婉曲叙法②否定的転倒③言い得ないことへの転向

 ③がジャンケレヴィッチのとる手段である。

 

①婉曲叙法

・死は死を必ず招く不吉なことばであるので、婉曲表現はそういうことばを避けるために使われる。(おそらく、死を良いように言い換えること)

・沈黙、黙説法

・言い得ないもの自体によって成立する

②否定的転倒(否定哲学)

・絶対的否定性をとらえるために必要。

↔類推哲学(混同してはならない!)

 ・ライプニッツプラトンの哲学。

  ・しかし、死は増加したり減少したりしない。

  ・あの世は絶対的に別ではなく、相対的に別。つまり相対的に同じ。

・死は生と対称ではない。単なる程度の差ではない。

・死が原型ではない。生が原型でもない。両者には根源的な差異がある。

 

・生と死は矛盾。矛盾は本性の違いを説明する。

 →生から死への転向がなぜ急激なものでしかあり得ないか説明する。 

・生きていないもの≠死んだもの

 ・生きていないものは決して生きたことのない物質のこと.

 ・死んだものは「もはや……ない」と言い表される。

・生と死の矛盾は、質の変異を説明不可能にするどころか、かえって質の変異の条件である。

 

・死は生の裏面で反面ではないか。

 

死の否定哲学は、生を措定しそれを否定するだけでは成し得ない。

Q.死はただ占有されていない場所なのか。

 

4.非存在と非意味

絶対的否定性(=死)の否定は難しい。

 ・神の否定は考えうる。

 ・神は純粋な贈与行為であるため存在しない

  ・たとえば発光原理そのものは明るくない

・意味を与えるものは《無》である。

 ・《無》は純粋な無ではない。

 ・それは根拠づけられていない根拠

逆に、死には神の否定性のそれ自体否定的な転位が基底にある。

・死は本質の端的純粋な否定であり、存在の端的純粋な否定だ。

 →非意味!

 ・生は根拠を持たず、死はそれに空虚を穿つ

・死は生の連続とは真逆の力と方向を持つ。

・死は基礎や根拠とは正反対

→死は生の原理ではない。

・死は結末であり終焉。

・神は天頂に、死は逆の深みにある。

 ・新プラトン主義的に、神→物質→死

・死は反真理

 ・生の原理と相互的。

 ・死は否であり、この否は生を予め措定するから。

死の逆行とはどのようなものか。

・創造は非存在を出発点とする。

・死は存在から非存在へ行く。

・死は窮極的未来の絶滅である。

また、死は窮極的絶滅である。

・この無化は全的なものであり、決定的なもの

・死は思惟を含めた存在全般を消滅させる

・感覚が無くても生きることはできるが、一方死は同時に全てを消滅させる。

 ・存在は全ての機能の根本的支え

・たしかに死は客観的には無化ではない。他人は生き延びるから。

・「しかし、わたし自身の死は、わたし自身にとっては、たしかに世界の終わりであり、歴史の終わりだ。」

 →肯定と相対的な死による否定は、すくなくともこの意味では本当に絶対的で最上級の否定。

・死は時においては連続の停止。

 

Q.非時間的でない虚無は虚無か?

・一時的虚無は無ではない。仮の非実存。

 ・永遠と瞬間は違う。

 ・死は要因にならない。

 

[ふりかえり]

無は一つのもはや無いもの。

 =あった存在の非存在

 =もはや二度と無いもの

・死は部分的では無く、決定的抹殺である。

 

理性や道徳的意志について。

・理性は生成と倦怠を考慮に入れない

・道徳的意志は非人間的な一徹さを持つ。

 

否定について

・いつまでも、決しては相対的な弱い否定。

・大文字の否は、展開を涸らす。交渉を頓挫させ、すべてを混乱に陥れる。

 →死はすべてを終わらせる。否を言う。

 

 

5.なにも言えないための沈黙と筆舌につくせないための沈黙

・死は生ける存在に日々否と告げる。

 ・自分の連続性を明白に更新する必要あり。

 ・神に対する希望、愛、自由が役立つ。

  →これらにより死の虚無に実証性が与えられる。(三重の肯定で死の否を中和する)

・虚無は視覚の秩序、無は聴覚の秩序で表現される。

・神は最弱音だが、死は絶対的な声なき沈黙

・神は筆舌に尽くし得ないが、一方で死はなにも言えない。

 ・神はあまりに膨大で言えない。死は全く言うことが無いから言えない。

 ・神は至上の詩で、そこからプロティノス的に詩が流れ落ちる。沈黙と同時に人を雄弁にさせる。

・自由も神と同じく筆舌に尽くし得ない。

 ∵自由は一つの意志から迸り出るすべての決定の潜勢的な源。(神はすべての源という話だった。)

・愛も筆舌に尽くし得ない。

 ∵愛は尽くし得ず、しばしば人を沈黙させ、ときには雄弁にし、愛する人間をみんな詩人にする。愛は創造(出産)の原因でもある。

 

・詩のような比喩の連続は、神秘のかいま見を示唆する。別の秩序のものも示唆されうる。

e.g.嬰ヘ長調からすみれ色、変ニ長調からある夏の夜

→隠喩が筆舌に尽くし得ないものを再生する。

 

しかし、死の直観はなく、非存在との一体は不可能。(神のように半分が見えるとかはできない)

 ・たとえばバラのかおりは《比類を絶して》いる。なぜなら、「それは多少なににでも似ており、すべてと類を同じくし、類の思い出を呼び起こす筆舌に尽くせない過去を想起させるから」。

 ・一方で死は、それが何にも似ていないから比類を絶する。

→死は生から示唆可能では無い。

・死は全的な壊滅であり、いかなる回顧も許さない。死は誰にも伝えられない。死は誰にも経験されたことがない。

 

ところが、いくつかの類推が、死の一直観を示唆することができるのではと自問する必要がある。

・時は直接知覚されないが、各瞬間ごとに、現在の具体的変化や連続性、前後の継続を理解させる。

・死は何を理解させるのか…?

 

・死は生を誤解させる。

 ∵死は生と記号も方向も逆。

 

 

第2章 器官-障碍

1.短き一生

先験性について語る。

・死ぬことは生まれた時からアプリオリに決まっている。

・先験性は、認識を可能にするがそれ自体は認識されないもの。光明の暗黒な源泉。

・しかし死はいかなる形でも源泉では無い。

 

・死は一つの形を強いる。その形は無形。[今までの言い換え]

・この無形への脅威が生を緊張させる。

=死を前もって知ることが、生を悲劇の対象にする。

・生と死が虚無の中に挿入される。

 

・時には貴重な瞬間、《ほとんど無》の時間がある。生命が消える手前のこと。

 ・生成の凋落、不安定さは親しい存在を貴重にする。無限の愛を説明する。

 ・そのために、永遠をほしいままにはできない。

・死の脅威によって、主体は豊饒なものになる

 =時は人間を追い立てる。

 ・ショパンのような短命のものには、その短い命のうちに全てが凝縮されて起こる。

 

2."がゆえに"と"とはいうものの"——有限性、肉体性、時間性

・死のアプリオリは、生と因果関係と譲歩関係とを同時に営んでいる。

・生は死ぬべく運命づけられている"がゆえに"はじめて生になる。

・死とは、生の障碍であると同時に器官である

 =障碍それ自体が一つの手段である。

・《とはいうものの》と《がゆえに》は両者とも二者択一。計り知れない矛盾と、生と否定との逆説的関係の説明。

・生は、死のおかげで自己を主張できる。

・器官-障碍は非一義的で無限。弁証法は通用しない。人は障碍によって生きられても器官によって死ぬ。毒によって生き、毒によって死ぬ。

・生きるために死ぬ必要がある。

e.g.身体は魂の器官-障碍。

 魂……諸器官の活動を意識することによって活動を妨げ、同時にそれなくしては肉体が屍でしか無くなってしまう生気の原理

 肉体……精神を鈍らせ、歪曲し、否認すると同時に、安定しない魂に、肉体と化することにより、肉体と化することにおいて個人としての限定された存在の機会を提供する。

・器官-障碍は器官であるよりは障碍であることがある。

 ・それは、苦痛や病気で、身体が物体に、つまり自由に対立する一つの壁になってしまうとき。

・脳は思惟の器官-障碍、目は視覚の器官-障碍、言葉は意味の器官-障碍。また、作品は創作者の器官-障碍。

・一般に器官-障碍は、単一さを失った器官のこと。

→片方は片方を必要とする。しかしその片方は片方を裏切りながら片方に仕える。

・以上のように、生殖者は自分が生んだ子どもに否認される。

器官-障碍=用具-妨害="にもかかわらず-がゆえに"

※器官-障碍はベルクソンの概念

ベルクソンは身体を、手段であるよりは回避した障碍、つまり肯定であるより一つの否定だと考えた。

・現存在は、個体性が全体性を否定するのでない。

→現存在はそのままで肯定だが、それは器官-障碍の両義性による。

 →わたしは他者でなく、他者でないがゆえにわたしである。他者はわたしの実存(サルトル的に)が選択しなかった否定。

・死の器官-障碍は、身体とは異なる。

 ・それは表面的に障碍。反省を経て器官になる。

・器官と障碍が均衡を保つ場合を時が表象する

・時と空間は対比可能

・空間は追放と分離の原理。

 ・物体が互いに独立した部分として存在し、物体が異なる場を占めるよう強要すると同時に、それらを結びつける運動を可能にする。

  e.g.海は大陸を分かつが、それは同時に陸と陸を結ぶ連絡路である。

・時間は遠ざけると同時に近づけるもの

 ・一方では瞬間の継続が、存在を一つの同じ瞬間に「存在する」と「存在した」が累積しないようにする。

  ・欠如態において、時間内存在は全的現存在と《永遠のいま》を失った状態で表現される。

 ・他方、時は自由の担い手。

  ・時は他のもの(=そうであったかもしれないもの)となる希望を表象する。

   =時間は可能性を拾い集める修復の手段

・時のあり方は人間の分別に委ねられる。

・瞬間の継続は弁証法だとも言える。

 ・可能性が現実とならないと、わたしたちは時の否定性を痛いほど思い知る。

 ・しかし同時に、それは実現の希望ももたらす。

・悲劇的状況においては、障害が器官に打ち克つ。(※失敗における絶望はその場限り。失敗は生成の故障とみなされる。)

 →死が失敗の最上級だとすれば、元来の失敗は一種の微小な死で、つねに偶発的な性格を持つ臨時の部分的悲劇。しかし、両者の距離は無限

 

単純な矛盾↔︎"ありえない-必然的なこと"のえぐるような悲劇

・矛盾という単純な悲劇……相容れないものがある相互嫌悪によって引きとめられている状況。解決可能。分離=調停という単純な解決法。

 ・生成自体がそれなりに分離。

 ・相矛盾するものはかわるがわる到来する。

  →「矛盾は、破裂するかわりに、展開する。」

・時(という生成)は矛盾をやわらげ、あらゆる傷口を癒す=悲劇の悲劇性を溶かし伸ばす=絶望を時の中のドラマにする

 

 

3.ありえない-必然的なことの悲劇性

 

・生成は悲劇的なものと共に生きる一つの道

・ありえないこととは、必然的なこと。

 e.g.「人間のやりきれない生は生ではないが、死でもない。そうかといって、生と死の混合でもない。厳密に言って、死と生の中間でもない」

・分離と共生はそれ。

・ありえない-必然的なことには、相互嫌悪の複合的な悲劇でも、相互性を書いた状況とも違う、複合された悲劇的なものが存在する。

・両者はけっして結ばれない。

・ありえない-必然的なことは、矛盾の矛盾。

 =悲劇的に悲劇的で、混乱を混沌へ導く。

 ・矛盾しているのに離れずにはおれず、近付くと矛盾のために傷つけ合う。

・別離は邂逅の障害だが、ロマネスクな情熱には愛の条件となる。この愛は妨げられなければ維持されない。

・これを仲裁する第三の原理は、分離の原則によって排除される。

 ∵どうやっても死は死でしかない

・生成にとってのありえない-必然的なこと

 ・死は生と矛盾する。

 ・肯定と否定は同時に存在しない。

 ・死は生が生きた後に生を虚無化する。

 ・死は出現するだけで存在を追い出す。

 =最も厳しい二者択一。

・奇跡的に成就するありえない-必然的なこと

 =死が即座に生を誕生させること

 =母の死と同時に子が誕生すること

  ・このとき、自身の単なる一障害に過ぎない死が、他者の器官となる。

・他者が私たちの一部である時は、死は生の器官-障碍。「死ぬ者は他者においてふたたびいきることによって自分自身より生きながらえ、そして、このもう一つの自分自身において間接的に自分を確立する」

 

・創造者は想像したものの内で見分けがつかなくなる。

 ・その瞬間においてのみ、創造の神秘が見える。

 ・しかしそれは必ず消失してしまう。

・魅力のない現在と現実のない過去の間に、魅力と現実を兼ね備えた瞬間があるはず。

・未来の連続的到達である生成は、あらゆる瞬間において、必然的な-ありえぬことを溶かす動ける解決。

 

・ありえない-必然的なことは、時の働きによって器官-障碍となる。

 ・両者は精神・肉体の共生のうちで一つになっている。

 →「われわれの耐えがたい生は、時のおかげで、まったく耐えやすい生活、ほとんどうまくいっていると言える生活、奇跡的にも生活しうる、そして、あれほどの感動あれほどの脅威にも耐えて死の終焉まで続けられる生となる」

・ありえないことが必然性に打ち克つ瞬間、心臓が止まり、綱渡りが終わり、死を迎える。

悲観主義と楽観主義の説明ができる。

悲観主義はありえない-必然的なことが常に炸裂の脅威にさらされていることで正当化される

・楽観主義は生成を存在への到来、誕生の継続とみなすことで唱えられる。

生成には否定も肯定も含まれているから。

 

 

4.選択

・ありえない-必然的なことは、選択のうちに溶解する。

・生成とは一種の、立て続けだが方向の定められていない大選択、自発的だが緩慢な選択

 →これにより性格と人物が限定される。生成の中で他となりながらも、特定のものになり続ける。

・生成は限りなく薄められた選択であり、一方選択はその急激なリズムによって加速化された生成である。[生成=時の流れは止めることができないが、任意に縮めることはできた。p111]

・肉体を持った実存は、選択の余地のない選択

 =すべてであることの放棄という越経験的な大選択

↔︎実存過程における選択…「二者択一(=実存と非実存)に対して絶望のうちに抗議するかわりにその呪いを引き受ける決意(p125)」

・選択は些細な悲劇。それは有限な存在に、宿命的状況を受け入れさせる。∵選択は現存在の越経験的な野心(選択しないとか、矛盾をそのまま引き受けるとか)を取り下げさせる。

 ・このとき、自己がさらに有限化される。

・選択は、選択されなかったものの犠牲の上に成り立つ。

 ・誤りはすべて偶然であり避けられるもの。

 ・失敗が成功の可能性と悔いとを含むなら、成功という選択は一つの形而上学的悪を措定していることになる。

 

・選択は、不幸に一種の解決をもたらす。

 ・解決=実存を瞬間を越えて延長する手段。

 ・成功=存在一般が存在する保証。

 ・希望=生存者が生きながらえる確信。

・選択は拒否を含む肯定。

・死が近づくにつれ、選択は可能性が減る。

・最後の、死に方の選択はその先が全て死であるから、それは選択を持たないに等しい。

 

 

5.局限の遡及効

・生きている存在には、生と死の局限がある。

・局限の観念は時間上の表象

・潜勢態の死がなければ現在は永遠なものとなる、しかし現に死はある

 ・ところが、瞬間瞬間では、現在は永遠のように生きられる。

  =そこに局限はもはや無い。

 

・故人は欠点を忘れられ、美化されることで模範化する。

 →死ぬことで初めて、ひとりの生涯が評定される。

 ・最後の瞬間は全てを変えうる。

=「人間実存の究竟性は必然的に回顧という性格をおび」る

・死は予測できるが、死が何かは分からない。

 ・死の予測ができることは死が何であるか知ることを意味しない

人生の意味は決してその生涯の間に現れない!

・人は無知でありながら、無知を意識できない

・死は絶対的局限。↔︎青春などは相対的局限

 ・青春は取り戻せるが死は取り戻せない。

 

・死という絶対の障碍は、生のもっとも一般的な形而上学的条件と考えられる。

・限定する形相(=死)は存在を即座に意味に満ちた傑作にする。

 ・しかし、その存在はもう存在しない。「見かけだけよい不定形の永遠(p141)」

 

・生成とは、ありえない-必然的なことの往復にほかならない。

 ・希望と絶望の往復、振動が両義性そのもの。

 ・人は誕生と死の間にただ存在しているのではなく、一方から他方への連続的な動きに乗っている。

 

 

第三章 半開

 

1.神秘の事実性

 

半開……器官-障碍と同じように、死の深遠な非一義性を表明する。

・私たちは死について半分しか知らない。

以下、知識と行動について考える。

 

Q.存在の無化は意味をなさないのでは?

Q.死はなぜ連続の停止なのか。なぜ永遠ではないのか。

これらは神秘の晦渋な根底にかかわる問題である。

・晦渋な核心と言葉で表し得る周縁の区別は、実存在に適切に適用される。

 ・晦渋なもの=存在の根、周縁=存在の仕方

 ・前者(=なぜわれわれは存在するのか)は知らないが、後者(=生き方)については無限に語ることができる。

・しかし逆も考えられる。

 ・神秘の知識とは、曖昧な知識。

  ・ある出来事が起こったと漠然に感じはするが、それだけ。

  ・「そこにあるという確信」と「あれかこれか指摘する」ことは否定し合う。

   →いかなる実証科学でも、神の諸範疇を定義することはできない!

 ・神は隠されてはいない。ほとんど隠されているというべき。

  e.g.無限はあると感じられるが、それが偶数か奇数かはいうことができない。

 ・自由は立証することができず、なにものかに還元できない。

・死は来るべき瞬間としてのみ非限定。

 

・死が来ることは分かるが、それがどのようなものかは分からない。

 e.g.日曜日は来るが、それがどのような日曜日かは分からない。

 

かいま見(=半開?)は「~こと」をしっているが「~もの」を知らない無知の知

 ※ただしこれは認識方法ではない。

 

2.死は確実、その時も確実ただし未知

悲観主義→死は確実に力点

 ・不確実さは死の確実さを裏打ちしてしまう

 ・ありえない-必然的なことも絶滅の脅威と捉えられる。

 

悲観主義にとっての「死は不確実」は人を警戒状態に置き受け身にする。

 =死を生きられるものにする(抽象的問題でなく)。

 

・「人が情熱をかたむけて死の脅威に向かう」ことが、絶望の受け身でも死の警告でもない中間の世界。

 ・このときの死の不確実さの自覚(「自分を常時死にそうな者という相の下に考える p154」こと)は、死の不意打ちを軽減するものになる

  ・自己の停止の自覚=持続の各瞬間を毒すること

  ・死から主導権を取り戻そうとする行動

→しかしこれら緩和は悲観主義にとって見かけのものにすぎない。

 

・運命論者の言うように、もし死の時が予め決められていたとしたら?

 ・人は死ぬ時を知らないだけマシ(死ぬと言うことを知ってしまってはいるが。)

  ・被造物における死ぬことを知っているがいつ死ぬか分からない状況=真理を半分知っている

 

人は半分の真理に耐えながら、全部の真理に耐えていると思っている

もし全的真理を知ってしまうと、死刑囚の絶望を味わうことになるだろう

 

 

 

3.死は確実、その時も確実

 

死がいつか分からないのに、それが決まっていると思うことは、人を煩悶とさせる。

煩悶する人が知っていること

・人が死ぬこと

・ある日ある時刻に死ぬこと

しかし、いつかは具体的に分からない。

 

↓他方、絶望した人が知っていること

・いつか分からない時に死ぬという事実=「みんなが知っているたいして重要でもないこと」

・ある日ある時刻(=時、クワンド、具体的なとある時間)に死ぬだろうということ=「知らされるべくできていないこと」

 →絶望者は知らなくていいことも知っている

 

煩悶↔︎絶望の対立

煩悶…警告がもたらした不確実性の不安による腐敗。希望と絶望を往復できる。

絶望…展開し尽くしてしまった状況。この絶望は純粋な絶望で、それ自体でしかありえない。

 

・死刑囚つまり絶望者は、時を量ととらえる。

 ・ベルクソン流に言うと、「すべてが事前に与えられている」

→未来が既に過去になっている! 生成が未来でなく過去を到来させる!

 ・未来のない過去は過去でさえない。

・絶望者に生成の循環は感じられない。

 

「無知を代償に、プロメテウスは未来の一つの幻覚をわれわれに譲ってくれるのだ。p161」

 

 

4.死は不確実、その時も不確実

 

・プロメテウスは、アイスキュロスの『プロメテウス』で「わたしは人間たちに盲目的な希望を植えつけた」と語る。

 ・この盲目は半分の盲目。

・この盲目=われわれの病(=死の苦悩?)につける治療薬、パンドラスの樽の底に残ったもの

・希望の窓口は半開。

 

・半開とは半閉。∵死は確実。

・半閉とは半開。∵死は不確実。

 

半開は開かれているだけでも大きな開口。

→「一つの生涯は未来に向かって限りなく開かれてやまない」

その扉は「希望の入口」

 

・時の不確実さは、死の確実さを疑わせしめる。「一般に死ぬということがそんなに必然なのかと疑問に思い始める p163」

→時は不確実、死も不確実

 

・死はいつも次回。けっしてこの場、ここいまではない。

=シェーラーの形而上学的無頓着、パスカルの注意散逸

 ・死ぬのはいつも他の人びと(第三人称の死)

 ・到来しないものは一つの出来事でない。

第一人称の死とは「文字どおり自分にとってはなんでもない(ウーデン・プロス・エメ)もの」

 

よって、死ぬという事実は、何かある特定の危険と同じく、避けられるものになる。

 

 

5.死は確実、その時は不確実

 

「死は確実、その時も確実」→絶望のことば

 ・死の日付が確実な状況。

「死は確実、その時も確実、だが未知」→苦悩

 ・死の日付の先定を想定した状況。

「死は不確実、その時も不確実」→空想的希望

 ・見てくれの永遠に甘んじる状況。

 

「死は確実、その時は不確実」→真剣な闘士

・この言葉のように、「こと」の確実性と「時」の不確実性が生に飛躍とバネを与える。

 =必然的とありえないの往復?

 

人は知っているもの(死の事実性)について何もできず、知らないもの(状況の様態)は大部分人間に依存する。

 =死の境界は私たちの外にあるのに、死の日付はある程度手中にある。

 =「知識にとっての開口は行動にとっての閉塞 p169」

 =無能な知(ことを知っている)と無知な力(いつか知らない)

 

 

6.事実性を前にしたあきらめ——死、苦痛、空間、自由

 

・死は限りなく伸ばすことができる。

 ∵人はいつ死ぬかにおいてほとんど全能

・死を遅らせることは不条理でない。

・死は不可避だが、個々の死は回避できる。

「いかにして、ある吐息が最後の吐息と知れよう。あとになって、あとが続かないときに、はじめて、心臓の最後の鼓動が最後と明かされるのだ」

・「死にそうな人間は未来完了形においてのみ死にそうなのだ」

・無限小の猶予は膨大な希望である。

 

・死は先験的必然で、克服できない。

・著者は死を先延ばしにすることで希望を得ようとする。

 

・諦念は、人間が有限であると同時に、寿命を延長し続け得るから発生する。

 ・「人間の運命は《柔軟》だ。つまり、限りなく延ばしうる。しかし、無限にではない。」

  ・神は細部にこだわらない。

 

・死の必然性は宿命である。

 e.g.空間の空間性、時間の時間性

→いつ死ぬかは努力でなんとかできるが、死ぬ事実は変えられない。

 

・時は調整できるが、無にすることはできない。

 

・人は個別的な苦痛や不幸に対してはほとんど全能だが、苦痛性には成すすべがない。

 

・死すべき運命は他の病と比較できない。

 

 

7.認識不可能なもの、できないもの、癒しえないもの

 

日付と事実性(=時と死の運命)

 →二種類の諦めを区分

①事後あるいは帰結としての諦め

・決定的で完全な諦めではない。

・出会いと教訓を受けた諦め

 =消極的甘受

 

②先行/先験する諦め

・前もって、そして原則に則った諦め

・後件的諦めのように失敗を基にしていない

・「運命の前に置かれたとき、自己のありうる力を断念し辞任する」

 

 

Q.死すべき運命を諦念甘受することは辞任か?

 

博愛主義流現状至上主義は前に批判された。

 ∵死ぬことを時に還元して、死ぬことに質と量を与えてしまうから。

 

諦観悲観主義

→死を一つの病、悪を一つの不幸とする好意的意志と、病と日付自体とを一つの宿命にする邪な意志がある

 ・「不可避な死を扱うべき仕方で治療しうる病いを扱い、事実性と死ぬべき運命とに対してふるまうべき仕方で日時に対してふるまう(p194)」

 

好意的意志…時を引き延ばす。

 

邪な意志…なるべく急いで死との戦いを放棄。

 

まだ力があるのに諦めてしまうのはいかがなものか。

 「有限性はわれわれの自由になんらの決定的な限界もつけず、われわれの自由を閉じ込めるべき領域を事前に限定することもない」

 

今認識不可能なものが、単に認識されていないだけでないかどうか分かるはずがない。

認識可能……限定されたもの

認識不可能……別の秩序=事実性の神秘に属する。

 

以下「できないもの」=「どのようにしても人が達成することができず、また、けっしてできないであろうもの」

 ・運命という姿を借りた邪な意志。

 ・「あまりにも早く公言された諦めは、本来、あやしいものだ」

 

邪な意志……虚偽は自由意思に無関係であるとふるまう。

 ・戦争を火山噴火や地震のような即自的災害だと思っている

 ・邪な意志の悪に対する諦めは、悪そのもの。

  e.g.過失の寛容はそのまま罪を犯すこと。

  →その悪は諦めようがない。

 ・「可能なことと未来の偶有性とを除き去ることによってあらゆる責任を除き去るえせ運命」の正当化に使われる

 

ほんとうに動かし難い唯一の運命……意志の内部で、意欲したという事実だけでつくられる運命。

  ・自己同一の原理に内在。

  ∵何かをして同時にしなかったということは不可能。

 

「自由にしたことなのだが、それをしないということがありえないという不可能性」

 ≠物質的可能性、偶発的障害に由来するもの

 →歴史の中のできごとである能力の行使に内在。

 ・被造物の先験的な無力さであり、またあらゆる肯定性の否定。

 ・意志はおこなったことを解消できても、その事実は解消できない。

「意志は厳密な意味では全能ではない。だが、すくなくとも行為している限り、そして自分自身の行為について語っている限り、当事者はみずからそう言うべきではない(p194)」

 

こういった諦念は、人間のなしうる力を無視し、人間の行為の限界と範囲とを永遠に限定することから生まれる。 ←ニヒリズム

 ↕

しかし、人間は特定の形や顕勢態の本性を持たない。

人間とは、継続して形が変わる形態なき措定。 

 

 

諦めを知らない希望 → 諦めと失望 → 気も狂うような希望 

 ・希望と失望が交互に現れて精神の振動を延長させる。

 ・そのかわりに、非一義的な一つの感情に合致することがある。

  →楽観主義と悲観主義の混合体。柔軟な運命は両者を正当化する。

 

 

8.終焉と治療

・終焉とは過去に戻れなくなることではなくて、前に進めなくなること。

・死は生を否定する(消滅させる)と同時に肯定する(形相を措定する)。一方で、誕生は生を二重に肯定する(生を限定し、また生を存在せしめる)

 

・始原と終焉は、回顧によって対となる。