とらじぇでぃが色々書くやつ

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カラオケって採点無くても楽しいんだね

 

 カラオケ、やってますか。私はカラオケが好きでよく行くんですが、今は「採点」という面白いコンテンツがありますよね。歌唱の音程やら声量やらビブラートやらを計測して点数をつけてくれるあれです。テレビ番組で見た人もいるんじゃないでしょうか。DAM精密採点ってやつです。そういうのもあって今採点は知名度もかなり高いでしょうし、今やカラオケに欠かせないコンテンツと言えるかもしれません。

 

 かくいう私もまた、カラオケで採点を付けない日はありません。大人数でもヒトカラでもそうです。部屋に入ったら即、精密採点送信。そいで歌って、で、ちょっと良い点が取れたら写真を撮ってTwitterに上げてみる、みたいな。

 

 そんなカラオケライフを送ってる私ですが、大学のサークルで行ったカラオケでは唯一採点を付けません。本当は付けたいと思っていたのですが、サークルの中では私が一番年下なので好き勝手はできません。みんな採点無しで歌うので私も採点無しで歌いました。最初は物足りなく感じていたのですが、何周かして気付きます。なぜか、やけに楽しいのです。はて、と思いました。私に充実感をもたらしていたはずの採点は無く、あるのはサークルのみんなの感想だけ。なのにそれ相応か、それ以上に楽しい……。

 そのときは、「採点の無い歌いっぱなしのカラオケも新鮮で意外に良かったな」と思うのみでしたが、今思えば、採点というのはいくらか私たちの楽しみを抑制する面もあったのではないでしょうか

 

 というのも、採点は①あらゆる歌声を数字に還元してしまいまた歌い手と聞き手を一対一で完結させてしまうからです。

 

 順に見ていきましょう。

 

 まず前者から。前提として、採点というのは、あらゆる歌唱を全て数字の上に判定します。なので、Aくんの歌唱も、Bくんの歌唱、同じように点数が付けられます。Aくんの歌は86点、Bくんは91点、というように。しかし、よく考えてみると、Aくんの歌も、Bくんの歌も、特徴や長所の異なるまったく別の歌唱ですよね。にもかかわらず、採点ではこれが同じ数字の上で判定されるのです。なので、二人が同じレミオロメンの粉雪を歌って、全く声色も違うしアレンジの仕方も違うのにもかかわらず、全く同じ点数が判定されうるのです。

 そして、私たちが採点有りの空間で気にするのはやはり点数です。「おー上手かったな。さて何点だろう」という具合に。それで一喜一憂するのが、一つのカラオケの楽しみ方でもあります

 しかしながら、それは個々の歌唱を軽く見ることも同時に意味します。あらゆる歌唱は機械のつける点数という抽象的なものに上方解体され、たとえばAとBの歌唱は、「AくんのLemon」「Bくんの白日」ではなく、「Aくんの93点のLemon」「Bくんの98点の白日」になるのです。これが、採点がもたらすあらゆる歌唱の数字への還元です。

 なかには、「採点があっても、その人の歌はしっかり聞いてるし、その証拠に感想を伝えたりする」という人もいるかもしれません。たしかに採点があっても、私たちは実際その歌を聴いています。しかし、人々の間には「機械は間違えない」という了解がありますから、その感想は点数や、音程バーの一致・不一致に上塗りされてしまうのです。個々の感想は確実ではありませんが、点数は確実です。なのでその感想もやはり、点数を下地にしたものになってしまいます

 一方で、採点が無い空間では、周囲の感想が機械の評価に成り代わります。「AくんのLemon、ビブラート上手かったな」「Bくんの白日、めっちゃ高音出てたな」といった感想が、そのまま各歌唱の「点数」になるのです。そこでは、歌唱が採点のモノサシに回収されることなく、そのままの歌唱として聴衆に受け入れられます。そこが良い点だと思うのです。

 

 また、採点は、歌い手と聞き手を一対一で完結させてしまうという問題も孕んでいます。

 ところでヒトカラって急にブームになりましたよね。あれ、私はカラオケ採点が無ければあんなに流行らなかったと思ってます。

 というのも、「私の歌」に対して、機械がひとりの聴き手になってくれるからです。他のなんでもそうだとは思いますが、歌は聞いてくれる人が居ないとそんなに楽しくないし、何時間も続けていられません。ヒトカラで採点無しで歌い続けるのは、なんというか苦行に近いように思います。それを解決してくれるのが、完璧な聴き手である採点クンです。音程が何パーセント合っているか、ビブラートがどれだけできているか、高い音は出ているかなど、歌い終われば全部こちらに提出してくれます。しかも疲れて寝てしまったり、途中でスマホを弄ったりしません。ずっと付き合ってくれます。間違いなく理想の聴き手です。

 しかし、採点クンは二人以上の場では少し厄介です。なぜなら、先ほど言ったように、採点クンは理想的な聴き手です。なので、彼の聞き手としての態度と、確実で的確な感想と分析の前には、同伴者の存在など、相対的に無に等しくなってしまいます。極論を言ってしまえば、一緒にカラオケに来た友だちはいなくても構わなくなるんですよね。いやもちろん不要ってわけでは無いんですが、先ほど見たように結局他の人も採点クンに追随するので、その場にいてもいなくてもそんなに変わらないという。

 これは英語の文法にアナロジーを持ちます。英語は主語と述語があればそれで一文が完成するみたいですね。そしてそれに対する副詞は、意味はあるけど一文の成立には不必要な部分です。なので類比的に言うと、主語と述語に歌い手と採点クン、そして副詞に他の聴衆があてはまります。つまり採点のある場では、歌い手と機械の完成した関係に、同伴者がただ付け加わることになるのです。

 一方で、採点のない場では理想の聴き手なる者はいませんから、みんなが一番の聴き手です。なのでみんなが自由に、抱いた感想や余韻を噛み締めることができます。ここが私の思う、2つめの良い点です。

 

 そういえば、採点の無い空間では、採点の有る空間より、けっこう雰囲気がのびのびとしていた気がします。

 

 しかしもちろん、採点には採点の良さがあって、私はここでどちらが良い・悪いと言いたいわけではありません。特にヒトカラは採点がないと楽しさ半減だと思いますし。

 でも、大人数でカラオケに行くときは、たまに採点を切ってみるのも、楽しいかもしれません。