とらじぇでぃが色々書くやつ

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主にVTuberの記事を投稿中。

出産するVTuber、その擁護と肯定

 

COVID-19の流行で想像が難しいかもしれないが、たとえば春の「お花見」では、何か食べ物を持参するか、現地調達し、複数人でそれらを囲む。

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その食べ物は家族やパートナーの手料理かもしれないし、出店の焼きそばやたこ焼きかもしれないし、コンビニ弁当かもしれないが、なんであれ、花見の場で食べた物は、自宅で食べるそれよりずっと美味しい。少なくとも私はそう感じる。特にコンビニ弁当は分かりやすい。あれらは機械で作られているのだから、料理が同じなら、違う容器に入っていても味は同じだ。にもかかわらず、コンビニ弁当も、花見など普段と違う場所で食べるだけで、いくらか味が良くなった気がする。

これは景色の新鮮さがその要因の一つだと何かで見たが、それが事実かはどうでもいい。問題は、私たちの味覚がどう感じたかである。科学に言わせれば、それは「錯覚」なのだろう。しかし、私はたしかに、より美味しいと感じるのである。

 

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VTuberが出産した。こういった類の報告は、これが初ではない。私が知っている限りでは、にじさんじのグウェル・オス・ガールが既に子持ちを公表している。しかし、こちらは大した話題にはならなかった。他方、今回の出産報告は、Twitterトレンド上位を獲得するほどの話題ぶりである。

おめがシスターズはVTuberの中でも指折りの動画投稿者だ。私の記憶では、彼女らはリアルを題材にする動画づくりで有名だった。実際に、現実世界の——バーチャルでない——店に出向き、撮影した実写動画を彼女らのアバターと合成して投稿する。当時、実写を組み込むVTuberを私は知らず、訝しく思ったものである*1

 

 

そんな彼女らの報告は、姉妹の片割れが出産したというものだった。

 

出産自体への祝福は当然だろうが、「VTuberが出産する」という事態には拒否的な反応も多くあった。検索上位の否定的なツイートを、いくつか引用させていただく。

 

 

 

 

 

報告動画の中で、おめがレイは一旦画面から消える。そして現れるのが、「おめがのハコ」だ。彼女が「おめがレイ」であることは明らかだが、建前上、彼女は「おめがのハコ」と「おめがレイ」は別人だと主張する。つまり、出産したのは慣れ親しんだ「レイ」ではなく「ハコ」のほうだと主張するのだ。
彼女らは賛否両論あることを予想していたが、それでも出産を報告したかった。「おめがのハコ」という演出には、彼女らなりのファンへの配慮が表れている(し、事実彼女たちも「視聴者と真剣に向き合った結果」だと語っている)。

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「実は、出産しました」1:42より

だが、それでも「グロく感じる」「商売として悪手」「もうVTuberじゃない」といった強い反応が返ってくるのだ。問題の根深さがよく分かる。

 

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出産とは、極めて生物的な行為である。生物の対比を機械としよう。以下でいう機械とは、とりあえず「ある一定の規則に従って自発的に動く人工物」としておく。これは人工知能(AI)やそれを搭載したロボットなどを念頭においている。

出産には、性交により子を宿し、それを胎内で育て、耐え難いほどの苦痛に抗いながら産み落とすという一連の工程が伴う。そうして、数千グラムの小さな赤子が産声を上げる。それは、か弱く、脆い。適切に世話をしなければ、簡単に死んでしまう。大人たちが必死に努力し、赤子が懸命に生きればこそ、彼/女は立派に育つことができる。

そこにかかるコストは気にするべきでは無いのかもしれないが、実際のところ、それは尋常ではない。両親は金銭的にも、体力的にも、精神的にも、多くのものを支払うことになる。多くを犠牲にしなければ、育児は成立しない。

人間が子を産み、育てるために必要なもの——母体への苦痛、精神や体力をすり減らす育児、度重なる出費など——は、私たちが有機的な生命体であるからこそ要求される。私たちは成長する。ほんの小さな受精卵から。

 

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機械は出産するだろうか。否。必要がない。

純化しすぎかもしれないが、同胞を増やしたいなら、工場で組み立てればよいだろう。産む側に苦痛はない。産んだ後の慎重なケアも必要ない。生物でいえば、組み立て完了時点で、少なくとも身体は「大人」だ。AIであれば、頭は経験が必要かもしれないが、それは半ば放任でも勝手にやることだ。人間の赤子のように、ミルクを温めるとか、おむつを替えるとか、そんな面倒なことは必要ない。もちろん、メンテナンスなど別種の面倒くささはあるだろうが、そうした面倒も、技術の進歩次第で無くなるだろう。

つまり、SF的な仮定だが、機械が自力で数を増やそうとしたとき、生物のようなコストの大きい繁殖方式はとらないだろう。機械の身体(パーツ)は成長しない。だから、出産することもない。

出産は、生物的な行為だ。

 

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自分でも大げさだとは思うが、VTuber消えゆく媒介者*2(the vanishing mediator)かもしれない。

消えゆく媒介者は、二つの概念を仲介する。たとえば、プロテスタンティズムは、封建主義と資本主義を仲介する消えゆく媒介者だ。封建主義の時代、宗教と経済は分離していたが、プロテスタンティズムは両者を結び付けた。プロテスタンティズムは勤勉や禁欲を説き、経済の領域にも宗教を浸透させたのである。そうして資本主義の土壌が出来上がり、資本主義が支配的になると、プロテスタンティズムは衰退する。消えゆく媒介者は制度の移行を助け、移行が完了したら、自然に解体するのだ。

 

VTuberは、生物(人間)と機械の消えゆく媒介者、ということになるだろうか。

VTuberは、いわば人間と機械の中間に位置する存在……は言い過ぎかもしれないが、人間でありながら設定の力を借りて機械を装うことが十分可能な存在ではある。キズナアイや出雲霞*3、Melody(Projekt Melody)など、そうした例は枚挙にいとまがない。

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しかしそんなVTuberは、声も見かけも挙動も人間と全く見分けの付かないような自立型のロボットや、そんなロボットを実現できるだけのAIが完成すれば、衰退するかもしれない。AIは人間に比べればコストがかからないし、便利だ。

そうして、VTuberは消えゆく媒介者としての役目を果たす。今のVTuberは、未来の存在へ向けての準備期間だというわけだ。

……もちろん、そんな未来はやって来ないかもしれない。人間は消滅するのか、という話にもなってしまう。が、とりあえずここで未来予測は措こう。

大事なのは、VTuberが媒介者であるという点だ。

VTuberは生物の性質を持ちながら、機械の容姿を得て活動する。生物と機械を橋渡しするかのように。

 

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VTuber、実際(actual)のところ、人間が演じている*4。これはVTuberの視聴者みんなが知っていることだ。

他方、VTuberは人間が演じてはいない*5。これもみんな知っていることだ。VTuberは人間ではない何かであり、現に「それ」として存在している。

VTuberは人間であり、人間でない。これは撞着語法、つまり矛盾である。

しかし、冒頭の花見の例を思い出してもらいたい。花見で食べたコンビニ弁当と、自宅で食べたコンビニ弁当は、同じものでありながら、同じものでなかった。ある人は、味の違いを錯覚だと言うだろう。またある人は、味の違いを真実だと言うだろう。これは「どちらが正しいか」ではない。「どちらも正しい」のである。

つまり、VTuberは人間でありながら人間でない」は成立すると私は言いたい。これをダブルバインドというが、このままでは「VTuber」の語義の広さに負けてしまうので、少し改良する。

まず、「VTuberがそこにいるだなんて錯覚だ」という、VTuber視聴者が感じる虚構の性質を「虚構性」としよう。

他方、「VTuberがそこにいる」という、VTuber視聴者が感じる実在の性質を「実在性」としよう。

そして、先ほどの「VTuberは人間でありながら人間でない」を、二つの語を用いて、VTuberは虚構性を持ちながら実在性も持つ」と表現する。こうすれば、VRChatを主な活躍な場とするような、いわゆるアバター型のVTuberも命題に取り込めるのではないだろうか。もし取りこぼしがあればいくらか限定が必要だろうが、今はこれで話を進める。

 

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VTuberの商業的戦略*6において、虚構性と実在性は、不可欠な両輪である。

もし虚構性が欠ければ、それはVTuberではない何かだと判定されてしまう。

虚構性を生み出すものは、VTuberのいわゆる「魂」と「身体」の存在であるが、それが欠けるとはつまり、魂あるいは身体、もしくはその両方が欠損するということである。魂が欠ければ、それはただの絵や3Dモデルだ*7。片や、身体*8が欠ければ、それはただの人だ。両方が欠ければ、そこには何も存在しない。

そうなれば、「錯覚だ」と指摘する箇所も同時に消える。ゆえに、虚構性がなければVTuberVTuberではない。当然、そうなれば商業的戦略どころの騒ぎではなくなる。

 

また、実在性の欠如も、虚構性の欠如ほどでないにせよ、視聴者の獲得・維持に際して致命的だ

実在性は、「魂」と「身体」という裂け目が隠れることが、発生の必要条件である。

VTuberは「魂」と「身体」という分離——虚構性——を視聴者に意識させないよう行使する。たとえば設定があるVTuberなら、それと矛盾しないよう言動に気を付けるものだ。矛盾はすぐさま虚構性を視聴者に想起させるから。よほど大きな矛盾でなければ視聴者はまた実在性の物語へと入っていけるが、あえてすることではない。
また、設定の無い、例えばVRChatなどを主体に活動するVTuberたち——「新たな姿を手に入れた自分」を謳歌するようなVTuberたち——においても、特殊な場合*9を除き、わざわざ自分の顔とアバターとを並べて表示することはないだろう*10VTuberで活動しているときは、現実の肉体は措いて、VTuberとして振舞うはずだ。

実在性が欠けるとき、つまり視聴者が虚構性を思い出すとき、何が危険か。それは、「絵を画面内に置いてる配信者」や「絵畜生」などと言われてしまうことだ。その危険性は、3Dモデルが一番低く*11、動かない絵が一番高いだろう*12

実在性が欠けたVTuberを目の当たりにした視聴者は、実在性の壁をすり抜けて、その向こうの、虚構性を見てしまうのである。

繰り返すが、虚構性と実在性は、視聴者獲得を目的とした際の、VTuberの両輪である。
虚構性が欠けると、VTuberそれ自体が成り立たない。
実在性が欠けると、視聴者に虚構性を見せることになる。ただ、実在性の欠如が与える影響はVTuberによりけりで、普段から顔を明かしているような犬山たまきや、Bunnyらにとっては無問題かもしれないが、他方、でびでびでびるや、キズナアイが実在性を欠けば、その視聴者にとっては致命的になるかもしれない*13。そこは程度問題である。

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あの出産報告動画を今までの話に当てはめよう。

姉妹は「おめがレイ」と「おめがのハコ」を分け、出産したのはあくまでも後者であるとするが、建前はそうでも、おめがレイが出産した事実は変わらない(実際、おめがレイは自身のTwitterアカウントで「出産しました」とはっきり発表している。先のツイート参照)。今まで見てきた通り、出産は生物的な行為であり、機械的な——生物でない存在としての——「VTuber」は到底しそうにない行為である。また、「おめがのハコ」は実写で登場しており、実在性を欠く。

ゆえに、是非は後に検討するとして、あの動画が実在性を欠き、虚構性を剥き出しにしていることは事実である

 

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VTuberの視聴スタイルは様々だ。

その一つは、VTuberというフィクションを楽しもうというものである。つまり、ロールプレイングや、バーチャルの身体などがあってこそ、VTuberには価値があるという態度である。これを仮に「仮想至上主義」としよう*14

また、志向が禁止に働いて、VTuberに現実を持ち込むことを強く拒否する態度もある。VTuberに現実はいらない、という考え方だ。こちらは「現実禁制主義」とでもしておこう*15

両者は独立に存在するが、併存することもある。

VTuberの出産」といった事態に対する拒否反応において、台頭するのはこれらだ。

 

 * * *

 

VTuberの出産に対し、私の考えを述べておくと、私は彼女らの報告を肯定したいと思う

たしかに、商業戦略的に言えば、あの報告は明らかに間違いだ。彼女らは、仮想至上主義や現実禁制主義を抱えた視聴者をいくらか失うことになるだろうから。しかし、物事の決定基準は一つだろうか。いや、違う。他にも大切にすべきことは多い。

私が彼女らの報告を肯定し、擁護したいのは、彼女らの勇気を讃え、出産を祝いたいからではない。いやもちろんそうしたいが、直接の理由ではない。

私たちは、VTuberの虚構性の部分も肯定したほうが良い。

VTuberの実在性はよく語られる。「今ここにいる」「実在」などは、VTuber批評で頻繁に使われる言葉だ。しかし、先に見たように、VTuberのもう一つの中枢は、実は普段は隠されている虚構性の側にある

視聴者は普段、実在性という物語に浸っている。しかし、VTuberが人間であるという構造上の問題から、虚構性はどうしても垣間見える。そのとき、目をそらさずに虚構性を見つめ、受け止めることができるかどうか。それが鍵だ。

 

 * * *

 

虚構性を受け入れると、何が嬉しいのだろうか。

それは、VTuberという存在を、表面だけでなく、奥底から知り、真に支えることができるという点にある。

現在、VTuberは宙吊りになっているVTuberは視聴者に様々なコンテンツを提供するが、その仕方は十中八九虚構性を覆い隠すものだ。だから、視聴者側は実在性のみをVTuberの特質と見てしまいがちである。本当はその背後の見えない(invisible)領域で、VTuberは生物として生きているのだが、視聴者は表層の機械性のみに注目してしまう。すると、VTuber側は、生物と機械の狭間で大きく揺らぐことになる。

「私は人間であり、同時に人間で無い者である。私はその両方を大事にしたいが、しかし視聴者は私に人間ではないことの方を求めているようだ——」。

もちろん、視聴者が直接そう求めることは無い。しかし、間接的には? どうだろう?

 

 * * *

 

出産報告に際し、おめがシスターズは「罪悪感」というワードを口にした。葛藤があったのだろう。視聴者に求められる「人間でない私」と、求められていない「人間としての私」との間で。しかし、彼女たちにとって、「人間としての私たち」もまた、大事な「私」だった。だからこその、出産報告だった。

であれば、「VTuberとしての彼女」だけでなく、その「生きている彼女」をも肯定すること、つまり「彼女そのもの」を肯定することが、結果VTuberを根底から支えることにはなるまいか

 

 * * *

議論を簡単にまとめる。

VTuberは出産しない。VTuberはいわば機械の模倣だから。しかしVTuberが出産した。矛盾だ。

しかしそれは矛盾でない。VTuberは生物でもある。VTuberは生きている。

「生きているVTuber」は当然に虚構性を持つ。虚構性が見えると、視聴者は離れていきたくなる。特に仮想至上主義者は首を横に振る、「俺のバーチャルが壊れる!」と。現実禁制主義は血眼になって叫ぶ、「リアルが侵入してくる!」と。

だが、虚構性はVTuberの大前提である。事実として、VTuberは生きている。

虚構性の肯定は、VTuberの根底からの肯定である。命の肯定は、VTuberそのものの肯定である。

 

 * * *

 

VTuberは媒介者である。それは、生物でありながら、機械的な者だ。虚構性を持ちながら、実在性も持つ者だ。

今までのように、機械的な実在性だけを見て、生物的な虚構性を捨てさせるようでは、あまり良くない。虚構性を隠そうとするのはVTuberの努力だが、それでも時折、虚構性がこぼれ落ちる。そのとき、視聴者側がその虚構性を否定し捨てさせようとしてはいけない。それもVTuberの一部である。虚構性の否定は、VTuberの根底からの否定だ

できればそうではなく、虚構性も肯定しようVTuberの生も肯定しよう

出産という極めて生物的な行為をVTuberが経験したとして、それはなんらおかしなことではない。全く。

これが私の考えである。

 

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友達Vチューバーに、いきなり赤ちゃん見せてみた。【樋口楓 × おめシス】(7:20)より

 

 

*1:過去、私は現実をVTuberに持ち込むことについて否定的だった

*2:フレドリック・ジェイムソンの用語

*3:既に引退したが

*4:AIが演じている例も知らないだけであるのかもしれないが、視聴に耐えるレベルではまだ無いだろう

*5:これを満たすのはVTuberの一部だろう

*6:YouTubeなどで視聴者を増やすことにより人気や収入を得るための計画のこと、としておく

*7:2Dおよび3Dを扱うにじさんじやホロライブが一番これに妥当する。声だけをあて、身体は別の誰かが動かすタイプのVTuber(そういえばCTuberという言葉もあった)は先の例とは異なるが、こちらもやはり、声優がいなくなることが魂の消失だといえるだろう。実際、ゲーム部はモデルを動かすスタッフがおそらく変わらないにも関わらず、声優降板だけで騒動になったのだ。また、自身をVTuberだと主張しない「赤月ゆに」なども、ここでは便宜上VTuberの括りに含む。彼女が自身をそう呼ぼうが呼ぶまいが、彼女に「魂」と「身体」と呼べるものが備わっていることは事実だから。

*8:どこまでが「バーチャル」上の身体なのか、答えるのは難しい。現実の体を撮影し、その画像をアバターとして活用する場合、自分そっくりの身体がバーチャル世界を練り歩くわけで、そのアバターはバーチャル上の身体だといえるだろう。では、なぜ現実世界の肉体はバーチャル上の身体ではないのだろうか。私たちが画面越しに現実の人間を見ていれば、その彼/女の体はもうバーチャル上の身体ではないだろうか。しかし直観的にはそうでない。現に、YouTuberのヒカキン氏がVTuberであると考える人はいない。なぜ? 分からないので、ここでは「身体」を、「現実世界あるいは空想世界の生物・物体などを「デフォルメ化」した画像・モデル群」としておく。

*9:顔認識の技術的な説明などだろうか

*10:海外YouTuberにはワイプで自分の顔を写しながらVRChatをプレイする方もいるが、そもそも彼らをVTuberとみなす人はいないだろう

*11:過去に配信を行ったアイドルマスターの「星井美希」がVTuberであるか否かには争いがあるが、ここでは「魂」と「身体」を持っているとしてとりあえずVTuberに含むことにする。彼女の配信はファンに「星井美希が実在している!」と感激された。その「実在」がVTuberの「実在」と微妙にニュアンスが違うことは承知しているが、場数を積んだ声優とリアルタイムに3Dモデルを動かす方法が組み合わさったときのほうが、動かない絵より遥に実在感を生み出すことは明らかである

*12:配信画面にファンアートなどの一枚絵を出しておくという光景は、VTuberに限らず、ニコニコ生放送やYouTuberの配信でもよく見かける。VTuberはそれまでのVTuberとしての蓄積があるため一枚絵でもVTuberの身体として見てもらえるわけだが、絵に動きがない以上、その瞬間だけを切り取れば、両者の差異は「VTuberと名乗っているかどうか」くらいになってくる。そうしたとき、VTuberは虚構性を隠し続けられるだろうか。

*13:実際、キズナアイは過去窮地に追い込まれている

*14:仮想至上主義はキズナアイの系譜を引いていると私は思う。AIという未来を感じさせる設定を持つキズナアイは、今もVTuber界の代表として担ぎ上げられている。実際、黎明期のVTuberのほとんどはキズナアイを参考にしていた。仮想至上主義者の大多数はそれを覚えていて、VTuberキズナアイのような「バーチャルな」存在であるべし、という発想に至ったのではないだろうか。これは本文に言う「機械的な」VTuber像だ。しかし、そのキズナアイは自身をVTuberと呼ばない。それは後発のVTuberと立ち位置が異なることの表明だろうと私は推察する。

*15:現実禁制主義は、意地悪く言えば、「現実逃避の拗らせ」と表現できるかもしれない。現実禁制主義者は、あるVTuberが「バーチャルな存在」かどうかは気にしないかもしれないが、リアルの混入はひどく嫌う。どの程度まで混入を許容できるかは人によるだろう。「オフラインコラボ」という字面だけでダメな人、手が写らない実写は許容できるが肌が写るとダメな人、手はなんとか視聴できるが全身が写ると拒否反応が出る人などなど。だが共通するのは、「VTuberの生きている部分は観たくない」という考え方である。