とらじぇでぃが色々書くやつ

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「百合カプ」の左右ってぶっちゃけどうなの?

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このエントリでは、百合カップリングの左右問題について検討します。

ここでいう「左右問題」とは、「百合は左右を気にしなさすぎる」という指摘に関するものです。すなわち、「百合が左右を気にしないのはなぜなのか」が本エントリのテーマとなります。

まず、カップリングについての簡単な説明をしたのち、BLにおける左右とその問題点を指摘します。続けて、百合の仮定的な定義を提示し、百合の左右について考察します。最後に、BLと百合、それぞれの文脈を峻別することの重要性を述べ、衝突の緩和策を二つ提示します。

なお、筆者である私は「カプ」とか「推し」とかそういった言葉を普段使わないので、文中でおかしな使い方をしているかもしれません。その際は温かい目で見て頂けると幸いです。

 

 

問題設定

ひぐらしのなく頃にシリーズの「さとりか」。プロジェクトセカイの「まふえな」。アサルトリリィの「たづりり」。こうした四文字を「カプ名」や「CP名」といいます。「カプ」、「CP」とはカップリングの略です。始めの二文字と、それに続く二文字はそれぞれ別の人物を表しています。たとえば、「さとりか」であれば「北条沙都子」と「古寺梨花」からそれぞれ二文字ずつとって「カプ」を表現します。

この四文字表記には、左右が存在すると言われます。「受け」と「攻め」というやつです。一般に、前者(左)が「攻め」、後者(右)が「受け」になります。この「攻め」とか「受け」とかいうのは、BLであれば肉体関係を表すもので、挿入側が「攻め」、被挿入側が「受け」になるらしいです*1

本エントリが問題にするのは、百合における左右です。

ピクシブ百科事典では次のように述べられています。

 

百合では受け攻めはあまり意識されない、もしくは固定されない(→リバ)ことが多い。カップリング (かっぷりんぐ)とは【ピクシブ百科事典】 「同人用語のカップリング」の項より]

 

百合では、BLでいうところのリバが常態化しており、「攻め」と「受け」の概念が希薄である。カップリング表記の際、例えば魔法少女まどか☆マギカ鹿目まどか暁美ほむらカップリングは「ほむまど」とか「まどほむ」とか呼ぶが、この場合呼び名の順序が違うだけで、基本的には区別されない。百合 (ゆり)とは【ピクシブ百科事典】「解説」の「カップリング表記について」の項より。太字及び、ほむまど・まどほむの鍵括弧は引用者による]

 

ここでは、「百合が左右(=受け/攻め)を意識していないこと」が指摘されています。後者は少し非難めいた書き方に見えますね。それはおそらく気のせいではありません。その少し後の箇所も引用しますと、次のようにあります。

 

ただし、百合でもたまに固定の人が存在し、そのような人はカップリング表記に拘り、表記が雑であることに不快感を示すことがある。[同上]

 

つまりこれは、「百合のカップリングでは左右があまり重視されないけれども、だからといって左右を意識しないことはトラブルに繋がるよ」という注意書きです。

ここで注目したいのは、「表記が雑」という表現です。ピクシブ百科事典の筆者(あるいは筆者たち)がそう思っているかどうかは分かりませんが、どうやら界隈の空気として、「左右が意識されていない=表記が雑」という認識は、ある程度市民権を得ているとみてよさそうです。

「本当かな?」と思った方は、Twitterで「百合 左右」と検索してみてください。なかなか過激なツイート群を見ることができると思います。

私は「百合は左右を意識すべきだ」という立場を支持しません。しかし、「百合は左右を意識しなくてよい」という立場も完全には支持できません。

ではどうするか。

私は、そもそも左右という土俵に乗らず、そこから一旦降りることを提案します。

それについて説明するには、「BL」と「百合」の各性質について比較検討が必要でしょう。

なので、次項ではまずBLのCP名について検討します。

 

BLの左右とその特徴

先述したように、BLにおいてCP名とは左右を表すものであり、そして左右とは一般的に肉体関係を表すものです。

ピクシブ百科事典に「例え前戯の段階ではリードされていたとしても、最終的に挿入すればそれは「攻め」なのである*2」とあるように、男性器の挿入/被挿入が「攻め」か「受け」かの絶対的基準になります*3

これは一種のラベリングであるということもできます。たとえば、太郎と次郎がいて、このカップリングを「タロジロ」と呼ぶか「ジロタロ」と呼ぶかによって、どちらが「攻め」でどちらが「受け」か、一目瞭然になるのです。

この分類法は、コンテンツの受け手にとって有利になります。利便性があるのです。

思うに、ここでの利便性には二つの種類があります。一つは、「見たいものを探せる」という積極的利便性。もう一つは、「見たくないものを見なくて済む」という消極的利便性

言い換えると、積極的利便性は、たとえば「太郎が攻めで次郎が受けのカップリングが見たい」という人が、任意のサイトで「タロジロ」と検索すればお目当てのコンテンツを享受することができるという利便性です。

また、消極的利便性は、「太郎は攻めで次郎は受け、それ以外認めない」という人が「太郎が受けで次郎が攻めのコンテンツ」に辿り着かない利益を得ることができるという利便性です。

「地雷」という一見大げさにも見える言葉が飛び交う界隈ですから、得るべくして得た発明と言うべきでしょう。

さて、このCP名は、次のような三つの特徴を有しています。

①CP名が性行為を背景にしている点②ゆえに二人の関係が閉じる点③そして四文字表記をする以上、左右が発生する点

まず①について、BLにおけるCP名は、左右表記、そして性行為と直結するために、構造的に大きな特徴を有しています。すなわち、CP名がただちに性的関係あるいは性行為を惹起させるという特徴です。「いや、私はCP名を見てもそうは思わない」と仰る方もいるかもしれません。しかし、私は主観的な話をしてはいません。CP名が受け/攻めを背景としていること、そしてそれが性行為を基礎として持っていることから考えれば、論理的帰結として一般的にそう考えるのが妥当だという話をしているのです。

次に②について、「タロジロ」の例を再び使うと、このCP名では太郎と次郎の役割は固定的です*4。つまり、太郎が攻めて、次郎が受けるというキャラの役割は決まっているのです。もちろん、攻め・受けには様々な種類があるのだろうと推測します。ですが、CP名単体においては、そういった特殊性は捨象されます。「リバ」か否かなどをさらに追記せねばならないのは、まさしくその証左です。この役割固定性ともいうべき性質は、百合については大いに問題となるのですが、それは後述します。

最後に③について、たとえば「タロジロ」というCP名を見た時、BLの文脈に親しい人は、十中八九、太郎を攻め、次郎を受けだと見ます。BLの文脈においては、CP名は必ず左右=受け/攻めを発生させるのです。

②と③は同じことを述べているように見えますが、少し異なります。②が説明するのはキャラの役割という作品内容に根差す問題です。他方で、③が説明するのはCP名そのものの問題です。

この三つの特徴のうち、①は全てのBL文脈に当てはまると思われますが、②と③については「左右固定派」にのみ当てはまり、「同軸リバ派」には当てはまらないことには留意すべきでしょう。

一度議論をまとめましょう。BLにおいて、CP名は三つの特徴を有します。一つ目は、一般的に、それが性行為と直結していること。二つ目は、CP名で表記された二人は役割が固定されること。三つ目は、CP名は左右を発生させること。

そして、さらなる特徴として、CP名は利便性を有しています。「見たいものを見ることができる」利便性と、「見たくないものを見ないことができる」利便性です。

さて、次項では百合におけるCP名について検討しましょう。

 

百合の定義と特徴

冒頭近くで例を挙げたように、百合でもBL同様、四文字表記でカップリングを示す場合があります。たとえば、花子と佳奈子のカップリングがあったとして、それを仮に「ハナカナ」としましょう。この場合、「ハナカナ」は「花子と佳奈子のカップリングである」ことを示すラベリングとして機能しています。

しかし、先に述べたように、百合ではBLと違って「左右」があまり注意されません。

BLの文脈では、「タロジロ」とあればそれは「太郎が次郎に対し、性行為の場面で挿入側に立っている」ということを指します。

ですが、百合では「ハナカナ」とあっても、花子が加奈子に優位をとるとは限りません。

この事態は、一体どのように理解すればいいのでしょうか。

まず、議論の前提として、百合の規約的(stipulative)な定義*5を提示します。

 

百合とは「女性間における、非対称的なケアの相互的な応酬」である。

 

この定義は、VTuber批評などで有名な、美学者の難波優輝氏のツイートを参考にしています。

ケアというのは、相手を励ますとか、相手の話を頷きながら聞くとか、一緒に時間を過ごしてあげるとか、相手の辛い気持ちに同情して一緒に泣くとか、そういった一連の行為のことです。

ケアの大きな特徴に、非対称性があります。なぜなら、たとえ相手を励ましても、見返りがあるとは限らないからです。それはプレゼントを贈るようなもので、たとえば相手の誕生日にクマのぬいぐるみを贈ったとしても、次の自分の誕生日に相手が何かをくれる保証はありません。そのように、ケアは非対称性を持っています。一方向性といっても良いかもしれません。

それが奇跡的に相互に応酬されているとすれば、つまり、相手のケアに私のケアが続き、その私のケアに相手のケアが続くような関係が在るとすれば、そこに百合が見出される余地があるのです。

この「相互的」というのが非常に重要となってきます。

AとBが相互的な関係にあるというとき、AとBの関係は円環状になります。A→B→A→B→A→……といった具合に。円はどこでも始点となり得るし、終点になり得る。逆に、始点は存在せず、終わりも存在しない、ともいえる

花子と佳奈子の関係は、そのように理解されます。すなわち、花子と佳奈子の関係は、動的で、流動的なのです。決して静的、固定的なものではありません。花子が佳奈子に優しく声を掛けることもあるし、佳奈子から花子の手を取ることもあるのです。

百合において左右が重要でないのは、まさしくこの意味で理解されます。

「ハナカナ」と言った時、それは「花子と佳奈子の相互的なケア関係」以上のものを一般的には指示しないのです。

一般的には、と言ったのは、成人向けや一部のタイプの作品では例外があるかもしれないと思うからです。成人向けには性行為の描写があるだろうから、そこではBLの文脈が顔を出すこともあるかもしれません。また、一部の作品、つまり精神的な格差を重んじるような作品などでは、精神的に強い立場の人間を左に表記するといったこともあるかもしれません。

留保はつけましたが、百合のCP名はケア関係を基礎に持っているという理解は、おおむね妥当性を持っていることでしょう。

 

BLの文脈、百合の文脈

前項では「なぜ百合は左右を意識しないのか」という問いに、一つの答えを提示することができました。

ではもう少し踏み込んで、ここではBLの文脈と百合の文脈の衝突について考察してみましょう。

前項の議論では、「ハナカナ」という表記は「花子と佳奈子の相互的なケア関係」を指示するものであって、「花子が佳奈子を攻める」といった意味は基本的に含まれないことが示されました。しかしながら、これは百合の文脈における読解であることを忘れてはいけません。

もしBLの文脈に親しい人間が「ハナカナ」というCP名を見たとすれば、どうでしょう。その人はおそらく、「花子が佳奈子をいじめる話なんだろうな」などと理解するはずです。そして、場合によっては、佳奈子が花子より優位に立っていたり、相互的*6だったりして、その人は憤慨するのです。「話と違う!」と。

 

すれ違いを失くすには

この悲しいすれ違いを失くす手段は、二つ思いつきます。

一つ目は、百合の文脈とBLの文脈を峻別すること。二つ目は、百合コンテンツでは四文字表記を止めてしまうこと

 

解決策Ⅰ:BLの文脈と百合の文脈とを峻別する

「峻別」というのは難しい言葉ですが、ここでは「はっきり区別する」というくらいの意味合いで理解していただければ結構です。

BLの文脈と百合の文脈を峻別すること、つまり、百合にBLの文脈を導入しないことには、正当性があります。

「人に迷惑を掛けてはいけない」という常識的なルールがあります。たとえば、人にタバコの煙を吹きかけることは、副流煙や吹きかけられた人の選好によって、倫理的非難に値します(そういう「シチュ」でなければ)。壁の薄いマンションで、大音量で音楽を掛けることも非難に値します。

そのような観点から、BLの文脈で百合を読解する問題点を指摘します。

先に、BLの四文字表記=CP表記について、三つの特徴を挙げていました。

 

①BLの文脈におけるCP表記は、性行為を前提とする。

②BLの文脈におけるCP表記は、キャラクターの役割を固定する。

③BLの文脈におけるCP表記は、当然のごとく左右を有する。

 

まず、①について。百合は必ずしも性行為を前提としない点で、BLの文脈とはそぐわないところがあります。百合を描いた作品には当然性行為を描いたものも多いですが、それだけ友愛関係を描いたものも多数存在しています。

また、世の中にはアセクシャル/アロマンティックのキャラクターを描いた作品も存在しています。アセクシャルとは他者に性的に惹かれない/惹かれにくい性質、アロマンティックとは他者に恋愛感情を抱かない/抱きにくい性質を指します。性行為を前提とした読解は、そうしたキャラクター性を締め出している……とは言わないまでも、ファーストインプレッションとしてアセクシャル性/アロマンティック性を惹起できないことには弊害があると思われます。

ここで、「BLは性的関係ばかりを重視しているのではない、その過程をも重視している」という声があるかもしれません。それはもっともですが、ここで問題視しているのはBL作品の是非についてではなく、BLの文脈でCP名を読解することについてです。BLの文脈で百合のCP名を読解すると、性的関係や性行為が潜りこむことに弊害を感じているのです。

(参考にしたツイートを以下に引用します)

 

次に、②について。BLの文脈で百合のCP名を読解すると、役割が固定されて見える恐れがあります。先に述べたように、百合は一般的に、始点と終点がない(あるいはどこでも視点と終点になり得る)円環状の性質を持っています。百合における各キャラの役割は、固定的ではなく流動的・可変的なのです。CP名をBLの文脈で読んでしまうと、作品を読んだ際、描かれたキャラの流動性に面食らってしまうことでしょう。その際ダメージを受けるのはBLに親しい読者の方です。そして、もしその読者が作者に直談判しにいって、文句を言ったとしたら、作者は多少なりとも傷ついてしまうことでしょう。これはお互いにとって害があります。

 

最後に、③の左右の存在。繰り返しになりますが、これは②とは違います。②はキャラの役割という作品内容の問題に言及するのに対し、③はCP名そのものの問題に言及してるからです。

これも同じく、百合は円環状の性質を持つことから説明ができます。始点も終点も持たない百合は、当然左も右も持ちません。にもかかわらず、BLの文脈による条件反射的な読解(四文字を見たらそれはCP名である、という反射)で左右が持ち込まれてしまうと、なし崩し的にBLの文脈が導入され続けてしまう恐れがあります。すると、①や②といった問題が浮き彫りになってくるのです。それゆえ、CP名を採用するか否かについても検討の余地があると考えられます(解決策Ⅱの項で述べます)。

こうした衝突は一定の害を有するうえ、何より悲しいことです。

しかしBLの文脈と百合の文脈を峻別することで、衝突は緩和されることでしょう。

たとえば「ハナカナ」を読んだBLに親しい読者は、BLの文脈でCP名を読解することにより、「これは花子が佳奈子をリードする話なんだな」と思ったとします。しかし、実際描かれている場面の一部は、佳奈子が花子をリードしている(とその人が思った)ものでした……。しかし、そのとき作者は読者を騙したわけではありません。作者の思う相互的なケア関係を描いたのみです*7。また、そうした事例が起こったとしても、百合愛好家たちが「左右表記に関して乱雑な扱いをしている」のではありません。百合の文脈においては、CP名は性的関係ではなくケア関係を示しています。ケア関係は相互的です。ですから、百合愛好家はそこに左右を見出してはいないのです*8

BLの文脈がある一方で、百合の文脈もまた存在します。百合に関しては、自身に内面化されたBL的観点を一度保留してから百合に向きあうことが大事でしょう。

しかしもちろん、BLの文脈におけるCP名の利便性を否定するわけではありません。地雷を避けたいという思いを一因として細分化してきたBLは、独自のシステムを開発することに成功しました。その一つが「左右」という発明であり、その利便性には目を見張るものがあります。

百合においては、その利便性はあまり活かせないでしょう。なぜなら、BLにおいては性的関係が重視され、それに基づいてCP名が決定されますが、百合においてはケア関係が重視されるため、CP名が一意に決まりません。繰り返し述べているように、ケア関係は相互的ですから、絶対的な「左右」を決定できないのです。

BLに親しい人たちが「利便性に欠ける」という理由で百合を非難するならそれは妥当なものでしょう。ですが、そもそも百合の文脈では両者の相互的・双方向的な(場合によっては対等な)ケア関係が喜ばれていることを考えれば、それは仕方のないことなのです。

 

解決策Ⅱ:百合では四文字表記をやめる

二つ目の解決策は、「ハナカナ」のような四文字表記が左右概念を喚起するなら、いっそのことそれを止めてしまおうというものです。「左右」という観念が衝突の種となっているなら、それを摘み取れば話は早いですよね。

実際、解決策Ⅰのような峻別を呼びかけるやり方には限界があるでしょう。もし呼びかけに効果が出ず、マイナスの厚生が発生し続けるようであれば、四文字表記をやめてしまうことにも一考の余地があるはずです。

しかし、話はそう簡単には行きません。

なぜなら、どう表記すれば百合の文脈を適切に反映できるか不明だからです。

思いつく限りで一番良いのは、「ハナカナは尊い」をやめて「花子と佳奈子の関係は尊い」と言うことかもしれません。

しかし、これはインターネットにはかなり不向きでしょう。インターネットは「速い」環境です。ですから、少しでも多くの情報を仕入れ、少しでも多くの情報を流す、それがインターネットで生きる術となります。であれば、四文字の「ハナカナ」と、十文字近い「花子と佳奈子の関係」では、後者が圧倒的に不利です。

BLの文脈と距離を置きながら、百合の文脈を適切に表現でき、かつ効率的なフレームワークがあれば、問題は解決すると思われます。ですが、それを見つけるのが難しいのです。これは今後の課題でしょう。

 

まとめ

ここまで、BLの文脈と百合の文脈という二項対立を主軸に据え、百合がケア関係を重視すること、そして両文脈の峻別が重要であることを述べてきました。

ここで断っておきたいのが、「相互的な百合」というキーワードに反応して、「こいつは『BLは一方的だ』と決めつけている!」とは受け取らないでほしい、ということです。今回、BLと百合とで比較をしているのは、CP表記という次元においてです。なるほど、作品内容の次元に目を向ければ、BLには男性同士のケアを描いたものも多いです。その点、百合とは共通項を見出せます。しかし、CP名の次元においては、やはりBLが性的関係に重きを置き固定的な見方をする*9一方で、百合はケア関係に重きを置き流動的な見方をするのだと、私は思っています。

もちろん、本エントリで述べたことには、多くの例外があるでしょう。これは一般論です。まず一般的なことを語り、そこから特殊なことを語っていく。それが重要です。このエントリは道の途中に過ぎません。

 

私が望むのは、BL、百合の両界隈が発展することです。このエントリがその役に立つことを願っています。

*1:攻め (せめ)とは【ピクシブ百科事典】を参照

*2:攻め (せめ)とは【ピクシブ百科事典】 「2.の概要」の「ボーイズラブ(BL)における攻め」の項より

*3:精神的優位さを左右の基準にすることもあるようだが、ここでは一般論に注力する

*4:これが逆で、キャラクターの役割が固定されているから左右が発生しているのだと理解しても、ここでは構わない。この箇所については、どちらで解釈しても議論には支障がない。

*5:定義についてはDefinitions (Stanford Encyclopedia of Philosophy)を参照

*6:BLの言葉でいえばリバということになるだろうか。しかし、リバは相互的な肉体関係を観念するのに対し、百合は相互的なケア関係を観念する点で、互いは異なっている

*7:これも繰り返しの注釈になるが、一部の作品、特に成人向けに関してはこの限りではない

*8:もちろん、全員がそうと主張するわけではない。だが、少なくとも「左右を意識しない」人々はこの認識に立ってると考えて良いだろう

*9:リバと呼ばれる方々に関しては、固定的という見方は当てはまらない。だが、性的関係に基準を置く点では、やはり百合と距離があるといって良いだろう

シャドバ十禍闘争 カード絵評価

 

気が向いたのでやります。

絵とかそこらへんで感想言うだけです(気色悪かったらすいません)。

基本進化前の話をしてます。

効果の考察とかはありません。

 

呪われた翼・シロ

呪われた翼・シロ呪われた翼・シロ

儚げな絵がいい。進化後の書き込みすごいね。
暗い目が印象的。なんか最近エルフを看病する薬屋の話が流れてくるけど、ああいう風に元気にさせたくなる顔してる。

ちなみに第一印象は堰代ミコだった。

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二次元絵は所詮パーツの組み合わせなんですよ(キリッ みたいな話もあって、やっぱりどこかで見た顔になるのは避けられないんかなあ、と思うなどした。

 

不吉の人形師

不吉の人形師不吉の人形師

その流れで行くと、この子は(ネットでもさんざん言われていたように)ゲゲゲの鬼太郎猫娘っぽい。

まあそれはそれとして、サイズ感がかなりいい。ぬいぐるみ(?)と骸骨犬(?)がバックに描かれているおかげで、こじんまりしたかわいさがよく出てると思う。全身のバランス感も絶妙。少女然としたフリフリスカートもいい。あと脚が良い具合にぷにぷにしてそう。かわいい。

 

リザードハート・フィルレイン

ブリザードハート・フィルレインブリザードハート・フィルレイン

知ってる子きた。

「ロストサムライ」とか「ウーシンマスター」とかいまいちパッとしない二つ名もらってるのもいるので、マシに見える名前。

裸より性的な格好してるけど大丈夫か。

進化したら布増えるけどそれはそれで刺さるやつがいそう。ランジェリーっぽい

 

花束の妖精

花束の妖精花束の妖精

絵柄は一昔前の雰囲気。

ふつうにかわいい。

物語の主人公にできるかできないかのギリギリの顔してる。

 

ブルームウィッチ

ブルームウィッチブルームウィッチ

青と赤の色合い、しなる箒から、活発な性格が見え隠れしてる。

ストライプの靴下も幼さが見て取れていいね。

でもなんでちょっと顔を赤らめてるんだ。

 

 

ウィンディドラゴニュート

ウィンディドラゴニュートウィンディドラゴニュート

ずんだもんのようなアホ面。

持っている杖との対比で小ささがよく分かる。

かわいい。

 

 

スキャットリーパー

デスキャットリーパーデスキャットリーパー

順当にかわいい感じ。

進化後の白髪の方が人気ありそう。

パッと見たときの明るい感じもいいし。

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ヨーソロー

 

冥府の召喚者

冥府の召喚者冥府の召喚者

進化前も進化後もかなり好き。

召喚?した子を見る目が優しくていいね。

 

アストロウィング・ララミア

アストロウィング・ララミアアストロウィング・ララミア

脚がよすぎる。発狂しました。

よく見たらセーラー服みたいなの着てるんだね。

それでさらに金髪碧眼。

オタク殺しの極みみたいな見た目、そらスキンにもなる。

 

ドールレディ

ドールレディドールレディ

なんかエチな雰囲気出てるな

 

 

 

他だと、イラスト違いのララミアvs.リーシェナも好きだった。

あとは関係ない話。

最近、つるおか(かものはし)の動画を観てて、シャドバの知識が勝手につきつつある。なんかネクロがアホほど進化しててドン引きした。乗り物なんてあるんだー、と思ってたら次スタン落ちらしい。ビショップは相変わらずちまちま戦ってるね。でもホーリーセイバーってやつ、かましたら気持ちいいだろうな。

そういえばダークジャンヌがスキンになるらしいじゃないですか。人気ありそうなロリっ子と花澤香菜を抑えてるあたり、やっぱ昔からファンを集めてた結果が今に繋がってるんだろうな。ぽれ、嬉しいよ(後方腕組み

 

以上、たまには中身のない記事を書こうという試みでした。

ラプラス、お前シャドバ極めろ

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ホロライブ新人のラプラス・ダークネス。

初配信後、彼女が二番目のゲーム実況に選んだのは、サイゲームスが誇るカードゲーム、我らがシャドウバースだった。

この選択は少し、いやかなり異様である。

というのも、大手VTuberはゲームを選ぶ際、普通は配信映えやゲームの認知度、ゲームの分かりやすさなどを重視するからだ。その結果選ばれるのは、たとえばマインクラフトやダークソウル。両者とも認知度が高く、画面で何が行われているのかよく分かり、配信者の反応も上手に引き出してくれる。

この点、残念ながらシャドウバースは劣る。配信映えや認知度はまだしも、ルールを知らない視聴者はまだまだ多いだろうし、ゲーム中一体何が進行しているのかは画面をぼんやり見ているだけではよく分からない。カードゲームの弱点である。

そのうえ、シャドウバースは配信が荒れやすいと言われる。なぜか。

今述べたようにシャドウバースは初見にとって取っ付きにくい。すると、必然的に視聴者層は、経験者がその多くを占めることとなる。そして多くの場合、彼ら経験者は配信者であるVTuberよりもシャドウバースが上手い。場数が違う。この違いから見て、差し詰め視聴者の多くを占める経験者は相対的にヘビーユーザー、配信者であるVTuberはライトユーザーであるといえるだろう(特に、大手VTuberはシャドバだけしているわけにはいかない)。

一般的に、ヘビーユーザーとライトユーザーとの大きな違いは、勝利に対する意識である。簡単に言えば、ヘビーユーザーが一勝一勝に貪欲な一方で、ライトユーザーは一勝一勝にこだわりがない。

また、目的意識も違う。ヘビーユーザーは何か肩書きを目指すことが多い。マスターやグラマスを目指すものもいれば、JCGやRAGEをはじめとするオンライン大会の優勝を狙うものもいる。一方で、ライトユーザーは楽しむこと自体が目的である。ネタデッキを組む、自分の好きなカードで戦う、環境デッキを使って無双する、そういう時間そのものに価値を見出し、肩書きは二の次である(もちろん、これは「ヘビーユーザーがゲームを楽しんでいない」というものではない)。

この点については、私が昔書いた記事も参考にしてほしい。(なお、ヘビーユーザーとライトユーザーの違いは相対的なものであり、また簡単に区別できない境界事例もありうる。)

 

tragedy.hatenablog.com

 

こうした価値観のズレは、時として攻撃性を産んでしまう。ヘビーユーザーはライトユーザーに対して、「なんでそんな(勝つために)効率の悪いやり方してんの?」「(勝つためには)そのカードいらなくね?」といったことを言ってしまいがちであるし、たとえばプレイを横から見ていると、ついつい「勝つための」アドバイスをしてしまいがちだ*1。こうしたアドバイスは、ヘビーユーザーには悪気はなくても、ライトユーザーからすると少し攻撃的に映ることもある。なぜなら、そうした助言はしばしば、ライトユーザーの「楽しむための」時間の否定となってしまうからだ。

これが配信となると、もう少し事態は複雑になる。相対的にヘビーユーザーである視聴者は、最初は配信者のためを思い、勝つためのアドバイスをする。だが、そのアドバイスは乱暴な言葉に変質しやすい

理由として、まず第一に、配信者が人気であればあるほど、チャット欄は素早く更新されていくため、視聴者のアドバイスは、その速さの分だけ届きにくくなる。すると、視聴者は苛立ちを募らせるだろう。

第二に、配信者は全ての指示を聞くわけにはいかない。いくらかのアドバイスを拾い上げることは有益だが、全てのアドバイスに反応していては、視聴者がゲームをプレイしているに等しい状況に陥ってしまう。俗に言う「ラジコン」化であり、これは配信の意味を無に帰してしまう。配信者にとっては、基本的に避けなければならない。しかし、とはいえその塩梅を間違えると、視聴者は変わり映えしない状況に我慢ならなくなってしまうだろう。

第三に、そもそも配信者がライトユーザー的信念から、アドバイスを聞きたくないかもしれない。もし、度重なるアドバイスに対し、配信者がムキになってしまうと、コメント欄は一気に荒れてしまうだろう。そうなったら、即時の調停は難しいと思われる。両者の価値観は大きく異なるからだ。

もちろん、これらはシャドウバースに限らず他のいくつかのゲームにも当てはまるだろうが(たとえば麻雀)、ともかくこのような理由から、シャドウバースの配信は荒れやすいと考えられる。

しかし、ラプラス・ダークネスは、以上の事情を知ってか知らずか、デビュー間もない配信であえてシャドウバースを選択した

これは凄まじいことである。

シャドウバースは、それはそれはどえらいほどに過疎化が懸念されているため、大手の配信は大助かりである。実際、私のタイムラインも歓迎の声に大きく湧いた。

しかし、タイムラインが湧いたのはそれだけが理由ではない。なぜなら、大手のVTuberがシャドバ配信をすること自体は今までも何度かあったからだ。にじさんじの葉山舞鈴しかり、三枝明那しかり、ホロライブのモリカリオペしかり、湊あくあしかり。その他多くのVTuberが、シャドウバースを実況している。

www.youtube.com

 

つまり付け加えなければならないのは、「彼女がシャドバ経験者だ」ということである。

それは彼女のツイートぶりからよく分かる。

①カードプールの広さゆえ初心者が参入しにくいアンリミテッドを指定

②「庭園ダゴン」のデッキタイプを知っている

先に述べた「配信が荒れるかもしれない」という懸念事項は、もっぱら視聴者と配信者の実力差にかかっている*2。実力差がほとんど無ければ、アドバイスも必要ない。あるにしても、それは配信者との対等な議論の形をとるだろう*3。もしラプラス・ダークネスが実力者であれば、ヘビーユーザーも安心して楽しめるはずだ*4

また単純に、シャドウバース経験者が大手グループのVTuberになっている例は珍しい

そうした理由から、ラプラス・ダークネスはシャドバ界隈を賑わせたのである。

 

そして実際、彼女のシャドウバース配信を観た感想は「面白かった」。

特筆すべきは、彼女のリアクションの激しさと目まぐるしく回転するトーク*5である。

相手が入室したら名前にツッコミを入れ、自分のプレイ中も黙らず喋ることに特化、知らないフォロワーが出たらリアクションを欠かさず、リーサルを取られたら叫び台パンする。喉が枯れないか心配になる一時間半。彼女の声に耳が痛くなった視聴者も多かったことだろう。

しかし、その彼女の感情の激しさは、デジタルカードゲームの実況に非常にマッチしたものだと言わざるを得ない。

たとえば、eスポーツの文脈におけるシャドウバース、ひいてはデジタルカードゲームは、「初見が見ると画面で何が起こっているのかが全く分からない」というのがやはり問題で、市場を拡大する上での大きな課題だと言われてきた。ではどうやってその課題をクリアするのか。その一つの手段が、「プレーが上手いか下手か」「このカードは強いか弱いか」などを逐一説明する解説であり、異様に高いテンションとドラマチックなセリフ回しで場を盛り上げる実況だった。

私はシャドウバースを引退して二年以上経っており、今のカードプールはあまり分かっていないのだが、しかしシャドウバースの大会の中継は、比較的面白く観れる。ルールが分かっているという点はもちろん考慮せねばならないが、それを差し引いても、実況と解説の合わせ技はしっかりと効いていると感じる。

ラプラス・ダークネスの場合、解説に値するような発言はほとんど一切なかった。けれども、そのテンションの高さは、試合の実況と同じように、「何かよく分からないけど面白い」と人に思わせるだけのパワーがいくらかある。私にはそう感じられた。

 

また、彼女の実況についてもう一つ軽く触れるなら、彼女が「超越」「ギガキマ」などの古典的なデッキタイプを持ち込んできたこと、そして彼女のデッキ回しが覚束なかったことも、いくらか功を奏したと思われる。

中途半端に勝つために頑張っているよりは、イキった発言をしてボコられた方が美味しい。配信映えを最大限考慮した立ち回りだったのだろう。

そのうえ、先に私は「配信が荒れるかは視聴者と配信者の実力差に掛かっている」という趣旨のことを書いたが、あまりに実力差が離れていても、まじめにアドバイスする気力は失われるものだ。古典的なデッキと不器用なプレイングは、コメント荒れの防止にも役立った。

 

ラプラスは配信の終わり際、「次は」と次回のシャドウバース配信を匂わせた。

願わくば、定期的にシャドウバース配信をしてほしい。そして、もし勝ちにこだわる気があるなら、シャドバを極めて、JCGとかにひょっこり出場したりしてほしい。

プロデューサーの木村氏やプロを含めて、シャドウバース界隈は君に注目している。

↑ ルームマッチに参加しようとする木村氏

↑プロゲーマーのリグゼ氏も反応

↑注で触れたVTuber

*1:そうしたアドバイスの厄介なところは、各人にとってはそれが「正解」であり「最善手」であるということだ。

*2:ただし、マンスプレイニングに由来した配信荒れの懸念は拭い切れない。シャドウバースをプレイしているのは、おそらくゲームの性質から考えて男性が多いが、彼らは女性配信者に対して過剰にアドバイスをするかもしれない。その場合は女性配信者の実力が通常より低く見積もられ、結果的に配信荒れが起こってしまう恐れがある。

*3:たとえばシャドウバースを主に扱うVTuber、YumemiChannelのユメミは相当な実力者で、彼女のコメント欄は平和そのものに見える。もちろん、配信規模の違いはあるだろうが。

*4:しかし、実際の彼女のプレイングはお世辞にも上手いとはいえないものだった。過去にプレイしていたという彼女の言葉は本当だろうが、配信でのプレイングがエンタメ用の演技だったのか、それとも素なのかは判別がつかない。

*5:ノリと勢いで構成された喋りを「トーク」と呼んでいいのかは少し疑問だが。

百合とか自分語りとか(百合の複雑さについて)

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みなさん、コンテンツにハマったきっかけって覚えてますか?

私は自分がなぜ百合にハマったのか考えてたんですが、きっかけとかは全く覚えてません。ただ、初めて観たのは『ゆるゆり』だったとは思います。

anime.dmkt-sp.jp

大学に入る前、つまり百合作品は『ゆるゆり』や「きらら作品」しか観たことが無い頃、友だちに「百合が好きで……」という話を、おっかなびっくりに打ち明けたことがありました。百合好きを公言してる人なんて周りにいなかったから口にするのは怖かったし、当時は本気で『ゆるゆり』が好きだったので、自分の「好き」を公言するのもなんとなく怖かったのです(だって否定されるかもしれないじゃないですか)。

幸い、私の友だちは同じ百合好きで、当然に『ゆるゆり』も知っていました。そこは良かったのです。しかし。彼はガチの百合オタクでした。彼は私に探りを入れてきます。どんなジャンルが好きなのか、どれだけ作品を知っているのか、どんな作者が好みなのか。そして、私が『ゆるゆり』くらいしか知らないと分かると、肩透かしを食らったように小さく笑って、こう言いました。「それで百合好き?」

まあ、彼の言うことも今なら分かります。『ゆるゆり』は百合の「入り口」に位置する作品で、当時の私が百合の世界を知っているかといえば怪しいのは確かなのです。
しかし、当時の私は「百合なんて二度と観るか」と思いましたね。友だちは「しとらす」だか「さくらとりっく」だか、当時の私にはよく分からない作品名を挙げていましたが、とにかく私は「もう百合になんて触れねえ」という強い気持ちに支配されました。

citrus-anime.com

www.tbs.co.jp

大学に入ってから、本格的にアニメを観るようになりました。サブスクに加入したので「リアタイ」とか「録画時間」とかを気にする必要がなくなったこと、大学生活に時間の余裕がかなりあったこと(文系ゆえ)が、私をアニメ視聴に走らせました。放送中のアニメを何本も追いかけるという経験も、思えば大学生になってからが初めてです。そうして様々なアニメに触れるうちに、いつの間にか百合と呼ばれる作品群にも再び目を通すようになっていました。

「百合」という言葉は使われ方が多種多様です。「女性同士の関係を描くもの」が最広義の使われ方だと思いますが、他にも「女性同士の恋愛」を指していたり、「女子だけの閉鎖空間で発生する機会的同性愛」を指していたり、「女性同士の緩やかな友情」を指していたり等々、指示対象がやや混乱している印象です。ここにさらに、BL界隈で使用される「百合」の用法が加わったりして*1、さらに場を混乱させています*2。このように指示対象が混乱している状況下では、「百合」という言葉は誤解を招くことがあるでしょう。

(↑不思議な用法。「百合」が「レズビアン」のように個人の属性として用いられている。)

 

私の好みを先に開示しておくと、私は「百合」の中でも「シスターフッド」や「GL」に分類されるだろうものが好きです。前者は『マリア様がみてる』『アサルトリリィ』など、後者は『Citrus』『付き合ってあげてもいいかな*3』など。
人間ドラマを全開にした『やがて君になる』『フラグタイム』などもかなり好きです。いろんな点に注目できるので、語りたくなりますよね。

www.tv-tokyo.co.jp

urasunday.com

yagakimi.com

frag-time.com

思えばいつの間にか、意図せず「それで百合好き?」と暗に馬鹿にされた友人と同じ方向に進んでいます。もともと性癖では話の合う相手だったので、今なら彼とも話が合うことでしょう笑

さて、インターネッツを見ていますと、Twitterでは毎日のように百合に関する「学級会」が繰り広げられています。「百合はこうあるべき」という理念の争いです。「百合に男を挟むな」「百合に性行為は要らない」「両性具有はご法度」という威嚇的な発言から、「百合好きなら○○が好きだよね」という同調圧力的なものまで形は様々ですが、どれにせよ、表現に対して規範性を安易に持ち込む彼・彼女らの仕草は、どうしても私の目には幼稚に映ってしまいます。もちろん、表現の中にはナチスなど扱いに細心の注意を要するものはあります。しかし、個々人の好き嫌いを「べき」論に転化すれば、萎縮が起こるのは必至でしょう。

まあ分からなくもないなと思うのはゾーニングの話です。たとえば私は異性愛の作品で寝取られが予告なしに発生したら嫌だと感じます。純愛を描いておいて、パートナーが寝取られました、なんてことになったら一週間ぐらい引きずりそうです*4。BL界隈では「地雷」を避けるためジャンル分けが細かくされている(=体系化されている)らしいので、それに倣うのも良いかもしれません。

寝取られが嫌だという話をしましたが、自分のことながら興味深いことに、「百合なら寝取られを見てみたい」と思うのです。性行為を伴わなくとも、失恋の過程を見てみたいというか。これって、私がなぜ百合が好きなのか、その理由を説明しているような気がします。

まず、私は体も心も男性ですが(たぶん)、異性愛の寝取られに心が痛むのは寝取られる側に感情移入するからです。ではなぜ感情移入できるかといえば、登場人物が男性だからでしょう。何らかの作品を読むとき、登場人物に自身を投影させることを私はよくやります。そして自分に一番近しい人——軟弱そうで、自信が無さそうで、初心で、優柔不断な人*5——に自分を投影するわけです。

そもそも、私は異性愛の作品自体を避けています。『俺ガイル』とか『青ブタ』とかが面白いとは聞くし、ちょっと観たい気持ちもあります。実際、観れば(読めば)楽しめるだろうとも思います。

でも、事情があって。自分でも面倒くさいなと思う事情なんですが。
異性愛の作品を観る時、私は男性側に感情移入して楽しむことになるでしょう。ヒロインとのすれ違いやらラッキースケベやら(ラノベならありがちじゃないですか?知らんけど)を追体験し、長い時間を経て異性愛が成就して、「あ~良かったね~」と心の底から思ったとします。紆余曲折あったけど、ヒロインを一人選んでハッピーエンド。良かった良かった。でも、ヒロインが好きなのは読者じゃないですよね。ヒロインが好きなのは登場人物であって、読者ではない。つまりお前じゃないし私でもない。

ハッと我に返って、現実を思い返す。恋愛経験豊富な人間なら何のダメージも無いところですが、私はそうではないので(泣きたい)、現実との落差がダメージとなって襲い来るのです。

めんどくさ。

しかし、「百合(GL)」は女性同士の恋愛ですから、ある意味他人事なのです。性別という壁で隔てられた向こう側で繰り広げられるそれを、男性である私は自身に置き換えることなく消費する——。その壁は分厚いものであるがゆえに、防御壁としての機能も有するのです。

これはBLでたまに聞く「部屋の壁になる」みたいなのと似てる気がします。知らんけど。

だからこそ、百合でなら、つまり男性がいない恋愛関係の中でなら、寝取られでも自分への精神的なダメージ無しに楽しめるというわけなのです。

「百合に男を登場させてほしくない」「百合に男が挟まってほしくない」と感じる人は、きっと私の言うことをある程度共有しているでしょう。

ですが、これってかなり気持ち悪いです。だって、私は女性じゃないので。
それに、当事者から見たらドン引きだと思います。資本主義の文脈の中で「消費」しているだけでなく、ある意味で「手段」として彼女らを「鑑賞」しているから*6

だから最低でも、男性が百合(特にGL)を楽しむなら、LGBTsを何らかの形で支援するなり、彼らのことを勉強するなりは必要だと思います。「罪滅ぼし」というとそれはそれで気色悪い感じがするのですが、それぞれで落とし前はつけたいところです。

 

ところで、ケアと百合を関連付けるツイートを先日見かけました。

つまり、異性を好む傾向の強い男性が百合をたしなむ不思議さは、女性同士がケア関係——気軽に悩みを打ち明け合ったり、スキンシップを重ねたりする相互的な関係——を気兼ねなく結べることへの憧れで説明できるのではないか、ということだと私は理解します*7

ケアは一方通行で、非対称なものです。プレゼントと似ていますが、プレゼントより分かり辛い。プレゼントならプレゼントだとすぐ分かるため「ありがとう」とすぐ言えるかもしれませんが、ケアはケアだと気づけないことがあります。だから「ケア関係」を築きたいなら、されたことをお返しするという感覚を常に持っていなければなりません。

しかし、多くの男性はケアに対して無頓着です。パートナーがいれば自ずとケア関係が築けるでしょうが、そうでない場合、男性同士のケアには難しいものがあります。とはいえ、ケアされたいという欲望は多くの人にあるでしょう。
私の場合は大人数が苦手で、むしろ一人でいるときが一番落ち着くのですが、しかしだからといってずっと一人では寂しい。この「寂しさ」は、ケアへの欲望と読み替えることもできるのかもしれません。

そうしたとき、自然とケア関係を築ける百合——最広義の用法——に男性が憧れるというのは、説得力があるように思います。「ケアのユートピア」とは言い得て妙でしょう。

ところがそれに対して、『現代思想』の2021年9月号に掲載された松浦優の「アセクシャル/アロマンティックな多重見当識=複数的思考——中谷鳰『やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から」では、「する」ことと「見る」ことの不連続性が説かれます。以下、私の理解です。

松浦は私が先にも挙げた『やがて君になる』に登場する、他人の恋愛模様を観察することを志向する少年を引き合いに出し、彼の観察に徹する姿勢に着目します。彼は恋の行く末を見届けようとしますが、しかし、その仕方は恋愛を繰り広げる彼・彼女らと同じ舞台に立つものではありません。むしろ彼は、舞台から観客席という次元へと一歩下がって、息を殺すようにそれを見守るのです。彼に恋愛の意志はありません。恋愛をしてしまえば、それは舞台に立つことになってしまうからです。しかしその「恋愛しない」という彼の振舞いは、決して逃げではないでしょう。「見る」ことと「する」ことの間には破れ目があり、二つはイコールではなく、彼は「見る」ことで満たされる存在なのです。

「見る」ことは、「する」ことと必ずしも結びつかない。この発想は、二次元キャラクターを好む層にとっては僥倖でしょう。たとえば二次元キャラクターに性的興奮を抱いているからと言って、それは同じような容姿の実在の人物に性的興奮を抱くことを必ずしも導きません。にも拘らず前者と後者を結び付けてしまうような考え方を、松浦は「対人性愛中心主義」の表れであると批判します。

では、異性愛男性が百合を「ケアのユートピア」と見る時、男性は現実にケアを欲望しているのでしょうか。百合は現実の代替なのでしょうか。こう問いかけると、問題は個別化し、相対的なものになりそうです。

私の例で言えば、百合を非現実なものとして楽しむ態度(見ること)がそこで繰り広げられているケア関係への欲望(すること)に果たして繋がるのか。

私としては、繋がると言えば繋がる気もするし、繋がらないといえば繋がらないような気がします。

百合関係のように、弱みを晒し合い互いを慰め合うような関係は、男性的規範からすればなかなか難しいのは事実で、先述したようにそれに憧れている面も無くは無いのかもしれません。

でも、現実に自分がそうしているところはあまり想像したくないという気持ちもあり、百合はあくまで非現実だと割り切っているところもあるような気がします。

百合好きの異性愛男性のみなさんはどうでしょうか。

 

まとめると、とにかく百合は難しいのです。

この時代、インターネットによって効率化された「気持ちの共有」というのは娯楽の一つとしてあるわけですが、しかし何かしら自分の本当に好きなものを語るという時には、少なからず自分の「何か」を賭ける必要があります。つまり覚悟という心理的コストが必要なわけです。さらにそれが百合の場合はその独特の文脈——複雑化した言葉の問題、性の問題、当事者性の問題、バイアスの問題などなど——が「語ること」、そしてそれを「聞くこと」のハードルを上げていることに自覚的でなければならず、でなければその繊細さ・複雑さにコミュニケーションは掻き乱され、「好き」を伝えることは難しくなるでしょう。

覚悟は気の持ちようかもしれません。ですが百合の性質については、いくらかの問い——何が「百合」を複雑化させているのか、ハードルをさげるために何ができるのか、など——を立て、各々が考えることが必要でしょう。そうすることで、各々の「好き」はより伝わりやすくなるのではないでしょうか。

 

 

*1:受けと受けの関係をそう呼ぶらしいのですが詳しくないので間違ってたらすみません

*2:BLでの使い方を非難する意図ではなく、事実として。

*3:これはアニメ化していませんが

*4:寝取られる側があんまり描写されてなかったら大丈夫なんですよね、話を重視してないザ・インスタントなポルノくらいでしか見かけないですけど

*5:自分で書いてて泣きそう

*6:あと寝取られに限って言えば、不幸を楽しんでいるという質の悪さもある

*7:ツイート主の難波さんはVTuberにもよく言及されている方で、私も以前二度ほど理論を援用させてもらったことがあるのですが、なんというか興味の方向が自分とよく似ていて親近感が湧いています。一度会ってお話してみたいです。

VTuber、特にホロライブと創作活動――ホロライブ・オルタナティブについて

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ホロライブ・オルタナティブ(以下ホロオルタ)とは、VTuberグループ・ホロライブの運営会社カバーが発表した新たなプロジェクトである。カバーによれば、それは次のようなものである。

 

VTuberグループ“ホロライブ” そこに所属する彼女たちの、同じようでいて違う、あるいは、違うようでいて同じ――……

そんな、ほんのすこしだけ別の可能性。これは、もしかしたら存在するかもしれない“とあるセカイを描く”、異世界創造プロジェクトです。

(ホロライブ・オルタナティブ公式サイトより)

 

alt.hololive.tv

これがどういうことかは、今日公開されたPVを見ればよく分かる。

 

www.youtube.com

 

見ての通り、この動画に登場するホロライブメンバーの様子は、普段の印象といくらか異なる。ズバリ言えば、ホロオルタで描かれるメンバーたちは「設定」に忠実だ。たとえば「湊あくあ」は屋敷でメイドとして働いているように見えるし、エフェクトを纏う「紫咲シオン」は本当に魔法使いであるように見える。

このPVおよびプロジェクトの発表を受けて、多くのリスナーやクリエイターが湧きたった。何か新しいものを感じ取り、VTuber界に新たな息吹を吹き込んでくれるような、そんな気配を感じ取ったのだ。

本エントリで問うのは次のようである。すなわち、このホロオルタという一大プロジェクトは、従来のVTuber創作の文脈でどのように位置づけられるのだろうか。言い換えれば、従来のVTuber創作との違いはどこにあり、どのような点で差別化されるのだろうか

 

この検討のためには、長い前置きが必要になる。

最初は、創作物とは何かについて考えることから始めよう。一体どのようなものが創作物と呼ばれるのだろうか。これはVTuber創作とは何かという問いへ繋がる。

その次は、一次創作・二次創作・N次創作について考える。N次創作の代表例であるボーカロイド創作とVTuber創作とを比較することで、VTuber創作の既存環境における秀逸な点と問題点を浮かび上がらせたい。ここでは大きな本家/小さな本家、Pキャラクタ/Dキャラクタ、メディア/コンテンツといった区別を用いることで、なるべく議論を分かりやすくするつもりだ。

そうしてやっと本題に入ることができる。本エントリの主張の核は、ホロオルタがそのパッケージを通して、「キャラクタを中の人から解放する」という点にある。

 

 

創作とは何か

議論に入る前に、VTuberおよびVTuber創作という言葉の意味内容について説明しておく。

まず、本エントリにおける「VTuber」は、ホロライブを念頭に置いている。本エントリでVTuberという言葉を用いるのは、ある命題がホロライブを含むいくらかのVTuberにとって真である場合だ。逆に、ホロライブにのみ真であると思われる事項については、直接「ホロライブ」などと表記する。*1わざわざこう書く理由には、「VTuberという言葉を広義に用いるには限界があること」、「昨今のアバター配信者とVTuberを切り離そうという動きに配慮したいこと」がある。

また、「VTuber創作」とは、後ほど改めて説明するが、「VTuberを巻き込む創作」のことだ。それはVTuberを客体とする創作である。たとえば、ファンアート、ファンムービー、SS(ショートストーリー)、イメージソングなど。

ただし、この「VTuber創作」が「VTuberがする創作」のことではない、という点に注意されたい。「VTuberがする創作」は、VTuberが主体となる創作である。たとえば、「宝鐘マリンがアニメキャラクターのイラストを描く」ことなど。本エントリではこの意味で「VTuber創作」という言葉を用いることは無い。

 

ホロオルタは創作物である。この命題に違和感はないだろう。だが、とりあえず後の議論のために、「創作物」について一応の定義付けをしておきたい。

まず、私たちが何かを創作物*2と言う時、その語の指示対象はフィクションである。『ビデオゲームの美学』を参照するに、この「フィクション」という言葉は多義的だ。すなわち、「フィクション」は虚構的な事物を指すこともあれば(「魔法なんてフィクションだ」など)、マンガなどの作品を指すこともあり(「このドラマはフィクションです」など)、はたまた制度や歴史などの社会的に構築されたものを指すこともある(「社会契約説はフィクションだ」など)。創作物=対象物=フィクションであるとき、この「フィクション」は一つ目か二つ目の用法で使われている*3

フィクションという性質を伴う創作物は、思うに誰かと共有されるべく存在する。誰かに実際に読まれる必要はなく、他者に読まれる可能性のある媒体に著されれば、それは創作物だろう。たとえば、誰かの頭の中にあってまだ物理世界に著されていない小説を創作物と認めるのは難しいが、人里離れた山奥で紙に書いた小説は創作物と見て良い。

以下では「創作物」を、フィクションであり、かつ誰かと共有可能であるものとして扱う。

 

では、VTuber創作、すなわちVTuberを巻き込む創作とは何だろう。

「創作」という言葉には、作品を指す場合と、作品を制作する活動を指す場合の二パターンがあるように思われる。であればVTuber創作とは、VTuberを客体として用いるようなフィクション、あるいはそうしたフィクションを制作する活動のことだと言い換えられよう。

VTuber創作の中で一番に思いつくのは、やはりファンアートだ。ファンアートはVTuberの姿や過去の発言などを捉え、表情や身振りなど不足する部分は補完しながら、絵に落とし込むことで出来上がる。再現MMDをはじめとするファンムービーも、ファンアートと同じように過去の発言などを捉えて、不足部分は補完しながら動画に落とし込むことで出来上がる。また、イメージソングもVTuber創作の一つだ。VTuberから得た印象を基に、曲は作り上がる*4

これら不足部分の補完は、フィクションの受け手にとって当然に起こる反応だ。松永伸司は次のように述べる。

 

……フィクション作品の受容者は、“空所”をそこに認めたうえで、その補充を行う……つまり、受容者は、その作品が当の虚構世界のすべてを描いているわけではないということを自明の前提として受け入れている。

ビデオゲームの美学』p.133より

 

つまり、フィクションを鑑賞した人間は、そのフィクションの不足部分を勝手に補おうとする、というのである。

実際、VTuberのファンアートやファンムービー、イメージソングといった創作物はVTuber視聴者によって作られているが、彼らはそのVTuberについて多くを知らない。VTuberが発信してきた情報は知っているだろうが、それ以外のことはもちろん知らない。VTuber創作は、受け手がその知らない部分を補い、想像を膨らませることによって作られている。

ところで、VTuber創作は視聴者によるものだけではない。VTuberが創作するVTuber創作も存在する。たとえば、Ninomae Ina’nisが自画像的に自身の絵を描く場合も、VTuberが客体となっている点でVTuber創作だといえるだろう。

また、VTuberの人格もVTuber創作の一つだ*5

VTuberの人格は、VTuberそれぞれに備わっている。湊あくあには湊あくあという唯一の人格があるし、白銀ノエルには白銀ノエルという唯一の人格がある。これらは、それぞれの「中の人」が人格を日々生成し、更新し続けている結果、存続しているものだ。つまり、人格とは、個人が自己の人生をデザインしてきた結果に伴うものである。

この「人格」は単なる「性格」という意味に留まらず、法学的なニュアンスをも含んでいる。すなわち、自律とか、自由とかいったニュアンスだ。

法学には人間を「自己の生の作者」とみなす考え方がある。人間は自律して自身に関わる物事を決定できる、という意味だ。では人間でないVTuberは自律した存在だといえるだろうか? VTuberは(ほとんど)フィクションの存在だから、一応確かめておくべきだ。

私の答えはYESである。

その根拠は、VTuberが自己の身体を所有していることにある。もちろん、ホロライブメンバーが知的財産権の意味で身体を所有しているかといえば微妙だろうが、そこではなく、彼女たちがモデルという身体を動かしているという事実が重要だ。身体の所有は、VTuberにあってはその設定の所有を意味する。事実として、VTuberの身体は一人しか所有できない。すなわち、これらの所有は排他的である。この排他性は、人間と近しいものがある。人間は現時点では、自身の肉体を他人と一緒に所有することはできない。この意味で肉体の所有は排他的だ。また、その肉体に付随する、出生から今現在まで積み上げている人生も、誰かと共有することはできない。だからこそ、それらは替えの利かない、かけがえのないものなのであり、保護の必要があるのだ。であれば、同じく身体が交換不可能なVTuberも、自律した存在と考えて然るべきだろう。

さて、「自己の生の作者」の「作者」は、言うまでも無く比喩である。しかし、VTuberにおいては、あながち比喩だとも言い切れない。まず、VTuberは主に配信コンテンツである。配信コンテンツは、人と体験を共有することを目的とする。では、VTuberというコンテンツにおいては何が娯楽となっているのだろう。実況するゲームの内容だろうか。VTuberの容姿や、デビュー前からある設定だろうか。たしかにそれらも娯楽だ。しかしそれ以上に優れた娯楽がある。それは、VTuberの喋り方や、リアクション、発言内容などのそのVTuber固有の態度であり、また、新たに付加される設定などの、そのVTuber固有の属性である。そうした固有の態度を産むものと、固有の属性などの総称を、人間の場合と近しく「人格」と呼ぶことができるだろう。

この人格は、VTuberが自律して生を積み重ねる中で変化し得る。言い換えれば、人格はVTuber自身の決定により更新され発展する。たとえば、デビュー当時は無かった属性が、受け手(視聴者)との交流の中でVTuberに付加されることがある。これは「VTuberが自分で新たな属性を付加した」現象である(「受け手がVTuberに属性を付与した」現象ではない)。もちろん、受け手(視聴者)の空気に押されて否応なしに属性を受け入れる場合も数多くあるだろうが、思うにそれもまた必要なことである。なぜなら、他の事項との兼ね合いの中で、自ら折り合いをつけることもまた自律だからだ。多くの場合、設定を受け入れることに多少気が進まないくらいの程度であれば、それを甘んじて受け入れる必要があるだろう。とはいえ、人格においては、真に受け入れがたい属性を拒絶することも可能ではある。たとえば雪花ラミィは過去に「アル中」と呼ばれるのを嫌がっていたと記憶しているが、まさにそのような形で、VTuberには自己の人格に関し、NOを突き付ける権利も与えられてはいる。自己の人格をデザインするという行為は、他者と折り合いをつける必要もありはするが、比較的自由度の高い営みだといえる。

このように、VTuberは「人格を創作する」という意味で、「自己の生の作者」だ。

なお、この人格は虚構的なただの観念である。極端に言えば、VTuberも受け手(視聴者)も、いわば「ゲーム」をしているに過ぎない。あくまでもVTuberは虚構世界に存在するのであり、現実世界に実在しているわけではないのだ。そして、そのVTuberに伴う人格もまた、虚構世界にしか存在しない。もちろん、その人格を身にまとう「中の人」には、それになりきることによる現実的な負担や恩恵があるだろうが、人格それ自体がフィクションであることに変わりはない。

VTuberの人格はVTuber自身によって作られる。そしてその人格は、受け手の娯楽に供する創作物であり、フィクションである。

 

 

一次創作と二次創作 

 

一次創作と二次創作という区別は、多くの人が使用する、今や市民権を得た区別だ。

思うに、この区別は本家(公式)を措定することで可能になる。まず本家(公式)があり、そこが供給するコンテンツが一次創作。その一次創作内のキャラクタを用い、設定を改変するなどして新たなコンテンツを制作すること、およびそのコンテンツ自体が二次創作だ。

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この二次創作に関して話を分かりやすくするために、研究者の岩下朋世による議論を紹介しておこう。岩下は、ゲーム研究者の松本伸司が考案したPキャラクタ/Dキャラクという区別を、「解釈違い」について考えるために導入している。

まず、言葉の説明をしよう。岩下の記述によれば、「P(パフォーミング)キャラクタ」とは、演じ手としてのキャラクタのことである。他方、「D(ダイエジェティック)キャラクタ」とは、物語世界内の存在としてのキャラクタのことである。刑事ドラマの主演俳優Aでなぞらえれば、「Pキャラクタ=俳優A」、「Dキャラクタ=俳優Aが演じる刑事」、という対応関係になる。

この区別を用いて二次創作を説明すると、「二次創作は一次創作のPキャラクタのみを拝借し、本家とは異なるDキャラクタを描くもの」であるといえる。念のため具体例を挙げると、「ウマ娘ナイスネイチャを描く二次創作は、ナイスネイチャのPキャラクタ(キャラ図像とキャラ人格 [岩下による])だけを借り、いくらか異なるナイスネイチャのDキャラクタを描くもの」だといえる。ここで、PキャラクタとDキャラクタは互いに重なり合うことで一つのキャラクタを成している。

岩下はDキャラクタを、受け手がPキャラクタを鑑賞した途端に解釈を経て生まれ始めるものと見做しているようだ。実際、アニメやゲームのキャラクターでも、VTuberでもそうだが、「このキャラは○○のとき△△と言いそうだ」という想定が立ち上がることはよくある。しかも、その想定の多くはファンの間で共感が可能だ。そこではファンの間でのDキャラクタの共有が起こっている。そして解釈違いは、岩下が「公式の提供するコンテンツは、推し(Pキャラクタ)に見当はずれのキャラクター(Dキャラクタ)を演じさせている*6」と述べるような仕方で起こる。つまり、ファンの持つDキャラクタと、創作物がPキャラクタに演じさせるDキャラクタとが異なる場合に、「解釈違い」は起こるのだ。

さて、Pキャラクタ/Dキャラクタの区別を紹介したが、次に今まで説明なしで使ってきた「コンテンツ」という言葉にも触れておきたい。

『メディア・コンテンツスタディーズ――分析・考察・創造のための方法論』所収の、岡本健「メディアコンテンツの分析・拡張・創造――情報社会の進展とコンテンツ研究・教育の必要性」によれば、コンテンツとは「なんらかの形で編集された情報であ」り、「コンテンツそれ自体を体験することで体験者は楽しさを得る可能性がある*7もののことである。また、岡本は同じ論文で、法律の条文もコンテンツの定義として紹介している。長いが、ここにも引用しておく。

 

第二条 この法律において「コンテンツ」とは、映画、音楽、演劇、文芸、写真、漫画、アニメーション、コンピュータゲームその他の文字、図形、色彩、音声、動作若しくは映像若しくはこれらを組み合わせたもの又はこれらに係る情報を電子計算機を介して提供するためのプログラム(電子計算機に対する指令であって、一の結果を得ることができるように組み合わせたものをいう。)であって、人間の創造的活動により生み出されるもののうち、教養又は娯楽の範囲に属するものをいう。

 

コンテンツが教養や娯楽を目的として作られた「プログラム」だということがよくわかる。

こうしたコンテンツと切っても切れない存在がある。それがメディアだ。岡本は「さまざまな定義がある」と留保したうえでメディアを「情報を伝えるなかだちとなるもの」と広く定義している。娯楽であるコンテンツはメディアという媒介を通して、私たちに届けられているのだ。

 

一次創作、二次創作とくれば、口にしたくなるのは「N次創作」というワードである。これは、初音ミクを初めとするボーカロイド文化で主に見られた現象であり、一次創作→二次創作の流れの中で、さらに三次創作→四次創作→……→N次創作が生まれるような、創作のツリー化現象を指す。

VTuberの三歩未知は自身のnoteで「VTuber初音ミクのような創作の連鎖(N次創作)は生まれるのか」という問いについて考察している。

t.co

三歩未知はVTuberが「大きな本家」であることに注目する。

「大きな本家」とは「小さな本家」の対概念で、三歩未知独自の概念である。大きな政府/小さな政府との類比により考え出されたようだ。

念のため説明すると、大きな政府/小さな政府という区別は、政府が市場にどれだけ介入するか、言い換えれば市場にどれだけの自由を認めるかという点で為されている。大きな政府は市場に積極的に介入し、逆に小さな政府は消極的である。この類比から考えるに、「大きな本家」とはおそらく、コンテンツを豊富に供給し、二次創作ガイドラインも厳しく設定するような本家(公式)を想定しているのだろう。同じく「小さな本家」も、コンテンツをあまり供給せず、ガイドラインも厳しく定めないような本家(公式)を想定しているのだと思われる。

そして三歩未知は、「小さな本家」に初音ミクなどのボーカロイドを、「大きな本家」にVTuberを対応させ、VTuberが「大きな本家」であるがゆえに、VTuberボーカロイドのようなN次創作を産むことができないのだと主張する。

しかし、このnoteには「なぜVTuberが大きな本家なのか」「なぜVTuberが大きな本家だと二次創作が萎縮するのか」といった説明が無いため、これ以上の検討が難しくなっている。

そこで、三歩未知の問い、「VTuber初音ミクのような創作の連鎖は生まれるか」を引き継ぎ、こちらで別の筋道から答えを探してみようと思う。

 

まず、ボーカロイド、特に初音ミクの創作とは何かについて考えよう。

ここでは研究者・谷川嘉宏の議論を参考に、その目立った特徴を四点述べる。

第一に、初音ミクはメディアである。谷川は、初音ミクとその創作に関して、初音ミクをメディアとして捉えるアプローチを試みている。初音ミクはメディア(媒介)であり、能動的には何もしない。創作を行うのは音楽家などの作り手たちである。

第二に、初音ミクに対する作り手と受け手の認識にはズレがある
初音ミクというメディアは、作り手には「楽器」として映る。つまり初音ミクは、作り手にとって、その独自の世界を表現するためのツールである。
しかし他方で、初音ミクというメディアは、受け手には「ミクさん」と呼ぶべき「キャラ」として映る。つまり初音ミクは、作り手の創作世界に存在するキャラクターである。

この作り手と受け手の認識のズレは、ボーカロイド創作の大きな特徴である。

第三に、最重要事項として、初音ミクの「余白」がある。谷川は初音ミクの髪型、服装、基調とする色といった要素が、コミュニティの共有するデータベースから読み込まれ組み合わされていると指摘する。谷川は「恋愛裁判」の初音ミクを例に挙げるが、MV中の初音ミクは、クリプトンが提示したオリジナルの「初音ミク」と比べると、髪型も、服装も、色彩も異なっている。たとえば髪型が「ツインテール」ではなく「おさげ」になっていることが分かるだろう。しかし、それでも「恋愛裁判」の初音ミクは、「ミクっぽい」とみなされ、初音ミクとして扱われる。

 

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これは容姿に限った話ではない。「初音ミクは仕事を選べない」と言われるように、メディアである初音ミクは、「どんな主題を歌うにせよ、どんな風に語られ、描かれるにせよ、ミク自身がそこに介入する術はない*8」のである。

そうした意味で谷川は初音ミク「器=空虚」と形容した。また、同じような意味で三歩未知も初音ミク「余白」と形容している。

つまり、初音ミク」はメディア(媒介)であることで、「初音ミクっぽい要素」を自由に組み合わせればいくらでも新たなミクが作れるような、無限に開かれた創作性を担保しているのだ。

以上三点の特徴により、もう一つの特徴が表れる。それは、初音ミクの並存性である。どういうことか。ここまで述べた通り、初音ミクというメディアに関して、その作り手と受け手には認識のズレがあり、またメディアそれ自体には「余白(器=空虚)」という無限の可能性があった。作り手が楽器としての初音ミクを用いて楽曲を作ることは当然の創作活動である。各々の作り手は、初音ミクを「カスタマイズ」しながら各々異なる楽曲を制作する。それらの楽曲が完成し、作り手の元を離れると、それらは受け手によって、初音ミクというキャラの歌だと見なされる。それぞれの楽曲にそれぞれのキャラが見出されるから、結果的に「ミク」は並存することになる。つまり、作り手が楽曲を制作するたびに、新たなDキャラクタを纏った初音ミクが出現する。「メルト」のミク、「こちら、幸福安心委員会です。」のミク、「千本桜」のミク……。ミクは同時に複数存在することができる。これは、Pキャラクタ/Dキャラクタという区別を用いて言えば、初音ミクのDキャラクタが無限に開かれていることを意味する。

 

初音ミクにN次創作のような創作の連鎖が生まれたのは、以上四点の特徴によるところが大きい。初音ミクはメディアであり、まずそのメディアを取り巻く形で作り手と受け手に認識のズレが生まれる。その認識のズレは、無数の初音ミクを並存させる。これは初音ミクの、「初音ミクっぽさ」、つまりDキャラクタが無限に開かれていることを示唆する。余白(器=空虚)の存在も、創作の自由度に貢献する意味で非常に重要だ。初音ミクがDキャラクタをほとんど全くもたないような「余白(器=空虚)」であるからこそ、様々な創作が生まれる余地があった

 

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三歩未知の「VTuber初音ミクのような創作の連鎖は生まれるか」という問いは、こうした特徴のうち、「認識のズレ」「余白(器=空虚)」をVTuberが持てるか、という問いでもある。

従来のVTuber創作を振り返れば、答えは部分的にはYESであり、部分的にはNOだ。まず、VTuberにも認識のズレは見られるが、それが初音ミクのような並存性を生み出すことはない。また、VTuber初音ミクのような「余白(器=空虚)」も持たない。

まず認識のズレについて検討しよう。

谷川の議論する初音ミクの相似形として現在のVTuberを見た時、あるVTuberVTuber人格)の作り手はVTuberを演じる人(中の人)であり、受け手はそれ以外の視聴者である*9

作り手は、VTuberをツールとして見るだろう。それは広く言えば、自己表現としてのツールである。
他方、受け手はVTuberをキャラとして見るだろう。受け手は、VTuberがあたかもそこに存在しているかのように振舞う。

このように、VTuberにも作り手/受け手の認識のズレは見受けられる。

しかし、これがボーカロイド創作のような創作の連鎖を産むわけではない。

なぜなら、作り手は一人しか存在できないからだ。

初音ミクの場合は、初音ミクが「余白(器=空虚)」だったから、作り手は無数に存在できていた。その作り手の数だけ、受け手は異なる「ミクさん」を見出すことができた。

しかし、VTuberの作り手は、中の人ただ一人のみだ。だから、受け手は一人のVTuberのみしか見出すことができない。

 

また、VTuber初音ミクのような「余白(器=空虚)」も持ちえない

中の人は、VTuberのPキャラクタと密接に結びついているからだ。

どういうことだろう。

たとえば、中の人を抜きにした「湊あくあ」というキャラクターは、間違いなくPキャラクタとして理解できる。この「湊あくあ」というPキャラクタを扱えるのは、オーディションやスカウトなどを通じて選ばれた一人のみだった。VTuberは人格を形成し、それを日々更新していくのであったが、その人格の提示は、VTuberを限りなく人間に近付ける。「VTuberの話す内容が設定の話なのか中の人の話なのか分からない」という事態は、多くの人に経験があるだろう。そこでは、Pキャラクタが中の人と「癒着」している。つまり、そこではPキャラクタと中の人との区別が、日々の人格の更新・発展によって曖昧になっており、むしろ擬制的に一人の人間と扱ったほうが都合の良いような一体感を生み出している。器という比喩を用いて言えば、「湊あくあ」という器は「中の人」の存在によって常に満たされているのである。

VTuber創作と、ボーカロイド創作との決定的な違いはここにある。

ボーカロイド、特に初音ミクの場合、作り手は無数に存在し、その誰もが初音ミクを生み出すことができた。それは、初音ミクのPキャラクタが各々のミクと独立して存在する完全な「余白」だったからだ。
しかし、VTuberの場合はそうではない。VTuberは中の人と「癒着」しており、キズナアイの分裂騒動を見れば明らかだが、決定された中の人以外の者がそのVTuberに「なる」ことはできない。可能性は開かれていない。*10

Pキャラクタと中の人が「癒着」するなら、VTuber初音ミクのような「余白(器=空虚)」はあり得ない。もちろん、二次創作は可能ではある。つまり、第三者がPキャラクタを用いて、「原作」と異なるDキャラクタを描くことはできる。しかし、そのPキャラクタには中の人が「癒着」しているから、VTuberのDキャラクタ(人格)とは全く異なるDキャラクタを描くと、「解釈違い」だとして二次創作の作者はしばしば批判・攻撃に遭う。また、成人向け二次創作も、Pキャラクタに中の人が「癒着」しているせいで、必ず中の人に配慮が必要になる。すると事実として、VTuber創作における二次創作の自由度は、他の二次創作と比べて遥かに劣る*11

こうした環境は、創作の連鎖を産んだボーカロイド創作の土壌とは程遠い創作環境であるといえる。

 

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ここまで「VTuber初音ミクのような創作の連鎖は生まれるか」という問いについて検討してきた。要約すると、VTuberは中の人との結びつきが非常に強く、「唯一性」を獲得しているため、並存することも考えられない。また、VTuber人格というDキャラクタがPキャラクタと密接に結びつく現状では、VTuberを余白として考えることも難しい。

VTuberのような創作の連鎖を産みたいと考えた時に、障害となっているのは中の人やVTuber人格の存在だろう。

 

しかし、本当にVTuberに創作の連鎖は起こっていないのだろうか。

たしかに、ボーカロイド創作と同じ仕方では起こっていない。しかし、思うに、ボーカロイド文化とは少し違うが、VTuberにも創作の連鎖は発生しているVTuber人格が自己決定に基づいて更新され、発展していくことについては先に述べた。この更新・発展という運動には、コメントやツイート、及びファンアートやファンムービーなどの、VTuber創作が関わっている。VTuberたちは、自身の人格に関連するコメントを自己決定権に基づいて選別し、必要があれば自分の人格として回収する。回収されると、人格は更新されるが、受け手(リスナー)は柔軟に対応し、新たなファンアートを制作する。それを受け、リスナーの間でお約束的に新た人格(Dキャラクタ)への言及が行われる。VTuberはまたそれを受け、人格(Dキャラクタ)を更新し……と以下続いていく。

VTuber創作には、この「二次創作の公式化」とでも呼称できるような現象が欠かせない。その現象の下では、二次創作がまるで一次創作であるかのように振舞い、元の一次創作に影響を及ぼすことが頻繁にあり得る。

 

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これはボーカロイドにも、アニメ・ゲーム・マンガのキャラクタにもほとんど無い現象だ。

ボーカロイド創作において、本家・公式をどこに据えるかは議論の余地がありそうだが、仮にボカロPを本家としてみよう。ボカロPが二次創作を反映させることは、無いとは言えないが、頻繫には行われないだろう。なぜなら、楽曲は発表されればそのままで、ほとんどの場合変更されないからだ。リミックスはあるかもしれないが、大元の楽曲を改造するようなことは無い。楽曲自身がリアルタイムに更新されないのだから、VTuberのような創作環境にはなり得ないだろう。

他方、アニメ・ゲーム・マンガにおいては、二次創作が公式化する(公式に「逆輸入」される)例がいくつかある。しかし、そこに好意的な声はあまり聞かれない。たとえば、ゲーム「艦隊これくしょん」では、公式がDキャラクタを逆輸入して不満を買った。「公式が二次創作ネタに便乗してくると冷める」という声がよく聞かれるように、「二次創作の公式化」は場合によっては嫌悪感を引き起こす可能性もあるのだ。だから、公式=本家は逆輸入に慎重になる必要があり、またこれからも逆輸入は期待されないだろう。

 

VTuber創作は以上の二つと異なり、活発に二次創作を吸収するし、それが良しとされる。「二次創作の公式化」をメインウェポンとする点で、VTuber創作は他の類似の創作と差別化される

この点は、既存のVTuber創作の大きなメリットだ。だから、私はここで、「VTuber界隈をぶっ壊せ」といった安易で物騒なことは言わない。たしかに「癒着」は問題であるが、既存の創作環境それ自体を壊す必要は無いだろう。今の体制にも、良い点は多くある。だから、「癒着」の問題を解決するにしても、界隈を壊さない別のアプローチが必要だ。

 

さて、ここまでの全ての議論を一度まとめよう。

私たちはホロオルタの位置付けを探るため、「創作」「一次創作と二次創作」「VTuber創作とボーカロイド創作」の三つについてまず検討してきた。

一章である「創作とは何か」では、創作とは①フィクションであり、②誰かと共有するものであるという一応の定義が示された。また、その定義によれば、VTuberの人格もまた創作物であることが分かった。

二章の「一次創作と二次創作」では、創作環境についての検討が為された。Pキャラクタ/Dキャラクタという区別により、一次創作/二次創作の違いがより明瞭になったと思う。

また、ボーカロイド創作とVTuber創作の違いも考察した。「VTuber初音ミクのような創作の連鎖は生まれるのか」とう問いを手掛かりに、コンテンツ/メディアという区別を用いながら、VTuber創作について考えていった。結論として、中の人のPキャラクタとの「癒着」が創作活動に制限を掛けている恐れがあることが分かった。しかし、だからといって、この既存の体制・環境を壊してしまうことは賢明でない。「癒着」の解消には、別の手段をとるべきだ。

 

 

ホロオルタの可能性 

 

では、本題に入っていこう。VTuber創作の延長線上にあるホロオルタは、どのような点で他の創作と異なるのだろうか。

先に結論から書こう。ホロオルタの特異性は、①Pキャラクタが「中の人」から解放され、誰しもがPキャラクタにアクセスできるようになること、また、それによって②並存するVTuber創作が可能になること、そして③人格の形成に失敗したVTuberVTuber創作に復帰できること、の三点にある。

 

ホロオルタとは何か、それに答える公式の文章は冒頭で引用したが、もう一度ここで引用しておこう。

 

VTuberグループ“ホロライブ” そこに所属する彼女たちの、同じようでいて違う、あるいは、違うようでいて同じ――……

そんな、ほんのすこしだけ別の可能性。これは、もしかしたら存在するかもしれない“とあるセカイを描く”、異世界創造プロジェクトです。

 

この文言は、昨今のVTuberとはまた違ったVTuberを描くプロジェクトであることを示唆している。

次にPVを観ると——既に述べたが——彼女たちが全員設定に忠実な存在であることが分かる。たとえば、湊あくあはメイドとして館で働き、紫咲シオンは魔法を繰り出し、不知火フレアはハーフエルフらしく弓を構える。

これらからホロオルタは、VTuberたちの「設定」に焦点を当てているのだと考えられる。

ところで、昨今のVTuberと、この「設定」に焦点を当てたホロオルタのVTuberは、具体的にどう異なるのだろうか。

昨今のVTuberは、中の人がPキャラクタと「癒着」していると既に述べた。この「癒着」の問題点は、二次創作の自由度を下げる点にある。二次創作者がPキャラクタを使おうとするとき、そこには必ず中の人が付きまとう*12

しかし、ホロオルタのVTuberは、そうした中の人との「癒着」から解放されているように見えないだろうか。つまり、ホロオルタのVTuberは、Pキャラクタそのものへの直接のアクセスに基づいて、中の人とは独立に創作されているようには見えないだろうか

思うに、ホロオルタの野望はここにある。

ホロライブの運営会社であるカバーがどこまで考えているのか、それは私たちの与り知るところではないが、VTuberコンテンツがユーザーの創作活動にも大きく影響を受けている以上、カバーもその創作環境に興味があるはずである。そして、もしボーカロイドのような創作環境を理想に据えるのであれば、これまで議論してきたような障害、すなわちVTuberの中の人がPキャラクタに対し一人しか存在できないことや、Pキャラクタと中の人とが「癒着」していることにも思い当たることだろう。しかし、現行の体制そのものに手を加えることはできない。それはキズナアイの分裂事件や、ゲーム部の声優交代の件を見れば明らかである。ならば、ifの世界、つまりホロオルタというパッケージを用意し、その中でのみPキャラクタに誰でもアクセスできるようにすればよい

そう、ホロオルタに期待される点は、誰しもがPキャラクタにアクセスできるような創作環境の実現である。VTuberからPキャラクタだけを抽出し、癒着性を取り除くことが出来れば、VTuber初音ミクのような「余白(器=空虚)」となることができる

「余白(器=空虚)」となったVTuberには、無数の作り手がアクセスできる。そうなれば、VTuberはキャラとして並存が可能になる

たとえば、誰でもいいのだが、ここでは宝鐘マリンを例にとろう。中の人とPキャラクタが癒着する昨今の状態においては、「宝鐘海賊団の船長」「絵が上手い」「所作が歳を感じさせる」「東方シリーズをやりこんでいる」などのDキャラクタが視聴者の間で共有されている。

しかし、VTuberからPキャラクタを抽出するものとしてのホロオルタの中では、宝鐘マリンは何にでもなれる。たとえば話し方だ。宝鐘マリンといえば「キミたち~」という呼びかけが印象的だが、ホロオルタのパッケージの中では必ずしもそうでなくて良い*13。凛々しく「お前たち」と呼びかける宝鐘マリンを考えても良いし、若々しく呼びかける宝鐘マリンを考えても良い。その声も、今の声に縛られなくて良い。たとえば有名声優の声を当ててみても良いのだ。初音ミクがそうであったように、何を喋るか、どのような格好をしているのか、どのような思想を持っているのかなど、全ては作り手の思うがままである。

また、VTuberが中の人と切り離され、誰でもPキャラクタにアクセスできるようになれば、引退したVTuberも各人の手で蘇る

引退は大別して二種類ある。

一方は、「創作物の完成」としての引退である。つまり、意図的な引退だ。哲学者のジャンケレヴィッチは「人生の意味は決してその生涯には現れない」と書いたが、死ぬギリギリまで何があるか分からないのが人生である。死という終幕を迎えない限り、人生の意味を決定することはできない。創作物も同様に、完結を迎えなければ正確な評価は下せないものだ*14VTuberの「人格」という創作物も、引退という終止符を打って初めて、真の意味で完成する。

他方は、「人格の形成失敗」としての引退である。つまり、意図しない引退だ。人格とは個人のストーリーでもある。そのストーリーを積み重ねる途中で非常に大きな失敗をしてしまえば、個人は回復不可能な状態にまで追いやられる。回復不可能であれば、その人生はそこで終えるほかない。

今回は後者を取り上げよう。ホロライブには、契約違反によりデビュー後三週間も経たずに引退した「魔乃アロエ」というVTuberがいる。辛い言い方をすれば、引退は中の人に責任がある。立ち絵に問題はなかった。しかし、現行のシステムでは、中の人が契約を切られれば同時に「魔乃アロエ」のPキャラクタもお蔵入りになってしまう。Pキャラクタには何の問題も無いにも関わらず、である。

だが、その「魔乃アロエ」のPキャラクタも、ホロオルタというパッケージの中では、中の人の「呪縛」から解き放たれる。もはやPキャラクタは中の人が引き起こした不祥事に付き合う必要は無い。「余白(器=空虚)」となった「魔乃アロエ」は並存する。Pキャラクタとしての「魔乃アロエ」は、再び日の目を見る。

 

このように、ホロオルタの特異性は、VTuberから中の人を取り除くことによって生じることが分かる。まとめると、ホロオルタに期待される事項は以下の三点だった。第一に、VTuberからPキャラクタを抽出すること。第二に、誰でもPキャラクタを扱えるようになること。第三に、引退したVTuberが再び日の目を見ること。

ホロオルタというパッケージを通した創作は、現在カバーが発表しているイラストやPVに限らない。思うに、カバーが発表する創作物を「本家」として扱うのは好ましくない。もしそう扱えば、VTuber創作は現状と同じ問題を引きずることになる。私たちはカバーの発表する創作物を、ボーカロイド創作と同様、並存する創作物の一つであると考えるほうが良い。私たちがホロオルタというパッケージ内で発表する創作物全ては、カバーの創作物と並んで立つ。そのようにあってこそ、本エントリで述べたような可能性が現実のものとなる。あなたオリジナルのホロオルタがあって良い。観るだけでなく、創ってこそのホロオルタだ

 

 

ホロオルタは、既存のVTuber創作環境を破壊することなく、新たなVTuber創作環境を作り得る可能性を秘めている。

もちろん、ここで述べたのは文字の上での話で、実際のところカバーがどのような理想を追い求めているのかは分からないし、創作の担い手であるみなさんがどのようにホロオルタに触れていくのかも分からない。ホロオルタがどのように展開していくのか、全く予想がつかない。本エントリは2021年5月の現状を踏まえて書かれていることを、留保として一応記しておく。

 

参考文献

ビデオゲームの美学

ビデオゲームの美学

  • 作者:松永 伸司
  • 発売日: 2018/10/20
  • メディア: 単行本
 

  

 

キャラがリアルになるとき ―2次元、2・5次元、そのさきのキャラクター論―

キャラがリアルになるとき ―2次元、2・5次元、そのさきのキャラクター論―

  • 作者:岩下朋世
  • 発売日: 2020/07/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

死

 

 

 

*1:たとえば一方で、「VTuberは中の人を秘匿する」という命題は、当然ながら全ての「VTuber」に当てはまるわけではないが、ホロライブを含め知名度の高い多くのVTuberに当てはまる。こういった場合には、狭義に「VTuber」と表記する。しかし他方で、「VTuberはアイドルである」という命題は、そこまで多くのVTuberに当てはまらない。そのため、そういった文脈では「VTuber」を使わず、「ホロライブ」と直接的に表記する。

*2:著作物ではなく

*3:松永伸司『ビデオゲームの美学』慶応義塾大学出版会 pp.117-8

*4:加えて、ツイートや、配信や動画につくコメントも、VTuberという虚構世界に自らを投じながら、VTuberに対して為されるという意味でVTuber創作だといえるだろう。

*5:VTuberの人格は創作物である、つまりVTuberの人格はフィクションであると聞いて、ぎょっとしないでほしい。人格を幻想だと指摘して、目を覚ませとか言いたいわけでは全くない。

*6:『キャラがリアルになるとき——2次元、2.5次元、そのさきのキャラクター論』p.194

*7:『メディア・コンテンツ・スタディーズ』p.ⅳ

*8:谷川嘉浩「初音ミクはなぜ楽器でキャラなのか」『メディア・コンテンツ・スタディーズ』p.63

*9:受け手が視聴者であるという点に異論は無いだろう。しかし、作り手に関しては異論があるかもしれない。たとえば、「作り手にはモデルのデザイナーやモデラー、またマネージャーを始めとする運営スタッフも含むのではないか?」という疑念だ。しかし、私はそう考えない。現状VTuberの身体を扱えるのは一人のみで交換不可能であり、その人はそこに人生を積み上げる能力がある。ゆえに彼女たちは自律した存在なのだから、周囲の人間を作り手に含めてしまうことは自律概念と矛盾する。スタッフなどを作り手に含めることは、肉体は共有可能だと言うようなものだ。スタッフをはじめとした人たちは、あくまでも支援者であると考えるべきだろう。

*10:念のため注記するが、冒頭で述べたように、この「VTuber」は全てのVTuberを指しているわけではない。中の人を交代させてもなお活動を続けているVTuberも少なからず存在しているし、そのことは承知している。あくまでホロライブ を中心として理解してほしい。

*11:ポルノを制作することそのものの是非は措く。

*12:これが、三歩未知が「VTuberとは大きな本家である」という表現で表したかったことかもしれない

*13:もちろんそうであっても良い

*14:この意味で、本エントリがホロオルタを正確に語れているとは思っていない。