とらじぇでぃが色々書くやつ

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主にVTuberの記事を投稿中。

【レジュメ】②(p.63〜p201)『死』V.ジャンケレヴィッチ著

第一部

第一章

3.婉曲叙法と否定的転倒

・人は死を考えることからは逃れられない。しかし死について語ることは避けられる。

ここでは、こちら側の死の名付け得ないもの、言い得ないものについて考える。

・言いえない…生の終わりの曖昧さ、不確定さによる。

・語る=あれかこれか、一義的に言うこと

このいいえなさを回避するには三つの方法がある

①婉曲叙法②否定的転倒③言い得ないことへの転向

 ③がジャンケレヴィッチのとる手段である。

 

①婉曲叙法

・死は死を必ず招く不吉なことばであるので、婉曲表現はそういうことばを避けるために使われる。(おそらく、死を良いように言い換えること)

・沈黙、黙説法

・言い得ないもの自体によって成立する

②否定的転倒(否定哲学)

・絶対的否定性をとらえるために必要。

↔類推哲学(混同してはならない!)

 ・ライプニッツプラトンの哲学。

  ・しかし、死は増加したり減少したりしない。

  ・あの世は絶対的に別ではなく、相対的に別。つまり相対的に同じ。

・死は生と対称ではない。単なる程度の差ではない。

・死が原型ではない。生が原型でもない。両者には根源的な差異がある。

 

・生と死は矛盾。矛盾は本性の違いを説明する。

 →生から死への転向がなぜ急激なものでしかあり得ないか説明する。 

・生きていないもの≠死んだもの

 ・生きていないものは決して生きたことのない物質のこと.

 ・死んだものは「もはや……ない」と言い表される。

・生と死の矛盾は、質の変異を説明不可能にするどころか、かえって質の変異の条件である。

 

・死は生の裏面で反面ではないか。

 

死の否定哲学は、生を措定しそれを否定するだけでは成し得ない。

Q.死はただ占有されていない場所なのか。

 

4.非存在と非意味

絶対的否定性(=死)の否定は難しい。

 ・神の否定は考えうる。

 ・神は純粋な贈与行為であるため存在しない

  ・たとえば発光原理そのものは明るくない

・意味を与えるものは《無》である。

 ・《無》は純粋な無ではない。

 ・それは根拠づけられていない根拠

逆に、死には神の否定性のそれ自体否定的な転位が基底にある。

・死は本質の端的純粋な否定であり、存在の端的純粋な否定だ。

 →非意味!

 ・生は根拠を持たず、死はそれに空虚を穿つ

・死は生の連続とは真逆の力と方向を持つ。

・死は基礎や根拠とは正反対

→死は生の原理ではない。

・死は結末であり終焉。

・神は天頂に、死は逆の深みにある。

 ・新プラトン主義的に、神→物質→死

・死は反真理

 ・生の原理と相互的。

 ・死は否であり、この否は生を予め措定するから。

死の逆行とはどのようなものか。

・創造は非存在を出発点とする。

・死は存在から非存在へ行く。

・死は窮極的未来の絶滅である。

また、死は窮極的絶滅である。

・この無化は全的なものであり、決定的なもの

・死は思惟を含めた存在全般を消滅させる

・感覚が無くても生きることはできるが、一方死は同時に全てを消滅させる。

 ・存在は全ての機能の根本的支え

・たしかに死は客観的には無化ではない。他人は生き延びるから。

・「しかし、わたし自身の死は、わたし自身にとっては、たしかに世界の終わりであり、歴史の終わりだ。」

 →肯定と相対的な死による否定は、すくなくともこの意味では本当に絶対的で最上級の否定。

・死は時においては連続の停止。

 

Q.非時間的でない虚無は虚無か?

・一時的虚無は無ではない。仮の非実存。

 ・永遠と瞬間は違う。

 ・死は要因にならない。

 

[ふりかえり]

無は一つのもはや無いもの。

 =あった存在の非存在

 =もはや二度と無いもの

・死は部分的では無く、決定的抹殺である。

 

理性や道徳的意志について。

・理性は生成と倦怠を考慮に入れない

・道徳的意志は非人間的な一徹さを持つ。

 

否定について

・いつまでも、決しては相対的な弱い否定。

・大文字の否は、展開を涸らす。交渉を頓挫させ、すべてを混乱に陥れる。

 →死はすべてを終わらせる。否を言う。

 

 

5.なにも言えないための沈黙と筆舌につくせないための沈黙

・死は生ける存在に日々否と告げる。

 ・自分の連続性を明白に更新する必要あり。

 ・神に対する希望、愛、自由が役立つ。

  →これらにより死の虚無に実証性が与えられる。(三重の肯定で死の否を中和する)

・虚無は視覚の秩序、無は聴覚の秩序で表現される。

・神は最弱音だが、死は絶対的な声なき沈黙

・神は筆舌に尽くし得ないが、一方で死はなにも言えない。

 ・神はあまりに膨大で言えない。死は全く言うことが無いから言えない。

 ・神は至上の詩で、そこからプロティノス的に詩が流れ落ちる。沈黙と同時に人を雄弁にさせる。

・自由も神と同じく筆舌に尽くし得ない。

 ∵自由は一つの意志から迸り出るすべての決定の潜勢的な源。(神はすべての源という話だった。)

・愛も筆舌に尽くし得ない。

 ∵愛は尽くし得ず、しばしば人を沈黙させ、ときには雄弁にし、愛する人間をみんな詩人にする。愛は創造(出産)の原因でもある。

 

・詩のような比喩の連続は、神秘のかいま見を示唆する。別の秩序のものも示唆されうる。

e.g.嬰ヘ長調からすみれ色、変ニ長調からある夏の夜

→隠喩が筆舌に尽くし得ないものを再生する。

 

しかし、死の直観はなく、非存在との一体は不可能。(神のように半分が見えるとかはできない)

 ・たとえばバラのかおりは《比類を絶して》いる。なぜなら、「それは多少なににでも似ており、すべてと類を同じくし、類の思い出を呼び起こす筆舌に尽くせない過去を想起させるから」。

 ・一方で死は、それが何にも似ていないから比類を絶する。

→死は生から示唆可能では無い。

・死は全的な壊滅であり、いかなる回顧も許さない。死は誰にも伝えられない。死は誰にも経験されたことがない。

 

ところが、いくつかの類推が、死の一直観を示唆することができるのではと自問する必要がある。

・時は直接知覚されないが、各瞬間ごとに、現在の具体的変化や連続性、前後の継続を理解させる。

・死は何を理解させるのか…?

 

・死は生を誤解させる。

 ∵死は生と記号も方向も逆。

 

 

第2章 器官-障碍

1.短き一生

先験性について語る。

・死ぬことは生まれた時からアプリオリに決まっている。

・先験性は、認識を可能にするがそれ自体は認識されないもの。光明の暗黒な源泉。

・しかし死はいかなる形でも源泉では無い。

 

・死は一つの形を強いる。その形は無形。[今までの言い換え]

・この無形への脅威が生を緊張させる。

=死を前もって知ることが、生を悲劇の対象にする。

・生と死が虚無の中に挿入される。

 

・時には貴重な瞬間、《ほとんど無》の時間がある。生命が消える手前のこと。

 ・生成の凋落、不安定さは親しい存在を貴重にする。無限の愛を説明する。

 ・そのために、永遠をほしいままにはできない。

・死の脅威によって、主体は豊饒なものになる

 =時は人間を追い立てる。

 ・ショパンのような短命のものには、その短い命のうちに全てが凝縮されて起こる。

 

2."がゆえに"と"とはいうものの"——有限性、肉体性、時間性

・死のアプリオリは、生と因果関係と譲歩関係とを同時に営んでいる。

・生は死ぬべく運命づけられている"がゆえに"はじめて生になる。

・死とは、生の障碍であると同時に器官である

 =障碍それ自体が一つの手段である。

・《とはいうものの》と《がゆえに》は両者とも二者択一。計り知れない矛盾と、生と否定との逆説的関係の説明。

・生は、死のおかげで自己を主張できる。

・器官-障碍は非一義的で無限。弁証法は通用しない。人は障碍によって生きられても器官によって死ぬ。毒によって生き、毒によって死ぬ。

・生きるために死ぬ必要がある。

e.g.身体は魂の器官-障碍。

 魂……諸器官の活動を意識することによって活動を妨げ、同時にそれなくしては肉体が屍でしか無くなってしまう生気の原理

 肉体……精神を鈍らせ、歪曲し、否認すると同時に、安定しない魂に、肉体と化することにより、肉体と化することにおいて個人としての限定された存在の機会を提供する。

・器官-障碍は器官であるよりは障碍であることがある。

 ・それは、苦痛や病気で、身体が物体に、つまり自由に対立する一つの壁になってしまうとき。

・脳は思惟の器官-障碍、目は視覚の器官-障碍、言葉は意味の器官-障碍。また、作品は創作者の器官-障碍。

・一般に器官-障碍は、単一さを失った器官のこと。

→片方は片方を必要とする。しかしその片方は片方を裏切りながら片方に仕える。

・以上のように、生殖者は自分が生んだ子どもに否認される。

器官-障碍=用具-妨害="にもかかわらず-がゆえに"

※器官-障碍はベルクソンの概念

ベルクソンは身体を、手段であるよりは回避した障碍、つまり肯定であるより一つの否定だと考えた。

・現存在は、個体性が全体性を否定するのでない。

→現存在はそのままで肯定だが、それは器官-障碍の両義性による。

 →わたしは他者でなく、他者でないがゆえにわたしである。他者はわたしの実存(サルトル的に)が選択しなかった否定。

・死の器官-障碍は、身体とは異なる。

 ・それは表面的に障碍。反省を経て器官になる。

・器官と障碍が均衡を保つ場合を時が表象する

・時と空間は対比可能

・空間は追放と分離の原理。

 ・物体が互いに独立した部分として存在し、物体が異なる場を占めるよう強要すると同時に、それらを結びつける運動を可能にする。

  e.g.海は大陸を分かつが、それは同時に陸と陸を結ぶ連絡路である。

・時間は遠ざけると同時に近づけるもの

 ・一方では瞬間の継続が、存在を一つの同じ瞬間に「存在する」と「存在した」が累積しないようにする。

  ・欠如態において、時間内存在は全的現存在と《永遠のいま》を失った状態で表現される。

 ・他方、時は自由の担い手。

  ・時は他のもの(=そうであったかもしれないもの)となる希望を表象する。

   =時間は可能性を拾い集める修復の手段

・時のあり方は人間の分別に委ねられる。

・瞬間の継続は弁証法だとも言える。

 ・可能性が現実とならないと、わたしたちは時の否定性を痛いほど思い知る。

 ・しかし同時に、それは実現の希望ももたらす。

・悲劇的状況においては、障害が器官に打ち克つ。(※失敗における絶望はその場限り。失敗は生成の故障とみなされる。)

 →死が失敗の最上級だとすれば、元来の失敗は一種の微小な死で、つねに偶発的な性格を持つ臨時の部分的悲劇。しかし、両者の距離は無限

 

単純な矛盾↔︎"ありえない-必然的なこと"のえぐるような悲劇

・矛盾という単純な悲劇……相容れないものがある相互嫌悪によって引きとめられている状況。解決可能。分離=調停という単純な解決法。

 ・生成自体がそれなりに分離。

 ・相矛盾するものはかわるがわる到来する。

  →「矛盾は、破裂するかわりに、展開する。」

・時(という生成)は矛盾をやわらげ、あらゆる傷口を癒す=悲劇の悲劇性を溶かし伸ばす=絶望を時の中のドラマにする

 

 

3.ありえない-必然的なことの悲劇性

 

・生成は悲劇的なものと共に生きる一つの道

・ありえないこととは、必然的なこと。

 e.g.「人間のやりきれない生は生ではないが、死でもない。そうかといって、生と死の混合でもない。厳密に言って、死と生の中間でもない」

・分離と共生はそれ。

・ありえない-必然的なことには、相互嫌悪の複合的な悲劇でも、相互性を書いた状況とも違う、複合された悲劇的なものが存在する。

・両者はけっして結ばれない。

・ありえない-必然的なことは、矛盾の矛盾。

 =悲劇的に悲劇的で、混乱を混沌へ導く。

 ・矛盾しているのに離れずにはおれず、近付くと矛盾のために傷つけ合う。

・別離は邂逅の障害だが、ロマネスクな情熱には愛の条件となる。この愛は妨げられなければ維持されない。

・これを仲裁する第三の原理は、分離の原則によって排除される。

 ∵どうやっても死は死でしかない

・生成にとってのありえない-必然的なこと

 ・死は生と矛盾する。

 ・肯定と否定は同時に存在しない。

 ・死は生が生きた後に生を虚無化する。

 ・死は出現するだけで存在を追い出す。

 =最も厳しい二者択一。

・奇跡的に成就するありえない-必然的なこと

 =死が即座に生を誕生させること

 =母の死と同時に子が誕生すること

  ・このとき、自身の単なる一障害に過ぎない死が、他者の器官となる。

・他者が私たちの一部である時は、死は生の器官-障碍。「死ぬ者は他者においてふたたびいきることによって自分自身より生きながらえ、そして、このもう一つの自分自身において間接的に自分を確立する」

 

・創造者は想像したものの内で見分けがつかなくなる。

 ・その瞬間においてのみ、創造の神秘が見える。

 ・しかしそれは必ず消失してしまう。

・魅力のない現在と現実のない過去の間に、魅力と現実を兼ね備えた瞬間があるはず。

・未来の連続的到達である生成は、あらゆる瞬間において、必然的な-ありえぬことを溶かす動ける解決。

 

・ありえない-必然的なことは、時の働きによって器官-障碍となる。

 ・両者は精神・肉体の共生のうちで一つになっている。

 →「われわれの耐えがたい生は、時のおかげで、まったく耐えやすい生活、ほとんどうまくいっていると言える生活、奇跡的にも生活しうる、そして、あれほどの感動あれほどの脅威にも耐えて死の終焉まで続けられる生となる」

・ありえないことが必然性に打ち克つ瞬間、心臓が止まり、綱渡りが終わり、死を迎える。

悲観主義と楽観主義の説明ができる。

悲観主義はありえない-必然的なことが常に炸裂の脅威にさらされていることで正当化される

・楽観主義は生成を存在への到来、誕生の継続とみなすことで唱えられる。

生成には否定も肯定も含まれているから。

 

 

4.選択

・ありえない-必然的なことは、選択のうちに溶解する。

・生成とは一種の、立て続けだが方向の定められていない大選択、自発的だが緩慢な選択

 →これにより性格と人物が限定される。生成の中で他となりながらも、特定のものになり続ける。

・生成は限りなく薄められた選択であり、一方選択はその急激なリズムによって加速化された生成である。[生成=時の流れは止めることができないが、任意に縮めることはできた。p111]

・肉体を持った実存は、選択の余地のない選択

 =すべてであることの放棄という越経験的な大選択

↔︎実存過程における選択…「二者択一(=実存と非実存)に対して絶望のうちに抗議するかわりにその呪いを引き受ける決意(p125)」

・選択は些細な悲劇。それは有限な存在に、宿命的状況を受け入れさせる。∵選択は現存在の越経験的な野心(選択しないとか、矛盾をそのまま引き受けるとか)を取り下げさせる。

 ・このとき、自己がさらに有限化される。

・選択は、選択されなかったものの犠牲の上に成り立つ。

 ・誤りはすべて偶然であり避けられるもの。

 ・失敗が成功の可能性と悔いとを含むなら、成功という選択は一つの形而上学的悪を措定していることになる。

 

・選択は、不幸に一種の解決をもたらす。

 ・解決=実存を瞬間を越えて延長する手段。

 ・成功=存在一般が存在する保証。

 ・希望=生存者が生きながらえる確信。

・選択は拒否を含む肯定。

・死が近づくにつれ、選択は可能性が減る。

・最後の、死に方の選択はその先が全て死であるから、それは選択を持たないに等しい。

 

 

5.局限の遡及効

・生きている存在には、生と死の局限がある。

・局限の観念は時間上の表象

・潜勢態の死がなければ現在は永遠なものとなる、しかし現に死はある

 ・ところが、瞬間瞬間では、現在は永遠のように生きられる。

  =そこに局限はもはや無い。

 

・故人は欠点を忘れられ、美化されることで模範化する。

 →死ぬことで初めて、ひとりの生涯が評定される。

 ・最後の瞬間は全てを変えうる。

=「人間実存の究竟性は必然的に回顧という性格をおび」る

・死は予測できるが、死が何かは分からない。

 ・死の予測ができることは死が何であるか知ることを意味しない

人生の意味は決してその生涯の間に現れない!

・人は無知でありながら、無知を意識できない

・死は絶対的局限。↔︎青春などは相対的局限

 ・青春は取り戻せるが死は取り戻せない。

 

・死という絶対の障碍は、生のもっとも一般的な形而上学的条件と考えられる。

・限定する形相(=死)は存在を即座に意味に満ちた傑作にする。

 ・しかし、その存在はもう存在しない。「見かけだけよい不定形の永遠(p141)」

 

・生成とは、ありえない-必然的なことの往復にほかならない。

 ・希望と絶望の往復、振動が両義性そのもの。

 ・人は誕生と死の間にただ存在しているのではなく、一方から他方への連続的な動きに乗っている。

 

 

第三章 半開

 

1.神秘の事実性

 

半開……器官-障碍と同じように、死の深遠な非一義性を表明する。

・私たちは死について半分しか知らない。

以下、知識と行動について考える。

 

Q.存在の無化は意味をなさないのでは?

Q.死はなぜ連続の停止なのか。なぜ永遠ではないのか。

これらは神秘の晦渋な根底にかかわる問題である。

・晦渋な核心と言葉で表し得る周縁の区別は、実存在に適切に適用される。

 ・晦渋なもの=存在の根、周縁=存在の仕方

 ・前者(=なぜわれわれは存在するのか)は知らないが、後者(=生き方)については無限に語ることができる。

・しかし逆も考えられる。

 ・神秘の知識とは、曖昧な知識。

  ・ある出来事が起こったと漠然に感じはするが、それだけ。

  ・「そこにあるという確信」と「あれかこれか指摘する」ことは否定し合う。

   →いかなる実証科学でも、神の諸範疇を定義することはできない!

 ・神は隠されてはいない。ほとんど隠されているというべき。

  e.g.無限はあると感じられるが、それが偶数か奇数かはいうことができない。

 ・自由は立証することができず、なにものかに還元できない。

・死は来るべき瞬間としてのみ非限定。

 

・死が来ることは分かるが、それがどのようなものかは分からない。

 e.g.日曜日は来るが、それがどのような日曜日かは分からない。

 

かいま見(=半開?)は「~こと」をしっているが「~もの」を知らない無知の知

 ※ただしこれは認識方法ではない。

 

2.死は確実、その時も確実ただし未知

悲観主義→死は確実に力点

 ・不確実さは死の確実さを裏打ちしてしまう

 ・ありえない-必然的なことも絶滅の脅威と捉えられる。

 

悲観主義にとっての「死は不確実」は人を警戒状態に置き受け身にする。

 =死を生きられるものにする(抽象的問題でなく)。

 

・「人が情熱をかたむけて死の脅威に向かう」ことが、絶望の受け身でも死の警告でもない中間の世界。

 ・このときの死の不確実さの自覚(「自分を常時死にそうな者という相の下に考える p154」こと)は、死の不意打ちを軽減するものになる

  ・自己の停止の自覚=持続の各瞬間を毒すること

  ・死から主導権を取り戻そうとする行動

→しかしこれら緩和は悲観主義にとって見かけのものにすぎない。

 

・運命論者の言うように、もし死の時が予め決められていたとしたら?

 ・人は死ぬ時を知らないだけマシ(死ぬと言うことを知ってしまってはいるが。)

  ・被造物における死ぬことを知っているがいつ死ぬか分からない状況=真理を半分知っている

 

人は半分の真理に耐えながら、全部の真理に耐えていると思っている

もし全的真理を知ってしまうと、死刑囚の絶望を味わうことになるだろう

 

 

 

3.死は確実、その時も確実

 

死がいつか分からないのに、それが決まっていると思うことは、人を煩悶とさせる。

煩悶する人が知っていること

・人が死ぬこと

・ある日ある時刻に死ぬこと

しかし、いつかは具体的に分からない。

 

↓他方、絶望した人が知っていること

・いつか分からない時に死ぬという事実=「みんなが知っているたいして重要でもないこと」

・ある日ある時刻(=時、クワンド、具体的なとある時間)に死ぬだろうということ=「知らされるべくできていないこと」

 →絶望者は知らなくていいことも知っている

 

煩悶↔︎絶望の対立

煩悶…警告がもたらした不確実性の不安による腐敗。希望と絶望を往復できる。

絶望…展開し尽くしてしまった状況。この絶望は純粋な絶望で、それ自体でしかありえない。

 

・死刑囚つまり絶望者は、時を量ととらえる。

 ・ベルクソン流に言うと、「すべてが事前に与えられている」

→未来が既に過去になっている! 生成が未来でなく過去を到来させる!

 ・未来のない過去は過去でさえない。

・絶望者に生成の循環は感じられない。

 

「無知を代償に、プロメテウスは未来の一つの幻覚をわれわれに譲ってくれるのだ。p161」

 

 

4.死は不確実、その時も不確実

 

・プロメテウスは、アイスキュロスの『プロメテウス』で「わたしは人間たちに盲目的な希望を植えつけた」と語る。

 ・この盲目は半分の盲目。

・この盲目=われわれの病(=死の苦悩?)につける治療薬、パンドラスの樽の底に残ったもの

・希望の窓口は半開。

 

・半開とは半閉。∵死は確実。

・半閉とは半開。∵死は不確実。

 

半開は開かれているだけでも大きな開口。

→「一つの生涯は未来に向かって限りなく開かれてやまない」

その扉は「希望の入口」

 

・時の不確実さは、死の確実さを疑わせしめる。「一般に死ぬということがそんなに必然なのかと疑問に思い始める p163」

→時は不確実、死も不確実

 

・死はいつも次回。けっしてこの場、ここいまではない。

=シェーラーの形而上学的無頓着、パスカルの注意散逸

 ・死ぬのはいつも他の人びと(第三人称の死)

 ・到来しないものは一つの出来事でない。

第一人称の死とは「文字どおり自分にとってはなんでもない(ウーデン・プロス・エメ)もの」

 

よって、死ぬという事実は、何かある特定の危険と同じく、避けられるものになる。

 

 

5.死は確実、その時は不確実

 

「死は確実、その時も確実」→絶望のことば

 ・死の日付が確実な状況。

「死は確実、その時も確実、だが未知」→苦悩

 ・死の日付の先定を想定した状況。

「死は不確実、その時も不確実」→空想的希望

 ・見てくれの永遠に甘んじる状況。

 

「死は確実、その時は不確実」→真剣な闘士

・この言葉のように、「こと」の確実性と「時」の不確実性が生に飛躍とバネを与える。

 =必然的とありえないの往復?

 

人は知っているもの(死の事実性)について何もできず、知らないもの(状況の様態)は大部分人間に依存する。

 =死の境界は私たちの外にあるのに、死の日付はある程度手中にある。

 =「知識にとっての開口は行動にとっての閉塞 p169」

 =無能な知(ことを知っている)と無知な力(いつか知らない)

 

 

6.事実性を前にしたあきらめ——死、苦痛、空間、自由

 

・死は限りなく伸ばすことができる。

 ∵人はいつ死ぬかにおいてほとんど全能

・死を遅らせることは不条理でない。

・死は不可避だが、個々の死は回避できる。

「いかにして、ある吐息が最後の吐息と知れよう。あとになって、あとが続かないときに、はじめて、心臓の最後の鼓動が最後と明かされるのだ」

・「死にそうな人間は未来完了形においてのみ死にそうなのだ」

・無限小の猶予は膨大な希望である。

 

・死は先験的必然で、克服できない。

・著者は死を先延ばしにすることで希望を得ようとする。

 

・諦念は、人間が有限であると同時に、寿命を延長し続け得るから発生する。

 ・「人間の運命は《柔軟》だ。つまり、限りなく延ばしうる。しかし、無限にではない。」

  ・神は細部にこだわらない。

 

・死の必然性は宿命である。

 e.g.空間の空間性、時間の時間性

→いつ死ぬかは努力でなんとかできるが、死ぬ事実は変えられない。

 

・時は調整できるが、無にすることはできない。

 

・人は個別的な苦痛や不幸に対してはほとんど全能だが、苦痛性には成すすべがない。

 

・死すべき運命は他の病と比較できない。

 

 

7.認識不可能なもの、できないもの、癒しえないもの

 

日付と事実性(=時と死の運命)

 →二種類の諦めを区分

①事後あるいは帰結としての諦め

・決定的で完全な諦めではない。

・出会いと教訓を受けた諦め

 =消極的甘受

 

②先行/先験する諦め

・前もって、そして原則に則った諦め

・後件的諦めのように失敗を基にしていない

・「運命の前に置かれたとき、自己のありうる力を断念し辞任する」

 

 

Q.死すべき運命を諦念甘受することは辞任か?

 

博愛主義流現状至上主義は前に批判された。

 ∵死ぬことを時に還元して、死ぬことに質と量を与えてしまうから。

 

諦観悲観主義

→死を一つの病、悪を一つの不幸とする好意的意志と、病と日付自体とを一つの宿命にする邪な意志がある

 ・「不可避な死を扱うべき仕方で治療しうる病いを扱い、事実性と死ぬべき運命とに対してふるまうべき仕方で日時に対してふるまう(p194)」

 

好意的意志…時を引き延ばす。

 

邪な意志…なるべく急いで死との戦いを放棄。

 

まだ力があるのに諦めてしまうのはいかがなものか。

 「有限性はわれわれの自由になんらの決定的な限界もつけず、われわれの自由を閉じ込めるべき領域を事前に限定することもない」

 

今認識不可能なものが、単に認識されていないだけでないかどうか分かるはずがない。

認識可能……限定されたもの

認識不可能……別の秩序=事実性の神秘に属する。

 

以下「できないもの」=「どのようにしても人が達成することができず、また、けっしてできないであろうもの」

 ・運命という姿を借りた邪な意志。

 ・「あまりにも早く公言された諦めは、本来、あやしいものだ」

 

邪な意志……虚偽は自由意思に無関係であるとふるまう。

 ・戦争を火山噴火や地震のような即自的災害だと思っている

 ・邪な意志の悪に対する諦めは、悪そのもの。

  e.g.過失の寛容はそのまま罪を犯すこと。

  →その悪は諦めようがない。

 ・「可能なことと未来の偶有性とを除き去ることによってあらゆる責任を除き去るえせ運命」の正当化に使われる

 

ほんとうに動かし難い唯一の運命……意志の内部で、意欲したという事実だけでつくられる運命。

  ・自己同一の原理に内在。

  ∵何かをして同時にしなかったということは不可能。

 

「自由にしたことなのだが、それをしないということがありえないという不可能性」

 ≠物質的可能性、偶発的障害に由来するもの

 →歴史の中のできごとである能力の行使に内在。

 ・被造物の先験的な無力さであり、またあらゆる肯定性の否定。

 ・意志はおこなったことを解消できても、その事実は解消できない。

「意志は厳密な意味では全能ではない。だが、すくなくとも行為している限り、そして自分自身の行為について語っている限り、当事者はみずからそう言うべきではない(p194)」

 

こういった諦念は、人間のなしうる力を無視し、人間の行為の限界と範囲とを永遠に限定することから生まれる。 ←ニヒリズム

 ↕

しかし、人間は特定の形や顕勢態の本性を持たない。

人間とは、継続して形が変わる形態なき措定。 

 

 

諦めを知らない希望 → 諦めと失望 → 気も狂うような希望 

 ・希望と失望が交互に現れて精神の振動を延長させる。

 ・そのかわりに、非一義的な一つの感情に合致することがある。

  →楽観主義と悲観主義の混合体。柔軟な運命は両者を正当化する。

 

 

8.終焉と治療

・終焉とは過去に戻れなくなることではなくて、前に進めなくなること。

・死は生を否定する(消滅させる)と同時に肯定する(形相を措定する)。一方で、誕生は生を二重に肯定する(生を限定し、また生を存在せしめる)

 

・始原と終焉は、回顧によって対となる。

 

VTuberの現世と前世は別人か? 同一人物か? : 久遠千歳とEMAの場合

 

幽体離脱のイラスト

 

 この記事ではVTuberの「転生」について、久遠千歳とEMAを軸に据えながら述べる。両者が別人なのか、それとも同一人物なのかを考えたい。

 なお、ここで取り上げる「転生」はあるVTuberからVTuberへのタイプであり、他のタイプではない。留意願う。

 

 

久遠千歳とEMA

 この記事を開いた読者のみなさんには不要のことかと思うが、念のため久遠千歳とEMAについて簡潔に説明する。

 

 まず、久遠千歳とは、2019年1月にデビューした、にじさんじ所属のバーチャルライバーである。しかし彼女は2019年8月末に引退を発表。リスナーに惜しまれながら最後の配信を終えた。

 

 

 

 その後の2019年10月、KAMITSUBAKI STUDIOにDUSTCELLが登場。そのボーカルがEMAであった。その際、有名VTuber花譜が、尊敬している人物として久遠千歳に言及したこと、また歌声も酷似していることなどから、リスナーの間では「EMAが久遠千歳の転生先だろう」と話題に。そして運営も、EMAの「転生」(移籍)自体は認めており、その点を考慮しても、久遠千歳を辞めたある人物が、EMAを演じ始めたことはほぼ間違いない。

 

 

note.com

 

 そういうわけで、この記事内では、久遠千歳からEMAへの「転生」は事実であるとして扱う

 

結論

 さて、ここでの問いは、この両者が別人か、同一人物かというものであった。

 

 この問いは、キャラクターを重視するか、人間を重視するかによって返答が変わる。久遠千歳、EMAというそれぞれのキャラクターの個別性を重く見るなら、前者と後者は別人になるだろうし、久遠千歳とEMAを演じる人間が共通していることを重く見るなら、前者と後者は同一人物ということになるだろう。

 VTuberの性格に根差した、なんとも難しい問いである。

 

 さあ、まず結論を述べよう。

 久遠千歳とEMAは別人である、と私は考える。

 

 理由は一言で言ってしまえば、「両者は記憶を共有しないから」だ。

 これは言葉のままである。別の表現が良ければ、「久遠千歳の記憶をEMAはもっていないから」と言い換えても良い。

 

反論と応答

 これだけ言ってしまえば、もちろん反論もあろう。「久遠千歳とEMAは同じ人物が演じているのに、『記憶を共有していない』はおかしい」と。

 

 たしかに、久遠千歳とEMAは同じ人が演じているし、久遠千歳であった人間がEMAを演じたとたん記憶を失う、ということはまずありえない。当然、久遠千歳を演じていた人間は、久遠千歳を演じていたときの記憶をいつでも保持できているはずである。

 であれば、私の言っていることはおかしいのではないか。

  

 いや、私が言いたいのはそういうことではない

 

 第一に、この反論がVTuberの側に立ったものであることは、お分かりだろう。久遠千歳やEMAを演じる側から見れば、記憶はたしかにあるといえる。

 

 しかし、そうではない。私はこの話題を、リスナーの側から考えるべきだと思っている。VTuberの側に立った考えは、想像や推察に過ぎない。だが一方、リスナーの側に立った考えでは、記憶の問題を想像や推察ではなくて、より強力な客観的事実に根拠を持てる。

 私はこの後も同じようなことを述べるのだが、あるVTuberのことが分かるのはそのVTuberのみだ。そして私たちはそのVTuberではない。私たちは他人でしかない。私たちは、ある特定のVTuberではない存在として、一人のリスナーなのであるこれを忘れてはならない

 だから、想像でしかないうえに知り得ないVTuberの側に考えを巡らせるよりは、実際に私たちが立っているこのリスナーという側からこの話題を考えるほうが妥当だろう。

 

 第二に、私が「久遠千歳とEMAは記憶を共有しない」と言うのは、何もそれらを演じる人間が記憶喪失に陥っているという意味ではない。久遠千歳とEMAが、それぞれのキャラクターとして記憶を共有していないと言いたいのである。

 これはVTuberの側からではなくて、リスナーの側から客観的に見た事実である。

 というのも、もしEMAが久遠千歳の記憶を持っているのであれば、彼女には久遠千歳のリスナーに謝罪するなり、そうでなくても軽く挨拶するなりの義務が発生するだろう。しかし、実際はそうでない。なぜか。EMAはその設定上、久遠千歳の記憶を持っていないからである。

 

現実世界の転生

 ここで思考実験を一つ挟んでみよう。

 現実世界に、ある男がいる。その人は、織田信長を前世に持っていることが確実だとしよう。さて、その男は、今までの戦で殺した兵士たちに謝罪する義務を負うだろうか。

 

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 答えは否である。なぜか。

 その男は織田信長の記憶を持っていないからである。

 

織田信長を前世に持っている」と言われた時、読者のみなさんは織田信長の記憶を持った男」を想像したかもしれない。事実、創作での転生はそのように描かれることが多いし、ライトノベルによくある「異世界転生」も、現実世界の記憶を持ったまま異世界に生まれることが多い*1。そうであれば、その男は墓前での謝罪の義務を負うかもしれない。

 

 しかし、記憶の移行は、はっきり言って虚構だ。死者の記憶が別の人間に移るなど、現実には考えられない。転生は死を前提とするが、死んだ人間の脳に依存する記憶が、まったく別の人間に移ることはあり得ない。

 だから、先の男は織田信長の記憶を持たないのである。

 

 ……しかし、だとしたら困ったことになる。では「転生」とは一体何だ?

 先のように「転生が記憶を継承すること」だとは思っていなかった人も、改めて問われると答えられないだろう。

 

 字義に戻ると、転生とは、ある者が死んで、また新たにこの世へ生まれ出ることであった。

 

 ここで「転生はおとぎ話です、終了」とできれば良いが、しかしここは粘って考えてみよう。前世から現世へと受け継がれるものは何か無いだろうか。

 

 そうして考えてみたとき、私は意識がそれだと思い当たった。

 

 意識?

 

意識と記憶

 ここでいう意識とは、痛いとか、苦しいとか、悲しいとかいった、その人しか感じられない感覚のことである。

 

 この感覚は、自分でない人には感じられない。また、同じく他人の感覚を自分が感じることもできない。

 

 たとえば、私が道で転んで膝をすりむいたとする。血が出た。痛い。ところでこの痛みは、私にしか感じられない。通りがかった人たちは、私の痛みを感じられない。私も、通りがかった人たちも、同じような身体構造を持っているはずなのに、しかし、痛みを感じるのは、この私だけだ。

 

 ここで言いたいのはそういう意識である。

 

 これは、その人に固有の「視点」であるとも言い換えられる。喩えるなら、カメラのレンズや、画家の視点である。写真や絵を創るために、レンズや画家は必須だが、しかしその写真や絵には、レンズや画家は表れてこない。

 

 伝わるだろうか? もしピンと来なくても、この先を読んでいたらなんとなく分かってもらえるかもしれない。永井均の著作を読んだ方なら、「端的な私」を連想してもらえばよい。

 

 ところで、付け加えだが、この意識=視点は唯一「私」にしかないと同時に、誰もが持っている。たとえば、「私しか痛みを感じない」と言ったとき、他の人は「私も痛いと感じるけど」と言い返せる。たしかにその通りで、全員が痛いという感覚を覚える。つまり、この意識は誰もが備えているのだ。しかし、現実には、この痛みは世界でただ一人にしか感じられない。「私」の痛みを感じる人間は、「私」の他にはいない。

 

 誰もが持っていながら、一人しか持っていないもの、それがこの意識なのである。

 

 そしてこの唯一の意識は、死ぬとどうなるのだろうか。一つの宗教的でスピリチュアルな発想では、この意識は魂のように漂って、また別の人に乗り移るのではないだろうか。そしてまた、世界で唯一の意識を持った人間が誕生するのだ。

 

 具体的に言えば、現実世界にいるある男の意識が、たまたま以前は織田信長のものだったときに、「その男は織田信長の生まれ変わりだ」といえるのではないかと、私はそう言いたいのである。

 

 ここで注意だが、この意識は記憶とは全く別物だ。意識が乗り移ったからといって、記憶は引き継がれたりしない。意識が移って起こるのは、世界で唯一痛いとか苦しいとかいった感覚を感じる人間が「織田信長」から、「ある男」へ成り代わることだけだ。

 

 もちろん、その成り代わった意識が以前誰のものであったか分かる人は、実際のところ誰もいない。その意識を持っている本人ですら分からない。なぜなら転生において記憶は引き継がれないのだから。なぜ記憶が継承されないかといえば、それは先に言った通り、別の人間の記憶を産まれながらに保持している、という状況は普通ありえないからだ。

 

 以上から、結局のところ、「織田信長を前世に持っている男」とは、「織田信長の記憶を産まれながらに持っている男」ではなくて、織田信長だけが持っていた世界でただ一つの意識、視点を受け継いだ男」のことだと言える。

 

 つまり、転生がもしあり得るとすれば、それは、ある死者の記憶は肉体に置き去りにしてしまって、その死者のものだった世界を見る意識=視点のみが、別の肉体に宿ることをいうのである。

 

VTuberの転生

 久遠千歳とEMAの件も、同様に、類比的に考えることができる。

 

現実世界の転生との共通点

 まず、EMAは「久遠千歳の記憶を持って生まれた存在」ではない。それは彼女の言動が証明している*2

 

 そして、「転生は死を前提とする」とさらりと述べておいたが、久遠千歳からEMAへの転生にも、引退という「ほとんど死」の現象が経由されている*3。久遠千歳はバーチャル上で死んだ存在であり、今はインターネットの外にある「生身」だけが生きていると考える。

 

tragedy.hatenablog.com

 

「生身」

 「生身*4とは、簡単に言うとVTuberを演じる何者か」のことである。また抽象的に言えば、インターネットの外にあって、リスナーにはアクセスできない手の届かない場所のことだ*5

 この久遠千歳とEMAの共通項である「生身」すなわち簡単に言うところの「演じる人」が、先ほどの織田信長の例でいう「意識」にあたる。

 意識とは在って無いようなもので、それ自体が思考能力を持つことはない。それはお分かりいただけると思う。

 それと同様に、私は、「久遠千歳とEMAを演じる人間」は思考能力や記憶を持たないと考えている。

 「はて?」と思った方も多いだろうから、順に説明する。

 

「演じる人」は無属性である

 まず「久遠千歳とEMAを演じる人間」とは、どこにいるのだろうか。もちろん、リアルの世界、すなわちインターネットの外である。もちろん彼女は人間だから、思考能力も記憶も持っているだろう*6

 しかしインターネット内においては事情が異なる

 私たちリスナーがインターネットを通して久遠千歳やEMAをみるとき、「演じる人」は背景に退いているだろう。前面にはキャラクターの画像があって、「演じる人」は外に押し出されている

 つまり、そこでは人格のみがインターネットのチェックを通過して、「演じる人」は排除されてしまうのだ。

 

 どういうことか。

 

 Twitterが一番分かりやすい。

 Twitterではみんな思い思いの画像をアイコンに設定する。それはネコだったり、リアルの女の子だったり、少女のイラストだったりするだろう。読者のみなさんも多くはTwitterを利用していると思うが、みなさんのツイートはそのアイコンとともに発信されるわけである。すると、そのアイコンは次第に、アバターのような役割を果たすようになる。最初はそうではないかもしれないが、呟いているうちにイメージがフォロワーに植えつけられていって、時間が経てば、まるでそのアイコンがツイート内容を喋っているように感じられる。このとき、前面にはアイコンがあって、リアルの人間は押し退けられている。つまり、実際呟いているのはリアルの人間であるにも拘らず、受け手にとってはアイコンの少女が呟いているように感じられるのだ。

 

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無表情の少女が「草」と言っているように見え、大変シュールである

 

 そういったように、私たちは久遠千歳やEMAを観るとき、実際に考えたり喋ったりしているのはリアルの人間であるのに、あたかも久遠千歳やEMAが考えたり喋ったりしているように感じているのだ*7

 

 つまり、「久遠千歳やEMAを演じる人」の人格や記憶などは、久遠千歳やEMAの人格や記憶などとして現れていると言える。

 

 そうして、人格や記憶をキャラクターに吸収された「演じる人」は、先に説明した意識のように、ただ世界を見る視点としてのみ働くのである。

 

 

溶け合って生まれる人格

 ところでその「演じる人の人格が久遠千歳やEMAの人格として現れる」とは、どうすれば認知できるのだろう。というか、私たちは「この表象は演じる人に由来する」などと知りうるのだろうか。つまり、にじさんじのようなVTuberたちの、とある言動が、演じる人に由来するのか、はたまた設定に由来するのかを、私たちは判別できるのだろうか

 

 私はできないと考える。

 

 たとえば久遠千歳には久遠千歳というキャラクターの設定と人格があった。加えて、「演じる人」の人格もそこに存在している。つまり、久遠千歳には、「生身」から派生した「演じる人」の人格と、「キャラクター」の人格が2つ同時に存在することになる。

 しかし、この両者は一見したところ区別がつかない。なぜなら、この2つの人格は混ざり合い、溶け合うからである。

 

 どういうことか。

 

 たとえば委員長(月ノ美兎)の「もつ鍋とビール」は委員長の最初の設定に反する発言だ。高校生はビールを飲めない。ゆえに、私たちの多くは、「おそらく高校生ではない、委員長を演じる何者かの嗜好が不意に出てきてしまったのだ」と考える。これは委員長およびにじさんじの自由なスタイルからいえば、自然な発想といえる。

 しかし、逆も考えられるのではないか。というのも、世の中には、飲酒する高校生も存在するのである。法律上望ましくはないが。だから、逆の考えでは、「委員長は事実高校生だが、背伸びをしてこっそりと飲酒している」となる。その密やかな飲酒がバレてしまったから、委員長は誤魔化しを挟んだのではないか、と。

 

 

 

 これら解釈に名前をつけるなら、一般的な前者は「中の人連想」、やや穿った後者は「設定連想」といえるかもしれない*8

 

 だが、どちらが事実であるかは不可知である*9。ゆえに私たちにわかるのは、「委員長*10はもつ鍋とビールが好きだ」という事実のみで、それ以上でもそれ以下でもない。「演じる者の人格」と「キャラクターの人格」のどちらが今の言動に表れてきたかを明言することは、私たちにはできないのである。両者は明確に境界線を引かれて別個に存在するわけではなくて、委員長の中では綺麗に混ざり合って存在している。

 そうして二つの人格が溶け合った結果として、委員長という一個の人格が生まれるのだ*11


 委員長と同様に、久遠千歳においても、「演じる者の人格」と「キャラクターの人格」の両者が合わさって、久遠千歳という人格が成立していると言える。

 

溶け合って生まれる人格の帰属先

 少し振り返ると、私はこの記事の最初で「この問題はキャラを重視するか人間を重視するかで答えが変わる」といった。しかし、今示した通り、その両者は私たちリスナーの前には一体となってしまっている。そのため、そもそも問いの前提となっていた両者の判別が厳密には付けられず、解答できなくなってしまった。

 

 するとこの問いは、また別の問いに更新される。

 

 この混ざり合いの末に生成された一個の人格が、久遠千歳(EMA)に所有されるのか、演じる者に所有されるのか、という問いだ。

 

 この生成された人格は「演じる者」と「久遠千歳」が少しずつ人格を出し合って生まれたようなものである。だから、どちらに所有権が発生するのかは考える余地がある。

 

 そして私はこの場合、これら人格は一旦、久遠千歳のものであると見なすべきだと思う。何せ二つの人格の見分けがつかない以上、それらは、「演じている何者か」よりは、その言葉が発せられる口のついた、久遠千歳のものであると考えるべきだ。口というのは重要である。なぜなら、私たちは他人の口を視認し、そしてそこから発せられる言葉をもって、その人のことを知るのであるから

 

まとめ

 そういうわけで、インターネット外に在る「演じる人」は、久遠千歳やEMAの無属性的な、世界を見る視点としてのみ働き、その「演じる人」はインターネット内の存在である彼女らに対しては記憶や人格も持たないといえる。記憶や人格は、久遠千歳、EMAといったキャラクターそれぞれが独自に保持しているのだ*12

 

久遠千歳とEMAは別人:再反論

 このことから、「キャラクターを演じる人物」という共通項からは、久遠千歳とEMAの同一性を主張できないことも分かる

  演じる人物は無属性であり、偶然共通しているにすぎない。溶け合う人格は久遠千歳(EMA)に帰属し、また再三言っている通り、久遠千歳とEMAは記憶を共有しない

 

 たしかに、久遠千歳とEMAを演じる人物は、偶然にも同じである。しかし、その言葉が発せられる口はその演じる人物に付いているのではなくて、久遠千歳とEMAそれぞれに付いているのだ。たしかに、もし私たちがモニター越しの光景を想像すれば、喋りは同一人物に帰属してしまうだろう。しかし、私たちが見ているのはモニターの向こう側の景色だろうか。、その手前、前面である。私たちはモニター上でVTuberが発話するのを聴くのだ。


 私が言っているのは、要するに、「久遠千歳は久遠千歳であり、EMAはEMAである」というごく当たり前のことである。

 

 繰り返しになるが、これに対して、「でもやっぱり、事実としてEMAの前世は久遠千歳ではないか」とそう言う人もいるかもしれない。たしかに、前世は少し調べれば分かる。VTuberの前世はネットにいくらでも漂っている。だから、あなたたち(私を含め)は彼女の前世を知っている。ネットという不思議な力で、見通すことができる。だから、EMAの前世は久遠千歳で、彼女もそれは受け入れるはずだ――

 

 いや、待ってほしい。

 

 織田信長が前世である男の例を思い出してもらいたい。そして今回は読者のあなたも登場する。あなたは前世占い師だ。占った人の前世が分かる能力があり、それは実際に正しい。そしてマジカルなパワーで、君はある男の前世が織田信長であると見抜いた。そこで君は言う。

 

「あなたの前世は織田信長だ!」

 

 ……彼はキョトンとしたあと、吹き出した。笑っている、馬鹿にしたように。君は力説するが、彼はもう構わないでくれと離れていく。

 

 当然である。なぜなら、彼は織田信長ではないし、そんな記憶も無いから! 彼は彼でしかない! 彼は彼の人生を生きているのだ、誰が前世占い師の話など聞くだろうか。

 

 つまり、私たちはいわば神の視点にいて、なぜかEMAの前世を知っているのだ。しかしEMAのほうは「誰が自分の前世か」など知らない。転生は事実だが、しかし記憶は引き継がれないから。だから、「私はお前の前世を知っているぞ!」と叫んでみたところで普通は気持ち悪いだけだし、得体の知れない前世で崇められても怖いだけだろう。いや彼女がそう思っているかは分からないが、一般的にはそうだ*13。たぶん。

 

 

総括

 

 今回は転生について書いた。

 久遠千歳とEMAという、公式も半ば認めている「転生」の関係を取り上げさせてもらい、「両者は別人である」という私の考えをなんとか示せたかと思う。

 この発想は、設定の(ほぼ)存在しないねこます氏らのタイプを除けば、他のVTuberにもある程度適用できる、かもしれない。

 

 最後に念のため書いておくが、この記事で述べたことは全て私個人の考え*14であり、読者のみなさんを強制しようと試みたものではない

 また、注釈をいくつか入れているので、時間があればそこも読んでいただければと思う。

 

 

 何はともあれ、EMAに多くの幸があらんことを祈るばかりだ。

 

 

参考にしたもの

 

存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)

存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)

 

 

lichtung.hateblo.jp

 

ecrito.fever.jp

*1:多いというか、すべてそうだろう

*2:たとえば、彼女の自己紹介では久遠千歳に触れられることはなかったし、今後触れられる様子もない。もし記憶があれば、遠回しにでも話題にするものではないか?

*3:先の記事で、私は引退を、「死刑までは行かない、仮出所の可能性がある無期懲役」と喩え、「引退≒死」、つまりほとんど死であるとした

*4:VTuberの見えない領域 ~魂と生身〜 - とらじぇでぃが色々書くやつ

*5:「久遠千歳/EMAの生身」といえば、それはインターネット外に存在していて、両者の橋渡し的基盤として働く、とある人間のことを指す。しかし、この「人間」とは、特定の人物のことではない。決して、例えばSさんといった一個の人物を指すのではない。もしそうなら、「演者」や「中の人」といった言葉で事足りる。しかし私が言いたいのはそうではなくて、インターネット外にある本人以外には未知の(いや本人にも分からない場合も多いだろうが)、VTuberを動かすいわばエネルギーのようなものを示したいのである。たとえば、この「人間」は一人でなくても良い。ネットの外では複数人が台本を考えていて、VTuberはその台本を読んでいるだけという例もあろう。「演者」や「中の人」はそれに対して混乱するが、「生身」は混乱しない。そこにメリットがある。また、「生身」は「演者」をVTuberと同列に組み入れる。ウェザーロイドのポン子は演者が誰であるかほとんどの人に知られているが、この時、演者=生身ではない。「生身」はインターネットの外にある。だからこの場合は演者とポン子の共通項であり余剰であるその思想信条や無意識が生身となる。

*6:人間でないなら話は別だが……

*7:そしてそうやって立ち上がる虚構は、ほとんどのVTuberに共通のお約束だろう。

*8:「高校生だった時に……」といった失言に対しても、かなり苦しいが後者をとることもできよう。

*9:場合によっては、ネット上に中の人の情報が存在し、検証可能な場合もあるだろう。しかし、たとえその検証で「中の人連想」とVTuberの発言が合致しても、「設定連想」の否定とはならないだろうし、ゆえに「中の人連想」を真とも言い切れない。

*10:二つの人格が溶け合った結果生まれる人格としての委員長のこと。次の段落で述べる

*11:私の理解が正しければ、これはナンバユウキさんの言うメディアペルソナと同じだと思う。

*12:もちろん見かけ上であるが

*13:これは「一般的な反応はこうだろう」と書いたまでである。さすがにEMAに対して直接久遠千歳について問うのは様々な面で問題があるが、「久遠千歳が好きだからEMAも好きだ」という考えは直感的で自然であるし、私も直感的にはそう思う。

*14:意識や記憶、そして転生のアイデア永井均先生からお借りした。この箇所はそのオリジナリティを主張するものではない

カラオケって採点無くても楽しいんだね

 

 カラオケ、やってますか。私はカラオケが好きでよく行くんですが、今は「採点」という面白いコンテンツがありますよね。歌唱の音程やら声量やらビブラートやらを計測して点数をつけてくれるあれです。テレビ番組で見た人もいるんじゃないでしょうか。DAM精密採点ってやつです。そういうのもあって今採点は知名度もかなり高いでしょうし、今やカラオケに欠かせないコンテンツと言えるかもしれません。

 

 かくいう私もまた、カラオケで採点を付けない日はありません。大人数でもヒトカラでもそうです。部屋に入ったら即、精密採点送信。そいで歌って、で、ちょっと良い点が取れたら写真を撮ってTwitterに上げてみる、みたいな。

 

 そんなカラオケライフを送ってる私ですが、大学のサークルで行ったカラオケでは唯一採点を付けません。本当は付けたいと思っていたのですが、サークルの中では私が一番年下なので好き勝手はできません。みんな採点無しで歌うので私も採点無しで歌いました。最初は物足りなく感じていたのですが、何周かして気付きます。なぜか、やけに楽しいのです。はて、と思いました。私に充実感をもたらしていたはずの採点は無く、あるのはサークルのみんなの感想だけ。なのにそれ相応か、それ以上に楽しい……。

 そのときは、「採点の無い歌いっぱなしのカラオケも新鮮で意外に良かったな」と思うのみでしたが、今思えば、採点というのはいくらか私たちの楽しみを抑制する面もあったのではないでしょうか

 

 というのも、採点は①あらゆる歌声を数字に還元してしまいまた歌い手と聞き手を一対一で完結させてしまうからです。

 

 順に見ていきましょう。

 

 まず前者から。前提として、採点というのは、あらゆる歌唱を全て数字の上に判定します。なので、Aくんの歌唱も、Bくんの歌唱、同じように点数が付けられます。Aくんの歌は86点、Bくんは91点、というように。しかし、よく考えてみると、Aくんの歌も、Bくんの歌も、特徴や長所の異なるまったく別の歌唱ですよね。にもかかわらず、採点ではこれが同じ数字の上で判定されるのです。なので、二人が同じレミオロメンの粉雪を歌って、全く声色も違うしアレンジの仕方も違うのにもかかわらず、全く同じ点数が判定されうるのです。

 そして、私たちが採点有りの空間で気にするのはやはり点数です。「おー上手かったな。さて何点だろう」という具合に。それで一喜一憂するのが、一つのカラオケの楽しみ方でもあります

 しかしながら、それは個々の歌唱を軽く見ることも同時に意味します。あらゆる歌唱は機械のつける点数という抽象的なものに上方解体され、たとえばAとBの歌唱は、「AくんのLemon」「Bくんの白日」ではなく、「Aくんの93点のLemon」「Bくんの98点の白日」になるのです。これが、採点がもたらすあらゆる歌唱の数字への還元です。

 なかには、「採点があっても、その人の歌はしっかり聞いてるし、その証拠に感想を伝えたりする」という人もいるかもしれません。たしかに採点があっても、私たちは実際その歌を聴いています。しかし、人々の間には「機械は間違えない」という了解がありますから、その感想は点数や、音程バーの一致・不一致に上塗りされてしまうのです。個々の感想は確実ではありませんが、点数は確実です。なのでその感想もやはり、点数を下地にしたものになってしまいます

 一方で、採点が無い空間では、周囲の感想が機械の評価に成り代わります。「AくんのLemon、ビブラート上手かったな」「Bくんの白日、めっちゃ高音出てたな」といった感想が、そのまま各歌唱の「点数」になるのです。そこでは、歌唱が採点のモノサシに回収されることなく、そのままの歌唱として聴衆に受け入れられます。そこが良い点だと思うのです。

 

 また、採点は、歌い手と聞き手を一対一で完結させてしまうという問題も孕んでいます。

 ところでヒトカラって急にブームになりましたよね。あれ、私はカラオケ採点が無ければあんなに流行らなかったと思ってます。

 というのも、「私の歌」に対して、機械がひとりの聴き手になってくれるからです。他のなんでもそうだとは思いますが、歌は聞いてくれる人が居ないとそんなに楽しくないし、何時間も続けていられません。ヒトカラで採点無しで歌い続けるのは、なんというか苦行に近いように思います。それを解決してくれるのが、完璧な聴き手である採点クンです。音程が何パーセント合っているか、ビブラートがどれだけできているか、高い音は出ているかなど、歌い終われば全部こちらに提出してくれます。しかも疲れて寝てしまったり、途中でスマホを弄ったりしません。ずっと付き合ってくれます。間違いなく理想の聴き手です。

 しかし、採点クンは二人以上の場では少し厄介です。なぜなら、先ほど言ったように、採点クンは理想的な聴き手です。なので、彼の聞き手としての態度と、確実で的確な感想と分析の前には、同伴者の存在など、相対的に無に等しくなってしまいます。極論を言ってしまえば、一緒にカラオケに来た友だちはいなくても構わなくなるんですよね。いやもちろん不要ってわけでは無いんですが、先ほど見たように結局他の人も採点クンに追随するので、その場にいてもいなくてもそんなに変わらないという。

 これは英語の文法にアナロジーを持ちます。英語は主語と述語があればそれで一文が完成するみたいですね。そしてそれに対する副詞は、意味はあるけど一文の成立には不必要な部分です。なので類比的に言うと、主語と述語に歌い手と採点クン、そして副詞に他の聴衆があてはまります。つまり採点のある場では、歌い手と機械の完成した関係に、同伴者がただ付け加わることになるのです。

 一方で、採点のない場では理想の聴き手なる者はいませんから、みんなが一番の聴き手です。なのでみんなが自由に、抱いた感想や余韻を噛み締めることができます。ここが私の思う、2つめの良い点です。

 

 そういえば、採点の無い空間では、採点の有る空間より、けっこう雰囲気がのびのびとしていた気がします。

 

 しかしもちろん、採点には採点の良さがあって、私はここでどちらが良い・悪いと言いたいわけではありません。特にヒトカラは採点がないと楽しさ半減だと思いますし。

 でも、大人数でカラオケに行くときは、たまに採点を切ってみるのも、楽しいかもしれません。

 

 

グッズが遺品になるとき

 

「これが——生だったのか」わたしは死にむかって言おう。「よし! それならばもう一度」と。(ニーチェ ツァラトゥストラⅡ 中公クラシックス p373) 

 

 

 

 VTuberは引退する。遅かれ早かれ、必ずである。例外はない。引退しないVTuberは、人間という存在から完全に離れたもの以外あり得ない。仮に演じる人間を何度すげ替えたとしても、彼らはいつか引退する。AIですら、人間が運営している限りは引退があり得る。これは間違いない。

 

 * * *

 

 2019年5月。蒼月エリが引退する、そう聞いたとき私は多少のショックを受けながらも、「ふーん」と流していた。別に気にすることも無いと思っていた。私は二次元キャラが好きだが、「推しができた」とか「ガチ恋」とかの気持ちは分からなかった。私は名取さなの言うところの、中途半端な、オタクになりきれないオタクなのだろう。

 しかし、蒼月エリは事実として、ハニーストラップにとってかけがえのない1ピースであった。彼女が引退してからそう気付くと、途端に気持ちが落ち込んだ。ハニーストラップの姉妹グループ、あにまーれから引退が出たとき、悲しんでいた人たちの気持ちが分かった気がした。

 

 * * *

 

 私の端末には、蒼月エリの「蒼い蝶」が入っていた。少し辛そうにも聴こえるが、しかし力強い歌声。お気に入りの曲だった。いやもちろん今も気に入っているのだが、しかし、彼女が引退した今では、胸に切ない気持ちがこみ上げる。

蒼い蝶

蒼い蝶

  • 蒼月エリ
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

 * * *

 

 最近、VTuberと死について考えているVTuberの引退は死である」とはよく聞くテーゼだが、それは比喩以上の説得力を持っている気がした。そうしてあれこれ考えていると、蒼月エリが引退した後残されたこの蒼い蝶は、遺品という位置付けになるのではないか、と思うようになった。

 

 ところで、なぜVTuberの引退は死なのだろうか。

 よく「引退は死だから悲しい」とか「引退という死には種類がある」とかいったことを聞くが、なぜ引退は死なのか書いた人はまだいないように思う。なので軽く触れる。理由は三点

 

 まず、死は絶対に訪れ、そして死者は絶対に復活しないことがある。知っての通り、死から生が帰還することはない。死んでしまえば終わりである。

 

もし死者が生き返ることができ、そしてもしこの死者の死が単なる一時的中断であったならば、それは(……)その死はすこしも死ではなかったということを証明することになろう。せいぜい長い冬眠か、ちょっとした気絶、なにか麻痺か潜勢化のようなものだ。 死 V.ジャンケレヴィッチ みすず書房 p83

 

 その意味では、実はVTuberの引退は死ではない。引退から舞い戻った笹木咲はゾンビではなくて、実際にまだ生きていると私たちは思う。それに引退が死だとしたら、復活はできないはずだ。だから、引退=死ではない

 

 しかしながら、引退からの復帰は困難を極める。個人勢ならまだしも、企業勢の引退は、言い換えれば退社だ。退職願を出した会社に戻りたいと思う人が一体何人いることか。

 また、引退はファンをひどく傷付ける。たとえば近親者が亡くなったとき、私たちは深い悲しみに打ちひしがれる。そこから立ち直るには、とても長い孤独の時間と、膨大な心的エネルギーが必要だ。いなくなった存在と心の内で対話して、なんとか、なんとか死を受け入れていく……。そういったように、引退はファンに莫大なリソースを消費させる。そうしたファンの姿を見ながらも復帰するのは、なかなか難しい

 だから、私は引退とは近似的な死だと思っている。たとえるなら、死刑に対する無期懲役だ。死刑は死が確実だが、無期懲役はわずかに仮出所の可能性がある。これは「引退=死」論ではなくて、「引退≒死」論だといえる。

 

 また、VTuberの引退が死に思えるのは、その特性にも関わっている気がする。VTuberは、私たちと同じ時間軸に存在するキズナアイは、バーチャルYouTuberについて次のように言う。

 

たぶんアニメのキャラにはその意味*1で「実在する」とは言えないのかもしれない、なぜなら同じ時間軸を生きていないから。本当のパーソナリティというのは、リアルタイムに同じ世界に存在していると認識できることだと思うんです。 ユリイカ2018年7月号 キズナアイインタビュー p35

 

 アニメやマンガのキャラクターの死は確かに死だが、それはいわば閉じた死である。そのキャラの死は、どこか別のところで、別の時間に起こった死で、フィクションの域を出ない。また、マンガの完結もキャラクターの死を意味しない紙の上の物語は、「今ここ」には無い。また、時間軸がそこだけで完結しているから、マンガが終わっても、その物語は時間が止まるか、永遠に続くかで、死を迎えることはない。キャラクターの死は想定できるかもしれないが、連載終了が直ちに死を意味したりしない

 しかしVTuberは、私たちと時間を共有する。だから相互的関係(双方向性)が生まれるし、彼ら自身がTwitterで呟いても違和感がない。彼らは、私たちと同じく生きているのである。だからこそ、引退という消滅は、死と形容される。完結が、直ちに死になるのだ。死は訪れた後何も残さない。無が広がるのみである。

 もちろん例外もある。先ほど触れた笹木咲や、たびたび夢月ロアの雑談に登場した「友だち(おそらく引退した久遠千歳)」などである。前者は復活であったが、後者は「生きていることの暗示」だ。後者をどう考えるか。たしかに暗示されてしまえば、「今どこかで生きている」ことにはなる。しかし、その「生きている」のは誰なのか? 久遠千歳だろうか。そう考えることもできる。否定はしないし、むしろその方が微笑ましくて良い。しかし一方で、私たちの知らない、VTuberでない「中の人」が生きているとも考えられる。もし「引退≒死」から考えるのであれば、そういう解釈になる。死とは消滅であり無になることだ。VTuberは消滅してしまっているから、そこで言われているのはネットに出てこない中の人である*2。とはいっても、久遠千歳と中の人は同じ人物でもあるから、些細な差ではあるかもしれない。

 

tragedy.hatenablog.com

 

 話が複雑になってきたので次に移る。

 

 また、引退は突然であることも根拠になる。死は絶対に訪れるが、それがいつかは分からない。同様に、全てのVTuberの引退は現状間違いないのだが、それがそれぞれいつなのかは分からない。今月中か、来月か、半年後か、5年後か、場合によっては200年後か……。それは分からない。

 ただ、引退がいつか、本人には分かるということが、一つ矛盾するところではある。死は自分で定めることができないからだ。自殺? そう形容したければしても良いが、あまり気持ちの良い表現ではない。ともかく、引退の日、時刻は本人が決め得るということが、死とは異なる点である。

 しかし、リスナーにとっては(そして今ここではまさにリスナーにとっての話をしている)、引退はいつか分からない。第三者であるリスナーが引退の日取りを決定付けることは絶対にできない。引退は突然訪れ、私たちはその別離によって、深い悲しみに突き落とされる……。その意味で、リスナーにとっての引退は死である

 

 * * *

 

 先日、なんとなくにじさんじの東京タワーくじを引いた。

 

 

 普段はグッズを買ったりしないのだが、本当になんとなく、夢月ロア目当てで5回。缶バッチで夢月ロアが出た。

 喜んだのも束の間、蒼月エリと蒼い蝶のことが頭に浮かんで、消えて、虚しくなった。夢月ロアが引退したらどうしよう。当たったこのグッズが、また遺品になってしまうじゃないか。もう、ふと目にして悲しくなるようなことは嫌だ。

 買わなければ良かったと後悔した。グッズは2月に届くという。長すぎる。もっと早く送ってくれないか。

 ……でも、思えば、遺品にならないものの方が少ない。私の祖父はいつまでも居るような気がしていたが、認知症で行方不明になり、亡くなった。捜索願を出しては帰ってくることの繰り返しを見ていたから、薄々そんな気はしていたが、本当に死ぬとは思っていなかった*3。休みのたびに行くのが楽しみだった祖父母の家が、途端に変わってしまったような気がした。いつも祖父が座っていた座椅子や、いつも使っていたペン、いつも見ていたテレビ番組、全部見るたび切なくなった。

 今生きている私の両親も、間違いなく死ぬ。そのとき、両親の周りのものはみんな遺品になる。

 ロアちゃんだって、ずっといるわけではない。演じる人の体が持たなくなれば、VTuberの体も持たない。そうしたら引退だ。グッズが遺品になるのは、仕方のないことだ。そう割り切るしかないんだろう。人間の宿命だ

 

 しかし、死をプラスに捉える仕方もある

 哲学者のジャンケレヴィッチ曰く、「人生の意味は決して生涯のうちに表れない*4らしい。たとえば元号の数少ない意義の一つに、「区切りをつける」ことがある。そうすることで、「昭和とは」「平成とは」と、それぞれの時代を語れるようになる。そういったように、人が生涯を終えることで初めて、残された人間は、その人がどのように生きたかを語れるようになる。死があるからこそできることがある*5

 

「引退=死」でよく言われる「語り続けているうちは生きている」「忘れないうちは死んでいない」は、はっきり言ってしまえば死からの逃避、一時的な慰めだろう。もちろんそれもある程度必要だが、それが到達点ではない。そうではなくて、死んでしまったからこそ語るのだ私たちの時間軸から消えてしまった、もう生きることのない存在について、事後的に語ること、これが私たちにできることだいなくなってしまったからこそ、言えることがあるはずなのだ

 

 冒頭の「これが生だったのか。よし!それならばもう一度」は、ニーチェの言葉で、いわば現在を肯定する合言葉だ。人生は虚無に満ちているが、しかしあえてそれを肯定していく言葉である。それは容易いことではない。しかし必要とされているのはその、もう一度」言える強さなのだろう。

 

 

*1:前述に、キズナアイの写真集を入手した人たちは、それを画集ではなく写真集として捉えるが、それは彼らがキズナアイをたしかに存在するものと考えているからではないか、とある。

*2:つまり過去記事でいう生身に属する部分だ

*3:思うに、「本当に」が大事だ。

*4:死 p136

*5:否定神学ではあるが、死にはこういうものが必要だとも思う

【レジュメ】①(p.1~p.62)『死』V.ジャンケレヴィッチ著

 

これはレジュメというか、私の思考メモとして書いたものです。

読んでもさっぱりだとは思いますが、一応ネットにアップしておきます。

 

 ***

 

死の神秘と死の現象

・死は哲学の問題なのか。

 ・《自然学》における死→はっきり分かる。悲劇性取り除かれ神秘性無し

 

1越経験な悲劇と自然な必然性

(著者は死を神秘的なものと考えている)

 ・宇宙論流の普遍化=「死を些細なこととみな」す

 ・合理的省察=「死を概念化して、その形而上学上の重要性を蔑視」する

 

①死は「越経験的な断絶」であり、以上のような考え方は「観念上の永遠のうちにごまかしこむ」行為。

②また死は同時に悲劇的で、置き換え不可能なもの。

死の性格はこの両者の矛盾に由来。「越経験的でありながら経験界のただ中で身近に到来する」。

e.g.)死は一方では新聞の記事(時間と空間の限定)、他方では「他の雑事のいずれにも似ていない」「他の自然現象と尺度を異にしている」。

これは奇跡のようだが、ただし、二重の制約↓

①死は消滅と否定。

②死は奇跡でありながら普遍的な自然現象。

「死はいみじくも"秩序を逸した秩序"だ」(生の途上の些事とは別の秩序で動きながら、それ自体秩序的)

「絶対とは、生命とはまったく異なった秩序に属する」

 

Q.なぜ死は人を驚かせるか? なぜ死は法外か? 至って正常な出来事である死がなぜ好奇心と戦慄を呼び覚ますのか?

→愛や訪れる春のように、死も若いから=何度も繰り返されてきたことだが、"その"死はまた新しいもの。

 →ここから身近さと疎遠さの混合が生じる。

  ・物理学では神秘性を無視してしまう。

「神は絶対的に遠いものだが、死は遠くして同時に近い。」

   ・自殺の誘惑について。

「夜中に訪れるべき凶報と、すでに襲った悲劇をいまだに知らぬ家族の平和な幸福との間、気遣う無意識と幸福な無頓着の間には、ガラス戸があり、庭があり、そしてこの暗黒の厚みがある。」

・「人間は時に自然法則のみを考慮して神秘を無視し、時には現象を無視して神秘の前に跪く」→この矛盾がまやかしを助長し、根拠のない特権が、自己の死を隠蔽してしまう。

 →しかしそれが死を考える最低条件(理屈には合わないが=死は全員を襲う)

 

Q.死すべき運命は非個人的な一特性か?

 →たしかにそうだが、近親者に対しては躊躇いがある。近親者は"人間一般"ではないと感ずる。人の死は機械的には現れない。死は死に、説明のつかない新しいものを付け加える。そしてそれらが証明されたことはない。

 →しかし死という真理は不死であって、証明されなくても存在し続ける。e.g.正義と人間の行為

 →それでも私たちは過去に確認されたはずの死を何度も確認する。死の真理とは「実際の死がわれわれに再考の機会を与える不透明な宿命」

 

 

2.真に受けること——実効性、即効性、身をもっての関与

 

・このような、自身が死すべき存在であるという発見は驚きである。

 ・「すでに潜勢的に、そして実体上自分でもあるのに、顕在的になることができるようなものだ。」[振り返り]

・近親の死は知っていた以上のことを教えない。しかし、国語には無いなにかを与えはする。

・死を「真に受けた」人間の自覚の貢献には3つの相がある。

①実効性(↔︎可能性)

「死の深刻さを自覚すること、それはまず抽象的で観念的な知識から実際の出来事へと転調すること」「違った秩序への移行(メタバシス・エイス・アロス・ゲノス)」

②即効性

実効性の時間上の形。

自己の死=けっして訪れない未来、しかしそれがもうすぐ訪れてしまう。

「準備されていた不意打ち」

③身をもっての関与

「人が《自分の番》が来たと実感する(=瞬間に直観する)とき、その人間は死に即刻呼ばれていると感ずると同時に、みずから身をもって関与していると感ずる。」↔︎"ふりをしている"脅威

・死の三段論法は正しいが、自分自身にそれを適用するとき直面しなければならない苦痛をすこしも免除しない点では間違っている。

・端的純粋な自分=冠詞無しのわたしは「特権的な一人の人間」=情念に由来するもの

・"私の死"は理性である哲学にとっての些細事

 

 

3 第三人称、第二人称、第一人称態の死

・死には何かしらの還元できないものがある。

 =「模倣不可能な死」

モナドの有限性(三人称中性)を補うことができる。

・第三人称、第二人称は「他者に対するわたしの観点あるいは他者のわたし自身(=他者から彼やあなたにされた私)」に対する観点。この二者は異なった二つの主体のまま。

・第一人称は「あなたのあなたに対する観点」で「意識の対象と《死ぬ》の主語が合致する自身の死の生きた経験」。

①第三人称…無名性

(病人-医者のたとえが登場する)

医者の記述、生物学、統計など

「個人の立場を離れて概念的に捉えられたものとしての自分自身の死」

・問題提起する。しかし神秘学に属さず。

・客観性の極致

・相互置換可能(←第一人称、第二人称により否定)

②第二人称…特権的

・近親(=第三人称の死と第一人称の死の仲介者)の死

・「親しい存在の死は、"ほとんど"われわれの死のようなもの、われわれの死と"ほとんど"同じだけ胸を引き裂くものだ。」

存在論的な意味で同じであるのではなく隠喩的な意味で。数の上では二者。

③第一人称…悲劇の主体性

・神秘性あり

・苦悶の源泉

・第一人称の死(=「わたしのことが問題なのだ!」)に対して第三人称の死は役に立たない。死はわたしを名指ししているから。

・人は一人で死ぬことになっている(パスカル)

 

それぞれの人称から見た死

・一人称→「一つの半端な出来事でありながら、一つの絶対」

 未来が特権的な時。わたしは死より前にいる。死が到来したときわたしはいない。

・三人称→「一つの相対的現象」

 ある死を好きに論じられる。∵非時間的、無名であると同時に無時間的。過去の無限の延長が特権的な("特徴的な"の意?)時。

・二人称→三人称と一人称両方の特性を併せ持つ。+現在が特質(特権的)。

  →これをもって、ようやく死の哲学が可能になる!

 

 (メモ:内観=内省、内部観察) 

 

 

こちら側の死、その瞬間の死、むこう側の死、その三つを以下考えていく。

 

 

第一部 死のこちら側の死

その三つはそれぞれ不可能さを抱えている。

・此岸(こちら側)の哲学→「その対象が常に死以外のもの」思惟するのは死でなく生

・死の瞬間の哲学→「瞬間が認識にとって把握不可能で使用不可能な”ほとんど無”」

・死のむこう側の哲学→「彼岸が全く認識不可能」「”まったくの無”」

 

第一章 生きている間の死

 1.死の省察

・「死の中には文字通りに”何も知るべきもの”はない。」

  死はほとんど思考の対象となり得ない→虚無の思惟はできない

Q.では、死についての省察とは……?

 死のまやかしについて考えること(=死を考えることはできない)

 この空しさは死が非存在であることに由来する。思惟は相対的に諸概念を考えるが、死は他とならぶものでないため、それ以上に思惟不可能。「思惟はつねに死に先を越されている」(そういえば、死は理性にはとらえるに限界のあるものだった)

 

死を考えるとすれば

①死"について"考える。死をめぐって、死に関して考える

 =周縁について考えるということ。

②死以外のものについて考える。e.g.生

  死すべき存在=生きた存在を考えることはできる。こうして生を考えることになる。

固定観念や宗教は死の認識を進歩させない。

 

2.深みおよび未来としての死

死は考えるべくしてできていないのでは。

死の思惟は不健全な思惟(存在は存在ならぬものを省察するために与えられていない)。知性の破壊的性格。存在を穿って深みを発見する者は自然の意向に逆らっているようにみえる。

パスカルは自然の保護的究竟性により深みを避けることを「注意の散逸」と呼ぶ

 

・気苦労、すぐれた記憶…わたしを深みへ向けさせ、生きるのを助ける。哲学の執心を払いのける。真理を隠蔽する。

 ↕

形而上学的平静…死の気苦労を追放する。根源的始源と決定的終結[おそらく生と死]の問題を絶えず蘇らせる。人々の無関心を乱す。

 

 ・現実主義的な一種の実体論→死を生の深みの中に探求するようしむける

 

ラファエルの無頓着さ…気苦労も悩みも無い。

 ↕

デューラーの悩み(憂鬱)=哲学者?…「越経験的な周縁の間隙の連続のさ中へのとるにも足らぬ闖入」

 

・「老人は直接に、若い娘は婉曲に、死を語るのだ。」

 ・「美はいみじくも現存在であり、形態の感性の極致であるために、悲観主義がこの傑作に傑作に対してことのほか激烈な恨み、ことのほか冒涜的な憎しみを抱く」

 

ニーチェ…異教の充全性の奥に憂鬱を読み取る。

 ・ショーペンハウアー(=デューラー)…生の歪曲した解説。現存在を不在に化す。

 →死は生の越経験的な裏側。

  ・誰もその死を見たことはないが、間接的に垣間見ることはおそらくある。

 

生に住み着いている死は原理でない。∵それは迷信。「此岸の死の思惟が空虚な思惟であるからには、此岸の死の哲学に一つの内容を与えることは決してない。」

 ⇒したがって、生の中の死は幻影である。

しかし、この口実の下に思考を拒絶=哲学的思惟の妥当性に意義を唱えること。

・人は「見えていないものを自分なりに見、見えないものを精神の視力で見る」

 ・未来におこりうること、顕在しないものを思索できる。=「帰結を先に見る視力」

 ・気苦労は軟体動物から脱却するための代価である。

  ・快楽には苦痛は見出されない。しかし、気苦労で理性的な人間は快楽を経験しながら、その快楽が前兆となる苦痛を思う。

 

・「思い煩いの深遠な合理的真理」と「無頓着の表皮的真理」とは互いに矛盾し、同時に両者とも等しく真実な二つの真理である。

 

 ・死の非存在は哲学の対象だが、他の対象と比べると疑わしい。

 ・死を特権的瞬間(=最後の瞬間が近づいたとき)に位置づけようとしてしまう。

 しかし、それは罠である。

  死(死の啓示)は最後の瞬間よりもっとずっと生命に由来する。

 

・死に関する省察は、注意力の集中(e.g.医師の診察)とは共通点がない。

 ・死は直観へのある程度の自己放棄を要求する。

 ・注意力の集中は死後でないと(徴候になってからでないと)役に立たない。

 ・死の省察は万人に可能である。

  ・そこで語られる悩みは、①偶発的に添加され②一部の人に訪れる困りごとであり③原因と全く一致する

・気苦労は逆説的に、救いをもたらす真の無関心を表象する。=動機をもった気苦労

・死の越経験的な苦悩は気苦労の欠如、ないしは無頓着=無動機な苦悩

楽天のあとには苦い後味が付きものだという暗黙裡の不十分さは、生命が生命であるという事実に由来する。存在の仕方によってではない。

 ⇒動機をもった気苦労(=注意力の集中)と無動機な苦悩(=死の省察)に共通点はない。

 

・生は死=非存在を語らない。生のみを語る。

この肯定性を希薄にすることはできないだろう。

・死について考えるなら、ある程度の形而上学的倒錯が必要。

 ・死は何にも関係が無く、同時に関係がある。楽観主義↔悲観主義

 ・どこにもいないものこそがどこにでもいる。「遍在-遍不在」e.g.神

・「生は同時に死に覆われており、死に貫かれている」「端から端まで死によって包まれ、死が滲みこみ、死に浸っている」

 →生は生のみを語る、というのは字面だけということに。

  →それどころか、生は死のみを語る。何を語ってもそれは死を語ることになる。

   e.g.希望、苦痛、時間……

・「存在と非存在の混合である仮象について省察すること、それは暗々裡に死について省察することだ。」

 

・生の死の公現は寓意的。つまり暗示。

・「いまとなっては、死のこの世における現実は、むしろ、生のおのれ自身の秘めた内奥への一種の精神的転向の中に姿を現すように見える」「この転向がわれわれに平静さを与える」