Vtuberはいかにして世間に受容されたか

 

 この記事は、バーチャルユーチューバー(以下Vtuber)と一般社会とのかかわり、主に一般社会からVtuberがどう見られているのかを、一人のVtuberリスナーの視点から考えてみるものです。

 そしてその手掛かりとしては、テレビでのVtuber報道の参照が適しているのではないかと考えます。以下で論じますが、Vtuberはおそらく世間的に受容されているでしょう。では、その受容がいかにして行われているのでしょうか。それをまず最初の疑問符にしようと思います。

 

 

Vtuberが世間に受容された経緯

 

 まず確認ですが、ここでいう「受容」は、テレビで好意的な報道がなされていることに依拠しています

 

 たとえばNEWS ZEROです。ZEROは突如、有名Vtuberであるキズナアイを登場させ反響を呼び、その後もたびたびZEROはVtuberに関する特集を組みました。

 それに他番組も追随し、結果多くのニュースやバラエティでVtuberが登場したことは、記憶に新しいと思われます。

 

 

 特にバラエティ番組である「マツコ会議」ではVtuberが二回にわたって特集され、「みみたろう」らが強烈なインパクトを与えました

 

 

 そこには軽蔑の意図はもちろん、扱われ方も他の回となんら差異はなく、どちらかといえば好意的な報じられ方をされていたのではないかと感じました。

 

 そして日本テレビ系のゴールデンウィーク企画、「ゴールデンまなびウィーク」にもキズナアイが登場。

 

www.ntv.co.jp

 

 ご覧いただければ分かると思いますが、このページはキズナアイへの好印象を基に書かれています。

 

 こういった事実をもって、私はVtuberは世間に受容されたと言いたいのです。

 

 しかし、ある人はこう反論するかもしれません。

 

 「それはテレビ局の人間が作為的にそういう流れになるよう仕組んでいるに違いない。きっとお金か何かの裏取引があったんだ」

 

 テレビ番組というのは一般に、報じる内容をテレビ局のスタッフが一方的に決めていると思われがちです。見えない部分ですから、まあ実際そういうことが無いと言い切ることはできません。

 

 しかしながら、一般的に考えて、事態はその逆の側面がより強く影響しています。というのも、番組の内容には、視聴者の価値観・好みが色濃く反映されているのです。

 

 なぜか。

 

 まず、テレビ局にはスポンサーが必須です。スポンサーがつかなければ運営が難しくなりますから、テレビ局はそうならないよう、視聴率を重視します。そしてその視聴率をとるには視聴者ウケする内容を電波に流さなければならないのであって、そうすると内容はむしろ、マジョリティの位置を占める視聴者(こういってよければ「大衆」)の好みによって左右されるのです。

 

 そういうわけで、テレビ番組は視聴者によって規定されているともいえます。

 

 よって、Vtuberが頻繁に取り上げられ、特に同番組内で複数回にわたり何度もVtuberが登場し、さらにはゴールデンウイークにキズナアイが複数の番組に生出演するという事態が起こったのは、視聴者の大部分がVtuber、あるいはキズナアイに興味を持ったからであるといえます。

 

 もちろんVtuberが気に入らない人も当然いらっしゃるでしょうが、ここで重要なのは、視聴者のおそらく半数以上がVtuberを支持している*1という事実*2です。

 

 その母集団が一体どのような年齢層で占められているかというのは気になるところですが、しかしそれがどのような層であってもやはり重要なのは、Vtuberに触れていないであろう人たち(以下一般人)が肯定的にVtuberを見たという事実です。

 

 Vtuberはどの意味で受容されたのか

 

 ではなぜVtuberは好意的・肯定的に受け止められたのでしょう。

 ほかの、古い分類でいうところのサブカルチャー、つまりアニメや漫画、ボーカロイドといったものはたびたびテレビ番組で敵意や忌避の目を向けられる(向けられた)のに、Vtuberはなぜこのように特集を向けられるに至ったのでしょうか。

 

 

Vtuberは人間の部分(=パーソン)を持っている

 

 一つの視点としては、Vtuberが単なるキャラクターにとどまらないことがあります。

 Vtuberリスナーにとっては当然の見方かもしれませんが、Vtuberには画像、設定、中の人という三つの構成要素があり、これらはナンバユウキ氏の三層理論を引くと、それぞれキャラクペルソナパーソンと名付けられます。

 

 一般的にキャラクター、特にアニメキャラクターといえば、少し無機質的な言い方になりますが、設定が備わった画像の動きに声優が所定のセリフを吹き込んだものを指します。それぞれは一体となっていますが、しかしそこでは声優の性格は一切顕在化しませんし、設定は幾ばくかのメタ要素を除けば必ず保持されます。

 

 しかし一方でVtuberの場合、そこに起こっている事態はそう単純ではありません。キャラクターとしての設定は時に無視されますし、演者の表情が画像に反映される点でその画像の見え方は積極的に変わりえます。さらに演者の性格がペルソナと渾然一体となり表に出てくる頻度もかなり高く、表層だけを見ればどれが設定でどれが演者の実体験なのか、その境界は非常に曖昧です。

 

 Vtuberについて、いくつかの概念が用意されるに至ったのはその複雑さゆえでしょうし、私がわざわざこれらの概念を使わせていただこうとしているのもそれゆえです。

 

 そういうわけで、Vtuberは従来のキャラクターとは一線を画した存在であるわけです。ですから、たとえばNEWS ZEROで一般人は突如現れたキズナアイを見て、「なんだマンガの類か?」と思ったりするものの、しかしすぐに、そのしっかりした受け答えや表情の変化、体(モデル)の動きを見て、きっとそうではないと気付くはずです。なぜなら、Vtuberはただのキャラクターではないからです。

 

 これを先ほどの概念を用いて表現すれば、一般人はキャラクタという外見だけを見て、キズナアイを従来のアニメ的キャラクターと――つまり裏方のボタン操作などによって、体は動かずただ表情だけが喜怒哀楽に変化するようなキャラクターと――判断しそう思い込んでいたところに、パーソンの動きが衝撃を与えたということになります。

 

 最近のネットや技術に疎ければこの仕組みは分からないでしょうが、そういった人でも恐らく、パーソンから分有されそのキャラクタの所作に散りばめられた諸要素を認識することによって、Vtuberに人の動作が反映されていることは理解できるはずです。

 

 ですから、ペルソナによって発言される「インテリジェントなスーパーAI」を本気で信じる人は流石に多くないでしょう*3

 

 その、全てがつくりものでない、言い換えれば、リアルタイムに、能動性をもって、まさに今そこで誰の作為もなく言葉が生み出される様は、一部とはいえまさに人間です。仮に一般人がVtuberそれ自体を否定しようとすれば、その否定はすなわち自分たち人間の否定と同じことになるでしょう。

 

 ですからその点で、Vtuberが全否定されることは無いと言い切っていいはずです。先ほども書いたように、アニメキャラクターは作者と声優が別であるためセリフや所作さえも作為的ですが、対してVtuberはその点意思を持ち、能動的です

 

 そのため、ある人にたとえ批判や疑問があったとしても、それはパーソンには向かず、「でも中に人が入ってるんでしょ?」のように、やはり虚構を纏った姿やその接続、またはペルソナの虚構性などにのみ向くことになるのです。

 

 これはつまり同時に、一般人には、パーソン/ペルソナの両義性や、フィクショナルキャラクタ(vtuberの人格、パーソンとペルソナを合わせたものをこう呼ぶことにする)とパーソンの接続、作り声としか思えないような声、ふるまいなどの、虚構を隠蔽し前提とするVtuberコンテンツの中身への理解は得られないだろうことを示します。

 

 そういうわけで、一般人の受容は、そういった意味ではありえないことが分かります。

 

 

Vtuberは資本主義的に人間を充足させる

 

 ここまで、Vtuberはその報道のされ方から一般人に受け入れられていることを示し、そしてそれはコンテンツとしてではなく、外見として、つまりその特殊な性格に下支えされて受容されたのだということを述べました。


 さて、二つ目の視点ですが、それは技術の進歩という視点です。

 

 昨今のAIやロボット技術の台頭はめざましく、その社会に及ぼす影響の大きさから、世間の注目を浴びていることはご存知の通りですが、Vtuberの受容はまさにこの延長にあると私は考えます。

 

 というのも、今人々は機械との付き合い方を真剣に考えることを社会に要請されており、それゆえ、そうした科学技術には敏感になっているのです。

 

 そこで現れたキズナアイ。彼女がAIでないのは前述の通り誰の目にも明らかなのですが、しかしながら、私たちにはどこかそれが間違っていないように感じられます。なぜならそれは、彼女自体が科学技術の所産であるからです。

 

 たとえばキャラクタ=3Dモデルはコンピュータグラフィックによって作られたものですし、フィクショナルキャラクタとキャラクタの接合はトラッキングリップシンクといった技術で成り立っています。そもそも、それ抜きでvtuberは語れないでしょう。

 

 そして、その技術が能動性をもって私たちの前に現れているその光景は、まさに技術の進歩が具象化され顕在していることを意味し、しかもそれは同時に、AIやロボットが自律的に行動するような未来が近いことを予期させます。そしてそれらは、進歩を求める資本主義的人間の自尊心をも満たすのです。

 

 そういった姿勢は、キズナアイに限らず表れています。

 

 Vtuberを扱った一般向けの番組を思い返してもらえば分かるのですが、そこではコンテンツの概観をある程度は経由しつつも、最終的にはVRといった技術的側面の報道に落ち着きます*4

 

 たとえば前述のマツコ会議では序盤何名かのVtuberが取り上げられたのち、「みみたろー」の中の人やVRヘッドギア、トラッキング技術などへと話題が移っていきました。番組構成上、そこが核であると認識されていることは間違いないでしょう。

 

 テレビ番組の(大衆の)特性には、とにかく答えを明らかにしたがるというものがあるように思うのですが、彼らはその特性をもって、vtuberを科学的に解剖します。つまり、三つの密接にかかわるvtuberの身体を、無知ゆえに、無邪気に分解しようとするのです。もちろん、それは彼らに、コンテンツとしてのvtuberへの興味が無く、ただ純粋に、科学への崇拝と、進歩の信仰、新技術への憧憬のみがあるからです。

 

 それが悪いとは思っていません。リスナーとしては少し複雑であっても、その視点を否定しようとは思えません

 

 オタクコンテンツの性質というのは、虚構を足場とするという点にあります。

 

 言うまでもないかもしれませんが、ライトノベルがその好例です。そこでは現実にはありえない魔法や魔物などが、その物語内の世界において前提されます。現実とある程度のつながりを持ちながらもしかし、何かマンガ的、ゲーム的な設定が入り込んでいるのです。つまり、ライトノベルでは虚構が棚上げされ、読者は物語すべてを一挙に受け入れます。

 

 また、それと似た種として最近思うのは、Twitterで流通するMAD動画です。そこでは「わけのわからなさ」がむしろ面白さに繋がっていることが分かるでしょう。特に海外ミームは言語が違うため私たちには少しニュアンスだったりが伝わりづらいことがありますが、それが余計に面白さを際立てているという部分もあります。

 

 

 こういったことは、オタクが虚構などの、理屈が通らないものを保留して、受け入れられる思考を備えていることから生じるのでしょう。

 

 しかし一方、一般人はそうではありません。彼らにとって、そういったものは受け入れ不可能なのです。

 

 この違いは訓練されているか否か、つまりそういったものに慣れているか否かであると、東浩紀は『動物化するポストモダン』で述べています。

 

 そしてさまざまなオタクコンテンツの系譜を引くVtuber、やはりそれらサブカルチャー的コンテンツの性質を併せ持っているのです。

 

 そういうわけで、視点が異なることは当然ですし、分からないものを放っておくことはこの意味でも彼らにはできないのだと理解できましょう。

 

 

コンテンツとしての受容はあり得るか

 

 では、一般人がコンテンツとしてのVtuberを理解するときは永遠に来ないのでしょうか。

 

 そうとも言い切れない、というのが私の考えです。

 

 しかしおそらく、一般人は自ら進んで理解をすすめようとはしません。パーソンの要素が理解の架け橋になってくれることは期待できますが、しかしパーソン・ペルソナ・キャラクタすべてを総合したものがVtuberであって、それらのトリニティ的結合が一般人を遠ざけるとともに、さらにそこには科学技術による接合や、ここでは詳しく述べませんでしたがパーソンとペルソナの両義性などといった成分も含まれています。

 

 ましてや、Vtuberはオタクの中でさえも好みが分かれるコンテンツです*5し、コンテンツとして市民権を得ていくためには、その視点からも壁があるといわざるを得ません。

 

 しかし、やはりキーワードは「訓練」、つまり慣れでしょう。

 

 エッセイらしく経験談を挟みますが、私は中学生2年になるころまで、いわゆる萌え絵などにはひどく嫌悪感を抱いていました。理由などありません。ただ嫌いだっただけです。

 

 しかし、友だちに勧められてボーカロイド曲を聴き始めたころから、少しずつそれは薄らいでいきました。今ではこの通りです笑

 

 私自身のそうした経験に照らし合わせても、突破口の一つはそういった「慣れ」だといえます。

 

 

総括

 

 さて、今回も記事が長くなってしまいましたが、まとめに入ります。

 

 今回私はまず「世間にVtuberが受容された」という前提を提示し、その根拠を示しました。

 

 次にその受容がどういった意味におけるものであるかを二つの視点(パーソンとしてのVtuber、科学技術としてのVtuber)から考えます。それぞれの結論は、Vtuberはコンテンツとして歓迎されたわけではないということでした。

 

 そして最後に、コンテンツとしてのVtuberが世間に受容される得るかについて述べ、最終的にそこでは「慣れ」がキーワードだと締めくくりました。

 

 この記事は何の役に立つのかと問われれば自分でもよく分かりませんが、リクエストをくれた友人には少なくとも役立ってくれるのではないかと思います。

 

 それではこのへんで。

 

 

 

参考文献

動物化するポストモダン東浩紀

 

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

 

 

ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』東浩紀

 

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

 

 

『バーチャルユーチューバーの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ』ナンバユウキ

 

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

 

 

 

 

*1:嫌悪感を抱いてはいない

*2:肯定的な人間より否定的な人間が多ければ、そのような特集は連続して組まれないと思うのです

*3:蛇足ですが、一般人とVtuberリスナーの違いは、ペルソナによる「AIだ」という発言を否定したくなるか暗に受け入れられるかというところにある気もします。つまり、サブカルチャーに理解があるというのは、矛盾をそのままにしておけるということであって、その保留は、本質的に社会と相容れないものです

*4:雑誌ユリイカやテレビ番組ガリベンガーZなどはどうなんだと言われるかもしれませんが、それらは一般向け、大衆向けとは言いがたいでしょう。この記事で重視するのは、そういった大衆がどのようにvtuberを見ているかということです。

*5:ほとんどが食わず嫌いのようにも見えますが

進化ビショっぽい何か

 

 シャドバでデッキ紹介とかはしないって言ったんですが、「なんかよく分からないけど強い」デッキができたので紹介しようと思います。

 

 こいつです。

 

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 フニカルとヤヴン、グリームニルにオーディン、加えてスノホワと、自動進化がいくつか入ってる点では進化ビショです。

 

 ですが一方で、るあj……もとい聖獣やガルラ二種が入っていたり、逆に5/3/5自動進化持ちが入っていなかったりと、少し進化ビショとは呼びにくい面もあります。

 

 そういうわけでデッキ名が「進化ビショ?」なのですが、しかしあえて分類するなら進化ビショとしか言いようがないような気もします。

 

 一応こいつ、アンリミで10連勝してます。

 

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 この後もけっこう勝率いい感じでした。

 

 なので強いとは思います(そうじゃないと記事書かない)。

 

 

 ……回し方などが気になるでしょうか?

 

 結論から言うと、自分はオカルト派、つまり感覚でしかプレイしない人間なので、要するに「分からん」のですが、それっぽいことを言うことはできなくもないです。

 

 マリガンはふつうにやってください。

 

 たとえばウィッチ相手にはソニアかバロンキープするとか、ドラゴン相手にはソニアかバロンキープするとか、エルフ相手にはソニアかバロンキープするとか……。

 

 ビショ相手は獣姫をいい感じに引いていい感じにフォロワー展開できれば勝てます。

 

 ロイヤルとヴァンプ、ネクロはぜんぜん分かりません。勝てるときは勝てる。獣姫→礼賛→聖獣→バロン→ガルラ→エンハソニアとかしてたらいいんじゃないかな。知らんけど。

 

 ネメシスはそもそも時間の無駄なので即リタしましょう。

 

 とにかく適当に強いムーブしていればオッケーです

 

 

 ……採用理由?

 

 それも感覚なのでなんともいえませんが、ぽれとしてはなるべく低コストが多い方が使いやすいっていうのがあって、その意味で5コス自動進化は抜きました。

 

 あと2コスのレインディアは感覚的に要らない気がしたので抜きました。

 

 2コスの亀はよく分かりません。自分で試してください(なげやり

 

 ガルラはバロンあけたり獣姫あけたりして気持ちよくなるためです。レジェガルラはフィニッシャーですけどあんまりアミュ来なかったりするので要らない説もなくはないです。

 

 でも1コスでカウント進められるのはたまに助かるのでどうなのかなという感じ。

 

 狂信者か病の神どっちを入れるかは気分で決めてください(ただ、並べるデッキなので狂信者のほうが良かったりするのかな)。

 

 オーディンは長期戦だとラグナロク来たるときあるんですが、基本なぜか手札にいるので4点パンチにだいたい使います。

 

 そんな感じです。

 

 テミスがないのでソニアもバロンも引けずドロシーに先手打たれたら泣いてください。

 

 

 ……次の環境ゼウス入るかなあ?

 

 

『存在と時間 哲学探究1』を読んだ

 

 『存在と時間 哲学探究1』を読み終わりました。

 あ、いえハイデガーの本ではなくて、永井均先生の本です。

 

存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)

存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)

 

 

 永井哲学に出会ったのは古本屋に売ってあった『哲おじさんと学くん』が最初でした。

 

 そのとき永井先生のことは全く知らなかったので、ぱっと見た時にはふざけた入門書か何かかと思ったのですが、序文がまずそれを否定していること、哲学を専門にしているような人にこそ読んでほしいと書いてあったことから興味を惹かれ、購入してみることにしました。

 

 形式は対話篇。昔プラトンを読んだとき以来な気がします。

 

 序文の固さから少し読みづらいかもしれないなと思っていたのですが、哲おじさんと学くんのセリフだけで進んでいく形式はとっつきやすく、意外に文章も読みやすい。

 

 「なんだ読めるじゃないか」という感じで、すいすいと調子よく20章、30章(見開き1ページで1章という構成)と私は読み進めていきました。

 

 しかし、40章あたりまで来たところで、違和感に気付きます。

 

 「あれ? なにがなんだかわからなくなってる……」

 

 あ……ありのまま今おこったこt

 

 そうです、この本、読めはするんですが理解するのがめっちゃくちゃ難しい

 

 というのも、普段使うような簡単な言葉を極力使っているので文を追うのは難なくできるのです。対話篇なので体にも入ってきやすい。

 

 しかし、その水面下ではかなり高度な論理展開が繰り広げられていて、最初からしっかりついていっていないと、いつの間にやら置いてけぼりを食らってしまうのです。

 

 そんなわけで、『哲おじさんと学くん』は挫折。

 

 挫折しただけでなく、内容を思い返すと腹が立ってくる始末です。

 

 この立腹が私の表層的な拒絶で、実は受け入れなくてはいけないものがこの本にあるのだというのは確信としてあったのですが、しかし感情はやっぱり憤りを感じているので、『哲おじさんと学くん』はまたいつか戻ってこようと思い本棚にしまいました。

 

 それから少しして、今度は対話篇ではなく普通の論文形式で一番新しいものをと思い、大学の図書館で『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』を探したのですがあいにく貸出中でした。そこでそのひとつ前の、存在と時間 哲学探究1』を読んでみようと手に取った、というのがこれまでの経緯です。

 

 さて、永井均とは。

 

 永井さんは言葉にできないもの——ウィトゲンシュタインにいう語り得ないもの——にかかわる哲学を展開している人です。

 

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

 

 

 この新書で言われる内容こそが自身の哲学の原点だと永井先生は言うのですが、このタイトルにある「私」「今」「神」を貫くものが、永井哲学の探究するものです。

 

 それは何でしょう。

 

 たとえば、「私」に関していえば、とらじぇでぃという私は、「その目からだけ現実に世界が見えており、その体だけが殴られると現実に痛く、その人の悲しみだけが現実に直接的に悲しい唯一の存在者*1」であるような私ですが、その性質を持っているのは、あまりにたくさんの人がいるなかで、やはり唯一この私だけです。

 

 これは一体なんだろう、というのが永井哲学の問いたいことです。

 

 ……あまりよく分からないでしょうか。

 

 それも無理はなくて、なぜなら永井先生の伝えたいことは前述のとおり、言語では伝えられないものだからです。

 

 彼もなんとか色々な言い方を駆使して感じ取ってもらおうとしているのですが、私も『哲おじさんと学くん』を読んでいなければ導入で既に躓いていたかもしれません。

 

 また、「今」に関していえば、「どの時点もその時点にとっては現在であるが、そうした諸々の現在の中にきわめて特殊な——それがなければ何もないのと同じであるような——ものが存在している。これはいったい何なのか!*2」というのが永井哲学の問いたいことです。

 

 詳しい内容はここに挙げた著書か、その他の永井先生の著書を読んでもらえたらいいと思います。

 

 さて、永井先生自身も書いていますが、この哲学は全く、全く役に立ちません。

 

 なにしろ、実在しない「現実の<私>」を扱うのですから。

 

 実用を重んじる現代社会にとっては残念なことです。

 

 ですが、「哲学は他の諸科学・諸学問とは違って、各人が人生において直接に感じ取った問いをそのまま問い、そのまま探求する学問でなければならない*3」というような定義も頷けるところです。

 

 すでに与えられている問いだけにしか答えようとしないのは、たしかになんだか違和感があります。

 

 しかも、永井先生はそれを口先だけでは無くて、独創的な切り口で哲学問題に挑む姿勢を示してそういうのですからすごいです。正直尊敬できます。

 

 

 永井哲学は、ニーチェウィトゲンシュタインと通ずるところがあるようですが、実際本を読んでいると、ニーチェを読んでいた時のような高揚感が呼び覚まされることに気付きました。

 

 そう感じるということは、きっと何かあるんだと思います。

 

 でも、難解。読み切れたのはよかったけど。

 

 

 

 

 次はVtuber記事を書くために、『動物化するポストモダン』を読もうと思います。感想書くかは気分で決めます……。 

 

 

 

『ALTER EGO』をプレイして

 

 

 ついさっき、スマホアプリゲームであるALTER EGOのエンディングを迎えました。

 

公式プレスキットより

 

 赤月ゆにちゃん様のツイートなどで前々から存在は知っていたのですが、

 

 

app storeからのスパムみたいな宣伝メールに載っていたのを目にして、暇だし()やってみようと思ったのがきっかけです。

 

 率直な感想をいえば、すばらしかったです。

 どのくらいすばらしかったかと言えば、追加シナリオ2000円分課金するくらいにはすばらしかったです。

 

 トゥルーエンドにたどりつくだけなら無料なので、みなさんにもおすすめします。

 

 特に、心理学や哲学に興味のある方、美人の女性に罵られたい方はハマると思いますね。

 

 少しどんなゲームなのか紹介します。

 

 

 このように、時間経過、あるいは流れてくるふきだしをクリックすることによってポイント(=EGO)を集め、それを消費することによりエス(途中に出てきた女性)との会話を進めていくゲームです。

 

 動画にあるとおりですが、途中エスからの質問に答えることがいくつかあります。それによってエンドの種類がかわるようになっているようです。

 

 エンドは3つ。どのルートを選ぶかによって、要求されるポイントの量がかわってきます。

 

 

 このように開発者さんもおっしゃるだけあって、少し人を選ぶのかもしれませんが、先ほども言ったように、適性のある人はとことんハマると思われます。

 

 さて、この先ネタバレを容赦なくねじこんでいくのですが、このゲームは見る人が見れば分かるとおり、心理学をその基礎としています*1

 

 登場人物は三人。

 

 本に囲まれた狭い部屋に住むエス、壁男とよばれるエゴ王、そしてプレイヤー。

 

「エゴ王」の画像検索結果

 

 これらが無意識エス=イド)、超自我(スーパーエゴ)、自我(エゴ)に対応していることは明らかです。

 

 エスは衝動を時に抑えられなくなる場面があり、エゴ王は自我であるプレイヤーに規律を守るよう促します。

 

 しかし、ALTER EGOとは?

 

 それぞれが対応関係にあったのであれば、ALTER EGOも何かを指すはずです。

 

 エンディング名も、イド、スーパーエゴの次はエゴエンドではなくオルターエゴエンドだったわけですから。

 

 字義から考えましょう。オルターエゴというのは、通常の意としては別人格のことを指します

 

 といっても、おそらく多重人格者における一人格ではなくて、劇などで道化としてじが演じられる別人格のことです。

 

 たとえば、俳優がドラマで刑事役を演じたりしたときの、その刑事としての人格をオルターエゴ、すなわち直訳にいう別の私*2として見るのです。

 

 なので、この意味でのオルターエゴは、日常での仮面の使い分けとか、Vtuberのパーソン/ペルソナとかにも適用しようと思えばできる、広い意味の言葉のように思えます。

 

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グラブルのスキン、オルターエゴ・コンジュラー

 

 ちなみに、グラブルにもオルターエゴと名の付くスキンがあります。

 コンジュラーは召喚士やらなんやらという神秘的・魔術的意味合いがあるようですし、また絆の象徴として知られる赤い糸が伸びていることからも、背景の人物が主人公の姿をした何かを操っていることは確かでしょう。

 

 ジョブのフレーバーテキストはこうです。

 

無秩序の渦による侵掠の赤き糸を拒絶し、逆に支配下に置くための絡繰りとした勇姿。
人の子の身に余る大いなる力も、仲間と共に仲間の為に扱えば造作も無い。

 

 そこまでしっかりグラブルのストーリーを見ているわけではないので的外れなことを言っていたら申し訳ないのですが、テキストを見る限りでは、そのままですが、操ろうとする何者かを逆に操っている様子がこのイラストということになりそうです。

 

 もし、先の定義を無理やり押し込めるとするなら、「もはやその主人公は、前の主人公とは別人」だということになるのでしょうか。客観的にか、内在的にかは分かりませんが。

 

 

 話を戻して、もうひとつ、オルターエゴは哲学で他我という意味にも使われます。

 

 他我はすなわち他の私です。

 

 つまり「他人が持つ私」のことですが、哲学ではその他我をどう感じ取れるのかといったことが問題になることがあって、それを他我問題といったりもします。

 

 『ALTER EGO』のいうオルターエゴは、この意味で用いられていると推測します。

 

 オルターエゴエンドの内容は、エスと共存する道を選ぶというものでした。

 

 これはつまり無意識・衝動と共存することの暗示でしょうが、しかしセリフなどから総合的に判断する限りでは、エスはプレイヤーとは独立して存在しているようにも思われます。

 

 彼女は例えば、狭い部屋が嫌だ、本を読むのが好き、私ってなんだろう、など独立した思考を持っています。擬人化ゆえにそうなったとも言えるかもしれませんが、しかしそれなら、なぜエンディングは順番として妥当な「エゴエンド」ではなく「オルターエゴエンド」なのでしょうか。

 

 それはまさしく、「私」の内なる別人格としてのエスとの共存を指すのです。これは無意識的衝動を受容する以上の意味を持ちます。

 というのも、ご存知のとおり、無意識というのは大海原のように広い領域だと言われており、その多くは自我のコントロールが効きません。

 

 フロイトは、人間の自尊心は3回ショックを受けたといいます*3。その3回目のショックが、無意識の存在によるものです。人間は自らを制御できていると自負していたのに、実は無意識がその多くを占めていたと明かされれば、困惑するのも無理はありません。

 

 そしてその無意識は、自分でも思ってもみなかったことを時たま露呈させます。

 

 その意味で、思い切った言い方をすれば、私たちみんなが多重人格者であるわけです。

 

 ユングは無意識の作用を、意識の対抗作用だと言っています*4が、無意識はそのように、意識のベクトルと逆方向に力をかけて、一旦その人を引き止め、考えを改めさせようとします

 

 ソクラテスはダイモーンの「否」の声を聞いたと言いますが、ダイモーンとはまさにその無意識の作用だったのかもしれません。

 

 そしてその別人格としての私を受け入れるということは、そのユングの意味での精神的な健康を保つことを指しましょう。

 

 少年マンガなどでよくある展開として、「登場人物の迷い→他なる私との遭遇→和解→解決」というものがあります。

 自分とそっくりだったりすることの多い、精神空間で邂逅した何者か。それは往々にして、登場人物にとって目を逸らしたいことを、ダイレクトに投げかけてきます。しかしそれと最後はわかり合い、問題は解決に向かっていく。

 これは、別人格としての私の声が、プラスの方向へと自分を導いていくことの暗喩であると解せましょう。

 

 逆に、無意識の声を否定し続けることは、精神的疲労を呼び、場合によっては精神疾患すら引き起こします*5

 

 まとめましょう。

 

 オルターエゴエンドはエスという内なる別人格の私との邂逅、そして和解を経た共存を表現し、それはユングの言う、あるべき精神の姿を示します

 

 その意味で、それはトゥルーエンドだったのではないでしょうか。

 

 

 

*1:参考文献 - ALTER EGO公式サイト

*2:alter egoラテン語

*3:「自我は自分自身の家の主人では決してあり得ない」——フロイト精神分析学入門Ⅱ』中公クラシックス、75p

*4:カール・グスタフユング『超越機能』(『想像する無意識』収)、平凡社ライブラリー、p134

*5:同上、p137

シャドバのライトユーザーについて

 

 先日のナーフのときもそうでしたが、ライトユーザーという言葉はしばしばシャドバ界隈で用いられます。

 それに対比されるヘビーユーザーという言葉もありますね。

 

 これらライト・ヘビーというのは課金額・時間など、一つのコンテンツに消費する財産の大きさを指すものだと思われます。

 

 Twitterで、ライトユーザーと検索をかけても、やはりライト・ヘビーは課金額のイメージが強いようで、結びつくのは大抵運営の資金繰りの話のようです。

 

 これらライト・ヘビーの指標をこれから使うとして、もう一つ、別の視点からの指標も導入したいと思います。エンジョイ勢・ガチ勢についてです。

 

 いうまでもなく、その切り分け方はプレイスタイルに依ります。エンジョイ勢はenjoy=楽しむことを目的にしますが、一方でガチ勢はガチ=真剣にゲームと向き合い、勝利を目指すことを目的にします。

 

 それぞれの極端な例を言うと、相当なエンジョイ勢はコンスタントな勝利ではなく独創的なデッキを用い極々低確率で可能な勝ち筋を実行しようとします。

 

 

 一方、相当なガチ勢というのは、そういった瞬間的・爆発的快楽でなく、コンスタントな勝利にやりがいを見出します。

 

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 これら2つが、ゲームプレイヤーをはかるうえでよく使われる指標でしょう。

 

 しかしながら、血液型占いや星座占いで人間を4等分や12等分できないのと同じように、全プレイヤーをこれらの指標で二分するのは無理があります。

 

 ライトユーザー・ヘビーユーザー、エンジョイ勢・ガチ勢という二項対立だけではその指示内容はあまりに広範であって、議論には適していないというほかありません。

 

 ……とはいえ、段階的にそれを名付けてみても切りが無いわけでありますから、この単純化された概念たちをその左右の振れ幅である数直線の中で、ある程度うまい具合に使っていかなければなりません。

 

 それゆえ、以下曖昧な表現があるかもしれませんが、ご了承ください。

 

  そしてもうひとつ、以下ではライトユーザーとエンジョイ勢をまとめてライトプレイヤーヘビーユーザーとガチ勢をまとめてヘビープレイヤーと呼称しますので、それも把握のほどお願いします。

 

 さて、この記事で私が言いたいのは、ライトプレイヤーとヘビープレイヤーに一体どのような認識の齟齬があるかということです。もちろん、さきほど述べたようにこれら単純化にはデメリットもありますので、そこも考慮しながら書き進めるつもりです。

 

 

 まず、それぞれの特徴を述べます。

 

 ライトプレイヤーは基本的にシャドウバースを、俗にいうソシャゲの一つとして捉えます

 

 ソシャゲとはご存知の通り、SNSを基盤にしたゲームのことです。今は意味が拡大しスマホアプリゲームにもソシャゲの名が適用されるようですが、ともかくその特徴は手軽に遊べることです。たとえばパズドラにしても、グラブルにしても、好きな時に始めて好きな時に中断でき、一つ一つのタスクも小分けに、しかも少ない時間でこなせ、さらにほとんどの作業では特段頭で考えることなく成功を積み上げていくことができます。

 

 シャドウバースはこの点対人ゲームである以上、中断の実行はポイントを失うリスクを伴うわけですが、しかし初期シャドウバースはその他の点ではさほど見劣りするものではなかったと思われます。

 レッドエーテルシステムはなるべくソシャゲにお金をかけたくない層にとって革命的に都合の良いものでしたし、サイゲームスのカードデザインなどは他と比較しても突出していた(している)と思われます。それらはオタクの心を鷲掴みにし、新規獲得などにも大いに貢献したことでしょう。

 

 そしてライトプレイヤーはこれら性質を兼ね備えた初期シャドウバースを歓迎するわけです。

 

 彼らのもうひとつの特徴として、ライトプレイヤーに明らかに分類される層——時間もかけずのんびりとプレイし、課金もしないような、やれるときにやろうといったスタンスの人たち——はTwitterを大半がやっていないということがあります。

 

 なぜそう言えるかといえば、Twitterでアカウントを作るというのは、より強くなりたい、勝ちたい、誰かと一緒にプレイしたいなどといった、ある意味シャドウバースへの執着が必要であるからです。

 

 では今現在Twitterに見られるライトプレイヤーは一体何者かという問いが浮上します。「彼らは途中でシャドウバースに飽きたのだ」というのが簡単な答えですが、私が思うには、彼らは飽きざるを得なかったのではないでしょうか。これについては後々触れます。

 

 この一方で、ヘビープレイヤーは初期シャドウバースには不満を持ちました

 なぜなら、彼らはカードゲームらしさを求めていたからです。

 

 カードゲームらしいカードゲーム

 私は他のカードゲームにほとんど触れたことがないためよく分からないのですが、見かけていた話を要約する限りでは、盤面の取り合いが多く、考えることの多い、運ではなく実力で勝負が決まるような、バランスのとれたカードゲームを指すようです。

 初期シャドウバースに対して「エロメンコ」「時間のかかるジャンケン」との揶揄を言い出したのはおそらく彼らの一部でしょう。あまりにも的を得た表現で、私も当時は喜んで使っていたこともありましたが…今となっては昔の話、ですね笑

 

 まあしかし、上のように言っておいてなんですが、初期においては、Twitter上のライト・ヘビーの境目は、外観としてはあまりはっきりしていませんでした。

 

 それはシャドウバースの性質自体がそうさせていたのです。

 では次にそこを見ていきましょう。

 

 シャドウバースの出発点*1は、先ほども触れたように一つのスマホアプリゲームでありました。

 

 無課金でも充実して遊べることが長所としてユーザーには受け止められ、また当時の運営のスタンスもそのようなものであったと考えます。実際、カードゲームとして当然ながら初期はカードプールが狭く、さらに課金先もそのプールの狭いカードパックが主となっており、私の友だちなどは「課金するほうがバカ」というほどでした。

 

 また、これも先ほど言ったようなシャドバの性質の一つですが、初期段階ではそれぞれのプレイヤーにはほとんど差が生じませんでした。ある決まったデッキや決まった動きをすれば勝負が決まるような場合が多々あり、最悪特に何も考えずとも、コストを毎ターン使い切っていれば勝てるといったこともありました。

 

 これはベビープレイヤーからすると、悲観すべき状況に見えます。しかし、ライトプレイヤーにとっては大いに輝ける場であったのです。

 

 彼らにとっての手軽さ、思考すべき要素の寡少などは、彼らの希望に適っていました

 そして、そうしたライトプレイヤーの中で、シャドバに熱中する者は、情報収集のためネットを活用します。

 

 しかし情報といっても、それはおおよそ、流行りのデッキをいち早く手に入れるくらいの目的だったでしょう。

 

 当時はデッキを知ることが勝つことに直結しました

 

 ゆえに、情報を求めるライトプレイヤーが発生したのです。

 

 これが、ライトプレイヤーがTwitterに現れた動機の一つです。

 デッキだけならまとめサイトなどにもあるにはありますが、それらはあくまでもツイートのまとめを行っているだけであり、であれば自身も発信しながら、直接情報を収集すればwin-winではないかと、こういうわけなのです。

 

 しかしながら一方、もとから他のカードゲームに親しんでいたような人々は、これが異様な状況であることを表明します。力の限りをもって、このカードゲームらしくない環境を、カードゲームらしいものに“改善”しろと運営に求めるのです。

 

 しかし努力むなしく、こういった環境は続いていきます。

 

 状況が変わり始めたとプレイヤーが気付きだすのが、おそらくチョイスが実装されたころです。エンハンス、アクセラレートに続く第三の大型ギミックは試合をより複雑で困難な、かつ時間のかかるものに仕上げました

 

 そしてシャドウバースは、ある一定以上の思慮を要求するゲームになったのです。

 

 既にローテーションフォーマットも実装され、いつの間にやら、ライトプレイヤーが喜んで享受していたような環境は去りました。その代わりに到来したのは実力環境です*2

 

 つまり、運営はかの叫びを聞き届け、カードゲームらしいカードゲームに近付ける努力を着実に実行していたのです。

 

 この環境——今のような環境——においては、デッキタイプ・デッキリストは当然の前提とされ、それに加えて繊細なプレイングが問われます。つまり、過程を突き詰めなければ勝利につながりにくい環境になったということです。

 

 ところで、ライトプレイヤーは過程ではなく結果だけを見て、すぐに「運だけ!」と鳴き声を上げると思われているようですが、そういった人が実在するかはさておき、ほとんどのライトプレイヤーも過程は考えます。ただ、そこに多大な時間は注ぎ込みたくないと考えているのです。

 

 彼らの特徴を思い出してもらいたいのですが、ライトプレイヤーの認識というのはシャドバ=遊びなのであって、他のスマホアプリと同じように、苦痛に耐え忍びながら過程などを考えるよりかは、暇な時間をいかに即時的に気持ちよく埋められるかが重要なのです

 

 しかし、シャドウバースは変質し、そういったソシャゲ的性質はかなり薄れました

 

 この今現在をシャドウバースの主張に倣ってeスポーツ時代、初期シャドウバースをソシャゲ時代と呼びましょう*3

 

 eスポーツ化し競技性が高まった今、ライトプレイヤーはシャドウバースに見出していた手軽さを——簡単にカードゲーム感を味わえるといったところに見出していた長所を——失い、Twitterにいたライトプレイヤーというのは、シャドウバースから離れるか、フェードアウトしてしまいます。

 

 なぜならば、重ねて言うようですが、Twitterにいたライトプレイヤーは、ソシャゲ時代における動機(=簡単に勝つための情報収集)によってそこに住まわっていたのですが、しかしeスポーツ時代においては、以前のような情報はあまり重要でなくなり、代わりに「マリガンは○○相手ならこうで、○○相手なら××は残す。○○相手の時〇ターン目にはこれは投げないけど、この手札で〇ppのときは投げる。ただし相手の場に○○があるときは裏目を警戒して……」といった、時間を掛けなければ入手できない(=体得できない)知識・経験が重視されるようになりました

 もはやeスポーツ時代においては、「Twitterにいることによって手軽に勝てる」という公式が通用しなくなってしまったのです。

 

 つまり、ソシャゲ時代は経験なくともデッキリストさえしっかりしていれば簡単に勝てるようになっていたものが、eスポーツ時代においては暗中模索、無限にある選択肢のなか、何も見えない状態で何戦もこなし、ようやくわずかに、わずかに一筋の光が差すような、そういった場が目の前に横たわっているのです。

 

 みなさんのTwitterの交友関係の中で、eスポーツ時代においても変わらずシャドバを続けている人と、シャドバから離れがちになっている人がいる理由は、以上のようなところにあると考えます。

 

 もし、eスポーツ時代にあたって、そういった環境に向き合うことが「当然だ」と言い切る方がいれば、その方は間違いなくヘビープレイヤーに分類できます。

 

 ライトプレイヤーにとってはシャドウバースは暇つぶしの一つだったわけで、彼らにとっては、バハムートを投げその圧倒的カードパワーで勝利するような、あらゆる手間を省いた勝利で十分だったのです。

 

 シャドウバースの手軽さに惹かれていた人たち、言い換えれば、シャドウバースに多くの時間を注ぎ、生活内でのその優先順位を上げることに魅力を感じない人たちは、このeスポーツ時代には嫌気がさすでしょう。

 

 彼らの「シャドバが好き」と、ヘビープレイヤーの「シャドバが好き」は、その意味する内容が異なっているのです。

 

 ここまでの流れで分かるかもしれませんが、私自身はおそらくライトプレイヤーです。

 正確にいうと、ややヘビープレイヤーよりのライトプレイヤーでしょうか。課金は今まで3万~5万ほどしましたし、その意味ではヘビーユーザーですが、しかし時間はグラマス3回ほどで、大してかけていません。

 勝利数も3000ほどで、強者揃いのTwitter内ではかなり下に位置するでしょうから、その意味ではライトユーザーです。しかもシャドバに真剣に取り組んでいるということもあまり無いので、どちらかといえばエンジョイ勢になるでしょう。というわけで、総合的に考えれば、「ややライトプレイヤー」というような表現をすることになります。

 

 さて、先日友人にシャドバのシステムについて、「負けても何か報酬があるならもう少し試合をこなせると思うんやけどねえ」と冗談交じりに言ったことがあります。私はシャドウバースが上手いわけではないし、シャドバに対してかなり向上心があるというわけでもなく、ゆえに下手なのですが、そうすると負け試合も多くなります

 そうしたとき、掛けた時間への物的対価があまりにも少なく、うんざりしてしまった経験があり、そうしたところから出た発想だったのですが、すると友人は「それは甘えじゃない?」との返答。

 

 理由を聞くと彼曰く、負けてもなぜ負けたかを考えるのが楽しいというのです。

 

 分からなくもありません。私にもソシャゲ時代には、どのプレイングが悪かったかと真剣に考えていた時期もたしかにあったのです。

 

 ただそれはきっと、一定の手軽さがあったからこそできたことだったのでしょう。

 

 

 そういったように、ライトユーザーとヘビープレイヤーとの断絶は思っていたよりはあるようです

 

 もう一つ話をすると、たとえばこれもその友人と話したことですが、Twitterでシャドバの引退宣言をすることについて、私は正直不要だと思っていたのです。しかし友人はどうやら、不必要ではないと思っていたようでした*4

 

 私の見解としては、シャドウバースはやはりゲームであり娯楽なのだから、やりたいときにやればいいし、やりたくないときはやらなくていいというスタンスがあって、これはすなわち、引退宣言は自分の枷になるから必要ないという主張を導出します。

 大人しくフェードアウトして、また戻ってきたくなれば復帰すればいいだけの話で、わざわざ公言してけじめをつけるようなことをする必要はないと考えるのです。

 

 一方で、おそらく友人は、シャドウバースを一つの競技として見ていて、サッカーや野球と同じように、継続的な努力を要求するコンテンツとして考えているのだと思います。

 そうすると、第一線にいるプレイヤーなどは特にですが、ある故障やスランプ、またはやむにやまれぬ休止期間などを抱えてしまえば、それはその期間自分に課したノルマがこなせないことになり、その瞬間、他のプレイヤーをけん引したり、あるいは追随したりすることは不可能だと悟るわけで、そうなればその人は自分がそこに居座るに値しないと思い至り、引退を宣言します。

 そういった事情を察知し、あるいは前提とするからこそ、引退宣言は彼らにとって効力を持つのです。

 

 ここで冷笑主義的な感想が頭を出して「熱血的だな」などと言ってしまう人もいるかもしれませんが、しかしそう見えるような要素は真剣そのものだからこそ表出するのです。彼らにとってシャドウバースはもはや、単なるゲームではないのです。

 

 

 こうして話した断絶ですが、それがプレイヤー間に現れるのなら、当然コミュニティ内にも現れてくるだろうと考えます。

 

 というのも、おそらくeスポーツ化の過程で、アマチュアチームのメンバーは大幅に入れ替わったであろうし、またもしチーム内に両者が混在しているのであれば、その衝突は避けられないであろうと思うからです。

 

 チームについては以前の記事で述べましたが、その存在価値は閉じたコミュニティの中で情報交換ができることでした。

 

 しかしeスポーツ時代において、ユーザーがライトプレイヤー・ヘビープレイヤー*5に区別されると、両者にとって必要とされる情報の質は違ってきます

 たとえば前者はなるべく手っ取り早く、あるいは楽しいデッキを、後者は勝率を上げるためのプレイングや○○は何枚入れるべきかといった細かな調整に関する情報を求めるのです。

 

 ライトプレイヤーはヘビーユーザーに不満を感じることはありません。動機が存在しないので当然です。

 

 しかしヘビープレイヤーはライトプレイヤーに不満を覚えることがあるかもしれません。ライトプレイヤーの質問には全員が答えられますが、ヘビープレイヤーの質問にはライトプレイヤーが答えることは多くの場合適いません。プレイの目的、プレイスタイルが違うので当然のことです。

 

 その結果、チームのチャットが過疎状態にあるように見えることも、あるかもしれません

 

 そして、このeスポーツ時代は、チームの在り方も限定的にしていくように思われます。

 

 ここまで話した、シャドウバースをとりまく状況について思い返してもらえれば当然の帰結なのですが、チームは能力向上の、つまりヘビープレイヤー向けにしか機能しえない……というのは言い過ぎかもしれないですが、そういった方向でしか機能しにくくなっていることは確かだと、私は日々感じています。

 

 なぜなら、eスポーツ時代以降にTwitterに集う人間というのは、ソシャゲ時代のような情報ではなく、プレイングなどの情報を求めてくる人が多くなるわけで、その意味でヘビープレイヤーなのです

 もちろん人間関係に飢えてTwitterを始める人もいるかもしれませんが、それでもeスポーツ化したシャドウバースに耐えうる時点で性質としては後者に近いものがあります。

 

 そして、そうした情報の中でも本質的で核心をついたものは閉じられたコミュニティ、つまりアマチュアチームなどでしか共有されないために、そうしたヘビープレイヤーはチームを求めるようになるのです。

 ソシャゲ時代においては、そういった秘匿しなければならないような情報は多くなく、むしろほぼ全員に共通した土台の比率がはるかに大きかったのですが、eスポーツ時代に至ってはその前提部分は比率としてかなり狭まり、個人の練度や、そうした情報がはるかに重要視されるようになりました

 

 そうなれば、チームは能力向上の場以外では成り立ちにくくなります。

 

 ……理想をいえば、私はゆるやかな繋がりを持ったチームも、さらに増えてほしいと思うのですが、しかし上のような背景に目立つのはやはりそういった技能を向上させることを第一目標に掲げるようなチームです。

 そうなるのも仕方のないことかもしれませんが……。

 

 さて、最後にですが、私はシャドウバースに真剣に打ち込む人たちを正直尊敬しています。たとえば私が読書に時間を注ぎ込むのと同じように、彼らはシャドウバースに身を捧げているのです。

 

 もはや私にとってシャドウバースをするというのは、その一面においては戦場に赴くに等しい行為です。

 

 eスポーツ時代を迎え、私はシャドウバースを娯楽として見ることが、少し難しくなりました

 

 シャドウバースは着々と競技としての体を成しつつあり、また生きがいとして耐えうる一つのコンテンツとなりつつあるのでしょう。

 

*1:私がシャドバを始めたのはダークネスエボルヴ初期~中期であることを一応付記しておきます

*2:もちろん、完璧に実力がないと勝てない環境ではありませんでしたが、実力の割合が強まってきていたことは皆さんも感じられたことでしょう

*3:どこで区分けするか、明確に区分できるのかといった問いは、ここでは重要ではありません。

*4:返事が曖昧だったため、こう判断しました

*5:つまり、eスポーツ時代についていけない者とついていける者

STRアディショナルとカオス

 

 STRって見ると、MMOとかのステータス思い出すなあとかぼんやり思ったとらじぇです。

 

 シャドバですが、先日追加内容が発表され、今日早速実装らしいとのこと。

 

 しかしみなさんお気付きですか?

 そうです、今回のアディショナルにはょぅι゛ょがいないんです!

 

 ソニアはどうなん?って思われるかもしれないですが、いやあれはぽれ的にはょぅι゛ょではないです(一蹴

 

 じゃあ基準はどこなんだよって、それはぽれの心に聞いてください、心を震わせた女の子がょぅι゛ょです。

 

 しかし、ょぅι゛ょと言っても、果たして本当にそれがょぅι゛ょかと言うのは分からない話です。

 

 たとえば、地球があって、それと見た目は全く同じもう一つの地球が、遠い遠い銀河のはるか先にあるとしましょう。

 

 そして両方の地球にはょぅι゛ょが暮らしているのですが、しかし実のところ、地球に暮らすょぅι゛ょと、別の地球に暮らすょぅι゛ょとでは、その体を構成する分子が異なっているのです。

 

 異なっているとはいえ、しかし、機能は同じなので、見た目やら仕草やらに全く違いはありません。だけれども、その構成する分子はやはり異なっているのです。

 

 このとき、2人のょぅι゛ょは全く同じなのでしょうか……?

 

 いえ、そうではなく、ょぅι゛ょという言葉の意味において、このとき2人は別物と言うべきです。これは、意味は私たちの主観だけでは定まらないということを示唆します。

 

 だからなんだという話ですよね、特に意味はないです。

 

 

 そういえば、先日バイトしてるとょぅι゛ょがじっとこっちを見てきたんですよね。

 

 段ボールやらを解体してるのがそんなに珍しかったのか分かりませんが、とにかくずっと見てくるので、「お兄ちゃんのお家来る?」とか言いそうなりましたがそんなこと言ってしまったらおしまいですのでもちろん言いませんでした。

 

 

 おしまいといえば、最近は本屋では珍しくセールをやっているところがあって、それが昨日終わったんですが、調子に乗って8冊くらい購入してしまいました。

 

 ょぅι゛ょに関する本はさすがに買ってないんですが、バタイユ3冊買ったので実質そういうところがあります(ないです)。

 

 外山滋比古の『異本論』もいつか買おうと思っていたのでようやく、という感じなのですが、最近の潮流を見てると時代遅れなのかなあ、という感はあります。読んで見ないと分からないですけど。

 

 あと、好き嫌いはだめかなと思い、論理学の本も3冊ほど買って、バトってみることにしました。

 

 

 バトってみるといえば、先日グラブルで開催されたゼノコキュ・ゼノウォフは全く回れず、ゼノウォフは完成させたのですがゼノコキュは最終日の3時間で死に物狂いで回って2凸しか出来んかったと。時間とのバトルにルーズしたわけです。

 

 

 ルーズといえば、古戦場が知らないうちにダウンしてましたね。それも立て続けに。

 ジオくんに敗北した説が濃厚ですが()、巷ではサイゲに無能が紛れ込んでるとか色々好き放題言われてますね。がんばれサイゲ

 

 

 がんばれといえば、応援していたvtuberグループのハニストから、蒼月エリちゃんが引退するんですよおおおおおおおおお

 

 蒼月ぅ…もう完全に蒼月ロスです、心が終わってゐる。

 

 なんというか、アイドル好きの気持ちが分かった気がします、アイドルの引退はそりゃ一大事ですわ、ニュースにもなりますわ。

 

 彼女はまた別名義でか、元の名義でかで活躍するでしょうが、静かに見守ってあげたいなという所存です。

 

 ……なんの話でしたっけ。

 

チームと窓、そしてギルド

 

 周知のことですが、シャドバにはチームというものがあります。プロのチームではなく、マチュアチームのことです。

 また、巷にはというものも存在しています。2pick窓や、ビショップ窓などがそれです。

 さらに、少し前のアップデートで、シャドバゲーム内にギルド機能が追加されました。

 ですが、これらの違いとは何でしょうか。

 ここでは、以上3つの違いを考えるとともに、それぞれの関係について考えようと思います。

 

 まず、チームと窓について比較しようと思いますが、その前に、チーム・窓とは何かから考える必要がありましょう。

 

 まずチームです。

 チームとは、シャドウバースプレイヤーが共通の目的をもって集まった集団であり、現実に照らしていえばサークルに近いものであると考えます。結成には一人あるいは複数人が発起人となり、チーム結成の宣言を行えば十分です。登記等は(もちろん)必要ありません。そして、扱いは非公式なものとなります。

 

 チームの特徴は様々ですが、主には大型大会の実績などを求めて結成されている場合が多いようです。タイムラインを眺めていましても、実績の獲得を掲げているところがほとんどでした。

 

 一方で、私がリーダーを務めるBABELのように、語り合える仲間を作る場としてのチームも存在しています。

 

 他にも当然方向性はあるでしょうが、とりあえずそれぞれを類型としてみると、前者と後者では集まるメンバーの性質や、活動頻度も変わってくることが容易に想像できます。

 

 ただ、活動内容自体はどこもほとんど変わらず、チーム内大会、構築相談、対抗戦etc.で構成されているようです。

 

 ではなぜチームが誕生したのか

 

 シャドバに限らずですが、良い結果を出すための一歩として、情報収集は重要です。向上心のある人たちは、氾濫するネットの海から少しでも優良な情報を拾い出そうと躍起になります。

 それもそうで、誰かが発見した、タイムリーに勝てるアーキタイプデッキリストをコピーすれば、ある程度の勝率は確約されるのです*1。そして人々は最新の情報が集まるTwitterに集います。

 

 しかしながら、そうした情報は全てが正しいわけではありません。特に環境初日の”強いデッキ”は当てにならないなどと言われますが、そうした視野の狭さ、無知が情報に含まれていることも多々あるのです。

 また、一昔前にはインフルエンサーたちが本命でない構築や対人戦では真に有効でないカードなどを意図的に拡散させ、大会を優位に運ぼうとしました。個人でこうした情報の真偽を全て見抜くことはかなり困難です。

 

 さらに、ネット上の全員に情報を発信することは、その発信者にとって必ずしもプラスになるわけではありません。その情報ひとつで、たとえば承認欲求と引き換えに、自分が負けてしまうことすらあり得るのです。

 

 とすれば、求められるのは広くもなく、かつ狭くもない、閉じたコミュニティです。ただ、この時点ではおそらく、仲の良い何人かが集まって構築の相談をするという、よくある光景に留まっているでしょう。

 

 もしここまでの想像が正しければ、そこからなぜその非公式コミュニティがリーダーや名称を持ち、さも会社や公共団体のように振る舞うようになったのかは疑問です。長く界隈にいるわけでは無いのでわからないのですが、おそらく何かきっかけがあり、このチーム文化が生まれたはずだと考えます。

 

 もちろん、今は大型大会優勝を目指すような方々で想像を膨らませましたが、チームを組むのはそういった方だけではありません。一緒にプレイする人が欲しいという方もいます。

 個人戦基本孤独です。黙々とやっていれば飽きも来ます。しかし、語り合える人がいれば、何倍にも楽しめるようになるのです。

 

 似た例に、物書きたちや大乱闘スマッシュブラザーズのグループがあります。物書きもスマブラも、その作業・プレーは孤独です。物書きは内なる自分に黙々と向き合い、スマブラプレイヤーはCPUや顔も知らないネットプレイヤーと延々と戦うことになります*2。そうしていると、誰か語り合える仲間を探したくなるものです。

 

 そして、理由はともあれ、そうしたチームは需要が高くなっています。今もチームが無数ともいえそうなほど存在していることが、その証左です*3。解散と結成の知らせは絶えず飛び交い、人々はチーム選びには事欠かないことでしょう。

 

 

 そんな星の数ほど存在するアマチュアチームと、今比較しようとしているのがです。

 窓という名詞が画面のことを指すというのはお分かりでしょう。パソコンの「ウィンドウ」を日本語化すれば窓になりますよね。そしてゲームでよく言われる窓というのは大抵スカイプやdiscordのチャットウィンドウを指しているらしく、そのチャットウィンドウでやり取りする自分たちのことを〇〇窓と呼び始めたことが起源であるようです。

 ですから、大本をいえば、グループチャットでやり取りしている人たちのことは十把一絡げに窓と呼べることになります。

 

 こうした集合も、シャドバにおける誕生の経緯はチームと全く同じ説明ができます。

 

 相違点は活動場所でしょうか。チームはどこでもチームと名乗りさえすればチームになりますが、窓は活動場所がチャットアプリなどに限られます。

 

 ……しかし、呼ぼうと思えばTwitterのDMもチャットと呼べなくはないですし、チームでもdiscordを使っているところも多々あるわけで、そうすると区別は付けられないのではないでしょうか?

 

 この問いは少し置いておくこととして、シャドバにおける窓の特徴を見てみましょう。

 

 シャドバの窓には、大きく分けて3つの種類があると考えられます。

 

・構築窓

・2pick窓

・クラス窓

 

 構築窓は構築を研究する集団です。多くはローテーション、アンリミテッドとさらに分けられます。

 

 2pick窓は説明不要でしょう。

 クラス窓はエルフだけ、ビショップだけなどを尖って研究する集団です。

 

 以上のように、漠然と「窓」とだけ名乗っている窓はおそらくありません。もしあったとしても、周囲からは勝手に分類が行われるでしょう。

 すなわち、窓の特徴として、何かに特化しているということが挙げられます

 

 「なるほど、そこで区別できるかあ」となるのは少し早いです。チームにもこれら窓のように、クラスやフォーマットに特化したところも存在しているからです。

 

 ただ、それらの特化型チームを例外として括ることが許されるとすれば、チームと窓の違いは扱う領域の広さの違いであると言えるでしょう。

 つまり、チームがいくらか広い領域を分担して研究する集団である一方、窓はある一つの分野・領域・形式に絞って、集中的に技術向上に努める集団であるということです。 

 

 ですが、私の意見としては、もう一つの窓の特徴を重視したいと思っています。それは、窓メンバーの多くが既にチームに加入していることです。

 

 どういうことかというと、チームは窓という場を、知識を取り入れる場として考えているということです。

 

 秀逸な例をいつかに見かけたことがあります。チームとは学校のクラス、窓は部活だという例です。もしかしたら、窓を塾や予備校と言い換えてもいいかもしれません。

 

 部活や塾で得た知識を、本業とする学校で出そうというわけです。

 

 実際、ほとんどのチームが窓との掛け持ちを許可していますし、逆に窓のメンバーは掛け持ちがほとんどです。

 

 そんな窓の成立が具体的にいつかはこれも分かりませんが、少なくとも、チームより後に成立したことは間違いないでしょう。

 

 背景を少し考えてみます。

 RAGEなど大型大会優勝を目指し、貪欲に知識や経験を積もうと考える人たちは既にチームか、準チームとでも言うべき何らかのコミュニティに所属しています。そこから更に、特化した情報を得たいという考えを持った人々が呼応し合い、既にそれぞれ異なるコミュニティに属する面々が窓として結集したという背景が想像できます*4

 

 つまり、窓はチームの存在を前提として作られた枠組みであると言うことができます。

 

 そうであるなら、チームと窓は違うというよりは、相補的に一個のシステムを形作っていると言ったほうが妥当であるように思われます*5

 

 

 さて、次にギルドを見てみます。

 

 ギルドとは先日のアップデートで追加された、ゲーム内コミュニティです。

 

 これに関しては、正直実装が遅すぎたと思います。もし、ギルドがサービス開始時もしくは早い時期に実装されていれば、チームは生まれておらず、ギルドだけ、あるいはギルドと窓だけが存在することになっていたでしょう*6

 

 ですが、チームが先立って乱立している今、そこにギルドが追加されると、それぞれがどう意味付けされるのかが問題となってきます。

 

 チームがギルドに吸収される、ということは起こらなかったので、チームとギルドは別物であるというのは間違いなく界隈共通の認識です。

 

 ここで少し、私のチームが建てたギルドを参照してみましょう。

 

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 ギルドBABELは、チーム内で参加したい人が参加するという方針で作られました。よってギルドの参加人数は、チームの半分ほどです*7

 

 チームの使うTwitterとギルドに付属する機能の道具的働きとしての違いは、デッキやリプレイの共有が簡単に行えるという点が大きいところです。

 そして、チームはギルドを、その機能を利用する目的で設立します。

 ですから、ギルドの機能を必要としなければ加入の必要は無いので、参加しないメンバーが出るのも当然のことです。

 

 そして興味深いのは、ギルドBABELには元チームメンバーが2人在籍しているということです。なお、その2人は現在両者とも他チームに加入しています。

 

 これはつまり、その両チームとも、他チームのギルドへの所属を許可したということ、すなわち、ギルドをそれほど重視していないということを意味します。重視していれば、他チームのギルド(ただのギルドではない)への参加を認めることはしないでしょう*8

 

 そして私も、私見としては、ギルドはデッキやリプレイの共有などといった機能に価値はあるものの、詳しい話し合いには不十分ではないかと考えています。ギルド掲示板に細かい場面についてスクリーンショットを貼り付けるなどはできないので、どうしてもTwitterなど他の場と行き来することになるからです。

 

 ですから、デッキ共有は「面白いデッキができた」とか、リプレイ共有も「めっちゃ綺麗に勝てた」とかいった具合に、話し合うというよりは盛り上がる場として適性があるように思われます。

 

 そこも考えると、チームリーダーが、チームメンバーが他ギルドに所属することを禁止する必要は無さそうです。

 

 ですが一方で、ルドにもチームと同じように、対抗戦や内戦をしているところもあるようです。

 とするとギルドとチームは活動場所が違うだけということになります*9。どちらも活動場所以外は本質的に同じであるからです。この場合、チームとギルドは別であるという認識があるとはいえ、区別をあえて付ける意味は無いように見えます。

 

 しかし、チームがギルドに先立って存在していたことを考えると、今のチームをギルドと呼び直すことにもやはり積極的意味は見出せませんし、一方ゲーム内コミュニティの方は運営によってギルドと名付けられてしまっているので、その名称は絶対的に揺るぎません

 少し煩わしいですが、対抗戦等を行うギルドに関しては、チームはチーム、ギルドはギルドと呼んでいく他無さそうです

 

 さて、この記事では煩雑にではありますが、表題について少し考えてみました。

 

 しかしながら、お分かりのように、私はほとんどの箇所で、裏付けをとっていません。根拠はほぼ私の経験です。ですから、この記事には「視野の狭さや無知」が含まれています。

 そして、例外は必ず存在します。全てを包括する命題はおそらくありません。

 以上、ちゃっかりと保険をかけて、この記事を終えます。

 

 

*1:今は事情が違うとはいえ、リストの徹底や環境の模索などにおいては、情報は未だかなりの価値を待ちます

*2:友だちがいれば別ですけど…ね…

*3:チーム解散の報が流れる一方で、新チーム結成や再結成の知らせが飛び交っているため、数の補足の難しさがそう感じさせているのかもしれませんが。私の知る限りでは、シャドバチームまとめ様(@sv_teamlist)が情報をまとめるべく奔走していらっしゃるようなのですが、しかし全てを網羅することは中々に困難でしょう。

*4:しかし素朴な疑問ですが、チームが自分たちの研究成果の漏洩を恐れているとするなら、窓に属することを許すというのは矛盾が生じていないでしょうか。さらに、他チームのメンバーがほとんどの中で情報を得るには、自分も情報を開示しなければなりません。しかし、自分が情報をある程度しか開示しないということは、他の面々もその程度にしか情報を明け渡さないということです。そのような状況で、窓が十分に機能しているかどうかは少し疑問です。

*5:内戦や対抗戦をチームだけでなく窓も行うのは、前者が結束のために重きを置き、後者は技術向上に重きを置いていると考えれば合点が行くのではないでしょうか

*6:ギルド構成員がTwitterによって募られ、Twitterでの交流も同時に行うような体系を想定しています。グラブルやプリコネなどが良い例です

*7:画像は設立直後のものなので1人です

*8:ただ、片方はチーム掛け持ちを許可しており、もう片方は掛け持ちルールが公表されていないため、はっきり言えることではありませんが

*9:人数制限はチームが10〜20人ほどの構成員を抱えるにとどまっているところを見れば気にしなくて良いでしょう