とらじぇでぃが色々書くやつ

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主にVTuberの記事を投稿中。

サロメ嬢とスーパーチャット 〜仕事と遊びの間で〜

にじさんじにデビューした新人、壱百満天原サロメ。様々な原因が複合的に作用した結果、彼女は大人気VTuberに一躍仲間入りした。今の登録者数はおよそ80万人。このままのペースであれば、あっという間に100万という大台にも乗ってしまうことだろう。

本稿では、なぜ彼女がこのような躍進を遂げたのか、というマーケティングに関わる話には踏み込まない。そのような話は誰でも出来るし、実際多くの人がこれから分析を繰り出していくだろうから。

本稿で考えたいのは、VTuberという仕事についてである。

VTuberには、企業がバックにつく場合があり、私たちはそれを「企業勢」や「企業VTuber」などと呼ぶ。その反対である「個人勢」とは対照的に、彼らには利益を出すことが求められている。雇用者が、雇用主の利益となるよう働くのは当然のことである。それが雇用関係というものである。VTuberの場合は、企業所属の場合、個人事業主扱いで活動するパターンも多々あるようだが、しかしそうした企業とVTuberの関係は、雇用-被雇用の関係に読み替えても特に差し支えないだろう。

そうしたVTuberを、「仕事としてのVTuberというモデルとして扱おう。客観的に見て、彼らの最大の目的は、利益を創出し、それを企業に還元することである。彼らはそれをもって、事業を拡大させ、ライブ(配信という意味ではなくコンサート等演目としてのライブ)などを行う。それが場合によっては、「感動」を生み出す。

あるモデルを提示したならば、それに対比させるモデルが必要であろう。それは、「遊びとしてのVTuberである。彼らは、利益など度外視する。VTuberは、利益の創出手段というよりは、自己表現の手段である。彼らは、例えば中高生がラノベを書いたり、コミケで同人誌を売ったり、主婦がフリーマーケットで自作のネックレスを売ったりするように、VTuberで必ずしも大きな利益を出そうとは考えていない。むしろ、考えているのは、自らの楽しみについてである。

ここでいう楽しみは、快楽(pleasure)に質が存在するとすれば、高級なものである。つまり、何かを食べること、睡眠をとること、性欲を満たすことなどではなく、知的・人格的発展に基づくものである。自己を表現することは、生理的欲求を満たす以上の快楽を発生させるように私は思う。しかし、たとえ読者がこれに賛同できなくても、ここでいう楽しみが、自己を発展させることに由来するのだということさえ理解してもらえれば良い。

もちろん、仕事としてのVTuberにも、こうした楽しみはあるだろう。利益を創出するとは言っても、VTuberの成功は基本、本人の人格的な発露にかかっている。しかしながら、目的がどこにあるかという観点においては、やはり両者は異なる。仕事としてのVTuberが利益を目的とするのに対し、遊びとしてのVTuberは、その楽しみそれ自体を目的とするのである。

では、この両者は互いにどのような関係にあるのか。仕事としてのVTuber(以下WVT)は、今述べたように、遊びとしてのVTuber(以下PVT)とは目的の点で一線を画する。しかし、その過程/手段については、両者を見分けることは難しいだろう。というのも、VTuberはコンテンツの発信者であるから、その発信過程においては受容者をやはり意識しなくてはならない。だが、その意識の程度は主観的なもので、傍目には判別がつかないのである。たとえば、WVTは、利益を創出するために、ファンにもっと受け入れられるあり方を模索するだろう。他方、PVTは、自己を表現し、それによって悦びを得るために、なるべく自らの思想に反しない形で、ファンの理想像との擦り合わせを行うだろう。ここでは、WVTはなるべくファンの理想像を取り込もうとする一方で、PVTは自らの楽しみを優先する点から、なるべくPVT自らが意識する人格と、ファンが理想とする人格とが折衝されるよう計らう。しかしながら、客観的には、そのVTuberがこのどちらの方針を取っているかは分からないことが多い。なぜなら、多くのVTuberは、中の人を秘匿するからである。中の人が秘匿されるなら、その中の人の人格がどの程度ファンの理想によって捻じ曲げられているのか、我々には知りようがない。

ゆえに、WVTとPVTという区別は、あくまで客観的に知り得る目的による。だから、例えばホロライブ所属の常闇トワはWVTである、などとは自信を持って言えるのである。

しかしながら、PVTなどというものは、真に存在するのだろうか。VTuberは、基本的にYouTubeで活動する。YouTubeは、Googleが運営するプラットフォームであり、利益を生み出す場である。動画を再生すれば、しきりに広告が流れ、それを止めようと思えば金銭を要求される(しかも月あたり1000円を超える額だ)。その広告収入は、もちろんGoogleにも入っているが、場合によっては、その動画の投稿者の懐にも入る。読者もご存知の通り、それゆえに、YouTuberや VTuberが成立しているのである。

すると、収益化したVTuberは、全員WVTと言えるのではないか、という問いが頭をもたげる。つまり、たとえ企業勢ではなくても、全ての収益化したVTuberには、Googleという大きな雇用主がいて、それにVTuberは利益を還元するよう働いているのだ、という捉え方である。これは、ある意味で間違ってはいないが、WVTの定義からすると微妙かもしれない。WVTで想定していたのは雇用-被雇用の関係、すなわち、利益を出さねばクビになる関係である。その点、Googleはあなたが利益を出さなくても困らない。あなたが遊んでいようが、ルールを破らない限りは放っておく。

つまり、収益化したVTuberがWVTといえるのは、VTuberの他に職がない場合である。しかし、繰り返しになるが、VTuberは中身が秘匿されている場合がほとんどである。昨今は、プライベートを公にする、あるいは実際の生身をカメラに写すなどして人気を博するVTuberも存在する。その場合、彼らがPVTであるかWVTであるかは判別できるだろう。しかし、一般的・伝統的なVTuberは、中身を公開しない。ではその場合、PVTはどこにいるのだろう。

ここまでの議論から、(中身を秘匿するVTubeに限ってだが)PVTは確証的に存在し得ないことが分かる。PVTは、この資本主義社会において、幽霊的である。遊びとしてVTuber活動を行うなどということを、どれだけの人がしているのだろうか。そんなものは、結局存在しないのではないか。仮に存在したとしても、それは資本主義的円環に巻き込まれて、消えてしまうのではないか。

PVTの在り方は、人格の発達を目的とする点で、魅力的である。利益ではなく、あくまでも自らを高めることが目標であるその姿勢は、直観的には人間に相応しいように思うし、功利主義的観点から言っても、WVTのように利益の増進を目的とすることにより自らを殺さねばならないことがあるとすれば、より折衝を試みる余地のあるPVTの方が、擁護可能だろう。

しかし、そのPVTは、あると思っても、あたかもそうであるように見えるのみである。言い換えれば、PVTは、私たちファンの側にある理想である。

ところで、壱百満天原サロメ(以下サロメ嬢)はスーパーチャット(以下スパチャ)を読み上げない方針を打ち出した*1

スパチャをすればお礼が貰えるというのは、「金を払えばサービスが手に入る」という論理であって、非常に資本主義的な思考である。

VTuberでありがちな資本主義的風景としては、VTuberが、少ない配信時間に対してその二倍や三倍の時間をスパチャ読み上げに費やす、あるいは、額が大きければ大きいほど、多大なリアクションを行うといったものが挙げられる。後者は等価交換を内面化している典型例であるし、前者は貨幣の奴隷となってしまっている典型例である。

スパチャの読み上げをしないという方針は、もちろんサロメ嬢は意図していないだろうけれども、PVTの在り方に近いと私は思う。

贈与は、資本主義に対抗するあり方として持ち出されることが多い。贈与は非対称である。あなたが誰かに誕生日プレゼントを贈ったとして、次のあなたの誕生日に、その人がプレゼントをくれるとは限らない。資本主義的思考に囚われた人は、ここでプレゼントが貰えないと、ひどく怒り出す。また、貰えたとしても、値段を調べて、それが自分のプレゼントの値段と吊り合っていないと、やはり憤る。彼らは、そういった贈与こそが、愛を可能にするのだということに気付かない。

スパチャを何故するのか。それは愛ゆえではないのか*2

サロメ嬢の方針は、この意味で非資本主義的である。

ところで、WVTの悪い側面として、コンテンツ受容者に与える悪影響がある。VTuberが油断して、WVTだと露骨に知れてしまうと、つまり、仕事として、労働者として、このVTuberは働いているのだと知れてしまうと、ファンは幻滅する。なぜなら、表向き、WVTは「私たちのために」活動しているからだ。

サロメ嬢は、定義から言って、間違いなくWVTである。なぜなら、彼女はにじさんじ所属であり、ANYCOLORのサポートがあるから。雇用-被雇用の関係は、確実に存在する。被雇用者としてのサロメ嬢の究極目的は、利益増進である。

しかし、サロメ嬢は、それを私たちに感じさせない。

サロメ嬢のほぼ完璧なRPは、もしかすると、彼女の心を蝕んでいるかもしれない。彼女は、自分を殺しながらVTuber活動を行なっているのかもしれない。だが、それは私たちには知り得ないことである。私たちは、VTuberに関して、知っているようで何も知らないのである。

だから、本稿の結論は、次のようである。あらゆるVTuberは、VTuber以外に職がある者を除けば、何らかの意味でWVTである。そして、それは多くの場合知り得ないので、ほぼ全てのVTuberが WVTに該当することになる。PVTは、この世界に実際に存在するというよりは、幽霊的である。PVTは、WVTの中にも、彼/彼女があたかもそうであるかのように見え隠れすることがある。そして、サロメ嬢は、稀有な存在である。なぜなら、その卓越したRPによってWVTであることを上手く隠し、またスーパーチャットの読み上げという巻き上げ行為を控えることによって、あたかもPVT的性格を有しているように見えるからである。

もちろん、卓越したRPを行うVTuberは他にも存在するが、サロメ嬢のRPの特徴は、リアルを感じさせない、あるいはその(本当は)バーチャルなRPが現実であるかのように見える点である。この特徴は、おそらくコラボ配信を一度でも行えば失われるだろう。コラボを通してサロメ嬢に外界が入ってくる、あるいは、サロメ嬢が外界に取り込まれると、WVTであることは隠してはいられない。そこで失墜するのか、さらなる化学反応が起こるのかは、様々な原因によって決定されることであり、これもまた、我々が知ることのできる話ではない。

*1:何かしらの還元を行いたいとも同時にアナウンスしていた、ということは付記しておく。その形によっては、本稿の内容を一部修正しなければならないかもしれない。

*2:私はそもそも、スーパーチャットというただの金銭で愛を表明すること自体に共感できないが。あなたは、封筒に現金を入れてそれを誕生日プレゼントにするのか? もちろん、VTuberにモノを贈ることは大抵不可能だが、それを差し引いても、個人的にはあまり理解ができない行為である。

「百合カプ」の左右ってぶっちゃけどうなの?

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このエントリでは、百合カップリングの左右問題について検討します。

ここでいう「左右問題」とは、「百合は左右を気にしなさすぎる」という指摘に関するものです。すなわち、「百合が左右を気にしないのはなぜなのか」が本エントリのテーマとなります。

まず、カップリングについての簡単な説明をしたのち、BLにおける左右とその問題点を指摘します。続けて、百合の仮定的な定義を提示し、百合の左右について考察します。最後に、BLと百合、それぞれの文脈を峻別することの重要性を述べ、衝突の緩和策を二つ提示します。

なお、筆者である私は「カプ」とか「推し」とかそういった言葉を普段使わないので、文中でおかしな使い方をしているかもしれません。その際は温かい目で見て頂けると幸いです。

 

 

問題設定

ひぐらしのなく頃にシリーズの「さとりか」。プロジェクトセカイの「まふえな」。アサルトリリィの「たづりり」。こうした四文字を「カプ名」や「CP名」といいます。「カプ」、「CP」とはカップリングの略です。始めの二文字と、それに続く二文字はそれぞれ別の人物を表しています。たとえば、「さとりか」であれば「北条沙都子」と「古寺梨花」からそれぞれ二文字ずつとって「カプ」を表現します。

この四文字表記には、左右が存在すると言われます。「受け」と「攻め」というやつです。一般に、前者(左)が「攻め」、後者(右)が「受け」になります。この「攻め」とか「受け」とかいうのは、BLであれば肉体関係を表すもので、挿入側が「攻め」、被挿入側が「受け」になるらしいです*1

本エントリが問題にするのは、百合における左右です。

ピクシブ百科事典では次のように述べられています。

 

百合では受け攻めはあまり意識されない、もしくは固定されない(→リバ)ことが多い。カップリング (かっぷりんぐ)とは【ピクシブ百科事典】 「同人用語のカップリング」の項より]

 

百合では、BLでいうところのリバが常態化しており、「攻め」と「受け」の概念が希薄である。カップリング表記の際、例えば魔法少女まどか☆マギカ鹿目まどか暁美ほむらカップリングは「ほむまど」とか「まどほむ」とか呼ぶが、この場合呼び名の順序が違うだけで、基本的には区別されない。百合 (ゆり)とは【ピクシブ百科事典】「解説」の「カップリング表記について」の項より。太字及び、ほむまど・まどほむの鍵括弧は引用者による]

 

ここでは、「百合が左右(=受け/攻め)を意識していないこと」が指摘されています。後者は少し非難めいた書き方に見えますね。それはおそらく気のせいではありません。その少し後の箇所も引用しますと、次のようにあります。

 

ただし、百合でもたまに固定の人が存在し、そのような人はカップリング表記に拘り、表記が雑であることに不快感を示すことがある。[同上]

 

つまりこれは、「百合のカップリングでは左右があまり重視されないけれども、だからといって左右を意識しないことはトラブルに繋がるよ」という注意書きです。

ここで注目したいのは、「表記が雑」という表現です。ピクシブ百科事典の筆者(あるいは筆者たち)がそう思っているかどうかは分かりませんが、どうやら界隈の空気として、「左右が意識されていない=表記が雑」という認識は、ある程度市民権を得ているとみてよさそうです。

「本当かな?」と思った方は、Twitterで「百合 左右」と検索してみてください。なかなか過激なツイート群を見ることができると思います。

私は「百合は左右を意識すべきだ」という立場を支持しません。しかし、「百合は左右を意識しなくてよい」という立場も完全には支持できません。

ではどうするか。

私は、そもそも左右という土俵に乗らず、そこから一旦降りることを提案します。

それについて説明するには、「BL」と「百合」の各性質について比較検討が必要でしょう。

なので、次項ではまずBLのCP名について検討します。

 

BLの左右とその特徴

先述したように、BLにおいてCP名とは左右を表すものであり、そして左右とは一般的に肉体関係を表すものです。

ピクシブ百科事典に「例え前戯の段階ではリードされていたとしても、最終的に挿入すればそれは「攻め」なのである*2」とあるように、男性器の挿入/被挿入が「攻め」か「受け」かの絶対的基準になります*3

これは一種のラベリングであるということもできます。たとえば、太郎と次郎がいて、このカップリングを「タロジロ」と呼ぶか「ジロタロ」と呼ぶかによって、どちらが「攻め」でどちらが「受け」か、一目瞭然になるのです。

この分類法は、コンテンツの受け手にとって有利になります。利便性があるのです。

思うに、ここでの利便性には二つの種類があります。一つは、「見たいものを探せる」という積極的利便性。もう一つは、「見たくないものを見なくて済む」という消極的利便性

言い換えると、積極的利便性は、たとえば「太郎が攻めで次郎が受けのカップリングが見たい」という人が、任意のサイトで「タロジロ」と検索すればお目当てのコンテンツを享受することができるという利便性です。

また、消極的利便性は、「太郎は攻めで次郎は受け、それ以外認めない」という人が「太郎が受けで次郎が攻めのコンテンツ」に辿り着かない利益を得ることができるという利便性です。

「地雷」という一見大げさにも見える言葉が飛び交う界隈ですから、得るべくして得た発明と言うべきでしょう。

さて、このCP名は、次のような三つの特徴を有しています。

①CP名が性行為を背景にしている点②ゆえに二人の関係が閉じる点③そして四文字表記をする以上、左右が発生する点

まず①について、BLにおけるCP名は、左右表記、そして性行為と直結するために、構造的に大きな特徴を有しています。すなわち、CP名がただちに性的関係あるいは性行為を惹起させるという特徴です。「いや、私はCP名を見てもそうは思わない」と仰る方もいるかもしれません。しかし、私は主観的な話をしてはいません。CP名が受け/攻めを背景としていること、そしてそれが性行為を基礎として持っていることから考えれば、論理的帰結として一般的にそう考えるのが妥当だという話をしているのです。

次に②について、「タロジロ」の例を再び使うと、このCP名では太郎と次郎の役割は固定的です*4。つまり、太郎が攻めて、次郎が受けるというキャラの役割は決まっているのです。もちろん、攻め・受けには様々な種類があるのだろうと推測します。ですが、CP名単体においては、そういった特殊性は捨象されます。「リバ」か否かなどをさらに追記せねばならないのは、まさしくその証左です。この役割固定性ともいうべき性質は、百合については大いに問題となるのですが、それは後述します。

最後に③について、たとえば「タロジロ」というCP名を見た時、BLの文脈に親しい人は、十中八九、太郎を攻め、次郎を受けだと見ます。BLの文脈においては、CP名は必ず左右=受け/攻めを発生させるのです。

②と③は同じことを述べているように見えますが、少し異なります。②が説明するのはキャラの役割という作品内容に根差す問題です。他方で、③が説明するのはCP名そのものの問題です。

この三つの特徴のうち、①は全てのBL文脈に当てはまると思われますが、②と③については「左右固定派」にのみ当てはまり、「同軸リバ派」には当てはまらないことには留意すべきでしょう。

一度議論をまとめましょう。BLにおいて、CP名は三つの特徴を有します。一つ目は、一般的に、それが性行為と直結していること。二つ目は、CP名で表記された二人は役割が固定されること。三つ目は、CP名は左右を発生させること。

そして、さらなる特徴として、CP名は利便性を有しています。「見たいものを見ることができる」利便性と、「見たくないものを見ないことができる」利便性です。

さて、次項では百合におけるCP名について検討しましょう。

 

百合の定義と特徴

冒頭近くで例を挙げたように、百合でもBL同様、四文字表記でカップリングを示す場合があります。たとえば、花子と佳奈子のカップリングがあったとして、それを仮に「ハナカナ」としましょう。この場合、「ハナカナ」は「花子と佳奈子のカップリングである」ことを示すラベリングとして機能しています。

しかし、先に述べたように、百合ではBLと違って「左右」があまり注意されません。

BLの文脈では、「タロジロ」とあればそれは「太郎が次郎に対し、性行為の場面で挿入側に立っている」ということを指します。

ですが、百合では「ハナカナ」とあっても、花子が加奈子に優位をとるとは限りません。

この事態は、一体どのように理解すればいいのでしょうか。

まず、議論の前提として、百合の規約的(stipulative)な定義*5を提示します。

 

百合とは「女性間における、非対称的なケアの相互的な応酬」である。

 

この定義は、VTuber批評などで有名な、美学者の難波優輝氏のツイートを参考にしています。

ケアというのは、相手を励ますとか、相手の話を頷きながら聞くとか、一緒に時間を過ごしてあげるとか、相手の辛い気持ちに同情して一緒に泣くとか、そういった一連の行為のことです。

ケアの大きな特徴に、非対称性があります。なぜなら、たとえ相手を励ましても、見返りがあるとは限らないからです。それはプレゼントを贈るようなもので、たとえば相手の誕生日にクマのぬいぐるみを贈ったとしても、次の自分の誕生日に相手が何かをくれる保証はありません。そのように、ケアは非対称性を持っています。一方向性といっても良いかもしれません。

それが奇跡的に相互に応酬されているとすれば、つまり、相手のケアに私のケアが続き、その私のケアに相手のケアが続くような関係が在るとすれば、そこに百合が見出される余地があるのです。

この「相互的」というのが非常に重要となってきます。

AとBが相互的な関係にあるというとき、AとBの関係は円環状になります。A→B→A→B→A→……といった具合に。円はどこでも始点となり得るし、終点になり得る。逆に、始点は存在せず、終わりも存在しない、ともいえる

花子と佳奈子の関係は、そのように理解されます。すなわち、花子と佳奈子の関係は、動的で、流動的なのです。決して静的、固定的なものではありません。花子が佳奈子に優しく声を掛けることもあるし、佳奈子から花子の手を取ることもあるのです。

百合において左右が重要でないのは、まさしくこの意味で理解されます。

「ハナカナ」と言った時、それは「花子と佳奈子の相互的なケア関係」以上のものを一般的には指示しないのです。

一般的には、と言ったのは、成人向けや一部のタイプの作品では例外があるかもしれないと思うからです。成人向けには性行為の描写があるだろうから、そこではBLの文脈が顔を出すこともあるかもしれません。また、一部の作品、つまり精神的な格差を重んじるような作品などでは、精神的に強い立場の人間を左に表記するといったこともあるかもしれません。

留保はつけましたが、百合のCP名はケア関係を基礎に持っているという理解は、おおむね妥当性を持っていることでしょう。

 

BLの文脈、百合の文脈

前項では「なぜ百合は左右を意識しないのか」という問いに、一つの答えを提示することができました。

ではもう少し踏み込んで、ここではBLの文脈と百合の文脈の衝突について考察してみましょう。

前項の議論では、「ハナカナ」という表記は「花子と佳奈子の相互的なケア関係」を指示するものであって、「花子が佳奈子を攻める」といった意味は基本的に含まれないことが示されました。しかしながら、これは百合の文脈における読解であることを忘れてはいけません。

もしBLの文脈に親しい人間が「ハナカナ」というCP名を見たとすれば、どうでしょう。その人はおそらく、「花子が佳奈子をいじめる話なんだろうな」などと理解するはずです。そして、場合によっては、佳奈子が花子より優位に立っていたり、相互的*6だったりして、その人は憤慨するのです。「話と違う!」と。

 

すれ違いを失くすには

この悲しいすれ違いを失くす手段は、二つ思いつきます。

一つ目は、百合の文脈とBLの文脈を峻別すること。二つ目は、百合コンテンツでは四文字表記を止めてしまうこと

 

解決策Ⅰ:BLの文脈と百合の文脈とを峻別する

「峻別」というのは難しい言葉ですが、ここでは「はっきり区別する」というくらいの意味合いで理解していただければ結構です。

BLの文脈と百合の文脈を峻別すること、つまり、百合にBLの文脈を導入しないことには、正当性があります。

「人に迷惑を掛けてはいけない」という常識的なルールがあります。たとえば、人にタバコの煙を吹きかけることは、副流煙や吹きかけられた人の選好によって、倫理的非難に値します(そういう「シチュ」でなければ)。壁の薄いマンションで、大音量で音楽を掛けることも非難に値します。

そのような観点から、BLの文脈で百合を読解する問題点を指摘します。

先に、BLの四文字表記=CP表記について、三つの特徴を挙げていました。

 

①BLの文脈におけるCP表記は、性行為を前提とする。

②BLの文脈におけるCP表記は、キャラクターの役割を固定する。

③BLの文脈におけるCP表記は、当然のごとく左右を有する。

 

まず、①について。百合は必ずしも性行為を前提としない点で、BLの文脈とはそぐわないところがあります。百合を描いた作品には当然性行為を描いたものも多いですが、それだけ友愛関係を描いたものも多数存在しています。

また、世の中にはアセクシャル/アロマンティックのキャラクターを描いた作品も存在しています。アセクシャルとは他者に性的に惹かれない/惹かれにくい性質、アロマンティックとは他者に恋愛感情を抱かない/抱きにくい性質を指します。性行為を前提とした読解は、そうしたキャラクター性を締め出している……とは言わないまでも、ファーストインプレッションとしてアセクシャル性/アロマンティック性を惹起できないことには弊害があると思われます。

ここで、「BLは性的関係ばかりを重視しているのではない、その過程をも重視している」という声があるかもしれません。それはもっともですが、ここで問題視しているのはBL作品の是非についてではなく、BLの文脈でCP名を読解することについてです。BLの文脈で百合のCP名を読解すると、性的関係や性行為が潜りこむことに弊害を感じているのです。

(参考にしたツイートを以下に引用します)

 

次に、②について。BLの文脈で百合のCP名を読解すると、役割が固定されて見える恐れがあります。先に述べたように、百合は一般的に、始点と終点がない(あるいはどこでも視点と終点になり得る)円環状の性質を持っています。百合における各キャラの役割は、固定的ではなく流動的・可変的なのです。CP名をBLの文脈で読んでしまうと、作品を読んだ際、描かれたキャラの流動性に面食らってしまうことでしょう。その際ダメージを受けるのはBLに親しい読者の方です。そして、もしその読者が作者に直談判しにいって、文句を言ったとしたら、作者は多少なりとも傷ついてしまうことでしょう。これはお互いにとって害があります。

 

最後に、③の左右の存在。繰り返しになりますが、これは②とは違います。②はキャラの役割という作品内容の問題に言及するのに対し、③はCP名そのものの問題に言及してるからです。

これも同じく、百合は円環状の性質を持つことから説明ができます。始点も終点も持たない百合は、当然左も右も持ちません。にもかかわらず、BLの文脈による条件反射的な読解(四文字を見たらそれはCP名である、という反射)で左右が持ち込まれてしまうと、なし崩し的にBLの文脈が導入され続けてしまう恐れがあります。すると、①や②といった問題が浮き彫りになってくるのです。それゆえ、CP名を採用するか否かについても検討の余地があると考えられます(解決策Ⅱの項で述べます)。

こうした衝突は一定の害を有するうえ、何より悲しいことです。

しかしBLの文脈と百合の文脈を峻別することで、衝突は緩和されることでしょう。

たとえば「ハナカナ」を読んだBLに親しい読者は、BLの文脈でCP名を読解することにより、「これは花子が佳奈子をリードする話なんだな」と思ったとします。しかし、実際描かれている場面の一部は、佳奈子が花子をリードしている(とその人が思った)ものでした……。しかし、そのとき作者は読者を騙したわけではありません。作者の思う相互的なケア関係を描いたのみです*7。また、そうした事例が起こったとしても、百合愛好家たちが「左右表記に関して乱雑な扱いをしている」のではありません。百合の文脈においては、CP名は性的関係ではなくケア関係を示しています。ケア関係は相互的です。ですから、百合愛好家はそこに左右を見出してはいないのです*8

BLの文脈がある一方で、百合の文脈もまた存在します。百合に関しては、自身に内面化されたBL的観点を一度保留してから百合に向きあうことが大事でしょう。

しかしもちろん、BLの文脈におけるCP名の利便性を否定するわけではありません。地雷を避けたいという思いを一因として細分化してきたBLは、独自のシステムを開発することに成功しました。その一つが「左右」という発明であり、その利便性には目を見張るものがあります。

百合においては、その利便性はあまり活かせないでしょう。なぜなら、BLにおいては性的関係が重視され、それに基づいてCP名が決定されますが、百合においてはケア関係が重視されるため、CP名が一意に決まりません。繰り返し述べているように、ケア関係は相互的ですから、絶対的な「左右」を決定できないのです。

BLに親しい人たちが「利便性に欠ける」という理由で百合を非難するならそれは妥当なものでしょう。ですが、そもそも百合の文脈では両者の相互的・双方向的な(場合によっては対等な)ケア関係が喜ばれていることを考えれば、それは仕方のないことなのです。

 

解決策Ⅱ:百合では四文字表記をやめる

二つ目の解決策は、「ハナカナ」のような四文字表記が左右概念を喚起するなら、いっそのことそれを止めてしまおうというものです。「左右」という観念が衝突の種となっているなら、それを摘み取れば話は早いですよね。

実際、解決策Ⅰのような峻別を呼びかけるやり方には限界があるでしょう。もし呼びかけに効果が出ず、マイナスの厚生が発生し続けるようであれば、四文字表記をやめてしまうことにも一考の余地があるはずです。

しかし、話はそう簡単には行きません。

なぜなら、どう表記すれば百合の文脈を適切に反映できるか不明だからです。

思いつく限りで一番良いのは、「ハナカナは尊い」をやめて「花子と佳奈子の関係は尊い」と言うことかもしれません。

しかし、これはインターネットにはかなり不向きでしょう。インターネットは「速い」環境です。ですから、少しでも多くの情報を仕入れ、少しでも多くの情報を流す、それがインターネットで生きる術となります。であれば、四文字の「ハナカナ」と、十文字近い「花子と佳奈子の関係」では、後者が圧倒的に不利です。

BLの文脈と距離を置きながら、百合の文脈を適切に表現でき、かつ効率的なフレームワークがあれば、問題は解決すると思われます。ですが、それを見つけるのが難しいのです。これは今後の課題でしょう。

 

まとめ

ここまで、BLの文脈と百合の文脈という二項対立を主軸に据え、百合がケア関係を重視すること、そして両文脈の峻別が重要であることを述べてきました。

ここで断っておきたいのが、「相互的な百合」というキーワードに反応して、「こいつは『BLは一方的だ』と決めつけている!」とは受け取らないでほしい、ということです。今回、BLと百合とで比較をしているのは、CP表記という次元においてです。なるほど、作品内容の次元に目を向ければ、BLには男性同士のケアを描いたものも多いです。その点、百合とは共通項を見出せます。しかし、CP名の次元においては、やはりBLが性的関係に重きを置き固定的な見方をする*9一方で、百合はケア関係に重きを置き流動的な見方をするのだと、私は思っています。

もちろん、本エントリで述べたことには、多くの例外があるでしょう。これは一般論です。まず一般的なことを語り、そこから特殊なことを語っていく。それが重要です。このエントリは道の途中に過ぎません。

 

私が望むのは、BL、百合の両界隈が発展することです。このエントリがその役に立つことを願っています。

*1:攻め (せめ)とは【ピクシブ百科事典】を参照

*2:攻め (せめ)とは【ピクシブ百科事典】 「2.の概要」の「ボーイズラブ(BL)における攻め」の項より

*3:精神的優位さを左右の基準にすることもあるようだが、ここでは一般論に注力する

*4:これが逆で、キャラクターの役割が固定されているから左右が発生しているのだと理解しても、ここでは構わない。この箇所については、どちらで解釈しても議論には支障がない。

*5:定義についてはDefinitions (Stanford Encyclopedia of Philosophy)を参照

*6:BLの言葉でいえばリバということになるだろうか。しかし、リバは相互的な肉体関係を観念するのに対し、百合は相互的なケア関係を観念する点で、互いは異なっている

*7:これも繰り返しの注釈になるが、一部の作品、特に成人向けに関してはこの限りではない

*8:もちろん、全員がそうと主張するわけではない。だが、少なくとも「左右を意識しない」人々はこの認識に立ってると考えて良いだろう

*9:リバと呼ばれる方々に関しては、固定的という見方は当てはまらない。だが、性的関係に基準を置く点では、やはり百合と距離があるといって良いだろう

シャドバ十禍闘争 カード絵評価

 

気が向いたのでやります。

絵とかそこらへんで感想言うだけです(気色悪かったらすいません)。

基本進化前の話をしてます。

効果の考察とかはありません。

 

呪われた翼・シロ

呪われた翼・シロ呪われた翼・シロ

儚げな絵がいい。進化後の書き込みすごいね。
暗い目が印象的。なんか最近エルフを看病する薬屋の話が流れてくるけど、ああいう風に元気にさせたくなる顔してる。

ちなみに第一印象は堰代ミコだった。

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二次元絵は所詮パーツの組み合わせなんですよ(キリッ みたいな話もあって、やっぱりどこかで見た顔になるのは避けられないんかなあ、と思うなどした。

 

不吉の人形師

不吉の人形師不吉の人形師

その流れで行くと、この子は(ネットでもさんざん言われていたように)ゲゲゲの鬼太郎猫娘っぽい。

まあそれはそれとして、サイズ感がかなりいい。ぬいぐるみ(?)と骸骨犬(?)がバックに描かれているおかげで、こじんまりしたかわいさがよく出てると思う。全身のバランス感も絶妙。少女然としたフリフリスカートもいい。あと脚が良い具合にぷにぷにしてそう。かわいい。

 

リザードハート・フィルレイン

ブリザードハート・フィルレインブリザードハート・フィルレイン

知ってる子きた。

「ロストサムライ」とか「ウーシンマスター」とかいまいちパッとしない二つ名もらってるのもいるので、マシに見える名前。

裸より性的な格好してるけど大丈夫か。

進化したら布増えるけどそれはそれで刺さるやつがいそう。ランジェリーっぽい

 

花束の妖精

花束の妖精花束の妖精

絵柄は一昔前の雰囲気。

ふつうにかわいい。

物語の主人公にできるかできないかのギリギリの顔してる。

 

ブルームウィッチ

ブルームウィッチブルームウィッチ

青と赤の色合い、しなる箒から、活発な性格が見え隠れしてる。

ストライプの靴下も幼さが見て取れていいね。

でもなんでちょっと顔を赤らめてるんだ。

 

 

ウィンディドラゴニュート

ウィンディドラゴニュートウィンディドラゴニュート

ずんだもんのようなアホ面。

持っている杖との対比で小ささがよく分かる。

かわいい。

 

 

スキャットリーパー

デスキャットリーパーデスキャットリーパー

順当にかわいい感じ。

進化後の白髪の方が人気ありそう。

パッと見たときの明るい感じもいいし。

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ヨーソロー

 

冥府の召喚者

冥府の召喚者冥府の召喚者

進化前も進化後もかなり好き。

召喚?した子を見る目が優しくていいね。

 

アストロウィング・ララミア

アストロウィング・ララミアアストロウィング・ララミア

脚がよすぎる。発狂しました。

よく見たらセーラー服みたいなの着てるんだね。

それでさらに金髪碧眼。

オタク殺しの極みみたいな見た目、そらスキンにもなる。

 

ドールレディ

ドールレディドールレディ

なんかエチな雰囲気出てるな

 

 

 

他だと、イラスト違いのララミアvs.リーシェナも好きだった。

あとは関係ない話。

最近、つるおか(かものはし)の動画を観てて、シャドバの知識が勝手につきつつある。なんかネクロがアホほど進化しててドン引きした。乗り物なんてあるんだー、と思ってたら次スタン落ちらしい。ビショップは相変わらずちまちま戦ってるね。でもホーリーセイバーってやつ、かましたら気持ちいいだろうな。

そういえばダークジャンヌがスキンになるらしいじゃないですか。人気ありそうなロリっ子と花澤香菜を抑えてるあたり、やっぱ昔からファンを集めてた結果が今に繋がってるんだろうな。ぽれ、嬉しいよ(後方腕組み

 

以上、たまには中身のない記事を書こうという試みでした。

ラプラス、お前シャドバ極めろ

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ホロライブ新人のラプラス・ダークネス。

初配信後、彼女が二番目のゲーム実況に選んだのは、サイゲームスが誇るカードゲーム、我らがシャドウバースだった。

この選択は少し、いやかなり異様である。

というのも、大手VTuberはゲームを選ぶ際、普通は配信映えやゲームの認知度、ゲームの分かりやすさなどを重視するからだ。その結果選ばれるのは、たとえばマインクラフトやダークソウル。両者とも認知度が高く、画面で何が行われているのかよく分かり、配信者の反応も上手に引き出してくれる。

この点、残念ながらシャドウバースは劣る。配信映えや認知度はまだしも、ルールを知らない視聴者はまだまだ多いだろうし、ゲーム中一体何が進行しているのかは画面をぼんやり見ているだけではよく分からない。カードゲームの弱点である。

そのうえ、シャドウバースは配信が荒れやすいと言われる。なぜか。

今述べたようにシャドウバースは初見にとって取っ付きにくい。すると、必然的に視聴者層は、経験者がその多くを占めることとなる。そして多くの場合、彼ら経験者は配信者であるVTuberよりもシャドウバースが上手い。場数が違う。この違いから見て、差し詰め視聴者の多くを占める経験者は相対的にヘビーユーザー、配信者であるVTuberはライトユーザーであるといえるだろう(特に、大手VTuberはシャドバだけしているわけにはいかない)。

一般的に、ヘビーユーザーとライトユーザーとの大きな違いは、勝利に対する意識である。簡単に言えば、ヘビーユーザーが一勝一勝に貪欲な一方で、ライトユーザーは一勝一勝にこだわりがない。

また、目的意識も違う。ヘビーユーザーは何か肩書きを目指すことが多い。マスターやグラマスを目指すものもいれば、JCGやRAGEをはじめとするオンライン大会の優勝を狙うものもいる。一方で、ライトユーザーは楽しむこと自体が目的である。ネタデッキを組む、自分の好きなカードで戦う、環境デッキを使って無双する、そういう時間そのものに価値を見出し、肩書きは二の次である(もちろん、これは「ヘビーユーザーがゲームを楽しんでいない」というものではない)。

この点については、私が昔書いた記事も参考にしてほしい。(なお、ヘビーユーザーとライトユーザーの違いは相対的なものであり、また簡単に区別できない境界事例もありうる。)

 

tragedy.hatenablog.com

 

こうした価値観のズレは、時として攻撃性を産んでしまう。ヘビーユーザーはライトユーザーに対して、「なんでそんな(勝つために)効率の悪いやり方してんの?」「(勝つためには)そのカードいらなくね?」といったことを言ってしまいがちであるし、たとえばプレイを横から見ていると、ついつい「勝つための」アドバイスをしてしまいがちだ*1。こうしたアドバイスは、ヘビーユーザーには悪気はなくても、ライトユーザーからすると少し攻撃的に映ることもある。なぜなら、そうした助言はしばしば、ライトユーザーの「楽しむための」時間の否定となってしまうからだ。

これが配信となると、もう少し事態は複雑になる。相対的にヘビーユーザーである視聴者は、最初は配信者のためを思い、勝つためのアドバイスをする。だが、そのアドバイスは乱暴な言葉に変質しやすい

理由として、まず第一に、配信者が人気であればあるほど、チャット欄は素早く更新されていくため、視聴者のアドバイスは、その速さの分だけ届きにくくなる。すると、視聴者は苛立ちを募らせるだろう。

第二に、配信者は全ての指示を聞くわけにはいかない。いくらかのアドバイスを拾い上げることは有益だが、全てのアドバイスに反応していては、視聴者がゲームをプレイしているに等しい状況に陥ってしまう。俗に言う「ラジコン」化であり、これは配信の意味を無に帰してしまう。配信者にとっては、基本的に避けなければならない。しかし、とはいえその塩梅を間違えると、視聴者は変わり映えしない状況に我慢ならなくなってしまうだろう。

第三に、そもそも配信者がライトユーザー的信念から、アドバイスを聞きたくないかもしれない。もし、度重なるアドバイスに対し、配信者がムキになってしまうと、コメント欄は一気に荒れてしまうだろう。そうなったら、即時の調停は難しいと思われる。両者の価値観は大きく異なるからだ。

もちろん、これらはシャドウバースに限らず他のいくつかのゲームにも当てはまるだろうが(たとえば麻雀)、ともかくこのような理由から、シャドウバースの配信は荒れやすいと考えられる。

しかし、ラプラス・ダークネスは、以上の事情を知ってか知らずか、デビュー間もない配信であえてシャドウバースを選択した

これは凄まじいことである。

シャドウバースは、それはそれはどえらいほどに過疎化が懸念されているため、大手の配信は大助かりである。実際、私のタイムラインも歓迎の声に大きく湧いた。

しかし、タイムラインが湧いたのはそれだけが理由ではない。なぜなら、大手のVTuberがシャドバ配信をすること自体は今までも何度かあったからだ。にじさんじの葉山舞鈴しかり、三枝明那しかり、ホロライブのモリカリオペしかり、湊あくあしかり。その他多くのVTuberが、シャドウバースを実況している。

www.youtube.com

 

つまり付け加えなければならないのは、「彼女がシャドバ経験者だ」ということである。

それは彼女のツイートぶりからよく分かる。

①カードプールの広さゆえ初心者が参入しにくいアンリミテッドを指定

②「庭園ダゴン」のデッキタイプを知っている

先に述べた「配信が荒れるかもしれない」という懸念事項は、もっぱら視聴者と配信者の実力差にかかっている*2。実力差がほとんど無ければ、アドバイスも必要ない。あるにしても、それは配信者との対等な議論の形をとるだろう*3。もしラプラス・ダークネスが実力者であれば、ヘビーユーザーも安心して楽しめるはずだ*4

また単純に、シャドウバース経験者が大手グループのVTuberになっている例は珍しい

そうした理由から、ラプラス・ダークネスはシャドバ界隈を賑わせたのである。

 

そして実際、彼女のシャドウバース配信を観た感想は「面白かった」。

特筆すべきは、彼女のリアクションの激しさと目まぐるしく回転するトーク*5である。

相手が入室したら名前にツッコミを入れ、自分のプレイ中も黙らず喋ることに特化、知らないフォロワーが出たらリアクションを欠かさず、リーサルを取られたら叫び台パンする。喉が枯れないか心配になる一時間半。彼女の声に耳が痛くなった視聴者も多かったことだろう。

しかし、その彼女の感情の激しさは、デジタルカードゲームの実況に非常にマッチしたものだと言わざるを得ない。

たとえば、eスポーツの文脈におけるシャドウバース、ひいてはデジタルカードゲームは、「初見が見ると画面で何が起こっているのかが全く分からない」というのがやはり問題で、市場を拡大する上での大きな課題だと言われてきた。ではどうやってその課題をクリアするのか。その一つの手段が、「プレーが上手いか下手か」「このカードは強いか弱いか」などを逐一説明する解説であり、異様に高いテンションとドラマチックなセリフ回しで場を盛り上げる実況だった。

私はシャドウバースを引退して二年以上経っており、今のカードプールはあまり分かっていないのだが、しかしシャドウバースの大会の中継は、比較的面白く観れる。ルールが分かっているという点はもちろん考慮せねばならないが、それを差し引いても、実況と解説の合わせ技はしっかりと効いていると感じる。

ラプラス・ダークネスの場合、解説に値するような発言はほとんど一切なかった。けれども、そのテンションの高さは、試合の実況と同じように、「何かよく分からないけど面白い」と人に思わせるだけのパワーがいくらかある。私にはそう感じられた。

 

また、彼女の実況についてもう一つ軽く触れるなら、彼女が「超越」「ギガキマ」などの古典的なデッキタイプを持ち込んできたこと、そして彼女のデッキ回しが覚束なかったことも、いくらか功を奏したと思われる。

中途半端に勝つために頑張っているよりは、イキった発言をしてボコられた方が美味しい。配信映えを最大限考慮した立ち回りだったのだろう。

そのうえ、先に私は「配信が荒れるかは視聴者と配信者の実力差に掛かっている」という趣旨のことを書いたが、あまりに実力差が離れていても、まじめにアドバイスする気力は失われるものだ。古典的なデッキと不器用なプレイングは、コメント荒れの防止にも役立った。

 

ラプラスは配信の終わり際、「次は」と次回のシャドウバース配信を匂わせた。

願わくば、定期的にシャドウバース配信をしてほしい。そして、もし勝ちにこだわる気があるなら、シャドバを極めて、JCGとかにひょっこり出場したりしてほしい。

プロデューサーの木村氏やプロを含めて、シャドウバース界隈は君に注目している。

↑ ルームマッチに参加しようとする木村氏

↑プロゲーマーのリグゼ氏も反応

↑注で触れたVTuber

*1:そうしたアドバイスの厄介なところは、各人にとってはそれが「正解」であり「最善手」であるということだ。

*2:ただし、マンスプレイニングに由来した配信荒れの懸念は拭い切れない。シャドウバースをプレイしているのは、おそらくゲームの性質から考えて男性が多いが、彼らは女性配信者に対して過剰にアドバイスをするかもしれない。その場合は女性配信者の実力が通常より低く見積もられ、結果的に配信荒れが起こってしまう恐れがある。

*3:たとえばシャドウバースを主に扱うVTuber、YumemiChannelのユメミは相当な実力者で、彼女のコメント欄は平和そのものに見える。もちろん、配信規模の違いはあるだろうが。

*4:しかし、実際の彼女のプレイングはお世辞にも上手いとはいえないものだった。過去にプレイしていたという彼女の言葉は本当だろうが、配信でのプレイングがエンタメ用の演技だったのか、それとも素なのかは判別がつかない。

*5:ノリと勢いで構成された喋りを「トーク」と呼んでいいのかは少し疑問だが。

百合とか自分語りとか(百合の複雑さについて)

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みなさん、コンテンツにハマったきっかけって覚えてますか?

私は自分がなぜ百合にハマったのか考えてたんですが、きっかけとかは全く覚えてません。ただ、初めて観たのは『ゆるゆり』だったとは思います。

anime.dmkt-sp.jp

大学に入る前、つまり百合作品は『ゆるゆり』や「きらら作品」しか観たことが無い頃、友だちに「百合が好きで……」という話を、おっかなびっくりに打ち明けたことがありました。百合好きを公言してる人なんて周りにいなかったから口にするのは怖かったし、当時は本気で『ゆるゆり』が好きだったので、自分の「好き」を公言するのもなんとなく怖かったのです(だって否定されるかもしれないじゃないですか)。

幸い、私の友だちは同じ百合好きで、当然に『ゆるゆり』も知っていました。そこは良かったのです。しかし。彼はガチの百合オタクでした。彼は私に探りを入れてきます。どんなジャンルが好きなのか、どれだけ作品を知っているのか、どんな作者が好みなのか。そして、私が『ゆるゆり』くらいしか知らないと分かると、肩透かしを食らったように小さく笑って、こう言いました。「それで百合好き?」

まあ、彼の言うことも今なら分かります。『ゆるゆり』は百合の「入り口」に位置する作品で、当時の私が百合の世界を知っているかといえば怪しいのは確かなのです。
しかし、当時の私は「百合なんて二度と観るか」と思いましたね。友だちは「しとらす」だか「さくらとりっく」だか、当時の私にはよく分からない作品名を挙げていましたが、とにかく私は「もう百合になんて触れねえ」という強い気持ちに支配されました。

citrus-anime.com

www.tbs.co.jp

大学に入ってから、本格的にアニメを観るようになりました。サブスクに加入したので「リアタイ」とか「録画時間」とかを気にする必要がなくなったこと、大学生活に時間の余裕がかなりあったこと(文系ゆえ)が、私をアニメ視聴に走らせました。放送中のアニメを何本も追いかけるという経験も、思えば大学生になってからが初めてです。そうして様々なアニメに触れるうちに、いつの間にか百合と呼ばれる作品群にも再び目を通すようになっていました。

「百合」という言葉は使われ方が多種多様です。「女性同士の関係を描くもの」が最広義の使われ方だと思いますが、他にも「女性同士の恋愛」を指していたり、「女子だけの閉鎖空間で発生する機会的同性愛」を指していたり、「女性同士の緩やかな友情」を指していたり等々、指示対象がやや混乱している印象です。ここにさらに、BL界隈で使用される「百合」の用法が加わったりして*1、さらに場を混乱させています*2。このように指示対象が混乱している状況下では、「百合」という言葉は誤解を招くことがあるでしょう。

(↑不思議な用法。「百合」が「レズビアン」のように個人の属性として用いられている。)

 

私の好みを先に開示しておくと、私は「百合」の中でも「シスターフッド」や「GL」に分類されるだろうものが好きです。前者は『マリア様がみてる』『アサルトリリィ』など、後者は『Citrus』『付き合ってあげてもいいかな*3』など。
人間ドラマを全開にした『やがて君になる』『フラグタイム』などもかなり好きです。いろんな点に注目できるので、語りたくなりますよね。

www.tv-tokyo.co.jp

urasunday.com

yagakimi.com

frag-time.com

思えばいつの間にか、意図せず「それで百合好き?」と暗に馬鹿にされた友人と同じ方向に進んでいます。もともと性癖では話の合う相手だったので、今なら彼とも話が合うことでしょう笑

さて、インターネッツを見ていますと、Twitterでは毎日のように百合に関する「学級会」が繰り広げられています。「百合はこうあるべき」という理念の争いです。「百合に男を挟むな」「百合に性行為は要らない」「両性具有はご法度」という威嚇的な発言から、「百合好きなら○○が好きだよね」という同調圧力的なものまで形は様々ですが、どれにせよ、表現に対して規範性を安易に持ち込む彼・彼女らの仕草は、どうしても私の目には幼稚に映ってしまいます。もちろん、表現の中にはナチスなど扱いに細心の注意を要するものはあります。しかし、個々人の好き嫌いを「べき」論に転化すれば、萎縮が起こるのは必至でしょう。

まあ分からなくもないなと思うのはゾーニングの話です。たとえば私は異性愛の作品で寝取られが予告なしに発生したら嫌だと感じます。純愛を描いておいて、パートナーが寝取られました、なんてことになったら一週間ぐらい引きずりそうです*4。BL界隈では「地雷」を避けるためジャンル分けが細かくされている(=体系化されている)らしいので、それに倣うのも良いかもしれません。

寝取られが嫌だという話をしましたが、自分のことながら興味深いことに、「百合なら寝取られを見てみたい」と思うのです。性行為を伴わなくとも、失恋の過程を見てみたいというか。これって、私がなぜ百合が好きなのか、その理由を説明しているような気がします。

まず、私は体も心も男性ですが(たぶん)、異性愛の寝取られに心が痛むのは寝取られる側に感情移入するからです。ではなぜ感情移入できるかといえば、登場人物が男性だからでしょう。何らかの作品を読むとき、登場人物に自身を投影させることを私はよくやります。そして自分に一番近しい人——軟弱そうで、自信が無さそうで、初心で、優柔不断な人*5——に自分を投影するわけです。

そもそも、私は異性愛の作品自体を避けています。『俺ガイル』とか『青ブタ』とかが面白いとは聞くし、ちょっと観たい気持ちもあります。実際、観れば(読めば)楽しめるだろうとも思います。

でも、事情があって。自分でも面倒くさいなと思う事情なんですが。
異性愛の作品を観る時、私は男性側に感情移入して楽しむことになるでしょう。ヒロインとのすれ違いやらラッキースケベやら(ラノベならありがちじゃないですか?知らんけど)を追体験し、長い時間を経て異性愛が成就して、「あ~良かったね~」と心の底から思ったとします。紆余曲折あったけど、ヒロインを一人選んでハッピーエンド。良かった良かった。でも、ヒロインが好きなのは読者じゃないですよね。ヒロインが好きなのは登場人物であって、読者ではない。つまりお前じゃないし私でもない。

ハッと我に返って、現実を思い返す。恋愛経験豊富な人間なら何のダメージも無いところですが、私はそうではないので(泣きたい)、現実との落差がダメージとなって襲い来るのです。

めんどくさ。

しかし、「百合(GL)」は女性同士の恋愛ですから、ある意味他人事なのです。性別という壁で隔てられた向こう側で繰り広げられるそれを、男性である私は自身に置き換えることなく消費する——。その壁は分厚いものであるがゆえに、防御壁としての機能も有するのです。

これはBLでたまに聞く「部屋の壁になる」みたいなのと似てる気がします。知らんけど。

だからこそ、百合でなら、つまり男性がいない恋愛関係の中でなら、寝取られでも自分への精神的なダメージ無しに楽しめるというわけなのです。

「百合に男を登場させてほしくない」「百合に男が挟まってほしくない」と感じる人は、きっと私の言うことをある程度共有しているでしょう。

ですが、これってかなり気持ち悪いです。だって、私は女性じゃないので。
それに、当事者から見たらドン引きだと思います。資本主義の文脈の中で「消費」しているだけでなく、ある意味で「手段」として彼女らを「鑑賞」しているから*6

だから最低でも、男性が百合(特にGL)を楽しむなら、LGBTsを何らかの形で支援するなり、彼らのことを勉強するなりは必要だと思います。「罪滅ぼし」というとそれはそれで気色悪い感じがするのですが、それぞれで落とし前はつけたいところです。

 

ところで、ケアと百合を関連付けるツイートを先日見かけました。

つまり、異性を好む傾向の強い男性が百合をたしなむ不思議さは、女性同士がケア関係——気軽に悩みを打ち明け合ったり、スキンシップを重ねたりする相互的な関係——を気兼ねなく結べることへの憧れで説明できるのではないか、ということだと私は理解します*7

ケアは一方通行で、非対称なものです。プレゼントと似ていますが、プレゼントより分かり辛い。プレゼントならプレゼントだとすぐ分かるため「ありがとう」とすぐ言えるかもしれませんが、ケアはケアだと気づけないことがあります。だから「ケア関係」を築きたいなら、されたことをお返しするという感覚を常に持っていなければなりません。

しかし、多くの男性はケアに対して無頓着です。パートナーがいれば自ずとケア関係が築けるでしょうが、そうでない場合、男性同士のケアには難しいものがあります。とはいえ、ケアされたいという欲望は多くの人にあるでしょう。
私の場合は大人数が苦手で、むしろ一人でいるときが一番落ち着くのですが、しかしだからといってずっと一人では寂しい。この「寂しさ」は、ケアへの欲望と読み替えることもできるのかもしれません。

そうしたとき、自然とケア関係を築ける百合——最広義の用法——に男性が憧れるというのは、説得力があるように思います。「ケアのユートピア」とは言い得て妙でしょう。

ところがそれに対して、『現代思想』の2021年9月号に掲載された松浦優の「アセクシャル/アロマンティックな多重見当識=複数的思考——中谷鳰『やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から」では、「する」ことと「見る」ことの不連続性が説かれます。以下、私の理解です。

松浦は私が先にも挙げた『やがて君になる』に登場する、他人の恋愛模様を観察することを志向する少年を引き合いに出し、彼の観察に徹する姿勢に着目します。彼は恋の行く末を見届けようとしますが、しかし、その仕方は恋愛を繰り広げる彼・彼女らと同じ舞台に立つものではありません。むしろ彼は、舞台から観客席という次元へと一歩下がって、息を殺すようにそれを見守るのです。彼に恋愛の意志はありません。恋愛をしてしまえば、それは舞台に立つことになってしまうからです。しかしその「恋愛しない」という彼の振舞いは、決して逃げではないでしょう。「見る」ことと「する」ことの間には破れ目があり、二つはイコールではなく、彼は「見る」ことで満たされる存在なのです。

「見る」ことは、「する」ことと必ずしも結びつかない。この発想は、二次元キャラクターを好む層にとっては僥倖でしょう。たとえば二次元キャラクターに性的興奮を抱いているからと言って、それは同じような容姿の実在の人物に性的興奮を抱くことを必ずしも導きません。にも拘らず前者と後者を結び付けてしまうような考え方を、松浦は「対人性愛中心主義」の表れであると批判します。

では、異性愛男性が百合を「ケアのユートピア」と見る時、男性は現実にケアを欲望しているのでしょうか。百合は現実の代替なのでしょうか。こう問いかけると、問題は個別化し、相対的なものになりそうです。

私の例で言えば、百合を非現実なものとして楽しむ態度(見ること)がそこで繰り広げられているケア関係への欲望(すること)に果たして繋がるのか。

私としては、繋がると言えば繋がる気もするし、繋がらないといえば繋がらないような気がします。

百合関係のように、弱みを晒し合い互いを慰め合うような関係は、男性的規範からすればなかなか難しいのは事実で、先述したようにそれに憧れている面も無くは無いのかもしれません。

でも、現実に自分がそうしているところはあまり想像したくないという気持ちもあり、百合はあくまで非現実だと割り切っているところもあるような気がします。

百合好きの異性愛男性のみなさんはどうでしょうか。

 

まとめると、とにかく百合は難しいのです。

この時代、インターネットによって効率化された「気持ちの共有」というのは娯楽の一つとしてあるわけですが、しかし何かしら自分の本当に好きなものを語るという時には、少なからず自分の「何か」を賭ける必要があります。つまり覚悟という心理的コストが必要なわけです。さらにそれが百合の場合はその独特の文脈——複雑化した言葉の問題、性の問題、当事者性の問題、バイアスの問題などなど——が「語ること」、そしてそれを「聞くこと」のハードルを上げていることに自覚的でなければならず、でなければその繊細さ・複雑さにコミュニケーションは掻き乱され、「好き」を伝えることは難しくなるでしょう。

覚悟は気の持ちようかもしれません。ですが百合の性質については、いくらかの問い——何が「百合」を複雑化させているのか、ハードルをさげるために何ができるのか、など——を立て、各々が考えることが必要でしょう。そうすることで、各々の「好き」はより伝わりやすくなるのではないでしょうか。

 

 

*1:受けと受けの関係をそう呼ぶらしいのですが詳しくないので間違ってたらすみません

*2:BLでの使い方を非難する意図ではなく、事実として。

*3:これはアニメ化していませんが

*4:寝取られる側があんまり描写されてなかったら大丈夫なんですよね、話を重視してないザ・インスタントなポルノくらいでしか見かけないですけど

*5:自分で書いてて泣きそう

*6:あと寝取られに限って言えば、不幸を楽しんでいるという質の悪さもある

*7:ツイート主の難波さんはVTuberにもよく言及されている方で、私も以前二度ほど理論を援用させてもらったことがあるのですが、なんというか興味の方向が自分とよく似ていて親近感が湧いています。一度会ってお話してみたいです。