とらじぇでぃが色々書くやつ

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主にVTuberの記事を投稿中。

百合とか自分語りとか(百合の複雑さについて)

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みなさん、コンテンツにハマったきっかけって覚えてますか?

私は自分がなぜ百合にハマったのか考えてたんですが、きっかけとかは全く覚えてません。ただ、初めて観たのは『ゆるゆり』だったとは思います。

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大学に入る前、つまり百合作品は『ゆるゆり』や「きらら作品」しか観たことが無い頃、友だちに「百合が好きで……」という話を、おっかなびっくりに打ち明けたことがありました。百合好きを公言してる人なんて周りにいなかったから口にするのは怖かったし、当時は本気で『ゆるゆり』が好きだったので、自分の「好き」を公言するのもなんとなく怖かったのです(だって否定されるかもしれないじゃないですか)。

幸い、私の友だちは同じ百合好きで、当然に『ゆるゆり』も知っていました。そこは良かったのです。しかし。彼はガチの百合オタクでした。彼は私に探りを入れてきます。どんなジャンルが好きなのか、どれだけ作品を知っているのか、どんな作者が好みなのか。そして、私が『ゆるゆり』くらいしか知らないと分かると、肩透かしを食らったように小さく笑って、こう言いました。「それで百合好き?」

まあ、彼の言うことも今なら分かります。『ゆるゆり』は百合の「入り口」に位置する作品で、当時の私が百合の世界を知っているかといえば怪しいのは確かなのです。
しかし、当時の私は「百合なんて二度と観るか」と思いましたね。友だちは「しとらす」だか「さくらとりっく」だか、当時の私にはよく分からない作品名を挙げていましたが、とにかく私は「もう百合になんて触れねえ」という強い気持ちに支配されました。

citrus-anime.com

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大学に入ってから、本格的にアニメを観るようになりました。サブスクに加入したので「リアタイ」とか「録画時間」とかを気にする必要がなくなったこと、大学生活に時間の余裕がかなりあったこと(文系ゆえ)が、私をアニメ視聴に走らせました。放送中のアニメを何本も追いかけるという経験も、思えば大学生になってからが初めてです。そうして様々なアニメに触れるうちに、いつの間にか百合と呼ばれる作品群にも再び目を通すようになっていました。

「百合」という言葉は使われ方が多種多様です。「女性同士の関係を描くもの」が最広義の使われ方だと思いますが、他にも「女性同士の恋愛」を指していたり、「女子だけの閉鎖空間で発生する機会的同性愛」を指していたり、「女性同士の緩やかな友情」を指していたり等々、指示対象がやや混乱している印象です。ここにさらに、BL界隈で使用される「百合」の用法が加わったりして*1、さらに場を混乱させています*2。このように指示対象が混乱している状況下では、「百合」という言葉は誤解を招くことがあるでしょう。

(↑不思議な用法。「百合」が「レズビアン」のように個人の属性として用いられている。)

 

私の好みを先に開示しておくと、私は「百合」の中でも「シスターフッド」や「GL」に分類されるだろうものが好きです。前者は『マリア様がみてる』『アサルトリリィ』など、後者は『Citrus』『付き合ってあげてもいいかな*3』など。
人間ドラマを全開にした『やがて君になる』『フラグタイム』などもかなり好きです。いろんな点に注目できるので、語りたくなりますよね。

www.tv-tokyo.co.jp

urasunday.com

yagakimi.com

frag-time.com

思えばいつの間にか、意図せず「それで百合好き?」と暗に馬鹿にされた友人と同じ方向に進んでいます。もともと性癖では話の合う相手だったので、今なら彼とも話が合うことでしょう笑

さて、インターネッツを見ていますと、Twitterでは毎日のように百合に関する「学級会」が繰り広げられています。「百合はこうあるべき」という理念の争いです。「百合に男を挟むな」「百合に性行為は要らない」「両性具有はご法度」という威嚇的な発言から、「百合好きなら○○が好きだよね」という同調圧力的なものまで形は様々ですが、どれにせよ、表現に対して規範性を安易に持ち込む彼・彼女らの仕草は、どうしても私の目には幼稚に映ってしまいます。もちろん、表現の中にはナチスなど扱いに細心の注意を要するものはあります。しかし、個々人の好き嫌いを「べき」論に転化すれば、萎縮が起こるのは必至でしょう。

まあ分からなくもないなと思うのはゾーニングの話です。たとえば私は異性愛の作品で寝取られが予告なしに発生したら嫌だと感じます。純愛を描いておいて、パートナーが寝取られました、なんてことになったら一週間ぐらい引きずりそうです*4。BL界隈では「地雷」を避けるためジャンル分けが細かくされている(=体系化されている)らしいので、それに倣うのも良いかもしれません。

寝取られが嫌だという話をしましたが、自分のことながら興味深いことに、「百合なら寝取られを見てみたい」と思うのです。性行為を伴わなくとも、失恋の過程を見てみたいというか。これって、私がなぜ百合が好きなのか、その理由を説明しているような気がします。

まず、私は体も心も男性ですが(たぶん)、異性愛の寝取られに心が痛むのは寝取られる側に感情移入するからです。ではなぜ感情移入できるかといえば、登場人物が男性だからでしょう。何らかの作品を読むとき、登場人物に自身を投影させることを私はよくやります。そして自分に一番近しい人——軟弱そうで、自信が無さそうで、初心で、優柔不断な人*5——に自分を投影するわけです。

そもそも、私は異性愛の作品自体を避けています。『俺ガイル』とか『青ブタ』とかが面白いとは聞くし、ちょっと観たい気持ちもあります。実際、観れば(読めば)楽しめるだろうとも思います。

でも、事情があって。自分でも面倒くさいなと思う事情なんですが。
異性愛の作品を観る時、私は男性側に感情移入して楽しむことになるでしょう。ヒロインとのすれ違いやらラッキースケベやら(ラノベならありがちじゃないですか?知らんけど)を追体験し、長い時間を経て異性愛が成就して、「あ~良かったね~」と心の底から思ったとします。紆余曲折あったけど、ヒロインを一人選んでハッピーエンド。良かった良かった。でも、ヒロインが好きなのは読者じゃないですよね。ヒロインが好きなのは登場人物であって、読者ではない。つまりお前じゃないし私でもない。

ハッと我に返って、現実を思い返す。恋愛経験豊富な人間なら何のダメージも無いところですが、私はそうではないので(泣きたい)、現実との落差がダメージとなって襲い来るのです。

めんどくさ。

しかし、「百合(GL)」は女性同士の恋愛ですから、ある意味他人事なのです。性別という壁で隔てられた向こう側で繰り広げられるそれを、男性である私は自身に置き換えることなく消費する——。その壁は分厚いものであるがゆえに、防御壁としての機能も有するのです。

これはBLでたまに聞く「部屋の壁になる」みたいなのと似てる気がします。知らんけど。

だからこそ、百合でなら、つまり男性がいない恋愛関係の中でなら、寝取られでも自分への精神的なダメージ無しに楽しめるというわけなのです。

「百合に男を登場させてほしくない」「百合に男が挟まってほしくない」と感じる人は、きっと私の言うことをある程度共有しているでしょう。

ですが、これってかなり気持ち悪いです。だって、私は女性じゃないので。
それに、当事者から見たらドン引きだと思います。資本主義の文脈の中で「消費」しているだけでなく、ある意味で「手段」として彼女らを「鑑賞」しているから*6

だから最低でも、男性が百合(特にGL)を楽しむなら、LGBTsを何らかの形で支援するなり、彼らのことを勉強するなりは必要だと思います。「罪滅ぼし」というとそれはそれで気色悪い感じがするのですが、それぞれで落とし前はつけたいところです。

 

ところで、ケアと百合を関連付けるツイートを先日見かけました。

つまり、異性を好む傾向の強い男性が百合をたしなむ不思議さは、女性同士がケア関係——気軽に悩みを打ち明け合ったり、スキンシップを重ねたりする相互的な関係——を気兼ねなく結べることへの憧れで説明できるのではないか、ということだと私は理解します*7

ケアは一方通行で、非対称なものです。プレゼントと似ていますが、プレゼントより分かり辛い。プレゼントならプレゼントだとすぐ分かるため「ありがとう」とすぐ言えるかもしれませんが、ケアはケアだと気づけないことがあります。だから「ケア関係」を築きたいなら、されたことをお返しするという感覚を常に持っていなければなりません。

しかし、多くの男性はケアに対して無頓着です。パートナーがいれば自ずとケア関係が築けるでしょうが、そうでない場合、男性同士のケアには難しいものがあります。とはいえ、ケアされたいという欲望は多くの人にあるでしょう。
私の場合は大人数が苦手で、むしろ一人でいるときが一番落ち着くのですが、しかしだからといってずっと一人では寂しい。この「寂しさ」は、ケアへの欲望と読み替えることもできるのかもしれません。

そうしたとき、自然とケア関係を築ける百合——最広義の用法——に男性が憧れるというのは、説得力があるように思います。「ケアのユートピア」とは言い得て妙でしょう。

ところがそれに対して、『現代思想』の2021年9月号に掲載された松浦優の「アセクシャル/アロマンティックな多重見当識=複数的思考——中谷鳰『やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から」では、「する」ことと「見る」ことの不連続性が説かれます。以下、私の理解です。

松浦は私が先にも挙げた『やがて君になる』に登場する、他人の恋愛模様を観察することを志向する少年を引き合いに出し、彼の観察に徹する姿勢に着目します。彼は恋の行く末を見届けようとしますが、しかし、その仕方は恋愛を繰り広げる彼・彼女らと同じ舞台に立つものではありません。むしろ彼は、舞台から観客席という次元へと一歩下がって、息を殺すようにそれを見守るのです。彼に恋愛の意志はありません。恋愛をしてしまえば、それは舞台に立つことになってしまうからです。しかしその「恋愛しない」という彼の振舞いは、決して逃げではないでしょう。「見る」ことと「する」ことの間には破れ目があり、二つはイコールではなく、彼は「見る」ことで満たされる存在なのです。

「見る」ことは、「する」ことと必ずしも結びつかない。この発想は、二次元キャラクターを好む層にとっては僥倖でしょう。たとえば二次元キャラクターに性的興奮を抱いているからと言って、それは同じような容姿の実在の人物に性的興奮を抱くことを必ずしも導きません。にも拘らず前者と後者を結び付けてしまうような考え方を、松浦は「対人性愛中心主義」の表れであると批判します。

では、異性愛男性が百合を「ケアのユートピア」と見る時、男性は現実にケアを欲望しているのでしょうか。百合は現実の代替なのでしょうか。こう問いかけると、問題は個別化し、相対的なものになりそうです。

私の例で言えば、百合を非現実なものとして楽しむ態度(見ること)がそこで繰り広げられているケア関係への欲望(すること)に果たして繋がるのか。

私としては、繋がると言えば繋がる気もするし、繋がらないといえば繋がらないような気がします。

百合関係のように、弱みを晒し合い互いを慰め合うような関係は、男性的規範からすればなかなか難しいのは事実で、先述したようにそれに憧れている面も無くは無いのかもしれません。

でも、現実に自分がそうしているところはあまり想像したくないという気持ちもあり、百合はあくまで非現実だと割り切っているところもあるような気がします。

百合好きの異性愛男性のみなさんはどうでしょうか。

 

まとめると、とにかく百合は難しいのです。

この時代、インターネットによって効率化された「気持ちの共有」というのは娯楽の一つとしてあるわけですが、しかし何かしら自分の本当に好きなものを語るという時には、少なからず自分の「何か」を賭ける必要があります。つまり覚悟という心理的コストが必要なわけです。さらにそれが百合の場合はその独特の文脈——複雑化した言葉の問題、性の問題、当事者性の問題、バイアスの問題などなど——が「語ること」、そしてそれを「聞くこと」のハードルを上げていることに自覚的でなければならず、でなければその繊細さ・複雑さにコミュニケーションは掻き乱され、「好き」を伝えることは難しくなるでしょう。

覚悟は気の持ちようかもしれません。ですが百合の性質については、いくらかの問い——何が「百合」を複雑化させているのか、ハードルをさげるために何ができるのか、など——を立て、各々が考えることが必要でしょう。そうすることで、各々の「好き」はより伝わりやすくなるのではないでしょうか。

 

 

*1:受けと受けの関係をそう呼ぶらしいのですが詳しくないので間違ってたらすみません

*2:BLでの使い方を非難する意図ではなく、事実として。

*3:これはアニメ化していませんが

*4:寝取られる側があんまり描写されてなかったら大丈夫なんですよね、話を重視してないザ・インスタントなポルノくらいでしか見かけないですけど

*5:自分で書いてて泣きそう

*6:あと寝取られに限って言えば、不幸を楽しんでいるという質の悪さもある

*7:ツイート主の難波さんはVTuberにもよく言及されている方で、私も以前二度ほど理論を援用させてもらったことがあるのですが、なんというか興味の方向が自分とよく似ていて親近感が湧いています。一度会ってお話してみたいです。