とらじぇでぃが色々書くやつ

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主にVTuberの記事を投稿中。

VTuber、特にホロライブと創作活動――ホロライブ・オルタナティブについて

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ホロライブ・オルタナティブ(以下ホロオルタ)とは、VTuberグループ・ホロライブの運営会社カバーが発表した新たなプロジェクトである。カバーによれば、それは次のようなものである。

 

VTuberグループ“ホロライブ” そこに所属する彼女たちの、同じようでいて違う、あるいは、違うようでいて同じ――……

そんな、ほんのすこしだけ別の可能性。これは、もしかしたら存在するかもしれない“とあるセカイを描く”、異世界創造プロジェクトです。

(ホロライブ・オルタナティブ公式サイトより)

 

alt.hololive.tv

これがどういうことかは、今日公開されたPVを見ればよく分かる。

 

www.youtube.com

 

見ての通り、この動画に登場するホロライブメンバーの様子は、普段の印象といくらか異なる。ズバリ言えば、ホロオルタで描かれるメンバーたちは「設定」に忠実だ。たとえば「湊あくあ」は屋敷でメイドとして働いているように見えるし、エフェクトを纏う「紫咲シオン」は本当に魔法使いであるように見える。

このPVおよびプロジェクトの発表を受けて、多くのリスナーやクリエイターが湧きたった。何か新しいものを感じ取り、VTuber界に新たな息吹を吹き込んでくれるような、そんな気配を感じ取ったのだ。

本エントリで問うのは次のようである。すなわち、このホロオルタという一大プロジェクトは、従来のVTuber創作の文脈でどのように位置づけられるのだろうか。言い換えれば、従来のVTuber創作との違いはどこにあり、どのような点で差別化されるのだろうか

 

この検討のためには、長い前置きが必要になる。

最初は、創作物とは何かについて考えることから始めよう。一体どのようなものが創作物と呼ばれるのだろうか。これはVTuber創作とは何かという問いへ繋がる。

その次は、一次創作・二次創作・N次創作について考える。N次創作の代表例であるボーカロイド創作とVTuber創作とを比較することで、VTuber創作の既存環境における秀逸な点と問題点を浮かび上がらせたい。ここでは大きな本家/小さな本家、Pキャラクタ/Dキャラクタ、メディア/コンテンツといった区別を用いることで、なるべく議論を分かりやすくするつもりだ。

そうしてやっと本題に入ることができる。本エントリの主張の核は、ホロオルタがそのパッケージを通して、「キャラクタを中の人から解放する」という点にある。

 

 

創作とは何か

議論に入る前に、VTuberおよびVTuber創作という言葉の意味内容について説明しておく。

まず、本エントリにおける「VTuber」は、ホロライブを念頭に置いている。本エントリでVTuberという言葉を用いるのは、ある命題がホロライブを含むいくらかのVTuberにとって真である場合だ。逆に、ホロライブにのみ真であると思われる事項については、直接「ホロライブ」などと表記する。*1わざわざこう書く理由には、「VTuberという言葉を広義に用いるには限界があること」、「昨今のアバター配信者とVTuberを切り離そうという動きに配慮したいこと」がある。

また、「VTuber創作」とは、後ほど改めて説明するが、「VTuberを巻き込む創作」のことだ。それはVTuberを客体とする創作である。たとえば、ファンアート、ファンムービー、SS(ショートストーリー)、イメージソングなど。

ただし、この「VTuber創作」が「VTuberがする創作」のことではない、という点に注意されたい。「VTuberがする創作」は、VTuberが主体となる創作である。たとえば、「宝鐘マリンがアニメキャラクターのイラストを描く」ことなど。本エントリではこの意味で「VTuber創作」という言葉を用いることは無い。

 

ホロオルタは創作物である。この命題に違和感はないだろう。だが、とりあえず後の議論のために、「創作物」について一応の定義付けをしておきたい。

まず、私たちが何かを創作物*2と言う時、その語の指示対象はフィクションである。『ビデオゲームの美学』を参照するに、この「フィクション」という言葉は多義的だ。すなわち、「フィクション」は虚構的な事物を指すこともあれば(「魔法なんてフィクションだ」など)、マンガなどの作品を指すこともあり(「このドラマはフィクションです」など)、はたまた制度や歴史などの社会的に構築されたものを指すこともある(「社会契約説はフィクションだ」など)。創作物=対象物=フィクションであるとき、この「フィクション」は一つ目か二つ目の用法で使われている*3

フィクションという性質を伴う創作物は、思うに誰かと共有されるべく存在する。誰かに実際に読まれる必要はなく、他者に読まれる可能性のある媒体に著されれば、それは創作物だろう。たとえば、誰かの頭の中にあってまだ物理世界に著されていない小説を創作物と認めるのは難しいが、人里離れた山奥で紙に書いた小説は創作物と見て良い。

以下では「創作物」を、フィクションであり、かつ誰かと共有可能であるものとして扱う。

 

では、VTuber創作、すなわちVTuberを巻き込む創作とは何だろう。

「創作」という言葉には、作品を指す場合と、作品を制作する活動を指す場合の二パターンがあるように思われる。であればVTuber創作とは、VTuberを客体として用いるようなフィクション、あるいはそうしたフィクションを制作する活動のことだと言い換えられよう。

VTuber創作の中で一番に思いつくのは、やはりファンアートだ。ファンアートはVTuberの姿や過去の発言などを捉え、表情や身振りなど不足する部分は補完しながら、絵に落とし込むことで出来上がる。再現MMDをはじめとするファンムービーも、ファンアートと同じように過去の発言などを捉えて、不足部分は補完しながら動画に落とし込むことで出来上がる。また、イメージソングもVTuber創作の一つだ。VTuberから得た印象を基に、曲は作り上がる*4

これら不足部分の補完は、フィクションの受け手にとって当然に起こる反応だ。松永伸司は次のように述べる。

 

……フィクション作品の受容者は、“空所”をそこに認めたうえで、その補充を行う……つまり、受容者は、その作品が当の虚構世界のすべてを描いているわけではないということを自明の前提として受け入れている。

ビデオゲームの美学』p.133より

 

つまり、フィクションを鑑賞した人間は、そのフィクションの不足部分を勝手に補おうとする、というのである。

実際、VTuberのファンアートやファンムービー、イメージソングといった創作物はVTuber視聴者によって作られているが、彼らはそのVTuberについて多くを知らない。VTuberが発信してきた情報は知っているだろうが、それ以外のことはもちろん知らない。VTuber創作は、受け手がその知らない部分を補い、想像を膨らませることによって作られている。

ところで、VTuber創作は視聴者によるものだけではない。VTuberが創作するVTuber創作も存在する。たとえば、Ninomae Ina’nisが自画像的に自身の絵を描く場合も、VTuberが客体となっている点でVTuber創作だといえるだろう。

また、VTuberの人格もVTuber創作の一つだ*5

VTuberの人格は、VTuberそれぞれに備わっている。湊あくあには湊あくあという唯一の人格があるし、白銀ノエルには白銀ノエルという唯一の人格がある。これらは、それぞれの「中の人」が人格を日々生成し、更新し続けている結果、存続しているものだ。つまり、人格とは、個人が自己の人生をデザインしてきた結果に伴うものである。

この「人格」は単なる「性格」という意味に留まらず、法学的なニュアンスをも含んでいる。すなわち、自律とか、自由とかいったニュアンスだ。

法学には人間を「自己の生の作者」とみなす考え方がある。人間は自律して自身に関わる物事を決定できる、という意味だ。では人間でないVTuberは自律した存在だといえるだろうか? VTuberは(ほとんど)フィクションの存在だから、一応確かめておくべきだ。

私の答えはYESである。

その根拠は、VTuberが自己の身体を所有していることにある。もちろん、ホロライブメンバーが知的財産権の意味で身体を所有しているかといえば微妙だろうが、そこではなく、彼女たちがモデルという身体を動かしているという事実が重要だ。身体の所有は、VTuberにあってはその設定の所有を意味する。事実として、VTuberの身体は一人しか所有できない。すなわち、これらの所有は排他的である。この排他性は、人間と近しいものがある。人間は現時点では、自身の肉体を他人と一緒に所有することはできない。この意味で肉体の所有は排他的だ。また、その肉体に付随する、出生から今現在まで積み上げている人生も、誰かと共有することはできない。だからこそ、それらは替えの利かない、かけがえのないものなのであり、保護の必要があるのだ。であれば、同じく身体が交換不可能なVTuberも、自律した存在と考えて然るべきだろう。

さて、「自己の生の作者」の「作者」は、言うまでも無く比喩である。しかし、VTuberにおいては、あながち比喩だとも言い切れない。まず、VTuberは主に配信コンテンツである。配信コンテンツは、人と体験を共有することを目的とする。では、VTuberというコンテンツにおいては何が娯楽となっているのだろう。実況するゲームの内容だろうか。VTuberの容姿や、デビュー前からある設定だろうか。たしかにそれらも娯楽だ。しかしそれ以上に優れた娯楽がある。それは、VTuberの喋り方や、リアクション、発言内容などのそのVTuber固有の態度であり、また、新たに付加される設定などの、そのVTuber固有の属性である。そうした固有の態度を産むものと、固有の属性などの総称を、人間の場合と近しく「人格」と呼ぶことができるだろう。

この人格は、VTuberが自律して生を積み重ねる中で変化し得る。言い換えれば、人格はVTuber自身の決定により更新され発展する。たとえば、デビュー当時は無かった属性が、受け手(視聴者)との交流の中でVTuberに付加されることがある。これは「VTuberが自分で新たな属性を付加した」現象である(「受け手がVTuberに属性を付与した」現象ではない)。もちろん、受け手(視聴者)の空気に押されて否応なしに属性を受け入れる場合も数多くあるだろうが、思うにそれもまた必要なことである。なぜなら、他の事項との兼ね合いの中で、自ら折り合いをつけることもまた自律だからだ。多くの場合、設定を受け入れることに多少気が進まないくらいの程度であれば、それを甘んじて受け入れる必要があるだろう。とはいえ、人格においては、真に受け入れがたい属性を拒絶することも可能ではある。たとえば雪花ラミィは過去に「アル中」と呼ばれるのを嫌がっていたと記憶しているが、まさにそのような形で、VTuberには自己の人格に関し、NOを突き付ける権利も与えられてはいる。自己の人格をデザインするという行為は、他者と折り合いをつける必要もありはするが、比較的自由度の高い営みだといえる。

このように、VTuberは「人格を創作する」という意味で、「自己の生の作者」だ。

なお、この人格は虚構的なただの観念である。極端に言えば、VTuberも受け手(視聴者)も、いわば「ゲーム」をしているに過ぎない。あくまでもVTuberは虚構世界に存在するのであり、現実世界に実在しているわけではないのだ。そして、そのVTuberに伴う人格もまた、虚構世界にしか存在しない。もちろん、その人格を身にまとう「中の人」には、それになりきることによる現実的な負担や恩恵があるだろうが、人格それ自体がフィクションであることに変わりはない。

VTuberの人格はVTuber自身によって作られる。そしてその人格は、受け手の娯楽に供する創作物であり、フィクションである。

 

 

一次創作と二次創作 

 

一次創作と二次創作という区別は、多くの人が使用する、今や市民権を得た区別だ。

思うに、この区別は本家(公式)を措定することで可能になる。まず本家(公式)があり、そこが供給するコンテンツが一次創作。その一次創作内のキャラクタを用い、設定を改変するなどして新たなコンテンツを制作すること、およびそのコンテンツ自体が二次創作だ。

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この二次創作に関して話を分かりやすくするために、研究者の岩下朋世による議論を紹介しておこう。岩下は、ゲーム研究者の松本伸司が考案したPキャラクタ/Dキャラクという区別を、「解釈違い」について考えるために導入している。

まず、言葉の説明をしよう。岩下の記述によれば、「P(パフォーミング)キャラクタ」とは、演じ手としてのキャラクタのことである。他方、「D(ダイエジェティック)キャラクタ」とは、物語世界内の存在としてのキャラクタのことである。刑事ドラマの主演俳優Aでなぞらえれば、「Pキャラクタ=俳優A」、「Dキャラクタ=俳優Aが演じる刑事」、という対応関係になる。

この区別を用いて二次創作を説明すると、「二次創作は一次創作のPキャラクタのみを拝借し、本家とは異なるDキャラクタを描くもの」であるといえる。念のため具体例を挙げると、「ウマ娘ナイスネイチャを描く二次創作は、ナイスネイチャのPキャラクタ(キャラ図像とキャラ人格 [岩下による])だけを借り、いくらか異なるナイスネイチャのDキャラクタを描くもの」だといえる。ここで、PキャラクタとDキャラクタは互いに重なり合うことで一つのキャラクタを成している。

岩下はDキャラクタを、受け手がPキャラクタを鑑賞した途端に解釈を経て生まれ始めるものと見做しているようだ。実際、アニメやゲームのキャラクターでも、VTuberでもそうだが、「このキャラは○○のとき△△と言いそうだ」という想定が立ち上がることはよくある。しかも、その想定の多くはファンの間で共感が可能だ。そこではファンの間でのDキャラクタの共有が起こっている。そして解釈違いは、岩下が「公式の提供するコンテンツは、推し(Pキャラクタ)に見当はずれのキャラクター(Dキャラクタ)を演じさせている*6」と述べるような仕方で起こる。つまり、ファンの持つDキャラクタと、創作物がPキャラクタに演じさせるDキャラクタとが異なる場合に、「解釈違い」は起こるのだ。

さて、Pキャラクタ/Dキャラクタの区別を紹介したが、次に今まで説明なしで使ってきた「コンテンツ」という言葉にも触れておきたい。

『メディア・コンテンツスタディーズ――分析・考察・創造のための方法論』所収の、岡本健「メディアコンテンツの分析・拡張・創造――情報社会の進展とコンテンツ研究・教育の必要性」によれば、コンテンツとは「なんらかの形で編集された情報であ」り、「コンテンツそれ自体を体験することで体験者は楽しさを得る可能性がある*7もののことである。また、岡本は同じ論文で、法律の条文もコンテンツの定義として紹介している。長いが、ここにも引用しておく。

 

第二条 この法律において「コンテンツ」とは、映画、音楽、演劇、文芸、写真、漫画、アニメーション、コンピュータゲームその他の文字、図形、色彩、音声、動作若しくは映像若しくはこれらを組み合わせたもの又はこれらに係る情報を電子計算機を介して提供するためのプログラム(電子計算機に対する指令であって、一の結果を得ることができるように組み合わせたものをいう。)であって、人間の創造的活動により生み出されるもののうち、教養又は娯楽の範囲に属するものをいう。

 

コンテンツが教養や娯楽を目的として作られた「プログラム」だということがよくわかる。

こうしたコンテンツと切っても切れない存在がある。それがメディアだ。岡本は「さまざまな定義がある」と留保したうえでメディアを「情報を伝えるなかだちとなるもの」と広く定義している。娯楽であるコンテンツはメディアという媒介を通して、私たちに届けられているのだ。

 

一次創作、二次創作とくれば、口にしたくなるのは「N次創作」というワードである。これは、初音ミクを初めとするボーカロイド文化で主に見られた現象であり、一次創作→二次創作の流れの中で、さらに三次創作→四次創作→……→N次創作が生まれるような、創作のツリー化現象を指す。

VTuberの三歩未知は自身のnoteで「VTuber初音ミクのような創作の連鎖(N次創作)は生まれるのか」という問いについて考察している。

t.co

三歩未知はVTuberが「大きな本家」であることに注目する。

「大きな本家」とは「小さな本家」の対概念で、三歩未知独自の概念である。大きな政府/小さな政府との類比により考え出されたようだ。

念のため説明すると、大きな政府/小さな政府という区別は、政府が市場にどれだけ介入するか、言い換えれば市場にどれだけの自由を認めるかという点で為されている。大きな政府は市場に積極的に介入し、逆に小さな政府は消極的である。この類比から考えるに、「大きな本家」とはおそらく、コンテンツを豊富に供給し、二次創作ガイドラインも厳しく設定するような本家(公式)を想定しているのだろう。同じく「小さな本家」も、コンテンツをあまり供給せず、ガイドラインも厳しく定めないような本家(公式)を想定しているのだと思われる。

そして三歩未知は、「小さな本家」に初音ミクなどのボーカロイドを、「大きな本家」にVTuberを対応させ、VTuberが「大きな本家」であるがゆえに、VTuberボーカロイドのようなN次創作を産むことができないのだと主張する。

しかし、このnoteには「なぜVTuberが大きな本家なのか」「なぜVTuberが大きな本家だと二次創作が萎縮するのか」といった説明が無いため、これ以上の検討が難しくなっている。

そこで、三歩未知の問い、「VTuber初音ミクのような創作の連鎖は生まれるか」を引き継ぎ、こちらで別の筋道から答えを探してみようと思う。

 

まず、ボーカロイド、特に初音ミクの創作とは何かについて考えよう。

ここでは研究者・谷川嘉宏の議論を参考に、その目立った特徴を四点述べる。

第一に、初音ミクはメディアである。谷川は、初音ミクとその創作に関して、初音ミクをメディアとして捉えるアプローチを試みている。初音ミクはメディア(媒介)であり、能動的には何もしない。創作を行うのは音楽家などの作り手たちである。

第二に、初音ミクに対する作り手と受け手の認識にはズレがある
初音ミクというメディアは、作り手には「楽器」として映る。つまり初音ミクは、作り手にとって、その独自の世界を表現するためのツールである。
しかし他方で、初音ミクというメディアは、受け手には「ミクさん」と呼ぶべき「キャラ」として映る。つまり初音ミクは、作り手の創作世界に存在するキャラクターである。

この作り手と受け手の認識のズレは、ボーカロイド創作の大きな特徴である。

第三に、最重要事項として、初音ミクの「余白」がある。谷川は初音ミクの髪型、服装、基調とする色といった要素が、コミュニティの共有するデータベースから読み込まれ組み合わされていると指摘する。谷川は「恋愛裁判」の初音ミクを例に挙げるが、MV中の初音ミクは、クリプトンが提示したオリジナルの「初音ミク」と比べると、髪型も、服装も、色彩も異なっている。たとえば髪型が「ツインテール」ではなく「おさげ」になっていることが分かるだろう。しかし、それでも「恋愛裁判」の初音ミクは、「ミクっぽい」とみなされ、初音ミクとして扱われる。

 

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これは容姿に限った話ではない。「初音ミクは仕事を選べない」と言われるように、メディアである初音ミクは、「どんな主題を歌うにせよ、どんな風に語られ、描かれるにせよ、ミク自身がそこに介入する術はない*8」のである。

そうした意味で谷川は初音ミク「器=空虚」と形容した。また、同じような意味で三歩未知も初音ミク「余白」と形容している。

つまり、初音ミク」はメディア(媒介)であることで、「初音ミクっぽい要素」を自由に組み合わせればいくらでも新たなミクが作れるような、無限に開かれた創作性を担保しているのだ。

以上三点の特徴により、もう一つの特徴が表れる。それは、初音ミクの並存性である。どういうことか。ここまで述べた通り、初音ミクというメディアに関して、その作り手と受け手には認識のズレがあり、またメディアそれ自体には「余白(器=空虚)」という無限の可能性があった。作り手が楽器としての初音ミクを用いて楽曲を作ることは当然の創作活動である。各々の作り手は、初音ミクを「カスタマイズ」しながら各々異なる楽曲を制作する。それらの楽曲が完成し、作り手の元を離れると、それらは受け手によって、初音ミクというキャラの歌だと見なされる。それぞれの楽曲にそれぞれのキャラが見出されるから、結果的に「ミク」は並存することになる。つまり、作り手が楽曲を制作するたびに、新たなDキャラクタを纏った初音ミクが出現する。「メルト」のミク、「こちら、幸福安心委員会です。」のミク、「千本桜」のミク……。ミクは同時に複数存在することができる。これは、Pキャラクタ/Dキャラクタという区別を用いて言えば、初音ミクのDキャラクタが無限に開かれていることを意味する。

 

初音ミクにN次創作のような創作の連鎖が生まれたのは、以上四点の特徴によるところが大きい。初音ミクはメディアであり、まずそのメディアを取り巻く形で作り手と受け手に認識のズレが生まれる。その認識のズレは、無数の初音ミクを並存させる。これは初音ミクの、「初音ミクっぽさ」、つまりDキャラクタが無限に開かれていることを示唆する。余白(器=空虚)の存在も、創作の自由度に貢献する意味で非常に重要だ。初音ミクがDキャラクタをほとんど全くもたないような「余白(器=空虚)」であるからこそ、様々な創作が生まれる余地があった

 

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三歩未知の「VTuber初音ミクのような創作の連鎖は生まれるか」という問いは、こうした特徴のうち、「認識のズレ」「余白(器=空虚)」をVTuberが持てるか、という問いでもある。

従来のVTuber創作を振り返れば、答えは部分的にはYESであり、部分的にはNOだ。まず、VTuberにも認識のズレは見られるが、それが初音ミクのような並存性を生み出すことはない。また、VTuber初音ミクのような「余白(器=空虚)」も持たない。

まず認識のズレについて検討しよう。

谷川の議論する初音ミクの相似形として現在のVTuberを見た時、あるVTuberVTuber人格)の作り手はVTuberを演じる人(中の人)であり、受け手はそれ以外の視聴者である*9

作り手は、VTuberをツールとして見るだろう。それは広く言えば、自己表現としてのツールである。
他方、受け手はVTuberをキャラとして見るだろう。受け手は、VTuberがあたかもそこに存在しているかのように振舞う。

このように、VTuberにも作り手/受け手の認識のズレは見受けられる。

しかし、これがボーカロイド創作のような創作の連鎖を産むわけではない。

なぜなら、作り手は一人しか存在できないからだ。

初音ミクの場合は、初音ミクが「余白(器=空虚)」だったから、作り手は無数に存在できていた。その作り手の数だけ、受け手は異なる「ミクさん」を見出すことができた。

しかし、VTuberの作り手は、中の人ただ一人のみだ。だから、受け手は一人のVTuberのみしか見出すことができない。

 

また、VTuber初音ミクのような「余白(器=空虚)」も持ちえない

中の人は、VTuberのPキャラクタと密接に結びついているからだ。

どういうことだろう。

たとえば、中の人を抜きにした「湊あくあ」というキャラクターは、間違いなくPキャラクタとして理解できる。この「湊あくあ」というPキャラクタを扱えるのは、オーディションやスカウトなどを通じて選ばれた一人のみだった。VTuberは人格を形成し、それを日々更新していくのであったが、その人格の提示は、VTuberを限りなく人間に近付ける。「VTuberの話す内容が設定の話なのか中の人の話なのか分からない」という事態は、多くの人に経験があるだろう。そこでは、Pキャラクタが中の人と「癒着」している。つまり、そこではPキャラクタと中の人との区別が、日々の人格の更新・発展によって曖昧になっており、むしろ擬制的に一人の人間と扱ったほうが都合の良いような一体感を生み出している。器という比喩を用いて言えば、「湊あくあ」という器は「中の人」の存在によって常に満たされているのである。

VTuber創作と、ボーカロイド創作との決定的な違いはここにある。

ボーカロイド、特に初音ミクの場合、作り手は無数に存在し、その誰もが初音ミクを生み出すことができた。それは、初音ミクのPキャラクタが各々のミクと独立して存在する完全な「余白」だったからだ。
しかし、VTuberの場合はそうではない。VTuberは中の人と「癒着」しており、キズナアイの分裂騒動を見れば明らかだが、決定された中の人以外の者がそのVTuberに「なる」ことはできない。可能性は開かれていない。*10

Pキャラクタと中の人が「癒着」するなら、VTuber初音ミクのような「余白(器=空虚)」はあり得ない。もちろん、二次創作は可能ではある。つまり、第三者がPキャラクタを用いて、「原作」と異なるDキャラクタを描くことはできる。しかし、そのPキャラクタには中の人が「癒着」しているから、VTuberのDキャラクタ(人格)とは全く異なるDキャラクタを描くと、「解釈違い」だとして二次創作の作者はしばしば批判・攻撃に遭う。また、成人向け二次創作も、Pキャラクタに中の人が「癒着」しているせいで、必ず中の人に配慮が必要になる。すると事実として、VTuber創作における二次創作の自由度は、他の二次創作と比べて遥かに劣る*11

こうした環境は、創作の連鎖を産んだボーカロイド創作の土壌とは程遠い創作環境であるといえる。

 

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ここまで「VTuber初音ミクのような創作の連鎖は生まれるか」という問いについて検討してきた。要約すると、VTuberは中の人との結びつきが非常に強く、「唯一性」を獲得しているため、並存することも考えられない。また、VTuber人格というDキャラクタがPキャラクタと密接に結びつく現状では、VTuberを余白として考えることも難しい。

VTuberのような創作の連鎖を産みたいと考えた時に、障害となっているのは中の人やVTuber人格の存在だろう。

 

しかし、本当にVTuberに創作の連鎖は起こっていないのだろうか。

たしかに、ボーカロイド創作と同じ仕方では起こっていない。しかし、思うに、ボーカロイド文化とは少し違うが、VTuberにも創作の連鎖は発生しているVTuber人格が自己決定に基づいて更新され、発展していくことについては先に述べた。この更新・発展という運動には、コメントやツイート、及びファンアートやファンムービーなどの、VTuber創作が関わっている。VTuberたちは、自身の人格に関連するコメントを自己決定権に基づいて選別し、必要があれば自分の人格として回収する。回収されると、人格は更新されるが、受け手(リスナー)は柔軟に対応し、新たなファンアートを制作する。それを受け、リスナーの間でお約束的に新た人格(Dキャラクタ)への言及が行われる。VTuberはまたそれを受け、人格(Dキャラクタ)を更新し……と以下続いていく。

VTuber創作には、この「二次創作の公式化」とでも呼称できるような現象が欠かせない。その現象の下では、二次創作がまるで一次創作であるかのように振舞い、元の一次創作に影響を及ぼすことが頻繁にあり得る。

 

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これはボーカロイドにも、アニメ・ゲーム・マンガのキャラクタにもほとんど無い現象だ。

ボーカロイド創作において、本家・公式をどこに据えるかは議論の余地がありそうだが、仮にボカロPを本家としてみよう。ボカロPが二次創作を反映させることは、無いとは言えないが、頻繫には行われないだろう。なぜなら、楽曲は発表されればそのままで、ほとんどの場合変更されないからだ。リミックスはあるかもしれないが、大元の楽曲を改造するようなことは無い。楽曲自身がリアルタイムに更新されないのだから、VTuberのような創作環境にはなり得ないだろう。

他方、アニメ・ゲーム・マンガにおいては、二次創作が公式化する(公式に「逆輸入」される)例がいくつかある。しかし、そこに好意的な声はあまり聞かれない。たとえば、ゲーム「艦隊これくしょん」では、公式がDキャラクタを逆輸入して不満を買った。「公式が二次創作ネタに便乗してくると冷める」という声がよく聞かれるように、「二次創作の公式化」は場合によっては嫌悪感を引き起こす可能性もあるのだ。だから、公式=本家は逆輸入に慎重になる必要があり、またこれからも逆輸入は期待されないだろう。

 

VTuber創作は以上の二つと異なり、活発に二次創作を吸収するし、それが良しとされる。「二次創作の公式化」をメインウェポンとする点で、VTuber創作は他の類似の創作と差別化される

この点は、既存のVTuber創作の大きなメリットだ。だから、私はここで、「VTuber界隈をぶっ壊せ」といった安易で物騒なことは言わない。たしかに「癒着」は問題であるが、既存の創作環境それ自体を壊す必要は無いだろう。今の体制にも、良い点は多くある。だから、「癒着」の問題を解決するにしても、界隈を壊さない別のアプローチが必要だ。

 

さて、ここまでの全ての議論を一度まとめよう。

私たちはホロオルタの位置付けを探るため、「創作」「一次創作と二次創作」「VTuber創作とボーカロイド創作」の三つについてまず検討してきた。

一章である「創作とは何か」では、創作とは①フィクションであり、②誰かと共有するものであるという一応の定義が示された。また、その定義によれば、VTuberの人格もまた創作物であることが分かった。

二章の「一次創作と二次創作」では、創作環境についての検討が為された。Pキャラクタ/Dキャラクタという区別により、一次創作/二次創作の違いがより明瞭になったと思う。

また、ボーカロイド創作とVTuber創作の違いも考察した。「VTuber初音ミクのような創作の連鎖は生まれるのか」とう問いを手掛かりに、コンテンツ/メディアという区別を用いながら、VTuber創作について考えていった。結論として、中の人のPキャラクタとの「癒着」が創作活動に制限を掛けている恐れがあることが分かった。しかし、だからといって、この既存の体制・環境を壊してしまうことは賢明でない。「癒着」の解消には、別の手段をとるべきだ。

 

 

ホロオルタの可能性 

 

では、本題に入っていこう。VTuber創作の延長線上にあるホロオルタは、どのような点で他の創作と異なるのだろうか。

先に結論から書こう。ホロオルタの特異性は、①Pキャラクタが「中の人」から解放され、誰しもがPキャラクタにアクセスできるようになること、また、それによって②並存するVTuber創作が可能になること、そして③人格の形成に失敗したVTuberVTuber創作に復帰できること、の三点にある。

 

ホロオルタとは何か、それに答える公式の文章は冒頭で引用したが、もう一度ここで引用しておこう。

 

VTuberグループ“ホロライブ” そこに所属する彼女たちの、同じようでいて違う、あるいは、違うようでいて同じ――……

そんな、ほんのすこしだけ別の可能性。これは、もしかしたら存在するかもしれない“とあるセカイを描く”、異世界創造プロジェクトです。

 

この文言は、昨今のVTuberとはまた違ったVTuberを描くプロジェクトであることを示唆している。

次にPVを観ると——既に述べたが——彼女たちが全員設定に忠実な存在であることが分かる。たとえば、湊あくあはメイドとして館で働き、紫咲シオンは魔法を繰り出し、不知火フレアはハーフエルフらしく弓を構える。

これらからホロオルタは、VTuberたちの「設定」に焦点を当てているのだと考えられる。

ところで、昨今のVTuberと、この「設定」に焦点を当てたホロオルタのVTuberは、具体的にどう異なるのだろうか。

昨今のVTuberは、中の人がPキャラクタと「癒着」していると既に述べた。この「癒着」の問題点は、二次創作の自由度を下げる点にある。二次創作者がPキャラクタを使おうとするとき、そこには必ず中の人が付きまとう*12

しかし、ホロオルタのVTuberは、そうした中の人との「癒着」から解放されているように見えないだろうか。つまり、ホロオルタのVTuberは、Pキャラクタそのものへの直接のアクセスに基づいて、中の人とは独立に創作されているようには見えないだろうか

思うに、ホロオルタの野望はここにある。

ホロライブの運営会社であるカバーがどこまで考えているのか、それは私たちの与り知るところではないが、VTuberコンテンツがユーザーの創作活動にも大きく影響を受けている以上、カバーもその創作環境に興味があるはずである。そして、もしボーカロイドのような創作環境を理想に据えるのであれば、これまで議論してきたような障害、すなわちVTuberの中の人がPキャラクタに対し一人しか存在できないことや、Pキャラクタと中の人とが「癒着」していることにも思い当たることだろう。しかし、現行の体制そのものに手を加えることはできない。それはキズナアイの分裂事件や、ゲーム部の声優交代の件を見れば明らかである。ならば、ifの世界、つまりホロオルタというパッケージを用意し、その中でのみPキャラクタに誰でもアクセスできるようにすればよい

そう、ホロオルタに期待される点は、誰しもがPキャラクタにアクセスできるような創作環境の実現である。VTuberからPキャラクタだけを抽出し、癒着性を取り除くことが出来れば、VTuber初音ミクのような「余白(器=空虚)」となることができる

「余白(器=空虚)」となったVTuberには、無数の作り手がアクセスできる。そうなれば、VTuberはキャラとして並存が可能になる

たとえば、誰でもいいのだが、ここでは宝鐘マリンを例にとろう。中の人とPキャラクタが癒着する昨今の状態においては、「宝鐘海賊団の船長」「絵が上手い」「所作が歳を感じさせる」「東方シリーズをやりこんでいる」などのDキャラクタが視聴者の間で共有されている。

しかし、VTuberからPキャラクタを抽出するものとしてのホロオルタの中では、宝鐘マリンは何にでもなれる。たとえば話し方だ。宝鐘マリンといえば「キミたち~」という呼びかけが印象的だが、ホロオルタのパッケージの中では必ずしもそうでなくて良い*13。凛々しく「お前たち」と呼びかける宝鐘マリンを考えても良いし、若々しく呼びかける宝鐘マリンを考えても良い。その声も、今の声に縛られなくて良い。たとえば有名声優の声を当ててみても良いのだ。初音ミクがそうであったように、何を喋るか、どのような格好をしているのか、どのような思想を持っているのかなど、全ては作り手の思うがままである。

また、VTuberが中の人と切り離され、誰でもPキャラクタにアクセスできるようになれば、引退したVTuberも各人の手で蘇る

引退は大別して二種類ある。

一方は、「創作物の完成」としての引退である。つまり、意図的な引退だ。哲学者のジャンケレヴィッチは「人生の意味は決してその生涯には現れない」と書いたが、死ぬギリギリまで何があるか分からないのが人生である。死という終幕を迎えない限り、人生の意味を決定することはできない。創作物も同様に、完結を迎えなければ正確な評価は下せないものだ*14VTuberの「人格」という創作物も、引退という終止符を打って初めて、真の意味で完成する。

他方は、「人格の形成失敗」としての引退である。つまり、意図しない引退だ。人格とは個人のストーリーでもある。そのストーリーを積み重ねる途中で非常に大きな失敗をしてしまえば、個人は回復不可能な状態にまで追いやられる。回復不可能であれば、その人生はそこで終えるほかない。

今回は後者を取り上げよう。ホロライブには、契約違反によりデビュー後三週間も経たずに引退した「魔乃アロエ」というVTuberがいる。辛い言い方をすれば、引退は中の人に責任がある。立ち絵に問題はなかった。しかし、現行のシステムでは、中の人が契約を切られれば同時に「魔乃アロエ」のPキャラクタもお蔵入りになってしまう。Pキャラクタには何の問題も無いにも関わらず、である。

だが、その「魔乃アロエ」のPキャラクタも、ホロオルタというパッケージの中では、中の人の「呪縛」から解き放たれる。もはやPキャラクタは中の人が引き起こした不祥事に付き合う必要は無い。「余白(器=空虚)」となった「魔乃アロエ」は並存する。Pキャラクタとしての「魔乃アロエ」は、再び日の目を見る。

 

このように、ホロオルタの特異性は、VTuberから中の人を取り除くことによって生じることが分かる。まとめると、ホロオルタに期待される事項は以下の三点だった。第一に、VTuberからPキャラクタを抽出すること。第二に、誰でもPキャラクタを扱えるようになること。第三に、引退したVTuberが再び日の目を見ること。

ホロオルタというパッケージを通した創作は、現在カバーが発表しているイラストやPVに限らない。思うに、カバーが発表する創作物を「本家」として扱うのは好ましくない。もしそう扱えば、VTuber創作は現状と同じ問題を引きずることになる。私たちはカバーの発表する創作物を、ボーカロイド創作と同様、並存する創作物の一つであると考えるほうが良い。私たちがホロオルタというパッケージ内で発表する創作物全ては、カバーの創作物と並んで立つ。そのようにあってこそ、本エントリで述べたような可能性が現実のものとなる。あなたオリジナルのホロオルタがあって良い。観るだけでなく、創ってこそのホロオルタだ

 

 

ホロオルタは、既存のVTuber創作環境を破壊することなく、新たなVTuber創作環境を作り得る可能性を秘めている。

もちろん、ここで述べたのは文字の上での話で、実際のところカバーがどのような理想を追い求めているのかは分からないし、創作の担い手であるみなさんがどのようにホロオルタに触れていくのかも分からない。ホロオルタがどのように展開していくのか、全く予想がつかない。本エントリは2021年5月の現状を踏まえて書かれていることを、留保として一応記しておく。

 

参考文献

ビデオゲームの美学

ビデオゲームの美学

  • 作者:松永 伸司
  • 発売日: 2018/10/20
  • メディア: 単行本
 

  

 

キャラがリアルになるとき ―2次元、2・5次元、そのさきのキャラクター論―

キャラがリアルになるとき ―2次元、2・5次元、そのさきのキャラクター論―

  • 作者:岩下朋世
  • 発売日: 2020/07/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

死

 

 

 

*1:たとえば一方で、「VTuberは中の人を秘匿する」という命題は、当然ながら全ての「VTuber」に当てはまるわけではないが、ホロライブを含め知名度の高い多くのVTuberに当てはまる。こういった場合には、狭義に「VTuber」と表記する。しかし他方で、「VTuberはアイドルである」という命題は、そこまで多くのVTuberに当てはまらない。そのため、そういった文脈では「VTuber」を使わず、「ホロライブ」と直接的に表記する。

*2:著作物ではなく

*3:松永伸司『ビデオゲームの美学』慶応義塾大学出版会 pp.117-8

*4:加えて、ツイートや、配信や動画につくコメントも、VTuberという虚構世界に自らを投じながら、VTuberに対して為されるという意味でVTuber創作だといえるだろう。

*5:VTuberの人格は創作物である、つまりVTuberの人格はフィクションであると聞いて、ぎょっとしないでほしい。人格を幻想だと指摘して、目を覚ませとか言いたいわけでは全くない。

*6:『キャラがリアルになるとき——2次元、2.5次元、そのさきのキャラクター論』p.194

*7:『メディア・コンテンツ・スタディーズ』p.ⅳ

*8:谷川嘉浩「初音ミクはなぜ楽器でキャラなのか」『メディア・コンテンツ・スタディーズ』p.63

*9:受け手が視聴者であるという点に異論は無いだろう。しかし、作り手に関しては異論があるかもしれない。たとえば、「作り手にはモデルのデザイナーやモデラー、またマネージャーを始めとする運営スタッフも含むのではないか?」という疑念だ。しかし、私はそう考えない。現状VTuberの身体を扱えるのは一人のみで交換不可能であり、その人はそこに人生を積み上げる能力がある。ゆえに彼女たちは自律した存在なのだから、周囲の人間を作り手に含めてしまうことは自律概念と矛盾する。スタッフなどを作り手に含めることは、肉体は共有可能だと言うようなものだ。スタッフをはじめとした人たちは、あくまでも支援者であると考えるべきだろう。

*10:念のため注記するが、冒頭で述べたように、この「VTuber」は全てのVTuberを指しているわけではない。中の人を交代させてもなお活動を続けているVTuberも少なからず存在しているし、そのことは承知している。あくまでホロライブ を中心として理解してほしい。

*11:ポルノを制作することそのものの是非は措く。

*12:これが、三歩未知が「VTuberとは大きな本家である」という表現で表したかったことかもしれない

*13:もちろんそうであっても良い

*14:この意味で、本エントリがホロオルタを正確に語れているとは思っていない。

ウマ娘をプレイすることに葛藤がある話

 

ウマ娘の勢いがすごい。
アニメ二期は大成功、マンガ(『シンデレラグレイ』)も本屋を何軒回っても見つけられないほどに好調で、何よりアプリゲームは世界の有名ゲームとも引けを取らない人気ぶり。一時は不安視されていたウマ娘だが、数年越しに逆転大当たりの様相だ。

anime-umamusume.jp

ynjn.jp

umamusume.jp

ウマ娘」とは、Cygamesが企画するメディアミックスプロジェクトであり、またその作品群におけるキャラクターたちの総称でもある。「ウマ娘」が提供するのは、過去に活躍した競走馬たちの擬人化コンテンツだ。トウカイテイオーオグリキャップなど、競馬に明るくない人でも名前くらいは聞いたことがある、そんな「名馬」たちがウマ娘プロジェクトでは美少女キャラクターに擬人化される。そして彼女たち自身が、自身のその脚で、芝やダートを駆け抜ける(美少女が馬に跨って走るわけではない)。

ウマ娘はメディアミックスプロジェクトなので、前述の通りアニメやマンガなど様々なメディアでコンテンツが発信されているわけだが、すべてに触れていると記事が長くなるだろうから、ここでは話題をアプリゲーム「ウマ娘 プリティーダービー」に絞りたい。

さて、かくいう私も、そのウマ娘のプレイヤーの一人だ。手を出す前は如何ほどのものかと思っていたが、実際プレイしてみると、このゲームがなぜ人気なのかとてもよく分かる。

その最大の理由は、やはり徹底された作りこみだろう。それはクオリティの高い3Dモデルや、アニメのように目まぐるしく変化する表情、ライブ演出、レース演出、実況など、様々な箇所に見て取れる。そして何より、元ネタである競馬へのリスペクトがしっかりと為され、史実が(アレンジされつつも)随所に細かく反映されている点からは、このゲームの本気度がとてもよく伝わってくる。

ウマ娘はそれ単体でも育成ゲームとして非常に質が高い。だが、競馬の歴史を調べると、話に深みが出てきてコンテンツをより楽しむことができる。たとえば育成キャラターそれぞれに割り当てられる「脚質適正」や「距離適性」などはモデルの競走馬を参考にしているし、各々のストーリーも、やはりモデルを踏まえたものとなっている。サイレンススズカ秋の天皇賞予後不良となってしまった話は有名だが、ゲーム内の同名レースでサイレンススズカが一着をとると、特別な実況が聞けたりする。史実を知らないと、何か違う実況が流れたな、と思うくらいで済ますか、素通りしてしまうかもしれない。しかし史実を知っていると、その知識が感動を付加してくれる。
だから、ウマ娘プレイヤーの多くは、今まで競馬に興味が無かったとしても、よりコンテンツを楽しむため、競馬の知識を蓄えようとする。

話によれば、本当かは分からないが、最近競馬の収益が上昇傾向にあるらしい。ウマ娘の流行と時期が被るので「ウマ娘効果では無いか」と言われているようだ。また、ウマ娘から競馬に入り、「初めて馬券を買ってみた」という話もよく見かける。的中させて儲けようというよりは、「推し」の子孫を応援するようなスタンスがほとんどのようだ。ゲーム内のキャラクター、「マルゼンスキー」の声優が、馬券で一発当てたというツイートも話題になった。

 

このような中で、私はウマ娘をプレイしていて良いのか、という葛藤に苛まれている。

なぜか。

まず、ウマ娘は競馬をその基礎としている。そして競馬は賭博であり、ブラッド・スポーツである。賭博もブラッド・スポーツも倫理的に怪しい気がする。すると、その怪しい競馬を基礎とするウマ娘も、やはり怪しい気がしてくるのだ。

まず、賭博はなぜいけない気がするのか。それは思うに、人の一生を破壊しかねないからである。人間は誰しもが・常に合理的だというわけではなくて、やはり誘惑に駆られることがある。ギャンブル依存症という言葉もあるが、一旦それに陥ってしまうと、たとえ依存のスパイラルから脱出できたとしても、それ以降の生活が、生きることだけで精一杯になってしまう可能性がある*1

ここでこう反論する人もいるかもしれない。いやいや、ウマ娘は賭博とは無関係だ。「一番人気」とか「二番人気」とかは本当に純粋な人気投票であり、獲得賞金もファン数に置き換えられている。だからウマ娘はクリーンだ、と。

たしかに、ウマ娘はゲーム内で競馬につきまとうネガティブなイメージを徹底的に削ぎ落とそうとしているし、実際それは成功していると思う。それはそうなのだけれど、しかしウマ娘をプレイすることで、プレイヤーがその基礎となっている競馬について調べ、その結果、仮に競馬人口が増える、または競馬の収益が増える事態に繋がっているのだとしたら、それは良いことなのだろうか……? つまり、アプリゲームが賭博行為への誘導口になっているのだとしたら、これは良いことなのだろうか?

次にブラッド・スポーツの問題点は、動物にとって負担であるという点に集約される。
競走馬は人間の娯楽のために生まれ、調教を施され、鞭打たれながら重い人間を乗せて走る。万一ケガをし、予後不良となると安楽死。無事にレースを退いても種牡馬などの役割をもって生きられるのは、ほんの僅かだという。

マルクス研究者の田上孝一は『はじめての動物倫理学』(集英社新書)で、次のように述べる。

 競馬の場合は他の動物利用競技に比べてそれが虐待であるというコンセンサスが取り難く、大規模に施行されていて確固とした伝統も築かれているため直ちに廃止することはまず不可能だが、その規模を縮小させて無益に殺されてしまう馬の数を減らすことはできるだろう。これはひとえに世間一般の動物への意識が高まるかどうかにかかっている。

 ギャンブルの是非はまた別の話で、ギャンブル自体が倫理的に問題があるものだが、それはひとまずおくとして、競馬でなければならないという理由はない。(中略)やはりここでも、人間が全て自分たちだけでやるべきで、動物を使うべきではないということである。(pp.163-4)

つまり、競馬は伝統があるうえ、動物実験などと比べると市民から虐待であるという認識を得られないから即座に廃止することは難しいだろうが、しかしやはりギャンブルとしてなら競艇や競輪など人間に代替できるのであって、競馬のようにわざわざ動物を使う必要はなく、現実的には規模を縮小させていくことが妥当な解決策であろう、ということだ。

柔軟な主張であり、賛同できる。競馬産業は、すぐにでは無くても、緩やかに縮小していくのが動物倫理に沿った実践だろう。そう考えた場合、競馬産業を逆に拡大させてしまうかもしれない、あるいは既に拡大させているウマ娘を、どう見るべきだろうか。

ウマ娘は、やはり悪なのだろうか。

しかし、話は単純ではない。忘れてはならないのが、動物に罪は無いという点である。ウマ娘のポジティブな側面として、レースから引退した馬たちへの寄付額が増加した例がある。最近では、ナイスネイチャ33歳のバースデードネーションで、目標金額を大幅に超える寄付があった。これは例年と比べても異常な額であり、ウマ娘効果であることは明らかだ。馬一頭を養うには多額の費用がかかる。人間の手で育てた馬を、自然に放つわけにもいかない。であれば、こうした寄付行為は動物倫理にもかなった実践であろう。

また、過去にこの世に生まれてしまって、レースに命をささげていった競走馬たちもまた悪くない。今、ニシノフラワーセイウンスカイのオーナーが綴ったブログが反響を呼んでいる。「こうしてわしが愛したセイウンスカイニシノフラワーを想い出してくれる人がいるだけでいいな。*2」と記されているように、ウマ娘は誰かの大切な思い出に再びスポットライトを当て、その輪を広げている。これもまた、ウマ娘のポジティブな側面である。

ここに葛藤がある。一方で、ウマ娘は賭博行為を(間接的に)促進し、動物倫理からして賛同しがたい競馬産業を下支えしている(可能性がある)。他方で、ウマ娘は引退馬を支える運動を生み出し、また誰かの思い出を掘り起こし改めて周知する役割を担っている。

こうしたジレンマに対して、「ウマ娘は悪か」という問いの設定の仕方では、上手く答えられそうにない。

では個人の実践のレベルではどうだろうか。つまり、「私はウマ娘をプレイすべきか」。

真っ先に思いつく考え方は、悪い面と善い面を比較してしまうことである。つまり、私という個人がウマ娘をプレイすることで、どんな悪い/善いことがあり、そのどちらがより重いかで判断する。悪さが善さを上回れば、ウマ娘をプレイすることは控えるべきだ。

たとえば私(筆者)は、賭博は絶対にしないと決めているから競馬産業には直接金銭を流さないだろう。しかし、私は一度だけウマ娘に課金しているから、ひょっとすると、そのお金の一部は競馬産業に流れているかもしれない(分からないが)。そうでなくても、私という1ユーザーがウマ娘をプレイしていることで、「ダウンロード数○○万突破!」といったウマ娘の実績に加担しているとすれば、間接的には競馬産業にプラスに働いてしまっているかもしれない。しかし、それは善い面でも同じだ。私はできた人間ではないので引退馬への寄付はしていない。だが、ウマ娘をプレイしていることで、間接的に寄付運動を起こす協力はできていたかもしれない。誰かの思い出に焦点を当てることも同じだ。

この両者を比較できるかと言われれば、難しい。数値を出せるわけではないからだ。

では、結果を比較するのでは無くて、個人の道徳的・倫理的な義務から考えてみるのはどうだろう。

個人は、引退馬に寄付をすべきだろうか*3。金銭に余裕があるのであれば、しないに越したことはない。引退馬は多くの場合、生きるために寄付を必要としている。人間の娯楽のために生まれた馬なのだから、人間が養うべきだ。「誰が養うか」という話をしていたら引退馬は寄付を受けられず亡くなってしまうかもしれないし、この寄付は一般的な義務として良いと考える。

しかし、その寄付は、競馬産業が無ければ本来必要のないものである。競馬産業は、競走馬を生産し続け、現状、多くの人間に寄付という名の金銭の負担を強いている。また、競馬産業は先述の通り動物倫理からしても肯定しがたい。このような観点から、競走馬を生産することは悪であるといえそうだ。だとすると、競馬産業を(間接的に)下支えするウマ娘をプレイすることも、推奨されないように思える。

以上を踏まえるとやはり、ウマ娘をプレイすることは、個人としては控えたほうが良いのかもしれない。とはいえ、理論を実践するかは個々人に委ねられているだろうし、私もそういったところでモヤモヤしている次第である。

 

 

*1:ただ、だから賭博はダメだ、禁止しろと言う気は無いし、誰かにギャンブルをするなと強いる気も無い。強要するとそれはパターナリズムだし、私としては、ギャンブルをするかしないかは、本当に個人が理性を働かせ合理的に判断できているなら、自由に決めて良いと思う。

*2: ウマ娘Twitterでバズる。 | 西山牧場オーナーの(笑)気分 

*3:賭博をするか否かは個人の自由だから問題外であるし、誰かの思い出に焦点を当てることはウマ娘をプレイすることに自動的に伴う結果だからこれも問題にしなくてよい。

2020年秋アニメ感想

 

新年あけましておめでとうございます(激遅挨拶)。

昨年はみなさん有意義に過ごせましたでしょうか。私はいつも通り無為に過ごしてしまいました。かなしみ。

さて、この記事では昨年最終回を迎えた秋アニメの振り返りをしたいと思います。

全部で7本、順番は適当です。

ネタバレを含むので、読むのは視聴後をおすすめします*1

※画像は全て、それぞれのアニメ公式サイトから引用しています。

 

 

アサルトリリィ

【総評】

女の子同士のイチャチャが和む。

anime.assaultlily-pj.com

 

 

 

【内容】

武器を持った少女たちが謎の敵勢力と戦うアニメ。

ジャンルは百合とアクションでしょう。

リリィと呼ばれる彼女たちは、戦闘集団であると同時に学校の生徒でもあります。その学校には、気の合う上級生と下級生が擬似的な姉妹となる制度、その名も「シュッツエンゲル制度*2」が導入されており、新入生である主人公の一柳梨璃(ひとつやなぎりり)と、2年生で孤高の一匹狼ながら人気者の白井夢結(しらいゆゆ)は、紆余曲折を経てそのシュッツエンゲルとなります。ストーリーの中心はこの2人です。

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1〜3話は梨璃と夢結の関係を、4〜6話はレギオンと呼ばれるチーム結成の過程を、7〜9話は不思議な少女との出会いと別れを、10〜12話は梨璃と夢結の心の傷を通して仲間の友情を描きます。

女の子同士のイチャチャが多く、百合好きにはおすすめできる内容です。ただ、念のため書いておくと、『Citrus』のようなガチガチの恋愛要素はありません。

 

【評価】

・キャラクター

とにかく多い。覚えきれないくらい多いです。しかし、そこは製作側も自覚しているようで、1話から最終話までテロップで名前が出るため「これ誰だったっけ?」とはなりません。ここは高評価ポイントでした。

キャラの多いアニメにありがちな「キャラを出しすぎて全員掘り下げが中途半端」という事もなく、中心の2人をフォーカスしながらも全員をバランスよく掘り下げているため、満足度も高かったです。2人以外のキャラクターにも、感情移入がしっかりできました。

場面写真

特に気に入ったのは白井夢結です。全生徒の憧れでありながらも過去の惨劇により心を閉ざすヒロイン、という王道な(ありがちな)キャラ造形ですが、その過去に向き合う様が丁寧に描かれており、とても共感しやすかったです。梨璃との関わり方も、最初は「絶対に仲良くなんてしてあげないんだから」という風な態度だったのに、中盤では既に「梨璃しゅきしゅき/////」と態度が豹変しており、そこがむしろ人間らしさを感じさせます。普段は「私を頼りなさい」みたいな雰囲気出しているくせに、ストーリー展開の上では「お前いつも妹に助けられてんなあ!」という感じはありますが(たしか戦闘シーンで三回ほど助けられている)、重い過去に押しつぶされそうになる夢結を救える可能性が一番高いのは妹である梨璃なので、それはそのメタファーではあるのでしょう。

場面写真

デザインについては、長袖制服とニーハイソックスやタイツといった露出を抑えた服装が気に入りました*3。ソックスと太ももの境界など、脚に強いこだわりを感じます

立ち絵

立ち絵

どのキャラもなんだかふんわりと丸みを帯びていて、百合百合な作風にピッタリだと思いました。 

 

・音楽

OPは最初どこか浮いている印象を受けましたが(激しい曲調、挟まるラップ?など)、何度も聴いていると好きになってしまいました。他は特に気になるところはありませんでした。

 

・構成/テンポ

悪くありませんでしたが、設定が若干複雑なのでその説明に時間が取られてしまう点は惜しかったです。そのうえ、その設定も大して面白く無いので、理事長室が映るたびに「またか……」と思わざるを得ませんでした。

しかし、全体として話はしっかり進展していくので、結果的にバランスはとれていたと思われます。

 

・設定

ギオン、シュッツエンゲル、ノインヴェルト戦術、ヒュージなど、造語が多い割には簡単についていけます。アニメやマンガをよく見ている方なら、文脈的にそれらがどういったものかすぐ分かるでしょう。

特に、レギオン、ノインヴェルト戦術、およびシュッツエンゲル制度は、「友情」を効果的に伝えてくれる点で見逃せません。

ギオンは9人1組の部隊のことですが、この9人は全員が主人公を慕って集まっており、一つの家族のような役割を果たしています。特に9話で発揮されるその絆の強さに、視聴者は心を打たれることでしょう。

場面写真

またノインヴェルト戦術とはその9人全員で繰り出す攻撃手法のことで、これもレギオンの絆を視覚的・直感的に伝えてくれます。

シュッツエンゲル制度については言うまでもありませんが、年の一つ離れた女子同士の「恋愛関係では無いけれど友情以上の」強い関係性を姉妹という言葉で表現することそれ自体がまず評価できます(これはエス文化に共通する点ですが)。「名付け」というのは効果的です。私たちは言葉を使って思考しているわけで、とある概念に名前がある場合とない場合では、当然ある場合のほうが把握はしやすいからです。シュッツエンゲルという制度の存在が、彼女たちの関係を効果的に印象付けます。

場面写真

また、姉妹関係は、最初はそこまで仲良くなかった女子同士も、姉妹関係であることそれ自体によって、いわば再帰的に、仲良くさせてしまいます。シュッツエンゲル(姉)はシルト(妹)を教育する必要があり、そのために2人は嫌でも関わらなければならないし、2人は自分たちが姉妹関係であるということを強く意識していますから、その意識が2人を姉妹らしく振る舞わせ、良好な関係を構築させます。こうした関係の形成が、1〜3話では行われるわけです。

このアニメのテーマの一つは友情だと思われますが、こうした設定はそれに大きく貢献していると言えるでしょう。

しかし、「レアスキル」や「マギ」といった設定には少し困惑しました。

マギは魔力と言い換えても良いと思うのですが、やはり魔法に近いことができる以上、ご都合主義感は出てしまいます(マギに何ができて何ができないかは脚本家が決めるため)。しかしこれは魔法の宿命なので仕方ありません。

また、レアスキルとは特技のことですが、アニメ中では大した説明が無く、どうやらアサルトリリィの世界では常識として扱われているようです。しかし、その「レアスキル」はゲームに登場する固有スキルのように扱われており、私はいささか混乱しました。「これはゲーム世界の話だったのか」と思ってしまったからです。実際、終盤には「上位スキル」のような概念も登場し、なんだかよく分からなくなってきます。

とはいえ、レアスキルのほうは、梨璃の「カリスマ」がレギオンを結成させたり、夢結の「ルナティックトランサー」が夢結の心の闇を映すとか姉妹関係を強化するとかに役立つなど、ストーリーに効果的に絡んではいるので、アサルトリリィというアニメに必要な設定ではあったといえるでしょう。

 

・ストーリー

ラストのスピード感には笑ってしまいました。ボスにあっさりトドメを刺してしまうのでビックリです。「ええ!?そんなに簡単でいいの!?」と思いました。

しかし、全体を通して見れば良い話でした。

特に結梨(ゆり)が登場する7〜9話は穏やかな日常と緊張感がせめぎ合うストーリーで気に入りました。相変わらず理事長の出るシーンは大して面白くありませんでしたが、過剰ともいえる百合成分の供給に比べれば些細なことです。

また、あれだけ性格のキツかった夢結が完璧にデレてしまう5話は衝撃的でした。「何をプレゼントしたらいいか分からない」と陰キャみたいなことを言い出したかと思えば、まさかラムネをプレゼントにするなんて! しかも結局努力が骨折り損だったというのも、妹への愛の大きさがよく伝わってくるオチでした。あと、シャフト感の強い画面構成が寂れた街とよく合っており、その点も評価したいですね。

場面写真

ラストは続編も匂わせており、アサルトリリィプロジェクトが今後どのように展開していくか楽しみです。 

 

【まとめ】

おすすめできる百合アニメです。

 

 

安達としまむら

【総評】

宇宙人いる???

www.tbs.co.jp

 

 

【内容】

2人の女子高生、「安達」と「しまむら」が過ごす青春アニメ。

安達はしまむらに対し恋心を抱いている一方、しまむらは他人と深く関わろうとしない性格。

構成としては、安達が挙動不審になりながらしまむらにアプローチし、デートして、安達がめちゃくちゃ喜ぶという流れが繰り返されます。

「ヤシロ」と呼ばれる青髪の少女が登場し、宇宙人を自称しますが、「安達としまむらの関係」という主題に直接関わるのは序盤の一回のみで、他はしまむらの妹と遊んでいるだけです。要するに何もしません。

1話ではこのアニメが「安達としまむらの関係性に主題がある」ことが示されて、2話と3話では宇宙人について、4話ではしまむらメインで親子について、5話と6話ではクリスマスについて、7〜9話ではバレンタインについて、10話と11話では進級について、12話ではお泊まりについて描かれます。

アサルトリリィと比べると散らかっているなあという印象を受けます。

私たちは、ほとんど安達の片想いを追うことになります。これは安達の恋路を応援するアニメなのかもしれません……。

 

【評価】

・キャラクター

髪色が気になる。

しまむらは終盤、自分の髪を茶色に染め直すか色を戻すか迷うのですが、だとすると安達の髪は青色に染まっているということになりますよね。安達たちの学校は、染髪が許可されているのでしょうか? また、最終話のお泊まりでしまむらの母親は安達を学校に真面目に行っている子だと思っていたようですが、一般的な感覚から言って(つまり外見での差別などは置いておいて)、青い髪の子を真面目な子だと思うでしょうか? 私はどうもそこが気になって落ち着きませんでした。

……と思ったのですが、なんと安達の髪色は黒という設定らしいです。あれで黒!?

キャラクターデザインは非常に魅力的、とまでは行きませんが、普通にかわいいと思います。おそらく、平凡さを意識したのでしょう。彼女らは普通の高校生ですもんね。

安達のチャイナドレスは作者の趣味が透けて見えるようですが、私も好きなので良いと思います。

 

・音楽

EDのほうが好きかな。飛ばしてたのであんまり聴いてないですが。

 

・構成/テンポ

ヤシロが要らないと思います。ヤシロは全話にちょっとずつ登場するのですが、2話と3話以外は安達としまむらに絡んでこないので、ほとんどは無意味極まりないものです。あの無意味なシーンを削って、主題である2人の関係をもっと描いて欲しかったし、どうしても登場させたいのならそれは2人に絡ませる形でするべきです。

全話通してモノローグが多用されるので、テンポは比較的ゆっくりです。ですが、キャラクターの心情というのは非常に重要ですし、内容もストーリーに関係のあることについて話していますから、良い作りだと思いました。

ただ、構成はちょっと変なところがあります。1番おかしいのはヤシロですが、特に4話でしまむらが安達の母親とレスバし始める箇所は、「なんか急だな」と違和感を感じました。

 

・設定

文句をつけるとすれば、まず彼女たちのモノローグです。モノローグによって、儚い青春、みたいな雰囲気は出ており、それは結構なのですが、どうも言葉選びが上手すぎるのが逆に不自然です。彼女たちは学校をサボるような"不良"で、成績も特別良いわけでは無いはずです。小説を読んでいるような描写もありませんでした。そのうえ彼女らはまだ高校一年生なのに、どうしてあのような語りができるのでしょう。それに、モノローグは比喩的な語りが多く、雰囲気重視で、私の聴いた感じ内容はそんなにありませんから、もっと年相応に(一般的な話として)素直な語りにした方が話のテンポとしてもよかったように思います。

また、ヤシロはやはり必要ありません。12話の長さやってきてほとんど出てこないなら、ヤシロについて語られた時間は無駄だったと感じてしまいます。この先どデカい展開に関わってくるのだとしても、もっと出し方に工夫が必要だと、素人ながらに思います。

 

・ストーリー

ストーリーは最初から最後まで、安達としまむらがダブル主人公のようにモノローグをぶつけ合いながら進んでいきます。そのうち恋心を抱いているのは安達のみですから、安達の片想いが成就するのか、視聴者は見守ることになるわけです。

ただ、女の子同士の恋愛アニメだと『Citrus』や『やがて君になる』などの強力な先駆者がいるため、どうしてもそれらと比較してしまいがちです。そうしたとき、最終話を迎えても目立った進展の無い『安達としまむら』は、見劣りしてしまいます。たとえばアニメの『Citrus』は同じ1クールで非常に内容が濃い話を3つほど重ね、晴れて恋仲になっているし、同じく『やがて君になる』も密度の濃い心情描写で畳みかけ緊張感を演出し、文化祭という大きなテーマを仕掛けてから最終話を迎えています。それらと比べてしまうと、安達としまむらの進歩のなさ、そして中身のなさが浮き彫りになってしまいます

とはいえ、モノローグが作る雰囲気は安達としまむら特有のものですから、それが武器になることは間違い無いでしょう。

 

【まとめ】

1話で気に入ったら見るといいかも。ただ、中身はあんまり無い。

 

 

神様になった日

【総評】

おすすめはしづらいです。

ただ、コメディ回は嫌いじゃありません。 

kamisama-day.jp

 

【内容】

神を自称する女の子(佐藤ひな)が、主人公(成神陽太)とわちゃわちゃするアニメ。

前半はコメディが続き、中盤からシリアスに転換していく展開です。

コメディパートはラーメン、映画撮影、恋愛、麻雀に夏祭りなど、様々な題材を用いています。シリアスパートは、佐藤ひなの正体に迫っていく内容です。

 おおよそ7話か8話あたりでコメディとシリアスが切り替わってきます。

 

【評価】

・キャラクター

デザインは好きです。宝石が光を反射するような色使いが印象的。

 

しかし、とても重要であるはずの人格面に、大した魅力を感じないのは問題です。

なぜ魅力を感じないのでしょう。

あるキャラクターが好きだ、と私たちが言うとき、本質的には彼らの何が好きなのでしょうか。思うに、それは人物が抱く確固たる信念、あるいはそれに類するものです。ストーリーや登場人物同士の交流を通し、視聴者は彼らの奥底にあるものに触れ、共感し、キャラクターに好意的な印象を持つのでしょう。人物の容姿とか台詞回しとかは、たしかに要素の一つではありますが、あくまでも副次的な要素なのです。

そういった信念を、『神様になった日』のキャラクターたちからは感じられませんでした。そもそも、後述しますがこのアニメは設定やストーリー構成が破綻しかけている/既に破綻しているので、それも大きく影響しているのでしょうが、とにかくキャラクターに対する印象は「薄い」の一言です。一応最終回まで観ましたが、「誰が好きですか?」と聞かれても答えに詰まります。

特に、主人公の成神陽太はブレがあまりにひどく、「こいつ何?」と思わざるを得ませんでした。というのも、たとえば彼は最初幼馴染にゾッコンだったのですが、終盤では幼馴染を差し置き、ぽっと出の佐藤ひなを危険を顧みず助けに行くからです。もちろん、幼馴染に対する感情は「Love」で佐藤ひなに対する感情は「Like」であることくらい分かりますし、その限りでは両立しそうに見えます。しかし、話のスケールはあまりに違いすぎます。彼は幼馴染へのアタックに躊躇し、佐藤ひなに猛プッシュされようやく決心するわけですが、そんな小さな話も自分で決心できなかった人物が、明らかに危ない橋を渡ろうと決心し実行するなんて、とても受け入れられません。また、コメディ回でのテンションの高さもちょっと怖かったです。人が変わりすぎて。はい。

ついでに佐藤ひなにも触れておきますが、彼女にもイマイチ感情移入できませんでした。一応設定を振り返ると、「そこらの女児と変わらないように見える佐藤ひなは、実は先天性の障害を持っていた。本来ならば寝たきりで会話もままならないはずが、祖父の開発した量子コンピューターを頭に埋め込むことで、佐藤ひなは多くの女児と変わらない生活を手に入れる。主人公たちと出会い、楽しい日々を過ごすひな。しかし、ひなの量子コンピューターは世界に危険を及ぼしかねないとして、ひなは頭のコンピュータを抜き取られてしまう。佐藤ひなは、短い間ではあったが、世紀の発明により「外で遊びたい」という夢を叶えることができたのだ——ほら、泣けよ。」という話なのですが、この設定にもツッコミどころが盛りだくさんです……。それらは設定の欄で触れますが、この設定のいい加減さにより、佐藤ひなへの共感がかなり薄れてしまっています。

脚本の麻枝准は、インタビューでこういったやりとりをしています。

 

——ちょっと感覚的な話なんですけど、『Charlotte』のタイミングでお話を伺ったときに、「物語の中に自分の経験は関わっていない、自分はこの中にはまったくいない」と麻枝さんはおっしゃっていて。で、『神様になった日』も、この中に麻枝 准さん自身がいるわけではないと思うんですけども、物語とか登場人物の振る舞いや言葉、行動に、麻枝さん自身のパーソナリティが映し出されているところは、もしかしたらあるのではないかな、と感じたんです。麻枝さんとこうしてお話するのは2度目ですし、正直どういう方なのかはよく知らないですけど、全体的にやさしい感じがした、というか。ご自身が書かれたシナリオ、登場人物の行動は言葉を振り返ってみて、そういう印象はありますか?

 

麻枝:いや、自分はもう完全に割り切って、虚構として書くので、自分の中の何かを反映させないタイプのクリエイターなんですけどね。*4

 

麻枝氏は、自分のパーソナリティを作品に反映させないと言います。

しかし、そんなことがあり得るんでしょうか……?

「パーソナリティ」とは何か、という点も考慮しなければなりませんが、それが性格や容姿だけでなく、蓄積された経験も含むのであれば、私は不可能だと思います。門外漢が出しゃばって言いますが、経験を生かさずして創作物を完成させることができるとは全く思いません。たとえば、作品を介して存在するコンテンツ受益者と提供者は、その作品に「説得力」があるか否かを、現実世界の在り方によって判断します。なぜなら、全員が明らかに共有しているのは、この現実世界だけだからです。現実に起こる諸々を経験しているからこそ、それを基盤として、アニメなどの描写を違和感なく受け入れることができるのです。

もしそれを使わず、「虚構として書く」ことができたとしても、そうして出来上がった虚構世界にどれだけの視聴者が付いていけるでしょうか。

そして実際、このアニメの評価は散々のようです。

 

・音楽

OPやEDは結構好きです。

 

・構成/テンポ

keyアニメは尺が足らず最後は駆け足になる、みたいな話をどこかで見かけましたが、それが事実ならこのアニメもその類だと言えます。

終盤のシリアスパートは、無理やりねじ込みましたと言わんばかりに飛躍した展開が続き、もう見ていられませんでした。

それを自覚していないのか、なぜか佐藤ひな(摘出後)の介護担当モブに回想シーンを付けるという明らかに無駄でテンポロスな場面もあり、何がしたいのかよく分かりません。

やはり、コメディパートに1クールの半分を割く必要は無かったでしょう。量子コンピューターとか、ハッキングとか、障害の話とか、丁寧に設定を説明する必要があることは分かると思うのですが。前作までは魔法を登場させていたらしいですが、それと同じように脚本を組んでしまったのでしょうか。魔法は超自然的なものなので説明できないことがあっても仕方ありませんが、コンピューターは科学に属するものですから、納得できる理屈の説明が無いと、視聴者は物足りなさを感じます。その分を計算に入れるべきでした。

とはいえ、高評価したい点もあります。それは、障害者を描くというその決断です。

特に、チップ摘出後の佐藤ひなと面会するシーンは、そこまでのストーリーがぐちゃぐちゃであったとはいえ、同情させるものがありました。佐藤ひなは、主人公のことを覚えていないのです。

私は親戚に認知症の人がいましたが、親しい人に忘れられるというのは本当に辛いものです。

一歩間違えれば(更なる)バッシングも免れない。にも拘らず障害というテーマを扱おうと決めたその心意気は称えたいです。

 

・設定

指摘する点は絞りましょう。ここでは「量子コンピュータ」だけ指摘します。

まず、現実世界において量子コンピューターは実現されていないらしく、今のところは完全にSFの産物です。しかし、科学であるからには、そこにはそれが動作する理屈が存在し、また何らかの限界も備えているはずです。だから、この作品内の量子コンピューターもそういうものとして考えます。

とすると、作品中で行われた予言のうち、これから雨が降るとか、バスが渋滞に巻き込まれるとかいった予測は、そのコンピューターが雨雲レーダーとか、監視カメラとかに瞬時にアクセスして、計算を行えば、そのコンピューターにとっては簡単なことでしょう。競馬の予測も、それぞれの馬や騎手のデータを総合して計算できるのなら、ひょっとしたらできるかもしれません。チンピラの動きを予測したのは少し納得いきませんが(名も無きチンピラの詳細なデータがサイバー空間のどこに漂っているというんだ)、量子コンピューターがそれくらいのことができるのだというのは一応受け容れておきましょう。

しかし、ひなの頭に埋め込まれた量子コンピューターが障害をすっかり取り除いてしまって、ひなを健康体の少女として活動させたというのは、どうにも理屈が分かりません。科学(医学)には疎いので的外れかもしれませんが、障害というのは遺伝的な(遺伝子的な)要素が絡んでいるのではないでしょうか。脳をいじれば解決、というような単純なものなのでしょうか。もっと複雑なものなのではないかと想像するのですが、どうなのでしょう。

もし仮に、量子コンピューターが障害を取り除く可能性があるとしても、チップを取り除かれた人間は、量子コンピューターが埋め込まれる前の状態に、そのまま戻るものなのでしょうか*5

たとえば、両脚を骨折し、そのせいで長いこと車椅子生活を続けている人がいたとします。彼は医者に言われ、ずっと両脚で立っていません。ある日ケガがようやく完治し、彼は立ち上がることを許可されました。嬉々として立とうとした彼ですが、どういうわけか、一生懸命動かそうとしているのに、脚がピクリとも動きません……*6

車椅子は、長期間、彼の脚の代わりを務めてきました。なぜ脚が動かなくなるのか、その正確な理屈を私は知らないのですが、とにかく、そういう例はあります。同じように、ひなの脳の代わりとして量子コンピューターは働いていましたが、それが取り除かれたとき、体に必要ないと見なされていたひなの脳は、もはや動かないかもしれません。

このあたりが、量子コンピューターについて私が疑問に思ったことです。

 

・ストーリー

物語としてはつまらなかったです。

ただ、コメディ一つ一つは笑えました。麻雀回は特に面白かったです。

 

【まとめ】

見なくても損しません。

 

 

魔女の旅々

【総評】

4話で切る程度には中身がつまらないですが、作画やキャラクターデザイン、音楽は超優秀。3話が乗り切れるかが分水嶺です。

majotabi.jp

 

※たいていの批判は既にやりましたから、以下ではそこで触れていないことを書きます。 四話までの感想になります。

tragedy.hatenablog.com

 

 

【内容】

話としては天才肌の白髪少女が旅に出てわーわーするものです。

本に出てくる魔女に憧れ、自身も魔女(魔法使いの中のエリート)になった主人公イレイナは、憧れの魔女と同じように、様々な国を旅して回ることにします。

 一話は魔女として認められるまでの話。二話は初めての旅先で、少女に魔法を教える話。三話は人を食う花畑と、幸せになれない奴隷の話の二部構成。四話は記憶を失くした王女の話です。

 

【評価】

・キャラクター

イレイナのデザインが天才的に良いと思います。白髪は賢さの象徴。大きなとんがり帽子は彼女が魔女であることを記号的に示します。紫、黒を基調とした服装も、古典的な魔女のイメージと合致します。また、それら服装、特に帽子、ローブ、リボンなどは体と比べてアンバランスに大きいですが、それは彼女がまだ未熟な少女に過ぎないことを暗に伝えています。

魔女の旅々が高評価を受けているのだとすれば、その多くはこの素晴らしいキャラクターデザインによるものでしょう

しかし残念ながら、イレイナは人格面で一貫していません。「出会った先で初対面の人を助けるか」という簡単な指標で見ても、二話では少女を助け、三話では奴隷を助けず、四話では王女を助ける*7という、一貫性の無さが露見します。イレイナにとって、全員が等しく初対面であるにもかかわらず、です。

これに対して、「助ける」の内容が異なるという反論もあるかもしれません。たしかに、それぞれの「助ける」は、二話では「魔法を教える」、三話後半では「奴隷を解放する」、四話では「危険なモンスターを退治する」で、それぞれ次元が異なることが分かります。魔法を教えることは、イレイナにとってなんでもないでしょう。奴隷を解放しなかったのは、面倒ごとを避けるためだったのかもしれません*8。危険なモンスター退治に参加する気になったのは、同業者である王女に同情したからでしょうか。

しかし、これらは私、あるいは視聴者の想像に過ぎません。なぜ助けたのか、なぜ助けなかったのか。アニメではこれらに説明を与えていません。イレイナの動機が分からずじまいであるというその一点で、面白さは大きく削がれています。

その説明に数秒もかからないはずですが、なぜ動機を語らないのでしょうか。もしくは、厳しい言い方になりますが、そんなこと考えていないので語れないのでしょうか。

また、イレイナの声も、キャラクタービジュアルのイメージから見て少し違和感がありました。先ほど、大きめの服は未熟さを暗示すると書きましたが、その「幼さ」のイメージと、(声優さんには失礼かもしれませんが)比較的年を重ねた大人の女性の声は、いまいち合致しません。慣れればどうとでもなるのでしょうが、そもそも多くのアニメではキャラクターと声の組み合わせに違和感を感じたりしないので、製作側のミスかもしれません。あえてそうしたということも考えられなくはありませんが……。

 

 

他の登場人物に関しては「感情移入」の「か」の字もありませんでした。残念です。

 

・音楽

文句なしで良いと思います。

 

・構成/テンポ

テンポは良いにしても、構成は意味不明です。

特に三話は物議を醸す内容でしたが、そうならないようアニメ監督の方で色々手を加えることもできたのではないでしょうか。それか、三話を丸々スキップしてしまうというのも、一つの手だったのではないでしょうか。

三話で問題なのは、登場人物に大した感情移入ができないこと、イレイナに奴隷を解放しない理由が特に見当たらないことです。また、もしイレイナが奴隷を助けないにしても、その心情描写が「その後どうなったのか知りたくもありません」ではあまりに人格が破綻していると思います。そうならないよう、アニメオリジナルで色々手を加えるのは、全く悪いことでは無いと思うのです。

色々調べましたが、コミカライズ版では一部イレイナの心情の描写が足されているそうです*9。ではなおさら、アニメ版でも描写を足すべきだったのではないでしょうか。

作画やキャラクターデザインが良い分、こういったところが本当にもったいないと思います。

 

・設定

一番突っ込みたいのは魔法です。

魔法がなんでもできる世界なら、たぶんとっくにその世界は滅んでいます。たとえば現実世界でテロや内戦、戦争が発生してきた/発生しているのは、少なからず悪意を(あるいは歪んだ正義を)持った人間が存在するからです。そのような人物がなんでもできる魔法を手にしたら、世界はきっとひどい有様になるでしょう。

そうなっていないのだから、魔法にも何らかの限界があるはずです。それが「なぜ作用するのか」は説明できなくとも、限界は説明しなくてはなりません。

しかし、『魔女の旅々』の魔法は序盤から「時間をまき戻す」なんてことをやり始めるので、限界が一気に跳ね上がっています。もうなんでもありです。これに関して原作者はツイッターで色々説明していますが、それは小説内でやっておくべきです。後付けのご都合主義と言われても仕方ありません。

 

・ストーリー

なんの味もしません。

悲劇的な話を書くなら、まず幸せを書けという話です。

 

【まとめ】

おそらく三話が一番酷い出来なので、万一それを面白く観れるなら、魔女の旅々適正があります。 

 

 

無能なナナ

【総評】

よくあるつまらん低予算アニメかと思いきや、良い意味で期待を裏切ったアニメ。おすすめできます。

munounanana.com

 

【内容】

舞台は超能力者だけが集まる学校。そこに潜入した「柊ナナ」が、能力者たちを頭脳で殺していく話。

柊ナナは、多くの人々にとって危険な能力者たちを始末するため、送り込まれた無能力者です。能力者たちに直接立ち向かっては勝ち目がないため、彼女は「私は他人の心が読める」と嘘をつき、虚を突いて一人ずつ確実に能力者たちを仕留めていきます。

不老不死であり、かつナナと同じくらい頭の切れる小野寺キョウヤの追跡を振り切りながら、ナナは能力者たちを葬るのですが、しかし終盤、他人を癒す能力を持つ犬飼ミチルとの交流を通じ、彼女の中にブレが生じていきます。ナナは犬飼ミチルも他の能力者と同じく多くの人を殺しているのだと思い込んでいましたが、実のところ、彼女は裏表の無い、本当に心優しい人物だったのだと知るのです。

真の意味で友だちになったナナとミチルでしたが、最終回でナナはミチルを失ってしまいます。

 

【評価】

・キャラクター

柊ナナのキャラクターデザインは、シルエットを意識した特徴的なものです。あの筆の穂先のような、あるいは犬の耳のようなツインテールは個性的でいいと思います。

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彼女は能力者に対し冷酷ですが、それは彼女が能力者の襲撃により両親を亡くしているからです。また、彼女に暗殺を命じているらしい「鶴岡」という男は相当な権力者らしく、ナナは彼に強く支配されているようです。ですから、熱心に危険な暗殺任務にも取り組むのでしょう。

彼女は人格面でも一貫性があり、また共感できるキャラクター性を持っていて、最初期待していなかっただけに素晴らしい造形に感じました*10

他のキャラクターは、お約束通りの見た目と性格の組み合わせで、無難な選択をしたのかなと思いました。面白みはありませんが、分かりやすさをとるなら良い判断だと思います。

 

・音楽

普通。

 

・構成/テンポ

テンポは本当に上手い。勢いが良いです。

あと、感心したのは犬飼ミチルの出し方でした。

「なんかこの子よく出るなー」と思ってはいましたが、あれほど重大な役目を負っているとは思いませんでした。

犬飼ミチルは最初(4話)、誰にでも優しい変わり者の女の子として登場します。

信用できない語り手(unreliable narrator)よろしく、そこまでの一話から三話で視聴者には「能力者=危険なやつ」という図式が刷り込まれていますから、私たちは「犬飼ミチルもまた裏があるのだろう」と疑ってしまいます。

常に優しい笑顔を見せるミチル。ナナの犯行が彼女にバレそうになったこともありましたが、ミチルはナナを疑うそぶりを見せません。その純真無垢さが、いっそう視聴者の疑いを強めます。

そして9話で、眠っていたナナにミチルがカッターを突き付けたとき、少なくとも私は、「やっぱり!」と思いました。彼女もやはり裏があったのだと。しかし、実はそれはミチル本人ではなく、彼女に化けた別の能力者だったのです。そしてナナはその能力者に敗北し、大やけどを負ってしまいます。

それを助けたのが、本物のミチルでした。

私も「疑ってすまんかった……」と思いましたが、それでも彼女に裏が無いと証明されたわけではありません。なので疑いは継続するのですが、その後、ミチルは「私の能力ではどうにもならない病気などを治すため、医者になりたい」と自分の夢をナナに打ち明けます。なんでも、ミチルは親友をがんで亡くしているのだと。本当か?と思う一方で、「本当に優しい子なんだな」という気持ちも私には生まれてきます。

ナナも自分の過去(両親を亡くしたこと)をミチルに打ち明けるのですが、その翌日からミチルの挙動がおかしくなります。何かを考え込んでいる様子です。ここでナナは「私の犯行がバレたのかもしれない」と疑いを強めます。

しかし、それは杞憂でした。ミチルの真意を確かめるため部屋に忍び込んだナナは、ミチルの日記をのぞき見します。日記には普通、本心を書くものです。そこには、普段のミチルと変わらない、優しい彼女の言葉が綴られていたのでした。ミチルの挙動がおかしかったのも、両親のことでナナを慰めようと頭をフル回転させていたからだと後に判明します。

これらを受けて視聴者は、今までのミチルの言動が、本当に本心から出たものだったのだと知ることになります。

ナナは自分の使命との間で揺れ動きながらも、ミチルを疑っていたことを反省し、彼女と仲良くなります。

しかし、当時は能力者が殺人事件を起こしていたのでした(犯人はナナではない)。その犯人は次のターゲットとしてミチルを襲撃します。ピンチに陥るミチルを、ナナは身を挺して助けるのでした。

ナナは瀕死の重体。ミチルはナナのため、今まで成功したことのない、しかも大きな代償を払うことになる「蘇生能力」を使うことにします。結果、能力は無事作用し、ナナは完全に回復、一方でミチルは命を落としました。

疑うことを続けてきた孤独なナナにとって、ミチルは希望の光だったのでしょう。

希望を描いてからの絶望。こうしたストーリーの、お手本のような構成です。魔女の旅々は見習いなさい。

細かい話を重ねながらも、こうしたラストへの伏線を上手く撒いていたのは流石だと思いました。

 

 

・設定

能力にしっかり限界を設けており、ナナの側からは、「こいつはどんな能力を持っているのか」「どんな限界があるのか」を探ることになります。

ただ、ツイッター上では「推理がガバガバ」といった意見が多いようです。多いということは私が気付かなかっただけで実際そうなのだと思いますから、普段推理小説を楽しんでいる方などは、論理のアラが気になって途中で切ってしまうかもしれません。

 

・ストーリー

どんでん返しが多く、予想がつかない話が大半でとても楽しめました。

「そこで終わるの!?」というところでエンディングだったので、できることなら続きも観たいです。

 

【まとめ】

おすすめ。

「推理や計画が結構杜撰なのに、登場人物がそれに気付かずイライラする」というパターンで切ることが多いようではありますが、一見の価値はあると思います。

 

 

魔王城でおやすみ

【総評】

頭を空っぽにして見るゆるーいアニメ。かわいいのが好きならハマる。

maoujo-anime.com

 

【内容】

よくあるRPG的な世界観で描かれる、ゆるふわ日常系アニメ。

王女「スヤリス姫」はある日魔王に連れ去られてしまいますが、人質であることを意に介さず、自由気ままに魔王城を荒らしまくります。

 

【評価】

・キャラクター

デザインは良いと思います。テーマである「睡眠」に合わせた、パジャマのような衣装*11と、就寝時の夜を思い出させるような小さな星が覗く瞳が特にかわいらしいです。

彼女が魔王城を荒らしまくると先ほど書きましたが、その目的はただ一つ、「安眠」です。具体的には、枕を作るためにクマから毛を頂戴したり、シーツを作るために布型のモンスターを切り刻んだり。やってることは自己中心的なのですが、彼女は大事な人質ですし、何より魔王たちモンスターはすごく常識的な良い大人たちなので、「仕方ないな~」みたいなテンションで許されてしまいます*12

 

・構成

スヤリス姫が何かを思い立ち行動を始め、魔王一同が驚き、最後には姫が目的を達成して眠りにつく。ほとんどがこの基本パターンで構成されています。

このアニメの見どころは、スヤリス姫の動向もそうですが、何よりそれを受けた魔王一同のリアクションにあります。彼らは全員が姫の一時的な保護者ですから、姫が城壁をよじ登っていたり、城から脱走していたりしたら当然大騒ぎになります。その慌てようがおかしくて良いです。

 

・音楽

OPの中毒性がすごくて、一回聞くと「ノンレム睡眠レム睡眠ノンレム睡眠レム睡眠……」と頭の中で何度も曲が流れてしまうほど。危険です。

 

・設定

世界観設定はよくある「異世界」を基調としており、お約束の連続なのでアニメオタクなら難なくついていけるでしょう。裏を返せば、それぞれのモンスターの説明とか、魔王とは何かとかの詳しい説明がないハイコンテクストなアニメなので、アニメ初心者が観るには向かないと思います*13。たとえば、しょっちゅう出てくる「クエスト」はゲームをする人でないと何のことか分からないでしょう。

 

・ストーリー

笑える/リラックスできるという意味で面白いと思います。

 

【まとめ】

頭を使わず楽しめます。おすすめです。

 

 

 

くまクマ熊ベアー

【総評】

なろう全開でウザいうえに中身はまるで無い作品ですが、作業のお供に流すくらいなら丁度いいと思います。

 

【内容】

 異世界転生した少女が無双する話。以上。

 

【評価】

・キャラクター

幼女キャラクターが多いという一点が高評価です。

ただ、セリフにリアルな幼女らしさが無いのでそこは残念でした。

 

 

・構成/テンポ

構成やテンポに問題はありませんでした。

展開も単純明快で、とても分かりやすいです。

 

・設定

普通です。

 

・ストーリー

主人公がなんの脈絡も無く得た力で敵をバタバタ倒し、称えられながら知り合いを増やしていくという普通のストーリーです。

 

【まとめ】

幼女ハーレムは良いと思います。ょぅι゛ょは最高なので。

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なんか二期決定してた

 

以上。

 

*1:と言うわりにはおすすめできるかできないかも書いているのですが

*2:このシュッツエンゲル制度は『マリア様がみてる』のスールなどをリスペクトしていると思われます

*3:アサルトリリィのキャラはドール化しているので関節部分を隠しているのだ、というツイートを見かけました

*4:全鍵っ子必見! クリエイター・麻枝 准の完全復活を告げる、新たな決意――『神様になった日』麻枝 准2万字インタビュー③ | アニメ ダ・ヴィンチ

*5:「そのまま」戻ったかどうかは、チップを埋め込まれる前のひなの明らかな描写が無いので分からないが、流れから察するにそういうことなのだろう

*6:当然ですが、一生動かないわけではありません。

*7:正確に言えば安全な城を抜け出して加勢しようとした

*8:しかし、この作品の魔法は時間を巻き戻せるほどになんでもできるようですから、たとえば人々の記憶を改ざんして奴隷を解放することも容易にできるでしょう。他人が幸福である場合と、不幸である場合。シャーデンフロイデが好きというわけではないなら、好ましいのはもちろん後者のはずです。そしてイレイナは、一話と二話の描写を見ると、メシウマするような性格には見えません。すると、助ける理由は見当たっても、助けない理由がイマイチ見えてこないのです。

*9:自分で読んでいないので信憑性に欠けますが

*10:ただ、推理は雑だという批判はあります

*11:寝ている間にさらわれていたような気がするので普通にパジャマなのかもしれない

*12:9話では姫にしびれを切らしますが、パターンは一緒です

*13:今となっては当たり前になりましたが、多くのアニメ・マンガ・ラノベは読者のオタク知識に頼って作られている部分があります。『神様になった日』の感想で、私たちは現実を基盤として作品を楽しむ、といったようなことを書きましたが、この場合は私たちにスキーマとして蓄積された「イセカイ」を基盤として作品を楽しんでいるのだと言えるでしょう。

出産するVTuber、その擁護と肯定

 

COVID-19の流行で想像が難しいかもしれないが、たとえば春の「お花見」では、何か食べ物を持参するか、現地調達し、複数人でそれらを囲む。

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その食べ物は家族やパートナーの手料理かもしれないし、出店の焼きそばやたこ焼きかもしれないし、コンビニ弁当かもしれないが、なんであれ、花見の場で食べた物は、自宅で食べるそれよりずっと美味しい。少なくとも私はそう感じる。特にコンビニ弁当は分かりやすい。あれらは機械で作られているのだから、料理が同じなら、違う容器に入っていても味は同じだ。にもかかわらず、コンビニ弁当も、花見など普段と違う場所で食べるだけで、いくらか味が良くなった気がする。

これは景色の新鮮さがその要因の一つだと何かで見たが、それが事実かはどうでもいい。問題は、私たちの味覚がどう感じたかである。科学に言わせれば、それは「錯覚」なのだろう。しかし、私はたしかに、より美味しいと感じるのである。

 

 * * *

 

VTuberが出産した。こういった類の報告は、これが初ではない。私が知っている限りでは、にじさんじのグウェル・オス・ガールが既に子持ちを公表している。しかし、こちらは大した話題にはならなかった。他方、今回の出産報告は、Twitterトレンド上位を獲得するほどの話題ぶりである。

おめがシスターズはVTuberの中でも指折りの動画投稿者だ。私の記憶では、彼女らはリアルを題材にする動画づくりで有名だった。実際に、現実世界の——バーチャルでない——店に出向き、撮影した実写動画を彼女らのアバターと合成して投稿する。当時、実写を組み込むVTuberを私は知らず、訝しく思ったものである*1

 

 

そんな彼女らの報告は、姉妹の片割れが出産したというものだった。

 

出産自体への祝福は当然だろうが、「VTuberが出産する」という事態には拒否的な反応も多くあった。検索上位の否定的なツイートを、いくつか引用させていただく。

 

 

 

 

 

報告動画の中で、おめがレイは一旦画面から消える。そして現れるのが、「おめがのハコ」だ。彼女が「おめがレイ」であることは明らかだが、建前上、彼女は「おめがのハコ」と「おめがレイ」は別人だと主張する。つまり、出産したのは慣れ親しんだ「レイ」ではなく「ハコ」のほうだと主張するのだ。
彼女らは賛否両論あることを予想していたが、それでも出産を報告したかった。「おめがのハコ」という演出には、彼女らなりのファンへの配慮が表れている(し、事実彼女たちも「視聴者と真剣に向き合った結果」だと語っている)。

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「実は、出産しました」1:42より

だが、それでも「グロく感じる」「商売として悪手」「もうVTuberじゃない」といった強い反応が返ってくるのだ。問題の根深さがよく分かる。

 

 * * *

 

出産とは、極めて生物的な行為である。生物の対比を機械としよう。以下でいう機械とは、とりあえず「ある一定の規則に従って自発的に動く人工物」としておく。これは人工知能(AI)やそれを搭載したロボットなどを念頭においている。

出産には、性交により子を宿し、それを胎内で育て、耐え難いほどの苦痛に抗いながら産み落とすという一連の工程が伴う。そうして、数千グラムの小さな赤子が産声を上げる。それは、か弱く、脆い。適切に世話をしなければ、簡単に死んでしまう。大人たちが必死に努力し、赤子が懸命に生きればこそ、彼/女は立派に育つことができる。

そこにかかるコストは気にするべきでは無いのかもしれないが、実際のところ、それは尋常ではない。両親は金銭的にも、体力的にも、精神的にも、多くのものを支払うことになる。多くを犠牲にしなければ、育児は成立しない。

人間が子を産み、育てるために必要なもの——母体への苦痛、精神や体力をすり減らす育児、度重なる出費など——は、私たちが有機的な生命体であるからこそ要求される。私たちは成長する。ほんの小さな受精卵から。

 

 * * *

 

機械は出産するだろうか。否。必要がない。

純化しすぎかもしれないが、同胞を増やしたいなら、工場で組み立てればよいだろう。産む側に苦痛はない。産んだ後の慎重なケアも必要ない。生物でいえば、組み立て完了時点で、少なくとも身体は「大人」だ。AIであれば、頭は経験が必要かもしれないが、それは半ば放任でも勝手にやることだ。人間の赤子のように、ミルクを温めるとか、おむつを替えるとか、そんな面倒なことは必要ない。もちろん、メンテナンスなど別種の面倒くささはあるだろうが、そうした面倒も、技術の進歩次第で無くなるだろう。

つまり、SF的な仮定だが、機械が自力で数を増やそうとしたとき、生物のようなコストの大きい繁殖方式はとらないだろう。機械の身体(パーツ)は成長しない。だから、出産することもない。

出産は、生物的な行為だ。

 

 * * *

 

自分でも大げさだとは思うが、VTuber消えゆく媒介者*2(the vanishing mediator)かもしれない。

消えゆく媒介者は、二つの概念を仲介する。たとえば、プロテスタンティズムは、封建主義と資本主義を仲介する消えゆく媒介者だ。封建主義の時代、宗教と経済は分離していたが、プロテスタンティズムは両者を結び付けた。プロテスタンティズムは勤勉や禁欲を説き、経済の領域にも宗教を浸透させたのである。そうして資本主義の土壌が出来上がり、資本主義が支配的になると、プロテスタンティズムは衰退する。消えゆく媒介者は制度の移行を助け、移行が完了したら、自然に解体するのだ。

 

VTuberは、生物(人間)と機械の消えゆく媒介者、ということになるだろうか。

VTuberは、いわば人間と機械の中間に位置する存在……は言い過ぎかもしれないが、人間でありながら設定の力を借りて機械を装うことが十分可能な存在ではある。キズナアイや出雲霞*3、Melody(Projekt Melody)など、そうした例は枚挙にいとまがない。

www.youtube.com

しかしそんなVTuberは、声も見かけも挙動も人間と全く見分けの付かないような自立型のロボットや、そんなロボットを実現できるだけのAIが完成すれば、衰退するかもしれない。AIは人間に比べればコストがかからないし、便利だ。

そうして、VTuberは消えゆく媒介者としての役目を果たす。今のVTuberは、未来の存在へ向けての準備期間だというわけだ。

……もちろん、そんな未来はやって来ないかもしれない。人間は消滅するのか、という話にもなってしまう。が、とりあえずここで未来予測は措こう。

大事なのは、VTuberが媒介者であるという点だ。

VTuberは生物の性質を持ちながら、機械の容姿を得て活動する。生物と機械を橋渡しするかのように。

 

 * * *

 

VTuber、実際(actual)のところ、人間が演じている*4。これはVTuberの視聴者みんなが知っていることだ。

他方、VTuberは人間が演じてはいない*5。これもみんな知っていることだ。VTuberは人間ではない何かであり、現に「それ」として存在している。

VTuberは人間であり、人間でない。これは撞着語法、つまり矛盾である。

しかし、冒頭の花見の例を思い出してもらいたい。花見で食べたコンビニ弁当と、自宅で食べたコンビニ弁当は、同じものでありながら、同じものでなかった。ある人は、味の違いを錯覚だと言うだろう。またある人は、味の違いを真実だと言うだろう。これは「どちらが正しいか」ではない。「どちらも正しい」のである。

つまり、VTuberは人間でありながら人間でない」は成立すると私は言いたい。これをダブルバインドというが、このままでは「VTuber」の語義の広さに負けてしまうので、少し改良する。

まず、「VTuberがそこにいるだなんて錯覚だ」という、VTuber視聴者が感じる虚構の性質を「虚構性」としよう。

他方、「VTuberがそこにいる」という、VTuber視聴者が感じる実在の性質を「実在性」としよう。

そして、先ほどの「VTuberは人間でありながら人間でない」を、二つの語を用いて、VTuberは虚構性を持ちながら実在性も持つ」と表現する。こうすれば、VRChatを主な活躍な場とするような、いわゆるアバター型のVTuberも命題に取り込めるのではないだろうか。もし取りこぼしがあればいくらか限定が必要だろうが、今はこれで話を進める。

 

 * * *

 

VTuberの商業的戦略*6において、虚構性と実在性は、不可欠な両輪である。

もし虚構性が欠ければ、それはVTuberではない何かだと判定されてしまう。

虚構性を生み出すものは、VTuberのいわゆる「魂」と「身体」の存在であるが、それが欠けるとはつまり、魂あるいは身体、もしくはその両方が欠損するということである。魂が欠ければ、それはただの絵や3Dモデルだ*7。片や、身体*8が欠ければ、それはただの人だ。両方が欠ければ、そこには何も存在しない。

そうなれば、「錯覚だ」と指摘する箇所も同時に消える。ゆえに、虚構性がなければVTuberVTuberではない。当然、そうなれば商業的戦略どころの騒ぎではなくなる。

 

また、実在性の欠如も、虚構性の欠如ほどでないにせよ、視聴者の獲得・維持に際して致命的だ

実在性は、「魂」と「身体」という裂け目が隠れることが、発生の必要条件である。

VTuberは「魂」と「身体」という分離——虚構性——を視聴者に意識させないよう行使する。たとえば設定があるVTuberなら、それと矛盾しないよう言動に気を付けるものだ。矛盾はすぐさま虚構性を視聴者に想起させるから。よほど大きな矛盾でなければ視聴者はまた実在性の物語へと入っていけるが、あえてすることではない。
また、設定の無い、例えばVRChatなどを主体に活動するVTuberたち——「新たな姿を手に入れた自分」を謳歌するようなVTuberたち——においても、特殊な場合*9を除き、わざわざ自分の顔とアバターとを並べて表示することはないだろう*10VTuberで活動しているときは、現実の肉体は措いて、VTuberとして振舞うはずだ。

実在性が欠けるとき、つまり視聴者が虚構性を思い出すとき、何が危険か。それは、「絵を画面内に置いてる配信者」や「絵畜生」などと言われてしまうことだ。その危険性は、3Dモデルが一番低く*11、動かない絵が一番高いだろう*12

実在性が欠けたVTuberを目の当たりにした視聴者は、実在性の壁をすり抜けて、その向こうの、虚構性を見てしまうのである。

繰り返すが、虚構性と実在性は、視聴者獲得を目的とした際の、VTuberの両輪である。
虚構性が欠けると、VTuberそれ自体が成り立たない。
実在性が欠けると、視聴者に虚構性を見せることになる。ただ、実在性の欠如が与える影響はVTuberによりけりで、普段から顔を明かしているような犬山たまきや、Bunnyらにとっては無問題かもしれないが、他方、でびでびでびるや、キズナアイが実在性を欠けば、その視聴者にとっては致命的になるかもしれない*13。そこは程度問題である。

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 * * *

 

あの出産報告動画を今までの話に当てはめよう。

姉妹は「おめがレイ」と「おめがのハコ」を分け、出産したのはあくまでも後者であるとするが、建前はそうでも、おめがレイが出産した事実は変わらない(実際、おめがレイは自身のTwitterアカウントで「出産しました」とはっきり発表している。先のツイート参照)。今まで見てきた通り、出産は生物的な行為であり、機械的な——生物でない存在としての——「VTuber」は到底しそうにない行為である。また、「おめがのハコ」は実写で登場しており、実在性を欠く。

ゆえに、是非は後に検討するとして、あの動画が実在性を欠き、虚構性を剥き出しにしていることは事実である

 

 * * * 

 

VTuberの視聴スタイルは様々だ。

その一つは、VTuberというフィクションを楽しもうというものである。つまり、ロールプレイングや、バーチャルの身体などがあってこそ、VTuberには価値があるという態度である。これを仮に「仮想至上主義」としよう*14

また、志向が禁止に働いて、VTuberに現実を持ち込むことを強く拒否する態度もある。VTuberに現実はいらない、という考え方だ。こちらは「現実禁制主義」とでもしておこう*15

両者は独立に存在するが、併存することもある。

VTuberの出産」といった事態に対する拒否反応において、台頭するのはこれらだ。

 

 * * *

 

VTuberの出産に対し、私の考えを述べておくと、私は彼女らの報告を肯定したいと思う

たしかに、商業戦略的に言えば、あの報告は明らかに間違いだ。彼女らは、仮想至上主義や現実禁制主義を抱えた視聴者をいくらか失うことになるだろうから。しかし、物事の決定基準は一つだろうか。いや、違う。他にも大切にすべきことは多い。

私が彼女らの報告を肯定し、擁護したいのは、彼女らの勇気を讃え、出産を祝いたいからではない。いやもちろんそうしたいが、直接の理由ではない。

私たちは、VTuberの虚構性の部分も肯定したほうが良い。

VTuberの実在性はよく語られる。「今ここにいる」「実在」などは、VTuber批評で頻繁に使われる言葉だ。しかし、先に見たように、VTuberのもう一つの中枢は、実は普段は隠されている虚構性の側にある

視聴者は普段、実在性という物語に浸っている。しかし、VTuberが人間であるという構造上の問題から、虚構性はどうしても垣間見える。そのとき、目をそらさずに虚構性を見つめ、受け止めることができるかどうか。それが鍵だ。

 

 * * *

 

虚構性を受け入れると、何が嬉しいのだろうか。

それは、VTuberという存在を、表面だけでなく、奥底から知り、真に支えることができるという点にある。

現在、VTuberは宙吊りになっているVTuberは視聴者に様々なコンテンツを提供するが、その仕方は十中八九虚構性を覆い隠すものだ。だから、視聴者側は実在性のみをVTuberの特質と見てしまいがちである。本当はその背後の見えない(invisible)領域で、VTuberは生物として生きているのだが、視聴者は表層の機械性のみに注目してしまう。すると、VTuber側は、生物と機械の狭間で大きく揺らぐことになる。

「私は人間であり、同時に人間で無い者である。私はその両方を大事にしたいが、しかし視聴者は私に人間ではないことの方を求めているようだ——」。

もちろん、視聴者が直接そう求めることは無い。しかし、間接的には? どうだろう?

 

 * * *

 

出産報告に際し、おめがシスターズは「罪悪感」というワードを口にした。葛藤があったのだろう。視聴者に求められる「人間でない私」と、求められていない「人間としての私」との間で。しかし、彼女たちにとって、「人間としての私たち」もまた、大事な「私」だった。だからこその、出産報告だった。

であれば、「VTuberとしての彼女」だけでなく、その「生きている彼女」をも肯定すること、つまり「彼女そのもの」を肯定することが、結果VTuberを根底から支えることにはなるまいか

 

 * * *

議論を簡単にまとめる。

VTuberは出産しない。VTuberはいわば機械の模倣だから。しかしVTuberが出産した。矛盾だ。

しかしそれは矛盾でない。VTuberは生物でもある。VTuberは生きている。

「生きているVTuber」は当然に虚構性を持つ。虚構性が見えると、視聴者は離れていきたくなる。特に仮想至上主義者は首を横に振る、「俺のバーチャルが壊れる!」と。現実禁制主義は血眼になって叫ぶ、「リアルが侵入してくる!」と。

だが、虚構性はVTuberの大前提である。事実として、VTuberは生きている。

虚構性の肯定は、VTuberの根底からの肯定である。命の肯定は、VTuberそのものの肯定である。

 

 * * *

 

VTuberは媒介者である。それは、生物でありながら、機械的な者だ。虚構性を持ちながら、実在性も持つ者だ。

今までのように、機械的な実在性だけを見て、生物的な虚構性を捨てさせるようでは、あまり良くない。虚構性を隠そうとするのはVTuberの努力だが、それでも時折、虚構性がこぼれ落ちる。そのとき、視聴者側がその虚構性を否定し捨てさせようとしてはいけない。それもVTuberの一部である。虚構性の否定は、VTuberの根底からの否定だ

できればそうではなく、虚構性も肯定しようVTuberの生も肯定しよう

出産という極めて生物的な行為をVTuberが経験したとして、それはなんらおかしなことではない。全く。

これが私の考えである。

 

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友達Vチューバーに、いきなり赤ちゃん見せてみた。【樋口楓 × おめシス】(7:20)より

 

 

*1:過去、私は現実をVTuberに持ち込むことについて否定的だった

*2:フレドリック・ジェイムソンの用語

*3:既に引退したが

*4:AIが演じている例も知らないだけであるのかもしれないが、視聴に耐えるレベルではまだ無いだろう

*5:これを満たすのはVTuberの一部だろう

*6:YouTubeなどで視聴者を増やすことにより人気や収入を得るための計画のこと、としておく

*7:2Dおよび3Dを扱うにじさんじやホロライブが一番これに妥当する。声だけをあて、身体は別の誰かが動かすタイプのVTuber(そういえばCTuberという言葉もあった)は先の例とは異なるが、こちらもやはり、声優がいなくなることが魂の消失だといえるだろう。実際、ゲーム部はモデルを動かすスタッフがおそらく変わらないにも関わらず、声優降板だけで騒動になったのだ。また、自身をVTuberだと主張しない「赤月ゆに」なども、ここでは便宜上VTuberの括りに含む。彼女が自身をそう呼ぼうが呼ぶまいが、彼女に「魂」と「身体」と呼べるものが備わっていることは事実だから。

*8:どこまでが「バーチャル」上の身体なのか、答えるのは難しい。現実の体を撮影し、その画像をアバターとして活用する場合、自分そっくりの身体がバーチャル世界を練り歩くわけで、そのアバターはバーチャル上の身体だといえるだろう。では、なぜ現実世界の肉体はバーチャル上の身体ではないのだろうか。私たちが画面越しに現実の人間を見ていれば、その彼/女の体はもうバーチャル上の身体ではないだろうか。しかし直観的にはそうでない。現に、YouTuberのヒカキン氏がVTuberであると考える人はいない。なぜ? 分からないので、ここでは「身体」を、「現実世界あるいは空想世界の生物・物体などを「デフォルメ化」した画像・モデル群」としておく。

*9:顔認識の技術的な説明などだろうか

*10:海外YouTuberにはワイプで自分の顔を写しながらVRChatをプレイする方もいるが、そもそも彼らをVTuberとみなす人はいないだろう

*11:過去に配信を行ったアイドルマスターの「星井美希」がVTuberであるか否かには争いがあるが、ここでは「魂」と「身体」を持っているとしてとりあえずVTuberに含むことにする。彼女の配信はファンに「星井美希が実在している!」と感激された。その「実在」がVTuberの「実在」と微妙にニュアンスが違うことは承知しているが、場数を積んだ声優とリアルタイムに3Dモデルを動かす方法が組み合わさったときのほうが、動かない絵より遥に実在感を生み出すことは明らかである

*12:配信画面にファンアートなどの一枚絵を出しておくという光景は、VTuberに限らず、ニコニコ生放送やYouTuberの配信でもよく見かける。VTuberはそれまでのVTuberとしての蓄積があるため一枚絵でもVTuberの身体として見てもらえるわけだが、絵に動きがない以上、その瞬間だけを切り取れば、両者の差異は「VTuberと名乗っているかどうか」くらいになってくる。そうしたとき、VTuberは虚構性を隠し続けられるだろうか。

*13:実際、キズナアイは過去窮地に追い込まれている

*14:仮想至上主義はキズナアイの系譜を引いていると私は思う。AIという未来を感じさせる設定を持つキズナアイは、今もVTuber界の代表として担ぎ上げられている。実際、黎明期のVTuberのほとんどはキズナアイを参考にしていた。仮想至上主義者の大多数はそれを覚えていて、VTuberキズナアイのような「バーチャルな」存在であるべし、という発想に至ったのではないだろうか。これは本文に言う「機械的な」VTuber像だ。しかし、そのキズナアイは自身をVTuberと呼ばない。それは後発のVTuberと立ち位置が異なることの表明だろうと私は推察する。

*15:現実禁制主義は、意地悪く言えば、「現実逃避の拗らせ」と表現できるかもしれない。現実禁制主義者は、あるVTuberが「バーチャルな存在」かどうかは気にしないかもしれないが、リアルの混入はひどく嫌う。どの程度まで混入を許容できるかは人によるだろう。「オフラインコラボ」という字面だけでダメな人、手が写らない実写は許容できるが肌が写るとダメな人、手はなんとか視聴できるが全身が写ると拒否反応が出る人などなど。だが共通するのは、「VTuberの生きている部分は観たくない」という考え方である。

どうした、『魔女の旅々』(4話まで視聴)

ハロウィンのキャラクター(魔女)

 

今期アニメ注目の一作、『魔女の旅々』。前評判は上々で、私も期待していた。キャラデザはかわいいし、絵も綺麗、これで外れたらすごいな~という第一印象。

majotabi.jp

一話は「思っていたほどではないな」と思いながら、期待を込めて二話も視聴した。

しかし旅の始まる二話では「うーん、なんかねえ」とモヤモヤしたものを抱えながら視聴を終える。とはいえ観れないものではないし、二話時点では「期待が高すぎたのかもしれない」と思い直した。三話では面白くなるかもしれないし、と。

 

で、三話。

 

は?

 

正直、驚きの連続だった。悪い意味で。

個人の感想だが、これ、ぜんぜん面白くない

というか、むしろ怒りまでこみ上げてきた。腹が立って仕方がない。なんだこれはと。

魔女の旅々は、"覇権"もあり得ると思っていただけに、はかり知れない衝撃を受けた。美しい絵と、かわいいキャラデザ、主人公の声はちょっと浮いてるような気もするが悪いわけではない、なのにそこからストーリーや構成で期待を裏切ってくるとは(悪い意味で)。

 

このアニメが面白いと感じていらっしゃる方には申し訳ないのだが、私にはあまりそうは感じられなかったので、自分の気持ちの整理も兼ね、ここでは現時点で『魔女の旅々』がなぜこんな出来なのか考えてみたい。

 

まず、はっきりさせておきたいのは、このアニメにおける「鬱展開」や「登場人物の性格」それ自体はあまり問題ではないということだ。

『魔女の旅々』に好印象を抱けなかった人たちの感想をググってみると、「鬱展開が萎える」「性格が悪い」「登場人物の道徳がねじ曲がっている」といった意見が見受けられる。

たしかに、三話の内容は人を鬱々とさせる内容であることは間違いないし、主人公のイレイナは情に厚いほうでは無く、打算的で、承認欲求にあふれており、おまけにナルシシズムにも浸っていて、性格が悪いと言われても仕方がないかもしれない。また、登場人物の道徳心・倫理観についても、魔女はイレイナの天才ぶりを僻んでいたし、イレイナの親は金で娘を売り渡したともとれる取引を魔女に持ち掛けていたし、二話で登場する少女は計画的に(つまり故意に)窃盗を働いていたしと、あまり「いい人」が出てこない。

以上のように振り返れば、たしかにそうした感想も正しいだろう。

が、それらは『魔女の旅々』が(少なくとも私にとって)面白くない直接的な理由では無いと、私は思う。

なぜなら、「鬱展開」で面白いアニメは五万とあるし、「性格が悪い」「道徳がねじ曲がっている」世界観で面白いアニメも当然存在するからだ。

たとえば「鬱展開」で有名なアニメは『ぼくらの』『魔法少女まどかマギカ』『結城友奈は勇者である』といった作品群であるが、これらはいずれも名作扱いされている。人を鬱々とさせるストーリーや、胸糞の悪い展開それ自体が、直接悪評に結びつくわけではない。

また、「性格」についても、『エヴァンゲリオン』シリーズの主人公、碇シンジは性格がいいとは言えない。彼はナヨナヨしていて、時に視聴者をイラつかせる。しかし、『エヴァンゲリオン』はそれも含めて高い評価を受けている。

「道徳・倫理観」に関しては言うまでもないが、たとえば『ハッピーシュガーライフ』に「いい人」はほとんど出てこない。だが、話として十分成立している(そのうえ個人的にはとても面白かった)。

このように、挙げられたそれぞれの要素それ自体は、必ずしもアニメの負の評価には繋がらないのである。

 

では、何がこの「面白くなさ」あるいは「物足りなさ」を生んでいるのだろうか。

それは「納得感」だろう、と考える。

納得感?

いわば、描写・伏線といった裏付けによって得られる、「それがそうあること」への同意の感情である。

たとえば、ピンチの場面で主人公が友情を糧に覚醒したとする。この覚醒に何の前触れもなければ、視聴者は置いてけぼりを食らうだろう。一方、その覚醒前に伏線として、丁寧に友情物語を描いていたとすれば、視聴者は特に頭の中で今までの話を整理していなくとも、納得をもってついていくことができる。

アニメ『Re:CREATORS』には「承認力」というものが登場したが、納得感とはまさしくそれだ。

『魔女の旅々』に決定的に足りないのは、この納得感を確保するための尺である。

思うに、このアニメは急ぎすぎだ。原作小説ではどうなっているのか知らないし、ラノベは読まない主義なので知る由もないが、少なくともアニメでの構成は失敗していると思う。

1話や2話にも突っ込みどころはあるが、長くなるので3話だけに限定しよう。

 

3話において、一番の失敗は20分ほどの尺に前後編二つの物語をねじ込んだことだ。前後編にするということは、それだけ尺が短くなるということである。『ご注文はうさぎですか?』などの日常アニメなら、5分や10分の話をいくつか挿入しても問題ないだろう。それぞれのキャラクターがどんな人物か、視聴者が把握しているためだ。しかし、それを新キャラクターが頻出するストーリー形式で採用してしまったのはどうしてなのか、大いに疑問だ。実際、前編は話として成立してはいるが、あまりに内容が薄く、視聴体験としての価値をほとんど感じ取れなかった。後編も物語として分からなくはないが、どこかで見たような内容で驚きも無く、展開も容易に予想でき、ただただ苦々しい思いが残るという、(少なくとも私の)視聴体験としてマイナス——つまり見なければ良かった——な出来栄えである。

これらの散々な評価は、思うに「尺不足に由来する話の単調さ」と、「イレイナの傍観者的態度」「鬱々とした展開の救われなさ」の三つに起因している。

 

まず話の単調さだが、そもそも悲劇的な話というのは類型があまりない、と私は思っている。だから大体結末は予想がついてしまうし、陳腐なものに感じてしまう。そのため、肉付けをしっかりしないと、ユニークさは出てこないだろう。そしてその肉付けのためには、時間をかけた丁寧な描写が必要不可欠である。

しかし、前後編にしたことで、尺は否応なしに削られ、前編はあのざまである。薄すぎて味がしない……とまでは言わないが、正直観る価値はあまり感じなかった。素人の案ではあるが、少なくともイレイナを兄妹としっかり対話させたり、お国柄やそこに暮らす人々などを描いて感情移入させてからあの結末にもっていかないと、「ふーん」で終わってしまう。観ていて非常に勿体ないと感じた

また後編は前編に比べればずいぶんとマシだが、しかし「しあわせ」なんてワードを出してしまったらネタバラシをしたも同然だろうと思う。プレゼントを受け取った奴隷ちゃんの演技は良かったが、それはそれとして「そんなになるほどか……?」という感想は拭えない。奴隷というほどなのだから、逃げ出しても食べていけないのだろうとかそういった予想はつくにはつくが、その点に関する奴隷ちゃんサイドの描写が大して無いので、やはりこちらでも置いてけぼりを食らってしまう。

こちらの感情を揺さぶりたいなら、それ相応の準備が必要である。 もっと時間をかけて人々の様子などを描けば、もっと良くなったのではないかと私は思う。

 

 

次にイレイナの傍観者的態度だが、確認として、私たちは、グリム童話を読んでいるわけではない。そうではなくて、イレイナの物語が観たいのである。三話のように、「イレイナが何も手を下さず、ただ見ているだけ」という展開は、あり得ないとは言わない。別に、イレイナにヒーローになってほしいわけではない。手を貸さなくても結構。一向にかまわない。

だが要望があるとするなら、たとえば三話後編、奴隷を助けるか否かのシーンにモノローグで葛藤があったりすれば、ガラリと雰囲気は変わったかもしれない。視聴者はイレイナに人間味を感じて、共感できたはずである。しかし、彼女のモノローグは基本的に舞台装置的な説明セリフばかりだ(あるいは多すぎる)。これでは、主人公であるはずの彼女の心が、よく見えない

後編の最後、彼女はプレゼント受け渡しの様子を見ず屋敷を立ち去るが、そこでぶちまけられるモノローグはお説教である。

 

好意が人のためになるとは限らない

 

大体予想がついていたとはいえ、思わずため息が出てしまった。

 

『魔女の旅々』を観ているとなんだかニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を思い出す。『ツァラトゥストラはかく語りき』は、ツァラトゥストラという人物が旅をし、訪れた各所で説教をして回る内容の詩だ。これは一応哲学書なので、作者の説教したいことが、主人公であるツァラトゥストラの口から語られる。ツァラトゥストラは、いわばニーチェの操り人形だ。ツァラトゥストラの言うことは、ほぼニーチェの言いたいことである。これは哲学書だから許されることではないかと思うのだが、しかし私にはイレイナも同じ扱いを受けているように思える。つまり、イレイナが作者の思いついた説教を喋らせる傀儡に見えてしまうのだ。

 

イレイナは3話において、ほとんど心身をさらけ出さなかった。おそらく、このアニメは「イレイナが何を考えているか」をもっと加えていくだけでもぐっと面白くなると思う。内面の描写が無さ過ぎるので、傍観者とか言われるのだ。イレイナがいくら"冷静沈着*1"だとはいえ、何も考えていないわけがないだろう。彼女も人間だ。それを表現しない意味は、よく分からない。心情描写がなさすぎるので、あまりに淡々とした印象を受けてしまう。『安達としまむら』並みのモノローグは挟まなくていいが、このままの調子で話を進めるつもりなら止めておけと言いたい。

それに、はっきり言って、イレイナが三話のような立ち位置に留まり続けるのなら、「イレイナ要る?」という話にもなってくる。私には彼女が、どこかで見たような悲劇を見せるためだけの舞台装置にされてしまっているようにも見えるのだが*2、だとしたらそれは別に、既にあるアニメのカメラの視点を使えばそれで構わないのだ。イレイナのセリフの代わりに、ナレーションでもいれてやればいい。そう、もう悲劇集みたいにすればいいのだ。この国ではこんな不幸があってね、あの国ではこんな不幸があってね、と。

——それはそれで需要があるのかもしれない。だが、私たちはそんな目的で視聴しているのではない。

私たちは童話を読んでいるのではないのだ。イレイナの話を観に来ているのである。にもかかわらず、イレイナは心でも体でも、積極的に話に関わってこない。それではつまらなさすぎる。

 

 

最後だが、三話で描かれた物語は単調であったとはいえ、やはり鬱々とした印象は免れない。一話や二話でも"前兆"は見え隠れしていた*3が、特に三話の鬱要素はそもそも必要だったのか疑問だ。

そもそも、鬱エンド(≒バッドエンド)が評価されるには、意味が必要である。昔私のフォロワーが言っていたのだが、物語の結末について読者の満足度が高いのは、順に

 

「意味のあるバッドエンド」>「意味のあるハッピーエンド」>「意味のないハッピーエンド」>「意味のないバッドエンド」

 

なのだという。これが真かはさておき、「結末に意味があるか否か」つまり「視聴者が結末に納得できるかどうか」は、作品評価に直結する重要なファクターであるだろうし、みなさんも同意するところだろうと思われる。

つまりこれも納得感の問題なのだが、『魔女の旅々』の鬱展開に、みなさんは納得できただろうか。

私には、少し難しかった。

もちろん、「イレイナが訪れたあの国では、たまたまあんな不幸なことが起こってしまったのだろうな」と理解はできる。しかし理解と納得は違う。先ほど述べたように、三話は説明不足が目立ち、それゆえ納得感が欠けている。姉と弟が植物に食われたのはいいが、それをなぜ私は観ているのか? 奴隷が不幸を悲しむのはいいが、それをなぜ私は観ているのか?

アニメ『ぼくらの』では——ネタバレだが——ジアースに搭乗していた少年少女は一人を除き全員死亡して、幕引きとなる。これは間違いなくバッドエンドである。だが、彼らが葛藤のなか「よく生きた」ことを視聴者は知っているので、納得して結末を受け入れることができる。

しかし、『魔女の旅々』は前述の通り描写がおろそかなので、納得感で鬱々としたラストを中和させることができず、拒否反応が出てしまう。

アニメは様々な役割を持つが、そのうちの一つが「娯楽」だ。視聴者を楽しませること抜きに、創作物は成立しがたい。にもかかわらず、『魔女の旅々』三話は、視聴者を楽しませる気などさらさら無いようにも思えてしまう。童話チックな鬱々とした物語を描いて、イレイナをカメラとして配置し、外から撮影して終わり、では面白くはならないような気がするのだが。

 

 

四話ではさすがに挽回してくれるだろう……と思っていたが、四話も満足のいくものでは無かった。

私は終始ぽかんとしていた。

物語は三話に比べればしっかりしていたほうかもしれない。三話に比べれば。

しかし、やはり説明不足は深刻だ。

たとえば、城にいた女の過去は女のフラッシュバックとしてわずかに映し出されただけで、よく分からなかった。この女のことをイレイナはもちろん視聴者もよく知らない。そんな女が急に「思い出した!」とか言って笑い出し、化け物をめった刺しにしだしたらドン引きだ。全く共感できない。

それに、父親を怪物に変えて人々を襲わせたというが、なぜその方法を選んだのか説得力に欠ける。それに、視聴者は父親の人柄を大して知らない。こちらもやはり共感できない。

イレイナも長旅の疲れで頭がおかしくなってきたのかもしれない。三話では奴隷を放っておいたのに、今回は出会ったばかりの女を助けたくなったそうだ。で、その理由は私の記憶の限り、結局語られない。もちろん、三話の奴隷の解放と怪物胎児の助太刀では面倒くささが違うというのもあるだろうが、そこは視聴者の想像に任せず、なぜ気が変わったのか説明してほしかった。これではあまりに共感しづらい。

また、女とイレイナのやりとりがいちいち取引に回収されてしまうのも見ていて萎えるところだ。イレイナの損をしたくないという傾向にも理由をつけてほしいと思う。たとえば、過去の経験から、人に無償でやさしくしてはいけないと悟ったからとか。

そしてやはり四話でもイレイナの人間らしい感情の揺れ動きは見受けられない。ベッドふかふか~というところだけはこどもっぽく喜んで、精神がぶっ壊れた女には冷徹な目を向けて退散。このアンバランスさ。まるで「ベッドがふかふか=無邪気に喜ぶ」のプログラムが組み込まれていて、その命令に従うことで人間らしく振舞うアンドロイドのようだ。

もし原作で細やかな心情描写がなされているのだとしたら、どうしてこうなるのか甚だ疑問である。

 

 

以上、『魔女の旅々』について、我慢ならなかったので記事を書いた。

それも、絵やキャラクターといった外観はとても良く、また世界観も面白くなる可能性を強く感じさせるものなのに、これではあまりに勿体ないという思いからだ。

また、巷の「魔女の旅々三話が鬱展開で炎上」という表現がおそらく正確ではないということも実は伝えたかった。繰り返しになるが、このアニメにおける鬱展開(バッドエンド)には、意味がないのである。いや、意味がないというのは言いすぎだが、世の中で評価されるバッドエンドというのは、それを視聴者が甘んじて受けることに何かメリットが存在するものだ。くどいようだが例を出すと、たとえば『魔法少女まどか☆マギカ』の最終回は、魔法少女を救うため、まどかが神に等しき存在となり、結果まどかの親友・ほむらはまどかと二度と会えなくなる*4、というものだった。これはハッピーエンドとは言いづらい。だが、視聴者には満足感があった。そのラストにおいて、「魔法少女を救ってほしい、救われてほしい」という視聴者の願いは聞き届けられたからだ。

しかし『魔女の旅々』三話では、そうしたカタルシスもない鬱々としたストーリーを投げつけられたのである。ゆえに「無意味な鬱展開で炎上」というのが正確かもしれない。いや、無意味は言いすぎだが。

 

ともかく、五話も同じなら流石に切ろうと思う。

 

*1:公式サイトにそうある

*2:もちろん極論である。言葉がイレイナというキャラクターの口から発せられている以上、人間的な側面を持たないはずがない。いくら説明台詞が多いといっても、説明の角度というのは人それぞれだからだ。

*3:一話でのあまり意味を感じられない虐待もとい修行シーン、二話での説得力を感じないサヤの窃盗など

*4:劇場版では出会うが