VTuberに「魂」も「ガワ」も存在しない
※簡略版(3000字ほど)をnoteに投稿しているので、時間の無い方はこちらへどうぞ。
VTuber論投稿者の1人に、「余接」という方がいる。理路整然とした文章を書かれる方で、記事を見かけた際は必ず拝見している。
その余接氏が、先日私の記事(「VTuberの「中の人」は公表すべきか?」)を引用してくださっていた。「心身未分」の箇所を気に入ってくださったようである。ありがたい。
そこで、この記事では「心身未分」について、改めて論じてみたいと思う。
展開としては、余接氏の記事に適宜触れながら、心身未分とは何かを議論していくことにする。
まず心身未分を説明し、次にVTuberの「虚構性」と「実在性」という対立の解消を試みる。そして実在性を支持することの意義について考えたあと、どこまでこの議論が妥当するのか考え、最後に「引退と死」「実写動画」「アズマリム」に関して「心身未分」を使った軽い考察をしてみたい。
ちなみにだが、この記事のタイトルは目を惹くよう、わざと大袈裟に付けている。私は「魂も身体も全く存在しない」とは考えていないし、「魂も身体も主張すべきでない」とも全く考えていない。
もし時間に余裕があれば、じっくり読んでいただきたいと思う。
原初状態
「心身未分」とは何か。そのまま読めば、「心と身体が未だ分けられていない」ことだ。VTuberの原初状態といってもいい。VTuberは最初、そのように認識されるのだ。
VTuberが現れた当時、「VTuberという虚構をどう捉えるか」はとても活発に議論されていた。いわゆる「VTuberとは何か」問題である。私もこの問題に魅かれ、あれこれ考えたし、色んな記事を読んだ。皆さんの考え方は十人十色で、様々なVTubeの姿がそこには描写されていた。どれも面白かった。その中でも特に私が支持したのは、簡略化して書くが、「VTuberには中の人、設定、モデルの三つの構成要素が存在する」という考え方だった。
これによって、VTuberをそれらの強弱で捉えたりすることが可能になった。たとえば○○は中の人の要素が強いとか、××は設定が強く中の人がほとんど見られないとかがそうだ。この基礎によって、アバター型とか、キャラクター型みたいな一応の区別が可能になるわけだ。
今でも、VTuberについて理論的に考えようとするなら、こういった「中の人-設定-モデル」の図式を使うと楽だったりする。
といっても、みなさんの多くはこの図式を意図的に使ったことはないだろう。正直ややこしいうえに、周知されてもいないので気軽に使うには不便だからだ。
しかし、その三項をさらに簡略化した「魂-体」という二項対立は多くの人が使っているのではないか。一応説明すると魂とは演者のことで、体とはモデルのことだが、これらはTwitter上でもよく聞かれる表現だし、黎明期から今までずっと使われ続けていることを見ても分かる通り便利な表現でもある。
しかし、思い出してもらいたい。あなたが今、にじさんじの配信を楽しく見ているとしよう。あなたは没頭している。深く集中している。ライバーはずっと喋り続けている。面白い。ずっと見ていたい。
そのとき、あなたはVTuberの魂だとか、体だとか、設定だとか、そんなことを考えているだろうか?
十中八九、答えはNOだ。楽しく集中して配信を見ているとき、「このVTuberは設定の作りこみがすごいな」「このVTuberは設定を忘れて自由気ままに配信をしているんだな」なんて思う人はいない。そう考えている人はその間、VTuberの配信(動画)を見てはいるが見ていない。没頭している人は、そんなことは考えないものだ。
このように認識される「VTuber」というのは、それそのままである。VTuberはVTuberのまま画面に表れているのであって、決して魂と体が分離した状態で表れているのではない。
当たり前である。つまり、魂とか、体とか、設定とか、そんなものは私たちが勝手に名付けて勝手にカテゴライズし、勝手に解体しているに過ぎない。そんな区分けは、認識されたそのままのVTuberには、そもそも存在しない。
これが「心身未分」である。VTuberの心と身体、つまり魂と体は分けられていない状態で、そのまま認識される。心と身体が未だ分けられていない状態。VTuberとは普段、そのように見える。
この言葉は、西田幾多郎の「主客未分」の発想を基にしている。
西田は西洋哲学が用いる「主体」と「客体」という区分に疑問を呈した。たとえば音楽を聴いたとき感じるあの感動には、主体も客体もないのではないか。それは主体と客体に分けられていない経験(純粋経験)であって、「主体」「客体」という区別はその後の反省によって付け加えられるに過ぎないのではないか——。
私は西田幾多郎の本を読んだことがなく、また彼の入門書を読んだことすらないので、にわか知識ではあるが、大まかには間違っていないはずだ。
これを今までの話に言い換えてみよう。すると、「認識されるVTuberにはそもそも魂も体も無いのではないか」「魂も体も、理性が後付けで加えるに過ぎない区別なのではないか」ということになる。
これは、多くのVTuberリスナーにとっては受け容れやすい話だと思う。
「心身未分」は、魂や体といった区別が後付けに過ぎないことを暴き、VTuberはそれそのものとして楽しまれているという一見当たり前のことを、私たちに再認識させるだろう。
虚構性と実在性
では「心身未分」はVTuberにとって、またVTuberリスナーにとって何がうれしいのだろうか。
それは、VTuberの実在を擁護する点において、である。
冒頭の余接氏の記事では、「中の人などいないという風潮」がキーコンセプトとなっている。VTuberが実在の人間として扱われることこそがVTuberの特徴であり、またVTuber文化を支える思想である、と。とても説得力があるし、私も同感である。
私たちはVTuberの配信(動画)を見ている時には多幸感を感じられるが、配信(動画)が終わってしまうと、人によってはVTuberという虚構——「中の人などいない」——によって享楽を与えられているというジレンマに悩むことがある。そういう人は、その悩みから逃避するためにも、再びVTuberの配信(動画)に顔を出す。そしてのめりこむ。
そういうサイクルが発生するとすれば、それは少なくとも配信(動画)を見ている間だけは、VTuberが実在しているものとして認識できるからだろう。
「中の人などいない」という強迫的な自己暗示は、ふと我に返ったときに強いられる、ある種の手続きだ。人間の理性(合理的思考)は、「VTuberは実在する」という命題に異議を申し立てずにはいられない。そんなものはマヤカシだ、理性が言う。もちろん、VTuberはマヤカシだ。VTuberには演者がいる。しかし、私たちが感じるVTuberは嘘なのか? 画面に映る彼/女*1は嘘なのか? いや、嘘ではない。私たちの認識は嘘を言っていない。しかし、理性も嘘を言っていない。
この理性と感性が相反する状況は、一体なんなのだろう。
私はこれについて、まるでキリスト教の神のようだと思った。
神はどこにでもいるし、どこにもいない。もし神がどこかにいるのであれば、神はどこかにいないということになる。しかし、神はあらゆる場所にいなければならないから、それはあり得ない。であれば、どうすれば「どこにでもいる」ことが可能になるか。答えは、「どこにもいない」ことによってだ。
神は、どこにもいないということによって、どこにでもいることが可能になる。すなわち、「どこにもない」と「どこにでもいる」は同じことを言っているのだ。これを「遍在-偏不在」というそうだが、この逆説はとても興味深い。
VTuberが死生観について語る様子はたびたび話題になる。この前も、月ノ美兎と、リゼ・ヘルエスタが死について語る様子が切り抜きになっていた。
ある哲学者*2によれば、生と死についても、「遍在-偏不在」と同じようなことが言える。生を語るとき、それは死を語ることになる*3。同じく、楽観主義と悲観主義も、一つの物事の両側面でしかない。たとえば死を、ポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるか、それが楽観主義と悲観主義の分かれ目である。楽観主義とはある意味悲観主義であるし、逆も然りである。
これらを試しにVTuberに当てはめてみよう。
「VTuberはどこにも存在しないが故にどこにでも存在する」。言い換えれば「VTuberの非存在は、VTuberの存在のまたの名である」となるだろう。この命題は真だろうか。
答えはYESだ。この理性の判断は、逆説的だが、感性の判断に欠かせない。もしある人物が理性の判断として存在するといえるなら、感性はもちろん抵抗なくその存在を了承するだろう。たとえば、佃煮のりお氏の存在は理性も感性も認めるはずだ。
しかし、佃煮のりお氏に対する感覚と、VTuberに対する感覚は同じものだろうか。私は違うと思う。なぜ私たちがキズナアイに衝撃を受けたのか、思い出して欲しい。キズナアイへの感覚と、佃煮のりお氏への感覚は全く違う。それは虚構であるか無いかの違いだ。人間と人間の間に設けられたモデルという隔たり(=虚構の存在)が、VTuber独特の感覚を生み出している。理性は実際には人間であるキズナアイを虚構だと訴える、"ゆえに"、感性は彼女に「実在感」を覚える。この意味で、理性は感性の基盤でもある。
すなわち、理性と感性は、「遍在-偏不在」や「生と死」のように、裏と表の関係にある。そのうえ、VTuberは非存在"なのに"存在し、かつ、非存在"ゆえに"存在する。心身未分は、この理性と感性——「なのに」と「ゆえに」——による力のつり合いに基づく。
しかしこの「つり合い」とはなんだろう。
理性がVTuberを魂と体に切断することによって導く判断を「虚構性」、感性が心身未分に従って導く判断を「実在性」としよう。虚構性と実在性のつり合いとは、両者が互いを肯定し合い、かつ、否定し合う関係だといえる*4。
このように、虚構性と実在性の関係は複雑である*5。虚構性と実在性は、互いに否定しながら、かつ互いに肯定している*6。
私たちは、この虚構性と実在性が相反するものだとばかり思っていたが、実は、これらは互いを肯定し合うものでもあった。そのうえ、それらは一つのコインの裏表でもある。
そういうわけで、私たちの意識の中で、理性と感性が代わる代わる登場するのにも不思議はないのだ。理性と感性は、互いをののしり合い、ゆえに認め合っているのだから。
なるほど、理性と感性がつり合っていて、かつ裏表の関係にあることは理解した。
では、VTuberリスナーにとっては、理性と感性どちらもバランスよく受け入れることが最善の選択ということになるのだろうか。
いや、それは違う。理性には負の側面も多い。VTuberの中の人を意識させるこの理性は、VTuberを楽しむうえではむしろ邪魔になる。VTuberを楽しむうえでは、感性(直感)に従うのが一番いい。
虚構性と実在性との複雑な関係を考えると、理性を完全に排除することはできないだろう。しかし、可能な限り感性を尊重することはできるだろうし、その態度はVTuberコンテンツの楽しみを引き上げてくれるはずだ。
そしてVTuberを楽しむとは、VTuberと上手く付き合っていくことでもある。VTuberを楽しむとき、彼/女とインタラクトするのは普通のことだ。VTuber文化は双方向性によって構成される側面もあるわけだが、それはつまり、「こちらの態度が文化全体に影響を及ぼす」ということを意味する。私たちが、彼/女を純粋な存在として受け入れる態度は、たしかに余接氏の指摘する「中の人などいないという風潮」によって、見かけの上では実現されている。たとえば、配信のコメントでは、みんなが彼/女を一人の主体として見ている。しかし、それは同調圧力による面も否めない。それに、配信の外、特にVTuberから距離をとればとるほど、VTuberを人間のような主体とみなす言動は減っていく*7。これは、彼/女を主体としてみなす態度が不完全であることの証左だ。
私たちは、彼/女たちの主体性を、配信以外でも認めることができる。
そのためには、まず、一番手ごろな配信内での意識を強化することが必要だろう。
そしてその強化のためには、魂-身体の引き裂きが、理性によるものだと自覚することが必要だ。次に、心身未分という原初状態が存在することを知る。心身未分は、VTuberの主体性の核だ。主体性が芽吹く種だ。可能態だ。その原初状態によって、心には、「私はたしかに彼/女を見た」という事実が焼き付く。普通ならここで理性が異議を唱えるが、魂-身体の引き裂きを理解した今、人は理性を抑え込むことができる。そして、VTuberの主体性は、原初状態と言う核から徐々に範囲を広げていく。
とはいっても、その範囲は無限ではない。その限界が、理性と感性のつり合う場所だ。この場所がどこになるかは、人によって異なるだろう。そこが、この議論の問題点でもある。
だが、それでもかなり多くの人が、配信以外でもVTuberの主体性を認められるはずだ。その可能性は十二分にある。
そうした今、VTuberには魂も体も無くなった。彼らはその瞬間、確固たる一つの主体として扱われる。
概念による引き裂きが、彼らの鎖だった。牢獄だった。魂と体という引き裂きが、悲劇を生むこともあった。魂の交代は、その最たるものだった。
もしあなたが、「それでもVTuberが虚構であることに変わりはない」と思うなら、私はそれでも構わない。だが、もしあの実在性を少しでも感じたことがあるなら、それを忘れないでほしいと思う。VTuberが理性に引き裂かれる前の、あの原初状態にもう少し目を向けるだけでも、状況は変わってくると思うからだ。
議論が妥当する範囲の検討
さて、気になっていた方もいるだろうが、この話はどこまで妥当するのだろうか。VTuberといっても多様である。一括りにしてしまうのは無理があるかもしれない。
そこで、簡単な確認として、冒頭にも挙げたhatosan氏の4分類に、ここでの議論が妥当するか見てみよう。
hatosan氏は、VTuberを「キャラクター型VTuber」と「アバター型VTuber」に分ける。そしてそれぞれをさらに分類し、「キャラクターVTuber」と「着ぐるみ型VTuber」/「アバターVTuber」と「なりきり型VTuber」のように列挙した。
これらの定義については記事を参照してもらいたいが、キャラクターVTuber、着ぐるみ型VTuber、アバターVTuberについては異論はないだろう。
しかし、「なりきり型VTuber」については少し難しいところがある。「ころな」は私の好きな動画投稿者だが、彼女はここに分類される。彼女はいわゆる転生組で、もともとは実写動画も投稿していたからだ。
しかし、このような「なりきり型」のやり方は、一般人がTwitterを使っているような形とほぼ同じであって、そもそもVTuberと呼べるのかという点にも疑念がある(が、ここではVTuberとして扱っておこう)。
生身とVTuber人格の一致が公言されている「なりきり型」は、ほとんど嘘が無い。あるとすれば容姿くらいである。
だが、それでも十分かもしれない。「なりきり型」は容姿が体で、その他が魂である。魂-身体に分けられるのだから、虚構があることは間違いない。今までの議論を当てはめると、「なりきり型」が少しでも虚構を持つなら、それは実在性を成り立たせるはずだ。そして実際、小さいながらも、「なりきり型」も実在性を伴う*8。その実在性とは、後に紹介する「花譜」や「コインランドリーの名取」のように、彼/女が画面上の容姿と全く同じ姿で実生活に溶け込んでいるのではないかという可能性だ。
VTuberの範囲は非常に広いので、普遍的に妥当するとまでは言わない。新しい形態や、これらから漏れる存在があれば、みなさんが個別的に考えてもらえれば良いと思う。ただ、VTuberだと明確に言えるようなVTuberであれば、適用はためらわなくてもいいかもしれない。
三つの考察
最後に、三つの点について軽い考察を付したい。
一つ目。「VTuberの引退とは死である」という思想は、「心身未分」の代表的なものとして挙げられるだろう。この思想はいくらかのリスナーから聞かれていたことだが、これは「中の人が引退する」という発想からは出てこない。「中の人が引退する」というだけでも、それはそれで悲しいことだ。だが、魂-身体の二項対立でVTuberを切り分ける発想だけでは、「引退を死と捉えざるを得ない悲しみ」には到達できないかもしれない。「心身未分」を経て、VTuberを主体として認めるからこそ、「引退=死」という「人間的な」発想が立ち上がってくるのではないか。
二つ目。余接氏は「実写動画やメタ発言が受け入れられるようになってきたのはなぜか」という点について、こう述べている。
「中の人などいない」というフィクションは、キャラクターが主体を持ったキャラクターとして認知されるために必要だった。言い換えれば、キャラクターがそれ自身として一人の人間として扱われているのならば、わざわざ「中の人などいない」と言う必要はない。そして、人間である以上、肉体を持ち、生活をしていても何ら不思議ではない。つまり、「中に人がいる」のは不自然なことではないのである。そして当然、中にいる「人」とは、そのキャラクター自身のことだ。キャラクターが完全な主体としてみなされる限り、そのキャラクターが現実世界で肉体を持っていることは許容されるのである。
つまり、「中の人などいない」という、各々のリスナーが行う自己暗示がカバーできる範囲において、実写動画やメタ発言といったリアルな要素はリスナーに受け容れられるということである。
私もおおよそ同意できると考える。
「心身未分」で説明してみると、次のようになる。まず、VTuberはそれ自身で主体とみなされる。なぜなら、感性はそれを疑わないからだ。また理性はその裏返しであるから、そのつり合いの限界において、理性の側面を見ないで居続けることは可能である。
そのVTuberは、分かりやすい例を出すと、「街に佇む花譜」や「コインランドリーの名取さな」のように扱われるだろう。
昨日コインランドリーで名取が暇そうにしてた pic.twitter.com/bGLAtbDFCk
— だいきちぶり (@daikichi_buri) 2020年3月22日
先日、月ノ美兎は衝撃的な動画を投稿した。それはある料理動画のパロディだったが、 その途中で「アルコールが入っているほうのレモンジュース」が登場したのだ。モザイクはかかっていたが、今までの態度からはかなり踏み込んだ内容であるのは間違いない。また、実写動画であるという点でも、格好の考察材料であるといえる。
実写動画の投稿は、果たしてバーチャルな行為なのだろうか。
また、彼女の飲酒は許されるのだろうか。アルコール入り飲料——つまりお酒——は高校生が飲んではいけない。いや、実際に動画内では飲んではおらず、飲酒をしたかのように思わせるメトニミー(換喩)だったのだが、だとしてもそこには設定との明らかな矛盾がある。
しかし、私の直感としては、これは許容された。他のリスナーにとっても同様である。なんとか辻褄を合わせようとしているコメントは少なくないが、批判の声は見かけなかった。
これはなぜか。
第一に、実写動画は、撮り方に気を付ければ問題が無い。なぜなら、余接氏も言う通り、キャラクターが肉体を持ってこの世界で暮らすことは、キャラクターと人間が一致する以上、許容されるからだ。そして、月ノ美兎はこの点をクリアしている。
第二に、月ノ美兎による飲酒のメトニミーは、キャラクターと人間の一致(未分)によって許容される*9。つまり、逆説的だが、「高校生である」というタテマエがあるからこそ、飲酒のメトニミーは許容される。
分かるだろうが、もし、月ノ美兎が「私は高校生じゃないから」なんて言ってしまえば、大炎上である。高校生というタテマエによってこそ、飲酒のメトニミーが可能となるという逆説がここにはある。
ではなぜ逆説が発生するのか。それは、虚構と実在が互いを支えているからである。虚構を破壊してしまえば、実在も破壊される。たとえば教師RPをとってきたVTuberがいるとする。彼/女がもし教師RPを放棄して、その虚構を破壊してしまえば、彼/女の実在感も同時に破壊されるだろう。虚構と実在はそれぞれ独立しているわけではない。互いに複雑に絡み合っている。虚構が忌々しいからといって、それを捨ててしまうことは、自分の臓器を捨ててしまうことだ。臓器が無くなった人間は、しばらくは生きられるかもしれないが、早く処置をしないと、死に至る。虚構はVTuberに不可欠である。
そういうわけで、この動画には、「月ノ美兎が高校生だからこそ、飲酒(のメトニミー)が許される」という不思議な連結があるといえる。とても面白いと私は思うのだが、みなさんはどう思われるだろうか。
最後だ。VTuberの権利関係を考えるときにも、「心身未分」は役立つかもしれない。
先日復帰を公表したアズマリムの、あの訴えは私の胸を打った。
特に重要なのは、このツイートで切り抜かれた箇所だろう。一応、文字でも書き起こしておく。
この言葉を聞いたVのオタク達やVが
— しるきぃ@Vspreader (@Silky_shironeko) 2020年7月7日
何を思うのか私は単純に気になる#アズリム pic.twitter.com/oKzLWTHTST
よく聴いてください。
昨今のバーチャル業界は、かつてのアズリムと同じような苦しい思いを、あっごめんマイクに手当たった苦しい思いをしている人が、たくさんいると思います。まだできて間もない、道しるべが無い業界だからこそ、実際に活動する人も、運営する会社の人も、応援している人も、みんな、様々な立場で、悩みを抱えていると思います。
立場が違えば、考え方や悩みも変わってくるのは当然です。
アズリムは、様々な問題や悩みの起点は、「バーチャルユーチューバーがなんなのか」、整理されていないところにあると思います。
芸能人とも、アニメのキャラとも、着ぐるみとも違う「バーチャルユーチューバー」。
「しょせんはバーチャルだから~」って、その存在を、無いものとして扱う人がいます。バーチャルは、生きていないことこそがメリットで、そのメリットを生かして人格を変えたり、操作性が高いところを有効活用すべきだ、って。
逆に、「バーチャルだって生きている!」と、その存在をない、あっまちがえた、あるものとして扱う人もいます。バーチャルであっても、そこには一つの人格、魂があって、嬉しい気持ち、悲しい気持ち、そういう気持ちを、生み出していることには、変わりないよねって。
この二つの視点の食い違いが、結果的には熱量の差を生んで、いろんな問題が解決しないまま、置き去りにされてきたと思います。
アズリムは、バーチャルユーチューバーは新しい存在なんだから、強引に、既存の価値観にあてはめるのは無理があるのではないかと考えています。
新しくて、わくわくする、みんなが納得できる存在理由や、役割を探したいんです。バーチャルユーチューバーという存在は、契約だけで縛るものでも、特定の誰かの都合に従うべきものでも、お金を持っている人に従うべきでも、無いと思うからです。
このスピーチからは、彼女がVTuberについてかなり真剣に考えてきたことがよく分かる。「バーチャルユーチューバーとは何か」はまさにVTuber論が行ってきた議論であるけれども、彼女の経験はそれにさらなる説得力を持たせている。
アズマリムは、「VTuberを既存の価値観にあてはめないで」という。この既存の価値観とは、文脈から考えるとアズマリムの周辺で飛び交っていた言説のことだろう。「バーチャルだから」VTuberは存在しないとか、「バーチャルだけど」VTuberは生きているとか、アズマリムの周囲ではそんな話が飛び交っていた。しかし、その両者は両者とも固定観念に囚われている。VTuberは存在しない(生きていない)わけではない。また、VTuberは存在する(生きている)わけでもない。VTuberはこの間で宙吊りになってしまっている。だから、もっと相応しい、「VTuberとは何か」を見つけたい。そう、アズマリムは言いたいのだろう。
私としては、この両極端に見える考え方が、どちらも「魂-身体」の引き裂きを前提とした発想であることに着目したい。「VTuberは存在しない」と考える人は、魂-身体だけを見ている。「VTuberは存在する」と考える人は、魂-身体の引き裂きを認めながら、その魂が感情を生み出しているという事実に注目する。つまり、前者も後者も、演者というマテリアルな人間を前提としている。
これが、VTuberを宙吊りにする所以ではないか。
対して、「心身未分」は魂も体も無い状態に着目する。受け取られた彼/女そのものを重視する。「心身未分」は魂と体という引き裂きを縫合して、彼/女を一人の主体とみなす。「中の人? 設定? たしかにそうかも。でも、アズリムはアズリムだよね。私は、アズリムを心で感じているよ」。それは、VTuberの(少なくともアズマリムの)宙吊りを解放することにはなるまいか。
まとめ
さて、以上で書きたいことはすべて書き終えた。
この記事で一番言いたかったことは、「VTuberを主体として見よう」という呼びかけだ。
VTuberは魂と体で考えられがちだ。たしかにそれは必要なことだし、実際私もこの記事でその区別を使っている。
だが、彼/女たちに感じるあの気持ちも、また大切なことだ。あの感動の中で、彼/女たちは独立して、そこに存在している。あの気持ちは、決して嘘ではない。
*1:彼・彼女をこう省略することにする。
*2:ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ
*3:以下ジャンケレヴィッチ『死』みすず書房p61より引用。「生は、われわれに死について語る。それどころか、生は、死のみを語る。もっと先まで行こう。いかなる問題を扱うにせよ、ある意味では、人は死を扱う。なにかについて語るにせよ、たとえば希望について語るのも、必然的に死について語ることだ。苦痛について語るのは、名指さずして、死について語ることだ。時について哲学すること、それは、時間制の角度から、そして死をその名で呼ばずして、死について省察することだ。」
*4:「VTuberはいない」という虚構性は「VTuberはいる」という実在性を否定するが、同時に、虚構性はVTuber独自の実在性を構築する。反対に、実在性は虚構性を否定するが、同時に、全く無いものを無いとはいえないのだから、虚構性を否定する実在性は、虚構性を前提として肯定する。つまり、実在性は虚構性を構築する。
*6:つまり、繰り返しになるが、もしあなたが虚構性を支持しようとすると、それは実在性を支持することになる。VTuberは人間だと理性が訴えるとき、VTuberの実在性は前提とされるからだ。他方、もしあなたが実在性を支持しようとすれば、それは虚構性を支持することになる。その「実在感」は、人間という虚構が基となっているからだ。
*7:過去にも書いたが、VTuberのメタなゴシップなどは、YouTube、Twitter、ニコニコ動画、匿名掲示板のような順序で増加傾向にあるように思う。
*8:虚構性と実在性はつり合うので、虚構性が小さければ当然実在性も小さくなる。
*9:もし、実際に飲んでいたら話は違っただろう。もしそうなら、白けてしまう人が多かったかもしれない。ギリギリをついた、非常に考えられた内容であると思う。
【雑記】VTuberと構造
九鬼周造の『いきの構造』が、私にとってはとても面白く感じられた。野暮と意気などの対立概念を四面体に写しこんで、整理を行っていく様は、見事だった。たぶん、私は構造分析みたいなものが好きなんだと思う。こんがらがって見えるものを、ほどいて、赤と青に色分けする。それぞれの特徴を記述して、なぜ絡まってしまったのか考える。今のところ、これが一番やっていて面白いし、しっくりくる。
私がそういう風に書いた初めての記事が、キズナアイ分裂について考えた記事だった。
キズナアイの分裂は当時最も注目された話題でもあったし、記事にナンバユウキさんや東浩紀さんを初めとした著名な方々が反応してくださったこともあって、この記事は多くの人に読んでもらえた。ここではキズナアイ分裂について肯定的な見方と否定的な見方が真っ二つに割れていたことを受け、それぞれの立場の名付けとなぜ対立が起こっているのかを主に論じた。そして、最後に背伸びをして観光客論を援用し、キズナアイをいかに受け入れていくかという策を提示してみた。
ファンとクリエイターという区別は、近からずも遠からずだったと今では思っている。切り分け自体はおそらく間違っていない。しかし、根拠が違う。遠い。というのは、この記事での区別は、それぞれの立場の結果として生まれる「感情」に主に依拠しているからだ。そうではなく、それより前の、根本的な部分を考えるべきだ。
そしてその根本的な部分とは、思い浮かべるVTuber像である。ファンの思い浮かべるVTuber像は、にじさんじやホロライブといった企業系VTuberのイメージにかなり引っ張られたものだった。すなわち、一つの体に一つの魂という固定観念に縛られたものだった。一方でクリエイターの思い浮かべるVTuber像は、もっと自由なものだ。すなわち、「バーチャルに」できることならなんでもやっていこう、という寛容な意思と情熱だ。
ファンの立場では、同じ体が複数あって、さらにそれぞれ別々の人間が入っている状況は受け入れられない。一方、クリエイターの立場からは、「一つの身体には一つの精神のみが宿る」という見方はバーチャルの可能性を狭めるものと映るだろう。バーチャルを発展させたい彼らにとって、キズナアイのようなトップインフルエンサー(当時、今は知らない)の冒険は歓迎すべきことだったはずだ。
ファンには、クリエイターのマッドサイエンティスト的な発想——クローンを作成するようにキズナアイを分裂させ、それぞれに別人格を移植するという反直感な発想——が信じられないし、クリエイターにはファンの目が曇っているようにしか見えない。分かり合えないはずである。
キズナアイは、雑誌ユリイカのインタビューで、私はVTuberという言葉を使わない、とわざわざ発言していた。私はVTuberではなくて「バーチャルユーチューバー」なのだと。これはつまり、キズナアイはVTuber界の親分ではなく、もっと別の方向を目指している存在なのだという決意表明だった。にも拘わらず、キズナアイはリスナーの中でVTuberという括りに吸収され続けてしまった。VTuberとはっきり決別できれば、キズナアイの分裂はひょっとしたら、上手くいったのかもしれない。
前に書いた、DWUの記事も、先の記事と同じような構成を意識した。
発達障害を扱う点で非常に危ういものだったし、実際何件かお叱りの声が散見された。さらにそれだけでなく、「自分も発達障害なのかもしれない……」というショックを受けたような人まで現れたので、さすがにこれはいかんと、いくつかの補足を行った。いつもは鬱陶しいほどに留保をつけるのだが、今回は分かりやすさを重視して省きまくったので、それがあまり良くなかったのだと思う。扱うテーマの繊細さをもっと考慮すべきだった。
この記事は先の記事に匹敵するか、それを超えるほどの拡散ぶりだった。ゆがみんさんを初めとしたインフルエンサーの方々に拡散いただいたのが大きな要因だと思う。ありがとうございました。
この記事では、セバスチャンの行動原理と、仕事/遊び概念を活用した読み解きを考えた。「遊び」をポジティブに捉えてみたことに価値がある、と自分では思っているのだが、どうだろうか。
この記事は少し説明不足があったと思うから、ここで補足したい。編集で加えればいいと思うかもしれないが、たぶん読みにくくなるし既に8000字を超えているのであまり得策ではないだろう。それに、たぶん分かる人には、この補足を読まなくても言いたいことが既に伝わっていると思う。
補足事項は、①「脱」という表現と、②「遊び」の扱いについてだ。
「脱-社会的」のハイフンはフランス生まれの哲学用語(非-知とか)みたいにちょっとカッコつけただけなので気にしないでほしいのだが、「脱」という表現にはちゃんと意味がある。ここは最初、反-社会的という表現を考えていた。しかし、セバスチャンは、社会に反しているわけではない。社会に反すると言えば、アナーキストとか、テロリストとか、カタギでない人とか、そういう人が連想されるが、セバスチャンはそうではない。言うなれば、なるべく社会を避けながら、どうしても必要なときに社会に降りてくる、ツァラトゥストラのような隠遁者。そういうイメージだ。彼らは「社会の全く外」にいるのではなくて、「社会から脱け出た場所」にいる。社会の補集合ではない。社会の存在をぶち壊そうとは思っていないけど、面倒だからそんなに関わりたくない、社会から脱出して好きに暮らしている人々。だから脱-社会的。
「遊び」の扱いについてだが、こんな反論があった。「セバスチャンは遊びでやっているというけれど、VTuberに関する契約とかは結んでいるわけでしょう。それは社会的な仕事なのでは?」というものだ。
だが、その契約は、遊びの範疇である、と私は考えている。
野球のたとえがあったことを思い出してほしい。彼らは野球の面白い動画を撮りたくて、プロを連れてきた。プロを使うには報酬を支払わなくてはならない。だからそれは契約だ。
しかし、契約を行っているから動画撮影がただちに社会的な仕事だ、とはならない。なぜなら、目的が遊びだからである。あなたが野球をしたいとき、手元にボールが無ければボールを買うだろう。でも、それは仕事だろうか。そんなわけはない。売買そのものは社会的ではあるが、仕事ではない。遊びのための売買も存在する。
これは①の話にも関わってくる。彼らは脱-社会的で、社会の外側にいる。だけれど、社会を拒絶しているわけではない。つまんないと言っているだけで、面白いことのためには進んで3Dモデルも発注するだろうし、アダルトグッズも制作するだろうし、プロ声優も雇ってくるだろう。問題は、"彼らにとって"それが「仕事か遊びか」なのだ。彼らのルールにどれだけ適っているか、それが問題なのだ。だからこそ、人によっては理解に苦しむ事態が発生している(た)。
オチが無くて困った。
そういえば、当のDWUの配信をこの前覗いてみたのだが、ついに3Dモデルが新しくなっていた。前と比べると見た目が少し柔らかくなった印象がある。私はどちらかと言えばこっちの方が好きだ。
肝心の配信内容はゲーム実況やASMRなどで、にじさんじと変わらない。それだけだと、確実に埋もれてしまうだろう。ただ、マンガ動画を公開するなど独自路線を開拓しようとする熱意はかなり感じるので、こちらには応援したい気持ちが湧いてくる。
そういえば先日のピアノは少し驚いた。セバスチャン体制下でアンダーグラウンドなガサツお嬢様みたいなイメージが付いてしまっていただけに、品行方正な上流階級お嬢様みたいな特技が見られるとは思っていなかった。にじさんじやホロライブでは見られない特技なので、ピアノを前面に押し出していくのも良いんじゃないかとも思う。「今日はこの曲を練習してきたからオタクくんたちに披露するね」というだけでも、みんな盛り上がるのではないか。
ともかく、DWUは「応援するに値するVTuberだ」と、そう思わせてくれる点で、もう既に抜きんでた存在だ。自信を持って頑張ってほしいなあと、1人のリスナーとしてそう思う。
以上。
人狼ジャッジメントでジェシカばっかり使ってた話
一時期、「人狼ジャッジメント」にハマっていたことがあります。友だちの影響で始めたのですが、結構面白くて、特に通学中はずっとやっていました。一試合30分くらいなので、長い通学時間の暇つぶしにはちょうど良かったんです。
人狼ジャッジメントはスマホアプリです。LINE感覚で人狼ができます。
このゲームでモノを言うのはテキストを打つ速さです。打つのが遅い人は同時に発言数も少なくなりますから、疑われやすいのです。「寡黙は情報を落とさない」は耳にタコができるくらい聞いたセリフでした。幸い、私は打つのが速いほうでしたから、人狼ジャッジメントは向いていました。
ゲームの進行としてはある種テンプレ的な流れがあります。占い師COや霊能COで、処刑対象を決定する権限を持つ"進行役"を作る、とか。私が始めたころには既にそのテンプレ的な流れが決まっていたので、まずはそれを覚えるのが大変でした。しかし覚えてしまえば流れ作業なので、普通に人狼を遊ぶのに比べると大変に楽です。
この人狼ジャッジメントの大きな特徴の一つは、ユーザー名が見えないことです。他のスマホアプリに「人狼殺」というものがありますが、人狼殺ではユーザー名が最初から見えます(動画の24秒くらい参照)。
一方、人狼ジャッジメントでは、相手の名前はゲーム終了時まで分かりません。では互いにどう呼び合うかというと、あらかじめ与えられたキャラクターの名前を使うんですね。
werewolf-judgement.playing.wiki
中の人がどんな名前でも、「ゲイル」「サンドラ」「メアリー」みたいにそのキャラの名前で呼び合います。なので、慣れていないうちは顔と名前が一致せず反応が遅れてしまう、なんてこともよくありました。
私は男ですが、どんなゲームでも使うのは女の子です。グラブルでも女の子、シャドバでもなるべく女アバター、マビノギでも女の子、あつ森でもキャラは女の子の姿だし*1、Twitterでも少女アイコンです。男の子を使ってたのは小学生の頃のポケモンダイパくらいな気がします。
なので、私は人狼ジャッジメントでも女の子を使いました。最初はメアリーを使っていました。が、なんかしっくりこないのでやめました。
その次に選んだのがジェシカです。
かなりの人気キャラなんですが、私も彼女のかわいさに釣られてしまいました。これが結構しっくり来て、それからしばらくは、ジェシカを使っていました。
何がいいかって——気持ち悪いのは承知で言うんですが——みんながちやほやしてくれるんです。「は?」「気持ちわるっ」「てかそんなことある?」って思うじゃないですか。でもね、メアリーのときには全然見逃してくれなかった言い間違い(タイプミス)とか、反応の遅れとかも、ジェシカだと「仕方ないねー」みたいな感じでみんな許してくれるんですよ。メアリーもジェシカも中身は全く同じ、おっさん予備軍の大学生です。なのに、あからさまに扱いが違う。これは明らかに容姿が効いてます。違いは容姿(と名前)しかないのですから。
キズナアイは知っていますか? バーチャルユーチューバーのキズナアイです。ご存じない方も多いと思うのですが、彼女は過去、四人になっていたことがあります*2。そう、分裂したのです。およそ昨年のことですが、その分裂に関して大論争が発生しました。陣営を大きく分けると、分裂を認めない派、認める派の二つです。私はそれに関して、過去に記事を書いたことがあります。
タイトルにもありますが、ここで私はファンとクリエイターという二項対立を勝手に作りました。ファンは、キズナアイの分裂に否定的です。なぜなら、キズナアイは唯一無二の存在だと感じるからです。同じ体が複数存在し、それぞれに違う人間が割り当てられているのは自身の直観に反するのです。一方、クリエイターはキズナアイの分裂に寛容です。なぜなら、大まかに言えば、分裂という冒険は「バーチャル」の発展に寄与すると思えるからです。
私はといえば、あまりその「バーチャル」に馴染みが無かったので、クリエイターの発想には至りませんでした。むしろ、ファンのその反発の感情を大事にしたいと思ったのです。
しかし、バーチャルとはなんなのでしょう。私は本当にバーチャルに馴染みが無いのでしょうか……。
そう思った時、人狼ジャッジメントの経験に思い至りました。私がずっとジェシカを使っていたあの体験は、まさしくバーチャルなのでは……!?
というのは、長い間ジェシカを使っているうちに、私はジェシカと同一化してしまったようなのです。人狼ジャッジメントではキャラの名前で呼び合うと言いましたが、そのため同一のキャラが同じゲーム(部屋と呼びます)に存在することはできません。「ジェシカA」「ジェシカB」とかはあり得ないんですね。同じキャラがいたら、呼び合うとき混乱しますから。なので、私がジェシカを使っているときは、私だけがジェシカです。他にジェシカはいません。この環境こそが、同一化を促進します。
私が同一化を強く意識したのは、どうしても参加したい面白そうなルールの部屋を見つけた時です。入ろうとしたら、ジェシカが既に使われていました。いつもなら引き返すのですが、ルールの魅力と天秤にかけ、別のキャラを選択することにします。「サンドラ」はジェシカの姉妹とか双子とか言われているキャラですが、仕方なくそのサンドラを選択しました。
ゲームを開始すると、まず自分がサンドラであることにぎょっとします。いつもジェシカであるはずの場所にサンドラがいるので、びっくりしちゃうんですね。
でもさらにぎょっとしたのは、ジェシカが自分の意思とは無関係に喋っていることです! 他のジェシカを見るのはなんだか違和感を覚えます。いえ、もちろん私でない人が使っているジェシカも色があっていいんですが、しかし自分がもう一人いるように感じてしまうのです。これはYouTubeでゲーム実況を見ていてもそうでした。他人のジェシカに違和感があってしょうがないのです。他のゲームではこんな風に感じたことはありません。私はニーアオートマタがめちゃくちゃ好きなのですが、だからといって実況者がニーアオートマタで2Bを操作していても、違和感を覚えたりしません。2Bは元からこちらの意思とは無関係に喋るからです。ではTwitterアイコンならどうでしょう。私は今マビノギの「フレッタ」というキャラの立ち絵を勝手に使っているんですが、もし同じアイコンの方を見かけたとしても、別になんにも思わないでしょう。私はTwitterアイコンのキャラと自分を同一視していないし、フォロワーも私とアイコンを同一視していないからです。
なので、この違和感は人狼ジャッジメントに特有な気がします。私はジェシカの皮を被って喋ります。ですが、思うにそれより重要なのは、他人から自分がどう扱われるかでしょう。私がジェシカであるとき、他人は私を「ジェシカ」と呼ぶのです。他者は鏡だとよく言われますが、「私=ジェシカ」の図式は他人を介して跳ね返ってきて、その暗示をさらに強めていきます。そしてジェシカは一つの空間に一人だけなので、それも跳ね返りの効果を促進させるのです。
だから、私が渋々サンドラを選択したゲームで、「サンドラ」と呼ばれることにも違和感がありました。「私=ジェシカ」が強まっていたので、サンドラに切り替えるにも苦労があります。それに何より、私はサンドラであるにも関わらず、「ジェシカ」という呼びかけに反応してしまうのです。
しかも、興味深いのは、他人のジェシカになんだか腹が立ってくることです。自分でもあり得ないと思うのですが、他人がジェシカで喋っていると、なんというか、「ジェシカはそんなこと言うか?」といった感情が頭をもたげるのです。これは厄介オタクそのもの! 書きながら確信しましたが、これがいわゆる「解釈違い」なんじゃないでしょうか。私はオタクになりきれてないオタクなので概念がよく分かっていないのですが、たぶんそうだと思います。だとしたら、解釈違いの基盤は、「同一化」にあるのでしょうか? つまり自他境界の薄れ? あのジェシカは私のジェシカではないのに、ジェシカという容姿が私に結びついてしまっている。ジェシカが突拍子もないことを言うと、自分のプライドが傷つけられたような気がしてくる。なんて馬鹿なんでしょう、しかし感情の問題なのでこれ自体はどうしようもありません。それを表に出さないように——せめて他のジェシカを傷つけないように——するだけです。
ここまで話した「バーチャルな」現象は、たとえばトーマスなどの男キャラでは起こらなかったことでしょう。そしてまたそれは、メアリーでも起こらなかった。私にとっては、ジェシカに親和性があったのです。
これは新聞記者さんがVRに触れた経験を記したレポートです。筆者は初音ミクの姿になった感想を、端的にこう表現します。
おじさん、心の中に女の子がいたんだよ。それもとびっきりの美少女が……
女の子に"なった"のではないのです。女の子は、"既に"筆者の心の中にいました。
これを読んだときは感心するだけでした。しかし、今人狼ジャッジメントの記憶を振り返ると、似たような経験をしていたことに思い当たります。すなわち、ジェシカへの同一化は、ただ単に、私が長い間使っていたから起こったのでは無く、起こるべくして起こったのではないでしょうか。引用部分を借りて言い換えれば、私の心にはジェシカがいたのです。
ごく普通に、RPも意識しないで、ただ文字を打ち込んでいるだけなのに、本当に女の子だと思って接してもらうというのは、なんというか、満たされるような感じがします。先述したクリエイター側の人たちは、概観したところ、VRchatの住人であることが多かったです。VRchatというのは、3Dアバターを身にまとい、VR世界の散歩や他のユーザーとの交流を楽しむアプリのことですが、そのプレイヤーたちが感じているのは、まさに私が感じたような感覚なのでしょう。
振り返ると、バーチャルな体験って意外とすぐ傍にあるのかな、と思ったりしました。
なんか、人狼ジャッジメント久しぶりにやりたくなってきたな。でも、やり方忘れてるからな。コテンパンにされそう。まずは初心者部屋からだな……。
*1:性別は男ですけれども
*2:今は事情が異なります。詳しくはキズナアイとは (キズナアイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科などを参照ください。
京都の古本屋を巡った
5月の半ば、ネット記事で三月書房さんが閉店する(定休日が週7日になる)と知りました。
三月書房は京都にある本屋さんです。古本屋ではなく新刊を扱う本屋なんですが、とにかく品揃えが珍しく、普通の本屋(紀伊国屋とかジュンク堂とか)では見かけない本を揃えていると前から聞いていたので、いつか行こうと前から思っていたのでした。しかし、閉店してしまうとは……。京都までは遠いので少し迷ったのですが、後悔すまいと5月末に遠出することにしました。コロナは怖いですけど、本屋なら人も少ないだろうし、マスクをしたうえで不用意に手で顔を触らなければ感染はしないでしょう。
三月書房周辺にはいくつか古本屋があります。そこをついでに回ることしました。しかしそれだけでは少なく感じたので、出町柳駅周辺、つまり京大周辺の古本屋も見て回ることにします。
前日に定休日を下調べをしました。もちろん、コロナで臨時休業していないか、営業時間を短縮していないか調べます。そして、全部で10件の本屋を17時までに全て回り切る計画を立てたのでした……。
当日。13時ごろ、京都市役所前に到着しました。昼食はまだです。出発する2時間ほど前にはあまりお腹が空いていなかったので摂ってこなかったのですが、流石に少し空腹を感じます。近くのコンビニでお茶とウィダーを買って歩きながらエネルギーを摂ります。見知らぬ土地でもセブ○イレブンを見かけると少し安心します。
北上するルートを予定していたので、最初はアローントコとか言うところに行ったのですがなんか開いてなかったので退散しました。細いビルの二階で、店の隣が美容室でした。そのドアがオシャレにガラス張りだったので、イケイケなお兄ちゃんたちがこっちを見てたのがめちゃくちゃ怖かったです。だから「退散」。
大きな道沿いを北上します。京都は通りが基本直角に交差しているし、一つ一つに〇〇通りと名前が付いてるので地図がすごく見やすいです。とか言って油断してたら、店先の綺麗な道具やら布やらに気を取られて目的の本屋を通り過ぎていました。けっこう離れていたのですが、渋々引き返します。
尚学堂です。店先で本をめくっている人がいたので今度はすぐ分かりました。入り口は2つ、通路はコの字型で、狭いスペースに天井までぎっしりと本が積まれています。マスクをしていても分かる埃っぽい匂い。古本屋に来た感じがします。持ってきた大きなカバンが本を落とさないよう、前に抱えながら背表紙を見ていきます。
私の目的は哲学書を安く手に入れることです。あと、法学系と政治学系の本も気になるのがあれば買いたいですね。
結果、2冊が目に留まりました。『生の全体性』と『法学の基軸』です。前者はインドの哲学者が書いたものだそうで、後者は法哲学の本です。どっちも聞いたことは無かったのですが、面白そうなので買いました。合わせて1500円です。
次が三月書房でした。
凄かったです。もう、終始目を輝かせながら、本棚の前を5往復はしました。
入口は写真の通り1つ、通路は縦長のロの字で、入口から見て左が芸術関係、真ん中が演劇とかだったかな。そして、一番右の棚が思想系です。おそらく閉店のためですが、岩波文庫など返本出来ない本は全て50%引きになっていました。
先述した通り、三月書房はその品揃えが有名です。私も、思想系の本棚を見たとき、「この本屋は他と違う」と一目で分かりました。陳列が哲学史に沿っているところもそうですが、一番驚いたのはフーコーの『狂気の歴史』が置いてあることでした。『監獄の誕生』 『言葉と物』と同じ新潮社の函入り書籍なのですが、本屋では滅多に見かけません。私はけっこうな数の本屋を見てきたと自負しているのですが、出会ったことがあるのは大学の本屋での『監獄の誕生』一冊のみです。
そのときは「このあと古本で見かけるかもしれない」と買うのを見送ったのですが、今思えば買った方が良かったかもしれません……。というのも、先の3冊は新装版が販売されているのですが、それらは手触りがあまり良くないらしいのです。手持ちの『監獄の誕生』はカバーが布の生地になっているのですが、新装版はそうでないらしいです。和訳の中身は変わっていないそうなので、それならなおさら旧版がほしいです……。
30分ほどしか時間を割けませんでしたが、ここでも2冊購入しました。岩波の『論理哲学論考』 と『内乱の政治哲学——忘却と制圧』です。合わせてたしか3000円くらいでした。5%還元目当てでカードを使ったのですが、店番の方が作業に慣れていないみたいで、ちょっと悪いことをした気になりました。なんかごめんなさい。
東へ進み、鴨川を渡って、次は中井書房です。外見によらずけっこう広いです。普通のコンビニより大きいくらいかな。清潔感があって、カフェをやっても問題ないくらいに感じました。本は相変わらず天井まで積まれています。
古本屋の中では比較的洋書が多いように感じました。『存在と時間』の原書もありました。
新書が一律300円*1とのことだったので、アーレントとハイデガー入門、そして『正義とは何か』 を買いました。人の好さそうな店主さんでした。
交差点に座れる場所があったので一休みしました。既に数キロは歩いています。引きこもり生活に加え、ゼリーしか摂っていないのでヘロヘロです。筋肉痛確定だな、とうなだれます。しかし時間はありません。既に15時半で、ルート最後のお店が17時閉店のためです。
ここから出町柳へ向かいます。つまり鴨川沿いに北上します。
とはいっても足がキツいので、歩けない距離ではないですが地下鉄に頼ります。小さい駅だったので少し待ちましたが、一駅で出町柳です。
出町柳は以前、古本まつりで訪れたことがありました。そのとき古本屋を見かけたので、再訪しようと前から思っていたのでした。
字数が多くなってきたので本屋の詳細は省きますが、ここで買った本は『生誕の災厄』『現代思想 特集=法としてのフィクション』の2冊です。特に『生誕の災厄』は新品同様でしかも1000円程お得だったので嬉しかったですね。
買った本。
そういうわけで、なんとか17時前に計画通り回りきりました。見知らぬ土地に来たらいつもラーメンを食べて帰るのですが、調べたところ近所のラーメン屋は17:30開店。あと30分ほど時間があります。
外で座っているのも体が冷えるし、かといってカフェに入るのは勿体ない、イートインスペースがありそうなコンビニは遠い……そう考え、散歩をすることにしました。
昔、学校行事でこのあたりを歩いたことがありました。大阪の学校なのに。先生たちは京大を見せたかったらしいですが。京大を見たら頭が良くなるんですかね。
と色々なことを思い出していると、体がけっこう限界っぽいことに気づきます。空腹はそこまで感じなかったのですが、とにかく体が重いです。前をゆっくり歩くご老人と距離が縮まりません……。
なんとか歩ききり、ラーメン屋に到着。開店時間ちょうどでした。
おすすめの塩らーめんと、焼きめしを頼みました。おいしかったです(表現力不足
店を出ると、体が比較的動くようになっていました。食事の大切さを思い知ります。
用は済んだのでバスで帰ります。京都市内はどこまで行っても230円です。車内は空いていました。席に座り、なんだか感覚の鈍い足で、カバンの重みを感じます。ほぼ4時間歩きっぱなしだったので、次はもうちょっと、歩く距離を減らそうと、そう思いました……。
*1:出版社によれば200円のもあった
脱-社会的VTuber、DWU
遊びみたいなことをちゃんと仕事にするからVTuber事業成り立ってんだろうが! ——DWU
今回はDWUの一件についてです。DWUとそのセバスチャン(「運営」のこと)の一連のやりとりをよくご存知でない方で、精神に余裕のある健常者は一度該当の動画をご覧になってください。
そこには、「仕事」をしたいDWUと「遊び」をしたいセバスチャンの対立の様子が収められています。多くの人にとってはDWUのほうが至極真っ当に思えるでしょうし、実際DWUのほうが真っ当なのですが、どうやらセバスチャンの側にも彼らなりの一貫した論理があるらしい、というのは後で書きます。
ともかく、あの一連のやりとりを見て、私は正直恐怖を感じました。セバスチャンの得体の知れなさゆえの恐怖です。彼らが一体何を考えているのか、全く分からない。みなさんがご覧になった通り、DWUの告発(?)は「企業案件の宣伝動画」から始まるのですが、セバスチャンたちはその企業案件のことを「なにも知らない」といい、DWUは複数のセバスチャンの間でたらい回しに遭ったそうです。それでも宣伝動画を撮り始められたのは、セバスチャンのうちの一人に「まともな人」がいたからで、DWUは彼との間でなんとか業務連絡ができていたと。
この時点でセバスチャンに「社会常識」が無いと断じざるを得ないのですが、それだけでなく、配信中セバスチャンへの怒りをぶちまけるDWUに対しセバスチャンは、「こっちは遊びでやってんだよ」という旨の、開き直ったような宣言を始めます。
「遊び」? VTuber運営は「仕事」じゃなかったの? そういう風にDWUは言っていますし、実際私もそう思いました。VTuberをやるにはお金が発生しますし、実際企業案件なんかもいくつか受けてるわけですから、責任もそれ相応に伴ってくるはずです。それを「遊び」と言い切れる、その思考プロセスが分からず、私の頭はショートしてしまいました……。
日を改めた別の配信もひどいもので、DWUとセバスチャンとの対談動画では、セバスチャンはにじさんじを例に出しながら、
(DWUは)すぐにでも独立したほうがいいと思います(……)にじさんじ紹介しましょうか?(……)(そこなら)毎日楽しくつまんない生放送を聴いて喜んで投げ銭してつまんない遊び以下のことを社会人として真面目に仕事としてやっていけると思います
と、「わけの分からない」ことを言ったりしています。書き起こしてみると余計に支離滅裂さが増すうえ、「つまんない遊び以下の真面目な仕事」とは、なんとも不思議な言い回しだなという印象です。
しかし(ここで「しかし」なわけです)、その後Twitterで色々検索していると、セバスチャンに共感する声が一定数あることに気付きました。彼らの分析を通すと、セバスチャンの行動がなんとなく理解できてきます。
まず、大前提として、Twitter民曰く、セバスチャンは「発達障害者界隈」の人間ではないか、ということがあります。彼らには独特の論理が存在しており、まずそれをなんとかトレースできないことには、彼らを「怖い」としか思えないわけです。
Twitterで見かけたものを要約する形になりますが、まず納得したのは、セバスチャンの言う「遊び」というフレーズは、「テキトーに遊び散らかす」という意味ではなく、「真剣に遊ぶ」という意味であるということ、です。
健常者*1は「仕事」と「遊び」を対比されると後者を「テキトー」なものだと思ってしまいますし、だからこそ健常者なDWUはセバスチャンの「遊びでやってんだよ」にブチ切れたわけですが、しかしセバスチャンの意図はむしろ、「仕事みたいなことはつまんないからやりたくない、遊びっていう面白いことを真剣にやりたい」であったので、DWUに「遊びみたいなことを仕事にしろ」と言われても「やだよ」で終わりになってしまいます。「遊び」は「遊び」で「仕事」ではないからです。
そして、どうやらセバスチャンには「真面目なもの」に対しての、敵意とまではいかずとも何か、健常者視点では捻くれているように思えるような忌避意識があるようです。先ほど引用したセバスチャンの発言にも、「つまんない遊び以下のこと=社会の真面目な仕事がもたらすもの」という不思議な図式がありましたが、彼らにとって「仕事」は「遊び」よりもはるかに「つまんない」ことで、価値がはるかに低いのでしょう。
Twitterで観測した分かりやすい例があります。「野球が上手いやつを連れてきて面白い動画を撮って楽しんでいたら、急に「このメンバーで甲子園行こうな」と言われた」というものです。
草野球にしては上手いぐらいの人達が スポーツできるやつ連れてきて魔球再現動画撮ったりしてたら「じゃあこのメンバーで甲子園行こう!な!」って打ち上げで肩叩かれて「は?」ってなってる図だもん
— ねおらー31♎ (@neora31) 2020年6月2日
こう言われてみるとなんとなく分かります。セバスチャンは本当に真剣に「遊び」をしていたのに、DWUは「仕事」をしようと言い出した。だから「つまんない」となったわけです。DMMとの企業案件みたいなものは遊びでなくて「仕事」だから、セバスチャンはノリ気でなかったんですね(社会的責任が発生するため)。DWUをたらい回しにしたのは、どのセバスチャンも「つまんない」と思っていたから、案件を意図的に無視することで、「自然に消滅しないかな~」ってやってたんじゃないか、という話もありました。
セバスチャン擁護するわけではないけど、”そこそこ楽しかった”のでやりたいことはめちゃくちゃやる気出すけど、やりたくない案件は断るのも億劫なので自然消滅しねぇかな〜っつって放置するみたいなムーブにはわかりがある
— 極光 a.k.a ミラージュ (@Aurora_Striker) 2020年6月1日
また、彼らには独特の信念がある、という話もあります。
なんていうかな、もちろん一般通念上で企業倫理とかが遊びの上に来ることはわかってるんですけど、真実者か不真実者かを決めるのは一般通念上の倫理じゃなくて、本人のなかでどれだけ綺麗なまんまる目玉焼きが焼けているかなんですよね。
— あああああ太郎 (@9_dokumamo) 2020年6月1日
だから、間違っているが、わかる
彼らにとって倫理や社会規範は問題でなく(おそらく彼らはそれも「つまらない」と一蹴しそう)、自身の中にある「正統性」こそが重要なわけです。DWUはセバスチャンがディープウェブっぽいVTuberを作りたくて成形した人形で、セバスチャンはセバスチャン自身が思う「面白い」という正統性に従いながら、DWUの企画を動かしてきたのでしょう。しかし、DWUが意志を持ち始めて、その正統性にヒビが入り始めた。セバスチャンにとってはどれだけ自分の思う「真実」に沿って物事を成せるかが大事だから、「壊れてきた」DWUはもう不要になったのです。そして、Twitterの方々の言う通りならば、せめて最後は「面白く」完全に壊してしまおうということで、「どれだけの花火を打ち上げられるか」が問題となり、今回のような配信(ラストの暗転→拍手とか)に至った、というのが、しっくり来る説明になるでしょう。
ここまでがツイートの要約です。私にはあまりに深すぎて世界を汲み取りきれませんでしたが、私が参考にした他のツイートは探せば簡単に見つかると思うし、一定数の人にとっては全くの別世界だと思うので興味深く読めます。
そしてここからは話を敷衍した、私のテキトーな分析なのですが、セバスチャンたちは「にじさんじ」のようなVTuberを「つまらない」としていました。「仕事」で「真面目」で「遊び以下」であると。彼らには「真面目なもの」への忌避感があるのではないかという話はしましたが、その感想を強めたのは、今までのにゃるら氏のツイートです。にゃるら氏がそういう界隈と関わりがあることは彼のnote(たとえばにゃるら絵日記4話「はじめて精神科に行ってみた!」|にゃるら|note)を見ていても分かります。彼はツイッター2を目指していたり、ガレージに人を住まわせたりしている「変わり者」ですが、一貫しているのは「真面目なもの」つまり社会への忌避感です。
ツイッター2(だれも社会や政治の話をせず、毎日みんなでアニメを観たりゲームをしたりして1日がおわるマジで楽しいSNS)に少しでも早く到達するために、優しいツイートを見かけたら「ありがとう」とリプライしてあげましょう
— にゃるら (@nyalra) 2020年6月1日
彼ら(の一部)は社会の外側に住んでいます。VTuberファンの中には伝書鳩やセクハラマシュマロを送る人間を「社会不適合者」呼ばわりする人がいますが、「伝書鳩」や「セクハラマロを送る人間」はおそらく社会には溶け込めている側の人間です。一方、発達の人たちは社会に溶け込めずにいるわけで、真の意味で「社会不適合者」と言えるのだと思います。強い表現だったらごめんなさい。
その外側の人たちは、一般化していいのか分からないけれど、社会的なもの——「仕事」、真面目さ——を嫌い、「遊び」を是とします。では裏を返せば、彼らが嫌う「にじさんじ」などのVTuberは「つまらない」わけで、それがなぜかといえば「社会的」だからということになるでしょう。「にじさんじ」や「ホロライブ」といったアイドル的(どぎつく言えばキャバクラ的)VTuberへは様々な批判がありますが、「社会的」だからダメだというのは初めての視点ではないでしょうか。
ただし、これはVTuber全体に向けられた非難であるとは私は思いません。VTuber評論によく向けられる「「VTuber」は主語が大きすぎる」というのは使い古された批判のひとつですが、それは使い方によればその通りで、VTuberには様々な形態があることを忘れてはいけません。キズナアイの分裂が「VTuber」という括りによって起きてしまったという指摘はその通りだと思います。
キズナアイって、本人はどんどんリアルで活動する存在でありたかったのに、Vtuberのブームからネット文化のひとつに組み込まれちゃたために、本来やりたかったことが思うようにどれもやれないまま、存在(企画)として分裂してったんだろうな、というのが私の感想。
— 織部ゆたか (@iiduna_yutaka) 2020年5月6日
そのうえで言うと、DWU(の中の人)が目指したような、「アイドル的VTuber」の類は社会的です。なぜなら、彼らは仕事でVTuberをやっているからです。彼らには、その働きに応じて賃金が発生しています。「BOOTH売上のライバー取り分が何とかパーセント」みたいな話がにじさんじで出ていましたが、彼らは魅力的な配信を仕事として行い、ファンを獲得することで生活費を得ているわけです。
さらに、アイドル的VTuberとリスナーの関係は、非常に無機質な言い方をすると、生産者と消費者の関係にあります。アイドル的VTuberがコンテンツを提供し、リスナーはそれに対価を支払う。この対価とは、何もお金だけではありません。この情報の海=インターネットに覆われた世界では、時間が非常に重要な通貨となります。暇をつぶそうと思えば、ネットに接続して、ゲーム、読書(電子書籍)、音楽、Twitter、YouTubeなどを使っていくらでも暇をつぶせますし、たとえばYouTubeの中でも魅力的な動画は五万とあるわけです。生産者はその中で「いかに自分のコンテンツに時間を使ってもらうか」を考えなければならず、お金はその次の段階の話になってきます。コンテンツにまず時間を割いてくれなければ、お金は入ってきませんからね。その意味で各人の時間は非常に重要であって、それは時にお金より高い価値を持ちます。
そして言うまでもなく、ここにあるのは明確な資本主義的サイクルです。そして資本主義とは日本の社会システムの根幹であり、アイドル的VTuberはゆえに社会的なのです。
その資本主義的関係は、VTuber活動から「遊び」を排除する方向へ向かうでしょうし、現にそうなっていると思います。「遊び」とは余裕です。「不要不急」ということが言われましたが、それを合言葉に規制されたのは「遊び」でした。社会的に言って「遊び」とは、生活のうえでは不要な余剰であるわけです。
みなさんはVTuberを見るうえで「資本主義的関係」を想像したことはないかもしれませんが、消費者的態度は思いのほか私たちに刷り込まれています。VTuberがトラブルを起こした時が顕著です。Unlimitedや、アズリム、キズナアイ、アップランドなど、視聴者からは様々な怒りの声があがりました。今回のDWUの一件もまさにそうで、健常者のほとんどは「遊び」で動く運営に憤っています。これらの態度はやはり、消費者的であると言えるでしょう。さっき「支払う対価とはお金だけでなく時間もそうだ」と書きましたが、そうした対価が無下にされると感じれば、声を上げたくなるのです。もし、先に挙げた問題が内輪的で責任を伴わないような「遊び」の範疇であれば許されたでしょうが、資本主義的関係に既に回収され、消費者と対峙した彼らが糾弾から逃れる術はありません。「大学のサークルのノリ」みたいな運営は、「仕事」の前では許されないのです。
VTuberが暴言を吐いたときなどに湧いてくるらしい「お叱りの声」というのも、この延長線上にあるのでしょう。大抵は些細な事案への声なので沸点が低いと言わざるを得ませんが、根本はおそらく同じです。自分が投資してきた相手が突然方針を変えたように思ったので、「消費者の権利として」軌道修正を促しているわけです。当然認められはしないでしょうし、普通は認められるべきではないと思いますが。分かりにくければ、企業や役所が軽いおふざけをすると、一定数の「お叱りの声」が湧いてくる例を想像すればいいと思います。
また、今消費者の話をしましたが、生産者の側でも「遊び」は許されません。DWUの言うように、「仕事」に対して「遊び」をぶつけられると、つまり「真剣に真面目でないこと」をぶつけられると、端的に仕事にならないからです。
このように、仕事で成り立つ資本主義的関係において、遊びの入り込む隙は無いのです。
そして、ここから話はVTuber黎明期に移ります。あの時代は面白かった、というと懐古厨の老人みたいですが、今とあの時代では気色が違うことはたしかでしょう。
その違いとは、お分かりの通りですが、「仕事」と「遊び」です。初期のころ、「仕事」としてVTuberを考えていたのは企業勢で、「遊び」を重視していたのは個人勢でした。そして、個人勢の勢いもすごく強かったというのは、ねこます氏や天魔機忍なんかを振り返ってもらえれば分かるかと思います。
「遊び」でVTuberをやるとはつまり、社会的=資本主義的(商業主義的)でない論理でVTuberをやるということです。大規模なお金儲けとかそんなことは考えず、別の目的——ノリとか、「面白さ」の追求とか——で活動するということ。そのとき、「仕事」は介在しません。
しかし、現在VTuber界全体はご覧の通りのありさまで、黎明期のような個人勢は目立たなくなりました。勢いを保っているのは、ほとんどがアイドル的VTuberです。彼らの間では資本主義的競争原理が働き、各々は数字で比較され続け、その脱落者は引退という死を迎えます。なんと社会的なことでしょうか。
また、視聴者が「登録者数」や「再生数」などの数字を好んで引き合いに出したり、数字データを扱った動画を好んで再生するのも、その競争原理を日々の生活の中で内面化した結果と言えるかもしれません。
そういえば、ねこます氏は人気が高まる中で企業案件を全て断りVTuber界を去りましたが、それは「遊び」が「仕事」になってしまいそうだったからなのでは、とふと思いました。そもそもねこます氏は、にゃるら氏という広告塔で有名になったわけです。だったらそこらへんを共有していたとしてもおかしくは……って、まあ、想像ですけどね。
総括しましょう。この記事では、次の二点を書きました。①DWUの一件でセバスチャンは何をどう考えていたのか、②「遊び」と「仕事」でVTuberを見るとどうなるのか、の二点です。
①については、セバスチャンは「仕事」の視点からは言うまでもなく失格でしたが、「遊び」の視点から見ると、社会の外側の人間としてはむしろ当然のムーブをしていました。セバスチャンを擁護するわけでは全くありませんが、「彼らが一応一貫した論理には従っていた」という点は面白く感じたので、Twitterで見かけた内容を整理して共有しました。
②については、セバスチャンたちが「社会の外側の人間」であるという私が勝手につくったフレーズから連想して、社会の内側(=資本主義的で社会的で「仕事」が蔓延する世界)と社会の外側(=利益は考えず非社会的で「遊び」ができる世界)の対立を考えました。そしてそこから、前者に属するアイドル的VTuberと、後者に属する「セバスチャンのDWU」や「非営利目的の個人勢」とを対比させ、VTuber構造の簡単な分析をやってみました。
最後に今までの話を正しいと仮定して、今一度DWUの一件を振り返ります。
セバスチャンとDWUのすれ違いは、明らかに「DWUとは何か」という点において発生していました。
資本主義・商業主義の刻印を受けたアイドル的VTuberたちは、あまりに社会的だと言いましたが、セバスチャンが「にじさんじ」を「つまんない」と言ったのは、セバスチャン自身が社会に属していない脱-社会的な存在で、社会的なものを忌避しているからです。そしてそのカウンター概念である「遊び」に基づいて作り上げられたのが「DWU」でした。
一方、DWUの思うDWUは、アイドル的VTuberでした。アイドル的VTuberの運営は社会的に遂行されなければなりませんから、当然「遊び」は排除されます。であれば、セバスチャンに「遊び」を辞めるよう詰め寄るのは当然でしょう。
しかし、DWUは、セバスチャンが「遊び」そのものを基礎として運営を行っていたことに気が付きませんでした。彼女の「元カレが実は残念なオタクだった」というエピソードは、悲しくもこれとよく似ています。
図式的にまとめれば、セバスチャンの思うDWUは脱-社会的VTuberであり、DWUの思うDWUは社会的VTuberであったと言えるでしょう。
これからDWUは独立して活動していくそうですが、彼女が「仕事」としてやるVTuberが「面白い」ものになるのか「つまらない」ものになるのか、そうセバスチャンは注視していることでしょうね。
以上です、お読みいただきありがとうございました。
【追記】
発達障害を扱うにあたり、私は事前にいくらか情報収集をしました。発達障害は生まれつきであること、脳の発達が原因であること、ADHDや学習障害などいくつかのタイプに分類されること、定型発達/非定型発達の分類があること、などなど、普段は触れない分野であるだけに、正直全く知らないことだらけで驚きました。発達障害は少数派であるだけで病気ではないという考え方は、当然ですが大切だなと感じたところでありますし、そうすると今回の記事でいえば「健常者」という語を使うかどうか悩むことになったのですが、非障害者というのもそれはそれで断絶を生んでいるような気がして、今回は便宜上「健常者」を使うことにしました。
私に、発達障害を責めるとか、そういった感情は一切ありません。記事中で触れた「Twitter民」には、おそらく発達障害の傾向のある方がいくらか含まれていて、彼らはセバスチャンに対して「これは俺たちだ」と共感してツイートされていたのだと思うんですね。そして彼らの一人は次のような趣旨のツイートもしていました。「周りと同じようにしようとして、溶け込めたと思っても、本当は全然溶け込めていないことがある」。多くの人にとっては簡単な、ごく普通の礼儀も、いくらかの人には難しかったりする。もし仮にセバスチャンが「発達障害」であったとすればですが、セバスチャンもそうだったのだろうと私は解釈しています。私には無い困難でも、他人にはその困難があるかもしれないのです。
勉強している間、多くのサイトで目にしたのは、「個性」という言葉でした。「身長の高低」や「血液型」、「右利き左利き」のように、発達障害も一つの個性だと。それは忘れないようにしたいです。
ところで、ここまで読まれた方なら分かると思うのですが、この記事には確固たる前提が一切存在していません。セバスチャンはそもそも発達界隈の人間ではないかもしれませんし、仮にそうだとしても私が共有したツイート群とその要約が正しいとは限りません。またそれが正しかったとしても、私が言った資本主義云々は可能性の一つでしかありません。その意味で、この記事はスカスカです。
では何のために書いたかと言えば、それは、この一件の「得体の知れなさ」とそこから来る「不気味さ」を解消する一助とするためです。ですが決して、発達障害を利用しようとか、そういう意図はないのです。多くの人が普段触れない「発達障害」という世界と、その独特の発想から来る「社会的なもの」への敵視というストーリーは、フィクションかもしれませんが、私の目には非常に興味深く映ったのです。これは純粋な気持ちです。
みなさんも、もし調べたことが無ければ一度、「発達障害」と呼ばれる「個性」について調べてほしいです。そして、世界を広げてほしいと、今強く思っています。
※2020/6/7更新:いくつかの表現を見直しました。追記を行いました。
*1:この表現に問題があることは承知していますが、便宜上これを使わせていただきます