脱-社会的VTuber、DWU
遊びみたいなことをちゃんと仕事にするからVTuber事業成り立ってんだろうが! ——DWU
今回はDWUの一件についてです。DWUとそのセバスチャン(「運営」のこと)の一連のやりとりをよくご存知でない方で、精神に余裕のある健常者は一度該当の動画をご覧になってください。
そこには、「仕事」をしたいDWUと「遊び」をしたいセバスチャンの対立の様子が収められています。多くの人にとってはDWUのほうが至極真っ当に思えるでしょうし、実際DWUのほうが真っ当なのですが、どうやらセバスチャンの側にも彼らなりの一貫した論理があるらしい、というのは後で書きます。
ともかく、あの一連のやりとりを見て、私は正直恐怖を感じました。セバスチャンの得体の知れなさゆえの恐怖です。彼らが一体何を考えているのか、全く分からない。みなさんがご覧になった通り、DWUの告発(?)は「企業案件の宣伝動画」から始まるのですが、セバスチャンたちはその企業案件のことを「なにも知らない」といい、DWUは複数のセバスチャンの間でたらい回しに遭ったそうです。それでも宣伝動画を撮り始められたのは、セバスチャンのうちの一人に「まともな人」がいたからで、DWUは彼との間でなんとか業務連絡ができていたと。
この時点でセバスチャンに「社会常識」が無いと断じざるを得ないのですが、それだけでなく、配信中セバスチャンへの怒りをぶちまけるDWUに対しセバスチャンは、「こっちは遊びでやってんだよ」という旨の、開き直ったような宣言を始めます。
「遊び」? VTuber運営は「仕事」じゃなかったの? そういう風にDWUは言っていますし、実際私もそう思いました。VTuberをやるにはお金が発生しますし、実際企業案件なんかもいくつか受けてるわけですから、責任もそれ相応に伴ってくるはずです。それを「遊び」と言い切れる、その思考プロセスが分からず、私の頭はショートしてしまいました……。
日を改めた別の配信もひどいもので、DWUとセバスチャンとの対談動画では、セバスチャンはにじさんじを例に出しながら、
(DWUは)すぐにでも独立したほうがいいと思います(……)にじさんじ紹介しましょうか?(……)(そこなら)毎日楽しくつまんない生放送を聴いて喜んで投げ銭してつまんない遊び以下のことを社会人として真面目に仕事としてやっていけると思います
と、「わけの分からない」ことを言ったりしています。書き起こしてみると余計に支離滅裂さが増すうえ、「つまんない遊び以下の真面目な仕事」とは、なんとも不思議な言い回しだなという印象です。
しかし(ここで「しかし」なわけです)、その後Twitterで色々検索していると、セバスチャンに共感する声が一定数あることに気付きました。彼らの分析を通すと、セバスチャンの行動がなんとなく理解できてきます。
まず、大前提として、Twitter民曰く、セバスチャンは「発達障害者界隈」の人間ではないか、ということがあります。彼らには独特の論理が存在しており、まずそれをなんとかトレースできないことには、彼らを「怖い」としか思えないわけです。
Twitterで見かけたものを要約する形になりますが、まず納得したのは、セバスチャンの言う「遊び」というフレーズは、「テキトーに遊び散らかす」という意味ではなく、「真剣に遊ぶ」という意味であるということ、です。
健常者*1は「仕事」と「遊び」を対比されると後者を「テキトー」なものだと思ってしまいますし、だからこそ健常者なDWUはセバスチャンの「遊びでやってんだよ」にブチ切れたわけですが、しかしセバスチャンの意図はむしろ、「仕事みたいなことはつまんないからやりたくない、遊びっていう面白いことを真剣にやりたい」であったので、DWUに「遊びみたいなことを仕事にしろ」と言われても「やだよ」で終わりになってしまいます。「遊び」は「遊び」で「仕事」ではないからです。
そして、どうやらセバスチャンには「真面目なもの」に対しての、敵意とまではいかずとも何か、健常者視点では捻くれているように思えるような忌避意識があるようです。先ほど引用したセバスチャンの発言にも、「つまんない遊び以下のこと=社会の真面目な仕事がもたらすもの」という不思議な図式がありましたが、彼らにとって「仕事」は「遊び」よりもはるかに「つまんない」ことで、価値がはるかに低いのでしょう。
Twitterで観測した分かりやすい例があります。「野球が上手いやつを連れてきて面白い動画を撮って楽しんでいたら、急に「このメンバーで甲子園行こうな」と言われた」というものです。
草野球にしては上手いぐらいの人達が スポーツできるやつ連れてきて魔球再現動画撮ったりしてたら「じゃあこのメンバーで甲子園行こう!な!」って打ち上げで肩叩かれて「は?」ってなってる図だもん
— ねおらー31♎ (@neora31) 2020年6月2日
こう言われてみるとなんとなく分かります。セバスチャンは本当に真剣に「遊び」をしていたのに、DWUは「仕事」をしようと言い出した。だから「つまんない」となったわけです。DMMとの企業案件みたいなものは遊びでなくて「仕事」だから、セバスチャンはノリ気でなかったんですね(社会的責任が発生するため)。DWUをたらい回しにしたのは、どのセバスチャンも「つまんない」と思っていたから、案件を意図的に無視することで、「自然に消滅しないかな~」ってやってたんじゃないか、という話もありました。
セバスチャン擁護するわけではないけど、”そこそこ楽しかった”のでやりたいことはめちゃくちゃやる気出すけど、やりたくない案件は断るのも億劫なので自然消滅しねぇかな〜っつって放置するみたいなムーブにはわかりがある
— 極光 a.k.a ミラージュ (@Aurora_Striker) 2020年6月1日
また、彼らには独特の信念がある、という話もあります。
なんていうかな、もちろん一般通念上で企業倫理とかが遊びの上に来ることはわかってるんですけど、真実者か不真実者かを決めるのは一般通念上の倫理じゃなくて、本人のなかでどれだけ綺麗なまんまる目玉焼きが焼けているかなんですよね。
— あああああ太郎 (@9_dokumamo) 2020年6月1日
だから、間違っているが、わかる
彼らにとって倫理や社会規範は問題でなく(おそらく彼らはそれも「つまらない」と一蹴しそう)、自身の中にある「正統性」こそが重要なわけです。DWUはセバスチャンがディープウェブっぽいVTuberを作りたくて成形した人形で、セバスチャンはセバスチャン自身が思う「面白い」という正統性に従いながら、DWUの企画を動かしてきたのでしょう。しかし、DWUが意志を持ち始めて、その正統性にヒビが入り始めた。セバスチャンにとってはどれだけ自分の思う「真実」に沿って物事を成せるかが大事だから、「壊れてきた」DWUはもう不要になったのです。そして、Twitterの方々の言う通りならば、せめて最後は「面白く」完全に壊してしまおうということで、「どれだけの花火を打ち上げられるか」が問題となり、今回のような配信(ラストの暗転→拍手とか)に至った、というのが、しっくり来る説明になるでしょう。
ここまでがツイートの要約です。私にはあまりに深すぎて世界を汲み取りきれませんでしたが、私が参考にした他のツイートは探せば簡単に見つかると思うし、一定数の人にとっては全くの別世界だと思うので興味深く読めます。
そしてここからは話を敷衍した、私のテキトーな分析なのですが、セバスチャンたちは「にじさんじ」のようなVTuberを「つまらない」としていました。「仕事」で「真面目」で「遊び以下」であると。彼らには「真面目なもの」への忌避感があるのではないかという話はしましたが、その感想を強めたのは、今までのにゃるら氏のツイートです。にゃるら氏がそういう界隈と関わりがあることは彼のnote(たとえばにゃるら絵日記4話「はじめて精神科に行ってみた!」|にゃるら|note)を見ていても分かります。彼はツイッター2を目指していたり、ガレージに人を住まわせたりしている「変わり者」ですが、一貫しているのは「真面目なもの」つまり社会への忌避感です。
ツイッター2(だれも社会や政治の話をせず、毎日みんなでアニメを観たりゲームをしたりして1日がおわるマジで楽しいSNS)に少しでも早く到達するために、優しいツイートを見かけたら「ありがとう」とリプライしてあげましょう
— にゃるら (@nyalra) 2020年6月1日
彼ら(の一部)は社会の外側に住んでいます。VTuberファンの中には伝書鳩やセクハラマシュマロを送る人間を「社会不適合者」呼ばわりする人がいますが、「伝書鳩」や「セクハラマロを送る人間」はおそらく社会には溶け込めている側の人間です。一方、発達の人たちは社会に溶け込めずにいるわけで、真の意味で「社会不適合者」と言えるのだと思います。強い表現だったらごめんなさい。
その外側の人たちは、一般化していいのか分からないけれど、社会的なもの——「仕事」、真面目さ——を嫌い、「遊び」を是とします。では裏を返せば、彼らが嫌う「にじさんじ」などのVTuberは「つまらない」わけで、それがなぜかといえば「社会的」だからということになるでしょう。「にじさんじ」や「ホロライブ」といったアイドル的(どぎつく言えばキャバクラ的)VTuberへは様々な批判がありますが、「社会的」だからダメだというのは初めての視点ではないでしょうか。
ただし、これはVTuber全体に向けられた非難であるとは私は思いません。VTuber評論によく向けられる「「VTuber」は主語が大きすぎる」というのは使い古された批判のひとつですが、それは使い方によればその通りで、VTuberには様々な形態があることを忘れてはいけません。キズナアイの分裂が「VTuber」という括りによって起きてしまったという指摘はその通りだと思います。
キズナアイって、本人はどんどんリアルで活動する存在でありたかったのに、Vtuberのブームからネット文化のひとつに組み込まれちゃたために、本来やりたかったことが思うようにどれもやれないまま、存在(企画)として分裂してったんだろうな、というのが私の感想。
— 織部ゆたか (@iiduna_yutaka) 2020年5月6日
そのうえで言うと、DWU(の中の人)が目指したような、「アイドル的VTuber」の類は社会的です。なぜなら、彼らは仕事でVTuberをやっているからです。彼らには、その働きに応じて賃金が発生しています。「BOOTH売上のライバー取り分が何とかパーセント」みたいな話がにじさんじで出ていましたが、彼らは魅力的な配信を仕事として行い、ファンを獲得することで生活費を得ているわけです。
さらに、アイドル的VTuberとリスナーの関係は、非常に無機質な言い方をすると、生産者と消費者の関係にあります。アイドル的VTuberがコンテンツを提供し、リスナーはそれに対価を支払う。この対価とは、何もお金だけではありません。この情報の海=インターネットに覆われた世界では、時間が非常に重要な通貨となります。暇をつぶそうと思えば、ネットに接続して、ゲーム、読書(電子書籍)、音楽、Twitter、YouTubeなどを使っていくらでも暇をつぶせますし、たとえばYouTubeの中でも魅力的な動画は五万とあるわけです。生産者はその中で「いかに自分のコンテンツに時間を使ってもらうか」を考えなければならず、お金はその次の段階の話になってきます。コンテンツにまず時間を割いてくれなければ、お金は入ってきませんからね。その意味で各人の時間は非常に重要であって、それは時にお金より高い価値を持ちます。
そして言うまでもなく、ここにあるのは明確な資本主義的サイクルです。そして資本主義とは日本の社会システムの根幹であり、アイドル的VTuberはゆえに社会的なのです。
その資本主義的関係は、VTuber活動から「遊び」を排除する方向へ向かうでしょうし、現にそうなっていると思います。「遊び」とは余裕です。「不要不急」ということが言われましたが、それを合言葉に規制されたのは「遊び」でした。社会的に言って「遊び」とは、生活のうえでは不要な余剰であるわけです。
みなさんはVTuberを見るうえで「資本主義的関係」を想像したことはないかもしれませんが、消費者的態度は思いのほか私たちに刷り込まれています。VTuberがトラブルを起こした時が顕著です。Unlimitedや、アズリム、キズナアイ、アップランドなど、視聴者からは様々な怒りの声があがりました。今回のDWUの一件もまさにそうで、健常者のほとんどは「遊び」で動く運営に憤っています。これらの態度はやはり、消費者的であると言えるでしょう。さっき「支払う対価とはお金だけでなく時間もそうだ」と書きましたが、そうした対価が無下にされると感じれば、声を上げたくなるのです。もし、先に挙げた問題が内輪的で責任を伴わないような「遊び」の範疇であれば許されたでしょうが、資本主義的関係に既に回収され、消費者と対峙した彼らが糾弾から逃れる術はありません。「大学のサークルのノリ」みたいな運営は、「仕事」の前では許されないのです。
VTuberが暴言を吐いたときなどに湧いてくるらしい「お叱りの声」というのも、この延長線上にあるのでしょう。大抵は些細な事案への声なので沸点が低いと言わざるを得ませんが、根本はおそらく同じです。自分が投資してきた相手が突然方針を変えたように思ったので、「消費者の権利として」軌道修正を促しているわけです。当然認められはしないでしょうし、普通は認められるべきではないと思いますが。分かりにくければ、企業や役所が軽いおふざけをすると、一定数の「お叱りの声」が湧いてくる例を想像すればいいと思います。
また、今消費者の話をしましたが、生産者の側でも「遊び」は許されません。DWUの言うように、「仕事」に対して「遊び」をぶつけられると、つまり「真剣に真面目でないこと」をぶつけられると、端的に仕事にならないからです。
このように、仕事で成り立つ資本主義的関係において、遊びの入り込む隙は無いのです。
そして、ここから話はVTuber黎明期に移ります。あの時代は面白かった、というと懐古厨の老人みたいですが、今とあの時代では気色が違うことはたしかでしょう。
その違いとは、お分かりの通りですが、「仕事」と「遊び」です。初期のころ、「仕事」としてVTuberを考えていたのは企業勢で、「遊び」を重視していたのは個人勢でした。そして、個人勢の勢いもすごく強かったというのは、ねこます氏や天魔機忍なんかを振り返ってもらえれば分かるかと思います。
「遊び」でVTuberをやるとはつまり、社会的=資本主義的(商業主義的)でない論理でVTuberをやるということです。大規模なお金儲けとかそんなことは考えず、別の目的——ノリとか、「面白さ」の追求とか——で活動するということ。そのとき、「仕事」は介在しません。
しかし、現在VTuber界全体はご覧の通りのありさまで、黎明期のような個人勢は目立たなくなりました。勢いを保っているのは、ほとんどがアイドル的VTuberです。彼らの間では資本主義的競争原理が働き、各々は数字で比較され続け、その脱落者は引退という死を迎えます。なんと社会的なことでしょうか。
また、視聴者が「登録者数」や「再生数」などの数字を好んで引き合いに出したり、数字データを扱った動画を好んで再生するのも、その競争原理を日々の生活の中で内面化した結果と言えるかもしれません。
そういえば、ねこます氏は人気が高まる中で企業案件を全て断りVTuber界を去りましたが、それは「遊び」が「仕事」になってしまいそうだったからなのでは、とふと思いました。そもそもねこます氏は、にゃるら氏という広告塔で有名になったわけです。だったらそこらへんを共有していたとしてもおかしくは……って、まあ、想像ですけどね。
総括しましょう。この記事では、次の二点を書きました。①DWUの一件でセバスチャンは何をどう考えていたのか、②「遊び」と「仕事」でVTuberを見るとどうなるのか、の二点です。
①については、セバスチャンは「仕事」の視点からは言うまでもなく失格でしたが、「遊び」の視点から見ると、社会の外側の人間としてはむしろ当然のムーブをしていました。セバスチャンを擁護するわけでは全くありませんが、「彼らが一応一貫した論理には従っていた」という点は面白く感じたので、Twitterで見かけた内容を整理して共有しました。
②については、セバスチャンたちが「社会の外側の人間」であるという私が勝手につくったフレーズから連想して、社会の内側(=資本主義的で社会的で「仕事」が蔓延する世界)と社会の外側(=利益は考えず非社会的で「遊び」ができる世界)の対立を考えました。そしてそこから、前者に属するアイドル的VTuberと、後者に属する「セバスチャンのDWU」や「非営利目的の個人勢」とを対比させ、VTuber構造の簡単な分析をやってみました。
最後に今までの話を正しいと仮定して、今一度DWUの一件を振り返ります。
セバスチャンとDWUのすれ違いは、明らかに「DWUとは何か」という点において発生していました。
資本主義・商業主義の刻印を受けたアイドル的VTuberたちは、あまりに社会的だと言いましたが、セバスチャンが「にじさんじ」を「つまんない」と言ったのは、セバスチャン自身が社会に属していない脱-社会的な存在で、社会的なものを忌避しているからです。そしてそのカウンター概念である「遊び」に基づいて作り上げられたのが「DWU」でした。
一方、DWUの思うDWUは、アイドル的VTuberでした。アイドル的VTuberの運営は社会的に遂行されなければなりませんから、当然「遊び」は排除されます。であれば、セバスチャンに「遊び」を辞めるよう詰め寄るのは当然でしょう。
しかし、DWUは、セバスチャンが「遊び」そのものを基礎として運営を行っていたことに気が付きませんでした。彼女の「元カレが実は残念なオタクだった」というエピソードは、悲しくもこれとよく似ています。
図式的にまとめれば、セバスチャンの思うDWUは脱-社会的VTuberであり、DWUの思うDWUは社会的VTuberであったと言えるでしょう。
これからDWUは独立して活動していくそうですが、彼女が「仕事」としてやるVTuberが「面白い」ものになるのか「つまらない」ものになるのか、そうセバスチャンは注視していることでしょうね。
以上です、お読みいただきありがとうございました。
【追記】
発達障害を扱うにあたり、私は事前にいくらか情報収集をしました。発達障害は生まれつきであること、脳の発達が原因であること、ADHDや学習障害などいくつかのタイプに分類されること、定型発達/非定型発達の分類があること、などなど、普段は触れない分野であるだけに、正直全く知らないことだらけで驚きました。発達障害は少数派であるだけで病気ではないという考え方は、当然ですが大切だなと感じたところでありますし、そうすると今回の記事でいえば「健常者」という語を使うかどうか悩むことになったのですが、非障害者というのもそれはそれで断絶を生んでいるような気がして、今回は便宜上「健常者」を使うことにしました。
私に、発達障害を責めるとか、そういった感情は一切ありません。記事中で触れた「Twitter民」には、おそらく発達障害の傾向のある方がいくらか含まれていて、彼らはセバスチャンに対して「これは俺たちだ」と共感してツイートされていたのだと思うんですね。そして彼らの一人は次のような趣旨のツイートもしていました。「周りと同じようにしようとして、溶け込めたと思っても、本当は全然溶け込めていないことがある」。多くの人にとっては簡単な、ごく普通の礼儀も、いくらかの人には難しかったりする。もし仮にセバスチャンが「発達障害」であったとすればですが、セバスチャンもそうだったのだろうと私は解釈しています。私には無い困難でも、他人にはその困難があるかもしれないのです。
勉強している間、多くのサイトで目にしたのは、「個性」という言葉でした。「身長の高低」や「血液型」、「右利き左利き」のように、発達障害も一つの個性だと。それは忘れないようにしたいです。
ところで、ここまで読まれた方なら分かると思うのですが、この記事には確固たる前提が一切存在していません。セバスチャンはそもそも発達界隈の人間ではないかもしれませんし、仮にそうだとしても私が共有したツイート群とその要約が正しいとは限りません。またそれが正しかったとしても、私が言った資本主義云々は可能性の一つでしかありません。その意味で、この記事はスカスカです。
では何のために書いたかと言えば、それは、この一件の「得体の知れなさ」とそこから来る「不気味さ」を解消する一助とするためです。ですが決して、発達障害を利用しようとか、そういう意図はないのです。多くの人が普段触れない「発達障害」という世界と、その独特の発想から来る「社会的なもの」への敵視というストーリーは、フィクションかもしれませんが、私の目には非常に興味深く映ったのです。これは純粋な気持ちです。
みなさんも、もし調べたことが無ければ一度、「発達障害」と呼ばれる「個性」について調べてほしいです。そして、世界を広げてほしいと、今強く思っています。
※2020/6/7更新:いくつかの表現を見直しました。追記を行いました。
*1:この表現に問題があることは承知していますが、便宜上これを使わせていただきます