とらじぇでぃが色々書くやつ

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主にVTuberの記事を投稿中。

キズナアイ、ファン、クリエイター、そして観光客

 

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キズナアイの動画サムネイルより

 

 この記事では、ファンクリエイターという二項対立を軸として、キズナアイ分裂騒動および識者たちの発言を総括し、私個人の意見を述べることを目的としています。

 

 まずキズナアイ分裂騒動をまとめ、次にキズナアイとは何かを考察、そしてファンとクリエイターそれぞれの見方を分析したのち、東浩紀氏の観光客論を用いて私なりの提案を述べることにします。

 

 ファンとクリエイターという二項対立がどのようなものであるのか、その定義は徐々に行っていきますが、最初に宣言しておくと私はファン側です。この記事で私がDD(どっちもどっち)論を展開する心配はありませんので、そこはご安心ください。

 

 

 

 

キズナアイ分裂騒動

 この騒動についてよくまとめられている以下の記事を参考にしつつ、まずは今回の件を軽くおさらいしましょう。

medium.com

 キズナアイが4人になったのは、2019年5月25日に投稿されたこの動画からです。

 

キズナアイが4人いるって言ったら信じますか? #1 - YouTube

 

 動画内では、複数のキズナアイの存在が示唆されています。この動画は「キズナアイな日々」というシリーズの一本目とされ、その後もいくつかの動画が公開されました。

 

 今まで私たちリスナーに接してきたオリジナルキズナアイの登場頻度はここらから落ち始めます。そして代わりに、キズナアイ3号が多く動画に現れるようになりました。

 

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3号は企業案件も務めました



 6月30日に行われたキズナアイの誕生日パーティーにも、オリジナルキズナアイではなく、中国人が演者を務めるキズナアイ4号が登場しています。

 

 今回の騒動はもともと中国ファンの間でより熱心に抗議活動が行われていましたが、その発端はこれです。視聴者はオリジナルキズナアイに会いに行ったのに、現れたのは中国語をぺらぺらと話す別人だったのですから、無理もありません。

 

 その後、キズナアイ3号がYouTube上で配信も行いました。しかしそこは様々な言語で怒声が飛び交う、地獄絵図の様相を呈しました。

 

 視聴者は3号に、「せめてぴょこぴょこの色を変えろ」「オリジナルを返せ」などと叫び、3号はそれに対して、「みんなピンクが好きだからそれはできない*1」「彼女は眠らせたりしないから安心して*2」と答えます。

 スタンスを変えるつもりはない、ということでしょうか。

 

 視聴者を突き動かすものは不安です。

 ファンの立場は様々ですが、多い声は「オリジナルキズナアイが消えてしまうのではないか」というものであり、そこから派生する「2~4号はキズナアイではない」です。

 

 私も一人のリスナーとしては、運営のやっていることは正直理解に苦しむところがありました。

 

 アズマリム、ゲーム部、そしてキズナアイと、視聴者にとっての地雷を企業は次々と踏み抜いていく。これは一体なぜなのでしょう。

 

 「単に理解が足りていないだけ」……?

 

 私もそう思っていました。しかし、Twitterで様々な意見を追うごとに、運営側のある確固とした考えが浮かび上がってきたのです

 

 

キズナアイとは何か

 

 キズナアイは、登場以来ずっと、VTuberの中心的存在として理解されてきました。様々なテレビ番組に登場し、多くのコラボを達成し、大々的なイベントを成功させる。その姿はVTuberの第一線を走る、まさに親分でした。

 

 しかし、企業にとっては、少し考えの異なる部分があったようです。

 

「ファン」と「クリエイター」

 

 ここで、「ファン」と「クリエイター」の二項対立を導入します。

 

 大まかにいうと、前者の「ファン」は、素朴的な直感をもってVTuberを視聴するリスナーのことであり、後者の「クリエイター」は理性的な分析をもってVTuberに接するリスナー、企業(特にActive8)のことを指します。前者についてはもう少し良い名前があると思うのですが、今はこれで進めます。また、この分け方は、いささか相対的なものです。そして、「後者はVTuberファンではない」とするものでもありません。以上ご理解ください。

 

「ファン」のVTuber

 

 ファンのVTuberに対する見方は、ナンバユウキ氏の三層理論*3を用いれば、パーソン(=演者)重視のものです。たとえば、にじさんじには勇気ちひろというVTuberがいます。彼女は基本幼い少女のキャラクタを纏っていますが、過去に成長した姿を纏うことがありました。しかし、キャラクタの変化にも関わらず、私たちはそれを勇気ちひろとして認識しました。

 

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初期のキャラク

 

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本人が「大人」と称するキャラク

 また、にじさんじマスコッツという企画では、キャラクターにVTuberが声を当て、会話を繰り広げています。


【マスコットコラボ】#にじさんじマスコッツ 第一話「慟哭」【ほのぼの】

 この第一回では、夢追翔はもやしに、町田ちまはハムスターに、郡道美玲はうさぎに、リゼ・ヘルエスタはひよこに扮し、意図的に声を変えるなどして配信は進行されました。

 ここでは、うさぎは郡道美玲であり、郡道美玲は演者に動かされているという入れ子構造が出来上がっています。画面にはうさぎしか映っていませんが、私たちはそれが郡道美玲であると声で認識できるし、そしてそれを隠蔽して、うさぎを「うさちゃん先生(うさぎの名前)」として楽しむことができます。

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郡道美玲


 さらにもう一つ例を出すと、にじさんじではオフコラボを度々開催していて(これ自体が既にパーソンに重みを置いた動きなのですが)、その中で、ふざけてアバターの乗っ取りが行われることがあります。モーションキャプチャーは誰に対しても反応するので、アバターを別のVTuberの演者が動かすことも可能なのです。

www.nicovideo.jp

 この動画では、郡道美玲のキャラクタを、隣の神田笑一(の演者)が動かしています。この動画では二つのキャラクタが同時に画面に存在し、一緒に発言もされているので分かりにくいですが、もし仮に郡道美玲のキャラクタのみが画面に存在していて、発せられる声が神田笑一のものだけであった場合、視聴者はどういう反応をするでしょう?

 おそらく、「神田笑一が郡道美玲の皮をかぶっている」と認識するはずです。視聴者は、「郡道美玲の声が変わった」、「その声は神田笑一のものだ」、「神田笑一が郡道美玲を動かしている」と考えます。このプロセスは、パーソンの存在を前提とするがゆえに起こることです。

 

 このように、パーソンは同一性保持に大いに貢献しています*4

 

 こういった考え方は、VTuber最大の魅力といわれる相互的関係に基づきます。にじさんじ、アイドル部、ホロライブ、あにスト*5などは、配信を主体とした活動と、Twitter戦略によって「配信する⇔コメントする」「リスナーの名前を覚える⇔応援する」といった相互的関係を築きました。

 

 にじさんじが確立したと思われるこの関係は、もともと配信を主体としていなかったVTuberたちも巻き込みました。また、TwitterVTuberの必須アイテムと化しました。そうして、VTuberは、巨大な相互的関係のシステムに取り込まれたのです。

 

 アズマリムやゲーム部の演者交代騒動に対しては、パーソンの変更にすさまじい拒否反応が起こりましたが、彼らもまた、ファンと相互的関係を結んでいたVTuberでした。パーソンが変わってしまっては、その同一性は維持できない。それがファンの考え方です。

 

「クリエイター」のキズナアイ

 

  さて、クリエイター側の話をするため、「キズナアイとは何か」に話を戻しましょう。

 まずはこのツイートを見てください。

 

 

 「キズナアイは未来のパロディ」。これを私なりに言い換えると、「キズナアイは未来に実現し得るであろう完全なAIというイデアを模倣し、人間を媒介として作られた存在」であるということです。

 

 思い出してみると、キズナアイは自身をAIだと言って譲りませんでした。私は、少し前までは「設定を守り通しているのだな」くらいにしか思っていませんでしたが、しかしキズナアイを「未来の模倣」として見てみると、キズナアイは自身を本気でAIだと言っているのではないかと、そう思えてきます。

 

 次に、キズナアイ運営のActive8がbilibiliで出した声明を参照しましょう。この声明は、先ほどの発想を一層強固なものとします。

 声明文では、声明発表の理由、キズナアイが登場するに至った経緯、キズナアイを支える「分人」という概念、「キズナアイ」のテーマ、オリジナルキズナアイの動画登場頻度低下の理由などが語られています。

 

 画像が見づらいと思うので一応要約します。

 

「この声明は虚偽の情報に対処し、キズナアイを守るべく発表する。『Project A.I.』から生まれたキズナアイの目的は、世界中の人を魅了することだ。デジタルな存在が『生きている』とみんなに認められれば、キズナアイは永遠に生き続け、それが可能になるだろう。また、キズナアイは『分人』に支えられている。『分人』とは、本当の自分は存在せず、どんな自分も等しく自分であるという概念だ。4人目のキズナアイはこれによって生まれた存在かもしれない。そして、初期ボイスモデルのキズナアイの動画登場頻度が下がっている理由は、新規ボイスモデルのキズナアイの紹介をするためだ。初期ボイスモデルのキズナアイは、歌の動画に重きを置いていた。このやり方に賛否両論あることは知っている。ただ、初期ボイスモデルのキズナアイを辞めさせるようなことはない。安心してほしい」

 

 キズナアイ分裂を支える平野啓一郎氏の「分人」など、触れたい要素が多くありますが、それはまた別の機会に譲らせてください。

 

 さて、「デジタルな存在が『生きている』とみんなに認められれば、永遠に生き続け——」とあるように、キズナアイの目的は、デジタル存在としての永久機関を作り上げることにあったのです。

 

 このデジタルな存在とは、未来に実現するかもしれない完璧な、「インテリジェントなスーパーAI」であり、その理想形(=イデア)を模倣した存在です。

 

 つまり、キズナアイとは、「キズナアイ」という一つの概念であり、目に見えるキズナアイはそこから表出した一部でしかなかったと、企業は言いたいのです

 

 プラトンの洞窟の比喩を思い浮かべると、私たちが見ていたキズナアイは洞窟の壁面に映った影であり、光源であるイデア(=「キズナアイ」)は背後にある、ということになります(ちなみにいうと、未来のAIは水面に映る太陽に相当するでしょう)。

 

 これは、素朴に動画を見ていたファンにとって衝撃的です。キズナアイ初音ミクのような、真のバーチャル的存在なんだよ、と急に告げられたわけですから。影を見つめていた人が、急に後ろを向けと言われ、その眩さに当惑している。当惑は不安を生み、混乱を招いていきます。

 

 

パーソンをめぐる争い

 

 つまるところ、企業を始めとしたクリエイター陣は、キズナアイ「中の人などいない」ものと考えています。VRChatを思い浮かべるといいかもしれません。ねこます氏のアバターや、櫻歌ミコアバター、ますきゃっとなどが同時に複数存在し、VRを楽しんでいる。

 

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http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im4474830


 アバター(=キャラクタ)とパーソンの結合はとても緩やかです。今回の分裂騒動は、VTuber界にVRChatを持ち込んだ結果ともいえるでしょう。

 そして彼らは、そういった仕組みこそが今後の表現の幅を広げ、また永久機関というビジネス的理想をも実現すると期待するのです。

 

 対してファンはそうではなく、先ほどの話から示唆されるように、「中の人はいる」という立場をとります。少し前までは「中の人はいない(が、いる)」という考え方が主流だったと思いますが、最近ではパーソンの存在が前提されるようになりました。アズマリム、朝ノ姉妹、ゲーム部など、パーソンを意識させるような出来事が重なったことも一因かもしれません。ともかく、ファンはキズナアイの「中の人」は存在していて、その彼女だけが私たちと繋がっていたとするのです。

 

 それは、先ほど述べた相互的関係のシステムに、キズナアイまでもが取り込まれていたことを意味します

 

 キズナアイは配信を行っていたし、Twitterも利用しています。すると相互的関係が自然に成り立ち、その結果、クリエイターの想定するような「中の人はいない」は崩れイデアとしての「キズナアイ」は輝きを失い、オリジナルキズナアイキズナアイの図式が出来上がりましょう。

 

 クリエイターは、こういった動きを「バーチャルらしくない」「人間依存が過ぎる」とします。

 

 

 どうやらクリエイターとしては、どうしてもその「永遠性」が欲しいようです。その理由は、次のツイートで説明されます。

 

  

 イデアとしての「キズナアイ」のような、理想的なVTuberにはメリットが山ほどあった、しかしそれはパーソンが及ぼす影響を考慮していなかった。これが企業の甘さでしょう。

 

 このツイートには、「ファンの考え方では企業がVTuberをするメリットが無い」と続きます。

 

 クリエイターとしての理想には、ファンの考えは邪魔です。しかし、VTuberはファン無しには存続しえないし、無理に押し通すと待っているのは破滅です。ですからActive8はもっと慎重に、ファンに不安を与えないよう事を進めなければならなかったのですが、説明不足ゆえに、今回の炎上を招いてしまったのでしょう。

 

 

キズナアイと観光客

 

 ここからは私の思いを書きます。

 

 私はファンの立場だと、冒頭で述べました。私が好きだったキズナアイは、「あの」キズナアイであると、今でもそう感じています。

 しかし、駄々をこねてばかりもいられません前に進まなければなりません

 

 そこで、私は東浩紀氏の『観光客の哲学』を参照します。

 

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

 

 当書は、ネット社会においていかに他者と関わるか、について述べられたものです。キズナアイはネット社会だからこそ生まれた存在です。だから、この本を参照するにふさわしいと考えます。

 

 

 東氏は、『観光客の哲学』での狙いを三つ挙げます。

 

 ひとつめの狙いは、グローバリズムについての新たな思考の枠組みを作りたいというものである。(p31)

 

 ふたつめの狙いは、(中略)人間や社会について、必要性(必然性)からではなく不必要性(偶然性)から考える枠組みを提示したいというものである。(p34)

 

 みっつめの狙いは、(中略)「まじめ」と「ふまじめ」の境界を越えたところに、新たな知的言説を立ち上げたいというものである。(p36)

 

 私はこのうち、特に二つ目と三つ目に注目して、意見を述べようと思います。

 まず「感情とキズナアイ」で企業側の姿勢について述べ、そして次に「『キズナアイ』への寛容」でファンの姿勢について述べます。前者は前提であり、私の真に言いたいことは後者にあります。

 

 感情とキズナアイ

 

 当書がいう観光客とは何でしょうか。

 それは、touristに留まる概念ではありません。何の気なしに行動して、知らぬ間に他者と連帯している、そういった存在のことです。

 

 例えばデモは政治的に有効であるとされますが、しかしそうした自由意志での連帯は、同じく自由意志で簡単に解けてしまうといいます。

 

 思想信条に基づく結社や趣味の共同体は、そもそもアイデンティティの核にならない。それらへの所属は自由意志で変更可能だからだ。自由意志に基づいた連帯は自由意志に基づきたやすく解消される。(p210)

 

 観光客は素朴的で、言ってしまえば何も考えていません。しかし、東氏はそういった者たちこそが、「イデオロギーを失ったこの世界とどう関係を持つか」という問いに答えを与えてくれるといいます。

 それは、新しい連帯の仕方によってです。

 

 ぼくの会社では、(中略)希望者をチェルノブイリの旧立入禁止区域と事故を起こした原発構内に案内するツアーを開催している。(中略))そこで彼ら<=ツアー参加者>が口を揃えて漏らすのが、チェルノブイリは想像していたよりも遥かに「ふつう」だったという感想である。(p55)

 

ひとは、自分が「ふつうではない」と思い込んでいた場所に赴き、そこがふつうであることを知ってはじめて、「ふつうではない」ことがたまたまそこで起きたという「運命」の重みを受け取ることができる。(p57)

 

 観光は、好奇心だとか、幻想だとかを契機として、基本的には何の気なしに行われます。しかし、現地に赴いてみると、思ってもみなかったことが眼前に現れ、それについて考えるうちに、観光客と遠いところとの距離は、ぐんと近いものになっていきます。

 

 そして、そういった何の気なしの行動は、いつの間にか連帯を生んでいく。

 

 特に大事なのは、この連帯が、「憐み」によって生まれるものであるということです。

 

 東氏は、 自由意志での連帯はもう期待できない状況で、ならばどういった集団をモデルにすればよいかと問います。階級は共産主義的でダメ、土地はグローバリズムの世界で拠り所になり得ずダメ、血や遺伝子は人種主義に繋がるからダメ、ジェンダーはヒトを分けるには粗く、思想信条に基づく結社や趣味の共同体は、先に引用した通り使えない。

 そうした排除の結果、残されるのは「家族」のみだと答えます。

 東氏は、家族には三つの特徴があるといいます。強制性、偶然性、拡張性です。

 家族は簡単に出入りできず、感情の強い結合があり、合理性を越えた強制性を持ちます。また、親は生まれてくる子どもを選ぶことができません。

 そして、家族は血縁で基本的に拡張しますが、実際拡張はそれだけではありません。たとえば養子も、犬や猫などのペットも、時には家族とみなされます。その拡張を支えるのは、憐みです。

 東氏は拡張性の話に特にページ数を割いているため、私はこの拡張性が特に重要であると考えられます。そして家族とは、観光客による連帯の別名です。

 そのため私は、連帯には憐みが重要であると読み取ります。

 

 以上、大雑把ですが、観光客とはこのようなものであると説明しておきます。

 

 みなさんお気づきでしょうが、この記事でいう「ファン」が、観光客にあたります。

 

 ファンは積極的理由なしに、たとえばYouTubeのおすすめに促されるがままにキズナアイに触れ、キズナ*6になりました。 

 

 ファンは、キズナアイとの素朴的な相互的関係のなかで、自然に連帯していきました。それは、「憐み」であり、まさに「愛(アイ)」によるものでした。そうでなければ、今回のような憂いの声は聞かれないでしょう。

 

 もし仮に、それが理性的な、つまりこの記事でいうクリエイター的な連帯であれば、事態はどうだったでしょう。粛々と「キズナアイ」化が進んだという以前に、キズナアイにファンはついていません。彼女に熱中する人がいて、初めてキズナアイは成立するのです。

 

 ファンとクリエイターは、いわば「主人と奴隷」です。奴隷は主人がいなければ生きていけず、主人は奴隷がいなければ生きていけない。どちらがどちらということではなく、お互いへのリスペクトがなければ、「キズナアイ」は死ぬし、VTuberは衰退の道をたどる一方です。

 

 これは至極当然のことを言っています。ですが、以前にあった騒動も、今回の騒動も、少々歩み寄りが足りないと感じます。

 

 企業なりの理念があるのは結構。しかし、それを実現するにあたっては、ファンの感情をきちんと「算段」に入れてほしい。そうであれば、ファンも少しずつ理解を示してくれるはずです。

 

 

キズナアイ」への寛

  次にファンの話に移りましょう。

  企業からの歩み寄りがあったと仮定して、ファンにとっての「理解」の筋道を、私は提案します。

 

 前掲書では、最終章でドストエフスキーを参照し、観光客のまた別の主体性を探っています。

 東氏は、ドストエフスキーの小説には弁証法があるとし、その筋道を辿りました。 

 『地下室の手記』の主人公は、ユートピアという理想主義を否定したマゾヒスト。『悪霊』の主人公スタヴローギンは、マゾヒズムの反転したサディストであり、ニヒリスト。 

 そして、それらは『カラマーゾフの兄弟』で集大成を迎えます。『カラマーゾフの兄弟』では、四人兄弟のうちの一人、イワンが、スタヴローギンの性格を継承し、ニヒリズムに覆われたテロリストのような人物として描かれています。

  イワンを弁証法的に乗り越えるのは、その兄弟であるアリョーシャです。

 

 ニヒリストであるイワンは、アリョーシャの信仰にある議論をもちかけます。東氏の要約は次の通りです。

 

 ——なるほど、神はもしかしたらいるのかもしれない。救済もあるのかもしれない。何百年か何千年かのち、すべての罪人が許され、あらゆる死者が復活し、殺人者と犠牲者が抱き合って涙を流す、そのようなときが到来するのかもしれない。しかし問題は、「いまここで」痛めつけられ辱められている、罪のない子どもたちが無数にいることである。そんな彼らの苦痛と屈辱は、未来の救済によっても償われない。神はこの問いにどうこたえるのか? (『観光客の哲学』p293,カギカッコは傍点ルビ)

 

 この問いは、存在の固有性にかかわるものです。

 「子どもは救われるというが、子供の『いまここ』の苦しみは消えない」。イワンの嘆きは、そういった「この」性に基づきます。

 イワンおよびスタヴローギンのニヒリズムは、固有性に囚われたが故のものだったのです。

 そしてそこから脱する鍵は、ジューチカという犬の寓話にあると東氏はいいます。

 

 イリューシャ(小説に登場する中学生)はもともと、野犬の一匹をジューチカと名付けてかわいがっていた。けれどもあるとき、スメルジャコフカラマーゾフ家の使用人)に唆され、針の入ったパンを食べさせてしまう。ジューチカは鳴き叫んで走り去り、そのまま消えてしまった。病床に伏せたイリューシャは、そのことをずっと気に病んでいる。そこでコーリャ(イリューシャのクラスメイト)は、そっくりな犬を探し出し、イリューシャに贈ることにする。発見された新しい犬は、ペレズヴォンと名づけられ、ジューチカでは「ない」ことになっている。しかしイリューシャは、ペレズヴォンをひとめ見てそれがジューチカだと確信し、たいへん喜ぶことになる。その犬がほんとうにジューチカだったのかどうかは、誰にもわからない。

(p296,かっこ部は筆者,かぎかっこは傍点ルビ)

 

 消えたジューチカに心を痛めていたイリューシャのもとに、「ジューチカ」が帰ってくる。ジューチカはそもそも一匹の野犬で、だからこそ、イリューシャはジューチカでもありペレズヴォンでもある、"ジューチカ的なるもの"と新しい関係を築くことができたと、東氏はいいます。

 

 物語ではその後、イリューシャは死んでしまいます。父親もまた、それに対して「この」イリューシャがなぜ死ななければならなかったのか、そしてイリューシャが我が子であったのはなぜかと叫びます。

 

 ある子どもが偶然で生まれ、偶然で死ぬ。そして、また新しい子どもが偶然に生まれ、いつのまにか必然の存在へと変わっていく。イリューシャの死はそのような運動で乗り越えられる。

 

 つまり、「この」性による悲しみを癒す一つの手段が、偶然を受け入れることなのです。

 

 私が何を言いたいか、分かり辛いでしょうか。

 

 この記事で言う「この」性に囚われた存在とはファンのことで、その悲しみの対象とはキズナアイのことです。

 あるファンは、「この」キズナアイという神を失い、自暴自棄になっています。それは一種の、ニヒリズムの憑依です。

 それを解消する手段の一つは、偶然を受け入れるという、寛容の、多様性の論理だといえます

 キズナアイが「この」キズナアイであるのは「偶然」であった、そういう見方を私は紹介したいのです。

 

 これは結局のところ、イデアとしての「キズナアイ」を認める提案です。ですがオリジナルキズナアイは出番は少ないとはいえ、今のところ健在なのです。であれば、偶然に私たちに出会った2号、3号、4号のキズナアイと新たに関係を築いていくことも可能なのではないでしょうか彼女らを新たに受け入れることも可能なのではないでしょうか。そうして、また私たちは見知らぬ世界へと繋がっていく。それが観光客的な、ファン的な態度というものです。

 

 

総括

 

 私たちの、ファンにとってのキズナアイは、絶対的な存在ではなく、相対的で偶然的な存在になりました。その意味で、キズナアイは死にました

 

 しかし、今から分裂に否をつきつけることはできません。クリエイターの論理からはもちろん、ファンの論理からもです。

 

 なぜなら、ファンにとってVTuberは不可逆的だからですキズナアイ2号にも、3号にも、4号にも、少なからずファンがいます。突然それが奪われたら、そのファンはどう思うでしょう。

 

 私たちは感情を尊重しろといいます。では、等しく他者の感情も尊重しなければなりません。

 

 であれば、どうにかして受け入れるか、去るか、それしか道は無いはずです遺憾なことに

 

 ——もしVTuberに四つ目の身体として「声帯(Vocal Cord)」があれば、つまりパーソンが変わっても声が変わらなかったとしたら、まだ痛みは少なかったかもしれませんが。そうはいかないのでしょうね。

 

 幸いにも、オリジナルキズナアイは出番が減っているだけだと運営は言います。今は信じましょう。もし嘘なら、声を上げましょう。

 ともかく、今できるのはそれだけです。

 

 

 

 P.S.夢月ロアもよければ見てください

 

 

 

参考文献

 

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

 

 

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

*1:I have been listening to everyone, they want me to change color or something, sorry but I can’t do that since we all like pink.

*2:Don’t worry, I won’t let her fall asleep.

*3:ユリイカ2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber,『バーチャルユーチューバーの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ』

*4:にじさんじに限った話ではないか、という意見もあるかもしれませんが、そもそもにじさんじはファン側の見方に立ったブランドです。今回の騒動でも、「にじさんじを見習え」といった意見を目にしたでしょう。にじさんじには引退があり、またパーソンの表出、つまり公式設定にない発言を特に制限しない傾向にあります。パーソンを重視した結果です。

*5:あにまーれとハニーストラップの総称

*6:キズナアイのファンのこと