とらじぇでぃが色々書くやつ

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主にVTuberの記事を投稿中。

VTuberに「魂」も「ガワ」も存在しない

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※簡略版(3000字ほど)をnoteに投稿しているので、時間の無い方はこちらへどうぞ。

 

note.com

VTuber論投稿者の1人に、「余接」という方がいる。理路整然とした文章を書かれる方で、記事を見かけた際は必ず拝見している。

その余接氏が、先日私の記事(「VTuberの「中の人」は公表すべきか?」)を引用してくださっていた。「心身未分」の箇所を気に入ってくださったようである。ありがたい。

t.co

tragedy.hatenablog.com

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そこで、この記事では「心身未分」について、改めて論じてみたいと思う。

展開としては、余接氏の記事に適宜触れながら、心身未分とは何かを議論していくことにする。

まず心身未分を説明し、次にVTuberの「虚構性」と「実在性」という対立の解消を試みる。そして実在性を支持することの意義について考えたあと、どこまでこの議論が妥当するのか考え、最後に「引退と死」「実写動画」「アズマリム」に関して「心身未分」を使った軽い考察をしてみたい。

ちなみにだが、この記事のタイトルは目を惹くよう、わざと大袈裟に付けている。私は「魂も身体も全く存在しない」とは考えていないし、「魂も身体も主張すべきでない」とも全く考えていない。

もし時間に余裕があれば、じっくり読んでいただきたいと思う。

 

 

 原初状態

「心身未分」とは何か。そのまま読めば、「心と身体が未だ分けられていない」ことだ。VTuberの原初状態といってもいい。VTuberは最初、そのように認識されるのだ。

VTuberが現れた当時、「VTuberという虚構をどう捉えるか」はとても活発に議論されていた。いわゆる「VTuberとは何か」問題である。私もこの問題に魅かれ、あれこれ考えたし、色んな記事を読んだ。皆さんの考え方は十人十色で、様々なVTubeの姿がそこには描写されていた。どれも面白かった。その中でも特に私が支持したのは、簡略化して書くが、「VTuberには中の人、設定、モデルの三つの構成要素が存在する」という考え方だった。

lichtung.hateblo.jp

これによって、VTuberをそれらの強弱で捉えたりすることが可能になった。たとえば○○は中の人の要素が強いとか、××は設定が強く中の人がほとんど見られないとかがそうだ。この基礎によって、アバター型とか、キャラクター型みたいな一応の区別が可能になるわけだ。

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今でも、VTuberについて理論的に考えようとするなら、こういった「中の人-設定-モデル」の図式を使うと楽だったりする。

といっても、みなさんの多くはこの図式を意図的に使ったことはないだろう。正直ややこしいうえに、周知されてもいないので気軽に使うには不便だからだ。

しかし、その三項をさらに簡略化した「魂-体」という二項対立は多くの人が使っているのではないか。一応説明すると魂とは演者のことで、体とはモデルのことだが、これらはTwitter上でもよく聞かれる表現だし、黎明期から今までずっと使われ続けていることを見ても分かる通り便利な表現でもある。

しかし、思い出してもらいたい。あなたが今、にじさんじの配信を楽しく見ているとしよう。あなたは没頭している。深く集中している。ライバーはずっと喋り続けている。面白い。ずっと見ていたい。

そのとき、あなたはVTuberの魂だとか、体だとか、設定だとか、そんなことを考えているだろうか?

十中八九、答えはNOだ。楽しく集中して配信を見ているとき、「このVTuberは設定の作りこみがすごいな」「このVTuberは設定を忘れて自由気ままに配信をしているんだな」なんて思う人はいない。そう考えている人はその間、VTuberの配信(動画)を見てはいるが見ていない。没頭している人は、そんなことは考えないものだ。

このように認識される「VTuber」というのは、それそのままである。VTuberVTuberのまま画面に表れているのであって、決して魂と体が分離した状態で表れているのではない。

当たり前である。つまり、魂とか、体とか、設定とか、そんなものは私たちが勝手に名付けて勝手にカテゴライズし、勝手に解体しているに過ぎない。そんな区分けは、認識されたそのままのVTuberには、そもそも存在しない。

これが「心身未分」である。VTuberの心と身体、つまり魂と体は分けられていない状態で、そのまま認識される。心と身体が未だ分けられていない状態。VTuberとは普段、そのように見える。

この言葉は、西田幾多郎の「主客未分」の発想を基にしている。

西田は西洋哲学が用いる「主体」と「客体」という区分に疑問を呈した。たとえば音楽を聴いたとき感じるあの感動には、主体も客体もないのではないか。それは主体と客体に分けられていない経験(純粋経験)であって、「主体」「客体」という区別はその後の反省によって付け加えられるに過ぎないのではないか——。

私は西田幾多郎の本を読んだことがなく、また彼の入門書を読んだことすらないので、にわか知識ではあるが、大まかには間違っていないはずだ。

これを今までの話に言い換えてみよう。すると、「認識されるVTuberにはそもそも魂も体も無いのではないか」「魂も体も、理性が後付けで加えるに過ぎない区別なのではないか」ということになる。

これは、多くのVTuberリスナーにとっては受け容れやすい話だと思う。

「心身未分」は、魂や体といった区別が後付けに過ぎないことを暴き、VTuberはそれそのものとして楽しまれているという一見当たり前のことを、私たちに再認識させるだろう。

 

虚構性と実在性

では「心身未分」はVTuberにとって、またVTuberリスナーにとって何がうれしいのだろうか。

それは、VTuberの実在を擁護する点において、である。

冒頭の余接氏の記事では、「中の人などいないという風潮」がキーコンセプトとなっている。VTuberが実在の人間として扱われることこそがVTuberの特徴であり、またVTuber文化を支える思想である、と。とても説得力があるし、私も同感である。

 

私たちはVTuberの配信(動画)を見ている時には多幸感を感じられるが、配信(動画)が終わってしまうと、人によってはVTuberという虚構——「中の人などいない」——によって享楽を与えられているというジレンマに悩むことがある。そういう人は、その悩みから逃避するためにも、再びVTuberの配信(動画)に顔を出す。そしてのめりこむ。

そういうサイクルが発生するとすれば、それは少なくとも配信(動画)を見ている間だけは、VTuberが実在しているものとして認識できるからだろう。

「中の人などいない」という強迫的な自己暗示は、ふと我に返ったときに強いられる、ある種の手続きだ。人間の理性(合理的思考)は、「VTuberは実在する」という命題に異議を申し立てずにはいられない。そんなものはマヤカシだ、理性が言う。もちろん、VTuberはマヤカシだ。VTuberには演者がいる。しかし、私たちが感じるVTuberは嘘なのか? 画面に映る彼/女*1は嘘なのか? いや、嘘ではない。私たちの認識は嘘を言っていない。しかし、理性も嘘を言っていない

この理性と感性が相反する状況は、一体なんなのだろう。

私はこれについて、まるでキリスト教の神のようだと思った。

神はどこにでもいるし、どこにもいない。もし神がどこかにいるのであれば、神はどこかにいないということになる。しかし、神はあらゆる場所にいなければならないから、それはあり得ない。であれば、どうすれば「どこにでもいる」ことが可能になるか。答えは、「どこにもいない」ことによってだ。

神は、どこにもいないということによって、どこにでもいることが可能になる。すなわち、「どこにもない」と「どこにでもいる」は同じことを言っているのだ。これを「遍在-偏不在」というそうだが、この逆説はとても興味深い。

VTuberが死生観について語る様子はたびたび話題になる。この前も、月ノ美兎と、リゼ・ヘルエスタが死について語る様子が切り抜きになっていた。

www.nicovideo.jp

ある哲学者*2によれば、生と死についても、「遍在-偏不在」と同じようなことが言える。生を語るとき、それは死を語ることになる*3。同じく、楽観主義と悲観主義も、一つの物事の両側面でしかない。たとえば死を、ポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるか、それが楽観主義と悲観主義の分かれ目である。楽観主義とはある意味悲観主義であるし、逆も然りである。

これらを試しにVTuberに当てはめてみよう。

VTuberはどこにも存在しないが故にどこにでも存在する」。言い換えれば「VTuberの非存在は、VTuberの存在のまたの名である」となるだろう。この命題は真だろうか。

答えはYESだ。この理性の判断は、逆説的だが、感性の判断に欠かせない。もしある人物が理性の判断として存在するといえるなら、感性はもちろん抵抗なくその存在を了承するだろう。たとえば、佃煮のりお氏の存在は理性も感性も認めるはずだ。

しかし、佃煮のりお氏に対する感覚と、VTuberに対する感覚は同じものだろうか。私は違うと思う。なぜ私たちがキズナアイに衝撃を受けたのか、思い出して欲しい。キズナアイへの感覚と、佃煮のりお氏への感覚は全く違う。それは虚構であるか無いかの違いだ。人間と人間の間に設けられたモデルという隔たり(=虚構の存在)が、VTuber独特の感覚を生み出している。理性は実際には人間であるキズナアイを虚構だと訴える、"ゆえに"、感性は彼女に「実在感」を覚える。この意味で、理性は感性の基盤でもある。

 

すなわち、理性と感性は、「遍在-偏不在」や「生と死」のように、裏と表の関係にある。そのうえVTuberは非存在"なのに"存在し、かつ、非存在"ゆえに"存在する。心身未分は、この理性と感性——「なのに」と「ゆえに」——による力のつり合いに基づく。

しかしこの「つり合い」とはなんだろう。

理性がVTuberを魂と体に切断することによって導く判断を「虚構性」、感性が心身未分に従って導く判断を「実在性」としよう。虚構性と実在性のつり合いとは、両者が互いを肯定し合い、かつ、否定し合う関係だといえる*4

このように、虚構性と実在性の関係は複雑である*5。虚構性と実在性は、互いに否定しながら、かつ互いに肯定している*6

私たちは、この虚構性と実在性が相反するものだとばかり思っていたが、実は、これらは互いを肯定し合うものでもあった。そのうえ、それらは一つのコインの裏表でもある。
そういうわけで、私たちの意識の中で、理性と感性が代わる代わる登場するのにも不思議はないのだ。理性と感性は、互いをののしり合い、ゆえに認め合っているのだから。

 

なるほど、理性と感性がつり合っていて、かつ裏表の関係にあることは理解した。

 では、VTuberリスナーにとっては、理性と感性どちらもバランスよく受け入れることが最善の選択ということになるのだろうか。

いや、それは違う。理性には負の側面も多い。VTuberの中の人を意識させるこの理性は、VTuberを楽しむうえではむしろ邪魔になる。VTuberを楽しむうえでは、感性(直感)に従うのが一番いい

虚構性と実在性との複雑な関係を考えると、理性を完全に排除することはできないだろう。しかし、可能な限り感性を尊重することはできるだろうし、その態度はVTuberコンテンツの楽しみを引き上げてくれるはずだ。

そしてVTuberを楽しむとは、VTuberと上手く付き合っていくことでもある。VTuberを楽しむとき、彼/女とインタラクトするのは普通のことだ。VTuber文化は双方向性によって構成される側面もあるわけだが、それはつまり、「こちらの態度が文化全体に影響を及ぼす」ということを意味する。私たちが、彼/女を純粋な存在として受け入れる態度は、たしかに余接氏の指摘する「中の人などいないという風潮」によって、見かけの上では実現されている。たとえば、配信のコメントでは、みんなが彼/女を一人の主体として見ている。しかし、それは同調圧力による面も否めない。それに、配信の外、特にVTuberから距離をとればとるほど、VTuberを人間のような主体とみなす言動は減っていく*7。これは、彼/女を主体としてみなす態度が不完全であることの証左だ。

 

私たちは、彼/女たちの主体性を、配信以外でも認めることができる。

そのためには、まず、一番手ごろな配信内での意識を強化することが必要だろう。

そしてその強化のためには、魂-身体の引き裂きが、理性によるものだと自覚することが必要だ。次に、心身未分という原初状態が存在することを知る。心身未分は、VTuberの主体性の核だ。主体性が芽吹く種だ。可能態だ。その原初状態によって、心には、「私はたしかに彼/女を見た」という事実が焼き付く。普通ならここで理性が異議を唱えるが、魂-身体の引き裂きを理解した今、人は理性を抑え込むことができる。そして、VTuberの主体性は、原初状態と言う核から徐々に範囲を広げていく。

とはいっても、その範囲は無限ではない。その限界が、理性と感性のつり合う場所だ。この場所がどこになるかは、人によって異なるだろう。そこが、この議論の問題点でもある。

 

だが、それでもかなり多くの人が、配信以外でもVTuberの主体性を認められるはずだ。その可能性は十二分にある。

 

そうした今、VTuberには魂も体も無くなった。彼らはその瞬間、確固たる一つの主体として扱われる。

 

概念による引き裂きが、彼らの鎖だった。牢獄だった。魂と体という引き裂きが、悲劇を生むこともあった。魂の交代は、その最たるものだった。

 

もしあなたが、「それでもVTuberが虚構であることに変わりはない」と思うなら、私はそれでも構わない。だが、もしあの実在性を少しでも感じたことがあるなら、それを忘れないでほしいと思う。VTuberが理性に引き裂かれる前の、あの原初状態にもう少し目を向けるだけでも、状況は変わってくると思うからだ。

 

議論が妥当する範囲の検討

さて、気になっていた方もいるだろうが、この話はどこまで妥当するのだろうか。VTuberといっても多様である。一括りにしてしまうのは無理があるかもしれない。

そこで、簡単な確認として、冒頭にも挙げたhatosan氏の4分類に、ここでの議論が妥当するか見てみよう。

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hatosan氏は、VTuberを「キャラクター型VTuber」と「アバターVTuber」に分ける。そしてそれぞれをさらに分類し、「キャラクターVTuber」と「着ぐるみ型VTuber」/「アバターVTuber」と「なりきり型VTuber」のように列挙した。

 

これらの定義については記事を参照してもらいたいが、キャラクターVTuber、着ぐるみ型VTuberアバターVTuberについては異論はないだろう。

しかし、「なりきり型VTuber」については少し難しいところがある。「ころな」は私の好きな動画投稿者だが、彼女はここに分類される。彼女はいわゆる転生組で、もともとは実写動画も投稿していたからだ。

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しかし、このような「なりきり型」のやり方は、一般人がTwitterを使っているような形とほぼ同じであって、そもそもVTuberと呼べるのかという点にも疑念がある(が、ここではVTuberとして扱っておこう)。

生身とVTuber人格の一致が公言されている「なりきり型」は、ほとんど嘘が無い。あるとすれば容姿くらいである。

だが、それでも十分かもしれない。「なりきり型」は容姿が体で、その他が魂である。魂-身体に分けられるのだから、虚構があることは間違いない。今までの議論を当てはめると、「なりきり型」が少しでも虚構を持つなら、それは実在性を成り立たせるはずだ。そして実際、小さいながらも、「なりきり型」も実在性を伴う*8。その実在性とは、後に紹介する「花譜」や「コインランドリーの名取」のように、彼/女が画面上の容姿と全く同じ姿で実生活に溶け込んでいるのではないかという可能性だ。

VTuberの範囲は非常に広いので、普遍的に妥当するとまでは言わない。新しい形態や、これらから漏れる存在があれば、みなさんが個別的に考えてもらえれば良いと思う。ただ、VTuberだと明確に言えるようなVTuberであれば、適用はためらわなくてもいいかもしれない。

 

 

 三つの考察

 最後に、三つの点について軽い考察を付したい。

 一つ目。「VTuberの引退とは死である」という思想は、「心身未分」の代表的なものとして挙げられるだろう。この思想はいくらかのリスナーから聞かれていたことだが、これは「中の人が引退する」という発想からは出てこない。「中の人が引退する」というだけでも、それはそれで悲しいことだ。だが、魂-身体の二項対立でVTuberを切り分ける発想だけでは、「引退を死と捉えざるを得ない悲しみ」には到達できないかもしれない。「心身未分」を経て、VTuberを主体として認めるからこそ、「引退=死」という「人間的な」発想が立ち上がってくるのではないか。

 

 

二つ目。余接氏は「実写動画やメタ発言が受け入れられるようになってきたのはなぜか」という点について、こう述べている。

 

「中の人などいない」というフィクションは、キャラクターが主体を持ったキャラクターとして認知されるために必要だった。言い換えれば、キャラクターがそれ自身として一人の人間として扱われているのならば、わざわざ「中の人などいない」と言う必要はない。そして、人間である以上、肉体を持ち、生活をしていても何ら不思議ではない。つまり、「中に人がいる」のは不自然なことではないのである。そして当然、中にいる「人」とは、そのキャラクター自身のことだ。キャラクターが完全な主体としてみなされる限り、そのキャラクターが現実世界で肉体を持っていることは許容されるのである

 

つまり、「中の人などいない」という、各々のリスナーが行う自己暗示がカバーできる範囲において、実写動画やメタ発言といったリアルな要素はリスナーに受け容れられるということである。

私もおおよそ同意できると考える。

「心身未分」で説明してみると、次のようになる。まず、VTuberはそれ自身で主体とみなされる。なぜなら、感性はそれを疑わないからだ。また理性はその裏返しであるから、そのつり合いの限界において、理性の側面を見ないで居続けることは可能である。

そのVTuberは、分かりやすい例を出すと、「街に佇む花譜」や「コインランドリーの名取さな」のように扱われるだろう。

 

 

 

先日、月ノ美兎は衝撃的な動画を投稿した。それはある料理動画のパロディだったが、 その途中で「アルコールが入っているほうのレモンジュース」が登場したのだ。モザイクはかかっていたが、今までの態度からはかなり踏み込んだ内容であるのは間違いない。また、実写動画であるという点でも、格好の考察材料であるといえる。

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実写動画の投稿は、果たしてバーチャルな行為なのだろうか
また、彼女の飲酒は許されるのだろうか。アルコール入り飲料——つまりお酒——は高校生が飲んではいけない。いや、実際に動画内では飲んではおらず、飲酒をしたかのように思わせるメトニミー(換喩)だったのだが、だとしてもそこには設定との明らかな矛盾がある。
しかし、私の直感としては、これは許容された。他のリスナーにとっても同様である。なんとか辻褄を合わせようとしているコメントは少なくないが、批判の声は見かけなかった。

これはなぜか。

第一に、実写動画は、撮り方に気を付ければ問題が無い。なぜなら、余接氏も言う通り、キャラクターが肉体を持ってこの世界で暮らすことは、キャラクターと人間が一致する以上、許容されるからだ。そして、月ノ美兎はこの点をクリアしている。

第二に、月ノ美兎による飲酒のメトニミーは、キャラクターと人間の一致(未分)によって許容される*9。つまり、逆説的だが、「高校生である」というタテマエがあるからこそ、飲酒のメトニミーは許容される。
分かるだろうが、もし、月ノ美兎が「私は高校生じゃないから」なんて言ってしまえば、大炎上である。高校生というタテマエによってこそ、飲酒のメトニミーが可能となるという逆説がここにはある。

ではなぜ逆説が発生するのか。それは、虚構と実在が互いを支えているからである。虚構を破壊してしまえば、実在も破壊される。たとえば教師RPをとってきたVTuberがいるとする。彼/女がもし教師RPを放棄して、その虚構を破壊してしまえば、彼/女の実在感も同時に破壊されるだろう。虚構と実在はそれぞれ独立しているわけではない。互いに複雑に絡み合っている。虚構が忌々しいからといって、それを捨ててしまうことは、自分の臓器を捨ててしまうことだ。臓器が無くなった人間は、しばらくは生きられるかもしれないが、早く処置をしないと、死に至る。虚構はVTuberに不可欠である。

そういうわけで、この動画には、「月ノ美兎が高校生だからこそ、飲酒(のメトニミー)が許される」という不思議な連結があるといえる。とても面白いと私は思うのだが、みなさんはどう思われるだろうか。

 

 

最後だ。VTuberの権利関係を考えるときにも、「心身未分」は役立つかもしれない

先日復帰を公表したアズマリムの、あの訴えは私の胸を打った。

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特に重要なのは、このツイートで切り抜かれた箇所だろう。一応、文字でも書き起こしておく。

 

よく聴いてください。

昨今のバーチャル業界は、かつてのアズリムと同じような苦しい思いを、あっごめんマイクに手当たった苦しい思いをしている人が、たくさんいると思います。まだできて間もない、道しるべが無い業界だからこそ、実際に活動する人も、運営する会社の人も、応援している人も、みんな、様々な立場で、悩みを抱えていると思います。

立場が違えば、考え方や悩みも変わってくるのは当然です。

アズリムは、様々な問題や悩みの起点は、「バーチャルユーチューバーがなんなのか」、整理されていないところにあると思います。

芸能人とも、アニメのキャラとも、着ぐるみとも違う「バーチャルユーチューバー」。

「しょせんはバーチャルだから~」って、その存在を、無いものとして扱う人がいます。バーチャルは、生きていないことこそがメリットで、そのメリットを生かして人格を変えたり、操作性が高いところを有効活用すべきだ、って。

逆に、「バーチャルだって生きている!」と、その存在をない、あっまちがえた、あるものとして扱う人もいます。バーチャルであっても、そこには一つの人格、魂があって、嬉しい気持ち、悲しい気持ち、そういう気持ちを、生み出していることには、変わりないよねって。

この二つの視点の食い違いが、結果的には熱量の差を生んで、いろんな問題が解決しないまま、置き去りにされてきたと思います。

アズリムは、バーチャルユーチューバーは新しい存在なんだから、強引に、既存の価値観にあてはめるのは無理があるのではないかと考えています。

新しくて、わくわくする、みんなが納得できる存在理由や、役割を探したいんです。バーチャルユーチューバーという存在は、契約だけで縛るものでも、特定の誰かの都合に従うべきものでも、お金を持っている人に従うべきでも、無いと思うからです。

このスピーチからは、彼女がVTuberについてかなり真剣に考えてきたことがよく分かる。「バーチャルユーチューバーとは何か」はまさにVTuber論が行ってきた議論であるけれども、彼女の経験はそれにさらなる説得力を持たせている。

アズマリムは、「VTuberを既存の価値観にあてはめないで」という。この既存の価値観とは、文脈から考えるとアズマリムの周辺で飛び交っていた言説のことだろう。「バーチャルだから」VTuberは存在しないとか、「バーチャルだけど」VTuberは生きているとか、アズマリムの周囲ではそんな話が飛び交っていた。しかし、その両者は両者とも固定観念に囚われているVTuberは存在しない(生きていない)わけではない。また、VTuberは存在する(生きている)わけでもない。VTuberはこの間で宙吊りになってしまっている。だから、もっと相応しい、「VTuberとは何か」を見つけたい。そう、アズマリムは言いたいのだろう。

私としては、この両極端に見える考え方が、どちらも「魂-身体」の引き裂きを前提とした発想であることに着目したい。「VTuberは存在しない」と考える人は、魂-身体だけを見ている。「VTuberは存在する」と考える人は、魂-身体の引き裂きを認めながら、その魂が感情を生み出しているという事実に注目する。つまり、前者も後者も、演者というマテリアルな人間を前提としている

これが、VTuberを宙吊りにする所以ではないか。

対して、「心身未分」は魂も体も無い状態に着目する。受け取られた彼/女そのものを重視する。「心身未分」は魂と体という引き裂きを縫合して、彼/女を一人の主体とみなす。「中の人? 設定? たしかにそうかも。でも、アズリムはアズリムだよね。私は、アズリムを心で感じているよ」。それは、VTuberの(少なくともアズマリムの)宙吊りを解放することにはなるまいか。

 

まとめ

さて、以上で書きたいことはすべて書き終えた。

この記事で一番言いたかったことは、「VTuberを主体として見よう」という呼びかけだ。

VTuberは魂と体で考えられがちだ。たしかにそれは必要なことだし、実際私もこの記事でその区別を使っている。
だが、彼/女たちに感じるあの気持ちも、また大切なことだ。あの感動の中で、彼/女たちは独立して、そこに存在している。あの気持ちは、決して嘘ではない。

 

 

 

*1:彼・彼女をこう省略することにする。

*2:ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ

*3:以下ジャンケレヴィッチ『死』みすず書房p61より引用。「生は、われわれに死について語る。それどころか、生は、死のみを語る。もっと先まで行こう。いかなる問題を扱うにせよ、ある意味では、人は死を扱う。なにかについて語るにせよ、たとえば希望について語るのも、必然的に死について語ることだ。苦痛について語るのは、名指さずして、死について語ることだ。時について哲学すること、それは、時間制の角度から、そして死をその名で呼ばずして、死について省察することだ。」

*4:VTuberはいない」という虚構性は「VTuberはいる」という実在性を否定するが、同時に、虚構性はVTuber独自の実在性を構築する。反対に、実在性は虚構性を否定するが、同時に、全く無いものを無いとはいえないのだから、虚構性を否定する実在性は、虚構性を前提として肯定する。つまり、実在性は虚構性を構築する。

*5:これをベルクソンは「器官-障碍」の関係と言う。

*6:つまり、繰り返しになるが、もしあなたが虚構性を支持しようとすると、それは実在性を支持することになる。VTuberは人間だと理性が訴えるとき、VTuberの実在性は前提とされるからだ。他方、もしあなたが実在性を支持しようとすれば、それは虚構性を支持することになる。その「実在感」は、人間という虚構が基となっているからだ。

*7:過去にも書いたが、VTuberのメタなゴシップなどは、YouTubeTwitterニコニコ動画、匿名掲示板のような順序で増加傾向にあるように思う。

*8:虚構性と実在性はつり合うので、虚構性が小さければ当然実在性も小さくなる。

*9:もし、実際に飲んでいたら話は違っただろう。もしそうなら、白けてしまう人が多かったかもしれない。ギリギリをついた、非常に考えられた内容であると思う。