とらじぇでぃが色々書くやつ

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ウマ娘をプレイすることに葛藤がある話

 

ウマ娘の勢いがすごい。
アニメ二期は大成功、マンガ(『シンデレラグレイ』)も本屋を何軒回っても見つけられないほどに好調で、何よりアプリゲームは世界の有名ゲームとも引けを取らない人気ぶり。一時は不安視されていたウマ娘だが、数年越しに逆転大当たりの様相だ。

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ウマ娘」とは、Cygamesが企画するメディアミックスプロジェクトであり、またその作品群におけるキャラクターたちの総称でもある。「ウマ娘」が提供するのは、過去に活躍した競走馬たちの擬人化コンテンツだ。トウカイテイオーオグリキャップなど、競馬に明るくない人でも名前くらいは聞いたことがある、そんな「名馬」たちがウマ娘プロジェクトでは美少女キャラクターに擬人化される。そして彼女たち自身が、自身のその脚で、芝やダートを駆け抜ける(美少女が馬に跨って走るわけではない)。

ウマ娘はメディアミックスプロジェクトなので、前述の通りアニメやマンガなど様々なメディアでコンテンツが発信されているわけだが、すべてに触れていると記事が長くなるだろうから、ここでは話題をアプリゲーム「ウマ娘 プリティーダービー」に絞りたい。

さて、かくいう私も、そのウマ娘のプレイヤーの一人だ。手を出す前は如何ほどのものかと思っていたが、実際プレイしてみると、このゲームがなぜ人気なのかとてもよく分かる。

その最大の理由は、やはり徹底された作りこみだろう。それはクオリティの高い3Dモデルや、アニメのように目まぐるしく変化する表情、ライブ演出、レース演出、実況など、様々な箇所に見て取れる。そして何より、元ネタである競馬へのリスペクトがしっかりと為され、史実が(アレンジされつつも)随所に細かく反映されている点からは、このゲームの本気度がとてもよく伝わってくる。

ウマ娘はそれ単体でも育成ゲームとして非常に質が高い。だが、競馬の歴史を調べると、話に深みが出てきてコンテンツをより楽しむことができる。たとえば育成キャラターそれぞれに割り当てられる「脚質適正」や「距離適性」などはモデルの競走馬を参考にしているし、各々のストーリーも、やはりモデルを踏まえたものとなっている。サイレンススズカ秋の天皇賞予後不良となってしまった話は有名だが、ゲーム内の同名レースでサイレンススズカが一着をとると、特別な実況が聞けたりする。史実を知らないと、何か違う実況が流れたな、と思うくらいで済ますか、素通りしてしまうかもしれない。しかし史実を知っていると、その知識が感動を付加してくれる。
だから、ウマ娘プレイヤーの多くは、今まで競馬に興味が無かったとしても、よりコンテンツを楽しむため、競馬の知識を蓄えようとする。

話によれば、本当かは分からないが、最近競馬の収益が上昇傾向にあるらしい。ウマ娘の流行と時期が被るので「ウマ娘効果では無いか」と言われているようだ。また、ウマ娘から競馬に入り、「初めて馬券を買ってみた」という話もよく見かける。的中させて儲けようというよりは、「推し」の子孫を応援するようなスタンスがほとんどのようだ。ゲーム内のキャラクター、「マルゼンスキー」の声優が、馬券で一発当てたというツイートも話題になった。

 

このような中で、私はウマ娘をプレイしていて良いのか、という葛藤に苛まれている。

なぜか。

まず、ウマ娘は競馬をその基礎としている。そして競馬は賭博であり、ブラッド・スポーツである。賭博もブラッド・スポーツも倫理的に怪しい気がする。すると、その怪しい競馬を基礎とするウマ娘も、やはり怪しい気がしてくるのだ。

まず、賭博はなぜいけない気がするのか。それは思うに、人の一生を破壊しかねないからである。人間は誰しもが・常に合理的だというわけではなくて、やはり誘惑に駆られることがある。ギャンブル依存症という言葉もあるが、一旦それに陥ってしまうと、たとえ依存のスパイラルから脱出できたとしても、それ以降の生活が、生きることだけで精一杯になってしまう可能性がある*1

ここでこう反論する人もいるかもしれない。いやいや、ウマ娘は賭博とは無関係だ。「一番人気」とか「二番人気」とかは本当に純粋な人気投票であり、獲得賞金もファン数に置き換えられている。だからウマ娘はクリーンだ、と。

たしかに、ウマ娘はゲーム内で競馬につきまとうネガティブなイメージを徹底的に削ぎ落とそうとしているし、実際それは成功していると思う。それはそうなのだけれど、しかしウマ娘をプレイすることで、プレイヤーがその基礎となっている競馬について調べ、その結果、仮に競馬人口が増える、または競馬の収益が増える事態に繋がっているのだとしたら、それは良いことなのだろうか……? つまり、アプリゲームが賭博行為への誘導口になっているのだとしたら、これは良いことなのだろうか?

次にブラッド・スポーツの問題点は、動物にとって負担であるという点に集約される。
競走馬は人間の娯楽のために生まれ、調教を施され、鞭打たれながら重い人間を乗せて走る。万一ケガをし、予後不良となると安楽死。無事にレースを退いても種牡馬などの役割をもって生きられるのは、ほんの僅かだという。

マルクス研究者の田上孝一は『はじめての動物倫理学』(集英社新書)で、次のように述べる。

 競馬の場合は他の動物利用競技に比べてそれが虐待であるというコンセンサスが取り難く、大規模に施行されていて確固とした伝統も築かれているため直ちに廃止することはまず不可能だが、その規模を縮小させて無益に殺されてしまう馬の数を減らすことはできるだろう。これはひとえに世間一般の動物への意識が高まるかどうかにかかっている。

 ギャンブルの是非はまた別の話で、ギャンブル自体が倫理的に問題があるものだが、それはひとまずおくとして、競馬でなければならないという理由はない。(中略)やはりここでも、人間が全て自分たちだけでやるべきで、動物を使うべきではないということである。(pp.163-4)

つまり、競馬は伝統があるうえ、動物実験などと比べると市民から虐待であるという認識を得られないから即座に廃止することは難しいだろうが、しかしやはりギャンブルとしてなら競艇や競輪など人間に代替できるのであって、競馬のようにわざわざ動物を使う必要はなく、現実的には規模を縮小させていくことが妥当な解決策であろう、ということだ。

柔軟な主張であり、賛同できる。競馬産業は、すぐにでは無くても、緩やかに縮小していくのが動物倫理に沿った実践だろう。そう考えた場合、競馬産業を逆に拡大させてしまうかもしれない、あるいは既に拡大させているウマ娘を、どう見るべきだろうか。

ウマ娘は、やはり悪なのだろうか。

しかし、話は単純ではない。忘れてはならないのが、動物に罪は無いという点である。ウマ娘のポジティブな側面として、レースから引退した馬たちへの寄付額が増加した例がある。最近では、ナイスネイチャ33歳のバースデードネーションで、目標金額を大幅に超える寄付があった。これは例年と比べても異常な額であり、ウマ娘効果であることは明らかだ。馬一頭を養うには多額の費用がかかる。人間の手で育てた馬を、自然に放つわけにもいかない。であれば、こうした寄付行為は動物倫理にもかなった実践であろう。

また、過去にこの世に生まれてしまって、レースに命をささげていった競走馬たちもまた悪くない。今、ニシノフラワーセイウンスカイのオーナーが綴ったブログが反響を呼んでいる。「こうしてわしが愛したセイウンスカイニシノフラワーを想い出してくれる人がいるだけでいいな。*2」と記されているように、ウマ娘は誰かの大切な思い出に再びスポットライトを当て、その輪を広げている。これもまた、ウマ娘のポジティブな側面である。

ここに葛藤がある。一方で、ウマ娘は賭博行為を(間接的に)促進し、動物倫理からして賛同しがたい競馬産業を下支えしている(可能性がある)。他方で、ウマ娘は引退馬を支える運動を生み出し、また誰かの思い出を掘り起こし改めて周知する役割を担っている。

こうしたジレンマに対して、「ウマ娘は悪か」という問いの設定の仕方では、上手く答えられそうにない。

では個人の実践のレベルではどうだろうか。つまり、「私はウマ娘をプレイすべきか」。

真っ先に思いつく考え方は、悪い面と善い面を比較してしまうことである。つまり、私という個人がウマ娘をプレイすることで、どんな悪い/善いことがあり、そのどちらがより重いかで判断する。悪さが善さを上回れば、ウマ娘をプレイすることは控えるべきだ。

たとえば私(筆者)は、賭博は絶対にしないと決めているから競馬産業には直接金銭を流さないだろう。しかし、私は一度だけウマ娘に課金しているから、ひょっとすると、そのお金の一部は競馬産業に流れているかもしれない(分からないが)。そうでなくても、私という1ユーザーがウマ娘をプレイしていることで、「ダウンロード数○○万突破!」といったウマ娘の実績に加担しているとすれば、間接的には競馬産業にプラスに働いてしまっているかもしれない。しかし、それは善い面でも同じだ。私はできた人間ではないので引退馬への寄付はしていない。だが、ウマ娘をプレイしていることで、間接的に寄付運動を起こす協力はできていたかもしれない。誰かの思い出に焦点を当てることも同じだ。

この両者を比較できるかと言われれば、難しい。数値を出せるわけではないからだ。

では、結果を比較するのでは無くて、個人の道徳的・倫理的な義務から考えてみるのはどうだろう。

個人は、引退馬に寄付をすべきだろうか*3。金銭に余裕があるのであれば、しないに越したことはない。引退馬は多くの場合、生きるために寄付を必要としている。人間の娯楽のために生まれた馬なのだから、人間が養うべきだ。「誰が養うか」という話をしていたら引退馬は寄付を受けられず亡くなってしまうかもしれないし、この寄付は一般的な義務として良いと考える。

しかし、その寄付は、競馬産業が無ければ本来必要のないものである。競馬産業は、競走馬を生産し続け、現状、多くの人間に寄付という名の金銭の負担を強いている。また、競馬産業は先述の通り動物倫理からしても肯定しがたい。このような観点から、競走馬を生産することは悪であるといえそうだ。だとすると、競馬産業を(間接的に)下支えするウマ娘をプレイすることも、推奨されないように思える。

以上を踏まえるとやはり、ウマ娘をプレイすることは、個人としては控えたほうが良いのかもしれない。とはいえ、理論を実践するかは個々人に委ねられているだろうし、私もそういったところでモヤモヤしている次第である。

 

 

*1:ただ、だから賭博はダメだ、禁止しろと言う気は無いし、誰かにギャンブルをするなと強いる気も無い。強要するとそれはパターナリズムだし、私としては、ギャンブルをするかしないかは、本当に個人が理性を働かせ合理的に判断できているなら、自由に決めて良いと思う。

*2: ウマ娘Twitterでバズる。 | 西山牧場オーナーの(笑)気分 

*3:賭博をするか否かは個人の自由だから問題外であるし、誰かの思い出に焦点を当てることはウマ娘をプレイすることに自動的に伴う結果だからこれも問題にしなくてよい。