とらじぇでぃが色々書くやつ

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どうした、『魔女の旅々』(4話まで視聴)

ハロウィンのキャラクター(魔女)

 

今期アニメ注目の一作、『魔女の旅々』。前評判は上々で、私も期待していた。キャラデザはかわいいし、絵も綺麗、これで外れたらすごいな~という第一印象。

majotabi.jp

一話は「思っていたほどではないな」と思いながら、期待を込めて二話も視聴した。

しかし旅の始まる二話では「うーん、なんかねえ」とモヤモヤしたものを抱えながら視聴を終える。とはいえ観れないものではないし、二話時点では「期待が高すぎたのかもしれない」と思い直した。三話では面白くなるかもしれないし、と。

 

で、三話。

 

は?

 

正直、驚きの連続だった。悪い意味で。

個人の感想だが、これ、ぜんぜん面白くない

というか、むしろ怒りまでこみ上げてきた。腹が立って仕方がない。なんだこれはと。

魔女の旅々は、"覇権"もあり得ると思っていただけに、はかり知れない衝撃を受けた。美しい絵と、かわいいキャラデザ、主人公の声はちょっと浮いてるような気もするが悪いわけではない、なのにそこからストーリーや構成で期待を裏切ってくるとは(悪い意味で)。

 

このアニメが面白いと感じていらっしゃる方には申し訳ないのだが、私にはあまりそうは感じられなかったので、自分の気持ちの整理も兼ね、ここでは現時点で『魔女の旅々』がなぜこんな出来なのか考えてみたい。

 

まず、はっきりさせておきたいのは、このアニメにおける「鬱展開」や「登場人物の性格」それ自体はあまり問題ではないということだ。

『魔女の旅々』に好印象を抱けなかった人たちの感想をググってみると、「鬱展開が萎える」「性格が悪い」「登場人物の道徳がねじ曲がっている」といった意見が見受けられる。

たしかに、三話の内容は人を鬱々とさせる内容であることは間違いないし、主人公のイレイナは情に厚いほうでは無く、打算的で、承認欲求にあふれており、おまけにナルシシズムにも浸っていて、性格が悪いと言われても仕方がないかもしれない。また、登場人物の道徳心・倫理観についても、魔女はイレイナの天才ぶりを僻んでいたし、イレイナの親は金で娘を売り渡したともとれる取引を魔女に持ち掛けていたし、二話で登場する少女は計画的に(つまり故意に)窃盗を働いていたしと、あまり「いい人」が出てこない。

以上のように振り返れば、たしかにそうした感想も正しいだろう。

が、それらは『魔女の旅々』が(少なくとも私にとって)面白くない直接的な理由では無いと、私は思う。

なぜなら、「鬱展開」で面白いアニメは五万とあるし、「性格が悪い」「道徳がねじ曲がっている」世界観で面白いアニメも当然存在するからだ。

たとえば「鬱展開」で有名なアニメは『ぼくらの』『魔法少女まどかマギカ』『結城友奈は勇者である』といった作品群であるが、これらはいずれも名作扱いされている。人を鬱々とさせるストーリーや、胸糞の悪い展開それ自体が、直接悪評に結びつくわけではない。

また、「性格」についても、『エヴァンゲリオン』シリーズの主人公、碇シンジは性格がいいとは言えない。彼はナヨナヨしていて、時に視聴者をイラつかせる。しかし、『エヴァンゲリオン』はそれも含めて高い評価を受けている。

「道徳・倫理観」に関しては言うまでもないが、たとえば『ハッピーシュガーライフ』に「いい人」はほとんど出てこない。だが、話として十分成立している(そのうえ個人的にはとても面白かった)。

このように、挙げられたそれぞれの要素それ自体は、必ずしもアニメの負の評価には繋がらないのである。

 

では、何がこの「面白くなさ」あるいは「物足りなさ」を生んでいるのだろうか。

それは「納得感」だろう、と考える。

納得感?

いわば、描写・伏線といった裏付けによって得られる、「それがそうあること」への同意の感情である。

たとえば、ピンチの場面で主人公が友情を糧に覚醒したとする。この覚醒に何の前触れもなければ、視聴者は置いてけぼりを食らうだろう。一方、その覚醒前に伏線として、丁寧に友情物語を描いていたとすれば、視聴者は特に頭の中で今までの話を整理していなくとも、納得をもってついていくことができる。

アニメ『Re:CREATORS』には「承認力」というものが登場したが、納得感とはまさしくそれだ。

『魔女の旅々』に決定的に足りないのは、この納得感を確保するための尺である。

思うに、このアニメは急ぎすぎだ。原作小説ではどうなっているのか知らないし、ラノベは読まない主義なので知る由もないが、少なくともアニメでの構成は失敗していると思う。

1話や2話にも突っ込みどころはあるが、長くなるので3話だけに限定しよう。

 

3話において、一番の失敗は20分ほどの尺に前後編二つの物語をねじ込んだことだ。前後編にするということは、それだけ尺が短くなるということである。『ご注文はうさぎですか?』などの日常アニメなら、5分や10分の話をいくつか挿入しても問題ないだろう。それぞれのキャラクターがどんな人物か、視聴者が把握しているためだ。しかし、それを新キャラクターが頻出するストーリー形式で採用してしまったのはどうしてなのか、大いに疑問だ。実際、前編は話として成立してはいるが、あまりに内容が薄く、視聴体験としての価値をほとんど感じ取れなかった。後編も物語として分からなくはないが、どこかで見たような内容で驚きも無く、展開も容易に予想でき、ただただ苦々しい思いが残るという、(少なくとも私の)視聴体験としてマイナス——つまり見なければ良かった——な出来栄えである。

これらの散々な評価は、思うに「尺不足に由来する話の単調さ」と、「イレイナの傍観者的態度」「鬱々とした展開の救われなさ」の三つに起因している。

 

まず話の単調さだが、そもそも悲劇的な話というのは類型があまりない、と私は思っている。だから大体結末は予想がついてしまうし、陳腐なものに感じてしまう。そのため、肉付けをしっかりしないと、ユニークさは出てこないだろう。そしてその肉付けのためには、時間をかけた丁寧な描写が必要不可欠である。

しかし、前後編にしたことで、尺は否応なしに削られ、前編はあのざまである。薄すぎて味がしない……とまでは言わないが、正直観る価値はあまり感じなかった。素人の案ではあるが、少なくともイレイナを兄妹としっかり対話させたり、お国柄やそこに暮らす人々などを描いて感情移入させてからあの結末にもっていかないと、「ふーん」で終わってしまう。観ていて非常に勿体ないと感じた

また後編は前編に比べればずいぶんとマシだが、しかし「しあわせ」なんてワードを出してしまったらネタバラシをしたも同然だろうと思う。プレゼントを受け取った奴隷ちゃんの演技は良かったが、それはそれとして「そんなになるほどか……?」という感想は拭えない。奴隷というほどなのだから、逃げ出しても食べていけないのだろうとかそういった予想はつくにはつくが、その点に関する奴隷ちゃんサイドの描写が大して無いので、やはりこちらでも置いてけぼりを食らってしまう。

こちらの感情を揺さぶりたいなら、それ相応の準備が必要である。 もっと時間をかけて人々の様子などを描けば、もっと良くなったのではないかと私は思う。

 

 

次にイレイナの傍観者的態度だが、確認として、私たちは、グリム童話を読んでいるわけではない。そうではなくて、イレイナの物語が観たいのである。三話のように、「イレイナが何も手を下さず、ただ見ているだけ」という展開は、あり得ないとは言わない。別に、イレイナにヒーローになってほしいわけではない。手を貸さなくても結構。一向にかまわない。

だが要望があるとするなら、たとえば三話後編、奴隷を助けるか否かのシーンにモノローグで葛藤があったりすれば、ガラリと雰囲気は変わったかもしれない。視聴者はイレイナに人間味を感じて、共感できたはずである。しかし、彼女のモノローグは基本的に舞台装置的な説明セリフばかりだ(あるいは多すぎる)。これでは、主人公であるはずの彼女の心が、よく見えない

後編の最後、彼女はプレゼント受け渡しの様子を見ず屋敷を立ち去るが、そこでぶちまけられるモノローグはお説教である。

 

好意が人のためになるとは限らない

 

大体予想がついていたとはいえ、思わずため息が出てしまった。

 

『魔女の旅々』を観ているとなんだかニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を思い出す。『ツァラトゥストラはかく語りき』は、ツァラトゥストラという人物が旅をし、訪れた各所で説教をして回る内容の詩だ。これは一応哲学書なので、作者の説教したいことが、主人公であるツァラトゥストラの口から語られる。ツァラトゥストラは、いわばニーチェの操り人形だ。ツァラトゥストラの言うことは、ほぼニーチェの言いたいことである。これは哲学書だから許されることではないかと思うのだが、しかし私にはイレイナも同じ扱いを受けているように思える。つまり、イレイナが作者の思いついた説教を喋らせる傀儡に見えてしまうのだ。

 

イレイナは3話において、ほとんど心身をさらけ出さなかった。おそらく、このアニメは「イレイナが何を考えているか」をもっと加えていくだけでもぐっと面白くなると思う。内面の描写が無さ過ぎるので、傍観者とか言われるのだ。イレイナがいくら"冷静沈着*1"だとはいえ、何も考えていないわけがないだろう。彼女も人間だ。それを表現しない意味は、よく分からない。心情描写がなさすぎるので、あまりに淡々とした印象を受けてしまう。『安達としまむら』並みのモノローグは挟まなくていいが、このままの調子で話を進めるつもりなら止めておけと言いたい。

それに、はっきり言って、イレイナが三話のような立ち位置に留まり続けるのなら、「イレイナ要る?」という話にもなってくる。私には彼女が、どこかで見たような悲劇を見せるためだけの舞台装置にされてしまっているようにも見えるのだが*2、だとしたらそれは別に、既にあるアニメのカメラの視点を使えばそれで構わないのだ。イレイナのセリフの代わりに、ナレーションでもいれてやればいい。そう、もう悲劇集みたいにすればいいのだ。この国ではこんな不幸があってね、あの国ではこんな不幸があってね、と。

——それはそれで需要があるのかもしれない。だが、私たちはそんな目的で視聴しているのではない。

私たちは童話を読んでいるのではないのだ。イレイナの話を観に来ているのである。にもかかわらず、イレイナは心でも体でも、積極的に話に関わってこない。それではつまらなさすぎる。

 

 

最後だが、三話で描かれた物語は単調であったとはいえ、やはり鬱々とした印象は免れない。一話や二話でも"前兆"は見え隠れしていた*3が、特に三話の鬱要素はそもそも必要だったのか疑問だ。

そもそも、鬱エンド(≒バッドエンド)が評価されるには、意味が必要である。昔私のフォロワーが言っていたのだが、物語の結末について読者の満足度が高いのは、順に

 

「意味のあるバッドエンド」>「意味のあるハッピーエンド」>「意味のないハッピーエンド」>「意味のないバッドエンド」

 

なのだという。これが真かはさておき、「結末に意味があるか否か」つまり「視聴者が結末に納得できるかどうか」は、作品評価に直結する重要なファクターであるだろうし、みなさんも同意するところだろうと思われる。

つまりこれも納得感の問題なのだが、『魔女の旅々』の鬱展開に、みなさんは納得できただろうか。

私には、少し難しかった。

もちろん、「イレイナが訪れたあの国では、たまたまあんな不幸なことが起こってしまったのだろうな」と理解はできる。しかし理解と納得は違う。先ほど述べたように、三話は説明不足が目立ち、それゆえ納得感が欠けている。姉と弟が植物に食われたのはいいが、それをなぜ私は観ているのか? 奴隷が不幸を悲しむのはいいが、それをなぜ私は観ているのか?

アニメ『ぼくらの』では——ネタバレだが——ジアースに搭乗していた少年少女は一人を除き全員死亡して、幕引きとなる。これは間違いなくバッドエンドである。だが、彼らが葛藤のなか「よく生きた」ことを視聴者は知っているので、納得して結末を受け入れることができる。

しかし、『魔女の旅々』は前述の通り描写がおろそかなので、納得感で鬱々としたラストを中和させることができず、拒否反応が出てしまう。

アニメは様々な役割を持つが、そのうちの一つが「娯楽」だ。視聴者を楽しませること抜きに、創作物は成立しがたい。にもかかわらず、『魔女の旅々』三話は、視聴者を楽しませる気などさらさら無いようにも思えてしまう。童話チックな鬱々とした物語を描いて、イレイナをカメラとして配置し、外から撮影して終わり、では面白くはならないような気がするのだが。

 

 

四話ではさすがに挽回してくれるだろう……と思っていたが、四話も満足のいくものでは無かった。

私は終始ぽかんとしていた。

物語は三話に比べればしっかりしていたほうかもしれない。三話に比べれば。

しかし、やはり説明不足は深刻だ。

たとえば、城にいた女の過去は女のフラッシュバックとしてわずかに映し出されただけで、よく分からなかった。この女のことをイレイナはもちろん視聴者もよく知らない。そんな女が急に「思い出した!」とか言って笑い出し、化け物をめった刺しにしだしたらドン引きだ。全く共感できない。

それに、父親を怪物に変えて人々を襲わせたというが、なぜその方法を選んだのか説得力に欠ける。それに、視聴者は父親の人柄を大して知らない。こちらもやはり共感できない。

イレイナも長旅の疲れで頭がおかしくなってきたのかもしれない。三話では奴隷を放っておいたのに、今回は出会ったばかりの女を助けたくなったそうだ。で、その理由は私の記憶の限り、結局語られない。もちろん、三話の奴隷の解放と怪物胎児の助太刀では面倒くささが違うというのもあるだろうが、そこは視聴者の想像に任せず、なぜ気が変わったのか説明してほしかった。これではあまりに共感しづらい。

また、女とイレイナのやりとりがいちいち取引に回収されてしまうのも見ていて萎えるところだ。イレイナの損をしたくないという傾向にも理由をつけてほしいと思う。たとえば、過去の経験から、人に無償でやさしくしてはいけないと悟ったからとか。

そしてやはり四話でもイレイナの人間らしい感情の揺れ動きは見受けられない。ベッドふかふか~というところだけはこどもっぽく喜んで、精神がぶっ壊れた女には冷徹な目を向けて退散。このアンバランスさ。まるで「ベッドがふかふか=無邪気に喜ぶ」のプログラムが組み込まれていて、その命令に従うことで人間らしく振舞うアンドロイドのようだ。

もし原作で細やかな心情描写がなされているのだとしたら、どうしてこうなるのか甚だ疑問である。

 

 

以上、『魔女の旅々』について、我慢ならなかったので記事を書いた。

それも、絵やキャラクターといった外観はとても良く、また世界観も面白くなる可能性を強く感じさせるものなのに、これではあまりに勿体ないという思いからだ。

また、巷の「魔女の旅々三話が鬱展開で炎上」という表現がおそらく正確ではないということも実は伝えたかった。繰り返しになるが、このアニメにおける鬱展開(バッドエンド)には、意味がないのである。いや、意味がないというのは言いすぎだが、世の中で評価されるバッドエンドというのは、それを視聴者が甘んじて受けることに何かメリットが存在するものだ。くどいようだが例を出すと、たとえば『魔法少女まどか☆マギカ』の最終回は、魔法少女を救うため、まどかが神に等しき存在となり、結果まどかの親友・ほむらはまどかと二度と会えなくなる*4、というものだった。これはハッピーエンドとは言いづらい。だが、視聴者には満足感があった。そのラストにおいて、「魔法少女を救ってほしい、救われてほしい」という視聴者の願いは聞き届けられたからだ。

しかし『魔女の旅々』三話では、そうしたカタルシスもない鬱々としたストーリーを投げつけられたのである。ゆえに「無意味な鬱展開で炎上」というのが正確かもしれない。いや、無意味は言いすぎだが。

 

ともかく、五話も同じなら流石に切ろうと思う。

 

*1:公式サイトにそうある

*2:もちろん極論である。言葉がイレイナというキャラクターの口から発せられている以上、人間的な側面を持たないはずがない。いくら説明台詞が多いといっても、説明の角度というのは人それぞれだからだ。

*3:一話でのあまり意味を感じられない虐待もとい修行シーン、二話での説得力を感じないサヤの窃盗など

*4:劇場版では出会うが