とらじぇでぃが色々書くやつ

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主にVTuberの記事を投稿中。

VTuber、特にホロライブと創作活動――ホロライブ・オルタナティブについて

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ホロライブ・オルタナティブ(以下ホロオルタ)とは、VTuberグループ・ホロライブの運営会社カバーが発表した新たなプロジェクトである。カバーによれば、それは次のようなものである。

 

VTuberグループ“ホロライブ” そこに所属する彼女たちの、同じようでいて違う、あるいは、違うようでいて同じ――……

そんな、ほんのすこしだけ別の可能性。これは、もしかしたら存在するかもしれない“とあるセカイを描く”、異世界創造プロジェクトです。

(ホロライブ・オルタナティブ公式サイトより)

 

alt.hololive.tv

これがどういうことかは、今日公開されたPVを見ればよく分かる。

 

www.youtube.com

 

見ての通り、この動画に登場するホロライブメンバーの様子は、普段の印象といくらか異なる。ズバリ言えば、ホロオルタで描かれるメンバーたちは「設定」に忠実だ。たとえば「湊あくあ」は屋敷でメイドとして働いているように見えるし、エフェクトを纏う「紫咲シオン」は本当に魔法使いであるように見える。

このPVおよびプロジェクトの発表を受けて、多くのリスナーやクリエイターが湧きたった。何か新しいものを感じ取り、VTuber界に新たな息吹を吹き込んでくれるような、そんな気配を感じ取ったのだ。

本エントリで問うのは次のようである。すなわち、このホロオルタという一大プロジェクトは、従来のVTuber創作の文脈でどのように位置づけられるのだろうか。言い換えれば、従来のVTuber創作との違いはどこにあり、どのような点で差別化されるのだろうか

 

この検討のためには、長い前置きが必要になる。

最初は、創作物とは何かについて考えることから始めよう。一体どのようなものが創作物と呼ばれるのだろうか。これはVTuber創作とは何かという問いへ繋がる。

その次は、一次創作・二次創作・N次創作について考える。N次創作の代表例であるボーカロイド創作とVTuber創作とを比較することで、VTuber創作の既存環境における秀逸な点と問題点を浮かび上がらせたい。ここでは大きな本家/小さな本家、Pキャラクタ/Dキャラクタ、メディア/コンテンツといった区別を用いることで、なるべく議論を分かりやすくするつもりだ。

そうしてやっと本題に入ることができる。本エントリの主張の核は、ホロオルタがそのパッケージを通して、「キャラクタを中の人から解放する」という点にある。

 

 

創作とは何か

議論に入る前に、VTuberおよびVTuber創作という言葉の意味内容について説明しておく。

まず、本エントリにおける「VTuber」は、ホロライブを念頭に置いている。本エントリでVTuberという言葉を用いるのは、ある命題がホロライブを含むいくらかのVTuberにとって真である場合だ。逆に、ホロライブにのみ真であると思われる事項については、直接「ホロライブ」などと表記する。*1わざわざこう書く理由には、「VTuberという言葉を広義に用いるには限界があること」、「昨今のアバター配信者とVTuberを切り離そうという動きに配慮したいこと」がある。

また、「VTuber創作」とは、後ほど改めて説明するが、「VTuberを巻き込む創作」のことだ。それはVTuberを客体とする創作である。たとえば、ファンアート、ファンムービー、SS(ショートストーリー)、イメージソングなど。

ただし、この「VTuber創作」が「VTuberがする創作」のことではない、という点に注意されたい。「VTuberがする創作」は、VTuberが主体となる創作である。たとえば、「宝鐘マリンがアニメキャラクターのイラストを描く」ことなど。本エントリではこの意味で「VTuber創作」という言葉を用いることは無い。

 

ホロオルタは創作物である。この命題に違和感はないだろう。だが、とりあえず後の議論のために、「創作物」について一応の定義付けをしておきたい。

まず、私たちが何かを創作物*2と言う時、その語の指示対象はフィクションである。『ビデオゲームの美学』を参照するに、この「フィクション」という言葉は多義的だ。すなわち、「フィクション」は虚構的な事物を指すこともあれば(「魔法なんてフィクションだ」など)、マンガなどの作品を指すこともあり(「このドラマはフィクションです」など)、はたまた制度や歴史などの社会的に構築されたものを指すこともある(「社会契約説はフィクションだ」など)。創作物=対象物=フィクションであるとき、この「フィクション」は一つ目か二つ目の用法で使われている*3

フィクションという性質を伴う創作物は、思うに誰かと共有されるべく存在する。誰かに実際に読まれる必要はなく、他者に読まれる可能性のある媒体に著されれば、それは創作物だろう。たとえば、誰かの頭の中にあってまだ物理世界に著されていない小説を創作物と認めるのは難しいが、人里離れた山奥で紙に書いた小説は創作物と見て良い。

以下では「創作物」を、フィクションであり、かつ誰かと共有可能であるものとして扱う。

 

では、VTuber創作、すなわちVTuberを巻き込む創作とは何だろう。

「創作」という言葉には、作品を指す場合と、作品を制作する活動を指す場合の二パターンがあるように思われる。であればVTuber創作とは、VTuberを客体として用いるようなフィクション、あるいはそうしたフィクションを制作する活動のことだと言い換えられよう。

VTuber創作の中で一番に思いつくのは、やはりファンアートだ。ファンアートはVTuberの姿や過去の発言などを捉え、表情や身振りなど不足する部分は補完しながら、絵に落とし込むことで出来上がる。再現MMDをはじめとするファンムービーも、ファンアートと同じように過去の発言などを捉えて、不足部分は補完しながら動画に落とし込むことで出来上がる。また、イメージソングもVTuber創作の一つだ。VTuberから得た印象を基に、曲は作り上がる*4

これら不足部分の補完は、フィクションの受け手にとって当然に起こる反応だ。松永伸司は次のように述べる。

 

……フィクション作品の受容者は、“空所”をそこに認めたうえで、その補充を行う……つまり、受容者は、その作品が当の虚構世界のすべてを描いているわけではないということを自明の前提として受け入れている。

ビデオゲームの美学』p.133より

 

つまり、フィクションを鑑賞した人間は、そのフィクションの不足部分を勝手に補おうとする、というのである。

実際、VTuberのファンアートやファンムービー、イメージソングといった創作物はVTuber視聴者によって作られているが、彼らはそのVTuberについて多くを知らない。VTuberが発信してきた情報は知っているだろうが、それ以外のことはもちろん知らない。VTuber創作は、受け手がその知らない部分を補い、想像を膨らませることによって作られている。

ところで、VTuber創作は視聴者によるものだけではない。VTuberが創作するVTuber創作も存在する。たとえば、Ninomae Ina’nisが自画像的に自身の絵を描く場合も、VTuberが客体となっている点でVTuber創作だといえるだろう。

また、VTuberの人格もVTuber創作の一つだ*5

VTuberの人格は、VTuberそれぞれに備わっている。湊あくあには湊あくあという唯一の人格があるし、白銀ノエルには白銀ノエルという唯一の人格がある。これらは、それぞれの「中の人」が人格を日々生成し、更新し続けている結果、存続しているものだ。つまり、人格とは、個人が自己の人生をデザインしてきた結果に伴うものである。

この「人格」は単なる「性格」という意味に留まらず、法学的なニュアンスをも含んでいる。すなわち、自律とか、自由とかいったニュアンスだ。

法学には人間を「自己の生の作者」とみなす考え方がある。人間は自律して自身に関わる物事を決定できる、という意味だ。では人間でないVTuberは自律した存在だといえるだろうか? VTuberは(ほとんど)フィクションの存在だから、一応確かめておくべきだ。

私の答えはYESである。

その根拠は、VTuberが自己の身体を所有していることにある。もちろん、ホロライブメンバーが知的財産権の意味で身体を所有しているかといえば微妙だろうが、そこではなく、彼女たちがモデルという身体を動かしているという事実が重要だ。身体の所有は、VTuberにあってはその設定の所有を意味する。事実として、VTuberの身体は一人しか所有できない。すなわち、これらの所有は排他的である。この排他性は、人間と近しいものがある。人間は現時点では、自身の肉体を他人と一緒に所有することはできない。この意味で肉体の所有は排他的だ。また、その肉体に付随する、出生から今現在まで積み上げている人生も、誰かと共有することはできない。だからこそ、それらは替えの利かない、かけがえのないものなのであり、保護の必要があるのだ。であれば、同じく身体が交換不可能なVTuberも、自律した存在と考えて然るべきだろう。

さて、「自己の生の作者」の「作者」は、言うまでも無く比喩である。しかし、VTuberにおいては、あながち比喩だとも言い切れない。まず、VTuberは主に配信コンテンツである。配信コンテンツは、人と体験を共有することを目的とする。では、VTuberというコンテンツにおいては何が娯楽となっているのだろう。実況するゲームの内容だろうか。VTuberの容姿や、デビュー前からある設定だろうか。たしかにそれらも娯楽だ。しかしそれ以上に優れた娯楽がある。それは、VTuberの喋り方や、リアクション、発言内容などのそのVTuber固有の態度であり、また、新たに付加される設定などの、そのVTuber固有の属性である。そうした固有の態度を産むものと、固有の属性などの総称を、人間の場合と近しく「人格」と呼ぶことができるだろう。

この人格は、VTuberが自律して生を積み重ねる中で変化し得る。言い換えれば、人格はVTuber自身の決定により更新され発展する。たとえば、デビュー当時は無かった属性が、受け手(視聴者)との交流の中でVTuberに付加されることがある。これは「VTuberが自分で新たな属性を付加した」現象である(「受け手がVTuberに属性を付与した」現象ではない)。もちろん、受け手(視聴者)の空気に押されて否応なしに属性を受け入れる場合も数多くあるだろうが、思うにそれもまた必要なことである。なぜなら、他の事項との兼ね合いの中で、自ら折り合いをつけることもまた自律だからだ。多くの場合、設定を受け入れることに多少気が進まないくらいの程度であれば、それを甘んじて受け入れる必要があるだろう。とはいえ、人格においては、真に受け入れがたい属性を拒絶することも可能ではある。たとえば雪花ラミィは過去に「アル中」と呼ばれるのを嫌がっていたと記憶しているが、まさにそのような形で、VTuberには自己の人格に関し、NOを突き付ける権利も与えられてはいる。自己の人格をデザインするという行為は、他者と折り合いをつける必要もありはするが、比較的自由度の高い営みだといえる。

このように、VTuberは「人格を創作する」という意味で、「自己の生の作者」だ。

なお、この人格は虚構的なただの観念である。極端に言えば、VTuberも受け手(視聴者)も、いわば「ゲーム」をしているに過ぎない。あくまでもVTuberは虚構世界に存在するのであり、現実世界に実在しているわけではないのだ。そして、そのVTuberに伴う人格もまた、虚構世界にしか存在しない。もちろん、その人格を身にまとう「中の人」には、それになりきることによる現実的な負担や恩恵があるだろうが、人格それ自体がフィクションであることに変わりはない。

VTuberの人格はVTuber自身によって作られる。そしてその人格は、受け手の娯楽に供する創作物であり、フィクションである。

 

 

一次創作と二次創作 

 

一次創作と二次創作という区別は、多くの人が使用する、今や市民権を得た区別だ。

思うに、この区別は本家(公式)を措定することで可能になる。まず本家(公式)があり、そこが供給するコンテンツが一次創作。その一次創作内のキャラクタを用い、設定を改変するなどして新たなコンテンツを制作すること、およびそのコンテンツ自体が二次創作だ。

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この二次創作に関して話を分かりやすくするために、研究者の岩下朋世による議論を紹介しておこう。岩下は、ゲーム研究者の松本伸司が考案したPキャラクタ/Dキャラクという区別を、「解釈違い」について考えるために導入している。

まず、言葉の説明をしよう。岩下の記述によれば、「P(パフォーミング)キャラクタ」とは、演じ手としてのキャラクタのことである。他方、「D(ダイエジェティック)キャラクタ」とは、物語世界内の存在としてのキャラクタのことである。刑事ドラマの主演俳優Aでなぞらえれば、「Pキャラクタ=俳優A」、「Dキャラクタ=俳優Aが演じる刑事」、という対応関係になる。

この区別を用いて二次創作を説明すると、「二次創作は一次創作のPキャラクタのみを拝借し、本家とは異なるDキャラクタを描くもの」であるといえる。念のため具体例を挙げると、「ウマ娘ナイスネイチャを描く二次創作は、ナイスネイチャのPキャラクタ(キャラ図像とキャラ人格 [岩下による])だけを借り、いくらか異なるナイスネイチャのDキャラクタを描くもの」だといえる。ここで、PキャラクタとDキャラクタは互いに重なり合うことで一つのキャラクタを成している。

岩下はDキャラクタを、受け手がPキャラクタを鑑賞した途端に解釈を経て生まれ始めるものと見做しているようだ。実際、アニメやゲームのキャラクターでも、VTuberでもそうだが、「このキャラは○○のとき△△と言いそうだ」という想定が立ち上がることはよくある。しかも、その想定の多くはファンの間で共感が可能だ。そこではファンの間でのDキャラクタの共有が起こっている。そして解釈違いは、岩下が「公式の提供するコンテンツは、推し(Pキャラクタ)に見当はずれのキャラクター(Dキャラクタ)を演じさせている*6」と述べるような仕方で起こる。つまり、ファンの持つDキャラクタと、創作物がPキャラクタに演じさせるDキャラクタとが異なる場合に、「解釈違い」は起こるのだ。

さて、Pキャラクタ/Dキャラクタの区別を紹介したが、次に今まで説明なしで使ってきた「コンテンツ」という言葉にも触れておきたい。

『メディア・コンテンツスタディーズ――分析・考察・創造のための方法論』所収の、岡本健「メディアコンテンツの分析・拡張・創造――情報社会の進展とコンテンツ研究・教育の必要性」によれば、コンテンツとは「なんらかの形で編集された情報であ」り、「コンテンツそれ自体を体験することで体験者は楽しさを得る可能性がある*7もののことである。また、岡本は同じ論文で、法律の条文もコンテンツの定義として紹介している。長いが、ここにも引用しておく。

 

第二条 この法律において「コンテンツ」とは、映画、音楽、演劇、文芸、写真、漫画、アニメーション、コンピュータゲームその他の文字、図形、色彩、音声、動作若しくは映像若しくはこれらを組み合わせたもの又はこれらに係る情報を電子計算機を介して提供するためのプログラム(電子計算機に対する指令であって、一の結果を得ることができるように組み合わせたものをいう。)であって、人間の創造的活動により生み出されるもののうち、教養又は娯楽の範囲に属するものをいう。

 

コンテンツが教養や娯楽を目的として作られた「プログラム」だということがよくわかる。

こうしたコンテンツと切っても切れない存在がある。それがメディアだ。岡本は「さまざまな定義がある」と留保したうえでメディアを「情報を伝えるなかだちとなるもの」と広く定義している。娯楽であるコンテンツはメディアという媒介を通して、私たちに届けられているのだ。

 

一次創作、二次創作とくれば、口にしたくなるのは「N次創作」というワードである。これは、初音ミクを初めとするボーカロイド文化で主に見られた現象であり、一次創作→二次創作の流れの中で、さらに三次創作→四次創作→……→N次創作が生まれるような、創作のツリー化現象を指す。

VTuberの三歩未知は自身のnoteで「VTuber初音ミクのような創作の連鎖(N次創作)は生まれるのか」という問いについて考察している。

t.co

三歩未知はVTuberが「大きな本家」であることに注目する。

「大きな本家」とは「小さな本家」の対概念で、三歩未知独自の概念である。大きな政府/小さな政府との類比により考え出されたようだ。

念のため説明すると、大きな政府/小さな政府という区別は、政府が市場にどれだけ介入するか、言い換えれば市場にどれだけの自由を認めるかという点で為されている。大きな政府は市場に積極的に介入し、逆に小さな政府は消極的である。この類比から考えるに、「大きな本家」とはおそらく、コンテンツを豊富に供給し、二次創作ガイドラインも厳しく設定するような本家(公式)を想定しているのだろう。同じく「小さな本家」も、コンテンツをあまり供給せず、ガイドラインも厳しく定めないような本家(公式)を想定しているのだと思われる。

そして三歩未知は、「小さな本家」に初音ミクなどのボーカロイドを、「大きな本家」にVTuberを対応させ、VTuberが「大きな本家」であるがゆえに、VTuberボーカロイドのようなN次創作を産むことができないのだと主張する。

しかし、このnoteには「なぜVTuberが大きな本家なのか」「なぜVTuberが大きな本家だと二次創作が萎縮するのか」といった説明が無いため、これ以上の検討が難しくなっている。

そこで、三歩未知の問い、「VTuber初音ミクのような創作の連鎖は生まれるか」を引き継ぎ、こちらで別の筋道から答えを探してみようと思う。

 

まず、ボーカロイド、特に初音ミクの創作とは何かについて考えよう。

ここでは研究者・谷川嘉宏の議論を参考に、その目立った特徴を四点述べる。

第一に、初音ミクはメディアである。谷川は、初音ミクとその創作に関して、初音ミクをメディアとして捉えるアプローチを試みている。初音ミクはメディア(媒介)であり、能動的には何もしない。創作を行うのは音楽家などの作り手たちである。

第二に、初音ミクに対する作り手と受け手の認識にはズレがある
初音ミクというメディアは、作り手には「楽器」として映る。つまり初音ミクは、作り手にとって、その独自の世界を表現するためのツールである。
しかし他方で、初音ミクというメディアは、受け手には「ミクさん」と呼ぶべき「キャラ」として映る。つまり初音ミクは、作り手の創作世界に存在するキャラクターである。

この作り手と受け手の認識のズレは、ボーカロイド創作の大きな特徴である。

第三に、最重要事項として、初音ミクの「余白」がある。谷川は初音ミクの髪型、服装、基調とする色といった要素が、コミュニティの共有するデータベースから読み込まれ組み合わされていると指摘する。谷川は「恋愛裁判」の初音ミクを例に挙げるが、MV中の初音ミクは、クリプトンが提示したオリジナルの「初音ミク」と比べると、髪型も、服装も、色彩も異なっている。たとえば髪型が「ツインテール」ではなく「おさげ」になっていることが分かるだろう。しかし、それでも「恋愛裁判」の初音ミクは、「ミクっぽい」とみなされ、初音ミクとして扱われる。

 

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これは容姿に限った話ではない。「初音ミクは仕事を選べない」と言われるように、メディアである初音ミクは、「どんな主題を歌うにせよ、どんな風に語られ、描かれるにせよ、ミク自身がそこに介入する術はない*8」のである。

そうした意味で谷川は初音ミク「器=空虚」と形容した。また、同じような意味で三歩未知も初音ミク「余白」と形容している。

つまり、初音ミク」はメディア(媒介)であることで、「初音ミクっぽい要素」を自由に組み合わせればいくらでも新たなミクが作れるような、無限に開かれた創作性を担保しているのだ。

以上三点の特徴により、もう一つの特徴が表れる。それは、初音ミクの並存性である。どういうことか。ここまで述べた通り、初音ミクというメディアに関して、その作り手と受け手には認識のズレがあり、またメディアそれ自体には「余白(器=空虚)」という無限の可能性があった。作り手が楽器としての初音ミクを用いて楽曲を作ることは当然の創作活動である。各々の作り手は、初音ミクを「カスタマイズ」しながら各々異なる楽曲を制作する。それらの楽曲が完成し、作り手の元を離れると、それらは受け手によって、初音ミクというキャラの歌だと見なされる。それぞれの楽曲にそれぞれのキャラが見出されるから、結果的に「ミク」は並存することになる。つまり、作り手が楽曲を制作するたびに、新たなDキャラクタを纏った初音ミクが出現する。「メルト」のミク、「こちら、幸福安心委員会です。」のミク、「千本桜」のミク……。ミクは同時に複数存在することができる。これは、Pキャラクタ/Dキャラクタという区別を用いて言えば、初音ミクのDキャラクタが無限に開かれていることを意味する。

 

初音ミクにN次創作のような創作の連鎖が生まれたのは、以上四点の特徴によるところが大きい。初音ミクはメディアであり、まずそのメディアを取り巻く形で作り手と受け手に認識のズレが生まれる。その認識のズレは、無数の初音ミクを並存させる。これは初音ミクの、「初音ミクっぽさ」、つまりDキャラクタが無限に開かれていることを示唆する。余白(器=空虚)の存在も、創作の自由度に貢献する意味で非常に重要だ。初音ミクがDキャラクタをほとんど全くもたないような「余白(器=空虚)」であるからこそ、様々な創作が生まれる余地があった

 

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三歩未知の「VTuber初音ミクのような創作の連鎖は生まれるか」という問いは、こうした特徴のうち、「認識のズレ」「余白(器=空虚)」をVTuberが持てるか、という問いでもある。

従来のVTuber創作を振り返れば、答えは部分的にはYESであり、部分的にはNOだ。まず、VTuberにも認識のズレは見られるが、それが初音ミクのような並存性を生み出すことはない。また、VTuber初音ミクのような「余白(器=空虚)」も持たない。

まず認識のズレについて検討しよう。

谷川の議論する初音ミクの相似形として現在のVTuberを見た時、あるVTuberVTuber人格)の作り手はVTuberを演じる人(中の人)であり、受け手はそれ以外の視聴者である*9

作り手は、VTuberをツールとして見るだろう。それは広く言えば、自己表現としてのツールである。
他方、受け手はVTuberをキャラとして見るだろう。受け手は、VTuberがあたかもそこに存在しているかのように振舞う。

このように、VTuberにも作り手/受け手の認識のズレは見受けられる。

しかし、これがボーカロイド創作のような創作の連鎖を産むわけではない。

なぜなら、作り手は一人しか存在できないからだ。

初音ミクの場合は、初音ミクが「余白(器=空虚)」だったから、作り手は無数に存在できていた。その作り手の数だけ、受け手は異なる「ミクさん」を見出すことができた。

しかし、VTuberの作り手は、中の人ただ一人のみだ。だから、受け手は一人のVTuberのみしか見出すことができない。

 

また、VTuber初音ミクのような「余白(器=空虚)」も持ちえない

中の人は、VTuberのPキャラクタと密接に結びついているからだ。

どういうことだろう。

たとえば、中の人を抜きにした「湊あくあ」というキャラクターは、間違いなくPキャラクタとして理解できる。この「湊あくあ」というPキャラクタを扱えるのは、オーディションやスカウトなどを通じて選ばれた一人のみだった。VTuberは人格を形成し、それを日々更新していくのであったが、その人格の提示は、VTuberを限りなく人間に近付ける。「VTuberの話す内容が設定の話なのか中の人の話なのか分からない」という事態は、多くの人に経験があるだろう。そこでは、Pキャラクタが中の人と「癒着」している。つまり、そこではPキャラクタと中の人との区別が、日々の人格の更新・発展によって曖昧になっており、むしろ擬制的に一人の人間と扱ったほうが都合の良いような一体感を生み出している。器という比喩を用いて言えば、「湊あくあ」という器は「中の人」の存在によって常に満たされているのである。

VTuber創作と、ボーカロイド創作との決定的な違いはここにある。

ボーカロイド、特に初音ミクの場合、作り手は無数に存在し、その誰もが初音ミクを生み出すことができた。それは、初音ミクのPキャラクタが各々のミクと独立して存在する完全な「余白」だったからだ。
しかし、VTuberの場合はそうではない。VTuberは中の人と「癒着」しており、キズナアイの分裂騒動を見れば明らかだが、決定された中の人以外の者がそのVTuberに「なる」ことはできない。可能性は開かれていない。*10

Pキャラクタと中の人が「癒着」するなら、VTuber初音ミクのような「余白(器=空虚)」はあり得ない。もちろん、二次創作は可能ではある。つまり、第三者がPキャラクタを用いて、「原作」と異なるDキャラクタを描くことはできる。しかし、そのPキャラクタには中の人が「癒着」しているから、VTuberのDキャラクタ(人格)とは全く異なるDキャラクタを描くと、「解釈違い」だとして二次創作の作者はしばしば批判・攻撃に遭う。また、成人向け二次創作も、Pキャラクタに中の人が「癒着」しているせいで、必ず中の人に配慮が必要になる。すると事実として、VTuber創作における二次創作の自由度は、他の二次創作と比べて遥かに劣る*11

こうした環境は、創作の連鎖を産んだボーカロイド創作の土壌とは程遠い創作環境であるといえる。

 

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ここまで「VTuber初音ミクのような創作の連鎖は生まれるか」という問いについて検討してきた。要約すると、VTuberは中の人との結びつきが非常に強く、「唯一性」を獲得しているため、並存することも考えられない。また、VTuber人格というDキャラクタがPキャラクタと密接に結びつく現状では、VTuberを余白として考えることも難しい。

VTuberのような創作の連鎖を産みたいと考えた時に、障害となっているのは中の人やVTuber人格の存在だろう。

 

しかし、本当にVTuberに創作の連鎖は起こっていないのだろうか。

たしかに、ボーカロイド創作と同じ仕方では起こっていない。しかし、思うに、ボーカロイド文化とは少し違うが、VTuberにも創作の連鎖は発生しているVTuber人格が自己決定に基づいて更新され、発展していくことについては先に述べた。この更新・発展という運動には、コメントやツイート、及びファンアートやファンムービーなどの、VTuber創作が関わっている。VTuberたちは、自身の人格に関連するコメントを自己決定権に基づいて選別し、必要があれば自分の人格として回収する。回収されると、人格は更新されるが、受け手(リスナー)は柔軟に対応し、新たなファンアートを制作する。それを受け、リスナーの間でお約束的に新た人格(Dキャラクタ)への言及が行われる。VTuberはまたそれを受け、人格(Dキャラクタ)を更新し……と以下続いていく。

VTuber創作には、この「二次創作の公式化」とでも呼称できるような現象が欠かせない。その現象の下では、二次創作がまるで一次創作であるかのように振舞い、元の一次創作に影響を及ぼすことが頻繁にあり得る。

 

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これはボーカロイドにも、アニメ・ゲーム・マンガのキャラクタにもほとんど無い現象だ。

ボーカロイド創作において、本家・公式をどこに据えるかは議論の余地がありそうだが、仮にボカロPを本家としてみよう。ボカロPが二次創作を反映させることは、無いとは言えないが、頻繫には行われないだろう。なぜなら、楽曲は発表されればそのままで、ほとんどの場合変更されないからだ。リミックスはあるかもしれないが、大元の楽曲を改造するようなことは無い。楽曲自身がリアルタイムに更新されないのだから、VTuberのような創作環境にはなり得ないだろう。

他方、アニメ・ゲーム・マンガにおいては、二次創作が公式化する(公式に「逆輸入」される)例がいくつかある。しかし、そこに好意的な声はあまり聞かれない。たとえば、ゲーム「艦隊これくしょん」では、公式がDキャラクタを逆輸入して不満を買った。「公式が二次創作ネタに便乗してくると冷める」という声がよく聞かれるように、「二次創作の公式化」は場合によっては嫌悪感を引き起こす可能性もあるのだ。だから、公式=本家は逆輸入に慎重になる必要があり、またこれからも逆輸入は期待されないだろう。

 

VTuber創作は以上の二つと異なり、活発に二次創作を吸収するし、それが良しとされる。「二次創作の公式化」をメインウェポンとする点で、VTuber創作は他の類似の創作と差別化される

この点は、既存のVTuber創作の大きなメリットだ。だから、私はここで、「VTuber界隈をぶっ壊せ」といった安易で物騒なことは言わない。たしかに「癒着」は問題であるが、既存の創作環境それ自体を壊す必要は無いだろう。今の体制にも、良い点は多くある。だから、「癒着」の問題を解決するにしても、界隈を壊さない別のアプローチが必要だ。

 

さて、ここまでの全ての議論を一度まとめよう。

私たちはホロオルタの位置付けを探るため、「創作」「一次創作と二次創作」「VTuber創作とボーカロイド創作」の三つについてまず検討してきた。

一章である「創作とは何か」では、創作とは①フィクションであり、②誰かと共有するものであるという一応の定義が示された。また、その定義によれば、VTuberの人格もまた創作物であることが分かった。

二章の「一次創作と二次創作」では、創作環境についての検討が為された。Pキャラクタ/Dキャラクタという区別により、一次創作/二次創作の違いがより明瞭になったと思う。

また、ボーカロイド創作とVTuber創作の違いも考察した。「VTuber初音ミクのような創作の連鎖は生まれるのか」とう問いを手掛かりに、コンテンツ/メディアという区別を用いながら、VTuber創作について考えていった。結論として、中の人のPキャラクタとの「癒着」が創作活動に制限を掛けている恐れがあることが分かった。しかし、だからといって、この既存の体制・環境を壊してしまうことは賢明でない。「癒着」の解消には、別の手段をとるべきだ。

 

 

ホロオルタの可能性 

 

では、本題に入っていこう。VTuber創作の延長線上にあるホロオルタは、どのような点で他の創作と異なるのだろうか。

先に結論から書こう。ホロオルタの特異性は、①Pキャラクタが「中の人」から解放され、誰しもがPキャラクタにアクセスできるようになること、また、それによって②並存するVTuber創作が可能になること、そして③人格の形成に失敗したVTuberVTuber創作に復帰できること、の三点にある。

 

ホロオルタとは何か、それに答える公式の文章は冒頭で引用したが、もう一度ここで引用しておこう。

 

VTuberグループ“ホロライブ” そこに所属する彼女たちの、同じようでいて違う、あるいは、違うようでいて同じ――……

そんな、ほんのすこしだけ別の可能性。これは、もしかしたら存在するかもしれない“とあるセカイを描く”、異世界創造プロジェクトです。

 

この文言は、昨今のVTuberとはまた違ったVTuberを描くプロジェクトであることを示唆している。

次にPVを観ると——既に述べたが——彼女たちが全員設定に忠実な存在であることが分かる。たとえば、湊あくあはメイドとして館で働き、紫咲シオンは魔法を繰り出し、不知火フレアはハーフエルフらしく弓を構える。

これらからホロオルタは、VTuberたちの「設定」に焦点を当てているのだと考えられる。

ところで、昨今のVTuberと、この「設定」に焦点を当てたホロオルタのVTuberは、具体的にどう異なるのだろうか。

昨今のVTuberは、中の人がPキャラクタと「癒着」していると既に述べた。この「癒着」の問題点は、二次創作の自由度を下げる点にある。二次創作者がPキャラクタを使おうとするとき、そこには必ず中の人が付きまとう*12

しかし、ホロオルタのVTuberは、そうした中の人との「癒着」から解放されているように見えないだろうか。つまり、ホロオルタのVTuberは、Pキャラクタそのものへの直接のアクセスに基づいて、中の人とは独立に創作されているようには見えないだろうか

思うに、ホロオルタの野望はここにある。

ホロライブの運営会社であるカバーがどこまで考えているのか、それは私たちの与り知るところではないが、VTuberコンテンツがユーザーの創作活動にも大きく影響を受けている以上、カバーもその創作環境に興味があるはずである。そして、もしボーカロイドのような創作環境を理想に据えるのであれば、これまで議論してきたような障害、すなわちVTuberの中の人がPキャラクタに対し一人しか存在できないことや、Pキャラクタと中の人とが「癒着」していることにも思い当たることだろう。しかし、現行の体制そのものに手を加えることはできない。それはキズナアイの分裂事件や、ゲーム部の声優交代の件を見れば明らかである。ならば、ifの世界、つまりホロオルタというパッケージを用意し、その中でのみPキャラクタに誰でもアクセスできるようにすればよい

そう、ホロオルタに期待される点は、誰しもがPキャラクタにアクセスできるような創作環境の実現である。VTuberからPキャラクタだけを抽出し、癒着性を取り除くことが出来れば、VTuber初音ミクのような「余白(器=空虚)」となることができる

「余白(器=空虚)」となったVTuberには、無数の作り手がアクセスできる。そうなれば、VTuberはキャラとして並存が可能になる

たとえば、誰でもいいのだが、ここでは宝鐘マリンを例にとろう。中の人とPキャラクタが癒着する昨今の状態においては、「宝鐘海賊団の船長」「絵が上手い」「所作が歳を感じさせる」「東方シリーズをやりこんでいる」などのDキャラクタが視聴者の間で共有されている。

しかし、VTuberからPキャラクタを抽出するものとしてのホロオルタの中では、宝鐘マリンは何にでもなれる。たとえば話し方だ。宝鐘マリンといえば「キミたち~」という呼びかけが印象的だが、ホロオルタのパッケージの中では必ずしもそうでなくて良い*13。凛々しく「お前たち」と呼びかける宝鐘マリンを考えても良いし、若々しく呼びかける宝鐘マリンを考えても良い。その声も、今の声に縛られなくて良い。たとえば有名声優の声を当ててみても良いのだ。初音ミクがそうであったように、何を喋るか、どのような格好をしているのか、どのような思想を持っているのかなど、全ては作り手の思うがままである。

また、VTuberが中の人と切り離され、誰でもPキャラクタにアクセスできるようになれば、引退したVTuberも各人の手で蘇る

引退は大別して二種類ある。

一方は、「創作物の完成」としての引退である。つまり、意図的な引退だ。哲学者のジャンケレヴィッチは「人生の意味は決してその生涯には現れない」と書いたが、死ぬギリギリまで何があるか分からないのが人生である。死という終幕を迎えない限り、人生の意味を決定することはできない。創作物も同様に、完結を迎えなければ正確な評価は下せないものだ*14VTuberの「人格」という創作物も、引退という終止符を打って初めて、真の意味で完成する。

他方は、「人格の形成失敗」としての引退である。つまり、意図しない引退だ。人格とは個人のストーリーでもある。そのストーリーを積み重ねる途中で非常に大きな失敗をしてしまえば、個人は回復不可能な状態にまで追いやられる。回復不可能であれば、その人生はそこで終えるほかない。

今回は後者を取り上げよう。ホロライブには、契約違反によりデビュー後三週間も経たずに引退した「魔乃アロエ」というVTuberがいる。辛い言い方をすれば、引退は中の人に責任がある。立ち絵に問題はなかった。しかし、現行のシステムでは、中の人が契約を切られれば同時に「魔乃アロエ」のPキャラクタもお蔵入りになってしまう。Pキャラクタには何の問題も無いにも関わらず、である。

だが、その「魔乃アロエ」のPキャラクタも、ホロオルタというパッケージの中では、中の人の「呪縛」から解き放たれる。もはやPキャラクタは中の人が引き起こした不祥事に付き合う必要は無い。「余白(器=空虚)」となった「魔乃アロエ」は並存する。Pキャラクタとしての「魔乃アロエ」は、再び日の目を見る。

 

このように、ホロオルタの特異性は、VTuberから中の人を取り除くことによって生じることが分かる。まとめると、ホロオルタに期待される事項は以下の三点だった。第一に、VTuberからPキャラクタを抽出すること。第二に、誰でもPキャラクタを扱えるようになること。第三に、引退したVTuberが再び日の目を見ること。

ホロオルタというパッケージを通した創作は、現在カバーが発表しているイラストやPVに限らない。思うに、カバーが発表する創作物を「本家」として扱うのは好ましくない。もしそう扱えば、VTuber創作は現状と同じ問題を引きずることになる。私たちはカバーの発表する創作物を、ボーカロイド創作と同様、並存する創作物の一つであると考えるほうが良い。私たちがホロオルタというパッケージ内で発表する創作物全ては、カバーの創作物と並んで立つ。そのようにあってこそ、本エントリで述べたような可能性が現実のものとなる。あなたオリジナルのホロオルタがあって良い。観るだけでなく、創ってこそのホロオルタだ

 

 

ホロオルタは、既存のVTuber創作環境を破壊することなく、新たなVTuber創作環境を作り得る可能性を秘めている。

もちろん、ここで述べたのは文字の上での話で、実際のところカバーがどのような理想を追い求めているのかは分からないし、創作の担い手であるみなさんがどのようにホロオルタに触れていくのかも分からない。ホロオルタがどのように展開していくのか、全く予想がつかない。本エントリは2021年5月の現状を踏まえて書かれていることを、留保として一応記しておく。

 

参考文献

ビデオゲームの美学

ビデオゲームの美学

  • 作者:松永 伸司
  • 発売日: 2018/10/20
  • メディア: 単行本
 

  

 

キャラがリアルになるとき ―2次元、2・5次元、そのさきのキャラクター論―

キャラがリアルになるとき ―2次元、2・5次元、そのさきのキャラクター論―

  • 作者:岩下朋世
  • 発売日: 2020/07/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

死

 

 

 

*1:たとえば一方で、「VTuberは中の人を秘匿する」という命題は、当然ながら全ての「VTuber」に当てはまるわけではないが、ホロライブを含め知名度の高い多くのVTuberに当てはまる。こういった場合には、狭義に「VTuber」と表記する。しかし他方で、「VTuberはアイドルである」という命題は、そこまで多くのVTuberに当てはまらない。そのため、そういった文脈では「VTuber」を使わず、「ホロライブ」と直接的に表記する。

*2:著作物ではなく

*3:松永伸司『ビデオゲームの美学』慶応義塾大学出版会 pp.117-8

*4:加えて、ツイートや、配信や動画につくコメントも、VTuberという虚構世界に自らを投じながら、VTuberに対して為されるという意味でVTuber創作だといえるだろう。

*5:VTuberの人格は創作物である、つまりVTuberの人格はフィクションであると聞いて、ぎょっとしないでほしい。人格を幻想だと指摘して、目を覚ませとか言いたいわけでは全くない。

*6:『キャラがリアルになるとき——2次元、2.5次元、そのさきのキャラクター論』p.194

*7:『メディア・コンテンツ・スタディーズ』p.ⅳ

*8:谷川嘉浩「初音ミクはなぜ楽器でキャラなのか」『メディア・コンテンツ・スタディーズ』p.63

*9:受け手が視聴者であるという点に異論は無いだろう。しかし、作り手に関しては異論があるかもしれない。たとえば、「作り手にはモデルのデザイナーやモデラー、またマネージャーを始めとする運営スタッフも含むのではないか?」という疑念だ。しかし、私はそう考えない。現状VTuberの身体を扱えるのは一人のみで交換不可能であり、その人はそこに人生を積み上げる能力がある。ゆえに彼女たちは自律した存在なのだから、周囲の人間を作り手に含めてしまうことは自律概念と矛盾する。スタッフなどを作り手に含めることは、肉体は共有可能だと言うようなものだ。スタッフをはじめとした人たちは、あくまでも支援者であると考えるべきだろう。

*10:念のため注記するが、冒頭で述べたように、この「VTuber」は全てのVTuberを指しているわけではない。中の人を交代させてもなお活動を続けているVTuberも少なからず存在しているし、そのことは承知している。あくまでホロライブ を中心として理解してほしい。

*11:ポルノを制作することそのものの是非は措く。

*12:これが、三歩未知が「VTuberとは大きな本家である」という表現で表したかったことかもしれない

*13:もちろんそうであっても良い

*14:この意味で、本エントリがホロオルタを正確に語れているとは思っていない。