とらじぇでぃが色々書くやつ

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「百合カプ」の左右ってぶっちゃけどうなの?

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このエントリでは、百合カップリングの左右問題について検討します。

ここでいう「左右問題」とは、「百合は左右を気にしなさすぎる」という指摘に関するものです。すなわち、「百合が左右を気にしないのはなぜなのか」が本エントリのテーマとなります。

まず、カップリングについての簡単な説明をしたのち、BLにおける左右とその問題点を指摘します。続けて、百合の仮定的な定義を提示し、百合の左右について考察します。最後に、BLと百合、それぞれの文脈を峻別することの重要性を述べ、衝突の緩和策を二つ提示します。

なお、筆者である私は「カプ」とか「推し」とかそういった言葉を普段使わないので、文中でおかしな使い方をしているかもしれません。その際は温かい目で見て頂けると幸いです。

 

 

問題設定

ひぐらしのなく頃にシリーズの「さとりか」。プロジェクトセカイの「まふえな」。アサルトリリィの「たづりり」。こうした四文字を「カプ名」や「CP名」といいます。「カプ」、「CP」とはカップリングの略です。始めの二文字と、それに続く二文字はそれぞれ別の人物を表しています。たとえば、「さとりか」であれば「北条沙都子」と「古寺梨花」からそれぞれ二文字ずつとって「カプ」を表現します。

この四文字表記には、左右が存在すると言われます。「受け」と「攻め」というやつです。一般に、前者(左)が「攻め」、後者(右)が「受け」になります。この「攻め」とか「受け」とかいうのは、BLであれば肉体関係を表すもので、挿入側が「攻め」、被挿入側が「受け」になるらしいです*1

本エントリが問題にするのは、百合における左右です。

ピクシブ百科事典では次のように述べられています。

 

百合では受け攻めはあまり意識されない、もしくは固定されない(→リバ)ことが多い。カップリング (かっぷりんぐ)とは【ピクシブ百科事典】 「同人用語のカップリング」の項より]

 

百合では、BLでいうところのリバが常態化しており、「攻め」と「受け」の概念が希薄である。カップリング表記の際、例えば魔法少女まどか☆マギカ鹿目まどか暁美ほむらカップリングは「ほむまど」とか「まどほむ」とか呼ぶが、この場合呼び名の順序が違うだけで、基本的には区別されない。百合 (ゆり)とは【ピクシブ百科事典】「解説」の「カップリング表記について」の項より。太字及び、ほむまど・まどほむの鍵括弧は引用者による]

 

ここでは、「百合が左右(=受け/攻め)を意識していないこと」が指摘されています。後者は少し非難めいた書き方に見えますね。それはおそらく気のせいではありません。その少し後の箇所も引用しますと、次のようにあります。

 

ただし、百合でもたまに固定の人が存在し、そのような人はカップリング表記に拘り、表記が雑であることに不快感を示すことがある。[同上]

 

つまりこれは、「百合のカップリングでは左右があまり重視されないけれども、だからといって左右を意識しないことはトラブルに繋がるよ」という注意書きです。

ここで注目したいのは、「表記が雑」という表現です。ピクシブ百科事典の筆者(あるいは筆者たち)がそう思っているかどうかは分かりませんが、どうやら界隈の空気として、「左右が意識されていない=表記が雑」という認識は、ある程度市民権を得ているとみてよさそうです。

「本当かな?」と思った方は、Twitterで「百合 左右」と検索してみてください。なかなか過激なツイート群を見ることができると思います。

私は「百合は左右を意識すべきだ」という立場を支持しません。しかし、「百合は左右を意識しなくてよい」という立場も完全には支持できません。

ではどうするか。

私は、そもそも左右という土俵に乗らず、そこから一旦降りることを提案します。

それについて説明するには、「BL」と「百合」の各性質について比較検討が必要でしょう。

なので、次項ではまずBLのCP名について検討します。

 

BLの左右とその特徴

先述したように、BLにおいてCP名とは左右を表すものであり、そして左右とは一般的に肉体関係を表すものです。

ピクシブ百科事典に「例え前戯の段階ではリードされていたとしても、最終的に挿入すればそれは「攻め」なのである*2」とあるように、男性器の挿入/被挿入が「攻め」か「受け」かの絶対的基準になります*3

これは一種のラベリングであるということもできます。たとえば、太郎と次郎がいて、このカップリングを「タロジロ」と呼ぶか「ジロタロ」と呼ぶかによって、どちらが「攻め」でどちらが「受け」か、一目瞭然になるのです。

この分類法は、コンテンツの受け手にとって有利になります。利便性があるのです。

思うに、ここでの利便性には二つの種類があります。一つは、「見たいものを探せる」という積極的利便性。もう一つは、「見たくないものを見なくて済む」という消極的利便性

言い換えると、積極的利便性は、たとえば「太郎が攻めで次郎が受けのカップリングが見たい」という人が、任意のサイトで「タロジロ」と検索すればお目当てのコンテンツを享受することができるという利便性です。

また、消極的利便性は、「太郎は攻めで次郎は受け、それ以外認めない」という人が「太郎が受けで次郎が攻めのコンテンツ」に辿り着かない利益を得ることができるという利便性です。

「地雷」という一見大げさにも見える言葉が飛び交う界隈ですから、得るべくして得た発明と言うべきでしょう。

さて、このCP名は、次のような三つの特徴を有しています。

①CP名が性行為を背景にしている点②ゆえに二人の関係が閉じる点③そして四文字表記をする以上、左右が発生する点

まず①について、BLにおけるCP名は、左右表記、そして性行為と直結するために、構造的に大きな特徴を有しています。すなわち、CP名がただちに性的関係あるいは性行為を惹起させるという特徴です。「いや、私はCP名を見てもそうは思わない」と仰る方もいるかもしれません。しかし、私は主観的な話をしてはいません。CP名が受け/攻めを背景としていること、そしてそれが性行為を基礎として持っていることから考えれば、論理的帰結として一般的にそう考えるのが妥当だという話をしているのです。

次に②について、「タロジロ」の例を再び使うと、このCP名では太郎と次郎の役割は固定的です*4。つまり、太郎が攻めて、次郎が受けるというキャラの役割は決まっているのです。もちろん、攻め・受けには様々な種類があるのだろうと推測します。ですが、CP名単体においては、そういった特殊性は捨象されます。「リバ」か否かなどをさらに追記せねばならないのは、まさしくその証左です。この役割固定性ともいうべき性質は、百合については大いに問題となるのですが、それは後述します。

最後に③について、たとえば「タロジロ」というCP名を見た時、BLの文脈に親しい人は、十中八九、太郎を攻め、次郎を受けだと見ます。BLの文脈においては、CP名は必ず左右=受け/攻めを発生させるのです。

②と③は同じことを述べているように見えますが、少し異なります。②が説明するのはキャラの役割という作品内容に根差す問題です。他方で、③が説明するのはCP名そのものの問題です。

この三つの特徴のうち、①は全てのBL文脈に当てはまると思われますが、②と③については「左右固定派」にのみ当てはまり、「同軸リバ派」には当てはまらないことには留意すべきでしょう。

一度議論をまとめましょう。BLにおいて、CP名は三つの特徴を有します。一つ目は、一般的に、それが性行為と直結していること。二つ目は、CP名で表記された二人は役割が固定されること。三つ目は、CP名は左右を発生させること。

そして、さらなる特徴として、CP名は利便性を有しています。「見たいものを見ることができる」利便性と、「見たくないものを見ないことができる」利便性です。

さて、次項では百合におけるCP名について検討しましょう。

 

百合の定義と特徴

冒頭近くで例を挙げたように、百合でもBL同様、四文字表記でカップリングを示す場合があります。たとえば、花子と佳奈子のカップリングがあったとして、それを仮に「ハナカナ」としましょう。この場合、「ハナカナ」は「花子と佳奈子のカップリングである」ことを示すラベリングとして機能しています。

しかし、先に述べたように、百合ではBLと違って「左右」があまり注意されません。

BLの文脈では、「タロジロ」とあればそれは「太郎が次郎に対し、性行為の場面で挿入側に立っている」ということを指します。

ですが、百合では「ハナカナ」とあっても、花子が加奈子に優位をとるとは限りません。

この事態は、一体どのように理解すればいいのでしょうか。

まず、議論の前提として、百合の規約的(stipulative)な定義*5を提示します。

 

百合とは「女性間における、非対称的なケアの相互的な応酬」である。

 

この定義は、VTuber批評などで有名な、美学者の難波優輝氏のツイートを参考にしています。

ケアというのは、相手を励ますとか、相手の話を頷きながら聞くとか、一緒に時間を過ごしてあげるとか、相手の辛い気持ちに同情して一緒に泣くとか、そういった一連の行為のことです。

ケアの大きな特徴に、非対称性があります。なぜなら、たとえ相手を励ましても、見返りがあるとは限らないからです。それはプレゼントを贈るようなもので、たとえば相手の誕生日にクマのぬいぐるみを贈ったとしても、次の自分の誕生日に相手が何かをくれる保証はありません。そのように、ケアは非対称性を持っています。一方向性といっても良いかもしれません。

それが奇跡的に相互に応酬されているとすれば、つまり、相手のケアに私のケアが続き、その私のケアに相手のケアが続くような関係が在るとすれば、そこに百合が見出される余地があるのです。

この「相互的」というのが非常に重要となってきます。

AとBが相互的な関係にあるというとき、AとBの関係は円環状になります。A→B→A→B→A→……といった具合に。円はどこでも始点となり得るし、終点になり得る。逆に、始点は存在せず、終わりも存在しない、ともいえる

花子と佳奈子の関係は、そのように理解されます。すなわち、花子と佳奈子の関係は、動的で、流動的なのです。決して静的、固定的なものではありません。花子が佳奈子に優しく声を掛けることもあるし、佳奈子から花子の手を取ることもあるのです。

百合において左右が重要でないのは、まさしくこの意味で理解されます。

「ハナカナ」と言った時、それは「花子と佳奈子の相互的なケア関係」以上のものを一般的には指示しないのです。

一般的には、と言ったのは、成人向けや一部のタイプの作品では例外があるかもしれないと思うからです。成人向けには性行為の描写があるだろうから、そこではBLの文脈が顔を出すこともあるかもしれません。また、一部の作品、つまり精神的な格差を重んじるような作品などでは、精神的に強い立場の人間を左に表記するといったこともあるかもしれません。

留保はつけましたが、百合のCP名はケア関係を基礎に持っているという理解は、おおむね妥当性を持っていることでしょう。

 

BLの文脈、百合の文脈

前項では「なぜ百合は左右を意識しないのか」という問いに、一つの答えを提示することができました。

ではもう少し踏み込んで、ここではBLの文脈と百合の文脈の衝突について考察してみましょう。

前項の議論では、「ハナカナ」という表記は「花子と佳奈子の相互的なケア関係」を指示するものであって、「花子が佳奈子を攻める」といった意味は基本的に含まれないことが示されました。しかしながら、これは百合の文脈における読解であることを忘れてはいけません。

もしBLの文脈に親しい人間が「ハナカナ」というCP名を見たとすれば、どうでしょう。その人はおそらく、「花子が佳奈子をいじめる話なんだろうな」などと理解するはずです。そして、場合によっては、佳奈子が花子より優位に立っていたり、相互的*6だったりして、その人は憤慨するのです。「話と違う!」と。

 

すれ違いを失くすには

この悲しいすれ違いを失くす手段は、二つ思いつきます。

一つ目は、百合の文脈とBLの文脈を峻別すること。二つ目は、百合コンテンツでは四文字表記を止めてしまうこと

 

解決策Ⅰ:BLの文脈と百合の文脈とを峻別する

「峻別」というのは難しい言葉ですが、ここでは「はっきり区別する」というくらいの意味合いで理解していただければ結構です。

BLの文脈と百合の文脈を峻別すること、つまり、百合にBLの文脈を導入しないことには、正当性があります。

「人に迷惑を掛けてはいけない」という常識的なルールがあります。たとえば、人にタバコの煙を吹きかけることは、副流煙や吹きかけられた人の選好によって、倫理的非難に値します(そういう「シチュ」でなければ)。壁の薄いマンションで、大音量で音楽を掛けることも非難に値します。

そのような観点から、BLの文脈で百合を読解する問題点を指摘します。

先に、BLの四文字表記=CP表記について、三つの特徴を挙げていました。

 

①BLの文脈におけるCP表記は、性行為を前提とする。

②BLの文脈におけるCP表記は、キャラクターの役割を固定する。

③BLの文脈におけるCP表記は、当然のごとく左右を有する。

 

まず、①について。百合は必ずしも性行為を前提としない点で、BLの文脈とはそぐわないところがあります。百合を描いた作品には当然性行為を描いたものも多いですが、それだけ友愛関係を描いたものも多数存在しています。

また、世の中にはアセクシャル/アロマンティックのキャラクターを描いた作品も存在しています。アセクシャルとは他者に性的に惹かれない/惹かれにくい性質、アロマンティックとは他者に恋愛感情を抱かない/抱きにくい性質を指します。性行為を前提とした読解は、そうしたキャラクター性を締め出している……とは言わないまでも、ファーストインプレッションとしてアセクシャル性/アロマンティック性を惹起できないことには弊害があると思われます。

ここで、「BLは性的関係ばかりを重視しているのではない、その過程をも重視している」という声があるかもしれません。それはもっともですが、ここで問題視しているのはBL作品の是非についてではなく、BLの文脈でCP名を読解することについてです。BLの文脈で百合のCP名を読解すると、性的関係や性行為が潜りこむことに弊害を感じているのです。

(参考にしたツイートを以下に引用します)

 

次に、②について。BLの文脈で百合のCP名を読解すると、役割が固定されて見える恐れがあります。先に述べたように、百合は一般的に、始点と終点がない(あるいはどこでも視点と終点になり得る)円環状の性質を持っています。百合における各キャラの役割は、固定的ではなく流動的・可変的なのです。CP名をBLの文脈で読んでしまうと、作品を読んだ際、描かれたキャラの流動性に面食らってしまうことでしょう。その際ダメージを受けるのはBLに親しい読者の方です。そして、もしその読者が作者に直談判しにいって、文句を言ったとしたら、作者は多少なりとも傷ついてしまうことでしょう。これはお互いにとって害があります。

 

最後に、③の左右の存在。繰り返しになりますが、これは②とは違います。②はキャラの役割という作品内容の問題に言及するのに対し、③はCP名そのものの問題に言及してるからです。

これも同じく、百合は円環状の性質を持つことから説明ができます。始点も終点も持たない百合は、当然左も右も持ちません。にもかかわらず、BLの文脈による条件反射的な読解(四文字を見たらそれはCP名である、という反射)で左右が持ち込まれてしまうと、なし崩し的にBLの文脈が導入され続けてしまう恐れがあります。すると、①や②といった問題が浮き彫りになってくるのです。それゆえ、CP名を採用するか否かについても検討の余地があると考えられます(解決策Ⅱの項で述べます)。

こうした衝突は一定の害を有するうえ、何より悲しいことです。

しかしBLの文脈と百合の文脈を峻別することで、衝突は緩和されることでしょう。

たとえば「ハナカナ」を読んだBLに親しい読者は、BLの文脈でCP名を読解することにより、「これは花子が佳奈子をリードする話なんだな」と思ったとします。しかし、実際描かれている場面の一部は、佳奈子が花子をリードしている(とその人が思った)ものでした……。しかし、そのとき作者は読者を騙したわけではありません。作者の思う相互的なケア関係を描いたのみです*7。また、そうした事例が起こったとしても、百合愛好家たちが「左右表記に関して乱雑な扱いをしている」のではありません。百合の文脈においては、CP名は性的関係ではなくケア関係を示しています。ケア関係は相互的です。ですから、百合愛好家はそこに左右を見出してはいないのです*8

BLの文脈がある一方で、百合の文脈もまた存在します。百合に関しては、自身に内面化されたBL的観点を一度保留してから百合に向きあうことが大事でしょう。

しかしもちろん、BLの文脈におけるCP名の利便性を否定するわけではありません。地雷を避けたいという思いを一因として細分化してきたBLは、独自のシステムを開発することに成功しました。その一つが「左右」という発明であり、その利便性には目を見張るものがあります。

百合においては、その利便性はあまり活かせないでしょう。なぜなら、BLにおいては性的関係が重視され、それに基づいてCP名が決定されますが、百合においてはケア関係が重視されるため、CP名が一意に決まりません。繰り返し述べているように、ケア関係は相互的ですから、絶対的な「左右」を決定できないのです。

BLに親しい人たちが「利便性に欠ける」という理由で百合を非難するならそれは妥当なものでしょう。ですが、そもそも百合の文脈では両者の相互的・双方向的な(場合によっては対等な)ケア関係が喜ばれていることを考えれば、それは仕方のないことなのです。

 

解決策Ⅱ:百合では四文字表記をやめる

二つ目の解決策は、「ハナカナ」のような四文字表記が左右概念を喚起するなら、いっそのことそれを止めてしまおうというものです。「左右」という観念が衝突の種となっているなら、それを摘み取れば話は早いですよね。

実際、解決策Ⅰのような峻別を呼びかけるやり方には限界があるでしょう。もし呼びかけに効果が出ず、マイナスの厚生が発生し続けるようであれば、四文字表記をやめてしまうことにも一考の余地があるはずです。

しかし、話はそう簡単には行きません。

なぜなら、どう表記すれば百合の文脈を適切に反映できるか不明だからです。

思いつく限りで一番良いのは、「ハナカナは尊い」をやめて「花子と佳奈子の関係は尊い」と言うことかもしれません。

しかし、これはインターネットにはかなり不向きでしょう。インターネットは「速い」環境です。ですから、少しでも多くの情報を仕入れ、少しでも多くの情報を流す、それがインターネットで生きる術となります。であれば、四文字の「ハナカナ」と、十文字近い「花子と佳奈子の関係」では、後者が圧倒的に不利です。

BLの文脈と距離を置きながら、百合の文脈を適切に表現でき、かつ効率的なフレームワークがあれば、問題は解決すると思われます。ですが、それを見つけるのが難しいのです。これは今後の課題でしょう。

 

まとめ

ここまで、BLの文脈と百合の文脈という二項対立を主軸に据え、百合がケア関係を重視すること、そして両文脈の峻別が重要であることを述べてきました。

ここで断っておきたいのが、「相互的な百合」というキーワードに反応して、「こいつは『BLは一方的だ』と決めつけている!」とは受け取らないでほしい、ということです。今回、BLと百合とで比較をしているのは、CP表記という次元においてです。なるほど、作品内容の次元に目を向ければ、BLには男性同士のケアを描いたものも多いです。その点、百合とは共通項を見出せます。しかし、CP名の次元においては、やはりBLが性的関係に重きを置き固定的な見方をする*9一方で、百合はケア関係に重きを置き流動的な見方をするのだと、私は思っています。

もちろん、本エントリで述べたことには、多くの例外があるでしょう。これは一般論です。まず一般的なことを語り、そこから特殊なことを語っていく。それが重要です。このエントリは道の途中に過ぎません。

 

私が望むのは、BL、百合の両界隈が発展することです。このエントリがその役に立つことを願っています。

*1:攻め (せめ)とは【ピクシブ百科事典】を参照

*2:攻め (せめ)とは【ピクシブ百科事典】 「2.の概要」の「ボーイズラブ(BL)における攻め」の項より

*3:精神的優位さを左右の基準にすることもあるようだが、ここでは一般論に注力する

*4:これが逆で、キャラクターの役割が固定されているから左右が発生しているのだと理解しても、ここでは構わない。この箇所については、どちらで解釈しても議論には支障がない。

*5:定義についてはDefinitions (Stanford Encyclopedia of Philosophy)を参照

*6:BLの言葉でいえばリバということになるだろうか。しかし、リバは相互的な肉体関係を観念するのに対し、百合は相互的なケア関係を観念する点で、互いは異なっている

*7:これも繰り返しの注釈になるが、一部の作品、特に成人向けに関してはこの限りではない

*8:もちろん、全員がそうと主張するわけではない。だが、少なくとも「左右を意識しない」人々はこの認識に立ってると考えて良いだろう

*9:リバと呼ばれる方々に関しては、固定的という見方は当てはまらない。だが、性的関係に基準を置く点では、やはり百合と距離があるといって良いだろう