とらじぇでぃが色々書くやつ

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主にVTuberの記事を投稿中。

VTuberの見えない領域 ~魂と生身〜

 

 最近、有名VTuberの引退発表が続いてしんどいです。ちょうど「引退とは何か」などを考えていたのですが、より勝手な使命感を駆り立てられました。大学の期末試験を乗り切ったら書こうと思ってます*1

 

 さて、この記事ではその前座として、VTuber「魂」概念についての更新を試みます。流れとしては、魂のさまざな曖昧さを指摘し、そこから新概念として「生身」を提示、魂の詳細な述べ方を模索します。

 また、「VTuber」という総称はいまや意味が広すぎるという指摘*2を重く見て、以下においてはVTuber」をひとまず「にじさんじライバー」を指すものとし総称としてのVTuberは「バーチャルユーチューバー」と表記することにします。これがどこまで敷衍できるのかは、今後みなさんと一緒に考えて行けたらと思います。

 

 

 

 

魂の曖昧さ

 VTuber(=にじさんじライバー)とはなんぞやという話はもはや不要でしょうから、魂概念の確認から始めましょう。

 魂というのは、バーチャルユーチューバーの中の人を比喩的に指す言葉です。リスナーは、アニミズム的な「人間の肉体を動かす霊魂」という発想をもとに、 たとえばVTuberの立ち絵を「身体(=ガワ)」、その身体をモーションキャプチャーを用い動かす何かを「魂」と喩えました。具体例を出すと、月ノ美兎に対する「中の人」、つまり月ノ美兎の声を担当しかつ立ち絵を動かす何者かが魂です。

 

 しかしこの魂は、世間ではかなり曖昧で、意味が広く用いられているように思います。

 

 たとえば、今例に挙げた月ノ美兎は、第三者的には「誰かよく分からない人が月ノ美兎をやっている」という認識が一般的です。ここでは、魂のよく分からなさという元の文脈に準じて語が使われてますが、一方、バーチャルのじゃロリ狐娘YouTuberおじさん(現在は引退済)の「魂」はねこます氏で、この場合、第三者的にはねこます氏という実在の人間が魂ということになり、少し元の語義とは意味が逸れてきます。しかし、この異なる両者は、同じく魂と呼ぶことが暗黙に了承されています。

 

 これはバーチャルユーチューバーのタイプ分けの問題でもあります*3、同時に魂が、総括的な意味での「VTuber」と同じく広義で、議論に使うには少し不便であることも意味します。

 

 また、もう一つ例を出せば、のらきゃっとの「魂」は実際にはノラネコPですが、しかし彼女の場合はそう言ってしまっていいのか少し疑問です。のらきゃっとは合成音声で話しますから、身振りと口調さえ似せてしまえば、誰でも彼女になれるという蓋然性があります。私はアニメPSYCHO-PASSのたとえを一度呟いたことがありますが、そこで言及したストーリー上では、殺人犯が被害者からアバターを奪い取り、全く同じ声、同じような身振りを使って、被害者がそのアバターを使っていた時より、より多くの人々の支持を集める様子が描かれています。おそらく、現実にもそういったことは可能でしょう。

 

 

 そうしてみると、彼女と魂は、一対一の対応でなくともよいことになります。それはつまり、彼女一人に対して複数の魂が入り込み得ることを意味します。

 しかし、魂とは元の意味において、人間の体と一対一でのみ対応します。「別の魂が身体に入り込む」とは、外見のみ同じの別人になるということです。そして私たちは言葉を用いて議論するわけですから、そうなると、たとえば一つのアバターに複数人が入り込むことの是非や今後の影響を考えたいときに、その魂という語の先入観が、議論を邪魔してしまう可能性があります。

 

 ひょっとすると、バーチャルユーチューバーに使われる魂という概念は、バーチャルユーチューバーの多様化(下のツイート参照)によって、使い勝手が悪くなってきたのかもしれません。

 

 

 魂と身体の対応の仕方や、その語そのものが持つ制約など、まだ他にもあるかもしれませんが、ともかく「魂」は事実、議論の俎上では使いにくい言葉でしょう。

 そこで、魂を切り分け、かつ魂では見落とされがちな領域を指摘する概念として、「生身」を考えようと思います。

 

 

生身という考え方

ネットに追跡されないもの

 当たり前のことですが、VTuberはインターネットに生きていますYouTubeやミラティブで動画を公開し、配信し、Twitterで日常の諸々や配信予定などを呟くのが彼らの暮らしで、それらはすべてインターネットのうえで成り立っています。

 そのインターネットですが、それは誰もが誰とでも繋がれる場所であるとされています。私は自分が望むなら、関西から遠く離れたアメリカの人とシャドバの話もできるし、ネットの友だちとスマブラもできるし、有名なタレントに直接思いを伝えることもできます。そこではあらゆる情報があふれ、私たちは知りたいことを、調べる意志さえあればすぐに知ることができます。まるでそれは、ありとあらゆるものが揃う楽園のようにも思えます。

 しかしながら、私たちはすべての情報をネットに明け渡すわけではありません。私たちはネットリテラシーを要求されます。個人情報、つまり顔や住所などは、平均的な人間のほとんどは公開せず、手の内に持っておくのです。ネットは時に身勝手で横暴で、理性は通用しないことがありますから、そもそも渡さないに越したことはないのです。

 私はその、ネットの手に渡らない、公開されない情報群を、以下「生身」と呼びたいと思います。

 たとえば、私は「とらじぇでぃ」として活動しています。それは、「本を読むのが好きな法学部二回生で男で意味の分からないことばかり呟いている誰かさん」であり、それだけ見れば私はかなりの情報を(ライフログ含め)SNSなどに手渡しているのですが、しかし一方で、本名とか、住所、名前などは一切ネットに出していません。なぜならトラブルに巻き込まれる恐れがあるからです。私はそれらの総体を、ネットという巨大空間に包まれない、生の身体、生身だと言いたいのです。そしてその一方、「とらじぇでぃ」は一つの仮想(仮装)として機能します。その仮想は、私が出そうと思った情報を吸収し、成長していきます。この仮想を、以下「演者」と呼ぶことにします

 もう少し例を出しましょう。これは一つのアナロジーとして言うのですが、たとえばリアルの生活においても、生身と演者のようなものを見出すことができます。私は、実生活において、自分のことを誰にでも話したりはしません。それは「相手」をどの程度まで信頼すべきであるかという問いを経て、慎重に決定されます。また、それは家族に対してもそうです。誰でもそうでしょうが、自分のことをすべて、何もかも知っている他者というのは存在しませんし、またそういった人は、物理的側面においても言語的側面においても、存在できません。

 そこでいう「相手」は、本論においてはインターネットです。インターネットは先ほど言ったように、信頼できる相手とは言い難く、また、部分的に信頼できたとしても、すべてをさらけ出すことはしないでしょうし、もし本人がそう考えたとしても、実現は不可能です。なぜなら、時間的余裕も、言語の語れる範囲にも、限りがあるからです。

 

 

VTuberの生身

 

 同様に、VTuberにも生身が考えられます。

 

 

VTuberの構成

 VTuberは、VTuberのキャラクター人格と、生身から間接的に生み出された人格で構成されると想定できるでしょう。前者のVTuberのキャラクター人格」とは、そのキャラクター設定から導かれる人格を指します。また後者の「生身から間接的に生み出された人格」とは、一般に言う「中の人」の人格のことです。中の人とは、先ほどの月ノ美兎の例で言ったような、「誰かよく分からないがそのVTuberを動かしている人物」のことであり、その人格は、生身から影響を受けて決定されます。

 VTuberは、そのVTuberのキャラクター人格と、「中の人」の人格とがせめぎ合って成り立つ存在です。両者はある意味同一人物ですが、矛盾したことに、双方はもう一方を押さえつけ弱めようとするか、あるいは噛み殺そうとします。両者の均衡を保つことは、至難の業でしょう。しかし片方が消滅してしまうと、そのVTuberは消滅します*4。しかしながら、両者は間違いなく互いに別人です。

 ここには、キリスト教カトリックの三位一体のような難しさがあります。カトリックは、父・子・聖霊はすべてがイコールとなり神を指すとしつつ、しかしそれぞれは別のものだとします*5

 

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三位一体の図。WIkipediaから。

 

 そういったように、VTuberのキャラクター人格と、「中の人」の人格は、互いに一致して一つのVTuberを作りながらも、両者は別のものです。そういった複雑さの中で苦しむVTuberを、みなさんは見たことがあるでしょう。御伽原江良はその例として最も適当ではないでしょうか*6

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御伽原江良。かわいい。画像は@OtogibaraEra12月6日のツイートより。



 

不可侵領域である生身

 

 そして、重要なところですが、その両者は客観的に、つまり第三者的に見て区別されません。両者は見かけ上、同じに表象されます。もし第三者が、仮に区別がつけられたと思っても、それらは大抵、どちらかに断定することはできません。たとえば月ノ美兎の「もつ鍋とビール」も、一見すると「中の人」の人格がキャラクター人格に競り勝ったと見えますが、実は逆に、「飲酒する高校生」というアングラ的設定を暗示しているだけかもしれないわけです。私たちリスナーという第三者は、表に出てこないそれをただ類推できるのみで、その真意が分かるのはVTuberのみなのです

 ここでいう見えない部分が、VTuberの生身にあたります。その人だけの特権的領域であり、その人が気を許さない限りは不可侵の領域。私たちリスナーは、間接的にのみ、生身に触れることができます。

 ですから、よく VTuberは「アバターと人間を組み合わせたその重なり合う部分」だと言われるのですが、それはそのVTuberにとってのみの話であって、第三者から見るとそれはごちゃ混ぜになってしまって区別ができないのです。

 

 

演者の生身

 

魂と生身の範囲

 

 ところで、この生身というのは、魂と比べると狭い概念であり、同時に魂が掬いきれなかった領域をカバーする概念です。最も広い意味での魂を区切ったものが、中の人と演者、生身であるとも言えます。

 またそれらは、「魂」概念ではこれまでもたらされて来なかったであろう「ネット空間の内と外」の考え方を持ち込みます。演者と生身は「魂」という語のスピリチュアルな先入観からVTuberを解放し、インターネットの内外という側面から改めてVTuberを見つめることを可能にします

 

 では生身は、魂と比べてどのように狭いのでしょうか。

 生身をあえて魂になぞらえて言えば、それは「端的な魂」です。つまり、魂の魂、客観的には認識できない、つまり実在しない魂です。演者はネットにおいて実在しますが、生身はネットから認識できないという意味で実在しません。

 また、生身は魂と違って剰余の概念であり、否定形でしか語ることができません。生身はネットから確認“できない”、第三者からは認識“できない”概念です。ある第三者に演者と生身の境界が決定された状況において、その生身を肯定で語れるのは、その本人のみであり、その本人だけが、生身を知っています。なので、もし本人がそれを公開すれば、それは生身ではなくなります。ネットに譲渡されていないもの、それが生身なのです

 

 

認識できるもの・できないもの

 

 ここで発想のベースにしているのは、哲学者・永井均の思想です。永井は『存在と時間 哲学探究1』などの著作で「私」についての哲学を展開しています。それは私の理解する限りでいうと、次のようなものです:

「私」には、「実在的な私」「現実的な私」という二つの「私」がある。

 前者は「私」にも「あなた」にも「彼」にもなる、客観的に認識できる「私」であるが、後者は認識できない。たとえば、あなたが転んで膝をすりむいてしまったとする。この時、あなたは痛みを感じるが、その痛みはあなたしか感じることができない感覚であり、あなたでない人は、その痛みを感じることができない。

 この「現実的な私」を象徴する感覚は、全員にあるが、しかし、その感覚は唯一「私」にしかない。この世界で、痛みとか、熱さとか、そういったものを感じるのは、唯一この「私」しかいない……。

 

 ここで私が試みているのは、こういったことです。つまり、みんなが認識できる私とは別に、この私にしか分からない私、演者やVTuberにしか分からない私というものがあって、それは決して表に出てこない、顔を見せない存在であるのです。ただ、注意してほしいのが、永井哲学の「現実的な私」はいわば色のない、世界を見る視点(開闢の点と呼ぶ)であって、人格や記憶などその人に固有の要素は「現実的な私」そのものに関係しないのですが、私の言いたい生身はその点、人それぞれに全く異なるものだということです。

  演者の生身は言い換えると、「ネットに追跡されない」情報群であるともいえます。ネットに表れず、ゆえにネット住民に追跡され得ない情報群が生身です。その生身は相対的で、どんな情報がネットから隠されているかは人によって大きく異なります。

 また、生身は本人の「隠したい」という意志ではなく、実際にネットで追跡可能かどうかに依存します。たとえば、直接的にメタな話になりますが、VTuberにはニコニコ生放送で活躍していた人物が活躍している例があります。彼らはその経歴を、VTuberというキャラクターを守るために、また演者の人格が優越してしまわないように、表に出さないようにしますが、しかし、彼らのネットでの声や喋り方は生身が間接的に滲み出て、影響した結果であるので、調べればそのネットに漂う過去の経歴は、 VTuberにも繋がってしまうわけです。こうして追跡されるものは、生身ではなく、演者に属します

 そうして演者と生身の境界線は、第三者によって引かれていくのです。そのため、これも重要なことですが、生身はある第三者によって確定されるといえます*7

 そうして決定された生身は神聖不可侵であり、契約などに依らなければ露出するよう強制されず、思想の自由に守られるはずです。

 ただ、誤解して欲しくないので確認ですが、「演者」と「中の人」は違うものを指していました。「中の人」とは、「VTuberを動かす、生身から間接的にやってきた何者か」です。

 そのため、VTuberの人格については話が異なります。VTuberの場合は、キャラクター人格と、生身から間接的に生み出された人格(=「中の人」)とが融合してしまって、区別が付けられないのでした。

 

 

 VTuberと演者

 

VTuberも一人の演者である

 

 さて、多くのリスナーは、 VTuberの「中の人」のTwitterアカウント*8= VTuberの演者を、魂のアカウントだといいます。しかし、もしそれが「演者はVTuberの本質、中核である」という意味であるなら、ここまでの文脈上、それは少し違うといえるかもしれません。というのも、演者は生身ではなく、いまだネット上にある電子的存在です。つまり、そこにもVTuberのような仮想が存在しているわけです。たとえば、VTuberの別のアカウント、つまりVTuberの演者を覗くことは、実際のところ可能です。少し調べれば、ネット素人の私でも簡単に出来てしまいます。しかし、そのアカウントは、VTuberの本質ではないのです。それはVTuberとは別の、生身の一つの側面であり、生身がネットの仮想の皮を被った、もう一つの姿にすぎないのです。

 つまり、VTuberと演者というのは、生身を前にすると、同じ階層に立つことになりますVTuberも、演者も、同じ人に“演じられている”からです。その意味で、両者は両方とも演者なのです

 

 

VTuberは特権的な演者でもある

 

 しかし、そうは言いつつも、両者は同じではありません。 

 私たちが見るVTuberというのは、唯物論的に断定すれば、人間がアバターを動かしているに過ぎないのですが、しかしそれはあまりに単純なものの見方と言わざるをえません。VTuberはそう単純なものではなくて、VTuberは同時に、「外来のキャラクター性」を纏っています。「外来のキャラクター性」とは、先ほどの「VTuberのキャラクター人格」の言い換えで、生身に属する根源的な思想とか、性格とか、無意識の行動とかとは全く異なる、キャラクター設定から与えられた人格のことです。これが、「VTuber-演者」関係の、重要なファクターです。

 つまり、VTuberは、それ自体が演者であるが、しかし同時に、外来のキャラクター性と「中の人」の人格で成り立つ、演者とは異なった存在であるといえます。

 以上より、VTuberはいわば、特権的な演者といえましょう。 

 

 生身という観点が追加されると、私たちは一個の共通の基準を得ることになります。VTuber・魂の関係のみでは、議論には少し不便ですが、一方でVTuber・中の人・演者・生身という関係は、全人間が持つ共通の要素にVTuberの基盤を指示できます。そうして、生身という不可知に敬意を払い、また、VTuberと演者が同じくネットの存在であることを意識することで、たとえば引退についても視野が広がるのではないでしょうか*9

 

 

まとめ

 

 さて、ここまで色々と説明してきましたが、今一度、内容を確認します。

 

 メインの概念である「生身」とは、全人類に共通の、ネットから隠されたものであり、また否定形で語られる、剰余の概念でした。

 そして、「演者」とは、ネット世界に参入した人が仮想的表皮を身につけた姿であり、これもネットにいるすべての人間が持つものです。

 またVTuber」とは、生身から間接的に生み出されたキャラクター性と、生身由来ではない外来のキャラクター性が結合して成立する、通常の演者とは異なった特権的な演者です。

 最後に「中の人の人格」とは、「 VTuberにおける、生身から間接的に生み出されたキャラクター人格」でした。

 

 これらは魂を更新し、その語義から意味内容を解放します。そして、新たにネットの内外という視点を追加するのです。

 

 また、この三概念、とりわけ生身の存在は、まだ十分検討したわけではないので提示するだけにしたいのですが、実用的側面では、VTuberについての言説にゆとりを与えるのではないかと考えています。つまり、良い意味で人を懐疑的にさせ、健全な議論へ導く可能性を秘めているのではないかと考えてます。しかし今はうまく書けないので、これは今後の課題にしたいです。

 

 最後に、再三の確認になってしまいますが、この記事では「VTuber」をにじさんじライバーを指す言葉として、記号的に用いました。「生身」やその他の考え方を他の箱や個人勢にそのまま転用することはおそらくできないと思うので、どこまでどのように敷衍できるかも考えていくべきでしょう。

 

 以上、また長くなってしまいましたが、お付き合いくださりありがとうございました。よかったら他の記事も読んでいってください。

 

 

tragedy.hatenablog.com

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参考にしたもの

存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)

存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)

 
国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

死

 

ja.wikipedia.org

図の孫引きお許しを……

t.co

t.co

t.co

 

 

*1:上がらなかったら飽きたか諦めたと思ってください笑

*2:VTuberは4種類いる|hatosan|noteを参照

*3:同じくVTuberは4種類いる|hatosan|noteを参照

*4:確認ですが、ここでいうVTuberにじさんじライバーのことでした。

*5:まちがっていたら指摘お願いします……

*6:VTuberとして生きることの喜びと苦しみ・御伽原江良の場合|メルクマ|noteなどが分かりやすい。

*7:そしてその境界線は動的であり、常に生身は削られていくでしょう

*8:など別の活動名

*9:どう広がるかについては、次回の記事で書くつもりです。