『ALTER EGO』をプレイして
ついさっき、スマホアプリゲームである『ALTER EGO』のエンディングを迎えました。
赤月ゆにちゃん様のツイートなどで前々から存在は知っていたのですが、
赤月ゆにとエスがひたすらにヘルマン・ヘッセの話をし、エーミール(『少年の日の思い出』の登場人物、と思われがちだけど、実は同作者の『デミアン』にも同名のキャラが登場。同作を発表した当時のヘッセの筆名でもある)についての考察をする動画
— 赤月ゆに 🦇 秋田赤十字で血を捧げよ (@AkatsukiUNI) 2019年5月11日
(ALTER EGO × 赤月ゆにコラボ企画)
app storeからのスパムみたいな宣伝メールに載っていたのを目にして、暇だし()やってみようと思ったのがきっかけです。
率直な感想をいえば、すばらしかったです。
どのくらいすばらしかったかと言えば、追加シナリオ2000円分課金するくらいにはすばらしかったです。
トゥルーエンドにたどりつくだけなら無料なので、みなさんにもおすすめします。
特に、心理学や哲学に興味のある方、美人の女性に罵られたい方はハマると思いますね。
少しどんなゲームなのか紹介します。
30秒でわかる『ALTER EGO』 pic.twitter.com/SWtdOPIf00
— 大野真樹@ALTER EGO (@date_maki) December 28, 2018
このように、時間経過、あるいは流れてくるふきだしをクリックすることによってポイント(=EGO)を集め、それを消費することによりエス(途中に出てきた女性)との会話を進めていくゲームです。
動画にあるとおりですが、途中エスからの質問に答えることがいくつかあります。それによってエンドの種類がかわるようになっているようです。
エンドは3つ。どのルートを選ぶかによって、要求されるポイントの量がかわってきます。
ALTER EGOのゲームデザイン
— 大野真樹@ALTER EGO (@date_maki) January 3, 2019
こういうゲームを作るぞと決めたり、シナリオやテキストを書いたりは「大野真樹 @date_maki」が担当しています。ALTER EGOは自分のEGOを貫く、というのがコンセプトでした。
中途半端に大衆に寄っても良くないと感じたので、なにを良しとするかは自分の好みを通しました。
このように開発者さんもおっしゃるだけあって、少し人を選ぶのかもしれませんが、先ほども言ったように、適性のある人はとことんハマると思われます。
さて、この先ネタバレを容赦なくねじこんでいくのですが、このゲームは見る人が見れば分かるとおり、心理学をその基礎としています*1。
登場人物は三人。
本に囲まれた狭い部屋に住むエス、壁男とよばれるエゴ王、そしてプレイヤー。
これらが無意識(エス=イド)、超自我(スーパーエゴ)、自我(エゴ)に対応していることは明らかです。
エスは衝動を時に抑えられなくなる場面があり、エゴ王は自我であるプレイヤーに規律を守るよう促します。
しかし、ALTER EGOとは?
それぞれが対応関係にあったのであれば、ALTER EGOも何かを指すはずです。
エンディング名も、イド、スーパーエゴの次はエゴエンドではなくオルターエゴエンドだったわけですから。
字義から考えましょう。オルターエゴというのは、通常の意としては別人格のことを指します。
といっても、おそらく多重人格者における一人格ではなくて、劇などで道化としてじが演じられる別人格のことです。
たとえば、俳優がドラマで刑事役を演じたりしたときの、その刑事としての人格をオルターエゴ、すなわち直訳にいう別の私*2として見るのです。
なので、この意味でのオルターエゴは、日常での仮面の使い分けとか、Vtuberのパーソン/ペルソナとかにも適用しようと思えばできる、広い意味の言葉のように思えます。
ちなみに、グラブルにもオルターエゴと名の付くスキンがあります。
コンジュラーは召喚士やらなんやらという神秘的・魔術的意味合いがあるようですし、また絆の象徴として知られる赤い糸が伸びていることからも、背景の人物が主人公の姿をした何かを操っていることは確かでしょう。
ジョブのフレーバーテキストはこうです。
無秩序の渦による侵掠の赤き糸を拒絶し、逆に支配下に置くための絡繰りとした勇姿。
人の子の身に余る大いなる力も、仲間と共に仲間の為に扱えば造作も無い。
そこまでしっかりグラブルのストーリーを見ているわけではないので的外れなことを言っていたら申し訳ないのですが、テキストを見る限りでは、そのままですが、操ろうとする何者かを逆に操っている様子がこのイラストということになりそうです。
もし、先の定義を無理やり押し込めるとするなら、「もはやその主人公は、前の主人公とは別人」だということになるのでしょうか。客観的にか、内在的にかは分かりませんが。
話を戻して、もうひとつ、オルターエゴは哲学で他我という意味にも使われます。
他我はすなわち他の私です。
つまり「他人が持つ私」のことですが、哲学ではその他我をどう感じ取れるのかといったことが問題になることがあって、それを他我問題といったりもします。
『ALTER EGO』のいうオルターエゴは、この意味で用いられていると推測します。
オルターエゴエンドの内容は、エスと共存する道を選ぶというものでした。
これはつまり無意識・衝動と共存することの暗示でしょうが、しかしセリフなどから総合的に判断する限りでは、エスはプレイヤーとは独立して存在しているようにも思われます。
彼女は例えば、狭い部屋が嫌だ、本を読むのが好き、私ってなんだろう、など独立した思考を持っています。擬人化ゆえにそうなったとも言えるかもしれませんが、しかしそれなら、なぜエンディングは順番として妥当な「エゴエンド」ではなく「オルターエゴエンド」なのでしょうか。
それはまさしく、「私」の内なる別人格としてのエスとの共存を指すのです。これは無意識的衝動を受容する以上の意味を持ちます。
というのも、ご存知のとおり、無意識というのは大海原のように広い領域だと言われており、その多くは自我のコントロールが効きません。
フロイトは、人間の自尊心は3回ショックを受けたといいます*3。その3回目のショックが、無意識の存在によるものです。人間は自らを制御できていると自負していたのに、実は無意識がその多くを占めていたと明かされれば、困惑するのも無理はありません。
そしてその無意識は、自分でも思ってもみなかったことを時たま露呈させます。
その意味で、思い切った言い方をすれば、私たちみんなが多重人格者であるわけです。
ユングは無意識の作用を、意識の対抗作用だと言っています*4が、無意識はそのように、意識のベクトルと逆方向に力をかけて、一旦その人を引き止め、考えを改めさせようとします。
ソクラテスはダイモーンの「否」の声を聞いたと言いますが、ダイモーンとはまさにその無意識の作用だったのかもしれません。
そしてその別人格としての私を受け入れるということは、そのユングの意味での精神的な健康を保つことを指しましょう。
少年マンガなどでよくある展開として、「登場人物の迷い→他なる私との遭遇→和解→解決」というものがあります。
自分とそっくりだったりすることの多い、精神空間で邂逅した何者か。それは往々にして、登場人物にとって目を逸らしたいことを、ダイレクトに投げかけてきます。しかしそれと最後はわかり合い、問題は解決に向かっていく。
これは、別人格としての私の声が、プラスの方向へと自分を導いていくことの暗喩であると解せましょう。
逆に、無意識の声を否定し続けることは、精神的疲労を呼び、場合によっては精神疾患すら引き起こします*5。
まとめましょう。
オルターエゴエンドはエスという内なる別人格の私との邂逅、そして和解を経た共存を表現し、それはユングの言う、あるべき精神の姿を示します。
その意味で、それはトゥルーエンドだったのではないでしょうか。