『存在と時間 哲学探究1』を読んだ
永井哲学に出会ったのは古本屋に売ってあった『哲おじさんと学くん』が最初でした。
そのとき永井先生のことは全く知らなかったので、ぱっと見た時にはふざけた入門書か何かかと思ったのですが、序文がまずそれを否定していること、哲学を専門にしているような人にこそ読んでほしいと書いてあったことから興味を惹かれ、購入してみることにしました。
形式は対話篇。昔プラトンを読んだとき以来な気がします。
序文の固さから少し読みづらいかもしれないなと思っていたのですが、哲おじさんと学くんのセリフだけで進んでいく形式はとっつきやすく、意外に文章も読みやすい。
「なんだ読めるじゃないか」という感じで、すいすいと調子よく20章、30章(見開き1ページで1章という構成)と私は読み進めていきました。
しかし、40章あたりまで来たところで、違和感に気付きます。
「あれ? なにがなんだかわからなくなってる……」
あ……ありのまま今おこったこt
そうです、この本、読めはするんですが理解するのがめっちゃくちゃ難しい。
というのも、普段使うような簡単な言葉を極力使っているので文を追うのは難なくできるのです。対話篇なので体にも入ってきやすい。
しかし、その水面下ではかなり高度な論理展開が繰り広げられていて、最初からしっかりついていっていないと、いつの間にやら置いてけぼりを食らってしまうのです。
そんなわけで、『哲おじさんと学くん』は挫折。
挫折しただけでなく、内容を思い返すと腹が立ってくる始末です。
この立腹が私の表層的な拒絶で、実は受け入れなくてはいけないものがこの本にあるのだというのは確信としてあったのですが、しかし感情はやっぱり憤りを感じているので、『哲おじさんと学くん』はまたいつか戻ってこようと思い本棚にしまいました。
それから少しして、今度は対話篇ではなく普通の論文形式で一番新しいものをと思い、大学の図書館で『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』を探したのですがあいにく貸出中でした。そこでそのひとつ前の、『存在と時間 哲学探究1』を読んでみようと手に取った、というのがこれまでの経緯です。
さて、永井均とは。
永井さんは言葉にできないもの——ウィトゲンシュタインにいう語り得ないもの——にかかわる哲学を展開している人です。
この新書で言われる内容こそが自身の哲学の原点だと永井先生は言うのですが、このタイトルにある「私」「今」「神」を貫くものが、永井哲学の探究するものです。
それは何でしょう。
たとえば、「私」に関していえば、とらじぇでぃという私は、「その目からだけ現実に世界が見えており、その体だけが殴られると現実に痛く、その人の悲しみだけが現実に直接的に悲しい唯一の存在者*1」であるような私ですが、その性質を持っているのは、あまりにたくさんの人がいるなかで、やはり唯一この私だけです。
これは一体なんだろう、というのが永井哲学の問いたいことです。
……あまりよく分からないでしょうか。
それも無理はなくて、なぜなら永井先生の伝えたいことは前述のとおり、言語では伝えられないものだからです。
彼もなんとか色々な言い方を駆使して感じ取ってもらおうとしているのですが、私も『哲おじさんと学くん』を読んでいなければ導入で既に躓いていたかもしれません。
また、「今」に関していえば、「どの時点もその時点にとっては現在であるが、そうした諸々の現在の中にきわめて特殊な——それがなければ何もないのと同じであるような——ものが存在している。これはいったい何なのか!*2」というのが永井哲学の問いたいことです。
詳しい内容はここに挙げた著書か、その他の永井先生の著書を読んでもらえたらいいと思います。
さて、永井先生自身も書いていますが、この哲学は全く、全く役に立ちません。
なにしろ、実在しない「現実の<私>」を扱うのですから。
実用を重んじる現代社会にとっては残念なことです。
ですが、「哲学は他の諸科学・諸学問とは違って、各人が人生において直接に感じ取った問いをそのまま問い、そのまま探求する学問でなければならない*3」というような定義も頷けるところです。
すでに与えられている問いだけにしか答えようとしないのは、たしかになんだか違和感があります。
しかも、永井先生はそれを口先だけでは無くて、独創的な切り口で哲学問題に挑む姿勢を示してそういうのですからすごいです。正直尊敬できます。
永井哲学は、ニーチェやウィトゲンシュタインと通ずるところがあるようですが、実際本を読んでいると、ニーチェを読んでいた時のような高揚感が呼び覚まされることに気付きました。
そう感じるということは、きっと何かあるんだと思います。
でも、難解。読み切れたのはよかったけど。
次はVtuber記事を書くために、『動物化するポストモダン』を読もうと思います。感想書くかは気分で決めます……。