私が哲学という沼にはまった理由
普段私のツイートを見てくれているフォロワーさん方、とりわけ約二年前、つまり私が「とらじぇでぃ」のアカウントを作った時から仲良くしてくれているフォロワーさん方はご存知だと思うのですが、私の趣味の一つは哲学、正確には、「他人の思想を知ること」です。
ブログでは自分語りしてなんぼということで、私が哲学にはまった経緯を書いてみるのですが、たぶん今まで考えた中では次のような理由・きっかけが思い浮かびます。
①本を読むことが好きだった
②穿った見方をする冷めた性格
③小学五年生の時の発見
④ファンタジーなど、空想上のものへの憧れ
⑤高校がミッションスクール(≒キリスト教学校)だった
ざっとこんな感じだと思います。
①は、昔からそうでした。小さいころの絵本の読み聞かせに始まり、幼稚園くらいのときの雑誌から、小学生低学年の児童文学と来て、小学3年生のころにはもうハリーポッターに手を出してました。
たぶん中身はほとんど理解できていないと思うのですが、脇に二冊くらい続刊を積んで文字を追っていたのはなんとなく覚えてます。
もともと運動は苦手なほうでした。まあ友達に誘われたりするので一応外で遊びはしていたのですが、高学年になると図書室へ行くことのほうが増えましたね。獣の奏者とか、見た目分厚いものを選ぶ傾向がたしかありました。色々読みましたけど、果てしない物語はだけは読もうとして挫折したの覚えてます笑
そんな風に、読書を通じ、新しいことを知ることに、どこかで楽しみを感じていたように思います。
たぶんその時は、本を読破していく達成感に楽しみを覚えていたような気がしますが……。
②の穿った見方は、たぶん生まれつきのものだと思います。
小学生の時、親と先生の面談って、毎学期ありますよね。
あれで言われたらしい先生からの私の評価は、小学生になっても中学生になっても、「冷静に周囲を見れる子」でした。つまり特徴が無いし、もの静かで、他のクラスメイトから一歩引いている、ということです……。
しかもこれ、小学生からとかではなくて、幼稚園のころには既にそうなのです。なんといったって、幼稚園のお遊戯会ですら、演技しながら「これはなんだ? 苦行か?(意訳」的なこと考えていたので。自分でもびっくりです。
なので、たぶん、この見方は生まれつきのものかなと思っています。
しかも穿った見方に加えて、昔から私は集団の中では盛り上がれない性格で、学校行事とか、大勢の人に見られている中だと、どうしても自分を客観視する自分が出現するのです。人の目を過度に気にしてしまうといいましょうか。なんとなく原因も分かるのですが、たぶん症状は軽い病気に近いと思います。
そうしてどちらかというと独りか少人数で行動するようになっていったことも、読書など、一人で出来ることを好むようになった理由かもしれないです。
③の「小学五年生の時の発見」は自分でも衝撃を受けたことを、はっきり覚えています。というか、たぶんインパクトのあることくらいしかはっきりと覚えてないですよね、小学生の時のこととか。
私は放課後、友達と一緒に帰ろうとしていたのですが、その子が突然運動場で遊んでいきたいと言い出しました。私は遊ぶ気分では無かったのですが、その時は結構遅い時間で、他に知り合いもおらず。かといって一人で遊ぶのは寂しかったので、正門近くで待っていることにしました。
正門の近くの壁には、よくある、いつかの卒業生の絵が描かれていました。花や雲、音符などが書き込まれている、カラフルで楽しげな絵です。いつも目にしていたものなので、特別注視していたわけではなく、私は花壇に腰かけてぼんやりとそれを眺めていたのみでしたが、すると突然、なんの前触れもなく、疑問が湧いてきました。
(この色って、他のみんなにも同じ風に見えてるんかな?)
……私は関西人なので関西弁ですけど、こんな風に思って、でも自分でも最初は、問いの意味がよくわかりませんでした。そう思ってから、(色は一緒だろ)と思って、(いやそうじゃなくて……)という作業を何度か繰り返したのち、問いが、
「自分の見ている『赤色』と、他人の見ている『赤色』が違うこともありえるのではないか」
というものだったと、なんとか噛み砕いて理解したのです。
帰宅して、母に嬉々として伝えると、母も肯定してくれました。
のちに、それがカントがかつて考えた認識の在り方に関わるものだったと知るのですが、ともかく、それは私にとって、雷に打たれたような経験でした。
④、空想上のものへの憧れについて。
私は読書が好きだったと言いましたが、読んだのはファンタジー小説ばかりでした。ライトノベルには、あの二次元の絵に抵抗があって、まあ、「気持ち悪い」とさえ感じており手を出さなかったのですが、もし今の、アニメ絵に抵抗が全く無くない今の感覚を当時の自分に移植できたなら、中学校にあったライトノベルを読み漁るくらいにははまっていたと思います。そのくらいファンタジーは大好きでした。
ファンタジー熱に火をつけたのは間違いなく『ハリーポッター』です。もしこの作品に触れていなかったら、私はほぼ別人になっていたかも、と思わせるぐらい、後の行動原理に影響を与えたと思ってます。
そこからは魔法を扱う作品を探しては読み、探しては読み。ほとんどが『バーティミアス』『大魔法使いクレストマンシーシリーズ』など海外のものでしたが、しばらくして先ほども挙げた獣の奏者などの和風ファンタジー?なども読むようになります。
ただ、創作によくある、「現実が辛かったから本に逃げた」などでは全くありませんでした。悩みといえる悩みは特に無かったと思います。辛すぎて覚えてない可能性も無きにしも非ずですが。
強いていうならおそらく、超人的なものへの憧れがその理由ではないでしょうか。
この気持ちは、結構哲学的な、形而上的なものへの好奇心と直結していたんじゃないかと、今になって思うのですよね。
ファンタジーは目に見えず、哲学もまた目に見えず。また、魔法は超越的なものであると同時に人々の理想で、哲学も同じ。人々が困ったときには、両者とも同じように助けを求められます。
つまり、ファンタジー好きがそれを拗らせたか、ファンタジー好きが昇華されたかの結果が、哲学好きなのではないかな、と思ったり。
⑤の高校の話は、直接のきっかけです。
私は高校入試で上を狙って不合格になり、併願の私立高校へ行くことになります。
その高校は「ミッションスクール」、つまりカトリックの学校でした。敷地内に聖堂があったり、式の始まりと終わりには、「父と子と聖霊の御名によって……」が唱えられ十字が切られたりと、今まで見てきた世界と比べるとあまりに異様でびっくりしてしまいました。
入学式の帰り、あまりの異様さに親と笑い転げていたことを思い出します。
卒業のころには考えは180°変わっていたんですけどね*1。
で、その学校はそういった背景もあって、高校1年生に「倫理」と、宗教に関わる授業が用意されていました。
倫理は勉強された方もいるでしょうが、西洋哲学史・東洋思想史・日本思想史を時系列順に学んでいく科目です。といっても暗記メインですけど。
宗教に関わる授業は、キリスト教の聖書について学ぶものでした。一人一冊買わされた聖書を使って、『善きサマリア人の譬え』とか、『放蕩息子の譬え』とかやりましたね。
そのうち、「倫理」は、私に哲学の存在を教えてくれた科目でした。
そして倫理の中で、私のような哲学素人が目を惹かれるのは、あのニーチェ先生なんですよね。「神は死んだってなんやねん……」と突っ込んだりしていたのですが、感じで調べてみると案外面白くて、それが本当に直接の入り口でした。
宗教に関する授業はというと、それもかなり入口へ立つことに貢献してきたと思っています。その授業は高校3年間ずっとあったのですが、そのうち1年と3年の時の担当が、哲学科出身の先生だったのです。その先生は授業中哲学の話をかなり頻繁にしてくださったし、最後はかなり仲よくなって、個人的に哲学の話を聴かせてくれたりもしました。
そんなこんなで、今でも、本当に、あの学校に入れてよかったと思ってます。
以上が、私が思う、哲学にはまったきっかけです。
あともう少しだけ、哲学書を読むようになるまでの過程まで書かせてください。
上に書いたように哲学を知った私でしたが、そこから、いきなり哲学書を読み始めたわけではありませんでした。私なりに結構しっかり準備をしたのです。
1つ目が哲学史の学習、2つ目が哲学概念の簡単な理解でした。
哲学史の学習は、間違いなく必要だと思ってました。論文が過去の類似論文をすべて踏まえたうえで書かれるように、哲学書も先人たちの思想をふまえて書かれるので、いきなり時代をすっ飛ばしてニーチェを読んだりしてもダメだろうし、かといって全体が見えていないなかで先頭から順に読破しようとしても挫折するだけだろうと思ったのです。
そこで私は入門書や新書をいくつか図書館で借りてきて、読み進めました。
特に『哲学用語図鑑』は、用語解説は簡単にしか書かれていないものの、イラストが豊富で視覚的にも捉えやすく、入門書の横に広げて置きながら読むとかなり理解の助けになりました。
一方、哲学概念の理解は、少し勉強の方法を勘違いしていたように思います。
哲学を学ぶうえで大事だとよく言われるのは、概念では無くてそれを導く過程、というものです。
たしかに、簡単に解説される概念について簡単に理解しておくことは大事なことでしょうが、私の場合、問題はそれで知った気になってしまったことですね。
本当は、哲学書は小説のように複雑に絡みあっていて、何度も何度も繰り返し読んで、まるで小説の伏線に気付くが如く、「ああ、あの記述はここに関係していたのか」とか、そういう風に理解を進めていくものだと思っているのですが、しかしそれに反して、入門書などで概念として紹介されているものは、そういった連環から引きちぎられ、抜き出されたものです。それを把握しても、得られるのは断片的なもので、その理解だけでは、その概念、ひいてはその哲学者を真に理解したとは到底言えません*2。その概念についての最低限の知識が手掛かりとして役立ったこともありましたが、その時点で満足しかけていた過去の自分には喝を入れてやりたいです。
そうして勉強した後、一番最初に手を出したのは、やっぱり気になっていたニーチェの『ツァラトゥストラ』でした。
- 作者: F.W.ニーチェ,Friedrich Wilhelm Nietzsche,手塚富雄
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ゾロアスターをモデルにした「ツァラトゥストラ」が山から町へ下り、旅をするストーリーでしたが、詩の形式をとっており、また暗喩と省略のオンパレードで構成されてることもあって、正直何を言ってるのかほとんどわかりませんでした。本の副題が「万人に与える書、なんびとにも与えぬ書」なので、ニーチェはわざと分かり辛く書いたのでしょうが……。
間違いなく、ニーチェは最初に読むべきではないです。『方法序説』とか、もっと論理的でオーソドックスなものから始めたほうが良いと、今は思います。
『ツァラトゥストラ』を読んだ後も、哲学書を色々買って読んで、今の本棚はこんな感じになりました。
積読も多いですけど。
そんな感じで哲学書を最近も読んでいるんですが、最近はメリットもデメリットも感じるようになったので、それもまた記事にしようかなと思ってます。
今格闘してる『精神分析学入門』がもう少しで終わるので、そうしたら次はマルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』を読みたいです。