とらじぇでぃが色々書くやつ

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主にVTuberの記事を投稿中。

VTuberの見えない領域 ~魂と生身〜

 

 最近、有名VTuberの引退発表が続いてしんどいです。ちょうど「引退とは何か」などを考えていたのですが、より勝手な使命感を駆り立てられました。大学の期末試験を乗り切ったら書こうと思ってます*1

 

 さて、この記事ではその前座として、VTuber「魂」概念についての更新を試みます。流れとしては、魂のさまざな曖昧さを指摘し、そこから新概念として「生身」を提示、魂の詳細な述べ方を模索します。

 また、「VTuber」という総称はいまや意味が広すぎるという指摘*2を重く見て、以下においてはVTuber」をひとまず「にじさんじライバー」を指すものとし総称としてのVTuberは「バーチャルユーチューバー」と表記することにします。これがどこまで敷衍できるのかは、今後みなさんと一緒に考えて行けたらと思います。

 

 

 

 

魂の曖昧さ

 VTuber(=にじさんじライバー)とはなんぞやという話はもはや不要でしょうから、魂概念の確認から始めましょう。

 魂というのは、バーチャルユーチューバーの中の人を比喩的に指す言葉です。リスナーは、アニミズム的な「人間の肉体を動かす霊魂」という発想をもとに、 たとえばVTuberの立ち絵を「身体(=ガワ)」、その身体をモーションキャプチャーを用い動かす何かを「魂」と喩えました。具体例を出すと、月ノ美兎に対する「中の人」、つまり月ノ美兎の声を担当しかつ立ち絵を動かす何者かが魂です。

 

 しかしこの魂は、世間ではかなり曖昧で、意味が広く用いられているように思います。

 

 たとえば、今例に挙げた月ノ美兎は、第三者的には「誰かよく分からない人が月ノ美兎をやっている」という認識が一般的です。ここでは、魂のよく分からなさという元の文脈に準じて語が使われてますが、一方、バーチャルのじゃロリ狐娘YouTuberおじさん(現在は引退済)の「魂」はねこます氏で、この場合、第三者的にはねこます氏という実在の人間が魂ということになり、少し元の語義とは意味が逸れてきます。しかし、この異なる両者は、同じく魂と呼ぶことが暗黙に了承されています。

 

 これはバーチャルユーチューバーのタイプ分けの問題でもあります*3、同時に魂が、総括的な意味での「VTuber」と同じく広義で、議論に使うには少し不便であることも意味します。

 

 また、もう一つ例を出せば、のらきゃっとの「魂」は実際にはノラネコPですが、しかし彼女の場合はそう言ってしまっていいのか少し疑問です。のらきゃっとは合成音声で話しますから、身振りと口調さえ似せてしまえば、誰でも彼女になれるという蓋然性があります。私はアニメPSYCHO-PASSのたとえを一度呟いたことがありますが、そこで言及したストーリー上では、殺人犯が被害者からアバターを奪い取り、全く同じ声、同じような身振りを使って、被害者がそのアバターを使っていた時より、より多くの人々の支持を集める様子が描かれています。おそらく、現実にもそういったことは可能でしょう。

 

 

 そうしてみると、彼女と魂は、一対一の対応でなくともよいことになります。それはつまり、彼女一人に対して複数の魂が入り込み得ることを意味します。

 しかし、魂とは元の意味において、人間の体と一対一でのみ対応します。「別の魂が身体に入り込む」とは、外見のみ同じの別人になるということです。そして私たちは言葉を用いて議論するわけですから、そうなると、たとえば一つのアバターに複数人が入り込むことの是非や今後の影響を考えたいときに、その魂という語の先入観が、議論を邪魔してしまう可能性があります。

 

 ひょっとすると、バーチャルユーチューバーに使われる魂という概念は、バーチャルユーチューバーの多様化(下のツイート参照)によって、使い勝手が悪くなってきたのかもしれません。

 

 

 魂と身体の対応の仕方や、その語そのものが持つ制約など、まだ他にもあるかもしれませんが、ともかく「魂」は事実、議論の俎上では使いにくい言葉でしょう。

 そこで、魂を切り分け、かつ魂では見落とされがちな領域を指摘する概念として、「生身」を考えようと思います。

 

 

生身という考え方

ネットに追跡されないもの

 当たり前のことですが、VTuberはインターネットに生きていますYouTubeやミラティブで動画を公開し、配信し、Twitterで日常の諸々や配信予定などを呟くのが彼らの暮らしで、それらはすべてインターネットのうえで成り立っています。

 そのインターネットですが、それは誰もが誰とでも繋がれる場所であるとされています。私は自分が望むなら、関西から遠く離れたアメリカの人とシャドバの話もできるし、ネットの友だちとスマブラもできるし、有名なタレントに直接思いを伝えることもできます。そこではあらゆる情報があふれ、私たちは知りたいことを、調べる意志さえあればすぐに知ることができます。まるでそれは、ありとあらゆるものが揃う楽園のようにも思えます。

 しかしながら、私たちはすべての情報をネットに明け渡すわけではありません。私たちはネットリテラシーを要求されます。個人情報、つまり顔や住所などは、平均的な人間のほとんどは公開せず、手の内に持っておくのです。ネットは時に身勝手で横暴で、理性は通用しないことがありますから、そもそも渡さないに越したことはないのです。

 私はその、ネットの手に渡らない、公開されない情報群を、以下「生身」と呼びたいと思います。

 たとえば、私は「とらじぇでぃ」として活動しています。それは、「本を読むのが好きな法学部二回生で男で意味の分からないことばかり呟いている誰かさん」であり、それだけ見れば私はかなりの情報を(ライフログ含め)SNSなどに手渡しているのですが、しかし一方で、本名とか、住所、名前などは一切ネットに出していません。なぜならトラブルに巻き込まれる恐れがあるからです。私はそれらの総体を、ネットという巨大空間に包まれない、生の身体、生身だと言いたいのです。そしてその一方、「とらじぇでぃ」は一つの仮想(仮装)として機能します。その仮想は、私が出そうと思った情報を吸収し、成長していきます。この仮想を、以下「演者」と呼ぶことにします

 もう少し例を出しましょう。これは一つのアナロジーとして言うのですが、たとえばリアルの生活においても、生身と演者のようなものを見出すことができます。私は、実生活において、自分のことを誰にでも話したりはしません。それは「相手」をどの程度まで信頼すべきであるかという問いを経て、慎重に決定されます。また、それは家族に対してもそうです。誰でもそうでしょうが、自分のことをすべて、何もかも知っている他者というのは存在しませんし、またそういった人は、物理的側面においても言語的側面においても、存在できません。

 そこでいう「相手」は、本論においてはインターネットです。インターネットは先ほど言ったように、信頼できる相手とは言い難く、また、部分的に信頼できたとしても、すべてをさらけ出すことはしないでしょうし、もし本人がそう考えたとしても、実現は不可能です。なぜなら、時間的余裕も、言語の語れる範囲にも、限りがあるからです。

 

 

VTuberの生身

 

 同様に、VTuberにも生身が考えられます。

 

 

VTuberの構成

 VTuberは、VTuberのキャラクター人格と、生身から間接的に生み出された人格で構成されると想定できるでしょう。前者のVTuberのキャラクター人格」とは、そのキャラクター設定から導かれる人格を指します。また後者の「生身から間接的に生み出された人格」とは、一般に言う「中の人」の人格のことです。中の人とは、先ほどの月ノ美兎の例で言ったような、「誰かよく分からないがそのVTuberを動かしている人物」のことであり、その人格は、生身から影響を受けて決定されます。

 VTuberは、そのVTuberのキャラクター人格と、「中の人」の人格とがせめぎ合って成り立つ存在です。両者はある意味同一人物ですが、矛盾したことに、双方はもう一方を押さえつけ弱めようとするか、あるいは噛み殺そうとします。両者の均衡を保つことは、至難の業でしょう。しかし片方が消滅してしまうと、そのVTuberは消滅します*4。しかしながら、両者は間違いなく互いに別人です。

 ここには、キリスト教カトリックの三位一体のような難しさがあります。カトリックは、父・子・聖霊はすべてがイコールとなり神を指すとしつつ、しかしそれぞれは別のものだとします*5

 

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三位一体の図。WIkipediaから。

 

 そういったように、VTuberのキャラクター人格と、「中の人」の人格は、互いに一致して一つのVTuberを作りながらも、両者は別のものです。そういった複雑さの中で苦しむVTuberを、みなさんは見たことがあるでしょう。御伽原江良はその例として最も適当ではないでしょうか*6

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御伽原江良。かわいい。画像は@OtogibaraEra12月6日のツイートより。



 

不可侵領域である生身

 

 そして、重要なところですが、その両者は客観的に、つまり第三者的に見て区別されません。両者は見かけ上、同じに表象されます。もし第三者が、仮に区別がつけられたと思っても、それらは大抵、どちらかに断定することはできません。たとえば月ノ美兎の「もつ鍋とビール」も、一見すると「中の人」の人格がキャラクター人格に競り勝ったと見えますが、実は逆に、「飲酒する高校生」というアングラ的設定を暗示しているだけかもしれないわけです。私たちリスナーという第三者は、表に出てこないそれをただ類推できるのみで、その真意が分かるのはVTuberのみなのです

 ここでいう見えない部分が、VTuberの生身にあたります。その人だけの特権的領域であり、その人が気を許さない限りは不可侵の領域。私たちリスナーは、間接的にのみ、生身に触れることができます。

 ですから、よく VTuberは「アバターと人間を組み合わせたその重なり合う部分」だと言われるのですが、それはそのVTuberにとってのみの話であって、第三者から見るとそれはごちゃ混ぜになってしまって区別ができないのです。

 

 

演者の生身

 

魂と生身の範囲

 

 ところで、この生身というのは、魂と比べると狭い概念であり、同時に魂が掬いきれなかった領域をカバーする概念です。最も広い意味での魂を区切ったものが、中の人と演者、生身であるとも言えます。

 またそれらは、「魂」概念ではこれまでもたらされて来なかったであろう「ネット空間の内と外」の考え方を持ち込みます。演者と生身は「魂」という語のスピリチュアルな先入観からVTuberを解放し、インターネットの内外という側面から改めてVTuberを見つめることを可能にします

 

 では生身は、魂と比べてどのように狭いのでしょうか。

 生身をあえて魂になぞらえて言えば、それは「端的な魂」です。つまり、魂の魂、客観的には認識できない、つまり実在しない魂です。演者はネットにおいて実在しますが、生身はネットから認識できないという意味で実在しません。

 また、生身は魂と違って剰余の概念であり、否定形でしか語ることができません。生身はネットから確認“できない”、第三者からは認識“できない”概念です。ある第三者に演者と生身の境界が決定された状況において、その生身を肯定で語れるのは、その本人のみであり、その本人だけが、生身を知っています。なので、もし本人がそれを公開すれば、それは生身ではなくなります。ネットに譲渡されていないもの、それが生身なのです

 

 

認識できるもの・できないもの

 

 ここで発想のベースにしているのは、哲学者・永井均の思想です。永井は『存在と時間 哲学探究1』などの著作で「私」についての哲学を展開しています。それは私の理解する限りでいうと、次のようなものです:

「私」には、「実在的な私」「現実的な私」という二つの「私」がある。

 前者は「私」にも「あなた」にも「彼」にもなる、客観的に認識できる「私」であるが、後者は認識できない。たとえば、あなたが転んで膝をすりむいてしまったとする。この時、あなたは痛みを感じるが、その痛みはあなたしか感じることができない感覚であり、あなたでない人は、その痛みを感じることができない。

 この「現実的な私」を象徴する感覚は、全員にあるが、しかし、その感覚は唯一「私」にしかない。この世界で、痛みとか、熱さとか、そういったものを感じるのは、唯一この「私」しかいない……。

 

 ここで私が試みているのは、こういったことです。つまり、みんなが認識できる私とは別に、この私にしか分からない私、演者やVTuberにしか分からない私というものがあって、それは決して表に出てこない、顔を見せない存在であるのです。ただ、注意してほしいのが、永井哲学の「現実的な私」はいわば色のない、世界を見る視点(開闢の点と呼ぶ)であって、人格や記憶などその人に固有の要素は「現実的な私」そのものに関係しないのですが、私の言いたい生身はその点、人それぞれに全く異なるものだということです。

  演者の生身は言い換えると、「ネットに追跡されない」情報群であるともいえます。ネットに表れず、ゆえにネット住民に追跡され得ない情報群が生身です。その生身は相対的で、どんな情報がネットから隠されているかは人によって大きく異なります。

 また、生身は本人の「隠したい」という意志ではなく、実際にネットで追跡可能かどうかに依存します。たとえば、直接的にメタな話になりますが、VTuberにはニコニコ生放送で活躍していた人物が活躍している例があります。彼らはその経歴を、VTuberというキャラクターを守るために、また演者の人格が優越してしまわないように、表に出さないようにしますが、しかし、彼らのネットでの声や喋り方は生身が間接的に滲み出て、影響した結果であるので、調べればそのネットに漂う過去の経歴は、 VTuberにも繋がってしまうわけです。こうして追跡されるものは、生身ではなく、演者に属します

 そうして演者と生身の境界線は、第三者によって引かれていくのです。そのため、これも重要なことですが、生身はある第三者によって確定されるといえます*7

 そうして決定された生身は神聖不可侵であり、契約などに依らなければ露出するよう強制されず、思想の自由に守られるはずです。

 ただ、誤解して欲しくないので確認ですが、「演者」と「中の人」は違うものを指していました。「中の人」とは、「VTuberを動かす、生身から間接的にやってきた何者か」です。

 そのため、VTuberの人格については話が異なります。VTuberの場合は、キャラクター人格と、生身から間接的に生み出された人格(=「中の人」)とが融合してしまって、区別が付けられないのでした。

 

 

 VTuberと演者

 

VTuberも一人の演者である

 

 さて、多くのリスナーは、 VTuberの「中の人」のTwitterアカウント*8= VTuberの演者を、魂のアカウントだといいます。しかし、もしそれが「演者はVTuberの本質、中核である」という意味であるなら、ここまでの文脈上、それは少し違うといえるかもしれません。というのも、演者は生身ではなく、いまだネット上にある電子的存在です。つまり、そこにもVTuberのような仮想が存在しているわけです。たとえば、VTuberの別のアカウント、つまりVTuberの演者を覗くことは、実際のところ可能です。少し調べれば、ネット素人の私でも簡単に出来てしまいます。しかし、そのアカウントは、VTuberの本質ではないのです。それはVTuberとは別の、生身の一つの側面であり、生身がネットの仮想の皮を被った、もう一つの姿にすぎないのです。

 つまり、VTuberと演者というのは、生身を前にすると、同じ階層に立つことになりますVTuberも、演者も、同じ人に“演じられている”からです。その意味で、両者は両方とも演者なのです

 

 

VTuberは特権的な演者でもある

 

 しかし、そうは言いつつも、両者は同じではありません。 

 私たちが見るVTuberというのは、唯物論的に断定すれば、人間がアバターを動かしているに過ぎないのですが、しかしそれはあまりに単純なものの見方と言わざるをえません。VTuberはそう単純なものではなくて、VTuberは同時に、「外来のキャラクター性」を纏っています。「外来のキャラクター性」とは、先ほどの「VTuberのキャラクター人格」の言い換えで、生身に属する根源的な思想とか、性格とか、無意識の行動とかとは全く異なる、キャラクター設定から与えられた人格のことです。これが、「VTuber-演者」関係の、重要なファクターです。

 つまり、VTuberは、それ自体が演者であるが、しかし同時に、外来のキャラクター性と「中の人」の人格で成り立つ、演者とは異なった存在であるといえます。

 以上より、VTuberはいわば、特権的な演者といえましょう。 

 

 生身という観点が追加されると、私たちは一個の共通の基準を得ることになります。VTuber・魂の関係のみでは、議論には少し不便ですが、一方でVTuber・中の人・演者・生身という関係は、全人間が持つ共通の要素にVTuberの基盤を指示できます。そうして、生身という不可知に敬意を払い、また、VTuberと演者が同じくネットの存在であることを意識することで、たとえば引退についても視野が広がるのではないでしょうか*9

 

 

まとめ

 

 さて、ここまで色々と説明してきましたが、今一度、内容を確認します。

 

 メインの概念である「生身」とは、全人類に共通の、ネットから隠されたものであり、また否定形で語られる、剰余の概念でした。

 そして、「演者」とは、ネット世界に参入した人が仮想的表皮を身につけた姿であり、これもネットにいるすべての人間が持つものです。

 またVTuber」とは、生身から間接的に生み出されたキャラクター性と、生身由来ではない外来のキャラクター性が結合して成立する、通常の演者とは異なった特権的な演者です。

 最後に「中の人の人格」とは、「 VTuberにおける、生身から間接的に生み出されたキャラクター人格」でした。

 

 これらは魂を更新し、その語義から意味内容を解放します。そして、新たにネットの内外という視点を追加するのです。

 

 また、この三概念、とりわけ生身の存在は、まだ十分検討したわけではないので提示するだけにしたいのですが、実用的側面では、VTuberについての言説にゆとりを与えるのではないかと考えています。つまり、良い意味で人を懐疑的にさせ、健全な議論へ導く可能性を秘めているのではないかと考えてます。しかし今はうまく書けないので、これは今後の課題にしたいです。

 

 最後に、再三の確認になってしまいますが、この記事では「VTuber」をにじさんじライバーを指す言葉として、記号的に用いました。「生身」やその他の考え方を他の箱や個人勢にそのまま転用することはおそらくできないと思うので、どこまでどのように敷衍できるかも考えていくべきでしょう。

 

 以上、また長くなってしまいましたが、お付き合いくださりありがとうございました。よかったら他の記事も読んでいってください。

 

 

tragedy.hatenablog.com

tragedy.hatenablog.com

 

 

 

参考にしたもの

存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)

存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)

 
国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

死

 

ja.wikipedia.org

図の孫引きお許しを……

t.co

t.co

t.co

 

 

*1:上がらなかったら飽きたか諦めたと思ってください笑

*2:VTuberは4種類いる|hatosan|noteを参照

*3:同じくVTuberは4種類いる|hatosan|noteを参照

*4:確認ですが、ここでいうVTuberにじさんじライバーのことでした。

*5:まちがっていたら指摘お願いします……

*6:VTuberとして生きることの喜びと苦しみ・御伽原江良の場合|メルクマ|noteなどが分かりやすい。

*7:そしてその境界線は動的であり、常に生身は削られていくでしょう

*8:など別の活動名

*9:どう広がるかについては、次回の記事で書くつもりです。

アドバイザーやらせてもらってます

こたつで寝る人のイラスト

 

 

 ちょっと寒くなってきました。昨日なんて気温一桁だったらしくて震えましたね(二重の意味で)。まだ耐えられるとはいえ寒いのは寒いので、ぽれの家にはコタツが登場してます。あったかいです(コナミ

 

 さて、少し前にアドバイザーがやりてえ!的な記事を書いたんですが、ありなたいことに4チームから応募があり、アドバイザー、やらせてもらってます。

 今のところややこしい話もなく、順調に進んでいて、一安心です。もう既に炎上しているようなチームからの依頼はやめてほしいなあと思っていたので…w

 というのも、炎上してしまっているというのは、少し強い表現を使えば、そのチームが既に腐敗していることを意味します。炎上の後、そのチームは大抵解散しますが、それは炎上が解散を招いたというよりは、チームをして炎上に至らしめたチームの不和が解散を招いたのです。

 そしてそのような腐敗は様々な悪手が絡み合う複合的な原因によるものであって、そこからチームを救うにはかなりの困難が伴うでしょう。

 まあしかし、今回応募があったのは新設チームが2つに正常なチームが2つだったので助かりました。過去に手を加えていくようなしんどい作業はしなくて済みそうです。

 これからの仕事としては、リーダーさんの相談に乗ることが主となると思います。そのためには、リーダーさんが熟慮の過程で私に聞くことを思いつかなければならないわけです。

 

 思い出話を少しすると、私がリーダーをやり始めたころ、よくやってしまったのが「思いつきで行動して失敗する」ことでした。思いつきで行動して、成功すれば良いんですが(そして実際大半は成功したんですが)、失敗してしまうと物凄く後悔します。しかも、その失敗は簡単には取り返しがつかなかったりしました。なので私は考えまして、何かをしようと思う時は、公募をすべきかとかメンバーへのアナウンスをするかとか何にしても、副リーダーに意見を求めるようにしてみました。すると、そういったミスはかなり減ったのです。

 

 「私」の視点というのはかなり狭くて、相談した時の返事は大体肯定だったとしても、たまに思っても見なかった指摘をもらえることがあって、難を逃れられたりします。他人の視点は結構大事です。私がアドバイザーをやろうと思ったのは、そういうこともあるんですけれどね。

 なので、他人に聞くのは大事なんですが、そのためには一度思い留まることが必須なんです。哲学では判断中止(エポケー)といったりします。「こうに違いない!」と思ってしまっていることでも、一度それをカッコに入れてみて、「本当にそうかな?」と考えてみる。そうしたら、「ああかもしれない」「こうかもしれない」と色々な考えが出てきて、それらを検討してみる必要が出てくる。そしてその作業は一人では厳しいことがあるので、他者の助けが必要になってくる。

 どんなに優秀な人間もロボットではありませんから、毎回優れた判断ができるわけではありません。それを自覚すること。そして、自身に欠けた部分や、自身が見落とした部分を他者に補ってもらう、それができてこそ良い運営ができるのだと私は思ってます。

 

 

シャドバアマチュアチームのアドバイザーをやりたい!

 

 

両æãæ¡ã£ããã¼ãºã®ã¹ã¼ã姿ã®OLã®ã¤ã©ã¹ã

 

 とらじぇでぃです。

 先日、リーダーを務めていたBABELを解散し、シャドウバースも引退しました*1。悔いはありません。むしろ、リーダーを辞めたおかげでいつもより軽い気持ちでツイートができます。寂しさはありますが、良いこともあるものです。

 

 しかし2年と2か月もリーダーをしていたので、「あ、これ次の内戦に使えるな」とか思ってしまった時には虚しさが募ります。もう内戦はないのに。ため息モノですが、同時に、「このリーダーの経験をこのまま持て余すのも、なんだかもったいないな」という気持ちが出てきました。

 

 そこで、チーム運営の相談役というのを思いつきました。

 チームの運営に関する問題にのみ、助言と提案を行う仕事です。

 

 たとえば、チームを作りたての方。たいていが初めてリーダーをやるでしょう。

 それは極めて不安なことです。私もそうでした。

 初リーダーの方は、たいてい過去に所属していたチームを真似ていくものですが、それだけではすぐ壁にぶつかります。

 私もたくさんの問題に直面し、解決策を考えに考えましたが、それでも分からないことはありました。そこで頼ったのは、前に所属していたチームのリーダーです。そのアドバイスのお陰で乗り越えられたことはたくさんあります。

 自分でない他人への相談は突破口になり得ますし、そしてその他人は経験者であるほうが、より良い結果を得られます

 

 また、トラブルの多いチームにも、役に立てることがあるかもしれません。

 私はチームが炎上しないよう、2年余り、細心の注意を払ってきました。その甲斐あってかチームは不名誉な話も無く、有終の美を飾ることができました。

 そのノウハウ——といっても大したことではないですが——も、相談役として教えられます。

 また、仮に炎上が発生した場合にも、その対応に手を貸します声明など文章の作成も、言っていただければ手伝います理論武装の必要があれば、なけなしの哲学・法学の知識もお貸しします

 

 そうでなくとも、運営に不安がある方には助け舟を出したいと思っています。

 

 もし私が雇われた場合、チームの内情が分からないと意見ができないので、運営方針などを詳しく説明してもらったりチームのグループに入れてもらったりといったことが必要になってきます。中には不安を感じる方もいるかもしれませんが、心配は無用です。

 たとえば私の思いつく不安要素としては、①チームのシャドバ知識を漏らされる②チーム内の雑談を晒される③主導権を奪われる④コミュニケーションの邪魔になる、といったことがあります。

 

 ①「チームのシャドバ知識を漏らされる」は、死活問題です。チームの第一義は、自分が死に物狂いで得た情報を少数のみで共有し、全体を向上させ、より良い答えに到達することにあり、ゆえにその過程の漏洩は致命傷になりえるでしょう。

 しかし私はそんな気など全くありませんし、付け加えて言えば私はシャドウバースを引退しています。何が重要で何が蛇足か、今は少し推測できても、次第に分からなくなるでしょう。私はあくまで運営面で関わるのであり、シャドバについては口出ししませんし、口外もしません。仮に口外したとしても、得られる利益は皆無で、打撃は甚大でしょう

 

 ②「チーム内の雑談を晒される」は、たとえば愚痴などが該当します*2。ないとは思うのですが、仮に、スクショが出回れば一発でチームが崩壊するような発言があったとしても、私は何も致しません。いや、制止の提案はするかもしれませんが、外に流したりすることは絶対にしません。相談役を受けるにあたって、そのプライドはあります。

 

 ③「主導権を奪われる」。リーダーにとって、主導権・指揮権の喪失は恐るべき点です。「チームとはリーダーのやりたいことを実現する場だ」と言ったフォロワーがいましたが、主導権を失えばそれも叶いません。

 しかし、私がしたいのはあくまでも幾らかの提案です。私は提言はしますが、決断するのはリーダーやメンバーたちです。私はただ相談役としてのみ参加するのであり、それを逸脱しては行動しません。また、チーム内では一切発言しないので、私がリーダーに挿げ替わることもありません。

 

 ④「コミュニケーションの邪魔になる」も、真っ当な不安要素です。シャドバ引退者をチームに入れたら、シャドバとは無関係な話ばかりするかもしれないし、その結果、メンバー全員の士気を落とすことになるかもしれません。

 ですが、その心配はいりません。チームに入るとは言いましたが、先ほども言った通り、私は自己紹介を除き、チームでは一言も発しません。なので、邪魔になることは一切ありません。

 チームに入れてもらうのは、この目でやり取りをみているほうが提案もしやすいからです。百聞は一見に如かず、です。

 

 以上、一通りみなさんの不安解消に努めました。

 

 さて、相談役といっても、仕事は少ないでしょうから、チームはいくつか掛け持ちしたいと思っています。しかし、守秘義務は遂行しますし、またどこかを疎かにすることもありません

 

 そして、リーダーは私をいつでも解任できることにしましょう。もう独り立ちできると思ったり、もう必要ないと判断すればいつでも辞めさせてください。

 同時に、私も相談役を続けられないと感じた場合には辞めさせていただきます*3。が、よっぽどのことが無い限りは、全力で応援させていただきます

 

 見返りは、交友の輪を広げることで十分です。悲しいことに友だちが少ないので、一人か二人、気の合う人が見つかればと思っています。

 

  これらを踏まえ、条件は以下のようになります。

 

 

 【お手伝いできること】

 ・運営に関する諸々の提案、助言

 ・ルール作り(募集要項、除名条件、外でのマナーなど)

 ・炎上への対応

 ・いくらかの理論武装

 ・声明など文章の作成

 

  【ルール】

 ・守秘義務は遂行

 ・チームグループでは一切発言しない(自己紹介除く)

 ・リーダーに対して、もしくは意思決定機関でのみ提言

  ・助言、提案以上のことはしない

 ・文章作成は依頼された場合のみ行う

 ・相談役の存在は公表してもしなくても可

 ・リーダー及び意思決定機関は私をいつでも解任可

 ・相談役はチーム環境に不服の場合退任可

 

  【報酬】

 ・仲良くしてください……

 

 興味のある方は、私(@tragedy_ph)にDMを飛ばしてください。

 詳しいことはそこでお話ししましょう。

 

  お待ちしています。

 

*1:ゲームは自分で辞め時を決めるものでは無いと思っているのですが、おそらくもう遊ばないだろうという直感があるのでこう表現します。

*2:私のチームでは一切ありませんでしたが、そういったチームもありましょう

*3:私への態度が他人と接するにはあまりに横柄であるとか、罵詈雑言が飛び交うとか、全く話を取り合わないだとかいった場合を想定しています。

チームBABELを解散しました

 

 とらじぇでぃです。

 先日15日、約2年2ヶ月続けたチームを解散しました。

 BABELというチームです。今超電磁砲くんがアンリミランキングを走ってるので、知ってる方もいるかもしれません。

 

 BABELは、シャドウバースチームの中でも稀なビショップチームでした。楽しくゲームをすること、それを目標に、これまでやってきました。

 仲が悪くなったとか、みんなをまとめるのが難しくなったとか、そういうことは一切ありません。BABELはみんな仲が良く、非常に居心地の良いチームだったと思います。

 

 ではなぜ解散したのかといえば、理由はいくつかあります。

 

 まず、私は興味が移り変わりやすいタチです。色んなものに手を出しては辞めて、続けられたのは哲学とシャドバくらいでしたけど、今やそのシャドバへの興味もなくしてしまいました。そしてこれは直感なのですが、もうシャドバはやらないと思います。

 

 たくさん課金しましたし、時間も注ぎ込みましたが、後悔はありません。楽しい時間をありがとう、という思いです。

 

 そしてそれに伴って、「シャドウバースチーム」であるBABELにいることも難しくなります。

 過去、BABELには何人かシャドバをやらなくなってしまった者がいて、副リーダーからも「除名すべきでは」という趣旨の意見が出たこともありました。しかし私は、切ることはしませんでした。なぜなら、「モチベーションは自分の意思でどうにかできるものではない」という持論のもと、「彼らは今やる気が落ちているだけで、いずれモチベーションも戻ってくる」と思っていたからです。

 

 しかし、私はといえば、もうモチベが復活する見込みはないと自分で思っているわけです。そうすると、私は私を除名するしかありません。

 BABELは、自分で言うのも何ですが私ありきなところがあって、私がいなくなる時が解散の時だと思っていました。このチームも寿命が来たのです。

 

 また、BABELの運営も最近は少し億劫になっていました。少し前までは作業がとにかく楽しくて、気付くと準備が済んでいたものですが、いつからか、準備に取り掛かるまでのエネルギーがどんどん大きくなっていました。

 取り掛かってしまえば早いんですけどね。今も作業は楽しいですし。億劫といっても、少しだけですが。

 

 あとは、今の体制がシャドバチームとして正しいのかという悩みもありました。

「シャドバのライトユーザーについて」は、その悩みの中で書いたものです。

tragedy.hatenablog.com

 しかしそれも、メンバーの反応を見ていると、杞憂だったのかなあと思っています。

 

 

 ところで、このチームの名前は最初期メンバーで案を出し合い決定したのですが、この「BABEL」は私が提案したものでした。誰がどのチーム名を提案したかは伏せてありましたから、驚く人もあるかもしれません。まあしかし、どうせなので言ってしまいます。

 チーム名を募集する際、ビショップチームにするとは宣言してあったので、だとすれば聖書由来なんかどうだろうと思いました。当時はカトリック学校に通っていたので、頭に浮かびやすかったのかもしれません。

 

 言うまでもなく、BABELは旧約聖書バベルの塔の寓話からとりました。

 話はご存知でしょうか。

 一応引用します。

 

全地は同じ発音、同じ言葉であった。 
2 時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。 
3 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。 
4 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。 
5 時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、 
6 言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。 
7 さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。 
8 こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。 
9 これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。 

創世記11章1-9(https://www.wordproject.org/bibles/jp/01/11.htm)

 

 私はBABELを、「言葉の感じがかっこいいな」くらいの気持ちで提案しました。当時チーム名はアルファベット3文字が主流だったのですが、それに対する独自路線を貫けるとも思っていました。

 しかしよく考えたら、これはチームに名付けるようなものではありません。人々が力を合わせていたところ、神はそれを傲慢だとして、彼らを散らしてしまった、がその内容だからです。チームの名前にしては縁起が悪いですよね。そう気付いて、しまったなあ、と思いましたが、決まったものは仕方ないとあきらめていました。

 

 ちなみに、このツイートは当時の抵抗です笑 昔のツイートは書き方が恥ずかしくて見たくないんですが……笑

 

 

 ですが、ある日ブリューゲルバベルの塔を見て、私も少し考えが変わりました。

 

 

 このツイートのあと実際行ったんですが、彼のバベルの塔は想像よりはるかに大きく、圧倒されたことを覚えています。

 

 

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BABELチームアカウントのアイコンにもなっていました。

 

 雲を突き抜ける雄大な塔、大地、水面、青空、そして働く無数の人々。そこには暮らしがあり、技術があり、 希望がある。

 この先、神にバラバラにされるなんて知りもせず、ただ突き進む人々。

 今を生きるその輝きのようなものを、私はこの絵から感じ取りました。

 

 BABELもまた、いつかは解散する運命ではあったのですが、しかしメンバーはみんな、ただ突き進んでくれていたように思います。

 私のチームに入ってくれて、私を信頼してくれて、本当に感謝です

 ぜひ、これからも仲良くしてください。

 

 

本棚でも紹介しようかなという記事

 

 タイトルまんまです。

 

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 ぼくの本棚。

 

 ちなみに去年はもっと少なかったです。

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 バイト代でガンガン買ってたらいつのまにか2倍くらいになってました。

 

 このスチールのボロっちい本棚は祖父が親切心で置いていったものなんですが、正直ダサいのでもうちょいいけてるやつを買いたいですね。

 

 

 さて、上の画像では拡大してもタイトルが見えにくいと思うので部分部分の写真を撮ってみました。

 

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 文庫本と新書たち。

 だいたい哲学関連です。

 

 『笑い』は一回記事にしたやつです。哲学っぽくないし読みやすいからおすすめ。

tragedy.hatenablog.com

 

 東浩紀さんの動物化するポストモダン社会学の本ですけど、題材がオタクなのでぼくのフォロワーさんは馴染みやすくて良いと思います。ただ、もしかするとけっこうショックを受けるかもしれません。

 

 平凡社ライブラリー『日本の無思想』は高校生の時読みましたが、さっぱり分かりませんでしたね。日本人のホンネとタテマエをめぐる戦後論みたいな、そんな雰囲気の内容だった気がしますけど。

 

 同一著者の本だと、やっぱりニーチェが一番多いです。

 

 積ん読はだいたい3割くらいだと思います。がんばって読みます。

 

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 小説ゾーン。

 

 高校の時買わされた課題図書がほとんど。こころ、泥流地帯、金閣寺天平の甍、赤ひげ診療譚、斜陽、破獄、戦艦武蔵。中身がテストに出るとはいえ、意味不明やし退屈やしでしんどかったです。

 

 アリスは古本屋でなんとなく買いました。ふつうにアリスでした。

 

 ジョージオーウェル1984年』は面白かったですね。示唆的。まだ読んでない人は読んでみて。

 

 カラマーゾフの兄弟フロイトがらみで買ったんですが読んでないです。ですけど、先日の記事で引用した手前、読まなきゃなあとは思ってます。

tragedy.hatenablog.com

 

 

 ちなみに、左端の魔道書みたいなやつはメモ帳です。タロット用に買わされたんですけど書き込むのがもったいなくて飾りと化してます。

 

 

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 単行本とか雑誌とか、入りきらないサイズのやつ。

 辞書やら法学の教科書・参考書やらが目立ちます。

 

 左端の『アートバイブル』なるものは高校時代、宗教の授業用に買わされたやつです。聖書の文言と絵が一緒になってます。けっこう宗教の授業は好きで、わくわくしながら読んでましたけど、今振り返ると大学の講義にも役立ってるんですよね。キリスト教とか絵画が出てくる機会ってけっこう多いので、「あっ、これアートバイブルでやったやつだ!」ってなる。

 西洋絵画なんてもろにキリスト教ですし、宗教への理解もあって困らんな、と思いましたね。

 

 『欲望会議』はポリコレのお話で、Twitterでどう生き抜くかみたいな悩みを持ってる人にもいいかもしれません。

 

 『なぜ世界は存在しないのか』は、GameWithのむじょるさんも持ってらっしゃいましたね。

 

 

 マルクス・ガブリエルっていう哲学界の有名人が書いた本で、「新しい実在論」について論じられています。タイトルの答えはけっこう最初の方に言ってくれますが、論証はめちゃむずいです。ただ、「初学者にも分かるように書いた」とあるように、丁寧ではあります。

 

 『徹底検証 日本の右傾化』は買ったのをめちゃくちゃ後悔しました。なんですかこれ。

 

 下の段のユリイカは2018年7月号のバーチャルユーチューバー特集です。バーチャルユーチューバーについての必読書。ここに収められた論文が思考の基礎になってきます。

 

 『哲学用語図鑑』は高校時代めちゃくちゃ助けられました。倫理の授業とかあったので。大まかにかじりたいならこれだけで十分な気がします。

 

 『ゲンロン0 観光客の哲学』は直近の記事で使わせていただきました。東浩紀さん本人にも反応いただいて嬉しかったです。

 本筋はもちろんVTuberの話なんかではなく、これからの哲学と政治の話なので、ブログ読者の中には政治性を感じ取った方もいたようでした。

 「子として死ぬだけではなく、親としても生きろ。」最後のこのフレーズは強烈でした。

 

 あらかた紹介終わりましたけど、オチがないのでカラオケ行ってきたときの画像でも貼っときます。

 

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 友だちに邪魔されるとらじぇ。

 楽しかったです。