『笑い』で考える厨二病
私は昔、厨二病という言葉が大嫌いでした。当時中学生の私に、なぜ、と問うても答えは返ってこなかったでしょうが、突如として友人たちの間で流行り始めたその言葉が、心に秘めた、私の空想の世界を刈り取ってしまうように思えたのはたしかです。
つまりは、まさしく、中学生の頃の私はその厨二病だったのでしょう。いや、今もそうなのかもしれませんが、それは私の知るところではありません。
ともかく、私は厨二病という言葉が嫌いでした。大げさに言えば、精神的負荷さえ感じました。
私には、自分を悩ませたり、攻撃してきたりするものについては、それについて考え込むことで解決しようとする癖があります。一種の防衛反応のようにも思えますが、その時も私はそうで、「厨二病とは何か」、「なぜ笑われ、馬鹿にされなければならないのか」についてずっと考えこんでいました。
しかし、大した思考材料もない中学生に結論が出せるわけもなく、せいぜい、「厨二病自体は悪いことではない」と、ある意味(つまり私は自覚していませんが)、自分を弁護することで精一杯でした。その後、時が流れるにつれ、私の厨二病という言葉に対する興味も段々と薄れていきました。
さて高校に入り、倫理を学んだ私は、哲学に興味を持ちます。
いくつかの哲学書を読みましたが、一番衝撃を受けたのが、高校3年の終わりに読んだ、アンリ・ベルクソンの『笑い』という本でした。
ベルクソンという彼自身は言わずと知れた哲学者ですので詳しくは書きませんが、『笑い』は文芸誌向けに書かれたというだけあって、他の本よりも内容が理解しやすかったように思います。そしてその本こそが、厨二病という言葉を解する大きな手掛かりになると確信したのです(ちなみにこの時受験真っ只中です、何をしているんだ過去の自分……)。
さて、今まで厨二病厨二病と連呼しておいてなんですが、今後のために今一度、その語の意味についてざっくりと振り返っておきましょう。
厨二病とは元来中二病と表記され、主に思春期に発生するもの、とされるようです。内容としては、みなさんご存知の通りですが、思春期の子どもの身の丈に合わぬ振る舞いなどが当てはまります。
言葉というものはそもそも定義付けに先立つものでしょうが、そのうえネット上で流布するとなると、言葉はどんどん意味が大きくなる傾向にあります。厨二病という言葉も例外でなく、その意味内容は自虐から、揶揄に使われるものへと変わりました(と、Wikipediaにあります笑)。
そして厨二病という概念は、ネットユーザーにとっての一般常識となります。
そのネットに根ざすアニメやライトノベルにも厨二病は現れ、キャラ付けの一ジャンルとも化しました。有名な作品で思いつくのは、『ラブライブ!サンシャイン!』の「津島善子」や、『斉木楠雄のΨ難』の「海藤瞬」などでしょうか。『中二病でも恋がしたい』など、厨二病をタイトルに据えた作品もありましたね。
創作が売れるために必要なものの一つは、受け手の共感です。ですから、こうしたタイトルが成功していることを見れば、厨二病というものが多くの人に、共感や、そうでなくとも何か引っかかりを与えていることは確かです。
そして思うに、人の共感には、根底に共通項が必要です。対象と同じ、あるいは近しい経験や、それを想起するに十分な背景がそれです。つまり、そういった作品に触れる多くの人には、程度の差はあれ、過去にそういった経験がある、ということが言えます。
これはまた、ネットで厨二病という概念が常識となったことにもいえそうですね。といっても、それは常識となりうる頻度でその語が使用された、その動機に依るので、その説明となりそうな事項は後ほどの紹介になりそうですが。
それはさておき、では、厨二病とは何から生まれ出たものなのでしょうか。
またWikipediaを参照することを許して欲しいのですが、どうやら自己顕示欲や承認欲求によるところが大きいという見方があるようですね。私も同意見で、そういった欲求を満たすための虚栄心が根底にあると考えます。厨二病を「他人からよく見られたい」という感情に還元すれば、分かりやすいのではないでしょうか。それが空回り、奇異な目で見られてしまうというのは皮肉なことです。
では、もう一つの問いである、「なぜ厨二病は馬鹿にされねばならないのか」について考えます。これこそが、この記事の本題です。
この問いを解決するために、私は『笑い』を使いたいと思います。
『笑い』は、笑いそのものを考察した本です。帯にはこうあります。「笑いのツボを哲学する。/おかしさはどこから生まれてくるのか?」
ベルクソンはこの本の中で、笑いが発生する3つの要因を挙げました。人間的であること、無感動であること、他人との接触が維持されていることの3つです。
一つ目の人間的であることとは、対象が人間であっても、そうでなくても、それに人間的なものを見出さなければおかしさは生まれないということです。
後者が分かりにくいと思うので例を出すと、二足歩行で歩く猫だとか、段差で躓いて助けを求めるロボット掃除機といったものがそれです。
二つ目の無感動であることとは、その対象への感情移入が全くないことです。
みなさん、一度、自分が笑う時を思い起こしてみてください。そのとき、相手への同情の気持ちであるとか、怒りの気持ちであるとか、そういった感情はあるでしょうか。いや、ないでしょう。もし、対象になんらかの気持ちを抱けば、笑いは途端に絶えるはずです。
これも例を出しましょう。サラリーマンが段差に転んだところ目撃すれば、あなたは顔にこそ出しませんが、内心苦笑するでしょう。しかし、実は彼が先日不慮の事故で片足を失い、不慣れな義足で懸命に歩いていたことを知れば、きっと笑いは起こらないはずです。
三つ目の、他人との接触が維持されていることとは、つまり、内輪でしか笑いは発生しないことを意味します。
例えば、高校の友人同士で昔の担任について話し合えば、自然に笑いが生まれることもあるでしょう。しかし、レストランで隣の席から聞こえる誰かの、見ず知らずの担任の話では、クスリとも笑えません。
また、ベルクソンは、笑いは社会の要請であるとも言います。
つまり、笑いは社会的な価値観、固定観念、言い換えればマジョリティの持つ考え、すなわち「常識」によって、発生するということです。
そしてそうした笑いは、法をもって罰するには値しないまでも、社会的に見て有用で無かったり、非効率的であったりする、言ってみればのけものに対して発揮されます。
笑いは屈辱を対象に与えることで、軽い罰を与え、そうしたことをこれ以上行わないよう、釘を刺すように、対象を縛り付け、枷を付け、そして対象が社会に適合した人間になるよう矯正する、というのです。
そうした説明もありながら、彼はいくつもの例を挙げつつ、笑いについての考察を進めていきます。
笑いを生むおかしさはひっくり返し、繰り返し、系列間の相互交渉の3類型によって生まれるとか、笑いは対象の硬直性が引き金になるとか、さらには創作にまつわる話まで。
詳しくは説明しませんが、とにかく大変興味深い内容でしたので、みなさんも一度読んでみると良いと思います。おすすめです。*1。
そして最後を飾るべくして登場した概念が、私が光明と感じた「夢想の論理」でした*2。その説明をしましょう。
ベルクソンはその具体例として、『ドン・キホーテ』の風車との対決を紹介します。
内容は知っている前提で進めますが、彼は自らを中世の騎士だと信じ込んでおり、風車が怪物であると確信しています。しかし、人々から見れば、中年が風車に突進していくようにしか見えないのです。当然、作中で彼は人々の笑いの種でした。
ここでベルクソンは、彼が自分を騎士だと信じて疑わないことに着目します。そして、それを夢を見ている人物に例えるのです。
夢を見ている人は、自分が夢を見ているとは毛頭思いません。
ドンキホーテもまた、夢を見ているかのように、自身は騎士以外の何者でも無いと考えているのです。
つまり、本来なら見たものが表象として認識され、観念として理解されなければならないものを、ドンキホーテは物語の中で見た観念を対象に映し込み理解するという、"通常"とはひっくり返った行いをしているのです。
みなさんもう気付かれているでしょうが、厨二病の人というのは、まさにこの、夢見の状態なのです。
ただ、井の中の蛙大海を知らずとは少し違います。彼らは無知だというわけではないからです。
ドンキホーテに、それは怪物でなく風車だと言っても、信じることはないでしょう。それどころか、激高するかもしれません。そうだと信じ込んでいるのだから、そこに説得を加えて屈服させることは不可能でしょう。
同じように、自身を堕天使だと発言する人へ、あなたは堕天使では無いと告げても、それが”改善する”ことは恐らくありません。
それがドンキホーテのように確信があるからなのか、それとも知ってはいるが、それを修正する気が起こってこないのかは分かりませんが。ともかく、彼らは無知なわけではないのです。なので、厨二病は外部から矯正することは困難と言えます。
フロイトを援用すると、彼も、精神分析を用いたノイローゼ患者の治療には、患者に自身の症状について理解させることが必要だと主張する一方で、ただ知識を伝えるだけでは駄目だと言っています*3。患者は無意識的に、治ることに抵抗するからです*4。
厨二病の人は夢を見ている。経験と結びつけて、納得していただける方も多くいらっしゃると思います。
夢見の状態は、社会の大きな枠組みから見れば、異質で、その仕組みから外れる存在です。
彼らには健全なコミュニケーションは少し難しいでしょうし、ともすると、その尊大な自己愛をもって他者を傷つけかねません。彼らは、ベルクソンの定義*5を当てはめると、彼らはまさに笑いの対象なのです。
「なぜ厨二病は馬鹿にされるのか?」は分かりました。では次に、「なぜ人々は厨二病を馬鹿にするのか?」についても考えてみましょう。
「厨二病が馬鹿にされる理由はドンキホーテで直感的には分かったし、厨二病は笑いの要件に当てはまっているんだろう? もう話すことはないじゃないか」とそう思われるかもしれませんが、私としてはここからが一番大事だと思っています。
何年か前、Twitterであるマンガを拝見しました。「あなたの作品を叩くものは、自分の過去を否定したいのだ」という趣旨だったと記憶していますが、これは当たっていると思います。
ベルクソンは『笑い』をアンチ哲学への反撃として書いた、とする記述を見たことがあります。哲学は今でこそ高尚なものとされていますが、昔は役に立たない学問だと笑われていたことがあったそうなのです。
そうしてみると、『笑い』は笑う人、あるいは笑いそのものへ疑問を投げかける書だとも解釈できそうです。そして、その文脈に組み込まれる「夢想の論理」はその意味でも、威力を発揮するのです。
夢というのは誰しもが見ます。私も、あなたも、あなたの友人もそうです。夢を見ない人はいません。そう、夢は厨二病の人だけが見るものではないのです。
ベルクソンは指摘します。人は笑うとき、その対象と自分は通ずるところがあるのに、笑いによって、その繋がりを遮断し、「俺はこんなやつとは関係ない、俺はまともな人間なのだ」とうそぶくのだ、と。
思い返してみてください。あなたは心の底から笑っています。しかし、そのあなたの心の奥の奥には、実は冷たいものが潜んでいる……。
思えば、喜怒哀楽の中に「笑い」というものは存在しないのです。私たちの笑い、それは実は、思いのほか空虚なものなのかもしれません。
最後に、『笑い』から次の文章を引用*6し、筆を置くこととします。
——笑いは絶対的に正しいものであるとはいえない。—— 笑う人はすぐに自分のうちに舞い戻り、程度の差はあれ誇らしげに自分自身を肯定し、他の人格を自分が糸を操っている操り人形とみなす傾向があるということである。しかもこうした思い上がりのなかにわたしたちは少しばかりのエゴイズムをすぐさま見抜くだろうし、このエゴイズムそれ自身の背後に、もっと自発性に乏しく、もっと苦しみの多い何ものかをすぐさま見抜くだろうし、何だかよく分からないペシミズムが生まれつつあるのをすぐさま見抜くだろう。そのペシミズムは笑う人が自分の笑いに試案をめぐらすにつれてだんだんはっきりしてくるのである。
*1:ただ、私はこの本を読んでバラエティーや漫才、コメディーなどが今までのように観られなくなりました。なんというか、笑っている自分を意識すると、引け目というか、罪悪感というか、そういったものを覚えるようになってしまったのです。
*2:文章上、厳密にいえば、「想像力の論理」が正しいかもしれませんが、語感が好きなのと、今回の話と結び付けやすいことからこちらを使わせていただきます
*3:ジークムント・フロイト著『精神分析学入門Ⅰ』『精神分析学入門Ⅱ』懸田克躬訳、中公クラシックス、2001年
*4:個人的には、フロイトの記述は科学としての根拠が無いように思います。なのでこれを引っ張ることには少し抵抗がありましたが、理解の一助になればと引用しました
*5:定義とは言いましたが、正しくは笑いのもととなるおかしさを生む条件です。ベルクソンは他の哲学書のように、語の定義づけから始めることはしていません。