とらじぇでぃが色々書くやつ

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主にVTuberの記事を投稿中。

キズナアイ、ファン、クリエイター、そして観光客

 

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キズナアイの動画サムネイルより

 

 この記事では、ファンクリエイターという二項対立を軸として、キズナアイ分裂騒動および識者たちの発言を総括し、私個人の意見を述べることを目的としています。

 

 まずキズナアイ分裂騒動をまとめ、次にキズナアイとは何かを考察、そしてファンとクリエイターそれぞれの見方を分析したのち、東浩紀氏の観光客論を用いて私なりの提案を述べることにします。

 

 ファンとクリエイターという二項対立がどのようなものであるのか、その定義は徐々に行っていきますが、最初に宣言しておくと私はファン側です。この記事で私がDD(どっちもどっち)論を展開する心配はありませんので、そこはご安心ください。

 

 

 

 

キズナアイ分裂騒動

 この騒動についてよくまとめられている以下の記事を参考にしつつ、まずは今回の件を軽くおさらいしましょう。

medium.com

 キズナアイが4人になったのは、2019年5月25日に投稿されたこの動画からです。

 

キズナアイが4人いるって言ったら信じますか? #1 - YouTube

 

 動画内では、複数のキズナアイの存在が示唆されています。この動画は「キズナアイな日々」というシリーズの一本目とされ、その後もいくつかの動画が公開されました。

 

 今まで私たちリスナーに接してきたオリジナルキズナアイの登場頻度はここらから落ち始めます。そして代わりに、キズナアイ3号が多く動画に現れるようになりました。

 

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3号は企業案件も務めました



 6月30日に行われたキズナアイの誕生日パーティーにも、オリジナルキズナアイではなく、中国人が演者を務めるキズナアイ4号が登場しています。

 

 今回の騒動はもともと中国ファンの間でより熱心に抗議活動が行われていましたが、その発端はこれです。視聴者はオリジナルキズナアイに会いに行ったのに、現れたのは中国語をぺらぺらと話す別人だったのですから、無理もありません。

 

 その後、キズナアイ3号がYouTube上で配信も行いました。しかしそこは様々な言語で怒声が飛び交う、地獄絵図の様相を呈しました。

 

 視聴者は3号に、「せめてぴょこぴょこの色を変えろ」「オリジナルを返せ」などと叫び、3号はそれに対して、「みんなピンクが好きだからそれはできない*1」「彼女は眠らせたりしないから安心して*2」と答えます。

 スタンスを変えるつもりはない、ということでしょうか。

 

 視聴者を突き動かすものは不安です。

 ファンの立場は様々ですが、多い声は「オリジナルキズナアイが消えてしまうのではないか」というものであり、そこから派生する「2~4号はキズナアイではない」です。

 

 私も一人のリスナーとしては、運営のやっていることは正直理解に苦しむところがありました。

 

 アズマリム、ゲーム部、そしてキズナアイと、視聴者にとっての地雷を企業は次々と踏み抜いていく。これは一体なぜなのでしょう。

 

 「単に理解が足りていないだけ」……?

 

 私もそう思っていました。しかし、Twitterで様々な意見を追うごとに、運営側のある確固とした考えが浮かび上がってきたのです

 

 

キズナアイとは何か

 

 キズナアイは、登場以来ずっと、VTuberの中心的存在として理解されてきました。様々なテレビ番組に登場し、多くのコラボを達成し、大々的なイベントを成功させる。その姿はVTuberの第一線を走る、まさに親分でした。

 

 しかし、企業にとっては、少し考えの異なる部分があったようです。

 

「ファン」と「クリエイター」

 

 ここで、「ファン」と「クリエイター」の二項対立を導入します。

 

 大まかにいうと、前者の「ファン」は、素朴的な直感をもってVTuberを視聴するリスナーのことであり、後者の「クリエイター」は理性的な分析をもってVTuberに接するリスナー、企業(特にActive8)のことを指します。前者についてはもう少し良い名前があると思うのですが、今はこれで進めます。また、この分け方は、いささか相対的なものです。そして、「後者はVTuberファンではない」とするものでもありません。以上ご理解ください。

 

「ファン」のVTuber

 

 ファンのVTuberに対する見方は、ナンバユウキ氏の三層理論*3を用いれば、パーソン(=演者)重視のものです。たとえば、にじさんじには勇気ちひろというVTuberがいます。彼女は基本幼い少女のキャラクタを纏っていますが、過去に成長した姿を纏うことがありました。しかし、キャラクタの変化にも関わらず、私たちはそれを勇気ちひろとして認識しました。

 

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初期のキャラク

 

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本人が「大人」と称するキャラク

 また、にじさんじマスコッツという企画では、キャラクターにVTuberが声を当て、会話を繰り広げています。


【マスコットコラボ】#にじさんじマスコッツ 第一話「慟哭」【ほのぼの】

 この第一回では、夢追翔はもやしに、町田ちまはハムスターに、郡道美玲はうさぎに、リゼ・ヘルエスタはひよこに扮し、意図的に声を変えるなどして配信は進行されました。

 ここでは、うさぎは郡道美玲であり、郡道美玲は演者に動かされているという入れ子構造が出来上がっています。画面にはうさぎしか映っていませんが、私たちはそれが郡道美玲であると声で認識できるし、そしてそれを隠蔽して、うさぎを「うさちゃん先生(うさぎの名前)」として楽しむことができます。

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郡道美玲


 さらにもう一つ例を出すと、にじさんじではオフコラボを度々開催していて(これ自体が既にパーソンに重みを置いた動きなのですが)、その中で、ふざけてアバターの乗っ取りが行われることがあります。モーションキャプチャーは誰に対しても反応するので、アバターを別のVTuberの演者が動かすことも可能なのです。

www.nicovideo.jp

 この動画では、郡道美玲のキャラクタを、隣の神田笑一(の演者)が動かしています。この動画では二つのキャラクタが同時に画面に存在し、一緒に発言もされているので分かりにくいですが、もし仮に郡道美玲のキャラクタのみが画面に存在していて、発せられる声が神田笑一のものだけであった場合、視聴者はどういう反応をするでしょう?

 おそらく、「神田笑一が郡道美玲の皮をかぶっている」と認識するはずです。視聴者は、「郡道美玲の声が変わった」、「その声は神田笑一のものだ」、「神田笑一が郡道美玲を動かしている」と考えます。このプロセスは、パーソンの存在を前提とするがゆえに起こることです。

 

 このように、パーソンは同一性保持に大いに貢献しています*4

 

 こういった考え方は、VTuber最大の魅力といわれる相互的関係に基づきます。にじさんじ、アイドル部、ホロライブ、あにスト*5などは、配信を主体とした活動と、Twitter戦略によって「配信する⇔コメントする」「リスナーの名前を覚える⇔応援する」といった相互的関係を築きました。

 

 にじさんじが確立したと思われるこの関係は、もともと配信を主体としていなかったVTuberたちも巻き込みました。また、TwitterVTuberの必須アイテムと化しました。そうして、VTuberは、巨大な相互的関係のシステムに取り込まれたのです。

 

 アズマリムやゲーム部の演者交代騒動に対しては、パーソンの変更にすさまじい拒否反応が起こりましたが、彼らもまた、ファンと相互的関係を結んでいたVTuberでした。パーソンが変わってしまっては、その同一性は維持できない。それがファンの考え方です。

 

「クリエイター」のキズナアイ

 

  さて、クリエイター側の話をするため、「キズナアイとは何か」に話を戻しましょう。

 まずはこのツイートを見てください。

 

 

 「キズナアイは未来のパロディ」。これを私なりに言い換えると、「キズナアイは未来に実現し得るであろう完全なAIというイデアを模倣し、人間を媒介として作られた存在」であるということです。

 

 思い出してみると、キズナアイは自身をAIだと言って譲りませんでした。私は、少し前までは「設定を守り通しているのだな」くらいにしか思っていませんでしたが、しかしキズナアイを「未来の模倣」として見てみると、キズナアイは自身を本気でAIだと言っているのではないかと、そう思えてきます。

 

 次に、キズナアイ運営のActive8がbilibiliで出した声明を参照しましょう。この声明は、先ほどの発想を一層強固なものとします。

 声明文では、声明発表の理由、キズナアイが登場するに至った経緯、キズナアイを支える「分人」という概念、「キズナアイ」のテーマ、オリジナルキズナアイの動画登場頻度低下の理由などが語られています。

 

 画像が見づらいと思うので一応要約します。

 

「この声明は虚偽の情報に対処し、キズナアイを守るべく発表する。『Project A.I.』から生まれたキズナアイの目的は、世界中の人を魅了することだ。デジタルな存在が『生きている』とみんなに認められれば、キズナアイは永遠に生き続け、それが可能になるだろう。また、キズナアイは『分人』に支えられている。『分人』とは、本当の自分は存在せず、どんな自分も等しく自分であるという概念だ。4人目のキズナアイはこれによって生まれた存在かもしれない。そして、初期ボイスモデルのキズナアイの動画登場頻度が下がっている理由は、新規ボイスモデルのキズナアイの紹介をするためだ。初期ボイスモデルのキズナアイは、歌の動画に重きを置いていた。このやり方に賛否両論あることは知っている。ただ、初期ボイスモデルのキズナアイを辞めさせるようなことはない。安心してほしい」

 

 キズナアイ分裂を支える平野啓一郎氏の「分人」など、触れたい要素が多くありますが、それはまた別の機会に譲らせてください。

 

 さて、「デジタルな存在が『生きている』とみんなに認められれば、永遠に生き続け——」とあるように、キズナアイの目的は、デジタル存在としての永久機関を作り上げることにあったのです。

 

 このデジタルな存在とは、未来に実現するかもしれない完璧な、「インテリジェントなスーパーAI」であり、その理想形(=イデア)を模倣した存在です。

 

 つまり、キズナアイとは、「キズナアイ」という一つの概念であり、目に見えるキズナアイはそこから表出した一部でしかなかったと、企業は言いたいのです

 

 プラトンの洞窟の比喩を思い浮かべると、私たちが見ていたキズナアイは洞窟の壁面に映った影であり、光源であるイデア(=「キズナアイ」)は背後にある、ということになります(ちなみにいうと、未来のAIは水面に映る太陽に相当するでしょう)。

 

 これは、素朴に動画を見ていたファンにとって衝撃的です。キズナアイ初音ミクのような、真のバーチャル的存在なんだよ、と急に告げられたわけですから。影を見つめていた人が、急に後ろを向けと言われ、その眩さに当惑している。当惑は不安を生み、混乱を招いていきます。

 

 

パーソンをめぐる争い

 

 つまるところ、企業を始めとしたクリエイター陣は、キズナアイ「中の人などいない」ものと考えています。VRChatを思い浮かべるといいかもしれません。ねこます氏のアバターや、櫻歌ミコアバター、ますきゃっとなどが同時に複数存在し、VRを楽しんでいる。

 

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http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im4474830


 アバター(=キャラクタ)とパーソンの結合はとても緩やかです。今回の分裂騒動は、VTuber界にVRChatを持ち込んだ結果ともいえるでしょう。

 そして彼らは、そういった仕組みこそが今後の表現の幅を広げ、また永久機関というビジネス的理想をも実現すると期待するのです。

 

 対してファンはそうではなく、先ほどの話から示唆されるように、「中の人はいる」という立場をとります。少し前までは「中の人はいない(が、いる)」という考え方が主流だったと思いますが、最近ではパーソンの存在が前提されるようになりました。アズマリム、朝ノ姉妹、ゲーム部など、パーソンを意識させるような出来事が重なったことも一因かもしれません。ともかく、ファンはキズナアイの「中の人」は存在していて、その彼女だけが私たちと繋がっていたとするのです。

 

 それは、先ほど述べた相互的関係のシステムに、キズナアイまでもが取り込まれていたことを意味します

 

 キズナアイは配信を行っていたし、Twitterも利用しています。すると相互的関係が自然に成り立ち、その結果、クリエイターの想定するような「中の人はいない」は崩れイデアとしての「キズナアイ」は輝きを失い、オリジナルキズナアイキズナアイの図式が出来上がりましょう。

 

 クリエイターは、こういった動きを「バーチャルらしくない」「人間依存が過ぎる」とします。

 

 

 どうやらクリエイターとしては、どうしてもその「永遠性」が欲しいようです。その理由は、次のツイートで説明されます。

 

  

 イデアとしての「キズナアイ」のような、理想的なVTuberにはメリットが山ほどあった、しかしそれはパーソンが及ぼす影響を考慮していなかった。これが企業の甘さでしょう。

 

 このツイートには、「ファンの考え方では企業がVTuberをするメリットが無い」と続きます。

 

 クリエイターとしての理想には、ファンの考えは邪魔です。しかし、VTuberはファン無しには存続しえないし、無理に押し通すと待っているのは破滅です。ですからActive8はもっと慎重に、ファンに不安を与えないよう事を進めなければならなかったのですが、説明不足ゆえに、今回の炎上を招いてしまったのでしょう。

 

 

キズナアイと観光客

 

 ここからは私の思いを書きます。

 

 私はファンの立場だと、冒頭で述べました。私が好きだったキズナアイは、「あの」キズナアイであると、今でもそう感じています。

 しかし、駄々をこねてばかりもいられません前に進まなければなりません

 

 そこで、私は東浩紀氏の『観光客の哲学』を参照します。

 

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

 

 当書は、ネット社会においていかに他者と関わるか、について述べられたものです。キズナアイはネット社会だからこそ生まれた存在です。だから、この本を参照するにふさわしいと考えます。

 

 

 東氏は、『観光客の哲学』での狙いを三つ挙げます。

 

 ひとつめの狙いは、グローバリズムについての新たな思考の枠組みを作りたいというものである。(p31)

 

 ふたつめの狙いは、(中略)人間や社会について、必要性(必然性)からではなく不必要性(偶然性)から考える枠組みを提示したいというものである。(p34)

 

 みっつめの狙いは、(中略)「まじめ」と「ふまじめ」の境界を越えたところに、新たな知的言説を立ち上げたいというものである。(p36)

 

 私はこのうち、特に二つ目と三つ目に注目して、意見を述べようと思います。

 まず「感情とキズナアイ」で企業側の姿勢について述べ、そして次に「『キズナアイ』への寛容」でファンの姿勢について述べます。前者は前提であり、私の真に言いたいことは後者にあります。

 

 感情とキズナアイ

 

 当書がいう観光客とは何でしょうか。

 それは、touristに留まる概念ではありません。何の気なしに行動して、知らぬ間に他者と連帯している、そういった存在のことです。

 

 例えばデモは政治的に有効であるとされますが、しかしそうした自由意志での連帯は、同じく自由意志で簡単に解けてしまうといいます。

 

 思想信条に基づく結社や趣味の共同体は、そもそもアイデンティティの核にならない。それらへの所属は自由意志で変更可能だからだ。自由意志に基づいた連帯は自由意志に基づきたやすく解消される。(p210)

 

 観光客は素朴的で、言ってしまえば何も考えていません。しかし、東氏はそういった者たちこそが、「イデオロギーを失ったこの世界とどう関係を持つか」という問いに答えを与えてくれるといいます。

 それは、新しい連帯の仕方によってです。

 

 ぼくの会社では、(中略)希望者をチェルノブイリの旧立入禁止区域と事故を起こした原発構内に案内するツアーを開催している。(中略))そこで彼ら<=ツアー参加者>が口を揃えて漏らすのが、チェルノブイリは想像していたよりも遥かに「ふつう」だったという感想である。(p55)

 

ひとは、自分が「ふつうではない」と思い込んでいた場所に赴き、そこがふつうであることを知ってはじめて、「ふつうではない」ことがたまたまそこで起きたという「運命」の重みを受け取ることができる。(p57)

 

 観光は、好奇心だとか、幻想だとかを契機として、基本的には何の気なしに行われます。しかし、現地に赴いてみると、思ってもみなかったことが眼前に現れ、それについて考えるうちに、観光客と遠いところとの距離は、ぐんと近いものになっていきます。

 

 そして、そういった何の気なしの行動は、いつの間にか連帯を生んでいく。

 

 特に大事なのは、この連帯が、「憐み」によって生まれるものであるということです。

 

 東氏は、 自由意志での連帯はもう期待できない状況で、ならばどういった集団をモデルにすればよいかと問います。階級は共産主義的でダメ、土地はグローバリズムの世界で拠り所になり得ずダメ、血や遺伝子は人種主義に繋がるからダメ、ジェンダーはヒトを分けるには粗く、思想信条に基づく結社や趣味の共同体は、先に引用した通り使えない。

 そうした排除の結果、残されるのは「家族」のみだと答えます。

 東氏は、家族には三つの特徴があるといいます。強制性、偶然性、拡張性です。

 家族は簡単に出入りできず、感情の強い結合があり、合理性を越えた強制性を持ちます。また、親は生まれてくる子どもを選ぶことができません。

 そして、家族は血縁で基本的に拡張しますが、実際拡張はそれだけではありません。たとえば養子も、犬や猫などのペットも、時には家族とみなされます。その拡張を支えるのは、憐みです。

 東氏は拡張性の話に特にページ数を割いているため、私はこの拡張性が特に重要であると考えられます。そして家族とは、観光客による連帯の別名です。

 そのため私は、連帯には憐みが重要であると読み取ります。

 

 以上、大雑把ですが、観光客とはこのようなものであると説明しておきます。

 

 みなさんお気づきでしょうが、この記事でいう「ファン」が、観光客にあたります。

 

 ファンは積極的理由なしに、たとえばYouTubeのおすすめに促されるがままにキズナアイに触れ、キズナ*6になりました。 

 

 ファンは、キズナアイとの素朴的な相互的関係のなかで、自然に連帯していきました。それは、「憐み」であり、まさに「愛(アイ)」によるものでした。そうでなければ、今回のような憂いの声は聞かれないでしょう。

 

 もし仮に、それが理性的な、つまりこの記事でいうクリエイター的な連帯であれば、事態はどうだったでしょう。粛々と「キズナアイ」化が進んだという以前に、キズナアイにファンはついていません。彼女に熱中する人がいて、初めてキズナアイは成立するのです。

 

 ファンとクリエイターは、いわば「主人と奴隷」です。奴隷は主人がいなければ生きていけず、主人は奴隷がいなければ生きていけない。どちらがどちらということではなく、お互いへのリスペクトがなければ、「キズナアイ」は死ぬし、VTuberは衰退の道をたどる一方です。

 

 これは至極当然のことを言っています。ですが、以前にあった騒動も、今回の騒動も、少々歩み寄りが足りないと感じます。

 

 企業なりの理念があるのは結構。しかし、それを実現するにあたっては、ファンの感情をきちんと「算段」に入れてほしい。そうであれば、ファンも少しずつ理解を示してくれるはずです。

 

 

キズナアイ」への寛

  次にファンの話に移りましょう。

  企業からの歩み寄りがあったと仮定して、ファンにとっての「理解」の筋道を、私は提案します。

 

 前掲書では、最終章でドストエフスキーを参照し、観光客のまた別の主体性を探っています。

 東氏は、ドストエフスキーの小説には弁証法があるとし、その筋道を辿りました。 

 『地下室の手記』の主人公は、ユートピアという理想主義を否定したマゾヒスト。『悪霊』の主人公スタヴローギンは、マゾヒズムの反転したサディストであり、ニヒリスト。 

 そして、それらは『カラマーゾフの兄弟』で集大成を迎えます。『カラマーゾフの兄弟』では、四人兄弟のうちの一人、イワンが、スタヴローギンの性格を継承し、ニヒリズムに覆われたテロリストのような人物として描かれています。

  イワンを弁証法的に乗り越えるのは、その兄弟であるアリョーシャです。

 

 ニヒリストであるイワンは、アリョーシャの信仰にある議論をもちかけます。東氏の要約は次の通りです。

 

 ——なるほど、神はもしかしたらいるのかもしれない。救済もあるのかもしれない。何百年か何千年かのち、すべての罪人が許され、あらゆる死者が復活し、殺人者と犠牲者が抱き合って涙を流す、そのようなときが到来するのかもしれない。しかし問題は、「いまここで」痛めつけられ辱められている、罪のない子どもたちが無数にいることである。そんな彼らの苦痛と屈辱は、未来の救済によっても償われない。神はこの問いにどうこたえるのか? (『観光客の哲学』p293,カギカッコは傍点ルビ)

 

 この問いは、存在の固有性にかかわるものです。

 「子どもは救われるというが、子供の『いまここ』の苦しみは消えない」。イワンの嘆きは、そういった「この」性に基づきます。

 イワンおよびスタヴローギンのニヒリズムは、固有性に囚われたが故のものだったのです。

 そしてそこから脱する鍵は、ジューチカという犬の寓話にあると東氏はいいます。

 

 イリューシャ(小説に登場する中学生)はもともと、野犬の一匹をジューチカと名付けてかわいがっていた。けれどもあるとき、スメルジャコフカラマーゾフ家の使用人)に唆され、針の入ったパンを食べさせてしまう。ジューチカは鳴き叫んで走り去り、そのまま消えてしまった。病床に伏せたイリューシャは、そのことをずっと気に病んでいる。そこでコーリャ(イリューシャのクラスメイト)は、そっくりな犬を探し出し、イリューシャに贈ることにする。発見された新しい犬は、ペレズヴォンと名づけられ、ジューチカでは「ない」ことになっている。しかしイリューシャは、ペレズヴォンをひとめ見てそれがジューチカだと確信し、たいへん喜ぶことになる。その犬がほんとうにジューチカだったのかどうかは、誰にもわからない。

(p296,かっこ部は筆者,かぎかっこは傍点ルビ)

 

 消えたジューチカに心を痛めていたイリューシャのもとに、「ジューチカ」が帰ってくる。ジューチカはそもそも一匹の野犬で、だからこそ、イリューシャはジューチカでもありペレズヴォンでもある、"ジューチカ的なるもの"と新しい関係を築くことができたと、東氏はいいます。

 

 物語ではその後、イリューシャは死んでしまいます。父親もまた、それに対して「この」イリューシャがなぜ死ななければならなかったのか、そしてイリューシャが我が子であったのはなぜかと叫びます。

 

 ある子どもが偶然で生まれ、偶然で死ぬ。そして、また新しい子どもが偶然に生まれ、いつのまにか必然の存在へと変わっていく。イリューシャの死はそのような運動で乗り越えられる。

 

 つまり、「この」性による悲しみを癒す一つの手段が、偶然を受け入れることなのです。

 

 私が何を言いたいか、分かり辛いでしょうか。

 

 この記事で言う「この」性に囚われた存在とはファンのことで、その悲しみの対象とはキズナアイのことです。

 あるファンは、「この」キズナアイという神を失い、自暴自棄になっています。それは一種の、ニヒリズムの憑依です。

 それを解消する手段の一つは、偶然を受け入れるという、寛容の、多様性の論理だといえます

 キズナアイが「この」キズナアイであるのは「偶然」であった、そういう見方を私は紹介したいのです。

 

 これは結局のところ、イデアとしての「キズナアイ」を認める提案です。ですがオリジナルキズナアイは出番は少ないとはいえ、今のところ健在なのです。であれば、偶然に私たちに出会った2号、3号、4号のキズナアイと新たに関係を築いていくことも可能なのではないでしょうか彼女らを新たに受け入れることも可能なのではないでしょうか。そうして、また私たちは見知らぬ世界へと繋がっていく。それが観光客的な、ファン的な態度というものです。

 

 

総括

 

 私たちの、ファンにとってのキズナアイは、絶対的な存在ではなく、相対的で偶然的な存在になりました。その意味で、キズナアイは死にました

 

 しかし、今から分裂に否をつきつけることはできません。クリエイターの論理からはもちろん、ファンの論理からもです。

 

 なぜなら、ファンにとってVTuberは不可逆的だからですキズナアイ2号にも、3号にも、4号にも、少なからずファンがいます。突然それが奪われたら、そのファンはどう思うでしょう。

 

 私たちは感情を尊重しろといいます。では、等しく他者の感情も尊重しなければなりません。

 

 であれば、どうにかして受け入れるか、去るか、それしか道は無いはずです遺憾なことに

 

 ——もしVTuberに四つ目の身体として「声帯(Vocal Cord)」があれば、つまりパーソンが変わっても声が変わらなかったとしたら、まだ痛みは少なかったかもしれませんが。そうはいかないのでしょうね。

 

 幸いにも、オリジナルキズナアイは出番が減っているだけだと運営は言います。今は信じましょう。もし嘘なら、声を上げましょう。

 ともかく、今できるのはそれだけです。

 

 

 

 P.S.夢月ロアもよければ見てください

 

 

 

参考文献

 

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

 

 

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

*1:I have been listening to everyone, they want me to change color or something, sorry but I can’t do that since we all like pink.

*2:Don’t worry, I won’t let her fall asleep.

*3:ユリイカ2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber,『バーチャルユーチューバーの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ』

*4:にじさんじに限った話ではないか、という意見もあるかもしれませんが、そもそもにじさんじはファン側の見方に立ったブランドです。今回の騒動でも、「にじさんじを見習え」といった意見を目にしたでしょう。にじさんじには引退があり、またパーソンの表出、つまり公式設定にない発言を特に制限しない傾向にあります。パーソンを重視した結果です。

*5:あにまーれとハニーストラップの総称

*6:キズナアイのファンのこと

Vtuberはいかにして世間に受容されたか

 

 この記事は、バーチャルユーチューバー(以下Vtuber)と一般社会とのかかわり、主に一般社会からVtuberがどう見られているのかを、一人のVtuberリスナーの視点から考えてみるものです。

 そしてその手掛かりとしては、テレビでのVtuber報道の参照が適しているのではないかと考えます。以下で論じますが、Vtuberはおそらく世間的に受容されているでしょう。では、その受容がいかにして行われているのでしょうか。それをまず最初の疑問符にしようと思います。

 

 

Vtuberが世間に受容された経緯

 

 まず確認ですが、ここでいう「受容」は、テレビで好意的な報道がなされていることに依拠しています

 

 たとえばNEWS ZEROです。ZEROは突如、有名Vtuberであるキズナアイを登場させ反響を呼び、その後もたびたびZEROはVtuberに関する特集を組みました。

 それに他番組も追随し、結果多くのニュースやバラエティでVtuberが登場したことは、記憶に新しいと思われます。

 

 

 特にバラエティ番組である「マツコ会議」ではVtuberが二回にわたって特集され、「みみたろう」らが強烈なインパクトを与えました

 

 

 そこには軽蔑の意図はもちろん、扱われ方も他の回となんら差異はなく、どちらかといえば好意的な報じられ方をされていたのではないかと感じました。

 

 そして日本テレビ系のゴールデンウィーク企画、「ゴールデンまなびウィーク」にもキズナアイが登場。

 

www.ntv.co.jp

 

 ご覧いただければ分かると思いますが、このページはキズナアイへの好印象を基に書かれています。

 

 こういった事実をもって、私はVtuberは世間に受容されたと言いたいのです。

 

 しかし、ある人はこう反論するかもしれません。

 

 「それはテレビ局の人間が作為的にそういう流れになるよう仕組んでいるに違いない。きっとお金か何かの裏取引があったんだ」

 

 テレビ番組というのは一般に、報じる内容をテレビ局のスタッフが一方的に決めていると思われがちです。見えない部分ですから、まあ実際そういうことが無いと言い切ることはできません。

 

 しかしながら、一般的に考えて、事態はその逆の側面がより強く影響しています。というのも、番組の内容には、視聴者の価値観・好みが色濃く反映されているのです。

 

 なぜか。

 

 まず、テレビ局にはスポンサーが必須です。スポンサーがつかなければ運営が難しくなりますから、テレビ局はそうならないよう、視聴率を重視します。そしてその視聴率をとるには視聴者ウケする内容を電波に流さなければならないのであって、そうすると内容はむしろ、マジョリティの位置を占める視聴者(こういってよければ「大衆」)の好みによって左右されるのです。

 

 そういうわけで、テレビ番組は視聴者によって規定されているともいえます。

 

 よって、Vtuberが頻繁に取り上げられ、特に同番組内で複数回にわたり何度もVtuberが登場し、さらにはゴールデンウイークにキズナアイが複数の番組に生出演するという事態が起こったのは、視聴者の大部分がVtuber、あるいはキズナアイに興味を持ったからであるといえます。

 

 もちろんVtuberが気に入らない人も当然いらっしゃるでしょうが、ここで重要なのは、視聴者のおそらく半数以上がVtuberを支持している*1という事実*2です。

 

 その母集団が一体どのような年齢層で占められているかというのは気になるところですが、しかしそれがどのような層であってもやはり重要なのは、Vtuberに触れていないであろう人たち(以下一般人)が肯定的にVtuberを見たという事実です。

 

 Vtuberはどの意味で受容されたのか

 

 ではなぜVtuberは好意的・肯定的に受け止められたのでしょう。

 ほかの、古い分類でいうところのサブカルチャー、つまりアニメや漫画、ボーカロイドといったものはたびたびテレビ番組で敵意や忌避の目を向けられる(向けられた)のに、Vtuberはなぜこのように特集を向けられるに至ったのでしょうか。

 

 

Vtuberは人間の部分(=パーソン)を持っている

 

 一つの視点としては、Vtuberが単なるキャラクターにとどまらないことがあります。

 Vtuberリスナーにとっては当然の見方かもしれませんが、Vtuberには画像、設定、中の人という三つの構成要素があり、これらはナンバユウキ氏の三層理論を引くと、それぞれキャラクペルソナパーソンと名付けられます。

 

 一般的にキャラクター、特にアニメキャラクターといえば、少し無機質的な言い方になりますが、設定が備わった画像の動きに声優が所定のセリフを吹き込んだものを指します。それぞれは一体となっていますが、しかしそこでは声優の性格は一切顕在化しませんし、設定は幾ばくかのメタ要素を除けば必ず保持されます。

 

 しかし一方でVtuberの場合、そこに起こっている事態はそう単純ではありません。キャラクターとしての設定は時に無視されますし、演者の表情が画像に反映される点でその画像の見え方は積極的に変わりえます。さらに演者の性格がペルソナと渾然一体となり表に出てくる頻度もかなり高く、表層だけを見ればどれが設定でどれが演者の実体験なのか、その境界は非常に曖昧です。

 

 Vtuberについて、いくつかの概念が用意されるに至ったのはその複雑さゆえでしょうし、私がわざわざこれらの概念を使わせていただこうとしているのもそれゆえです。

 

 そういうわけで、Vtuberは従来のキャラクターとは一線を画した存在であるわけです。ですから、たとえばNEWS ZEROで一般人は突如現れたキズナアイを見て、「なんだマンガの類か?」と思ったりするものの、しかしすぐに、そのしっかりした受け答えや表情の変化、体(モデル)の動きを見て、きっとそうではないと気付くはずです。なぜなら、Vtuberはただのキャラクターではないからです。

 

 これを先ほどの概念を用いて表現すれば、一般人はキャラクタという外見だけを見て、キズナアイを従来のアニメ的キャラクターと――つまり裏方のボタン操作などによって、体は動かずただ表情だけが喜怒哀楽に変化するようなキャラクターと――判断しそう思い込んでいたところに、パーソンの動きが衝撃を与えたということになります。

 

 最近のネットや技術に疎ければこの仕組みは分からないでしょうが、そういった人でも恐らく、パーソンから分有されそのキャラクタの所作に散りばめられた諸要素を認識することによって、Vtuberに人の動作が反映されていることは理解できるはずです。

 

 ですから、ペルソナによって発言される「インテリジェントなスーパーAI」を本気で信じる人は流石に多くないでしょう*3

 

 その、全てがつくりものでない、言い換えれば、リアルタイムに、能動性をもって、まさに今そこで誰の作為もなく言葉が生み出される様は、一部とはいえまさに人間です。仮に一般人がVtuberそれ自体を否定しようとすれば、その否定はすなわち自分たち人間の否定と同じことになるでしょう。

 

 ですからその点で、Vtuberが全否定されることは無いと言い切っていいはずです。先ほども書いたように、アニメキャラクターは作者と声優が別であるためセリフや所作さえも作為的ですが、対してVtuberはその点意思を持ち、能動的です

 

 そのため、ある人にたとえ批判や疑問があったとしても、それはパーソンには向かず、「でも中に人が入ってるんでしょ?」のように、やはり虚構を纏った姿やその接続、またはペルソナの虚構性などにのみ向くことになるのです。

 

 これはつまり同時に、一般人には、パーソン/ペルソナの両義性や、フィクショナルキャラクタ(vtuberの人格、パーソンとペルソナを合わせたものをこう呼ぶことにする)とパーソンの接続、作り声としか思えないような声、ふるまいなどの、虚構を隠蔽し前提とするVtuberコンテンツの中身への理解は得られないだろうことを示します。

 

 そういうわけで、一般人の受容は、そういった意味ではありえないことが分かります。

 

 

Vtuberは資本主義的に人間を充足させる

 

 ここまで、Vtuberはその報道のされ方から一般人に受け入れられていることを示し、そしてそれはコンテンツとしてではなく、外見として、つまりその特殊な性格に下支えされて受容されたのだということを述べました。


 さて、二つ目の視点ですが、それは技術の進歩という視点です。

 

 昨今のAIやロボット技術の台頭はめざましく、その社会に及ぼす影響の大きさから、世間の注目を浴びていることはご存知の通りですが、Vtuberの受容はまさにこの延長にあると私は考えます。

 

 というのも、今人々は機械との付き合い方を真剣に考えることを社会に要請されており、それゆえ、そうした科学技術には敏感になっているのです。

 

 そこで現れたキズナアイ。彼女がAIでないのは前述の通り誰の目にも明らかなのですが、しかしながら、私たちにはどこかそれが間違っていないように感じられます。なぜならそれは、彼女自体が科学技術の所産であるからです。

 

 たとえばキャラクタ=3Dモデルはコンピュータグラフィックによって作られたものですし、フィクショナルキャラクタとキャラクタの接合はトラッキングリップシンクといった技術で成り立っています。そもそも、それ抜きでvtuberは語れないでしょう。

 

 そして、その技術が能動性をもって私たちの前に現れているその光景は、まさに技術の進歩が具象化され顕在していることを意味し、しかもそれは同時に、AIやロボットが自律的に行動するような未来が近いことを予期させます。そしてそれらは、進歩を求める資本主義的人間の自尊心をも満たすのです。

 

 そういった姿勢は、キズナアイに限らず表れています。

 

 Vtuberを扱った一般向けの番組を思い返してもらえば分かるのですが、そこではコンテンツの概観をある程度は経由しつつも、最終的にはVRといった技術的側面の報道に落ち着きます*4

 

 たとえば前述のマツコ会議では序盤何名かのVtuberが取り上げられたのち、「みみたろー」の中の人やVRヘッドギア、トラッキング技術などへと話題が移っていきました。番組構成上、そこが核であると認識されていることは間違いないでしょう。

 

 テレビ番組の(大衆の)特性には、とにかく答えを明らかにしたがるというものがあるように思うのですが、彼らはその特性をもって、vtuberを科学的に解剖します。つまり、三つの密接にかかわるvtuberの身体を、無知ゆえに、無邪気に分解しようとするのです。もちろん、それは彼らに、コンテンツとしてのvtuberへの興味が無く、ただ純粋に、科学への崇拝と、進歩の信仰、新技術への憧憬のみがあるからです。

 

 それが悪いとは思っていません。リスナーとしては少し複雑であっても、その視点を否定しようとは思えません

 

 オタクコンテンツの性質というのは、虚構を足場とするという点にあります。

 

 言うまでもないかもしれませんが、ライトノベルがその好例です。そこでは現実にはありえない魔法や魔物などが、その物語内の世界において前提されます。現実とある程度のつながりを持ちながらもしかし、何かマンガ的、ゲーム的な設定が入り込んでいるのです。つまり、ライトノベルでは虚構が棚上げされ、読者は物語すべてを一挙に受け入れます。

 

 また、それと似た種として最近思うのは、Twitterで流通するMAD動画です。そこでは「わけのわからなさ」がむしろ面白さに繋がっていることが分かるでしょう。特に海外ミームは言語が違うため私たちには少しニュアンスだったりが伝わりづらいことがありますが、それが余計に面白さを際立てているという部分もあります。

 

 

 こういったことは、オタクが虚構などの、理屈が通らないものを保留して、受け入れられる思考を備えていることから生じるのでしょう。

 

 しかし一方、一般人はそうではありません。彼らにとって、そういったものは受け入れ不可能なのです。

 

 この違いは訓練されているか否か、つまりそういったものに慣れているか否かであると、東浩紀は『動物化するポストモダン』で述べています。

 

 そしてさまざまなオタクコンテンツの系譜を引くVtuber、やはりそれらサブカルチャー的コンテンツの性質を併せ持っているのです。

 

 そういうわけで、視点が異なることは当然ですし、分からないものを放っておくことはこの意味でも彼らにはできないのだと理解できましょう。

 

 

コンテンツとしての受容はあり得るか

 

 では、一般人がコンテンツとしてのVtuberを理解するときは永遠に来ないのでしょうか。

 

 そうとも言い切れない、というのが私の考えです。

 

 しかしおそらく、一般人は自ら進んで理解をすすめようとはしません。パーソンの要素が理解の架け橋になってくれることは期待できますが、しかしパーソン・ペルソナ・キャラクタすべてを総合したものがVtuberであって、それらのトリニティ的結合が一般人を遠ざけるとともに、さらにそこには科学技術による接合や、ここでは詳しく述べませんでしたがパーソンとペルソナの両義性などといった成分も含まれています。

 

 ましてや、Vtuberはオタクの中でさえも好みが分かれるコンテンツです*5し、コンテンツとして市民権を得ていくためには、その視点からも壁があるといわざるを得ません。

 

 しかし、やはりキーワードは「訓練」、つまり慣れでしょう。

 

 エッセイらしく経験談を挟みますが、私は中学生2年になるころまで、いわゆる萌え絵などにはひどく嫌悪感を抱いていました。理由などありません。ただ嫌いだっただけです。

 

 しかし、友だちに勧められてボーカロイド曲を聴き始めたころから、少しずつそれは薄らいでいきました。今ではこの通りです笑

 

 私自身のそうした経験に照らし合わせても、突破口の一つはそういった「慣れ」だといえます。

 

 

総括

 

 さて、今回も記事が長くなってしまいましたが、まとめに入ります。

 

 今回私はまず「世間にVtuberが受容された」という前提を提示し、その根拠を示しました。

 

 次にその受容がどういった意味におけるものであるかを二つの視点(パーソンとしてのVtuber、科学技術としてのVtuber)から考えます。それぞれの結論は、Vtuberはコンテンツとして歓迎されたわけではないということでした。

 

 そして最後に、コンテンツとしてのVtuberが世間に受容される得るかについて述べ、最終的にそこでは「慣れ」がキーワードだと締めくくりました。

 

 この記事は何の役に立つのかと問われれば自分でもよく分かりませんが、リクエストをくれた友人には少なくとも役立ってくれるのではないかと思います。

 

 それではこのへんで。

 

 

 

参考文献

動物化するポストモダン東浩紀

 

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

 

 

ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』東浩紀

 

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

 

 

『バーチャルユーチューバーの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ』ナンバユウキ

 

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

 

 

 

 

*1:嫌悪感を抱いてはいない

*2:肯定的な人間より否定的な人間が多ければ、そのような特集は連続して組まれないと思うのです

*3:蛇足ですが、一般人とVtuberリスナーの違いは、ペルソナによる「AIだ」という発言を否定したくなるか暗に受け入れられるかというところにある気もします。つまり、サブカルチャーに理解があるというのは、矛盾をそのままにしておけるということであって、その保留は、本質的に社会と相容れないものです

*4:雑誌ユリイカやテレビ番組ガリベンガーZなどはどうなんだと言われるかもしれませんが、それらは一般向け、大衆向けとは言いがたいでしょう。この記事で重視するのは、そういった大衆がどのようにvtuberを見ているかということです。

*5:ほとんどが食わず嫌いのようにも見えますが

進化ビショっぽい何か

 

 シャドバでデッキ紹介とかはしないって言ったんですが、「なんかよく分からないけど強い」デッキができたので紹介しようと思います。

 

 こいつです。

 

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 フニカルとヤヴン、グリームニルにオーディン、加えてスノホワと、自動進化がいくつか入ってる点では進化ビショです。

 

 ですが一方で、るあj……もとい聖獣やガルラ二種が入っていたり、逆に5/3/5自動進化持ちが入っていなかったりと、少し進化ビショとは呼びにくい面もあります。

 

 そういうわけでデッキ名が「進化ビショ?」なのですが、しかしあえて分類するなら進化ビショとしか言いようがないような気もします。

 

 一応こいつ、アンリミで10連勝してます。

 

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 この後もけっこう勝率いい感じでした。

 

 なので強いとは思います(そうじゃないと記事書かない)。

 

 

 ……回し方などが気になるでしょうか?

 

 結論から言うと、自分はオカルト派、つまり感覚でしかプレイしない人間なので、要するに「分からん」のですが、それっぽいことを言うことはできなくもないです。

 

 マリガンはふつうにやってください。

 

 たとえばウィッチ相手にはソニアかバロンキープするとか、ドラゴン相手にはソニアかバロンキープするとか、エルフ相手にはソニアかバロンキープするとか……。

 

 ビショ相手は獣姫をいい感じに引いていい感じにフォロワー展開できれば勝てます。

 

 ロイヤルとヴァンプ、ネクロはぜんぜん分かりません。勝てるときは勝てる。獣姫→礼賛→聖獣→バロン→ガルラ→エンハソニアとかしてたらいいんじゃないかな。知らんけど。

 

 ネメシスはそもそも時間の無駄なので即リタしましょう。

 

 とにかく適当に強いムーブしていればオッケーです

 

 

 ……採用理由?

 

 それも感覚なのでなんともいえませんが、ぽれとしてはなるべく低コストが多い方が使いやすいっていうのがあって、その意味で5コス自動進化は抜きました。

 

 あと2コスのレインディアは感覚的に要らない気がしたので抜きました。

 

 2コスの亀はよく分かりません。自分で試してください(なげやり

 

 ガルラはバロンあけたり獣姫あけたりして気持ちよくなるためです。レジェガルラはフィニッシャーですけどあんまりアミュ来なかったりするので要らない説もなくはないです。

 

 でも1コスでカウント進められるのはたまに助かるのでどうなのかなという感じ。

 

 狂信者か病の神どっちを入れるかは気分で決めてください(ただ、並べるデッキなので狂信者のほうが良かったりするのかな)。

 

 オーディンは長期戦だとラグナロク来たるときあるんですが、基本なぜか手札にいるので4点パンチにだいたい使います。

 

 そんな感じです。

 

 テミスがないのでソニアもバロンも引けずドロシーに先手打たれたら泣いてください。

 

 

 ……次の環境ゼウス入るかなあ?

 

 

『存在と時間 哲学探究1』を読んだ

 

 『存在と時間 哲学探究1』を読み終わりました。

 あ、いえハイデガーの本ではなくて、永井均先生の本です。

 

存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)

存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)

 

 

 永井哲学に出会ったのは古本屋に売ってあった『哲おじさんと学くん』が最初でした。

 

 そのとき永井先生のことは全く知らなかったので、ぱっと見た時にはふざけた入門書か何かかと思ったのですが、序文がまずそれを否定していること、哲学を専門にしているような人にこそ読んでほしいと書いてあったことから興味を惹かれ、購入してみることにしました。

 

 形式は対話篇。昔プラトンを読んだとき以来な気がします。

 

 序文の固さから少し読みづらいかもしれないなと思っていたのですが、哲おじさんと学くんのセリフだけで進んでいく形式はとっつきやすく、意外に文章も読みやすい。

 

 「なんだ読めるじゃないか」という感じで、すいすいと調子よく20章、30章(見開き1ページで1章という構成)と私は読み進めていきました。

 

 しかし、40章あたりまで来たところで、違和感に気付きます。

 

 「あれ? なにがなんだかわからなくなってる……」

 

 あ……ありのまま今おこったこt

 

 そうです、この本、読めはするんですが理解するのがめっちゃくちゃ難しい

 

 というのも、普段使うような簡単な言葉を極力使っているので文を追うのは難なくできるのです。対話篇なので体にも入ってきやすい。

 

 しかし、その水面下ではかなり高度な論理展開が繰り広げられていて、最初からしっかりついていっていないと、いつの間にやら置いてけぼりを食らってしまうのです。

 

 そんなわけで、『哲おじさんと学くん』は挫折。

 

 挫折しただけでなく、内容を思い返すと腹が立ってくる始末です。

 

 この立腹が私の表層的な拒絶で、実は受け入れなくてはいけないものがこの本にあるのだというのは確信としてあったのですが、しかし感情はやっぱり憤りを感じているので、『哲おじさんと学くん』はまたいつか戻ってこようと思い本棚にしまいました。

 

 それから少しして、今度は対話篇ではなく普通の論文形式で一番新しいものをと思い、大学の図書館で『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』を探したのですがあいにく貸出中でした。そこでそのひとつ前の、存在と時間 哲学探究1』を読んでみようと手に取った、というのがこれまでの経緯です。

 

 さて、永井均とは。

 

 永井さんは言葉にできないもの——ウィトゲンシュタインにいう語り得ないもの——にかかわる哲学を展開している人です。

 

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

 

 

 この新書で言われる内容こそが自身の哲学の原点だと永井先生は言うのですが、このタイトルにある「私」「今」「神」を貫くものが、永井哲学の探究するものです。

 

 それは何でしょう。

 

 たとえば、「私」に関していえば、とらじぇでぃという私は、「その目からだけ現実に世界が見えており、その体だけが殴られると現実に痛く、その人の悲しみだけが現実に直接的に悲しい唯一の存在者*1」であるような私ですが、その性質を持っているのは、あまりにたくさんの人がいるなかで、やはり唯一この私だけです。

 

 これは一体なんだろう、というのが永井哲学の問いたいことです。

 

 ……あまりよく分からないでしょうか。

 

 それも無理はなくて、なぜなら永井先生の伝えたいことは前述のとおり、言語では伝えられないものだからです。

 

 彼もなんとか色々な言い方を駆使して感じ取ってもらおうとしているのですが、私も『哲おじさんと学くん』を読んでいなければ導入で既に躓いていたかもしれません。

 

 また、「今」に関していえば、「どの時点もその時点にとっては現在であるが、そうした諸々の現在の中にきわめて特殊な——それがなければ何もないのと同じであるような——ものが存在している。これはいったい何なのか!*2」というのが永井哲学の問いたいことです。

 

 詳しい内容はここに挙げた著書か、その他の永井先生の著書を読んでもらえたらいいと思います。

 

 さて、永井先生自身も書いていますが、この哲学は全く、全く役に立ちません。

 

 なにしろ、実在しない「現実の<私>」を扱うのですから。

 

 実用を重んじる現代社会にとっては残念なことです。

 

 ですが、「哲学は他の諸科学・諸学問とは違って、各人が人生において直接に感じ取った問いをそのまま問い、そのまま探求する学問でなければならない*3」というような定義も頷けるところです。

 

 すでに与えられている問いだけにしか答えようとしないのは、たしかになんだか違和感があります。

 

 しかも、永井先生はそれを口先だけでは無くて、独創的な切り口で哲学問題に挑む姿勢を示してそういうのですからすごいです。正直尊敬できます。

 

 

 永井哲学は、ニーチェウィトゲンシュタインと通ずるところがあるようですが、実際本を読んでいると、ニーチェを読んでいた時のような高揚感が呼び覚まされることに気付きました。

 

 そう感じるということは、きっと何かあるんだと思います。

 

 でも、難解。読み切れたのはよかったけど。

 

 

 

 

 次はVtuber記事を書くために、『動物化するポストモダン』を読もうと思います。感想書くかは気分で決めます……。 

 

 

 

『ALTER EGO』をプレイして

 

 

 ついさっき、スマホアプリゲームであるALTER EGOのエンディングを迎えました。

 

公式プレスキットより

 

 赤月ゆにちゃん様のツイートなどで前々から存在は知っていたのですが、

 

 

app storeからのスパムみたいな宣伝メールに載っていたのを目にして、暇だし()やってみようと思ったのがきっかけです。

 

 率直な感想をいえば、すばらしかったです。

 どのくらいすばらしかったかと言えば、追加シナリオ2000円分課金するくらいにはすばらしかったです。

 

 トゥルーエンドにたどりつくだけなら無料なので、みなさんにもおすすめします。

 

 特に、心理学や哲学に興味のある方、美人の女性に罵られたい方はハマると思いますね。

 

 少しどんなゲームなのか紹介します。

 

 

 このように、時間経過、あるいは流れてくるふきだしをクリックすることによってポイント(=EGO)を集め、それを消費することによりエス(途中に出てきた女性)との会話を進めていくゲームです。

 

 動画にあるとおりですが、途中エスからの質問に答えることがいくつかあります。それによってエンドの種類がかわるようになっているようです。

 

 エンドは3つ。どのルートを選ぶかによって、要求されるポイントの量がかわってきます。

 

 

 このように開発者さんもおっしゃるだけあって、少し人を選ぶのかもしれませんが、先ほども言ったように、適性のある人はとことんハマると思われます。

 

 さて、この先ネタバレを容赦なくねじこんでいくのですが、このゲームは見る人が見れば分かるとおり、心理学をその基礎としています*1

 

 登場人物は三人。

 

 本に囲まれた狭い部屋に住むエス、壁男とよばれるエゴ王、そしてプレイヤー。

 

「エゴ王」の画像検索結果

 

 これらが無意識エス=イド)、超自我(スーパーエゴ)、自我(エゴ)に対応していることは明らかです。

 

 エスは衝動を時に抑えられなくなる場面があり、エゴ王は自我であるプレイヤーに規律を守るよう促します。

 

 しかし、ALTER EGOとは?

 

 それぞれが対応関係にあったのであれば、ALTER EGOも何かを指すはずです。

 

 エンディング名も、イド、スーパーエゴの次はエゴエンドではなくオルターエゴエンドだったわけですから。

 

 字義から考えましょう。オルターエゴというのは、通常の意としては別人格のことを指します

 

 といっても、おそらく多重人格者における一人格ではなくて、劇などで道化としてじが演じられる別人格のことです。

 

 たとえば、俳優がドラマで刑事役を演じたりしたときの、その刑事としての人格をオルターエゴ、すなわち直訳にいう別の私*2として見るのです。

 

 なので、この意味でのオルターエゴは、日常での仮面の使い分けとか、Vtuberのパーソン/ペルソナとかにも適用しようと思えばできる、広い意味の言葉のように思えます。

 

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グラブルのスキン、オルターエゴ・コンジュラー

 

 ちなみに、グラブルにもオルターエゴと名の付くスキンがあります。

 コンジュラーは召喚士やらなんやらという神秘的・魔術的意味合いがあるようですし、また絆の象徴として知られる赤い糸が伸びていることからも、背景の人物が主人公の姿をした何かを操っていることは確かでしょう。

 

 ジョブのフレーバーテキストはこうです。

 

無秩序の渦による侵掠の赤き糸を拒絶し、逆に支配下に置くための絡繰りとした勇姿。
人の子の身に余る大いなる力も、仲間と共に仲間の為に扱えば造作も無い。

 

 そこまでしっかりグラブルのストーリーを見ているわけではないので的外れなことを言っていたら申し訳ないのですが、テキストを見る限りでは、そのままですが、操ろうとする何者かを逆に操っている様子がこのイラストということになりそうです。

 

 もし、先の定義を無理やり押し込めるとするなら、「もはやその主人公は、前の主人公とは別人」だということになるのでしょうか。客観的にか、内在的にかは分かりませんが。

 

 

 話を戻して、もうひとつ、オルターエゴは哲学で他我という意味にも使われます。

 

 他我はすなわち他の私です。

 

 つまり「他人が持つ私」のことですが、哲学ではその他我をどう感じ取れるのかといったことが問題になることがあって、それを他我問題といったりもします。

 

 『ALTER EGO』のいうオルターエゴは、この意味で用いられていると推測します。

 

 オルターエゴエンドの内容は、エスと共存する道を選ぶというものでした。

 

 これはつまり無意識・衝動と共存することの暗示でしょうが、しかしセリフなどから総合的に判断する限りでは、エスはプレイヤーとは独立して存在しているようにも思われます。

 

 彼女は例えば、狭い部屋が嫌だ、本を読むのが好き、私ってなんだろう、など独立した思考を持っています。擬人化ゆえにそうなったとも言えるかもしれませんが、しかしそれなら、なぜエンディングは順番として妥当な「エゴエンド」ではなく「オルターエゴエンド」なのでしょうか。

 

 それはまさしく、「私」の内なる別人格としてのエスとの共存を指すのです。これは無意識的衝動を受容する以上の意味を持ちます。

 というのも、ご存知のとおり、無意識というのは大海原のように広い領域だと言われており、その多くは自我のコントロールが効きません。

 

 フロイトは、人間の自尊心は3回ショックを受けたといいます*3。その3回目のショックが、無意識の存在によるものです。人間は自らを制御できていると自負していたのに、実は無意識がその多くを占めていたと明かされれば、困惑するのも無理はありません。

 

 そしてその無意識は、自分でも思ってもみなかったことを時たま露呈させます。

 

 その意味で、思い切った言い方をすれば、私たちみんなが多重人格者であるわけです。

 

 ユングは無意識の作用を、意識の対抗作用だと言っています*4が、無意識はそのように、意識のベクトルと逆方向に力をかけて、一旦その人を引き止め、考えを改めさせようとします

 

 ソクラテスはダイモーンの「否」の声を聞いたと言いますが、ダイモーンとはまさにその無意識の作用だったのかもしれません。

 

 そしてその別人格としての私を受け入れるということは、そのユングの意味での精神的な健康を保つことを指しましょう。

 

 少年マンガなどでよくある展開として、「登場人物の迷い→他なる私との遭遇→和解→解決」というものがあります。

 自分とそっくりだったりすることの多い、精神空間で邂逅した何者か。それは往々にして、登場人物にとって目を逸らしたいことを、ダイレクトに投げかけてきます。しかしそれと最後はわかり合い、問題は解決に向かっていく。

 これは、別人格としての私の声が、プラスの方向へと自分を導いていくことの暗喩であると解せましょう。

 

 逆に、無意識の声を否定し続けることは、精神的疲労を呼び、場合によっては精神疾患すら引き起こします*5

 

 まとめましょう。

 

 オルターエゴエンドはエスという内なる別人格の私との邂逅、そして和解を経た共存を表現し、それはユングの言う、あるべき精神の姿を示します

 

 その意味で、それはトゥルーエンドだったのではないでしょうか。

 

 

 

*1:参考文献 - ALTER EGO公式サイト

*2:alter egoラテン語

*3:「自我は自分自身の家の主人では決してあり得ない」——フロイト精神分析学入門Ⅱ』中公クラシックス、75p

*4:カール・グスタフユング『超越機能』(『想像する無意識』収)、平凡社ライブラリー、p134

*5:同上、p137