Vtuberはいかにして世間に受容されたか
この記事は、バーチャルユーチューバー(以下Vtuber)と一般社会とのかかわり、主に一般社会からVtuberがどう見られているのかを、一人のVtuberリスナーの視点から考えてみるものです。
そしてその手掛かりとしては、テレビでのVtuber報道の参照が適しているのではないかと考えます。以下で論じますが、Vtuberはおそらく世間的に受容されているでしょう。では、その受容がいかにして行われているのでしょうか。それをまず最初の疑問符にしようと思います。
Vtuberが世間に受容された経緯
まず確認ですが、ここでいう「受容」は、テレビで好意的な報道がなされていることに依拠しています。
たとえばNEWS ZEROです。ZEROは突如、有名Vtuberであるキズナアイを登場させ反響を呼び、その後もたびたびZEROはVtuberに関する特集を組みました。
それに他番組も追随し、結果多くのニュースやバラエティでVtuberが登場したことは、記憶に新しいと思われます。
1/11、今晩!
— Kizuna AI@6/30 A.I.Party! 2019~hello, how r u?~ 開催 (@aichan_nel) 2019年1月11日
私キズナアイが日本テレビ『news zero』に生出演します!ლ(´ڡ`ლ)✨
時間は【23:55~(JST)】からです!!
みんなの声を拾えるかもなので、#ウドウユミコとキズナアイ で、見ながらツイートしてね!😇
🔽🔽news zero公式ページ🔽🔽https://t.co/WhW2pmYkyh#KizunaAI #newszero https://t.co/NWR7feiUBA
特にバラエティ番組である「マツコ会議」ではVtuberが二回にわたって特集され、「みみたろう」らが強烈なインパクトを与えました。
きょう よる 11 じ から
— みみたろう@バーチャルYoutuber (@mimitaro_vt) 2019年2月9日
みみたろう 「マツコ会議」に しゅつえん するよ!
おちゃのま に みみたろう が あらわれるの
たのしみねぇ pic.twitter.com/lNaI5xRu9T
そこには軽蔑の意図はもちろん、扱われ方も他の回となんら差異はなく、どちらかといえば好意的な報じられ方をされていたのではないかと感じました。
そして日本テレビ系のゴールデンウィーク企画、「ゴールデンまなびウィーク」にもキズナアイが登場。
ご覧いただければ分かると思いますが、このページはキズナアイへの好印象を基に書かれています。
こういった事実をもって、私はVtuberは世間に受容されたと言いたいのです。
しかし、ある人はこう反論するかもしれません。
「それはテレビ局の人間が作為的にそういう流れになるよう仕組んでいるに違いない。きっとお金か何かの裏取引があったんだ」
テレビ番組というのは一般に、報じる内容をテレビ局のスタッフが一方的に決めていると思われがちです。見えない部分ですから、まあ実際そういうことが無いと言い切ることはできません。
しかしながら、一般的に考えて、事態はその逆の側面がより強く影響しています。というのも、番組の内容には、視聴者の価値観・好みが色濃く反映されているのです。
なぜか。
まず、テレビ局にはスポンサーが必須です。スポンサーがつかなければ運営が難しくなりますから、テレビ局はそうならないよう、視聴率を重視します。そしてその視聴率をとるには視聴者ウケする内容を電波に流さなければならないのであって、そうすると内容はむしろ、マジョリティの位置を占める視聴者(こういってよければ「大衆」)の好みによって左右されるのです。
そういうわけで、テレビ番組は視聴者によって規定されているともいえます。
よって、Vtuberが頻繁に取り上げられ、特に同番組内で複数回にわたり何度もVtuberが登場し、さらにはゴールデンウイークにキズナアイが複数の番組に生出演するという事態が起こったのは、視聴者の大部分がVtuber、あるいはキズナアイに興味を持ったからであるといえます。
もちろんVtuberが気に入らない人も当然いらっしゃるでしょうが、ここで重要なのは、視聴者のおそらく半数以上がVtuberを支持している*1という事実*2です。
その母集団が一体どのような年齢層で占められているかというのは気になるところですが、しかしそれがどのような層であってもやはり重要なのは、Vtuberに触れていないであろう人たち(以下一般人)が肯定的にVtuberを見たという事実です。
Vtuberはどの意味で受容されたのか
ではなぜVtuberは好意的・肯定的に受け止められたのでしょう。
ほかの、古い分類でいうところのサブカルチャー、つまりアニメや漫画、ボーカロイドといったものはたびたびテレビ番組で敵意や忌避の目を向けられる(向けられた)のに、Vtuberはなぜこのように特集を向けられるに至ったのでしょうか。
Vtuberは人間の部分(=パーソン)を持っている
一つの視点としては、Vtuberが単なるキャラクターにとどまらないことがあります。
Vtuberリスナーにとっては当然の見方かもしれませんが、Vtuberには画像、設定、中の人という三つの構成要素があり、これらはナンバユウキ氏の三層理論を引くと、それぞれキャラクタ、ペルソナ、パーソンと名付けられます。
一般的にキャラクター、特にアニメキャラクターといえば、少し無機質的な言い方になりますが、設定が備わった画像の動きに声優が所定のセリフを吹き込んだものを指します。それぞれは一体となっていますが、しかしそこでは声優の性格は一切顕在化しませんし、設定は幾ばくかのメタ要素を除けば必ず保持されます。
しかし一方でVtuberの場合、そこに起こっている事態はそう単純ではありません。キャラクターとしての設定は時に無視されますし、演者の表情が画像に反映される点でその画像の見え方は積極的に変わりえます。さらに演者の性格がペルソナと渾然一体となり表に出てくる頻度もかなり高く、表層だけを見ればどれが設定でどれが演者の実体験なのか、その境界は非常に曖昧です。
Vtuberについて、いくつかの概念が用意されるに至ったのはその複雑さゆえでしょうし、私がわざわざこれらの概念を使わせていただこうとしているのもそれゆえです。
そういうわけで、Vtuberは従来のキャラクターとは一線を画した存在であるわけです。ですから、たとえばNEWS ZEROで一般人は突如現れたキズナアイを見て、「なんだマンガの類か?」と思ったりするものの、しかしすぐに、そのしっかりした受け答えや表情の変化、体(モデル)の動きを見て、きっとそうではないと気付くはずです。なぜなら、Vtuberはただのキャラクターではないからです。
これを先ほどの概念を用いて表現すれば、一般人はキャラクタという外見だけを見て、キズナアイを従来のアニメ的キャラクターと――つまり裏方のボタン操作などによって、体は動かずただ表情だけが喜怒哀楽に変化するようなキャラクターと――判断しそう思い込んでいたところに、パーソンの動きが衝撃を与えたということになります。
最近のネットや技術に疎ければこの仕組みは分からないでしょうが、そういった人でも恐らく、パーソンから分有されそのキャラクタの所作に散りばめられた諸要素を認識することによって、Vtuberに人の動作が反映されていることは理解できるはずです。
ですから、ペルソナによって発言される「インテリジェントなスーパーAI」を本気で信じる人は流石に多くないでしょう*3。
その、全てがつくりものでない、言い換えれば、リアルタイムに、能動性をもって、まさに今そこで誰の作為もなく言葉が生み出される様は、一部とはいえまさに人間です。仮に一般人がVtuberそれ自体を否定しようとすれば、その否定はすなわち自分たち人間の否定と同じことになるでしょう。
ですからその点で、Vtuberが全否定されることは無いと言い切っていいはずです。先ほども書いたように、アニメキャラクターは作者と声優が別であるためセリフや所作さえも作為的ですが、対してVtuberはその点意思を持ち、能動的です。
そのため、ある人にたとえ批判や疑問があったとしても、それはパーソンには向かず、「でも中に人が入ってるんでしょ?」のように、やはり虚構を纏った姿やその接続、またはペルソナの虚構性などにのみ向くことになるのです。
これはつまり同時に、一般人には、パーソン/ペルソナの両義性や、フィクショナルキャラクタ(vtuberの人格、パーソンとペルソナを合わせたものをこう呼ぶことにする)とパーソンの接続、作り声としか思えないような声、ふるまいなどの、虚構を隠蔽し前提とするVtuberコンテンツの中身への理解は得られないだろうことを示します。
そういうわけで、一般人の受容は、そういった意味ではありえないことが分かります。
Vtuberは資本主義的に人間を充足させる
ここまで、Vtuberはその報道のされ方から一般人に受け入れられていることを示し、そしてそれはコンテンツとしてではなく、外見として、つまりその特殊な性格に下支えされて受容されたのだということを述べました。
さて、二つ目の視点ですが、それは技術の進歩という視点です。
昨今のAIやロボット技術の台頭はめざましく、その社会に及ぼす影響の大きさから、世間の注目を浴びていることはご存知の通りですが、Vtuberの受容はまさにこの延長にあると私は考えます。
というのも、今人々は機械との付き合い方を真剣に考えることを社会に要請されており、それゆえ、そうした科学技術には敏感になっているのです。
そこで現れたキズナアイ。彼女がAIでないのは前述の通り誰の目にも明らかなのですが、しかしながら、私たちにはどこかそれが間違っていないように感じられます。なぜならそれは、彼女自体が科学技術の所産であるからです。
たとえばキャラクタ=3Dモデルはコンピュータグラフィックによって作られたものですし、フィクショナルキャラクタとキャラクタの接合はトラッキングやリップシンクといった技術で成り立っています。そもそも、それ抜きでvtuberは語れないでしょう。
そして、その技術が能動性をもって私たちの前に現れているその光景は、まさに技術の進歩が具象化され顕在していることを意味し、しかもそれは同時に、AIやロボットが自律的に行動するような未来が近いことを予期させます。そしてそれらは、進歩を求める資本主義的人間の自尊心をも満たすのです。
そういった姿勢は、キズナアイに限らず表れています。
Vtuberを扱った一般向けの番組を思い返してもらえば分かるのですが、そこではコンテンツの概観をある程度は経由しつつも、最終的にはVRといった技術的側面の報道に落ち着きます*4。
たとえば前述のマツコ会議では序盤何名かのVtuberが取り上げられたのち、「みみたろー」の中の人やVRヘッドギア、トラッキング技術などへと話題が移っていきました。番組構成上、そこが核であると認識されていることは間違いないでしょう。
テレビ番組の(大衆の)特性には、とにかく答えを明らかにしたがるというものがあるように思うのですが、彼らはその特性をもって、vtuberを科学的に解剖します。つまり、三つの密接にかかわるvtuberの身体を、無知ゆえに、無邪気に分解しようとするのです。もちろん、それは彼らに、コンテンツとしてのvtuberへの興味が無く、ただ純粋に、科学への崇拝と、進歩の信仰、新技術への憧憬のみがあるからです。
それが悪いとは思っていません。リスナーとしては少し複雑であっても、その視点を否定しようとは思えません。
オタクコンテンツの性質というのは、虚構を足場とするという点にあります。
言うまでもないかもしれませんが、ライトノベルがその好例です。そこでは現実にはありえない魔法や魔物などが、その物語内の世界において前提されます。現実とある程度のつながりを持ちながらもしかし、何かマンガ的、ゲーム的な設定が入り込んでいるのです。つまり、ライトノベルでは虚構が棚上げされ、読者は物語すべてを一挙に受け入れます。
また、それと似た種として最近思うのは、Twitterで流通するMAD動画です。そこでは「わけのわからなさ」がむしろ面白さに繋がっていることが分かるでしょう。特に海外ミームは言語が違うため私たちには少しニュアンスだったりが伝わりづらいことがありますが、それが余計に面白さを際立てているという部分もあります。
⚡️ "作った動画"https://t.co/XcamKX0vet
— 蟹眼含蓄物 (@akitsugi17) 2019年3月28日
こういったことは、オタクが虚構などの、理屈が通らないものを保留して、受け入れられる思考を備えていることから生じるのでしょう。
しかし一方、一般人はそうではありません。彼らにとって、そういったものは受け入れ不可能なのです。
この違いは訓練されているか否か、つまりそういったものに慣れているか否かであると、東浩紀は『動物化するポストモダン』で述べています。
そしてさまざまなオタクコンテンツの系譜を引くVtuberも、やはりそれらサブカルチャー的コンテンツの性質を併せ持っているのです。
そういうわけで、視点が異なることは当然ですし、分からないものを放っておくことはこの意味でも彼らにはできないのだと理解できましょう。
コンテンツとしての受容はあり得るか
では、一般人がコンテンツとしてのVtuberを理解するときは永遠に来ないのでしょうか。
そうとも言い切れない、というのが私の考えです。
しかしおそらく、一般人は自ら進んで理解をすすめようとはしません。パーソンの要素が理解の架け橋になってくれることは期待できますが、しかしパーソン・ペルソナ・キャラクタすべてを総合したものがVtuberであって、それらのトリニティ的結合が一般人を遠ざけるとともに、さらにそこには科学技術による接合や、ここでは詳しく述べませんでしたがパーソンとペルソナの両義性などといった成分も含まれています。
ましてや、Vtuberはオタクの中でさえも好みが分かれるコンテンツです*5し、コンテンツとして市民権を得ていくためには、その視点からも壁があるといわざるを得ません。
しかし、やはりキーワードは「訓練」、つまり慣れでしょう。
エッセイらしく経験談を挟みますが、私は中学生2年になるころまで、いわゆる萌え絵などにはひどく嫌悪感を抱いていました。理由などありません。ただ嫌いだっただけです。
しかし、友だちに勧められてボーカロイド曲を聴き始めたころから、少しずつそれは薄らいでいきました。今ではこの通りです笑
私自身のそうした経験に照らし合わせても、突破口の一つはそういった「慣れ」だといえます。
総括
さて、今回も記事が長くなってしまいましたが、まとめに入ります。
今回私はまず「世間にVtuberが受容された」という前提を提示し、その根拠を示しました。
次にその受容がどういった意味におけるものであるかを二つの視点(パーソンとしてのVtuber、科学技術としてのVtuber)から考えます。それぞれの結論は、Vtuberはコンテンツとして歓迎されたわけではないということでした。
そして最後に、コンテンツとしてのVtuberが世間に受容される得るかについて述べ、最終的にそこでは「慣れ」がキーワードだと締めくくりました。
この記事は何の役に立つのかと問われれば自分でもよく分かりませんが、リクエストをくれた友人には少なくとも役立ってくれるのではないかと思います。
それではこのへんで。
参考文献
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
- 作者: 東浩紀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2001/11/20
- メディア: 新書
- 購入: 42人 クリック: 868回
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『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』東浩紀
ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)
- 作者: 東浩紀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/03/16
- メディア: 新書
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『バーチャルユーチューバーの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ』ナンバユウキ
*1:嫌悪感を抱いてはいない
*2:肯定的な人間より否定的な人間が多ければ、そのような特集は連続して組まれないと思うのです
*3:蛇足ですが、一般人とVtuberリスナーの違いは、ペルソナによる「AIだ」という発言を否定したくなるか暗に受け入れられるかというところにある気もします。つまり、サブカルチャーに理解があるというのは、矛盾をそのままにしておけるということであって、その保留は、本質的に社会と相容れないものです
*4:雑誌ユリイカやテレビ番組ガリベンガーZなどはどうなんだと言われるかもしれませんが、それらは一般向け、大衆向けとは言いがたいでしょう。この記事で重視するのは、そういった大衆がどのようにvtuberを見ているかということです。
*5:ほとんどが食わず嫌いのようにも見えますが