【雑記】VTuberと構造
九鬼周造の『いきの構造』が、私にとってはとても面白く感じられた。野暮と意気などの対立概念を四面体に写しこんで、整理を行っていく様は、見事だった。たぶん、私は構造分析みたいなものが好きなんだと思う。こんがらがって見えるものを、ほどいて、赤と青に色分けする。それぞれの特徴を記述して、なぜ絡まってしまったのか考える。今のところ、これが一番やっていて面白いし、しっくりくる。
私がそういう風に書いた初めての記事が、キズナアイ分裂について考えた記事だった。
キズナアイの分裂は当時最も注目された話題でもあったし、記事にナンバユウキさんや東浩紀さんを初めとした著名な方々が反応してくださったこともあって、この記事は多くの人に読んでもらえた。ここではキズナアイ分裂について肯定的な見方と否定的な見方が真っ二つに割れていたことを受け、それぞれの立場の名付けとなぜ対立が起こっているのかを主に論じた。そして、最後に背伸びをして観光客論を援用し、キズナアイをいかに受け入れていくかという策を提示してみた。
ファンとクリエイターという区別は、近からずも遠からずだったと今では思っている。切り分け自体はおそらく間違っていない。しかし、根拠が違う。遠い。というのは、この記事での区別は、それぞれの立場の結果として生まれる「感情」に主に依拠しているからだ。そうではなく、それより前の、根本的な部分を考えるべきだ。
そしてその根本的な部分とは、思い浮かべるVTuber像である。ファンの思い浮かべるVTuber像は、にじさんじやホロライブといった企業系VTuberのイメージにかなり引っ張られたものだった。すなわち、一つの体に一つの魂という固定観念に縛られたものだった。一方でクリエイターの思い浮かべるVTuber像は、もっと自由なものだ。すなわち、「バーチャルに」できることならなんでもやっていこう、という寛容な意思と情熱だ。
ファンの立場では、同じ体が複数あって、さらにそれぞれ別々の人間が入っている状況は受け入れられない。一方、クリエイターの立場からは、「一つの身体には一つの精神のみが宿る」という見方はバーチャルの可能性を狭めるものと映るだろう。バーチャルを発展させたい彼らにとって、キズナアイのようなトップインフルエンサー(当時、今は知らない)の冒険は歓迎すべきことだったはずだ。
ファンには、クリエイターのマッドサイエンティスト的な発想——クローンを作成するようにキズナアイを分裂させ、それぞれに別人格を移植するという反直感な発想——が信じられないし、クリエイターにはファンの目が曇っているようにしか見えない。分かり合えないはずである。
キズナアイは、雑誌ユリイカのインタビューで、私はVTuberという言葉を使わない、とわざわざ発言していた。私はVTuberではなくて「バーチャルユーチューバー」なのだと。これはつまり、キズナアイはVTuber界の親分ではなく、もっと別の方向を目指している存在なのだという決意表明だった。にも拘わらず、キズナアイはリスナーの中でVTuberという括りに吸収され続けてしまった。VTuberとはっきり決別できれば、キズナアイの分裂はひょっとしたら、上手くいったのかもしれない。
前に書いた、DWUの記事も、先の記事と同じような構成を意識した。
発達障害を扱う点で非常に危ういものだったし、実際何件かお叱りの声が散見された。さらにそれだけでなく、「自分も発達障害なのかもしれない……」というショックを受けたような人まで現れたので、さすがにこれはいかんと、いくつかの補足を行った。いつもは鬱陶しいほどに留保をつけるのだが、今回は分かりやすさを重視して省きまくったので、それがあまり良くなかったのだと思う。扱うテーマの繊細さをもっと考慮すべきだった。
この記事は先の記事に匹敵するか、それを超えるほどの拡散ぶりだった。ゆがみんさんを初めとしたインフルエンサーの方々に拡散いただいたのが大きな要因だと思う。ありがとうございました。
この記事では、セバスチャンの行動原理と、仕事/遊び概念を活用した読み解きを考えた。「遊び」をポジティブに捉えてみたことに価値がある、と自分では思っているのだが、どうだろうか。
この記事は少し説明不足があったと思うから、ここで補足したい。編集で加えればいいと思うかもしれないが、たぶん読みにくくなるし既に8000字を超えているのであまり得策ではないだろう。それに、たぶん分かる人には、この補足を読まなくても言いたいことが既に伝わっていると思う。
補足事項は、①「脱」という表現と、②「遊び」の扱いについてだ。
「脱-社会的」のハイフンはフランス生まれの哲学用語(非-知とか)みたいにちょっとカッコつけただけなので気にしないでほしいのだが、「脱」という表現にはちゃんと意味がある。ここは最初、反-社会的という表現を考えていた。しかし、セバスチャンは、社会に反しているわけではない。社会に反すると言えば、アナーキストとか、テロリストとか、カタギでない人とか、そういう人が連想されるが、セバスチャンはそうではない。言うなれば、なるべく社会を避けながら、どうしても必要なときに社会に降りてくる、ツァラトゥストラのような隠遁者。そういうイメージだ。彼らは「社会の全く外」にいるのではなくて、「社会から脱け出た場所」にいる。社会の補集合ではない。社会の存在をぶち壊そうとは思っていないけど、面倒だからそんなに関わりたくない、社会から脱出して好きに暮らしている人々。だから脱-社会的。
「遊び」の扱いについてだが、こんな反論があった。「セバスチャンは遊びでやっているというけれど、VTuberに関する契約とかは結んでいるわけでしょう。それは社会的な仕事なのでは?」というものだ。
だが、その契約は、遊びの範疇である、と私は考えている。
野球のたとえがあったことを思い出してほしい。彼らは野球の面白い動画を撮りたくて、プロを連れてきた。プロを使うには報酬を支払わなくてはならない。だからそれは契約だ。
しかし、契約を行っているから動画撮影がただちに社会的な仕事だ、とはならない。なぜなら、目的が遊びだからである。あなたが野球をしたいとき、手元にボールが無ければボールを買うだろう。でも、それは仕事だろうか。そんなわけはない。売買そのものは社会的ではあるが、仕事ではない。遊びのための売買も存在する。
これは①の話にも関わってくる。彼らは脱-社会的で、社会の外側にいる。だけれど、社会を拒絶しているわけではない。つまんないと言っているだけで、面白いことのためには進んで3Dモデルも発注するだろうし、アダルトグッズも制作するだろうし、プロ声優も雇ってくるだろう。問題は、"彼らにとって"それが「仕事か遊びか」なのだ。彼らのルールにどれだけ適っているか、それが問題なのだ。だからこそ、人によっては理解に苦しむ事態が発生している(た)。
オチが無くて困った。
そういえば、当のDWUの配信をこの前覗いてみたのだが、ついに3Dモデルが新しくなっていた。前と比べると見た目が少し柔らかくなった印象がある。私はどちらかと言えばこっちの方が好きだ。
肝心の配信内容はゲーム実況やASMRなどで、にじさんじと変わらない。それだけだと、確実に埋もれてしまうだろう。ただ、マンガ動画を公開するなど独自路線を開拓しようとする熱意はかなり感じるので、こちらには応援したい気持ちが湧いてくる。
そういえば先日のピアノは少し驚いた。セバスチャン体制下でアンダーグラウンドなガサツお嬢様みたいなイメージが付いてしまっていただけに、品行方正な上流階級お嬢様みたいな特技が見られるとは思っていなかった。にじさんじやホロライブでは見られない特技なので、ピアノを前面に押し出していくのも良いんじゃないかとも思う。「今日はこの曲を練習してきたからオタクくんたちに披露するね」というだけでも、みんな盛り上がるのではないか。
ともかく、DWUは「応援するに値するVTuberだ」と、そう思わせてくれる点で、もう既に抜きんでた存在だ。自信を持って頑張ってほしいなあと、1人のリスナーとしてそう思う。
以上。
人狼ジャッジメントでジェシカばっかり使ってた話
一時期、「人狼ジャッジメント」にハマっていたことがあります。友だちの影響で始めたのですが、結構面白くて、特に通学中はずっとやっていました。一試合30分くらいなので、長い通学時間の暇つぶしにはちょうど良かったんです。
人狼ジャッジメントはスマホアプリです。LINE感覚で人狼ができます。
このゲームでモノを言うのはテキストを打つ速さです。打つのが遅い人は同時に発言数も少なくなりますから、疑われやすいのです。「寡黙は情報を落とさない」は耳にタコができるくらい聞いたセリフでした。幸い、私は打つのが速いほうでしたから、人狼ジャッジメントは向いていました。
ゲームの進行としてはある種テンプレ的な流れがあります。占い師COや霊能COで、処刑対象を決定する権限を持つ"進行役"を作る、とか。私が始めたころには既にそのテンプレ的な流れが決まっていたので、まずはそれを覚えるのが大変でした。しかし覚えてしまえば流れ作業なので、普通に人狼を遊ぶのに比べると大変に楽です。
この人狼ジャッジメントの大きな特徴の一つは、ユーザー名が見えないことです。他のスマホアプリに「人狼殺」というものがありますが、人狼殺ではユーザー名が最初から見えます(動画の24秒くらい参照)。
一方、人狼ジャッジメントでは、相手の名前はゲーム終了時まで分かりません。では互いにどう呼び合うかというと、あらかじめ与えられたキャラクターの名前を使うんですね。
werewolf-judgement.playing.wiki
中の人がどんな名前でも、「ゲイル」「サンドラ」「メアリー」みたいにそのキャラの名前で呼び合います。なので、慣れていないうちは顔と名前が一致せず反応が遅れてしまう、なんてこともよくありました。
私は男ですが、どんなゲームでも使うのは女の子です。グラブルでも女の子、シャドバでもなるべく女アバター、マビノギでも女の子、あつ森でもキャラは女の子の姿だし*1、Twitterでも少女アイコンです。男の子を使ってたのは小学生の頃のポケモンダイパくらいな気がします。
なので、私は人狼ジャッジメントでも女の子を使いました。最初はメアリーを使っていました。が、なんかしっくりこないのでやめました。
その次に選んだのがジェシカです。
かなりの人気キャラなんですが、私も彼女のかわいさに釣られてしまいました。これが結構しっくり来て、それからしばらくは、ジェシカを使っていました。
何がいいかって——気持ち悪いのは承知で言うんですが——みんながちやほやしてくれるんです。「は?」「気持ちわるっ」「てかそんなことある?」って思うじゃないですか。でもね、メアリーのときには全然見逃してくれなかった言い間違い(タイプミス)とか、反応の遅れとかも、ジェシカだと「仕方ないねー」みたいな感じでみんな許してくれるんですよ。メアリーもジェシカも中身は全く同じ、おっさん予備軍の大学生です。なのに、あからさまに扱いが違う。これは明らかに容姿が効いてます。違いは容姿(と名前)しかないのですから。
キズナアイは知っていますか? バーチャルユーチューバーのキズナアイです。ご存じない方も多いと思うのですが、彼女は過去、四人になっていたことがあります*2。そう、分裂したのです。およそ昨年のことですが、その分裂に関して大論争が発生しました。陣営を大きく分けると、分裂を認めない派、認める派の二つです。私はそれに関して、過去に記事を書いたことがあります。
タイトルにもありますが、ここで私はファンとクリエイターという二項対立を勝手に作りました。ファンは、キズナアイの分裂に否定的です。なぜなら、キズナアイは唯一無二の存在だと感じるからです。同じ体が複数存在し、それぞれに違う人間が割り当てられているのは自身の直観に反するのです。一方、クリエイターはキズナアイの分裂に寛容です。なぜなら、大まかに言えば、分裂という冒険は「バーチャル」の発展に寄与すると思えるからです。
私はといえば、あまりその「バーチャル」に馴染みが無かったので、クリエイターの発想には至りませんでした。むしろ、ファンのその反発の感情を大事にしたいと思ったのです。
しかし、バーチャルとはなんなのでしょう。私は本当にバーチャルに馴染みが無いのでしょうか……。
そう思った時、人狼ジャッジメントの経験に思い至りました。私がずっとジェシカを使っていたあの体験は、まさしくバーチャルなのでは……!?
というのは、長い間ジェシカを使っているうちに、私はジェシカと同一化してしまったようなのです。人狼ジャッジメントではキャラの名前で呼び合うと言いましたが、そのため同一のキャラが同じゲーム(部屋と呼びます)に存在することはできません。「ジェシカA」「ジェシカB」とかはあり得ないんですね。同じキャラがいたら、呼び合うとき混乱しますから。なので、私がジェシカを使っているときは、私だけがジェシカです。他にジェシカはいません。この環境こそが、同一化を促進します。
私が同一化を強く意識したのは、どうしても参加したい面白そうなルールの部屋を見つけた時です。入ろうとしたら、ジェシカが既に使われていました。いつもなら引き返すのですが、ルールの魅力と天秤にかけ、別のキャラを選択することにします。「サンドラ」はジェシカの姉妹とか双子とか言われているキャラですが、仕方なくそのサンドラを選択しました。
ゲームを開始すると、まず自分がサンドラであることにぎょっとします。いつもジェシカであるはずの場所にサンドラがいるので、びっくりしちゃうんですね。
でもさらにぎょっとしたのは、ジェシカが自分の意思とは無関係に喋っていることです! 他のジェシカを見るのはなんだか違和感を覚えます。いえ、もちろん私でない人が使っているジェシカも色があっていいんですが、しかし自分がもう一人いるように感じてしまうのです。これはYouTubeでゲーム実況を見ていてもそうでした。他人のジェシカに違和感があってしょうがないのです。他のゲームではこんな風に感じたことはありません。私はニーアオートマタがめちゃくちゃ好きなのですが、だからといって実況者がニーアオートマタで2Bを操作していても、違和感を覚えたりしません。2Bは元からこちらの意思とは無関係に喋るからです。ではTwitterアイコンならどうでしょう。私は今マビノギの「フレッタ」というキャラの立ち絵を勝手に使っているんですが、もし同じアイコンの方を見かけたとしても、別になんにも思わないでしょう。私はTwitterアイコンのキャラと自分を同一視していないし、フォロワーも私とアイコンを同一視していないからです。
なので、この違和感は人狼ジャッジメントに特有な気がします。私はジェシカの皮を被って喋ります。ですが、思うにそれより重要なのは、他人から自分がどう扱われるかでしょう。私がジェシカであるとき、他人は私を「ジェシカ」と呼ぶのです。他者は鏡だとよく言われますが、「私=ジェシカ」の図式は他人を介して跳ね返ってきて、その暗示をさらに強めていきます。そしてジェシカは一つの空間に一人だけなので、それも跳ね返りの効果を促進させるのです。
だから、私が渋々サンドラを選択したゲームで、「サンドラ」と呼ばれることにも違和感がありました。「私=ジェシカ」が強まっていたので、サンドラに切り替えるにも苦労があります。それに何より、私はサンドラであるにも関わらず、「ジェシカ」という呼びかけに反応してしまうのです。
しかも、興味深いのは、他人のジェシカになんだか腹が立ってくることです。自分でもあり得ないと思うのですが、他人がジェシカで喋っていると、なんというか、「ジェシカはそんなこと言うか?」といった感情が頭をもたげるのです。これは厄介オタクそのもの! 書きながら確信しましたが、これがいわゆる「解釈違い」なんじゃないでしょうか。私はオタクになりきれてないオタクなので概念がよく分かっていないのですが、たぶんそうだと思います。だとしたら、解釈違いの基盤は、「同一化」にあるのでしょうか? つまり自他境界の薄れ? あのジェシカは私のジェシカではないのに、ジェシカという容姿が私に結びついてしまっている。ジェシカが突拍子もないことを言うと、自分のプライドが傷つけられたような気がしてくる。なんて馬鹿なんでしょう、しかし感情の問題なのでこれ自体はどうしようもありません。それを表に出さないように——せめて他のジェシカを傷つけないように——するだけです。
ここまで話した「バーチャルな」現象は、たとえばトーマスなどの男キャラでは起こらなかったことでしょう。そしてまたそれは、メアリーでも起こらなかった。私にとっては、ジェシカに親和性があったのです。
これは新聞記者さんがVRに触れた経験を記したレポートです。筆者は初音ミクの姿になった感想を、端的にこう表現します。
おじさん、心の中に女の子がいたんだよ。それもとびっきりの美少女が……
女の子に"なった"のではないのです。女の子は、"既に"筆者の心の中にいました。
これを読んだときは感心するだけでした。しかし、今人狼ジャッジメントの記憶を振り返ると、似たような経験をしていたことに思い当たります。すなわち、ジェシカへの同一化は、ただ単に、私が長い間使っていたから起こったのでは無く、起こるべくして起こったのではないでしょうか。引用部分を借りて言い換えれば、私の心にはジェシカがいたのです。
ごく普通に、RPも意識しないで、ただ文字を打ち込んでいるだけなのに、本当に女の子だと思って接してもらうというのは、なんというか、満たされるような感じがします。先述したクリエイター側の人たちは、概観したところ、VRchatの住人であることが多かったです。VRchatというのは、3Dアバターを身にまとい、VR世界の散歩や他のユーザーとの交流を楽しむアプリのことですが、そのプレイヤーたちが感じているのは、まさに私が感じたような感覚なのでしょう。
振り返ると、バーチャルな体験って意外とすぐ傍にあるのかな、と思ったりしました。
なんか、人狼ジャッジメント久しぶりにやりたくなってきたな。でも、やり方忘れてるからな。コテンパンにされそう。まずは初心者部屋からだな……。
*1:性別は男ですけれども
*2:今は事情が異なります。詳しくはキズナアイとは (キズナアイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科などを参照ください。
京都の古本屋を巡った
5月の半ば、ネット記事で三月書房さんが閉店する(定休日が週7日になる)と知りました。
三月書房は京都にある本屋さんです。古本屋ではなく新刊を扱う本屋なんですが、とにかく品揃えが珍しく、普通の本屋(紀伊国屋とかジュンク堂とか)では見かけない本を揃えていると前から聞いていたので、いつか行こうと前から思っていたのでした。しかし、閉店してしまうとは……。京都までは遠いので少し迷ったのですが、後悔すまいと5月末に遠出することにしました。コロナは怖いですけど、本屋なら人も少ないだろうし、マスクをしたうえで不用意に手で顔を触らなければ感染はしないでしょう。
三月書房周辺にはいくつか古本屋があります。そこをついでに回ることしました。しかしそれだけでは少なく感じたので、出町柳駅周辺、つまり京大周辺の古本屋も見て回ることにします。
前日に定休日を下調べをしました。もちろん、コロナで臨時休業していないか、営業時間を短縮していないか調べます。そして、全部で10件の本屋を17時までに全て回り切る計画を立てたのでした……。
当日。13時ごろ、京都市役所前に到着しました。昼食はまだです。出発する2時間ほど前にはあまりお腹が空いていなかったので摂ってこなかったのですが、流石に少し空腹を感じます。近くのコンビニでお茶とウィダーを買って歩きながらエネルギーを摂ります。見知らぬ土地でもセブ○イレブンを見かけると少し安心します。
北上するルートを予定していたので、最初はアローントコとか言うところに行ったのですがなんか開いてなかったので退散しました。細いビルの二階で、店の隣が美容室でした。そのドアがオシャレにガラス張りだったので、イケイケなお兄ちゃんたちがこっちを見てたのがめちゃくちゃ怖かったです。だから「退散」。
大きな道沿いを北上します。京都は通りが基本直角に交差しているし、一つ一つに〇〇通りと名前が付いてるので地図がすごく見やすいです。とか言って油断してたら、店先の綺麗な道具やら布やらに気を取られて目的の本屋を通り過ぎていました。けっこう離れていたのですが、渋々引き返します。
尚学堂です。店先で本をめくっている人がいたので今度はすぐ分かりました。入り口は2つ、通路はコの字型で、狭いスペースに天井までぎっしりと本が積まれています。マスクをしていても分かる埃っぽい匂い。古本屋に来た感じがします。持ってきた大きなカバンが本を落とさないよう、前に抱えながら背表紙を見ていきます。
私の目的は哲学書を安く手に入れることです。あと、法学系と政治学系の本も気になるのがあれば買いたいですね。
結果、2冊が目に留まりました。『生の全体性』と『法学の基軸』です。前者はインドの哲学者が書いたものだそうで、後者は法哲学の本です。どっちも聞いたことは無かったのですが、面白そうなので買いました。合わせて1500円です。
次が三月書房でした。
凄かったです。もう、終始目を輝かせながら、本棚の前を5往復はしました。
入口は写真の通り1つ、通路は縦長のロの字で、入口から見て左が芸術関係、真ん中が演劇とかだったかな。そして、一番右の棚が思想系です。おそらく閉店のためですが、岩波文庫など返本出来ない本は全て50%引きになっていました。
先述した通り、三月書房はその品揃えが有名です。私も、思想系の本棚を見たとき、「この本屋は他と違う」と一目で分かりました。陳列が哲学史に沿っているところもそうですが、一番驚いたのはフーコーの『狂気の歴史』が置いてあることでした。『監獄の誕生』 『言葉と物』と同じ新潮社の函入り書籍なのですが、本屋では滅多に見かけません。私はけっこうな数の本屋を見てきたと自負しているのですが、出会ったことがあるのは大学の本屋での『監獄の誕生』一冊のみです。
そのときは「このあと古本で見かけるかもしれない」と買うのを見送ったのですが、今思えば買った方が良かったかもしれません……。というのも、先の3冊は新装版が販売されているのですが、それらは手触りがあまり良くないらしいのです。手持ちの『監獄の誕生』はカバーが布の生地になっているのですが、新装版はそうでないらしいです。和訳の中身は変わっていないそうなので、それならなおさら旧版がほしいです……。
30分ほどしか時間を割けませんでしたが、ここでも2冊購入しました。岩波の『論理哲学論考』 と『内乱の政治哲学——忘却と制圧』です。合わせてたしか3000円くらいでした。5%還元目当てでカードを使ったのですが、店番の方が作業に慣れていないみたいで、ちょっと悪いことをした気になりました。なんかごめんなさい。
東へ進み、鴨川を渡って、次は中井書房です。外見によらずけっこう広いです。普通のコンビニより大きいくらいかな。清潔感があって、カフェをやっても問題ないくらいに感じました。本は相変わらず天井まで積まれています。
古本屋の中では比較的洋書が多いように感じました。『存在と時間』の原書もありました。
新書が一律300円*1とのことだったので、アーレントとハイデガー入門、そして『正義とは何か』 を買いました。人の好さそうな店主さんでした。
交差点に座れる場所があったので一休みしました。既に数キロは歩いています。引きこもり生活に加え、ゼリーしか摂っていないのでヘロヘロです。筋肉痛確定だな、とうなだれます。しかし時間はありません。既に15時半で、ルート最後のお店が17時閉店のためです。
ここから出町柳へ向かいます。つまり鴨川沿いに北上します。
とはいっても足がキツいので、歩けない距離ではないですが地下鉄に頼ります。小さい駅だったので少し待ちましたが、一駅で出町柳です。
出町柳は以前、古本まつりで訪れたことがありました。そのとき古本屋を見かけたので、再訪しようと前から思っていたのでした。
字数が多くなってきたので本屋の詳細は省きますが、ここで買った本は『生誕の災厄』『現代思想 特集=法としてのフィクション』の2冊です。特に『生誕の災厄』は新品同様でしかも1000円程お得だったので嬉しかったですね。
買った本。
そういうわけで、なんとか17時前に計画通り回りきりました。見知らぬ土地に来たらいつもラーメンを食べて帰るのですが、調べたところ近所のラーメン屋は17:30開店。あと30分ほど時間があります。
外で座っているのも体が冷えるし、かといってカフェに入るのは勿体ない、イートインスペースがありそうなコンビニは遠い……そう考え、散歩をすることにしました。
昔、学校行事でこのあたりを歩いたことがありました。大阪の学校なのに。先生たちは京大を見せたかったらしいですが。京大を見たら頭が良くなるんですかね。
と色々なことを思い出していると、体がけっこう限界っぽいことに気づきます。空腹はそこまで感じなかったのですが、とにかく体が重いです。前をゆっくり歩くご老人と距離が縮まりません……。
なんとか歩ききり、ラーメン屋に到着。開店時間ちょうどでした。
おすすめの塩らーめんと、焼きめしを頼みました。おいしかったです(表現力不足
店を出ると、体が比較的動くようになっていました。食事の大切さを思い知ります。
用は済んだのでバスで帰ります。京都市内はどこまで行っても230円です。車内は空いていました。席に座り、なんだか感覚の鈍い足で、カバンの重みを感じます。ほぼ4時間歩きっぱなしだったので、次はもうちょっと、歩く距離を減らそうと、そう思いました……。
*1:出版社によれば200円のもあった
脱-社会的VTuber、DWU
遊びみたいなことをちゃんと仕事にするからVTuber事業成り立ってんだろうが! ——DWU
今回はDWUの一件についてです。DWUとそのセバスチャン(「運営」のこと)の一連のやりとりをよくご存知でない方で、精神に余裕のある健常者は一度該当の動画をご覧になってください。
そこには、「仕事」をしたいDWUと「遊び」をしたいセバスチャンの対立の様子が収められています。多くの人にとってはDWUのほうが至極真っ当に思えるでしょうし、実際DWUのほうが真っ当なのですが、どうやらセバスチャンの側にも彼らなりの一貫した論理があるらしい、というのは後で書きます。
ともかく、あの一連のやりとりを見て、私は正直恐怖を感じました。セバスチャンの得体の知れなさゆえの恐怖です。彼らが一体何を考えているのか、全く分からない。みなさんがご覧になった通り、DWUの告発(?)は「企業案件の宣伝動画」から始まるのですが、セバスチャンたちはその企業案件のことを「なにも知らない」といい、DWUは複数のセバスチャンの間でたらい回しに遭ったそうです。それでも宣伝動画を撮り始められたのは、セバスチャンのうちの一人に「まともな人」がいたからで、DWUは彼との間でなんとか業務連絡ができていたと。
この時点でセバスチャンに「社会常識」が無いと断じざるを得ないのですが、それだけでなく、配信中セバスチャンへの怒りをぶちまけるDWUに対しセバスチャンは、「こっちは遊びでやってんだよ」という旨の、開き直ったような宣言を始めます。
「遊び」? VTuber運営は「仕事」じゃなかったの? そういう風にDWUは言っていますし、実際私もそう思いました。VTuberをやるにはお金が発生しますし、実際企業案件なんかもいくつか受けてるわけですから、責任もそれ相応に伴ってくるはずです。それを「遊び」と言い切れる、その思考プロセスが分からず、私の頭はショートしてしまいました……。
日を改めた別の配信もひどいもので、DWUとセバスチャンとの対談動画では、セバスチャンはにじさんじを例に出しながら、
(DWUは)すぐにでも独立したほうがいいと思います(……)にじさんじ紹介しましょうか?(……)(そこなら)毎日楽しくつまんない生放送を聴いて喜んで投げ銭してつまんない遊び以下のことを社会人として真面目に仕事としてやっていけると思います
と、「わけの分からない」ことを言ったりしています。書き起こしてみると余計に支離滅裂さが増すうえ、「つまんない遊び以下の真面目な仕事」とは、なんとも不思議な言い回しだなという印象です。
しかし(ここで「しかし」なわけです)、その後Twitterで色々検索していると、セバスチャンに共感する声が一定数あることに気付きました。彼らの分析を通すと、セバスチャンの行動がなんとなく理解できてきます。
まず、大前提として、Twitter民曰く、セバスチャンは「発達障害者界隈」の人間ではないか、ということがあります。彼らには独特の論理が存在しており、まずそれをなんとかトレースできないことには、彼らを「怖い」としか思えないわけです。
Twitterで見かけたものを要約する形になりますが、まず納得したのは、セバスチャンの言う「遊び」というフレーズは、「テキトーに遊び散らかす」という意味ではなく、「真剣に遊ぶ」という意味であるということ、です。
健常者*1は「仕事」と「遊び」を対比されると後者を「テキトー」なものだと思ってしまいますし、だからこそ健常者なDWUはセバスチャンの「遊びでやってんだよ」にブチ切れたわけですが、しかしセバスチャンの意図はむしろ、「仕事みたいなことはつまんないからやりたくない、遊びっていう面白いことを真剣にやりたい」であったので、DWUに「遊びみたいなことを仕事にしろ」と言われても「やだよ」で終わりになってしまいます。「遊び」は「遊び」で「仕事」ではないからです。
そして、どうやらセバスチャンには「真面目なもの」に対しての、敵意とまではいかずとも何か、健常者視点では捻くれているように思えるような忌避意識があるようです。先ほど引用したセバスチャンの発言にも、「つまんない遊び以下のこと=社会の真面目な仕事がもたらすもの」という不思議な図式がありましたが、彼らにとって「仕事」は「遊び」よりもはるかに「つまんない」ことで、価値がはるかに低いのでしょう。
Twitterで観測した分かりやすい例があります。「野球が上手いやつを連れてきて面白い動画を撮って楽しんでいたら、急に「このメンバーで甲子園行こうな」と言われた」というものです。
草野球にしては上手いぐらいの人達が スポーツできるやつ連れてきて魔球再現動画撮ったりしてたら「じゃあこのメンバーで甲子園行こう!な!」って打ち上げで肩叩かれて「は?」ってなってる図だもん
— ねおらー31♎ (@neora31) 2020年6月2日
こう言われてみるとなんとなく分かります。セバスチャンは本当に真剣に「遊び」をしていたのに、DWUは「仕事」をしようと言い出した。だから「つまんない」となったわけです。DMMとの企業案件みたいなものは遊びでなくて「仕事」だから、セバスチャンはノリ気でなかったんですね(社会的責任が発生するため)。DWUをたらい回しにしたのは、どのセバスチャンも「つまんない」と思っていたから、案件を意図的に無視することで、「自然に消滅しないかな~」ってやってたんじゃないか、という話もありました。
セバスチャン擁護するわけではないけど、”そこそこ楽しかった”のでやりたいことはめちゃくちゃやる気出すけど、やりたくない案件は断るのも億劫なので自然消滅しねぇかな〜っつって放置するみたいなムーブにはわかりがある
— 極光 a.k.a ミラージュ (@Aurora_Striker) 2020年6月1日
また、彼らには独特の信念がある、という話もあります。
なんていうかな、もちろん一般通念上で企業倫理とかが遊びの上に来ることはわかってるんですけど、真実者か不真実者かを決めるのは一般通念上の倫理じゃなくて、本人のなかでどれだけ綺麗なまんまる目玉焼きが焼けているかなんですよね。
— あああああ太郎 (@9_dokumamo) 2020年6月1日
だから、間違っているが、わかる
彼らにとって倫理や社会規範は問題でなく(おそらく彼らはそれも「つまらない」と一蹴しそう)、自身の中にある「正統性」こそが重要なわけです。DWUはセバスチャンがディープウェブっぽいVTuberを作りたくて成形した人形で、セバスチャンはセバスチャン自身が思う「面白い」という正統性に従いながら、DWUの企画を動かしてきたのでしょう。しかし、DWUが意志を持ち始めて、その正統性にヒビが入り始めた。セバスチャンにとってはどれだけ自分の思う「真実」に沿って物事を成せるかが大事だから、「壊れてきた」DWUはもう不要になったのです。そして、Twitterの方々の言う通りならば、せめて最後は「面白く」完全に壊してしまおうということで、「どれだけの花火を打ち上げられるか」が問題となり、今回のような配信(ラストの暗転→拍手とか)に至った、というのが、しっくり来る説明になるでしょう。
ここまでがツイートの要約です。私にはあまりに深すぎて世界を汲み取りきれませんでしたが、私が参考にした他のツイートは探せば簡単に見つかると思うし、一定数の人にとっては全くの別世界だと思うので興味深く読めます。
そしてここからは話を敷衍した、私のテキトーな分析なのですが、セバスチャンたちは「にじさんじ」のようなVTuberを「つまらない」としていました。「仕事」で「真面目」で「遊び以下」であると。彼らには「真面目なもの」への忌避感があるのではないかという話はしましたが、その感想を強めたのは、今までのにゃるら氏のツイートです。にゃるら氏がそういう界隈と関わりがあることは彼のnote(たとえばにゃるら絵日記4話「はじめて精神科に行ってみた!」|にゃるら|note)を見ていても分かります。彼はツイッター2を目指していたり、ガレージに人を住まわせたりしている「変わり者」ですが、一貫しているのは「真面目なもの」つまり社会への忌避感です。
ツイッター2(だれも社会や政治の話をせず、毎日みんなでアニメを観たりゲームをしたりして1日がおわるマジで楽しいSNS)に少しでも早く到達するために、優しいツイートを見かけたら「ありがとう」とリプライしてあげましょう
— にゃるら (@nyalra) 2020年6月1日
彼ら(の一部)は社会の外側に住んでいます。VTuberファンの中には伝書鳩やセクハラマシュマロを送る人間を「社会不適合者」呼ばわりする人がいますが、「伝書鳩」や「セクハラマロを送る人間」はおそらく社会には溶け込めている側の人間です。一方、発達の人たちは社会に溶け込めずにいるわけで、真の意味で「社会不適合者」と言えるのだと思います。強い表現だったらごめんなさい。
その外側の人たちは、一般化していいのか分からないけれど、社会的なもの——「仕事」、真面目さ——を嫌い、「遊び」を是とします。では裏を返せば、彼らが嫌う「にじさんじ」などのVTuberは「つまらない」わけで、それがなぜかといえば「社会的」だからということになるでしょう。「にじさんじ」や「ホロライブ」といったアイドル的(どぎつく言えばキャバクラ的)VTuberへは様々な批判がありますが、「社会的」だからダメだというのは初めての視点ではないでしょうか。
ただし、これはVTuber全体に向けられた非難であるとは私は思いません。VTuber評論によく向けられる「「VTuber」は主語が大きすぎる」というのは使い古された批判のひとつですが、それは使い方によればその通りで、VTuberには様々な形態があることを忘れてはいけません。キズナアイの分裂が「VTuber」という括りによって起きてしまったという指摘はその通りだと思います。
キズナアイって、本人はどんどんリアルで活動する存在でありたかったのに、Vtuberのブームからネット文化のひとつに組み込まれちゃたために、本来やりたかったことが思うようにどれもやれないまま、存在(企画)として分裂してったんだろうな、というのが私の感想。
— 織部ゆたか (@iiduna_yutaka) 2020年5月6日
そのうえで言うと、DWU(の中の人)が目指したような、「アイドル的VTuber」の類は社会的です。なぜなら、彼らは仕事でVTuberをやっているからです。彼らには、その働きに応じて賃金が発生しています。「BOOTH売上のライバー取り分が何とかパーセント」みたいな話がにじさんじで出ていましたが、彼らは魅力的な配信を仕事として行い、ファンを獲得することで生活費を得ているわけです。
さらに、アイドル的VTuberとリスナーの関係は、非常に無機質な言い方をすると、生産者と消費者の関係にあります。アイドル的VTuberがコンテンツを提供し、リスナーはそれに対価を支払う。この対価とは、何もお金だけではありません。この情報の海=インターネットに覆われた世界では、時間が非常に重要な通貨となります。暇をつぶそうと思えば、ネットに接続して、ゲーム、読書(電子書籍)、音楽、Twitter、YouTubeなどを使っていくらでも暇をつぶせますし、たとえばYouTubeの中でも魅力的な動画は五万とあるわけです。生産者はその中で「いかに自分のコンテンツに時間を使ってもらうか」を考えなければならず、お金はその次の段階の話になってきます。コンテンツにまず時間を割いてくれなければ、お金は入ってきませんからね。その意味で各人の時間は非常に重要であって、それは時にお金より高い価値を持ちます。
そして言うまでもなく、ここにあるのは明確な資本主義的サイクルです。そして資本主義とは日本の社会システムの根幹であり、アイドル的VTuberはゆえに社会的なのです。
その資本主義的関係は、VTuber活動から「遊び」を排除する方向へ向かうでしょうし、現にそうなっていると思います。「遊び」とは余裕です。「不要不急」ということが言われましたが、それを合言葉に規制されたのは「遊び」でした。社会的に言って「遊び」とは、生活のうえでは不要な余剰であるわけです。
みなさんはVTuberを見るうえで「資本主義的関係」を想像したことはないかもしれませんが、消費者的態度は思いのほか私たちに刷り込まれています。VTuberがトラブルを起こした時が顕著です。Unlimitedや、アズリム、キズナアイ、アップランドなど、視聴者からは様々な怒りの声があがりました。今回のDWUの一件もまさにそうで、健常者のほとんどは「遊び」で動く運営に憤っています。これらの態度はやはり、消費者的であると言えるでしょう。さっき「支払う対価とはお金だけでなく時間もそうだ」と書きましたが、そうした対価が無下にされると感じれば、声を上げたくなるのです。もし、先に挙げた問題が内輪的で責任を伴わないような「遊び」の範疇であれば許されたでしょうが、資本主義的関係に既に回収され、消費者と対峙した彼らが糾弾から逃れる術はありません。「大学のサークルのノリ」みたいな運営は、「仕事」の前では許されないのです。
VTuberが暴言を吐いたときなどに湧いてくるらしい「お叱りの声」というのも、この延長線上にあるのでしょう。大抵は些細な事案への声なので沸点が低いと言わざるを得ませんが、根本はおそらく同じです。自分が投資してきた相手が突然方針を変えたように思ったので、「消費者の権利として」軌道修正を促しているわけです。当然認められはしないでしょうし、普通は認められるべきではないと思いますが。分かりにくければ、企業や役所が軽いおふざけをすると、一定数の「お叱りの声」が湧いてくる例を想像すればいいと思います。
また、今消費者の話をしましたが、生産者の側でも「遊び」は許されません。DWUの言うように、「仕事」に対して「遊び」をぶつけられると、つまり「真剣に真面目でないこと」をぶつけられると、端的に仕事にならないからです。
このように、仕事で成り立つ資本主義的関係において、遊びの入り込む隙は無いのです。
そして、ここから話はVTuber黎明期に移ります。あの時代は面白かった、というと懐古厨の老人みたいですが、今とあの時代では気色が違うことはたしかでしょう。
その違いとは、お分かりの通りですが、「仕事」と「遊び」です。初期のころ、「仕事」としてVTuberを考えていたのは企業勢で、「遊び」を重視していたのは個人勢でした。そして、個人勢の勢いもすごく強かったというのは、ねこます氏や天魔機忍なんかを振り返ってもらえれば分かるかと思います。
「遊び」でVTuberをやるとはつまり、社会的=資本主義的(商業主義的)でない論理でVTuberをやるということです。大規模なお金儲けとかそんなことは考えず、別の目的——ノリとか、「面白さ」の追求とか——で活動するということ。そのとき、「仕事」は介在しません。
しかし、現在VTuber界全体はご覧の通りのありさまで、黎明期のような個人勢は目立たなくなりました。勢いを保っているのは、ほとんどがアイドル的VTuberです。彼らの間では資本主義的競争原理が働き、各々は数字で比較され続け、その脱落者は引退という死を迎えます。なんと社会的なことでしょうか。
また、視聴者が「登録者数」や「再生数」などの数字を好んで引き合いに出したり、数字データを扱った動画を好んで再生するのも、その競争原理を日々の生活の中で内面化した結果と言えるかもしれません。
そういえば、ねこます氏は人気が高まる中で企業案件を全て断りVTuber界を去りましたが、それは「遊び」が「仕事」になってしまいそうだったからなのでは、とふと思いました。そもそもねこます氏は、にゃるら氏という広告塔で有名になったわけです。だったらそこらへんを共有していたとしてもおかしくは……って、まあ、想像ですけどね。
総括しましょう。この記事では、次の二点を書きました。①DWUの一件でセバスチャンは何をどう考えていたのか、②「遊び」と「仕事」でVTuberを見るとどうなるのか、の二点です。
①については、セバスチャンは「仕事」の視点からは言うまでもなく失格でしたが、「遊び」の視点から見ると、社会の外側の人間としてはむしろ当然のムーブをしていました。セバスチャンを擁護するわけでは全くありませんが、「彼らが一応一貫した論理には従っていた」という点は面白く感じたので、Twitterで見かけた内容を整理して共有しました。
②については、セバスチャンたちが「社会の外側の人間」であるという私が勝手につくったフレーズから連想して、社会の内側(=資本主義的で社会的で「仕事」が蔓延する世界)と社会の外側(=利益は考えず非社会的で「遊び」ができる世界)の対立を考えました。そしてそこから、前者に属するアイドル的VTuberと、後者に属する「セバスチャンのDWU」や「非営利目的の個人勢」とを対比させ、VTuber構造の簡単な分析をやってみました。
最後に今までの話を正しいと仮定して、今一度DWUの一件を振り返ります。
セバスチャンとDWUのすれ違いは、明らかに「DWUとは何か」という点において発生していました。
資本主義・商業主義の刻印を受けたアイドル的VTuberたちは、あまりに社会的だと言いましたが、セバスチャンが「にじさんじ」を「つまんない」と言ったのは、セバスチャン自身が社会に属していない脱-社会的な存在で、社会的なものを忌避しているからです。そしてそのカウンター概念である「遊び」に基づいて作り上げられたのが「DWU」でした。
一方、DWUの思うDWUは、アイドル的VTuberでした。アイドル的VTuberの運営は社会的に遂行されなければなりませんから、当然「遊び」は排除されます。であれば、セバスチャンに「遊び」を辞めるよう詰め寄るのは当然でしょう。
しかし、DWUは、セバスチャンが「遊び」そのものを基礎として運営を行っていたことに気が付きませんでした。彼女の「元カレが実は残念なオタクだった」というエピソードは、悲しくもこれとよく似ています。
図式的にまとめれば、セバスチャンの思うDWUは脱-社会的VTuberであり、DWUの思うDWUは社会的VTuberであったと言えるでしょう。
これからDWUは独立して活動していくそうですが、彼女が「仕事」としてやるVTuberが「面白い」ものになるのか「つまらない」ものになるのか、そうセバスチャンは注視していることでしょうね。
以上です、お読みいただきありがとうございました。
【追記】
発達障害を扱うにあたり、私は事前にいくらか情報収集をしました。発達障害は生まれつきであること、脳の発達が原因であること、ADHDや学習障害などいくつかのタイプに分類されること、定型発達/非定型発達の分類があること、などなど、普段は触れない分野であるだけに、正直全く知らないことだらけで驚きました。発達障害は少数派であるだけで病気ではないという考え方は、当然ですが大切だなと感じたところでありますし、そうすると今回の記事でいえば「健常者」という語を使うかどうか悩むことになったのですが、非障害者というのもそれはそれで断絶を生んでいるような気がして、今回は便宜上「健常者」を使うことにしました。
私に、発達障害を責めるとか、そういった感情は一切ありません。記事中で触れた「Twitter民」には、おそらく発達障害の傾向のある方がいくらか含まれていて、彼らはセバスチャンに対して「これは俺たちだ」と共感してツイートされていたのだと思うんですね。そして彼らの一人は次のような趣旨のツイートもしていました。「周りと同じようにしようとして、溶け込めたと思っても、本当は全然溶け込めていないことがある」。多くの人にとっては簡単な、ごく普通の礼儀も、いくらかの人には難しかったりする。もし仮にセバスチャンが「発達障害」であったとすればですが、セバスチャンもそうだったのだろうと私は解釈しています。私には無い困難でも、他人にはその困難があるかもしれないのです。
勉強している間、多くのサイトで目にしたのは、「個性」という言葉でした。「身長の高低」や「血液型」、「右利き左利き」のように、発達障害も一つの個性だと。それは忘れないようにしたいです。
ところで、ここまで読まれた方なら分かると思うのですが、この記事には確固たる前提が一切存在していません。セバスチャンはそもそも発達界隈の人間ではないかもしれませんし、仮にそうだとしても私が共有したツイート群とその要約が正しいとは限りません。またそれが正しかったとしても、私が言った資本主義云々は可能性の一つでしかありません。その意味で、この記事はスカスカです。
では何のために書いたかと言えば、それは、この一件の「得体の知れなさ」とそこから来る「不気味さ」を解消する一助とするためです。ですが決して、発達障害を利用しようとか、そういう意図はないのです。多くの人が普段触れない「発達障害」という世界と、その独特の発想から来る「社会的なもの」への敵視というストーリーは、フィクションかもしれませんが、私の目には非常に興味深く映ったのです。これは純粋な気持ちです。
みなさんも、もし調べたことが無ければ一度、「発達障害」と呼ばれる「個性」について調べてほしいです。そして、世界を広げてほしいと、今強く思っています。
※2020/6/7更新:いくつかの表現を見直しました。追記を行いました。
*1:この表現に問題があることは承知していますが、便宜上これを使わせていただきます
フリマサイトで本を買ってみた
外出を控えた結果、本屋や古本屋に行く機会も0になり、私の購買意欲もそろそろ限界になってきました。本を買わなきゃ死ぬわけじゃないですが、「買いたい本リスト」がどんどん長くなっているのも事実です。コロナウイルスは歴史的にも非常に重要な転換点になるはずなので、それに関する本はできるだけ集めておきたい。大学のゼミに付随して法哲学も勉強したいし、最近は政治学にも興味が出てきたのでそれに関する古典(アーレントとかシュミットとか)も手元に置きたい。でも全部新品で買っていたら、バイトも一時的に辞めている中で財布が持ちません……。大阪梅田の紀伊国屋の隣にある古書店街には哲学書を扱っている店が多くとても助かっていたのですが、電車に乗るわけにも行きません。
そうなると、残る手段はネットです。買わないという選択肢はありません()
ネットといっても色々なサイトがあるわけです。新品を注文するのはAmazonや紀伊国屋などでよくやっていましたが、そういえばネット上のフリーマーケットやネットオークションには手を出したことがありませんでした。
メルカリとか、ラクマとか、ヤフオク!とか。CMではタレントが服やらアクセサリーを売買しているので「フリマサイトで本を探す」という発想は無かったのですが、試しに探してみると本自体は意外に出品数が多い。
どのサイトにもカテゴリがいくつか予め用意されていて、出品者がカテゴリに品物を分類しておくと、購入する側がそのカテゴリ内で品物を探せるようになっています。しかし「本カテゴリ」だと絵本や写真集までヒットしてしまうので、かなり探しにくかったです。さらにその下位カテゴリも用意されてはいたのですが、目当ての「思想」や「哲学」といったカテゴリがないサイトもあり、メルカリだと「人文・社会」と「ノンフィクション・教養」に哲学書がばらけてしまっていて大変に探しにくい。哲学書の出品数は少ないでしょうし、一般ピーポーな人たちにその需要も無いとは思いますが、もう少し設計を考えてほしいところです。
そこでどうするかというと自分で検索ワードを考えて調べるんですが、「フーコー」と「ミシェル・フーコー」で検索結果が異なったり、「新書」ではなぜかBL小説やライトノベルもヒットしてしまったり(これはおそらく出品者が適当にワードを設定しているため)と、けっこう難しい。特定の欲しい本があればそれはさすがに書名で出ますけど、なかなか思った通りの検索結果にはなりませんでした。
色々試した結果、「〇〇 まとめ売り」とかで検索するのが一番効率が良いことに気づきました。フリーマーケットっぽくて良いなと思ったのですが、出品者の中には手持ちの本を全て写真に収め、販売する方もいるのです。一冊ずつだと画面をスクロールする量が多くて段々探すのが面倒になってくるのですが、まとめ売りは少し目を動かすだけで済むのでとても楽です。
まとめ売りは「バラ売り可」と表記されているものも多く、ますますフリーマーケットっぽい。とても良い。
そして、なんやかんやでいくつか買う本を見繕いました。フリマサイトではとりあえず値下げ交渉をすると聞くので、みみっちくて普段は絶対しないのですが、とりあえず値下げできるか聞いてみます。するとけっこうどの方も500円ほど引いてくれるんですね。これは多分、向こうも値下げ前提の価格を付けているんだと思います。そのままの価格で売れたらラッキーってことです。こっちがダメ元で値下げ交渉するのと同じなのでしょう。中には最初の価格から3000円近く値下げしてくれた方もいました。
そうして購入したのがこいつらです。
手前の11冊です。
面白かったのが、梱包ですね。入れ物は封筒がほとんどでしたが、中には段ボールの切れ端を二つ折りにして文庫本を挟み、その上からテープをぐるぐる巻きにして送り状を上から貼り、品物を送ってきた方もいました。ちょっと笑っちゃいましたが、封筒代もかからないし頭のいいやり方だなと思いましたね。また、どの方も雨濡れ対策に本をビニールの袋に入れてくれていました(ラップで代用してた方もいましたけど笑)。取引の際の言葉遣いも丁寧だったし、思っていたフリマサイトのイメージとはだいぶかけ離れた体験でした。これが服とかマンガとかになってくるとトラブルも増えてくるのかもしれませんが、少なくとも哲学書はほとんど安全そうです。
あ、脱線しますけど、メルカリアプリの「おすすめ」欄はなんか夢中で見ちゃいますね。前にバイト先の子がメルカリの商品一覧をずっと更新し続けているのを見て何が楽しいのかと思ってましたけど、今は分かります、けっこう楽しい。たぶん新たに出品されたものや情報が更新されたものから「本」カテゴリのものだけを抽出して表示しているんだと思うんですが、その多くがライトノベルや教科書類だったとしても、「もう一回更新したら掘り出し物が見つかるかも」と思うと手が動いてしまいますね。なんだかこう書くと、負けを取り戻そうとするパチカスみたいな感じがするな。
ここまでがフリマサイトの話。ここからヤフオク! の話です。ネットオークションってヤフオク! 以外にもあるんですかね。これしか知らなかったのでヤフオク! を使いましたが。
検索の上では、フリマサイトよりこちらの方がカテゴリも使いやすかったです。というのも「思想」カテゴリがあるからですね。
最初は「思想」や「哲学」でキーワード検索すればいいと思ったのですが、それで検索すると「経営哲学」とか自己啓発本とか、まっっっったく求めてないのが多数出てきてしまうので、細かいカテゴリがあった方が探しやすいんですよね。
で、見ていて気付いたのが、どうやらネットオークションの出品者には「個人」と「ストア」の区別があるらしいことです。本を例にすると、前者は個人ですが(そのままやな)、後者は現実にある古書店や、大手のオンライン支部、ネットだけで販売している古本屋などがオークションに品物を出しているようです。
また、「入札」のほかに「即決」も可能な品物もあり、後者は出品者が価格を設定するようなのですが、その価格であれば買い物をするように即座に品物を落札できるようです。即決価格はだいたい高いので、する人は少なそうですけど。
ネットオークションでは次の2冊を購入しました。
『法とフィクション』はけっこう高かったです。5600円ほど。新品が6600円で、届いたものも真新しかったので満足ですけど。
支払った金額は13冊合計で13000円ほどでした。『法とフィクション』を除けば12冊で約6000円なので、相場と比べてもまあまあ良かったのではないかと思います。
これを投稿する日に古本屋へ突撃してしまったので(写真1枚目の後ろに写っていたものがその収穫)、その記事もあとで書こうかと思います。
蛇足。
先の13冊のうち、著者と表紙を見て買ってしまった2冊です。
うん、えっちだ……。