とらじぇでぃが色々書くやつ

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主にVTuberの記事を投稿中。

第17回チーム内大会が終了!

 

 私がリーダーを務めるシャドバチーム、BABELの第17回目の内戦が先日終了しました。今回もありがたいことに、トラブルなく遂行することができました。

 

 RAGE前ということで、形式を合わせローテーションBO3で行った、今回の内戦。

 結果は以下の通りになりました。

 

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 注釈を似非中国語っぽくしたんですが、突っ込んでくれる人はいなかったですね……。ローテも漢字にできれば完ぺきだったんですが笑

 

 出場者は全部で14名でした。提出数も前回より増えていて、そこは嬉しかったですね。 

 そして、優勝は隼くんでした。

 彼は内戦特効持ちといっても過言でないほどに優勝を積み重ねています。これで少なくとも4回は優勝してますね……。

 

 しかし彼は今日(5/4)連絡があったのですが、RAGE後、BABELを脱退することになりました。寂しくなりますが、彼にはさらなる舞台へ駆け上がっていってほしいとの願いを込め、笑顔で見送りたいと思います。

 

 

 さて、今月の予定としては、月末にもう一つ内戦をしようと思っています。今回の内戦は4月分を繰り越してきたものだったので、もう一つ5月分もしないといけないんですよね。

 最近はローテばっかりだったので、次はアンリミをしようかとぼんやりと考えています(アンリミすることになりました)。

 

 あと、もし相手が見つかれば対抗戦もしたいですね。

 チームリーダーの方、もしよろしければウチと対抗戦しましょう~。

 

STRパック事後評価

 

 

 やろうかやらないか迷ってはや2ヶ月。

 このとらじぇでぃ、ついにやることを決心しました。

 

 STRシャドバ(ょぅι゛ょ)カード評価…!

 

 

 ランク付けは以下の通り。

 

 

S……神

A……めちゃすこ

B……すこ

C……ちょっとすこ

 

 

ぽれの独断と偏見でょぅι゛ょ認定したのは6枚。

 

では評価をつけていきます。

 

 

 

白華の弓使い

 

 弓使いといえば私はマビノギのマリーを思い浮かべるのですが、この子もかわいいですね。耳がとがっているので、エルフ認定してしまってもよさそうです。落ち着いた緑と白の衣装で、典型的エルフょぅι゛ょと言えそうです。

 個人的なここすきポイントは白のニーハイに包まれた脚ですね。

 評価は文句なしでSでしょう。

 

 

死の夢の少女

 

 うつろな瞳が印象的なゴスロリょぅι゛ょです。

 死は生への活力になる的なことを哲学者バタイユは言っていますが、その死や虚無を感じさせる雰囲気は、逆説的に私たちの精神を賦活し、高揚させてくれます。

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 トークンカード深淵の夢も、ょぅι゛ょらしい体つきを表現していて非常に良いですね。ゴスロリ特有の厚く長いスカートには覆い隠されている脚が、ここでは露になっているのも印象的です。バタイユ流に言うと、タブーの侵犯になるのでしょうか……?

 評価はもちろんSです。

 

 

 

紫紺の抵抗者・エンネア


 

 このょぅι゛ょはよくいる貧乳まな板ロリですね。しかし、声が若干大人びているところは予想を裏切られました。でもそこも良き。

 個人的すこポイントは脚もそうですがやはり羽をイメージするかのように広げた手ですかね。この所作が幼さと可愛さを倍増させているような気がします……。

 評価はS

 

 

 

魔眼の邪神・メドゥーサ

 

  もう言うまでもない可愛さ。サイゲお気に入りのょぅι゛ょ

 グラブルのアテメドゥ(アテナ×メドゥーサ)めちゃくちゃかわいいから見てくれよな。

 評価S

 

 

 

幼き人狼リベルテ

 

  おとなしい子かと思いきや進化したらなんかやばそうっていう赤ずきんティーン。ラノベよく知らないけどラノベにいそう()。

 でもフリフリの服似合ってるしかわいい。S

  

 

 

ドールエンジェル・ミーア

 

  人形ょぅι゛ょ。脚がいい。手を組んでるのも良きですね。単純に(祈りを指すものとして)固く組ませるのではなくて、緩く組ませているところにかわいらしさも出てます。

 評価S

 

 

 

 結論:全部S!w

 

 

思考実験とは何か?

 

 最近俄かに流行り始めた「トロッコ問題」。

 

 哲学好きに知らない人はいないと言っていいほど有名な問題ですが、その流行り元はこの方のツイートのようです。

 

 

 

 皮肉めいて聞こえたとしたらそんな意図はないと言っておきますが、Vtuberの織田信姫も言うように、強い言葉を用いたツイートは伸びるようですね。

 

 

 それはさておき、この問題の楽しみ方は、やはり人それぞれなようです。

 真面目に議論する方もいれば、柔軟な発想で解決しようとする方もおり、また大喜利の場にする方も、コラ画像を作る方もいました。

 

 

 

 では私はこの記事で何をするかというと、タイトル通りなのですが、「思考実験とは何か?」「思考実験の果たす役割とは何か?」について考えようと思います。

 

 思考実験そのものへの回答は試みません。私のミジンコほどの知識と発想力では、骨折り損で終わってしまうことが見えているからです。その理由はこの先を読んでいただければわかると思いますが、そういうわけなので、この記事では、思考実験との向き合い方のようなものを提案し、記事を終えようと思っています。

 

 最初に記しておくと、思考実験を考えるとき、必ずしも元の文脈に縛られる必要はないということが、この記事の結論です。

 

 

 

ロッコ問題という思考実験

 

 思考実験というものは、かなり面白いです。興味深いです。

 特別な道具はいらない。必要なのは頭だけ。特別な知識がなくても臨むことができます。この手軽さは魅力です

 

 特にトロッコ問題というのは、思考実験をまとめた本では扱われないことがないほどに、多くの人を惹きつけてきました

 

 最初に提唱したのは――完全に蛇足ですが――フィリッパ・ルート・フットというイギリスの哲学者でした。私はよく知らないのですが、彼はメタ倫理学が専門だったようです。

 

 そしてトロッコ問題はその後にも度々取り上げられ、最近ではかのマイケル・サンデルがトロッコ問題を援用し、再び話題になりました。

 

 その内容というのは、同じ画像を再び貼り付けますが、このようなものです。

 

 

 文を読みますと、ここに困難が潜んでいることはすぐ分かります。みなさんは頭を抱えるでしょう。「私がどうしようと、人が死んでしまう」のです。

 

 問題は、選択を迫ります。「殺すか? 死なせるか?」

 

 私は先ほども言ったように、この問題に答えを出すことはできません。まだ答えるに値する資格も知識も無いように思いますし、何より全く分かりません笑

 ただ、この問題を解剖することは、なけなしの知識と思考力の限りでは、できるように思います

 

 

ロッコ問題で意見がすれ違う理由

 

 トロッコ問題に関わるツイートのリプライ欄では、議論好きたちが必ずと言っていいほどに議論を交わしています。

 しかしながら、そのほとんどは議論になっていません。話が噛み合っていない例がほとんどです。

 たとえば、こういった会話です。

 

 

A「なんか分からんけど、トロッコが来るって大声で知らせたら解決じゃね?」

B「いや、ここで重要なのはレバーを引くかどうかなので、声を出すのは反則です」

A「は? お前現実でクソ真面目にどっちにトロッコ向かわせるか考えるの? 避けろって指示すれば終いじゃん」

B「だからそういう話ではなくて、トロッコをどちらに向かわせるかっていうことを考えないと駄目なんです。それに、避けろって言って避けられる保証はないですよね」

A「いや避けろって言われてトロッコ見えたら避けるだろwwww バカ乙wwww」

C「この場合はBさんが正しいと思います。この問題の趣旨は「見殺しにしますか?殺しますか?」というものだと思うので」

D「なんか分からんけど深E」

 

 

 

 ……自分で書いていてなぜか吐き気がしてきましたが、一体なぜこうなるのかといえば、それは思考実験というものの性質に依拠します。

 

 思考実験は、そもそも自身の思想を伝える際、その具体例として用いられるものです。そして、その時用いられる思考実験は、その伝えたい思想に合わせて、登場する事象はかなり極端に単純化されます。つまり、もの一つ一つに関わる多くの部分が捨象されるのです。

 

 たとえば、トロッコ問題では、轢かれそうになっている人はみんな「だれか」です。年齢も容姿も何も分かりません。ジェンダーバイアス的に、線路にいるのは男と思ってしまいがちですが、男か女かすらわかりません。

 

 また、トロッコ問題のうえでは、物理的条件は全て排除されています。時速何キロだとか、距離は何メートルとか、レバーを動かすか否かの思考時間は何秒だとか、そういった事柄も全て単純化の過程で捨て去られています。

 

 さらに、法律的観点もここでは重要視されません。もし重要視されているなら、「レバーを動かせばあなたは刑事罰に問われるが」という文言が付加されているはずですが、トロッコ問題においてはもちろんそんな文言は添えられていません。

 

 なぜこのように単純化されているかといえば、発案者がそうしたかったからです。

 

 先ほど述べたように、発案者のフィリッパ・フットは倫理にまつわる思想を展開していました。つまり、彼は自身の専門分野に関する問いになるように、問題を調整したのです。

 

 これは思考実験と呼ばれるどの問題にも当てはまります。

 

 たとえば「ピュリダンのロバ」という思考実験は、

 

「自身から均等な位置に、全く同じ量の見栄えも変わらない干し草を置かれたロバは、(その合理的性格ゆえに)どちらを食べれば良いか分からず立ち往生し、最後には餓死してしまう」

 

という話ですが、ここではロバの性格は合理主義と決められていますし、干し草は全く狂い無く置かれているという現実離れした内容です。この問題はまさに、頭の中でしか成り立ち得ません。

 この問題は解釈がいくつかできますが、たとえば合理主義の限界に説得力を持たせるために用いられたと考えられます。

 

 

 また救命ボートの倫理

 

「沈み行く船から、5人は運良く脱出できた。数に限りのある6人乗りの救命ボートの1つを使ってだ。側で今にも溺れそうな女が助けを求めているが、彼らは少しの相談の結果、彼女を助けないことに決め、救命ボートに備蓄された6人分のビスケットを5人で分け合った」

 

という内容です。少し記述自体は具体的になったように見えますが、しかしやはり、人物の年齢などは不詳です。

 これはおそらく、先進国と発展途上国の関係を寓話的に描いたものでしょう。

 

 

 このように、不必要なものを記述しないことは、私が書いているようなブログでも当たり前ですし、小説でも、全く役割を持たない文が登場することはあり得ません。評論でも、論文でも、詩でも、不必要なものは言いたいことの邪魔になるだけですので、取り去られます。

 それと同じようなことを、思想家は思考実験でも遂行しているのです。つまり、自身の文脈において、思考実験が導く事柄を限定したのです。

 

 

 

思考実験の余白

 

 そしてこのことが、トロッコ問題を考えるうえでの困難に繋がっています。

 

 先ほどのAとBの会話を思い出してください。Aは声を出すことを提案していました。一方、Bはそれは反則だと言いました。

 

 この差は単純明快です。Aはトロッコ問題にさらに条件を付け加えている一方、Bは単純化された問題に忠実であろうとしているのです。

 

 つまり、Aは、問題が問おうとしている「レバーを引くか? 引かないか?」という発案者の倫理・道徳を問おうという目的から設定された、限定的問いの範疇から外れています。トロッコ問題は倫理的回答、すなわち「善か悪か」という答えを想定した問題であったのに、Aは物理的対象領域の範疇である、「声を出す」という、問いが想定しない選択をしてしまっているのです。

 

 それに対して、Bはそのことを指摘したわけですが、言葉足らずだったか、言語化能力がかなり未熟だったかの為に、Aは理解をしてくれなかったのです。

 

 ただ、誤解を招く前に言っておくと、私はこの記事で、まるで言葉の元の意味に執着する人のように、思考実験の由来に遡って、原理主義的な主張をしたいわけではありません

 

 ここで言いたいのは、ロッコ問題はその単純さを活かして、さまざまな回答が可能であるということです。

 

 たとえば、冒頭のトロッコ問題を紹介した方は、冒頭のツイートで遺族云々の解釈をしています。それはたしかに倫理的範疇に収まった回答ではありますが、しかし彼自身もまた、Aのように、勝手にトロッコに轢殺された人に、遺族がいることを想定しています。厳密にいえば、彼は設定を付け加えているといえます。

 

 しかし、それも良いのです。そこで扱われる問題は、もはや思想家の思想の文脈の中にはありません。それに、好意的解釈をすれば、この問題はそういった柔軟な発想をするために、単純化されているとも言えるのですから。

 

 

思考実験をどう扱うか

 

 ですが、私には勿体ないと思うことが一つあります。それは、多くの方が思考実験を、思考実験そのものへ問いを出すのみのものだと思っているかもしれないということです。

 

 トロッコ問題を提示されて、多くの人は、その問い自体をどう解決するかを考えます

 

 その問い自体をどう解決するか考えるというのは、その問題の設定の中で、あるいは新たに自分が設定・観点を付け加えた状況の中で、なるべく完璧な答えを探そうとすることです。

 

 一度トロッコ問題の内容を思い出してみてから、次のような思索を読んでみてください。

 

 レバーを引いた方が犠牲者は少なくなるのだからそうすべきでは? しかしその1人が芸能人だとしたら? 大ファンのスポーツ選手だとしたら? しかしそれを避けたとして、5人を犠牲にすることは正しいのか? 刑法的にはどのくらいの罰が与えられる? 社会的制裁は激しいものになるだろうか? 経済的な損失はどっちが高いだろう? いやいや、そもそも自分は選択を神に「押し付けられた」だけで、責任は自分には無いのでは? というより、大声で線路上にいる人たちに呼びかければ解決じゃないか。トロッコのレールの切り替えを甘くすればトロッコは止まるぞ! でも、どちらだろうが、生きる意味なんて無いし惰性で決めればいいか……。

 

 これは、先ほど申し上げた「思考実験の余白」、すなわち、さまざまな観点から思考実験を見たり、設定を付け加えたりしてみることを実行した例です。この人は懸命に、レバーを操作するか否かを考えています。このような思索も、実際かなり楽しいものです。この方はペシミズムに行き着いてしまっていますが笑、答えは様々な形で可能でしょう。

 

 しかし、先程述べたように、思考実験は思想家が、自分の考えを述べる過程で持ちだしたものでした。今やこの思考実験は元の文脈から外れそれ単体で見られていますが、元々はそうでした。

 

 そうであるなら、私たちもまた、思想家と自称すればひとりの思想家となるでしょうから、思考実験を自分なりにアレンジして、自分の文脈で用いても構わないわけです。

 

 どういうことか。

 

 つまりは、一つの思考実験から、一つの命題を取り出し、それについて吟味するやり方もあるのではないか、ということです。 

 

 思想家のやったことと、ほぼ逆のことをしようという試みです。

 

 

 たとえば、トロッコ問題では、厳密な設定下でも色々な問いが浮かんできますが、各々がアレンジを加えれば(=勝手に設定を加えたり消したりすれば)、さらに様々な問いが浮かび上がってきます。

 

 それでも十分なのですが、さらにもう一歩、何か問いを引っ張ってきて、それに応えようとすることも、またトロッコ問題への向き合い方の一つなのではないかと思うのです。

 

 そしてその問いや命題というのは、たとえば提唱者の倫理の文脈に従った命題なら、「殺すことと死なせることでは殺すことの方が悪い」といった倫理的命題でしょう。

 

 他にも、物理学的な問いなら、「トロッコがどれだけのスピードを出していれば致命傷となるか?」法学的な問いなら「レバーを操作せず5人がトロッコに轢殺された際、当事者の法的責任はどうなるか?」社会学的問いなら「どういった人が線路上にいれば人はレバーを操作するか?」などがそういった問いになるでしょうか(デタラメを言ってたらすみません)

 

 そしてそこからさらに、その問いに答えながら抽象化を進め、他の問題に応用できる形へ一般化し整えるのがベストです。ですが、実際のところは、そこまでできれば世話ない、といった感じですよね笑 私もそう思います。

 

 ともあれこのように、たとえばそれぞれの学問の対象領域から、新たな問いを見出すことが可能です。もちろん、学問という区別に囚われずに、「なんとなくレバーを操作したいと思った」人がいるなら、そのなんとなくの中身を一度考えてみることも、思索の一つです。

 

 

具体から抽象へ

 

 つまり結局のところ、私のこの話は、一つの具体的なことを聞いて、それを抽象的に捉え直そうという、よくある勧めに他なりません

 

 具体的なことが物語であるとするなら、たとえば聖書の「善きサマリア人の譬え」*1を読んで、「この祭司たちは酷いなあ」と思う人もいるでしょう。

 しかし、一方で、「ああ、この話はイエスの隣人愛を説いたものなのだなあ」と感嘆する人もいるかもしれませんし、「祭司たちはなぜ彼を助けなかったのだろう?」と問いを立てる人もいるかもしれません

 そして後者の人は、歴史的事実を踏まえてその問いに結論を出し、新たな知識を獲得することになるかもしれません。

 

 

 童話、たとえば「桃太郎」を読んで、「いい話だなあ」と思う子がいるのも良いことです。その一方で、「悪はなぜ懲らしめられなければならないのか?」という視点を持つ子もいるでしょう。きっとそういう子は近いうちに、「役割における善悪は視点によって変わる」ことを学ぶと思います。

 

 あともう一つ。少し前の例に戻りますが、トロッコ問題自体に対するAの「声を出す」という提案で言えば、それに必要な条件を考えてみるのもいいかもしれません。たとえば、狼少年のように、もしAに信頼がなければ、線路上の人は判断が遅れ、何人か逃げ遅れてしまうかもしれません。そう考えたとき、Aは「信頼は大切である」という命題を得ます。そしてAは、その命題が本当に真なのか、つまり、「本当に信頼はいつでも大切なものなのか?」を考えることになりましょう。

 

 このように、具体的な事柄を抽象的に捉え直して問いを組み立て、また新たな知識を発見するという、素晴らしい連関がここに成り立ちます。この連関によって蓄積されるものは、たしかに多くはすぐに役立つものでないでしょう。しかし多くのパースペクティブを必要とする世の中を見通すには、良い方法だと思っています。

 

 

 ここまでの言いたいことを、下に図式化しておきます。

 

 

 

思想家の意図

 思想→(言語化)→文章⊃思考実験

 

文章から摘出された思考実験

 文脈外の思考実験⇒多様な解釈可能

 

私たち

 文脈外の思考実験→抽象的問い→自分の思想

 

 

 

幅広い答え方

 

 トロッコ問題は、その厳密な問題設定の中では、おそらく批判されない完璧な答えは導けません。なぜならその理由の一つは、その問題を持ちだした思想家が、自身の思想を理解してもらうための取っ掛かりとして用意したものだからでした。本質的に言い換えれば、思想を伝えるのにジレンマが必要だったからです。数学のように、答えを望んで提示されたものではありません。ただ、自身の思想を有効に伝えられればそれで良かったのだと思います。

 しかし、文脈の外に置かれた思考実験は、提唱者の意図の鎖を外れ、自由な解釈を許容できるようになります。つまり、具体的問題から得られるもう一段階上の、抽象的問いへの足掛かりとなれるのです。

 

 たしかに、その思考実験の部屋の中で遊んでいるのも楽しいことです。ですが、もう一つの選択肢として、一歩階段を登り、抽象のはしごを駆け上って、その抽象的問いを見つけに行ってみるのも、また一興だと思うのです。

 

 先ほどから例を挙げているように、思考実験から発想された問いは、さらなる広がりを持ちます

 

 たとえばトロッコ問題は、漠然とした表現で言えば、人の倫理観など、物事の見方を問い直す効果がありました

 

 また、もっと現実味を持たせて、これから起こりうるだろう具体的事例に置き換えるならば、トロッコ問題はAIによる自動運転にも繋がります。

 

「AIが誤作動したのか、システムが制御不能になった。今、自分の乗る自動運転車が人に突っ込もうとしている。運転手はハンドルの操作だけはできるのだが、ハンドルを切って左に避けると壁に激突して自分が死に、右に避けると他の自動車に激突して、これもまた無事では済まない……」

 

といったジレンマです。

 

 この「事例への置き換え」は、ほぼ問題文が変わったに過ぎず、事象が単純化されているという事実は変わりませんが、現代への問題提起という意義はあります。

 

 このように、思考実験一つをとっても、実は展望は広く開けているのです

 

 少し余計なことを言うと、それを、厳密な状況設定にこだわって、固執し、人に考えの枠組みを押し付けてしまうのは、ちょっと寂しいことに思えるのです。

 

 

総括

 

 思考実験そのものについて考えることもまた楽しいものであります。特に、哲学などに普段触れない人ほど、思考実験は興味深く感じられるでしょう。

 

 そうです、たしかにそれは魅力的です。そしてもしその問題自体に考えを巡らせることに飽きてきたら、別の問題にチャレンジするのも良いことでしょう。難問はいくらでもあります。そして、もし良かったら、私の言うように、そこからもう少し抽象的な問いを取り出してみて、頭の体操をしてみるのも良いかもしれません

 

 

 

 以上、思考実験というものについて私がどういった捉え方をしているかを書いてみました。流行について、言わばメタ的な立場から書いた関係上、人によっては少し偉そうに読めた箇所があったかもしれませんが、ご容赦ください。私には啓蒙をたれるつもりは毛頭ありませんので。

 

 

 

おまけ:別の思考実験

 

水槽の中の脳

ヒラリー・パトナムの思考実験。

名取さなの配信でたまに見るやつ。

 

世界五分前仮説

どちらかといえばオカルト的に思える話。

 

哲学的ゾンビ

心とは?

 

マリーの部屋

感覚、認識などにまつわる話。

 

スワンプマン

人の同一性。

 

双子地球の水

言語哲学の話。

 

中国語の部屋

AIは心を持つか。

 

 

 

 

Vtuberの「中の人」は公表すべきか?

 

 

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 どうも、とらじぇでぃです。

 

 先日の朝、というか13時ごろ(笑)、目を覚ましTwitterを開きますと、「ゲーム部」が日本のトレンドに上がっていました。4位。「ゲーム部が何か発表でもしたのかな?」と思い、少しウキウキした気持ちで詳細に飛びましたが、違いました。その中心は、「ゲーム部解散」との、不穏な噂でした。

 

 どこが出所かはわかりませんが、「運営とゲーム部の4名があまり上手くいっていなかった」という内容は、注目を集めるには十分なものだったでしょう。

 

 私はこの記事で、その噂の真偽について検討したり、真偽不明の事柄について意見したりすることはしません。どこから湧いてきたかも分からない情報なので、それに意見するというのは、かなり怖いことです。

 

 しかし私は、火のない所に煙は立たぬという諺は一理あるのではないかとは普段から思っていて、運営やゲーム部の面々がどう動くかは、あくまでも静観という形ですが、注目したいと思っています*1

 

 

 さて、私が今回話題にしたいのは、Vtuberの「パーソン」の要素、すなわち中の人や魂と呼ばれるものの要素についてです*2。参考記事として、こちらの記事を挙げておきます。

 

lichtung.hateblo.jp

 余裕のある方は是非読んでいただきたいです。この記事で用いるパーソンの概念など、Vtuberを理解するにあたって不可欠なことがたくさん詰まっています。

 

 

 さて、私はその日、暇なりに1時間くらいゲーム部についてのツイートを眺めていたのですが、「解散マジか……」「運営許さん」といった大多数のツイートに混じって、「中の人を公表すべきではないか」という意見がいくつか見られました。

 

 中の人を公表するというのは、Vtuberをあまり視聴しない人からすれば、全く構わないと思われるかもしれません。Vtuberは結局のところアニメキャラクターのようなもので、キャラクターと声優がいるに過ぎない」と。

 

 たしかに筋が通っているように思われます。

 実際、私も過去に、「Vtuberは日常アニメのようなものだ」と書きました*3

 

 (↓その記事。本稿とは打って変わってふざけた内容です)

tragedy.hatenablog.com

 

 しかし、よく視聴する人にとってみれば、きっと違和感があるに違いありません。「中の人公表って、それはどうなの?」と言いたくもなるでしょう。

 

 本稿では、この是非について少し考えてみようと思います。

 

 念のため記述しますが、この記事には誰かを攻撃したり、貶めたりするような意図は一切含まれていませんし、私はそのような意図をもって記事を書いたりはしません。

 あくまで個人的意見として、忙しい方は流し目に、暇を持て余している方はのんびりと読んでいただければと思います。

 

 それと注意ですが、この記事は脚注含め19000字近くあります。余裕をもって読み始められることをお勧めします。

 

 また、私の文章力の無さから、みなさんが文章を読むうえでの手がかりをいくつか入れ忘れた部分があるので、冒頭にて、用語の定義を羅列しておくことにしました。参考記事とは違う使い方をしている概念もあるかもしれませんので、すみませんが読む途中にでも、確認のほどよろしくお願いします。

 

 では、話を始めましょう。

 

 

 

 

本稿で用いる語の定義 

  • パーソン……三つに分けられるVtuberの身体の一つ。「キャラクターを動かす何者か」として認識するもの。いわゆる中の人、魂。
  • ペルソナ……Vtuber身体の一つ。Vtuberが持つ設定の要素や、それによって視聴者が形成する印象のこと。メディア論で用いられる「メディアペルソナ」からの流用。
  • キャラク……Vtuber身体の一つ。Vtuberの画像や、3Dモデルを指す。界隈一般に言う「肉体」や「ガワ」。
  • 中の人……パーソンと、Vtuberを演じる具体的な人物の両方の意を含む概念。魂も同義。
  • フィクショナルキャラク……ペルソナの表象としてのキャラクタ。Vtuberそのものとして理解される図像。
  • パーソンのペルソナ……パーソンの要素が視聴者に与える印象。
  • フィクショナルキャラクタのペルソナ……ペルソナとほぼ同義。フィクショナルキャラクタの要素が視聴者に与える印象。
  • 演者……具体的な固有名詞を持つ、リアルの人物。Vtuberを介さない、人そのもの。*4
  • 声優……アニメなどで、声のみを担当する人物。
  • 心身未分……Vtuberのパーソンとペルソナは言語化以前では区別されず、渾然一体に認識されるということ。筆者の造語。
  • 抽象的救済……間接的かつ穏健にVtuberトラブルを解決しようとする考え方。造語。
  • 具体的救済……直接的かつ急進的にVtuberトラブルを解決しようとする考え方。造語。
  • ……ファンと対面する姿、あるいはファンが形成する印象。メディア論でのペルソナに同じ。

 

 

 

 

はじめに:肯定派の意見と私見

 

 まず、公表肯定派の意見はだいたいこうでしょう。

 

「①運営-Vtuber関係において、演者(=中の人)が明かされずブラックボックス化していることがトラブルの温床である。②さらに、演者が誰であるか秘匿される以上、演者にとってVtuberを演じることは彼・彼女らのキャリアに繋がらない。③また、演者公開によって運営だけでなくファンも、演者に注目するような環境を作り上げるべき」

 

 よい意見のように見えますね。

 

 対して、私の意見はこうです。

 

「❶運営-Vtuber関係のトラブルは各々の契約関係に基づくものであるから、その防止において重要なことは演者を明かすことではない。❷また、キャリアと知名度は別物である。❸さらに、もうすでにファンは演者の功績というものを無意識的に理解している。中の人を公表するまでもない。」

 

 

ブラックボックス

 

Vtuberの三つの類型

 

 ①のブラックボックス化については、たしかにVtuberというコンテンツの悪い側面ということもできそうです。というのも、パーソンや演者に触れないことは、Vtuber視聴者にとって当然の慣習であり、パーソン・ペルソナ・キャラクタの三要素は、Vtuberにとってどれも欠かせないものであるからです。

 

 具体例を見るために、私はVtuberを、パーソンとペルソナ・キャラクタの関係において、大きく3つの部類に分けようと思います。

 

 

 Ⅰ完全秘匿型

 Ⅱ秘匿型

 Ⅲ半秘匿型

 

 

 Ⅰの完全秘匿型は、パーソンを感じさせるものを一切出さないタイプのVtuberです*5。簡単にいえば、メタ要素を一切許さない部類のVtuberです。

 

 設定をふんだんに盛り込んだVtuberを想像してみてください。キズナアイを筆頭とし、にじさんじ竜胆尊や、夢月ロアでびでびでびる、件のゲーム部などがそうでしょう。彼らは自分自身の世界に住み、視聴者にパーソンを感じさせないようふるまいます。すなわち、ペルソナを大きく前面に出し、配信や動画公開に努めているのです。

 

 彼らにとって、パーソンが出てしまうことは致命的でしょう。

 

 たとえば、うっかりリアルの生活について喋ってしまったり、設定と矛盾することを喋ってしまったりすれば、配信者・視聴者ともども、気まずくなってしまうはずです。

 

 

 Ⅱの秘匿型は、一応ペルソナとしての設定はもっていますが、しかし、パーソンのペルソナが滲み出るように時折表出し、またそれがそのVtuberにとって魅力になっているタイプを指します。

 

 当然ですが、ここでいうパーソンのペルソナの表出とは、フィクショナルキャラクタ(=Vtuberのパーソン以外の部分)のペルソナと相反するなどして、パーソンのペルソナが際立つ形となっているもののことです。普段パーソンとペルソナは一体となっていて、境は見当たりません

 

 このタイプに当てはまるVtuberでは、月ノ美兎がまさしくそれでしょう。

 

 彼女は女子高生で清楚な委員長として売っていたのが、もつ鍋とビールが好きだと言ってしまったり*6ムカデ人間が好きだとか、雑草を食べたりしたと言ってしまったりなどのギャップが受け、爆発的な成長を遂げました。

 

www.youtube.com (↑1:38:50あたりがもつ鍋)

 

 これはすなわち、パーソンのペルソナの表出、露呈です。清楚というフィクショナルキャラクタのペルソナと、雑草を食べたというパーソンのペルソナの衝突が起こり、それが魅力を創出しているのです。

 

 

 Ⅲの半秘匿型というのは、メタを、積極的とは言わずとも、ある程度は許容するタイプのVtuberです。

 

 半秘匿型のVtuberは、ある程度のペルソナをもってはいますが、ほとんどパーソンがむき出しになっています

 

 例を出せば、元のじゃのりおじさんのねこます氏や、にじさんじ樋口楓DWU、エンタムのもちひよこ、ぱりぷろの神楽めあなどでしょうか。

 

 DWUは自身を深層ウェブの令嬢だと自称していますが、雑談では過去に声優をやっていたなどの発言をしています

 

 もちひよこは「人生二周目幼女」を名乗り、ディズニーオタクをカミングアウトしたり、モデル制作スキルを披露したりする一方で、Vtuberとは何か」という動画を公開するなど、パーソンとペルソナの境を曖昧にした活動を行っています。

 


VTuberってなぁに? ※メタ話注意だよ!

 

 彼・彼女らにとって、ペルソナは特別に重要なものではなく、あくまでもパーソンとしての自身を思いのままに出す場としてVtuber活動をしているように思います。

 

 リアルの延長や、VRchatの世界の延長として活動している、といってもいいかもしれません。

 

 

 以上Ⅰ~Ⅲより分かるように、キャラクタは言わずもがな*7、パーソン・ペルソナは、どこに重きを置くかの差はあれど、それらは確かに、Vtuberの身体を構成しているのです。

 

 それはすなわち、Vtuberというコンテンツが、パーソン無しには存在できないということを指します。

 

 当然のことではありますが、今一度、再認識すべき点でもありましょう

 

 後にまたこの三類型に戻ってきますので、これらを軽く頭に入れていただけると良いと思います。

 

 

Vtuberの中の人がタブー化された理由

 

 そして、どのVtuberも、「中の人が誰であるか?」は完全に伏せられています

 

 たとえばアニメでは、担当声優が誰であるかは事前に、あるいは各話の最後で明かされます。アニメファンの中には、「○○さんだからみよう」といったアニメの選び方をする方もいるように、声優はアニメ評価のうえでも大きなウエイトを占めているといって良いでしょう。

 

 しかし、Vtuberはそうではありません。演者は公にされないのです。なぜならば、キズナアイキズナアイであり、電脳少女シロは電脳少女シロだからです。

 

 つまり、YouTuberが自身で動画を投稿するように、Vtuberも、体裁としては、彼らが自身で動画を投稿しているということです。さらに、彼らはアニメとは異なり、Twitterなどでリアルタイムに発信を行います。その姿はまさに、生身の人間です。

 

 アニメでは、創作された人物が先だって存在し、そこに声があてられることが多いです。つまり、声優の担当領域は声のみです。しかしVtuberではパーソンとフィクショナルキャラクタとは(ほぼ)一致しています。なので、もしパーソンが伏せられていなければ、ペルソナとの干渉が起きるでしょう

 

 顕著な例を出すと、猫宮ひなたや勇気ちひろといったロリ体型・ロリボイスで売っているVtuberは、演者の公開によって打撃を被る事がありましょう。リアルとバーチャルの乖離は一ファンとして想像したくないところではありますが……実際問題、それは大きなものだと考えられます。

 

 もし企業Vtuber*8に中の人を公表するよう迫るのであれば、こうした乖離を伴うVtuberに対しても、等しく同じ対応を求める必要が出てきます。今界隈で叫ばれる中の人公表の要求(意見)は、特効薬としてではなく、ワクチン、予防策としてのものでしょうから。

 

 そして話を戻して、もし中の人が公表されたならば、その公表を受けたVtuberを取り巻く環境は一変します。視聴する側としても、演じる側としても、困難が生じてくるようになるのです。

 

 たとえば、暗黙の了解により、Vtuberの中の人は触れられないようになっていますが、それは暗黙の了解を全員が能動的に守っているから成立しているのではなく、ただ単に、演者が公表されていないからこそ成立している一面もあると考えます。

 

 Vtuberの視聴形態というのは、細かな差異はありましょうが、ほぼ一本化されています。しかし、中の人を公表すれば、Vtuberをまさにアニメキャラクターと同一視する構えの視聴者が出現してもおかしくは無いのです。すなわち、「キズナアイかわいい!」だけではなく、「〇〇(中の人の名前)かわいい!」というコメントが、悪意なしに書き込まれることもありうるということです。そして、みなさんはそうしたコメントを想像したとき、言うも言われぬ違和感を覚えると思います。

 

 言うまでもないでしょうが、この違和感というのはVtuberの双方向性に根ざすものです。アニメでは、そのキャラクターは一方的にそのペルソナを視聴者へ押し付けるのみですが、一方Vtuberは絶えずしてファンと交流を行います。そして彼らは、その双方向性をもって、アニメのようなシナリオを用いず、視聴者の意見を取り入れながら配信や動画を作っていくというある意味寛容な流れの中で、今後の活動方針さえも決めていくというのが、大多数のVtuberのとる方針です。

 

 みなさんは、好きなVtuberに、あえて、「〇〇(演者の名前)さんですよね?」と問いかけることはしないですよね。なぜなら、それは気まずさを生じるからです。

 

 もし仮に、Vtuberになったごちうさ*9のココアちゃん*10と話せる機会があったとして、あなたは「あやねる*11の大ファンです!」と言ったりはしないでしょう。むしろ、タブーと感じるはずです。

 あくまでも、目の前にいるのはフィクショナルキャラクタであって、声優や演者ではないのです。

 

 そういった意味で、パーソンの秘匿は理にかなっています。誰に言われたわけでもなく自然にこうした、パーソンに触れない慣習が成立したのは、本質は虚構であるVtuberコンテンツを楽しむ上で必要不可欠なことだったのです。

 たとえ、みなさんがVtuber文化にそれほど馴染みがなかったとしても、ココアの例で少しは分かってもらえるのではないでしょうか。

 

 そしてその空気の中で、中の人を、運営側や中の人が自ら公表することに、どれだけの違和感が生じ、Vtuberというコンテンツにどれだけの支障をきたすかは、考えてもらえれば分かると思います。

 

 

契約関係

 

 そしてようやく❶に移るのですが、運営-Vtuber間トラブルの原因を、中の人の秘匿に見出すのは、私は違うと考えます。

 

 中の人が公表されているか否かは、トラブルの原因とは無関係です。運営-Vtuber間の取り決めは全て契約によるものであるので、はっきり言って、中の人が公表されていたとしても、それは予防にもならなければ、解決の糸口にもなりません。それは、法律の領域であって、 Vtuberコンテンツの領域ではないのです。

 

 「予防とは言わずとも、万が一トラブルになったときに、演者が声を上げやすいようにするためだ」と仰る方もいるかもしれませんが、それもまた、あまり良い策であるとは思えません。

 

 中の人が声を上げやすいようにとは言いますが、実際のところ、中の人が声を上げたとして、それによって起こるアクションとは、ファン、あるいは界隈が反応することくらいでしょう。弁護士や労基、その他の有識者に助けを求めるなら、ネットで声を上げずとも裏でこっそりとやればいいだけの話ですから、あまりメリットは感じません。そして、最終手段として演者が界隈に助けを求めたとしても、ファンが出来ることというのは限られており、かつ、とても少ないのです

 

 人々の声というのは、たしかに大きな力を持ちます。

 

 たとえば、アズマリムの件ではファンの声が運営を動かしたりといったことがありました。

 しかし、過去には朝ノ光や、牡丹きぃなど、悲しいかな、トラブルの中、消えていったVtuberもいるのです*12

 

 さらに言えば、会社-労働者関係から見てSOSを送るのは常に演者側でしょうが、そのとき本当に運営側だけに非があるのかということは、我々ファンには分かりません。しかも、おそらく運営側は、私たち視聴者にそこまで詳しい説明はしないでしょう。企業にその義務は無いのですから*13

 

 Vtuberの性格上必至であるパーソンの秘匿と、代えの効かないVtuberというしがらみに囚われ粗悪(かもしれない)な環境から逃れられないことの、ジレンマに苦しむ演者たちを救いたい」という気持ちはわかりますが、究極は契約関係なのです

 この二点、声優さんは事前によく考えて契約を結んで欲しい運営さんはクリーンな運営を遂行して欲しい、この二点しか、言えることはありません。

 

 おそらく、こうした声は、「俺たちにも何かしたい」という気持ちの表れなのでしょう。私も、トラブルを見るたびやるせない気持ちになりました。しかし、比較衡量*14すれば、あえて中の人を公表するという、コンテンツに支障をきたす道を選んでまで私たちにできることが多いかと言えば、それは残念ながら、そうではなく、事実は真逆なのです*15

 

 

声優のキャリア

 

 ②のキャリアもまた、もっともに聞こえる言説です。

 

 新米声優がVtuberを続けていると、世間的にはそのVtuberの名前のみが売れますので、中の人は名前が売れず、結果として将来性を確保できない中の人は、危ない橋を渡ることになる、ということでしょう。

 

 たしかに、もっともな意見です。中の人にとってはキャリアを積めるに越したことはないはずですから、Vtuberを続けながらも実績を残していけることには異論はないでしょう。

 

 しかし、キャリアと知名度はおそらく分けるべきです。

 

 キャリア声優歴として解しますが、それは中の人を公表しなくとも、オーディションの面接なり、仕事をもらうなりの時に、世間に公にされない形で、演者が企業にアピールすることは、一向に構わないでしょう。

 

 対して知名度は、世間の人にどれだけ知られているかですから、中の人を公表しなければ上がりません。メタな話、中の人が特定されているVtuberも多々いますが、一方、元々世に出ていない演者は特定されようがありませんから、知名度が上がることは余計に見込めないでしょう。

 

 これは問題のようにも見えます。しかし、素直に考えれば、Vtuberをやるという時点で、声優もそのコンテンツの概要は把握しているはずで、中の人を公表しないことも了承済みのはずです。

 

 もっと羽ばたきたいという新米声優は、失礼な話ですが、Vtuberよりほかの仕事を探すか、ほかの仕事と掛け持つかの工夫をしていると考えます。

 

 そこで我々ファンが、「キャリアのために」中の人を公表すべきというのは、少しお節介というか、若干、出すぎた真似にも思えてしまいます。

 

 しかしこの②に関しては完全に想像なので、これについては、私が出しゃばるのはここまでにします。実状に詳しい方が書いた記事なり、ツイートなりがあればそちらを参照してください

 

 

パーソンは軽視されているか?

 

あるツイートとその解釈

 

 ❸は、この方のツイートを見ての私見です。

 

 

 「フィクショナルキャラクタを褒めるだけではなく、中の人の功績をも認めるべきである」という言説ですね。

 

 一応補足すると、このツイートは、にじさんじ新ライバーが過去に違法行為をしていたことが判明し、騒ぎになったときの文脈で呟かれたものです。

 

 普段中の人とフィクショナルキャラクタを分離し、中の人をタブー視しているのに、犯罪沙汰などが起こった時はなぜ中の人を一斉に叩くのか? という内容でもあります。

 

 このツイートを中の人公開の論拠にしているものが見受けられたので、触れておこうと思います。

 

 まず、確認として、彼自身はおそらく、少なくともこのツイートを拝見した限りでは、Vtuberの中の人を公表しよう」とは考えていないと思います

 たしかに、「表に出てくれたほうが安心なのでは」とは呟いていますが、実際そう要求しているかといえば、このコンテクストの中では、そうは言いきれないように思います。Twitterでは文字数制限上論理が飛躍することが多々あるので、このツイートの解釈は人によって分かれるかもしれませんが、今回は「(誰かは分からないが)中の人を大事にしよう」「Vtuberと中の人は別人として考えよう」というメッセージが込められているとしましょう。

 

 

 

Vtuberの「心身未分」

 

 ところで、Vtuberを視聴していて、「この子の演技上手いなあ〜」と思う時、その称賛の対象はどこでしょうか? フィクショナルキャラクタでしょうか? パーソンでしょうか?

 

 いえ、どちらでもありません。もとい、どちらでもあります。それらは分割される以前の、一個の状態で認識されます。

 

 西田幾多郎純粋経験や、主客未分という概念は有名ですが、それに似て私たちは、Vtuberにおいて、そのパーソンとフィクショナルキャラクタそれぞれのペルソナの、未分状態において、Vtuberを認識します

 

 私たちが、「この子の声かわいいなあ」「かっこいいなあ」「トーク面白いなあ」と思う時、私たちはそれがパーソンのものか、フィクショナルキャラクタのものかなどと、いちいち意識しているわけではありません

 

 「月ノ美兎トークが上手い」とか、「もちひよこはモデリングが上手い」とかは、完全に理性が後付けしたもの理性が言語化を要請された際にやむを得ず分解したものなのです*16

 

 要するに、視聴者は、中の人を蔑ろにしているわけではない、ということです。これは声を大にして言いたいし、みなさんに知ってもらいたい考え方です。

 

 私たちはパーソンを軽視しているわけではありません。フィクショナルキャラクタを楽しむと同時に、パーソンの魅力も、確かに、享受しているのです。

 

 そして、私たちが中の人を軽視している・無視しているように客観的には見えるのは、先に述べた、Vtuber-視聴者の相互的関係に端を発する、コンテンツの性質に引っ張られ、フィクショナルキャラクタという主語を用いざるを得ないからなのです。

 

 つまり、コンテンツの性質とは換言すれば界隈のタブーのことですが、そのタブーによって、我々は無意識的にか仕方なくか、「月ノ美兎は〜」とか、「ミライアカリは〜」といった発言をしていることが、客観的に見ると、パーソンを蔑ろにしているように見えてしまう、という実態があるということなのです。

 

 しかし、実際のところ、「視聴者は中の人の功績を認めていない」などということは、全くありえません。視聴者は、繰り返しているように、フィクショナルキャラクタを楽しむと同時に、パーソンを楽しむこともしているからです。

 

 

アニメとVtuber

 

 ただし、この考えをアニメに適用してみると、少し無理が生じます。アニメ声優は声のみを演じるからです。アニメにおけるフィクショナルキャラクタは、パーソンを伴いませんので、声以外の部分は独立して存在しています。ですから、アニメでは声以外の部分はフィクショナルキャラクタであると断言できるのですが、一方、Vtuberはパーソンとペルソナは基本重なっていますから、先ほどのような、パーソンとフィクショナルキャラクタの両方のペルソナを、分かたれていない状態で認識することが可能なわけです。

 

 アニメとVtuberコンテンツは確かに似ていますし、共通している部分も多いため、比較できることもよくあるのですが、しかしやはり、両者は別物なのです。

 

パーソン≒中の人

 

 ただ、勘違いしていただきたくないのは、ここで言うパーソンは中の人と同義ではありません。パーソンは「キャラクタを纏い、ペルソナをもって活動を行う何者か」を指すのであって、誰それという具体的な固有名詞を直接は指しません。すなわち、パーソンは演者を直接さすものではありません。

 直接は指しませんというのは、言語化の作業の過程において、もし視聴者がそのVtuberの演者を知っていれば、その主語は何某かではなくて、その固有名詞がそれに代わって主語になるだろうということです。

 

 例えば、絶対天使くるみちゃんの騒動*17では、彼女が個人勢であったこともあり、中の人は特定されず、彼女は便宜上、フィクショナルキャラクタの名称で呼ばれていました。しかしながら、もし彼女の別名義が発覚していれば、幾ばくかの人は彼女をその名義、すなわち中の人の固有名詞で呼んだに違いありません。

 

 混乱されやすいと思うので、みなさんには一度最初の「用語の定義」に戻っていただくことになるかと思われますが、要は、パーソン、中の人、演者では、それらが含む意味の領域が異なるということです。中の人は、パーソンと演者両方を指し得ますから、そこを指摘したわけです。

 

 つまり、先の考えは、あくまでも、Vtuberの身体の一つとしての中の人」と、ペルソナが一体となって区別されることなく認識される、ということを指します。

 

 そして、言語化の際に、もし仮にその思考の主が、「演者としての中の人」を知っていたとすれば、そのパーソンは具体化され、演者にすり替わるだろう、ということが、ここでの言いたいことです。

 

 

三類型への適用

 

 さてここで、こうした、Vtuber「心身未分」の考え方(と、おそれながら呼ばせてください)をもって、もう一度、冒頭近くでパーソンとペルソナによりVtuberを分類したⅠ〜Ⅲに立ち返ってみましょう。

 

 そうすると、あの類型は、パーソンとペルソナの区別を指すと同時に、両者の一体度をも指すものだということが分かってきます。具体的にはⅠの完全秘匿型とⅢの半秘匿型は、パーソンとペルソナが合致している度合が高いのですが、Ⅱの秘匿型は未分状態を維持しつつも、時折、明確にパーソンと言わざるを得ない部分が出現します。

 

 Ⅰの完全秘匿型はパーソンと言うべき部分が現れませんから、パーソンとペルソナは限りなく接近し、重なってさえいるのです。その結果、Ⅰでは、パーソンとフィクショナルキャラクタの、未分状態が維持されます。

 Ⅲの半秘匿型もまた、パーソンとペルソナが限りなく接近しています。Ⅲのタイプは時折にしかペルソナに触れませんから*18、基本的には未分状態が維持されていると言えます。

 ⅠとⅢの相違点は、言語化される際、パーソンとペルソナどちらの面から見られることが多いか、というところにありましょう*19

 

 以上のように、Vtuberは基本的にはパーソンとペルソナは区別できない状態が続きます。

 

 そして時折、それが崩れることがありますが、しかしそうしたものは、目くじらを立てて、「バーチャルなんだからしっかりしろ!」などと言わなければならない類のものではなく、あくまでVtuberとして存続しうる程度の表出であり、さらに時には、魅力を増幅させることさえあるのです*20。であるからして、Ⅱの例があったとしても、それは中の人を公表すべき根拠とはならないでしょう*21

 

 

(余談)界隈はトラブルの時だけ中の人に注目するという指摘

 

 少しだけ脱線させていただくと、「悪いニュースの時だけ中の人が注目される(されやすい)」という話がありましたが、せっかくなので少しこれについても考えてみようと思います。

 

 先ほどからの考え方に基づけば、視聴者はいつも、パーソンをも意識しているということになるので、各々がパーソンに注意していないことはありません。ですので、もしなおも問題にされるとすればそれはおそらく、「なぜ普段の姿勢に反して、トラブルの時にはVtuberの主語がパーソンになるか(なりやすいか)?」であると考えます。

 

 この問いにも、主題への解答と同じ仕方で答えられるかと思います。つまり、トラブル発生時には、視聴者はVtuberの主語を、タブーに縛られる必要が無くなるということです。

 

 視聴者がVtuberについて言語化する際、その主語がフィクショナルキャラクタの名称となるのは、視聴者がコンテンツの性質(=界隈のタブー)に配慮したり、無意識の内に縛られたりするからでした。ですが、その制約が効果を発揮する条件を外れれば、視聴者はもはや、タブーによってVtuberの主語を、フィクショナルキャラクタに限らずともよくなるのです。つまり、パーソンを主語にすることにも違和感が無くなるのです。

 

 そして、そのタブーが生まれた要因というのは、Vtuber-視聴者の双方向性、相互的関係にありました。それは、配信上や、動画、ツイートなど、視聴者からそのVtuberに向けられた情報発信においては必ず、悪意がない限り、守られてきたことです。

 

 しかし、「運営-Vtuberのトラブル」は、あまりに現実的で、なおかつ、何度も繰り返して申し訳ないのですが、ファンの入り込む余地は一切残されていません。そこに双方向性は欠片も無く、議論をするならばそれはVtuberコンテンツの領域ではなく、法律など、リアルな領域で行われざるをえません

 

 「法律などリアルな領域で行われざるをえない」というのはつまり、運営-Vtuber関係においては、フィクショナルキャラクタはもはや、そこに関知しないということです。契約を結ぶのは、フィクショナルキャラクタではなく、パーソンであるから、視聴者もまた、フィクショナルキャラクタより、パーソンを意識するようになることは当然のことです。

 

 そうすると、もはやトラブル関係においては、Vtuberの問題はそのコンテンツのお約束から外れざるを得ないのです。トラブルに関する議論に、タブーはその性質上、影響を与えません

 

 「そんなメタなことを私は思っていない」と思われる方もいるかもしれません。

 しかし事実、法律などと対面するときには、Vtuberコンテンツの夢に甘んじることはできないのです。Vtuberが法廷に立つとき、VtuberVtuberとして答弁が可能なのかといえば、少し難しいところがありましょう。

 

 このように、本質的な部分を論理的に話そうとすれば、パーソンが意識されてしまうことはやむをえないことです*22

 

 

 しかしもちろん、アズマリムなどの内部告発に対してのリプライは、(Vtuberが自らコンテンツの領域を超えない限りは、)フィクショナルキャラクタを主語とした応援が飛び交います。

 

 ですが一方で、本人との双方向性を期待しない場、例えばTwitterで個人的に呟くことだとか、ニコニコ動画のコメントだとかでは、中の人に触れられることがあります*23

 

 さらに、ユーザーがTwitterよりもさらに強い匿名性で覆われ、Vtuberに直接関係しようがない場、つまり例えば5ちゃんねるなどですが、そこでは主語は限定されていません。パーソンか、フィクショナルキャラクタか、それは時によってまちまちです*24

 

 このような例は、そもそも、フィクショナルキャラクタとパーソンは分離されない状態で認識されるという先の「心身未分」から考えれば、不思議はありません。

 

 つまり、私が以上に断片的に述べたことから何が言いたいかというと、Vtuberコンテンツの外、すなわちVtuberとの相互的関係がもたらすタブーが働かない場では、パーソンとフィクショナルキャラクタのどちらを強調するかは本来自由であり、その自由故に、ペルソナの関知しないトラブルの発生時においては、パーソンを主語にした発言が、法など現実的領域を適用する問題から、増える、あるいは目につくようになる」ということです。

 

 ですから、私なりの答えとしては、指摘のコンテクストを考慮してみると、Vtuber視聴者は悪いニュースの時だけ中の人に触れるというが、それは良い悪いではなく、問題の性質と、観測する場所によるだろう」ということになります。

 

 ただ、中の人を粗探しして演者を特定し、犯罪歴を徹底的に叩いた例は、犯罪者更生の観点などから問題であるとは考えますが、しかしそこは本筋と逸れ過ぎるので、また別の機会にします。

 

 

抽象的救済と具体的救済

 

 本題に話を戻します。視聴者は、フィクショナルキャラクタと同時にパーソンの魅力も受け取っている、という話をしていました。そしてまさしく、先のツイート主が言いたいのは、こういった「抽象的救済」であろうと考えます。すなわち、「普段から中の人のことも考えてあげようね」という主張です*25

 

 対して、今、「中の人を公表しよう」とおっしゃっている方々は、おそらく基本は予防策として、そしてトラブル発生時には特効薬となりうるような「物理的救済」、もう少し正確なものに言い換えれば「具体的救済」を望んでいるのでしょう。失礼に響いたら申し訳ないのですが、彼らの内にあるのは、「中の人を公表してくれさえすれば、いつでも私たちはVtuberを救える」という自負なのかもしれません。

 

 しかし、その具体的側面からの救済は、これも先ほど述べた通りで、悔しいところですが、運営-Vtuber間でしかありえません。クリーンな契約の締結、契約の確実な履行、協議による契約の見直し……。こういったことは、当然ですが、ファンの側からはできないのです。実際トラブルが起きてしまえば、ファンは見守るしかありません。それはVtuberだけの問題ではなく、どの問題でもそうです。言い方が少し悪いかもしれませんが、当事者以外が首を突っ込んでいい・首を突っ込めるトラブルはありません

 

 さらに、パーソンが軽視されているという見方についても、私は人々の視聴態度から、そうではないことを示しておきました。

 

 以上、若干話題が哲学的になってしまいましたが、これらが本稿のタイトルへの答えです

 

 

 

真に公表すべきもの

 

 さて、ここまでパーソンを公表することの是非について述べましたが、ここまで来ていざ問題としたいものがあります。それは、演者でも、ファンの姿勢でも、コンテンツの体質でもなく、運営の不透明性です。

 

 

ベターな運営像

 

 ハニーストラップは私の好きなグループですが、その運営は「灰猫ななし」といいます。彼女は運営としては珍しく、メンバーたちと同じく肉体(=イラスト、キャラクタ)を授かっています

 

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 彼女は、スケジュール配信など運営の仕事に加え、時折配信にコメントしたり、メンバーの運営への軽い愚痴に颯爽と現れたり、企画で配信に登場しリスナーとQ&Aをしたりなど、ほかの運営にはないフットワークの軽さ、柔軟さを持ち合わせ、さらにキャラも立っています。

 


【緊急枠】衣装リニューアル?!新衣装?!ななしー!!!!【周防パトラ / ハニスト】

 

 さらに、なかでも目を見張るのが、ハニーストラップのメンバーたちは自ら進んで、「ななしぃ!」と運営を話題にするというところです。しかも、かなり楽しそうに、です。

 これは間違いなく運営-Vtuber関係が良好であるということを指すでしょう。おかげで、視聴者も安心して推し事に励めるというわけです*26

 

 こんな運営が愛されないわけがなく、かのユルサレン反省*27も、ななしたち*28には一目置いているようです

 

 

 だからなんだと言われるかもしれませんが。

 

 ただ、ななしたちまでは行かずとも、にじさんじCOOのいわなが氏やUpd8社長のたけし氏など、責任者自身が表に出て、なおかつコンテンツを視聴者と一緒に楽しんでいる姿というのは、かなり好感が持てるところです。

 

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 運営-Vtuber関係の本質が契約であることは変わりありませんが、しかし、運営が自ら発言できるということは、単なる想像ですが、疾しいことがない、あるいは少ないことを指しましょう。発信するということはそれだけボロが出る可能性も高くなるわけで、疾しいことが多ければ多いほど、積極的発言は出来なくなるでしょう。

 

 そうした印象から、積極的な運営の発言が評価されるのは当然だと考えますし、多くのVtuber運営さんにも、同じように(つまりまさにペルソナを持ったアカウントを持っていただきたいと思っています*29

 

 

運営の顔が必要な理由②

 

 また、このツイートにもありますが、世間一般として、よく見知った人の味方に付いてしまうことはよくあります

 

 

 運営の「顔」が見えることに大きなデメリットは無いでしょうから、Vtuber運営や責任者は、親しみの持てる運営になれるよう努力し、視聴者とのコミュニケーションを通じて、視聴者の視聴態度などを分析し、より良い運営が行えるよう努めて欲しいと考えます。

 

 

 

最後に

 

 さて、この記事もようやく終わりです。

 

 私は本稿で視聴者とVtuberに加え、運営とVtuberについても語りましたが、何も一昔前の「権力」への見方のように、私は運営を敵視していたわけではありませんでした

 

 それはおそらく、ハニストのあの、運営との信頼関係を見ていたということもありましょう。

 

 不透明性に良いことはあまりない、顔を持ったアカウントを持ってほしい、ということは述べましたが、私はそれを、さらに一歩進めます

 

 私はこう言いたい。

 

 Vtuber運営各位は是非とも、Vtuberとの信頼関係を築き上げてほしい理想をいえばハニストのように、仲睦まじく運営とふざけあう姿を見せてほしい

 

 冒頭、私は「Vtuberは日常アニメのようなものだと言ったことがある」と書きましたが、その趣旨はVtuberの醍醐味のひとつは、人と人との関わり合いにある」というものです。

 

 私は、楽しそうにVtuberたちが遊んでいるところが見たいです。切にそう願っています。もちろん、運営とVtuberもその例外ではなく、私たちに、その仲の良さを是非見せつけていただきたいと、そう思います。

 

 

 

 

みれロアはいいぞ

 

 あ、関係ないけど、みれロア最高なので是非観てください。

 

 

 

 

 

 

 

 ハニストも最高だけど、みれロアもいいぞ!

 

 

  おわり

 

 

 

*1:先日株式会社unlimitedから発表があり、前向きに協議を進めていくとのこと。→さらに4/11に、同社から活動を続けていくことが宣言されました。

*2:そもそもパーソンとは何かというのは、こちらの記事を参照していただくほうが早いのですが、なにぶん少し学術的なので、簡単に説明します。筆者はVtuberを分析するにあたり、使いやすい概念があったほうが良いであろうと考え、Vtuberを構成する三つの部分を挙げます。中の人を指すパーソン、Vtuberの設定などを指すペルソナ、Vtuberの画像、俗には「肉体」と呼ばれるキャラクタの三つです。非常に便利なので、私は以下でもこれを使っていこうと思います。

*3:ただしパーソンについての立場は読んでいただければ分かる通り、異なるものです。

*4:演者もパーソンとして扱えることはたしかだが、ここでは人そのものを指すものとして扱う

*5:とは言いましたが、パーソンの定義上、それを一切出さないというのは不可能でしょう。たとえば竜胆尊は酒に強いことで有名ですが、その「酒に強い」という性格は、竜胆尊のペルソナであると同時に、竜胆尊のパーソンの表出でもあるといえるでしょう。これがすなわち、後に言うパーソンとペルソナの重なりです。

*6:正確にはビーrと思いとどまっていますが。

*7:例外としては千代家ぷりりがキャラクタを持たずに活動していたことがありましたが、今は彼女もキャラクタを獲得しています。

*8:企業に所属するVtuber。注目される騒動は多くの場合、この企業=運営と、その契約関係にあるVtuberの間で起こる。企業Vtuberに対して、名取さな等、個人Vtuberも存在する。

*9:ご注文はうさぎですか?』の略称。大本である原作は漫画ですが、今回はアニメ版のごちうさを提示しています。

*10:ごちうさの登場キャラクター

*11:ココアの声を務める声優・佐倉綾音の愛称

*12:もちろん、具体的・個別的に見れば、各々の問題の性質が全く異なっていることは理解しています。特に牡丹きぃは最近また姿を見せましたが、そこに起きたトラブルについては未だに疑念が晴れず、さらには、運営、Vtuberのどちらが元凶かもはや分からないほどに、問題が複雑化しているようです。しかし、この場合もまた、中の人の公表で問題が解決するわけではないということだけは言えるでしょう。

*13:ただし、多数に求められたり、議論の場が世間に移ってしまった場合は声明を出すことはあるとは考えます

*14:法学用語です。一方の利益ともう一方の侵害の度合を比べるものですが、ここでは単純に利益の比較くらいの意味で用いました。

*15:念のため脚注にて繰り返しますが、この章は声を上げるなという意ではなく、中の人を公表する根拠にはならないという意であります。もし中の人が自らコンテンツの外側に踏み出し、置かれた状況を告発したならば、それはすなわち中の人に為す術が無くなったということでしょうから、私たちは運営に、事実説明の必要性を訴えても良いでしょう。多数の声が集まれば、運営も声明を出さざるを得なくなるでしょう(ただ、そこで審判を下すべきではありません)

*16:同じようなことが、参考記事では「三層理論」として紹介されていますし、未分状態もまた「バーチャルユーチューバーはペルソナとパーソンが一体となって認識される」と指摘されていますので、併せて参照いただければと思います

*17:Vtuberが爆発的に増え、個人勢も同時に増加したころ、彼女がTwitterアカウントを乗っ取られたことに始まる騒動。近親者との人間関係においてトラブルがあり、当時人気だった絶対天使くるみちゃんはそのTwitterアカウントやYouTubeチャンネルを削除されてしまった。概要はこちら

*18:それも、思い出したように言うのでそこも面白いですよね

*19:これが前の脚注にも述べた、参考記事にて取り上げられる、「ペルソナとしてのバーチャルユーチューバー」、「パーソンとしてのバーチャルユーチューバー」だと私は理解しています。

*20:では存続できないほどと思われる致命的なミスはどうか。のらきゃっとの痛ましい事故は悲しくも有名になってしまいましたが、のらきゃっとはあの事故を乗り越え、今も活動を続けています。中の人が判明してしまったとしても、そのショックを上回る魅力がのらきゃっとにあったということでしょうが、おそらく生半可なVtuberなら、笑い者にされ舞台から姿を消していたことでしょう。中の人が露呈することは、良い結果をもたらすこともあるかもしれませんが、それより遥かに多く、悪い結果をもたらすことになるでしょう

*21:わざわざⅡを区別したのは、これを言いたいがためです。しかしⅡはⅢに還元できる性質のものなので、他にも言いようはあったと少し反省している点ではあります

*22:しかし、だからといって、中の人としてのアカウントに直接リプライを送ったりして良い理由にはなりません。この考えをその正当化に使ったりはしないでください。彼らにとって、Vtuberとは別なアカウントは、プライベートとしての聖域です。彼らはまさしく「ペルソナ(=仮面)」を被っているわけで、それを外して寛げる空間が、プライベートなアカウントです。問題がパーソンのものだとしても、その平穏に踏み込むようなことは、どうかしないでください。ある人は、トラブルの渦中にある人のプライベートを追いかけ、話を聞こうとするマスコミを批判しますが……酷な宣告ですが、それと同じようなことではありませんか?

*23:ただ、Twitterは少し例外のように感じていて、そもそも、今まで申し上げた通り、Twitterなどは本来タブーは及ばないはずなのですが、Twitterユーザーは別に強制されたりすることなく、主語をフィクショナルキャラクタに限定します。これはおそらく、コンテンツの延長としてTwitterを利用しているからでしょうが(というのも、Vtuberが利用しているのもまたTwitterだからでしょう)、しかし彼らでさえも、みなさん自身の経験に照らしてくだされば頷いていただけると思うのですが、ペルソナの関知しない問題に関しては、パーソンを主語にすることが往々にしてあります。

*24:不要かもしれませんが注意しておきます。5ちゃんねるのVtuberスレッドを覗くことは、やめたほうがいいと思います。純粋にVtuberを楽しんでいる多くの方々には、個人的にあまりおすすめしません。フィクショナルキャラクタから逸脱したパーソンの部分を知ることは、コンテンツを楽しむ気持ちには毒だと、個人的には思いました

*25:これが、演者について積極的に触れ、発言していくべきという趣旨ではないことを祈ります

*26:ハニストの他にもこういった点は見当たります。私の見ている限りでは、にじんさんじライバーの「いちからぁ!」や、湊あくあのホロライブ運営爆破などがそれでしょうか

*27:Vtuber界隈の神絵師。正体は不明だが、本人は詮索しないでくれとのこと。タグなどは一切付けず無言で画像を投稿するが、それでもその「いいね」数は多くの絵で1万を超える。

*28:灰猫ななし、あにまーれの黒猫ななし、ブイアパの銀猫ななしのほか、多数のななしが存在するといわれている

*29:運営に関わる者の名前を出せという主張を見かけました。トップの名前なら分かるのですが、もし全社員を指して言っているなら「ええ……」という少し呆れたような感想を持ちます……。しかしあえて答えるとすると、それもまたVtuberコンテンツの複雑さに関わってくるように思いますし、また同じ論理ですが、社員名が公表されたからといって、根幹の部分は解決されません。それに何より、不正確な情報が氾濫したとき、個人情報を公開された社員たちが一体どんな目に遭わされるか。考えただけでもゾッとします。

ルールとか罰則とかの話と、過去に勝手に頓挫した一つの提案

 

 以下の記事は、3月の頭に書き終わったものの時期を逃し、発表し損ねていたものです。

 3000字程度のものなら躊躇いなくお蔵入りにするのですが、加筆修正を加えているうちに文字数が10000を超えてしまい。ボツにするのも勿体ないということで、ひっそりと投下することにしました。

 

 本文に移る前に、念のためお断りしておきますが、私には、この記事で取り上げた2つの問題を蒸し返すような意図は、全くありません。各々の問題は、それ自体は解決したものであります。

 また、私はその問題自体に対して問題提起をしているわけではありません。

 主題のきっかけとして、そしてあくまでも、例えとして、つまり主題の理解の助けとして問題を取り上げているわけであり、さらに言えば、その問題に対する意見はあくまでも添えられたものであって、本筋である主題は別にあるのです。

 そのことを、読者のみなさん、どうかお忘れなきようお願いいたします

 

 

 

 

 

 

 

 

 とらじぇでぃです。

 

 いやはや、昨今のシャドバ界隈*1はひどい荒れ模様でしたね。

 

 特に大きな問題となったのは、アマチュアチームRovの除名問題*2や、同じくアマチュアチームのVOPメンバーの不正問題を発端とする一連の騒動*3でしょうか。

 

 私はこれらについて、タイムラインが騒ぎになっても話題に触れないよう意識しておりましたが、全く関心が無いわけではなく、まず私がアマチュアチームのリーダーでありメンバーが大好きであって、彼らを守る努力を尽くそうと考えているため、そういったいわゆる炎上の動向やパターンを分析しておくことは多かれ少なかれ役に立つであろうこと、また、悲しいかな、私の内にある知識欲と野次馬精神が騒ぎ出してしまって、暇なりに勝手に手が調べだしてしまうため、私は「無関心です」とはいられなかったのです。

 

 という私の事情はどうでもいいでしょうが、そうした不安定なこの界隈に、秩序を与えるためにはどうすればいいか、少し考えたところ、そもそも「ルールとは何か」から話を始めたほうがいいのではないかと思い始めました。

 

 そういうわけで本稿では、①ルールとは何か、それに伴う②罰則とは何か、①と②を基に話を進めていく③シャドバ界隈への適用、そして最後は私が1年ほど前に考えたが半ば諦めていた事柄に関する、④シャドバ界隈における権力、の4つを扱います。

 

 といっても、私がオリジナルに考えたことなどほとんどありません*4。人文系の本を読む方なら知っていて当然のことばかりでしょう。ですが、そうでない方ならきっと得るものがあるはずです。フランシス・ベーコン*5という人は「知は力なり」と言いましたが、ある程度の知識は視野を広げてくれます。

 

 また、書くにあたって、蛇足と思う箇所は脚注に放り込んでおきました。この記事を読んでさらに暇がある人は読んでみてください。

 逆に時間の無い方は、この記事を読むのを辞めるか(笑)、あるいは③のシャドバ界隈への適用から読むと良いと思われます

 

 目次

 

 

①ルールとは何か

 ルールとは何か。あまりにも漠然とした問いですが、頑張ってみましょう。

 

 まず、ルールの存在意義、次にルールと付き合ううえでの注意というように展開します。

 

 さて、物心ついたときから、私たちはルールに触れていますね。一番最初は、家庭内のルールでしょう。たとえば、「使ったおもちゃは元の場所に片づける」とか、「食事の前にはいただきますと必ず言う」とか。

 

 そして次に実感するのは、学校の校則でしょうか。「〇〇時〇〇分以降の登校は遅刻とする」とか、「試験の不正行為は停学または退学処分とする」とかがそれです。

 小学校ならば、同時に「信号は守らなければならない」などの社会上のルールも学ぶことになるでしょう。

 そして社会に出れば社則というものも存在します。

 

 そして、規範のおおもとになる法律も見過ごせません。

 たとえば刑法では、「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。*6」となっていますね。他にも民法や商法などの大きな括りの法律から、〇〇に関するなんたらかんたらといった特殊な法律まで様々なものが存在しています。私たちはこれらに従いながら、日々を送っています。

 

 こんなルールに対して、面倒だとか、なければいいのにとか思ったことが、誰しも一度はあるでしょう。ルールというものは、私たちに制約を与え束縛するものです。いわば、自由を制限するものであります。それでも、私たちはそれを守らなければなりませんし、実際、私たちはそれを許容して暮らしています。それが何故かといえばもちろん、そこにはそうするだけの理由があるのです。

 

 では、その理由とは? なぜルールは存在するのでしょう? その存在意義とはなんなのでしょうか。

 

 言うまでも無いでしょうが、それは私たちが平穏に暮らすためです。ですがこれではあまりに抽象的で大雑把ですので、一度個別的に見てみます。

 

 上の例に立ち返り、まずは家庭内のルールを参照します。

 

 「使ったおもちゃを元の場所に片づける」というのは、生活空間を清潔にしておく、つまり秩序だった空間に維持することを目的にしているでしょう。片付ける習慣をつける意味もおそらくあるはずです*7

 

 「食事の前にいただきますと必ず言う」というルールには、宗教的慣習的ニュアンスがありますね。そこに、食物に感謝するという意図があるのはみなさん知っての通りですが、小児がそういった意図を知りながら、そうしたルールに従っているかと言われれば、おそらくそうではないでしょう*8

 

 次に校則に移ります。

 

 遅刻の存在は、集団行動を余儀なくされる学校生活においては致し方ないことでしょう。一人の遅刻は全体の動きを止めかねませんし、登校時間が定められていなければスケジュールを組むことも難しくなります。「高校生程度なら主体性も備わっているだろう」という意見についてはデータが無いのでお答えできかねますが、学校が社会へ人間を送り込むシステムである以上、小中高にはあって然るべきルールだと考えます。

 

 また試験の不正行為というのは、公平公正を保つためには絶対に許してはならないことです。例えば高校では、その不正行為で誰かの推薦が消えてしまったなんてことになれば洒落になりませんし、中学校では評価が入試に直接影響します。多くの人が公立にあがる小学校は、その予行演習といえましょう。入学試験本番は論外です。絶対に許容してはなりません。これは間違いなく皆さん同意してくださるでしょう。

 

 そして、「信号は守らなければならない」は、安全上当然のことです。赤信号で横断歩道を渡れば、死んでしまっても文句は言えません。

 

 法律については言わずもがなでしょう。

 

 以上のように、ルールは全体の公平性や、個人の利益のためにあるのですが、興味深いのは、ルールは決して鵜呑みにしてはならないということです。

 

 該当ツイートは削除されているようなので直接引用はできませんが、一年ほど前、赤信号で横断歩道を渡ったことを、「人間が信号のためにあるわけではない!」といった趣旨の文言とともに堂々とツイートした、大阪大学大学院の刑法教授が炎上したことがあります。

 その内容はたしかに反感を買うもので、私も感情的には少しムッとしましたが、「法律に盲目的に従っていてはいけない」というごく一部分のメッセージを抜き出せば、それは頷けるものです。

 

 ルールには根拠が必要です。そのルールが本当に正しいのか、存在する意味が本当にあるのかなどは、普段から考えねばならないことです。

 

②罰則について

「まだシャドバの話にならないのか! 勘弁してくれ!」という方、申し訳ない。ですがこれも必要な話なので、もう少し辛抱してください。

 

 ルールがあれば、罰則があります。なぜなら、罰則がなければルールを強制的に人々に守らせることができなくなるからです*9

 

 法律でいえば、それこそ先ほど挙げたような、殺人罪への死刑や終身刑などが罰則にあたります。校則でいえば、不正行為への停学・退学処分などがそれです。

 家庭内なら、よく海外コメディーでは門限を破った子に対して「一週間外出禁止!」など親が言い放っているものですが、まあそういった類ですね。

 

 こうした罰則は、禁止された規定を侵させないための抑止力となっています。

 

 ところで、こうした罰則に共通点があることにお気づきでしょうか。

 

 そう、それは権力です。

 

 法律の罰則規定を実行するのは、裁判所といっていいでしょう。刑事裁判では、彼らは裁判を経て罪を精査し、論理的に然るべき罰を被告人に加えます。裁判所というのは、司法という巨大な権力です。その決定には、多くの場合従わざるをえません。

 

 校則を侵した際の罰則は、学校が加えます。この場合、退学という処分が一般的に考えて一番重い罰になるでしょう。そしてその学校という組織もまた権力です。そこに所属している以上、多くの場合その権力の決定は絶対です。

 

 家庭内ではどうでしょうか。この場合、を権力の持ち主とみなせるでしょう。親は上記2つのような罰を頻繁に与えるわけではないでしょうし、家庭によっては完全に放任であるとか、逆に親が厳しくてなんでも口出しをしてくるとか、様々な差異があるでしょうが、親を権力とみなすこと自体に不思議はないと思います。

 もちろん、子は望んでそこに生まれ出たわけではないので、親に権能を与えるのは無理があるとおっしゃる方もいるかもしれませんが、家族は少なくとも成人の手前辺りまでは同居するでしょうし、同じ生活集団にルールが生まれるのは当然のことで、その強制力もどこかにある必要があるのです。そして、その強制力は保護者に帰せられるのが合理的でしょう*10

 

 このように、罰則を遂行するとき、その組織には権力が存在しています

 

 ではなぜ、権力が必要なのでしょうか。

 

 その大きな理由の一つは、復讐を防ぐためです*11

 

 法律の大原則の一つに、自力救済禁止の原則というものがあります。

 

 自力救済とは、司法手続(裁判とか)を経ずに、自らの実力をもって権利の回復を図ることです。

 

 例えば、貸したお金がいつまで経っても返ってこないから、力づくで相手方の財物を奪い取るとか、家族を殺されたから、殺人犯を殺してやるとかがそれです。

 

 こういうものは、世間一般には復讐と名付けられています。

 

 復讐は簡単にスパイラルに落ち込みます。

 それを防ぐためには、公権力が絶対的で強大な力を持ち、個人の代わりに報復を行うことが必要だと、先人たちは考えたのです。

 公権力への復讐は個人単位では不可能ですし、そもそも、社会機構の中に囚われている人にとっては、公権力への復讐など思い浮かびさえしないでしょう。自力救済の禁止は、そういう意味で理にかなっているのです。

 

 

③シャドバ界隈への適用

 さて、お待たせしました。シャドバ界隈に少し目を向けてみましょう。

 ルールと罰則をめぐって揉めごとになるケースは今までもいくつかありましたが、そのうち、Rov、VOPの2件を考察してみます。

 

 まずはかのRovの騒動。私が把握している限りの詳細は冒頭の脚注を参照してもらいたいのですが、この騒動では「そんなことで除名していいのか」など、除名の条件をめぐっての批判が数多く巻き起こりました

 

 説明するまでもないと思いますが、除名というのは、アマチュアチームがそのチーム内からメンバーを追放することです。

 

 これは、先ほどの例でいう学校からの退学処分と条件が類似しているといえます。「入学した時点で校則には同意いただけますよね? 順守していただけないのなら罰則を与えて守らせるまでです、気に入らないのならやめていただいて結構」ということです。基本的には、その姿勢は間違ってはいません。

 

 ですが、Rovの件で、件の訴えを目にした人の中では、おそらく誰も、「上の決定だから従え」と主張するものはいなかったでしょう(そう信じたい)。

 片方の主張だけでは意見ができないとする慎重論か、話し合いが足りなかったのではないかといった分析、タメ語といってもかなり酷いものだったのではないかなど想像力を働かせた憶測が大多数だったはずです。

 もし訴えが事実ならあまりに理不尽であると、誰もが思ったからでしょう。

 

 除名というのは誰がするのか、といえば、みなさんは「リーダー」とか、「運営している連中」とか、そういう風に答えるでしょうが、しかし、それは単なる実行者の名称であります。その除名という効果を発動させるのは、ルールであるはずです。そしてそのルールが納得のいくものでない、すなわち非合理的なものであるならば、それは無効とすべきでしょう。

 

 ところで皆さんの中には、「他所のチームは他所のチームだ、口出しすべきではないのでは?」とおっしゃる方もいるかもしれませんが、それは違います。そういった立場を相対主義といいますが、それには限界があるのです。

 

 たしかに、ウチはウチ、他所は他所としてしまえば楽なのは間違いありません。他人を批判する必要がなくなるうえ、他所から批判される恐れも消滅するのですから。

 

 しかし、例えば国同士では、他国は日本の死刑制度やクジラ漁を問答無用で批判します。死刑制度は我々の価値観からすると少し理解しづらいところがありますが、未開の民族が惨い拷問を行っていることを想像すればいいのかもしれません。もしそうした事実があれば、我々は人道主義の名のもとに、それを止めざるを得ないでしょう。また、クジラは地球の海洋資産のひとつで、数が少なくなっているとなれば、日本は文化の一点張りで主張を通すことはできません。

 

 すなわち、相対主義では説明しきれない、普遍的要素も存在するということです。このように、相対主義は万能ではないのです。

 

 さらに言ってしまえば、先ほどから何度も申し上げている通りルールは合理的意義をもっていなければそもそも存在できないので、Rov運営側はこのとき、タメ語で発言してはならないというルールの存在理由を少なくとも当人には説明しなければなりませんでしたし、また、タメ語で良いと当人に言ったのにも拘らず、除名を行ったその訴えの真偽と、その判断理由も述べねばならなかったでしょう。

 

 結局、Rovは解散してしまったわけですが、この件を見てなのか以前からなのか、チームの公募に「除名条件」を載せるところがいくつか見受けられました。「応募の段階で除名の話をするのか!?」とも思ってしまいましたが、明文化によって不安材料を取り除くことはたしかに重要でしょう。ルールを理解してもらい、それから加入してもらうことで遥かにトラブルは減るはずです。もちろん、権力(=運営)がルールの上で権利を行使する前提でですが。

 

 ただ、私個人としては、除名というアマチュアチームの中では最も重い罰則をもたらすルールが合理的であったとしても、それは最終手段に留めておくべきという立場です。どういうことかといえば、極力様子を見るなり、話を聞くなりして、本人の意志を可能な限り引き出す作業が必要だということです。

 

 たまに、自分の世界の中で暮らしていて、それを外界にも投影してしまう人と遭遇します。おそらく無意識的に、他者の人格を決めつけてかかる人たちのことです。ドラマの記者などで、「〇〇さんは非常に苦労されてこの偉業を達成されたと思います、その途中で、辛かったことがあったでしょう、そのことについてお聞かせください」とかいったセリフがありますが、それです。一度判断を中止し、留保して、本当にそうか捉えなおす作業が欠けているのです。私はあなたではないし、あなたは私ではない。「あなたの気持ち、私は分かるよ」なんてことはあり得ないのです。

 

 さてVOPの問題に移りましょう。この件で問題になったのは、不正という行為そのものと、運営およびチームの機能についてでしょう。

 

 当然、不正は絶対に許されてはならない行為ですし、永久追放も視野に入れて考えるべき問題です。

 ですが、本人はこれからもシャドバを続けていくといった趣旨の発言をし*12、運営は不正の事実を公表する際、躊躇いがあったことをわざわざ付言したりと、首をかしげたくなるような発言をし*13、本人の所属するVOPは彼を除名せず、そのまま在籍させることを表明しました。

 

 私は正直驚きました。このまま彼は界隈に居座ろうと思っているのだろうか? 非公式アプリとはいえ、事実として実力の指標の一つとなっているRatingの運営がこんな態度でいいのだろうか? チームVOPが不正者を罰しないとするなら、その不正はチーム認可の行為とみられてもおかしくないが、それでいいのだろうか? そういった疑問が湧き上がります。

 

 同じような疑問を抱いた人は少なくなかったようで、まばらに声は上がりました。ですが、これも驚くことに、不正問題の炎上はRovの除名騒動より規模の小さなものだったのです*14

 

 大げさに聞こえるかもしれませんが、私はこの界隈はやっぱり駄目だったかと、幻滅せざるを得ませんでした。巷で騒がれる、二股とか、炎上商法と比べれば、遥かに危機感を覚えなければならない話題だと思っていたのですが。

 

 とにかく、私の立場は不正は断固として許してはならないというものです。試験のカンニングが駄目だと理解してるのに、非公式アプリのトス行為は許されるなどいうダブルスタンダードが通っていいわけがないでしょう。

 

 しかし、それでも擁護派が存在したとは、信じがたいことです。

 

 多かったのは、「不正は確かに許されることではないが、彼は実力を持っており、不正をせずとも首位をとれる力があった。彼を罰するのはやりすぎではないか」というものです。

 ここにはまさしく、実力至上主義の弊害が顕著にあらわれているといえます。つまり、彼らは、実力者がいなくなるのは勿体ないだとか、そういった理由で本人を擁護しているのです。ですが、不正を行ったものに実力があろうとなかろうと、不正は不正です。つまりルール破りの事実は変わらないのです。そこに罰則が伴わないわけにはいかないでしょう。

 

 「もうBANを食らった時点で制裁は食らっているし、これ以上非難を浴びせる必要はないのではないか」という意見もあったと記憶しています。

 たしかに、不正者*15はランキングから名前を削除されたのであって、その意味では制裁は加えられているのかもしれませんし、非難のなかでも罵詈雑言に近い類のものはただ自己満足で事件に便乗しているだけに過ぎず、許されません。ですが、一度不正を行ったプレイヤーが、すぐに復帰してまた競技に参加することがはたして許されるでしょうか。そして、みなさんはそれを看過できますでしょうか。客観的に言って、否でしょう。 不正者が自主的に活動を辞めないのであれば、何かの強制力が、彼を止める必要があると考えます。

 

 また、もう一つ、「彼を叩くのはやめよう、私刑は許されない」という意見もありました。たしかに、「叩く」が「罵詈雑言を浴びせる」という意味であればそれは同感だといえますが、「叩く」が「批判する」の意であれば、それは言論封殺に近い主張です。私刑という単語を使っているので前者だと解釈しますが、するとここで疑問が生じます。私刑が許されないというのは、先に述べた自力救済禁止の原則を示しますが、では一体、何が彼を罰するのでしょう?

 

 思い浮かぶのは、当のRating運営、VOP、シャドウバース運営、司法です。ですが、運営は不正者を擁護しており、一番その役目を期待されるVOPは然るべき処置をとらず、シャドバ運営には干渉する責任はありませんし、司法はまず法律にあたる要素を見つけられませんので動くことは当然ありません。

 

 困りました。状況を打破する権力が、どこにも見当たりません。

 

 

④シャドバ界隈における権力

 

 以上のように、自浄作用がきちんと働かないとすれば、クリーンな競技環境を整えていくことはこれから難しいでしょう。では、どうすればいいか。

 

 権力を作れば良いのです。個々のチームよりもう一段階上の権力があれば、トラブル解決に一役買うでしょうし、問題が起こることへのストッパーにもなり得ます。

 

 以下は、私が一年ほど前にふと思いついたはいいものの、実行するには程遠いと感じ、声を上げるには至らなかったものですが、この際提案してしまおうと思います。

 しかし、私はこれが実現できるとは思っていません。ただ、「こんなのがあればいいのになあ」という私の妄想だと思って読んでいただきたいです。

 

 さて、権力の樹立に必要なものは、おそらくマチュアチーム構成員全員の同意です。社会契約説みたいなものを想像してもらえればいいのですが、しかしそれは困難でしょう。

 

 ですが、アマチュアチームのリーダー全員に声をかけるのであれば、それでも困難は困難ですが、不可能ではないはずです。労力はかなりのものになりますが。そうしてアマチュアチームのリーダーに同意を得れば、それはすなわちその構成員からの同意を得たことになりましょう。

 

 そうした後、アマチュアチームのリーダーを集め、一つの組織を作り上げます。名前は何であっても良いですが、とにかくその組織が権能を持つこととなります。

 

 その組織が持てる役割は、トラブルの対処です。通常時、その組織内での雑談は行われず、あくまで公の場としての機能を持ち続け、そしてトラブルが発生し、その当事者間では問題解決が難しい場合には、組織が持ち込まれた問題に対して仲裁を行うのが理想です。

 

 ですが、組織内には、現在星の数ほどあるアマチュアチームリーダーが所属することになり、それ全体の多数決等による意思決定はかなり難しいものとなります。ですので、立候補で募った数人を代表として位置づけ、いくつかの任期で交代を繰り返すことことが最適な手段になるでしょう。

 

 つまり、私の思い描くイメージは、少し壮大ですが、国際連合のようなものです。全員が同意して加盟すれば、安全も図られ、また界隈のイメージをこれ以上低下させることも防げるはずです。

 

 もちろん、それ以外の役割として、対抗戦の募集などを行ってもいいかもしれません。先ほど述べた通り、雑談を行えるような雰囲気は避けたいので、何か掲示板のようなものを作り、簡潔なやりとりで対抗戦の日取りを決めると良さそうです。また、突発的な対抗戦であっても、ほぼすべてのチームに同時に声を掛けられるわけですから、開催の目途も立ちやすくなるでしょう。

 

 ただ、問題点は山ほどあります。

 

・権力が十分な強制力を発揮するためには、ほぼ全てのチームの加盟が必要

・チーム全てに声をかけることが困難

・アマチュアチームの中には加盟に十分なメリットを感じないところもある

・権力機構を作る意味を、全員にきちんと理解してもらう難しさ

・仲裁の決議に不備がある可能性

Twitter利用者の大半は学生で、十分な議論が交わされない可能性

・権力自体がルールを無視し暴走する可能性

・遊びに社会性の強いシステムを取り入れることで生まれ得る重苦しさ

・ 界隈に認知され権力として根を張るまでに途方もない時間がかかる

……などなどです。もっと考えればさらに出てくるでしょう。

 

 念のため繰り返しますが、私はこのアイデアが現実になるとは思っていません。ただ、もし誰か、界隈で発言力を持つ何名かが協力して、この考えをさらに具体化し、全体に呼びかければ、実現することも無きにしも非ずかもしれません。このゲームがこの先も続いていく前提での話ですが。

 

 

 

 さてみなさん、本稿で私の言いたかったことをまとめます。

 

①ルールは鵜呑みにしてはいけない

②罰則には権力が必要

③不正は断じて許してはならない

 権力の不存在

④権力機構樹立の提案 

 

 

 また、もう一度、念には念を入れて記述しますが、この記事は界隈の過去の問題を改めて考えようという趣旨では全くもってありません

 上にまとめたものが、この記事の主題であります。

 

 では、ここで書いた部分のどこかが、誰かの役に立てば幸いです。

 

 

*1:シャドバ界隈とは、インフルエンサーであるシャドバ実力者を中心としたTwitterコミュニティのことを指す

*2:Rovメンバーが数枚のスクリーンショットとともに「タメ語で話しただけで除名された」とツイートしたことを発端とする騒動。多くの批判が巻き起こり、Rov公式アカウントが声明を出すも焼け石に水。他何名かの脱退を経て、Rovはとうとう解散に追い込まれた。

*3:VOPメンバーの一人が、非公式アプリ「Rating for Shadowverse」の2pickランキングから突如削除。混乱の中、彼が不正を行っていたことが運営によって発表されました。それを受け、そのVOPメンバーは謝罪。しかし、その内容は不正という行為の謝罪にしてはフランクで軽く、またこれからも頑張っていく旨が表示されていました。さらに、不正行為については運営が発表するまで自白しなかったこともあり、物議を醸しました。そのうえ、問題となったのは運営の態度とチームVOPの対応です。運営は彼を糾弾するどころか、肩を持ち擁護するようなツイートを重ねました。これに対しては、不正を許してはならないはずの立場である運営がその態度なのはいかがなものかとの批判が見受けられました。VOPの対応というのは、不正したメンバーを除名等処分せず、お咎めなしでチームに在籍させたことです。これは後ほどリーダーの独断であったことが表明されましたが、これも非難に晒されると同時に、チームぐるみで不正をしていたのではないかなど、様々な憶測も飛び交いました。この騒動は不正をめぐるもので、何名かのインフルエンサーも言及していましたが、しかしあまり話題にあがっているようには感じられませんでした。声の大きい人物の多くがその不正をしたメンバーの擁護に走っているのではないかなどの推測もありましたが、とにかく話題に上りませんでした。しかし、火は消えるわけではなく、最終的にはVOPは改めて声明を出し、チームで話し合った結果解散を決めたと発表しました。

*4:そもそも、なんなら一生オリジナルの考えというものにはたどり着けないとも思ってます……

*5:16-17世紀、イギリスの哲学者。イドラという概念で有名ですね。

*6:刑法119条

*7:そうしてみると、社会を中心に家庭が回っているといいますか、家庭内に社会が侵食しているともいえそうですね。

*8:このように、ルールを守ってはいるがその意図を知らない状態は大人にもあり、これは少し危険に思います。たとえば著作権Twitterではしょっちゅう飛び交う単語になりましたが、その目的・趣旨(著作権法第1条参照)というのは文化の発展にあり、それを知っていればもう少し議論に深みが生まれるような気がするのです。

*9:無敵の人というのが一時話題になりましたが、彼らに対してはこうした罰則は無力です。そこへの対策もあればいいのですが、困難でしょうね……

*10:この記事を理解していただけたなら、この部分が虐待を肯定するものではないことが分かっていただけると思います

*11:これこそ完全に蛇足ですが、『暴力と聖なるもの』(ルネ・ジラール著、古田幸男訳、1982、法政大学出版局)は、冒頭で復讐、刑罰、供犠の関係について述べています。供犠はそもそも暴力の連鎖を止める役割をもっており、それは現代の死刑制度にまで受け継がれているのだ、というのが概要だった、と記憶しています。図書館で借りたのですが、2週間で読み切るにはあまりに内容が濃く、挫折してしまいました。また読む気が起きたら読んでみます。また、これを参考に書かれた『エロティシズム』(ジョルジュ・バタイユ著、酒井健訳、2004、ちくま学芸文庫)も面白いので是非。

*12:シャドバを続けること自体は、もともとシャドバが一人対不特定多数からランダムに選ばれる一人と戦うという性質をもつため問題ないかもしれませんが、「今後はまた誠実な態度でShadowvereseを楽しみたいと思います。」と呟くことは、反省の色が全く見えないと言わざるを得ませんし、本人が罪の重さを自覚していないと判断されても文句は言えない内容だったといえましょう。VOPが解散し、また相当な非難も浴びたでしょうから、追い打ちをかけるようなことを言うのもどうかと思いましたが、当時の状況を残す意味でも記述しておくことにします。

*13:いな@GameBox (@yuki_inaba44) からの引用「非常に悩みましたが、2pickレートの件について情報開示します。」(画像添付)(2019/2/25)、「レートアプリを開発したのは、シャドバプレイヤーが活躍できる場を増やす為であって、減らす為ではない。今後もし彼がRAGEやJCGで活躍したらそれは素晴らしいことで、賞賛されることだと個人的には思っている。」(2019/2/26)

*14:主観ですが、たしかに発言数やTLへの話題への上り方は、不正問題のほうが少なく感じました。同じような発言が、数人からあったことは確認しています(彼らも主観であることは変わりありませんが……)。

*15:不正者という日本語はないようです。ここでは不正を行った者の省略形として使っています。