シャドバ新環境初日
どうも、新パック前にょぅι゛ょカードについて触れた方が良かったなと若干後悔してるとらじぇでぃです。
さてさて来ましたシャドウバース新パック、「鋼鉄の反逆者」!
まずはパック開封。
36パック。
いざ尋常に……。
見た目ゴールドで嵩まししましたけど、レジェ5なのでけっこう良い方ですね。グラブルの10連が渋すぎた反動かな?笑
そして今回から実装されたギルド機能。
上限30人、仮にBABELメンバー28人全員が加入してもなんとかなりそうということで、BABELのギルドも立てることにしました。
なんて書けば良いのか、寝起きの頭じゃ考えられなかったのでとりま「ょぅι゛ょ」にしておきました。エンブレムもさっき当てたょぅι゛ょです。
基本は対戦募集など用意された機能を活用する場になりそうかなと思ってます。
あと、興味があるのが既存のチームとこのギルドとの関係で、他のリーダーさんがどのような認識でいるのかなど気になるところはいくつかありますね。
ウチはというと、現時点では、ギルドは補助的ではあるけれど、あくまでもチームとは切り離された集団として扱っています。つまり、たまたまBABELと構成員が被っているだけの集団みたいな認識ですね。
その証拠に(?)、元メンバーのるあも、所属チームの了承を得てギルドにやって来ました。
これも、もしギルドとチームを同一視していれば出来ないことだったでしょう。
さて、新カードですけど、モチベがグラブルに吸われているなうな感じもあって、あまり熱心に眺めていたわけではないんですが。ビショップのリモニウムとかいう元素みたいな名前の子は面白そう……。コスト踏み倒しはシャドバではほぼ必ず暴れてるし……。
でもいかんせん、下げる先がそんなに強くないよね……っていう……。
どうなのか一回使ってみませう。
もし「聖獅子の方が強いやんけアホ」ってなったらローテ見捨ててまたアンリミ回しに行く。
急いでこしらえた機械ビショ。チェキババは砂時計と亀が落ちてアミュレット群がちょっと弱いかなと思ったので、ラピス軸で行くかと思ったけど、引けないときさっさと轢かれて終わりそうな気もしたので結局天狐です。
10戦くらいやれば十分かな……?
と思ったのですが、勝てなさすぎて途中で死亡。
ラピスに切り替えてみます。
……5連敗。
とらじぇはブチ切れてグラブルに逃げたとさ。
…………しかし、グラブルも熱が冷めたのか、あまり打ち込めず、結局シャドバに戻ってきました。
組んだのがこれ。
機械ミッドレンジ。
完全にリモニウム引けるかどうかのデッキになってしまったけど、楽しさは一番かも。
これも微妙ってなりそうですけど、とりあえず、しばらくはこれでやってみます。
『笑い』で考える厨二病
私は昔、厨二病という言葉が大嫌いでした。当時中学生の私に、なぜ、と問うても答えは返ってこなかったでしょうが、突如として友人たちの間で流行り始めたその言葉が、心に秘めた、私の空想の世界を刈り取ってしまうように思えたのはたしかです。
つまりは、まさしく、中学生の頃の私はその厨二病だったのでしょう。いや、今もそうなのかもしれませんが、それは私の知るところではありません。
ともかく、私は厨二病という言葉が嫌いでした。大げさに言えば、精神的負荷さえ感じました。
私には、自分を悩ませたり、攻撃してきたりするものについては、それについて考え込むことで解決しようとする癖があります。一種の防衛反応のようにも思えますが、その時も私はそうで、「厨二病とは何か」、「なぜ笑われ、馬鹿にされなければならないのか」についてずっと考えこんでいました。
しかし、大した思考材料もない中学生に結論が出せるわけもなく、せいぜい、「厨二病自体は悪いことではない」と、ある意味(つまり私は自覚していませんが)、自分を弁護することで精一杯でした。その後、時が流れるにつれ、私の厨二病という言葉に対する興味も段々と薄れていきました。
さて高校に入り、倫理を学んだ私は、哲学に興味を持ちます。
いくつかの哲学書を読みましたが、一番衝撃を受けたのが、高校3年の終わりに読んだ、アンリ・ベルクソンの『笑い』という本でした。
ベルクソンという彼自身は言わずと知れた哲学者ですので詳しくは書きませんが、『笑い』は文芸誌向けに書かれたというだけあって、他の本よりも内容が理解しやすかったように思います。そしてその本こそが、厨二病という言葉を解する大きな手掛かりになると確信したのです(ちなみにこの時受験真っ只中です、何をしているんだ過去の自分……)。
さて、今まで厨二病厨二病と連呼しておいてなんですが、今後のために今一度、その語の意味についてざっくりと振り返っておきましょう。
厨二病とは元来中二病と表記され、主に思春期に発生するもの、とされるようです。内容としては、みなさんご存知の通りですが、思春期の子どもの身の丈に合わぬ振る舞いなどが当てはまります。
言葉というものはそもそも定義付けに先立つものでしょうが、そのうえネット上で流布するとなると、言葉はどんどん意味が大きくなる傾向にあります。厨二病という言葉も例外でなく、その意味内容は自虐から、揶揄に使われるものへと変わりました(と、Wikipediaにあります笑)。
そして厨二病という概念は、ネットユーザーにとっての一般常識となります。
そのネットに根ざすアニメやライトノベルにも厨二病は現れ、キャラ付けの一ジャンルとも化しました。有名な作品で思いつくのは、『ラブライブ!サンシャイン!』の「津島善子」や、『斉木楠雄のΨ難』の「海藤瞬」などでしょうか。『中二病でも恋がしたい』など、厨二病をタイトルに据えた作品もありましたね。
創作が売れるために必要なものの一つは、受け手の共感です。ですから、こうしたタイトルが成功していることを見れば、厨二病というものが多くの人に、共感や、そうでなくとも何か引っかかりを与えていることは確かです。
そして思うに、人の共感には、根底に共通項が必要です。対象と同じ、あるいは近しい経験や、それを想起するに十分な背景がそれです。つまり、そういった作品に触れる多くの人には、程度の差はあれ、過去にそういった経験がある、ということが言えます。
これはまた、ネットで厨二病という概念が常識となったことにもいえそうですね。といっても、それは常識となりうる頻度でその語が使用された、その動機に依るので、その説明となりそうな事項は後ほどの紹介になりそうですが。
それはさておき、では、厨二病とは何から生まれ出たものなのでしょうか。
またWikipediaを参照することを許して欲しいのですが、どうやら自己顕示欲や承認欲求によるところが大きいという見方があるようですね。私も同意見で、そういった欲求を満たすための虚栄心が根底にあると考えます。厨二病を「他人からよく見られたい」という感情に還元すれば、分かりやすいのではないでしょうか。それが空回り、奇異な目で見られてしまうというのは皮肉なことです。
では、もう一つの問いである、「なぜ厨二病は馬鹿にされねばならないのか」について考えます。これこそが、この記事の本題です。
この問いを解決するために、私は『笑い』を使いたいと思います。
『笑い』は、笑いそのものを考察した本です。帯にはこうあります。「笑いのツボを哲学する。/おかしさはどこから生まれてくるのか?」
ベルクソンはこの本の中で、笑いが発生する3つの要因を挙げました。人間的であること、無感動であること、他人との接触が維持されていることの3つです。
一つ目の人間的であることとは、対象が人間であっても、そうでなくても、それに人間的なものを見出さなければおかしさは生まれないということです。
後者が分かりにくいと思うので例を出すと、二足歩行で歩く猫だとか、段差で躓いて助けを求めるロボット掃除機といったものがそれです。
二つ目の無感動であることとは、その対象への感情移入が全くないことです。
みなさん、一度、自分が笑う時を思い起こしてみてください。そのとき、相手への同情の気持ちであるとか、怒りの気持ちであるとか、そういった感情はあるでしょうか。いや、ないでしょう。もし、対象になんらかの気持ちを抱けば、笑いは途端に絶えるはずです。
これも例を出しましょう。サラリーマンが段差に転んだところ目撃すれば、あなたは顔にこそ出しませんが、内心苦笑するでしょう。しかし、実は彼が先日不慮の事故で片足を失い、不慣れな義足で懸命に歩いていたことを知れば、きっと笑いは起こらないはずです。
三つ目の、他人との接触が維持されていることとは、つまり、内輪でしか笑いは発生しないことを意味します。
例えば、高校の友人同士で昔の担任について話し合えば、自然に笑いが生まれることもあるでしょう。しかし、レストランで隣の席から聞こえる誰かの、見ず知らずの担任の話では、クスリとも笑えません。
また、ベルクソンは、笑いは社会の要請であるとも言います。
つまり、笑いは社会的な価値観、固定観念、言い換えればマジョリティの持つ考え、すなわち「常識」によって、発生するということです。
そしてそうした笑いは、法をもって罰するには値しないまでも、社会的に見て有用で無かったり、非効率的であったりする、言ってみればのけものに対して発揮されます。
笑いは屈辱を対象に与えることで、軽い罰を与え、そうしたことをこれ以上行わないよう、釘を刺すように、対象を縛り付け、枷を付け、そして対象が社会に適合した人間になるよう矯正する、というのです。
そうした説明もありながら、彼はいくつもの例を挙げつつ、笑いについての考察を進めていきます。
笑いを生むおかしさはひっくり返し、繰り返し、系列間の相互交渉の3類型によって生まれるとか、笑いは対象の硬直性が引き金になるとか、さらには創作にまつわる話まで。
詳しくは説明しませんが、とにかく大変興味深い内容でしたので、みなさんも一度読んでみると良いと思います。おすすめです。*1。
そして最後を飾るべくして登場した概念が、私が光明と感じた「夢想の論理」でした*2。その説明をしましょう。
ベルクソンはその具体例として、『ドン・キホーテ』の風車との対決を紹介します。
内容は知っている前提で進めますが、彼は自らを中世の騎士だと信じ込んでおり、風車が怪物であると確信しています。しかし、人々から見れば、中年が風車に突進していくようにしか見えないのです。当然、作中で彼は人々の笑いの種でした。
ここでベルクソンは、彼が自分を騎士だと信じて疑わないことに着目します。そして、それを夢を見ている人物に例えるのです。
夢を見ている人は、自分が夢を見ているとは毛頭思いません。
ドンキホーテもまた、夢を見ているかのように、自身は騎士以外の何者でも無いと考えているのです。
つまり、本来なら見たものが表象として認識され、観念として理解されなければならないものを、ドンキホーテは物語の中で見た観念を対象に映し込み理解するという、"通常"とはひっくり返った行いをしているのです。
みなさんもう気付かれているでしょうが、厨二病の人というのは、まさにこの、夢見の状態なのです。
ただ、井の中の蛙大海を知らずとは少し違います。彼らは無知だというわけではないからです。
ドンキホーテに、それは怪物でなく風車だと言っても、信じることはないでしょう。それどころか、激高するかもしれません。そうだと信じ込んでいるのだから、そこに説得を加えて屈服させることは不可能でしょう。
同じように、自身を堕天使だと発言する人へ、あなたは堕天使では無いと告げても、それが”改善する”ことは恐らくありません。
それがドンキホーテのように確信があるからなのか、それとも知ってはいるが、それを修正する気が起こってこないのかは分かりませんが。ともかく、彼らは無知なわけではないのです。なので、厨二病は外部から矯正することは困難と言えます。
フロイトを援用すると、彼も、精神分析を用いたノイローゼ患者の治療には、患者に自身の症状について理解させることが必要だと主張する一方で、ただ知識を伝えるだけでは駄目だと言っています*3。患者は無意識的に、治ることに抵抗するからです*4。
厨二病の人は夢を見ている。経験と結びつけて、納得していただける方も多くいらっしゃると思います。
夢見の状態は、社会の大きな枠組みから見れば、異質で、その仕組みから外れる存在です。
彼らには健全なコミュニケーションは少し難しいでしょうし、ともすると、その尊大な自己愛をもって他者を傷つけかねません。彼らは、ベルクソンの定義*5を当てはめると、彼らはまさに笑いの対象なのです。
「なぜ厨二病は馬鹿にされるのか?」は分かりました。では次に、「なぜ人々は厨二病を馬鹿にするのか?」についても考えてみましょう。
「厨二病が馬鹿にされる理由はドンキホーテで直感的には分かったし、厨二病は笑いの要件に当てはまっているんだろう? もう話すことはないじゃないか」とそう思われるかもしれませんが、私としてはここからが一番大事だと思っています。
何年か前、Twitterであるマンガを拝見しました。「あなたの作品を叩くものは、自分の過去を否定したいのだ」という趣旨だったと記憶していますが、これは当たっていると思います。
ベルクソンは『笑い』をアンチ哲学への反撃として書いた、とする記述を見たことがあります。哲学は今でこそ高尚なものとされていますが、昔は役に立たない学問だと笑われていたことがあったそうなのです。
そうしてみると、『笑い』は笑う人、あるいは笑いそのものへ疑問を投げかける書だとも解釈できそうです。そして、その文脈に組み込まれる「夢想の論理」はその意味でも、威力を発揮するのです。
夢というのは誰しもが見ます。私も、あなたも、あなたの友人もそうです。夢を見ない人はいません。そう、夢は厨二病の人だけが見るものではないのです。
ベルクソンは指摘します。人は笑うとき、その対象と自分は通ずるところがあるのに、笑いによって、その繋がりを遮断し、「俺はこんなやつとは関係ない、俺はまともな人間なのだ」とうそぶくのだ、と。
思い返してみてください。あなたは心の底から笑っています。しかし、そのあなたの心の奥の奥には、実は冷たいものが潜んでいる……。
思えば、喜怒哀楽の中に「笑い」というものは存在しないのです。私たちの笑い、それは実は、思いのほか空虚なものなのかもしれません。
最後に、『笑い』から次の文章を引用*6し、筆を置くこととします。
——笑いは絶対的に正しいものであるとはいえない。—— 笑う人はすぐに自分のうちに舞い戻り、程度の差はあれ誇らしげに自分自身を肯定し、他の人格を自分が糸を操っている操り人形とみなす傾向があるということである。しかもこうした思い上がりのなかにわたしたちは少しばかりのエゴイズムをすぐさま見抜くだろうし、このエゴイズムそれ自身の背後に、もっと自発性に乏しく、もっと苦しみの多い何ものかをすぐさま見抜くだろうし、何だかよく分からないペシミズムが生まれつつあるのをすぐさま見抜くだろう。そのペシミズムは笑う人が自分の笑いに試案をめぐらすにつれてだんだんはっきりしてくるのである。
*1:ただ、私はこの本を読んでバラエティーや漫才、コメディーなどが今までのように観られなくなりました。なんというか、笑っている自分を意識すると、引け目というか、罪悪感というか、そういったものを覚えるようになってしまったのです。
*2:文章上、厳密にいえば、「想像力の論理」が正しいかもしれませんが、語感が好きなのと、今回の話と結び付けやすいことからこちらを使わせていただきます
*3:ジークムント・フロイト著『精神分析学入門Ⅰ』『精神分析学入門Ⅱ』懸田克躬訳、中公クラシックス、2001年
*4:個人的には、フロイトの記述は科学としての根拠が無いように思います。なのでこれを引っ張ることには少し抵抗がありましたが、理解の一助になればと引用しました
*5:定義とは言いましたが、正しくは笑いのもととなるおかしさを生む条件です。ベルクソンは他の哲学書のように、語の定義づけから始めることはしていません。
Vティークが届いた!
昨日注文した、Vティークのvol.3が届きました!
前回のvol.2も応援のつもりで買いましたが、思っていたより面白かったので今回も楽しみです。
しかし、昨日注文して今日届くとは、ありがたい限り……。配達員のみなさんには感謝しかありませんです。
付録は「ときのそら楽譜風ノート」なるもの。
楽譜が載ってます。そらちゃんのものであろう書き込みがびっしりですね。
肝心の中身はまだ読んでませんが、パラパラとめくった感じ、ときのそら、富士葵、ヒメヒナ、にじさんじや、恒例のさなねる診療室などを収録しているようです。
【名取さな】 #さなねる診療室 VOL.3【因幡はねる / あにまーれ】
↑最近のさなねる診療室(生配信版)
たぶん、中身はすべて対談ですね。
しかしちょっと不満があって、これは前回も思いましたが、字がめっちゃ細かい……! これは100%目疲れるやつ……。
このブログも、デザインの都合上字が小さくなってしまっていたものを17ポイントまで大きくしたのですが、これはその元のサイズより小さい……。
雑誌はこんなものかもしれないですけどね……。
まあそれは置いておいて、対談がメインのVティークですが、何気に助かるのが巻末の「Vtuberギルド」です。
Vティーク公式の募集ツイートに反応したVtuberが掲載されているのですが、ビジュアルが結構いい子もいたりして、前回は結構参考になりました。実際、そこからかなり伸びた子も何人かいましたしね。今回も見るのが楽しみです。
現在なんやかんやで深夜の2時近いですが、少しだけ読んでから寝ようと思います。
何か感想で書けるようなものがあれば、それも記事にしましょう。
高校二年生の時に書いた文章を振り返ってみる
メモの中身を整理していると、ある文章が出てきました。
高校二年生の春、書いたものです。
私には当時、一歳下のネット友だちが居て、彼は高校入学に強い不安を感じているようでした。なので、私は彼を勇気づける意味をこめ、高校合格祝いと題しこの文章をTwitterのDMで送りました。
まあ一旦見返してみましょう。
それから、大学二回生、すなわち当時から三年たった今、読み返してどう思ったか、そして、同じような文章を書くとしたら、どういった内容になるかを書こうと思います。
下に記述するのは、その例の文章です。
あの日*1を以って、僕は晴れて高校生になったわけであるが。高校というと、僕にはどうも、なにか怖いイメージがあった。
このイメージというのは、中学入学時、中学生のことを思って震えたあのイメージと似通っている。あの時は、小さい自分が見上げるしかなかったあの中学生たちと、同じ土俵に立つのだと思うと、なんだか怖い目に遭いそうで仕方なかった。まあ、結局そんなことはなく、のほほんと、日々は過ぎていったのだから、高校も、入ってしまえばなんのことなしに三年が終わるのだろうとも、そんな恐怖を抱く一方で思ってはいた。とはいえ、一ヶ月経たないうちにもう入学式があるのだと思うと、怖いし、緊張する。もう少し、心の準備をさせてくれたって良いじゃないかとも思う。僕は勉強を頑張ったんだし、もう少し休みが欲しい。
しかしその休み——つまり春休み——は、楽なものじゃない。山積みの宿題が、高校から出される。数学は見たこともない複雑な計算式を解かされ、英語は与えられた問題集をほぼ丸一冊をやるハメになった。理科や社会は中学範囲の復習をするようにということだったので助かったが、もしそのほかにも宿題があったら、春休みの間遊び呆けていた僕には時間が足りなかったかもしれない。
親友のIは、公立に受かっていた。あいつは勉強のできる方ではなかったが、安全校を選ぶことで、確実に公立に入る道を選んだのである。僕もそうすれば良かったかもしれないが、悔いはない。勉強は頑張ったし、塾の先生は「高校はあくまで通過点だ」と言っていた。つまり、高校受験で失敗しても、大学受験で成功しさえすれば、終わり良ければ全て良しの感覚で、人生良しとされるらしい。そんなうまい話になるのだろうかとは思うが、確かに、高校はどこへ通っていたかなんて、就職面接で聞かれるはずがない。
だから、僕は思い直して、入学式を、少しの余裕をもって迎えることができた。私立だって、そりゃあ親に負担はかけるけれど、別に悪いところじゃない。イベントはそこそこ充実してるし、先生は良い人ばかりだ。食堂は失敗だったけれど……。入学してしまった以上は、仕方ない(ちなみに僕たちは一年かけて学校に働きかけ、やっと食堂の業者を変えてもらった。結果的に、味はかなり良くなった)。
入学してすぐは、みんな静かだ。恐ろしいほど、誰も喋らない。まるでマネキンに囲まれて座っているような錯覚さえ覚えて、少し笑ってしまう。けれど、一週間、二週間経つ内に、みんな打ち解けて、近所で喋るようになる。一ヶ月以内には何かしらのイベントがあるので、その後の教室はかなりうるさい。
僕は友だちと呼べる友だちが今のところ10人近くいる。学年は全員で400人ほど。1割にも満たない。でも、実際気の置けない友だちなんてのは、そのくらいになってしまうのではないだろうか。誰とでも話せる人というのは、羨ましい。
中学の友だちはというと、通学の電車を見渡したときには、ほとんどの確率で目に入る。入学したては捕まえたり捕まえられたりして、よく喋っていた。お互いの高校のことを喋っていたら、話題は滅多に尽きない。かなり楽しい。
けれど、しばらく経つと、お互いはお互いを避けるようになる。何故かは分からない。話すのが面倒になったからなのか、中学時代を忘れたくなったからなのか、自分の時間を優先するからなのか。自分でもよく分からないが、僕の足は、友だちが乗った車両とは別の方向を向くのである。おそらく、向こうもそうなのだろう。
もちろん、中学にも親友と呼べるような友だちが僕にはいたから、そういう友だちとはお互いの時間を犠牲にしてどっぷり喋る。お互い楽しくやってることを確認するのは、なんだか心が落ち着くのである。
高校の友だちと喋るときには、その親友と喋るような空気感が伴っている。きっと彼らとは一生の友だちになるのだと、直感的にだが、僕はそう思っている。
この違いは、どこから生まれるのだろうか。高校の友だちは、みんな別々の場所から来たから、文化が違うし、考え方もなんとなく違う。土地のつながりが、ほとんどない。対して、中学の友だちには、それがある。
そこで思った。もしかしたら、中学では、みんな近所に住んでいるというただそれだけで、繋がっていたのかもしれないと。だから、離れ離れになると、中途半端な友情は断ち切れるのではないか。対して、本当の友情は浮かび上がってくるのではないか。
だから、友だちとの縁は切れ(あるいはかろうじて繋がっているだけ)、親友との縁は、その対比によって一層強まったように感じる。この関係は、意地でも守りたい。
学校は、外から見るのと中から見るのでは、全く見え方が違う。先輩の感想を聞けばいいと言っても、そこには主観が入り込んでいるのだから、実際入学してみた未来の自分の意見と、その意見は一致しない。
ドイツの人に、「物自体」というのを唱えた人がいる。
例えばコップが目の前にあるとする。僕たちの目に、そのコップは、明らかにコップの形をして映し出されるだろう。だけれど、その認識は本当に正しいのだろうか?
例えば僕が赤色のサングラスを掛けるとする。するとコップは元の色がなんであれ、強制的に赤色に変えられるだろう。当たり前のことだ。また、もし僕が急に目眩を覚えて(酒に酔ったとか、急病で倒れる寸前だとかだろうか)、コップを見たとすると、コップの姿というのはその僕には、少なからず歪んで見えるはずだ。
となると、通常時の僕たちの目が映し出す像というのに対して、疑いが掛けられ始める。コップの姿、つまり像に、一定の形や色がないというのは、色付きサングラスと目眩の例で十分証明されてしまったからだ。とすると、コップ自体の本当の姿とは一体なんなのかという問いが浮上する。この正体不明の、物の本来の姿、これを数学で変数をエックスと置くように、そのドイツ人は「物自体」と名付けたのだ。
物自体……。学校に対して向けられる視線にも、同様の事が言えるの僕は思っている。学校生活が、ある人から見ればとてもひどいもので、またある人から見ればとても良いものであるように、学校生活がどんなものであるかというのは、僕たちには知ることができない。
「事実は存在せず、あるのは解釈のみである」とニーチェは言ったけれど、僕たちはただ目の前に提供される料理に対して美味い不味いを告げるか、はたまた無表情で咀嚼を続けるかを選ぶことしかできないのだ。
だから、学校生活が絶対楽しいと、僕は思わなかったし、逆に、絶対つまらないとも僕は思わなかった。
ただ、考えたのは、学校生活が面白いと、すなわち自分が学校で楽しく幸福感に包まれた毎日を過ごしていると、「思い込む」ことは可能だということだ。
「事実は存在せず、あるのは解釈のみである」とするなら、こっちは、目の前にある事実というものを都合よく解釈してやればいい。
先生の理不尽に腹がたつのなら、その理不尽を仕掛けてくる先生の愚かさを笑えばいい。そしてその時間はほんの少しだけにして、あとは好きな人のこととか、友だちと遊ぶ計画だとかを考えるのに、多くを費やせばいい。ただし、もし自分に非があった場合は、そのことを反省すること。好きな人のこと、友だちのことより長い時間をかけた方がいいと、僕は思う。恥ずかしい失敗だとかは、長いこと僕たちの頭を支配するけれど、このしつこい記憶については、考えないより考えた方がいい。押しやるより、「まずかったなあ」とか「もっとこうしたほうがよかった」と反省したほうが、かえって早く笑い話にできる。経験談だけれど。
えっと、なんの話だったっけ。あ、そうだそうだ。確か先輩がどうとか言ってた。
そう、だから、学校選びに後悔するなんてことは、当たり前のことだ。みんな見方がちがう。入って後悔しないなんて言われても、しない人なんてほんの一握りしかいないんじゃないだろうか、と思う(高校の方針と自分の進路の方針が違うなんてのは、自身の調べ不足を恨むしかないが)。
僕も高校に満足しているほうだけど、たまに、この学校で良かったのかなと思うことはある。高校の友だちも、みんな思っているんじゃないだろうか。でも、結局、自分の選んだ(選ばざるを得なかった)この道が最善だと思わざるを得ない。そう思ったほうが自分の心のためになる。よく言われる話だけれど、やり直しは効かないからだ。
当たり前の話をしたけれど、今の生活というのは結構楽しい。負けず嫌いの自分は勝手にライバルを他に作って勝手に自己嫌悪に陥ったりしているけど、そんな捻くれた人じゃなければきっと高校では簡単にうまくやれる。
残念ながら、僕は恋愛のアドバイスはできないけれど、もしイジメというものが心配なら、目立つことをせず、上手に立ち回れというのは言っておきたい。それがいわゆるコミュ障に繋がっても、僕は責任を取れないけれど。
さて、僕は君に、これをエッセイとして見せるか小説として見せるか迷っているけれど、友だちの名前とか、ところどころにフィクションが混ざっているから、これは小説とすることに決めた。せっかく書いたのだから、役に立つことをと考えたつもりだけれど、読み辛い点はどうか許してほしい。
いや小説じゃないだろ、とまず突っ込みたいですが、まあいいでしょう。
ですが、意見はだいたい今も同じです。今と比べると感覚重視というか、暗喩的な感じに書いている部分はありますが、高校二年生で意外とよく書けてるな、という風に思いました(三年越しの自画自賛
ただ「いじめが心配なら目立つな」は、あまり褒められた手法ではないですし、今考えればデメリットが大きくてあまりおすすめできないですが。
あと、「高校で仲の良い人が一生の友達になる」は、たぶん本当です。
そしてもし、私が同じような文章を大学に入る人たちへ書くならば、要点は次のようになると思います。
・友だちは大急ぎで作れ、とにかく話しかけろ、向こうも待ってる
・サークルは最低一つは入っておくのが吉、幅広い人脈を求めての掛け持ちもあり
・文系の場合単位は普通に講義とテストを受ければくれる、大学受験は落とすためのものだったが大学の単位はあげるためのもの
・大学は自分に見合ったところに入るべき、私は中学→高校と来てまた中学に入学したような気分で大変後悔している
・浪人生は今一度進路を見直すべき、私は少し後悔している
・大学に入って一年経ったところで将来のビジョンなど生まれない
・暇
……こんな感じですかね。
明確にやりたいことが決まっていないと、私みたいにニートして一年終わるので気を付けてください。
では、新大学一回生の方々、頑張ってくださいね。応援してます。
*1:入学式のことだろうと推測。
BABEL第16回チーム内大会終了!
私がリーダーを務めるBABELの、第16回目となる内戦が無事終了しました*1。
最近は一日開催でしかも時間の都合上bo1のみとなってしまう回が続いていたのですが、今回は自分の都合がついたのと、学生メンバーの春休みが重なっていること、大学受験から復帰し、参加できそうなメンバーが多いと推測できたことから、予選二日・本戦一日の形式で、久々に開催することができました。
予選21名の中から本戦に出場したのは、AグループからEscha、ワチチ、隼、Bグループから、ぞえ、なりん、saimaです。
ちょっとそれぞれ紹介してみます。
Eschaさんは、つい最近、自己推薦でBABELに加入した方です。
慎重かつ厳正な審査のもと、以下の2名の加入を認めます。
— Team BABEL Official (@babel_team) 2019年2月8日
Escha
ふじもん
どのリーダーも大抵は使えるようで、先日の対抗戦も、おかげで融通が利いて助かりました。
ワチチさんは、BABEL最古参のメンバーです。チームに名前が無かった時からずっといるので、けっこう長い付き合いです*2。
ネクロをこよなく愛しています。Dice杯優勝や、過去RAGEマネーフィニッシュの経験もある人です。
day2
— ワチチ (@watiyoha) 2018年2月4日
2ー0
0ー2
2ー1
2ー1
0ー2
2ー0
2ー0
マネーフィニッシュ
隼さんは、BABELにはたしか第二期応募くらいで加入したと記憶してます(間違ってたらごめんなさい)。
最近気づいたらどんどん実力を上げていて、ついこの前のRAGEはday2に進出。
しかも、内戦は今まで3連覇中です。もしや4連覇ある……?
内戦3連続優勝だー
— BABEL | 隼(しゅん) (@sikyun35001) 2019年2月23日
ぞえさんも最近加入した方です。
慎重かつ厳正な審査のもと、以下2名の加入を認めます。
— Team BABEL Official (@babel_team) 2019年2月14日
ぞえ(@ 1__1zoe )
超電磁砲(@ railgun5T )
※超電磁砲は言の葉(@ word_sv )によるメンバー推薦方式での加入
前々回の対抗戦はなかなか活躍できませんでしたが、今回は予選トーナメントからの本戦出場*3。期待したいところです……!
なりんもBABEL最古参の一人です。2018年の途中から都合がつかず浮上が難しい状況でしたが、最近復帰。嬉しいです。
㊗️BABEL古参ワイ、ついに本戦へ
— なりん (@sv_tkmh) 2019年3月23日
手元にあるデータ(といっても11月のものですけど)を見ると、ビショップ勝利数が一番多いので片方ビショップを使うんでしょうか……?
最後、saimaはたしか隼と同じ時期の加入です。最近は副リーダーもお願いしています。他の副リーダーと一緒に相談に乗ってくれるので本当に助かります。
シャドバに関してはその打ち込みようが凄くて、今回も両グラマス達成してました。
— BABEL | saima (@saima_sv) 2019年2月13日
2月でこの勝利数なので、もう9000とか行ってそうですね……。
そして、今回のトーナメントはこんな感じになりました。
みんなが読んでるかは分かりませんけど、今回も注釈をつけておきました。
そして今回は本戦だけ、配信することにしました。
しゃべりが下手なのでだれか来てほしいですね。はい。
と思って誘ってみると、元メンバーのるあ/COVが来てくれることになりました。やさしい。
……配信めちゃくちゃ不安定で、結局一人で配信することになっちゃいました。
見てくれていた方、そしてるあ、ぐだぐだで申し訳ないです……。
で、お待ちかねの結果はこうなりました。
優勝がEschaさん、準優勝がsaimaさん、三位が隼さん!
おめでとうございます!
特にEschaさんは初内戦にも関わらず優勝です!
これは次期エースありうる……。
内戦使用デッキ
— Escha (@Escha0810) 2019年3月24日
BとNmが多いと踏み、それらを通さないEとRで組んでみました
Eはよくある翠嵐ですが、アリアピン積みが個人的おされポイント
Rは先刻のRAGEのjupi様のものをまるっと、ですが、プレイング多々反省あったので精進します...
対戦ありがとうございました! pic.twitter.com/1LfllzQdkx
さて、以上のように今回の内戦も無事終了。メンバーのみなさんご協力ありがとうございました。
お疲れさまでした。