思考実験とは何か?

 

 最近俄かに流行り始めた「トロッコ問題」。

 

 哲学好きに知らない人はいないと言っていいほど有名な問題ですが、その流行り元はこの方のツイートのようです。

 

 

 

 皮肉めいて聞こえたとしたらそんな意図はないと言っておきますが、Vtuberの織田信姫も言うように、強い言葉を用いたツイートは伸びるようですね。

 

 

 それはさておき、この問題の楽しみ方は、やはり人それぞれなようです。

 真面目に議論する方もいれば、柔軟な発想で解決しようとする方もおり、また大喜利の場にする方も、コラ画像を作る方もいました。

 

 

 

 では私はこの記事で何をするかというと、タイトル通りなのですが、「思考実験とは何か?」「思考実験の果たす役割とは何か?」について考えようと思います。

 

 思考実験そのものへの回答は試みません。私のミジンコほどの知識と発想力では、骨折り損で終わってしまうことが見えているからです。その理由はこの先を読んでいただければわかると思いますが、そういうわけなので、この記事では、思考実験との向き合い方のようなものを提案し、記事を終えようと思っています。

 

 最初に記しておくと、思考実験を考えるとき、必ずしも元の文脈に縛られる必要はないということが、この記事の結論です。

 

 

 

ロッコ問題という思考実験

 

 思考実験というものは、かなり面白いです。興味深いです。

 特別な道具はいらない。必要なのは頭だけ。特別な知識がなくても臨むことができます。この手軽さは魅力です

 

 特にトロッコ問題というのは、思考実験をまとめた本では扱われないことがないほどに、多くの人を惹きつけてきました

 

 最初に提唱したのは――完全に蛇足ですが――フィリッパ・ルート・フットというイギリスの哲学者でした。私はよく知らないのですが、彼はメタ倫理学が専門だったようです。

 

 そしてトロッコ問題はその後にも度々取り上げられ、最近ではかのマイケル・サンデルがトロッコ問題を援用し、再び話題になりました。

 

 その内容というのは、同じ画像を再び貼り付けますが、このようなものです。

 

 

 文を読みますと、ここに困難が潜んでいることはすぐ分かります。みなさんは頭を抱えるでしょう。「私がどうしようと、人が死んでしまう」のです。

 

 問題は、選択を迫ります。「殺すか? 死なせるか?」

 

 私は先ほども言ったように、この問題に答えを出すことはできません。まだ答えるに値する資格も知識も無いように思いますし、何より全く分かりません笑

 ただ、この問題を解剖することは、なけなしの知識と思考力の限りでは、できるように思います

 

 

ロッコ問題で意見がすれ違う理由

 

 トロッコ問題に関わるツイートのリプライ欄では、議論好きたちが必ずと言っていいほどに議論を交わしています。

 しかしながら、そのほとんどは議論になっていません。話が噛み合っていない例がほとんどです。

 たとえば、こういった会話です。

 

 

A「なんか分からんけど、トロッコが来るって大声で知らせたら解決じゃね?」

B「いや、ここで重要なのはレバーを引くかどうかなので、声を出すのは反則です」

A「は? お前現実でクソ真面目にどっちにトロッコ向かわせるか考えるの? 避けろって指示すれば終いじゃん」

B「だからそういう話ではなくて、トロッコをどちらに向かわせるかっていうことを考えないと駄目なんです。それに、避けろって言って避けられる保証はないですよね」

A「いや避けろって言われてトロッコ見えたら避けるだろwwww バカ乙wwww」

C「この場合はBさんが正しいと思います。この問題の趣旨は「見殺しにしますか?殺しますか?」というものだと思うので」

D「なんか分からんけど深E」

 

 

 

 ……自分で書いていてなぜか吐き気がしてきましたが、一体なぜこうなるのかといえば、それは思考実験というものの性質に依拠します。

 

 思考実験は、そもそも自身の思想を伝える際、その具体例として用いられるものです。そして、その時用いられる思考実験は、その伝えたい思想に合わせて、登場する事象はかなり極端に単純化されます。つまり、もの一つ一つに関わる多くの部分が捨象されるのです。

 

 たとえば、トロッコ問題では、轢かれそうになっている人はみんな「だれか」です。年齢も容姿も何も分かりません。ジェンダーバイアス的に、線路にいるのは男と思ってしまいがちですが、男か女かすらわかりません。

 

 また、トロッコ問題のうえでは、物理的条件は全て排除されています。時速何キロだとか、距離は何メートルとか、レバーを動かすか否かの思考時間は何秒だとか、そういった事柄も全て単純化の過程で捨て去られています。

 

 さらに、法律的観点もここでは重要視されません。もし重要視されているなら、「レバーを動かせばあなたは刑事罰に問われるが」という文言が付加されているはずですが、トロッコ問題においてはもちろんそんな文言は添えられていません。

 

 なぜこのように単純化されているかといえば、発案者がそうしたかったからです。

 

 先ほど述べたように、発案者のフィリッパ・フットは倫理にまつわる思想を展開していました。つまり、彼は自身の専門分野に関する問いになるように、問題を調整したのです。

 

 これは思考実験と呼ばれるどの問題にも当てはまります。

 

 たとえば「ピュリダンのロバ」という思考実験は、

 

「自身から均等な位置に、全く同じ量の見栄えも変わらない干し草を置かれたロバは、(その合理的性格ゆえに)どちらを食べれば良いか分からず立ち往生し、最後には餓死してしまう」

 

という話ですが、ここではロバの性格は合理主義と決められていますし、干し草は全く狂い無く置かれているという現実離れした内容です。この問題はまさに、頭の中でしか成り立ち得ません。

 この問題は解釈がいくつかできますが、たとえば合理主義の限界に説得力を持たせるために用いられたと考えられます。

 

 

 また救命ボートの倫理

 

「沈み行く船から、5人は運良く脱出できた。数に限りのある6人乗りの救命ボートの1つを使ってだ。側で今にも溺れそうな女が助けを求めているが、彼らは少しの相談の結果、彼女を助けないことに決め、救命ボートに備蓄された6人分のビスケットを5人で分け合った」

 

という内容です。少し記述自体は具体的になったように見えますが、しかしやはり、人物の年齢などは不詳です。

 これはおそらく、先進国と発展途上国の関係を寓話的に描いたものでしょう。

 

 

 このように、不必要なものを記述しないことは、私が書いているようなブログでも当たり前ですし、小説でも、全く役割を持たない文が登場することはあり得ません。評論でも、論文でも、詩でも、不必要なものは言いたいことの邪魔になるだけですので、取り去られます。

 それと同じようなことを、思想家は思考実験でも遂行しているのです。つまり、自身の文脈において、思考実験が導く事柄を限定したのです。

 

 

 

思考実験の余白

 

 そしてこのことが、トロッコ問題を考えるうえでの困難に繋がっています。

 

 先ほどのAとBの会話を思い出してください。Aは声を出すことを提案していました。一方、Bはそれは反則だと言いました。

 

 この差は単純明快です。Aはトロッコ問題にさらに条件を付け加えている一方、Bは単純化された問題に忠実であろうとしているのです。

 

 つまり、Aは、問題が問おうとしている「レバーを引くか? 引かないか?」という発案者の倫理・道徳を問おうという目的から設定された、限定的問いの範疇から外れています。トロッコ問題は倫理的回答、すなわち「善か悪か」という答えを想定した問題であったのに、Aは物理的対象領域の範疇である、「声を出す」という、問いが想定しない選択をしてしまっているのです。

 

 それに対して、Bはそのことを指摘したわけですが、言葉足らずだったか、言語化能力がかなり未熟だったかの為に、Aは理解をしてくれなかったのです。

 

 ただ、誤解を招く前に言っておくと、私はこの記事で、まるで言葉の元の意味に執着する人のように、思考実験の由来に遡って、原理主義的な主張をしたいわけではありません

 

 ここで言いたいのは、ロッコ問題はその単純さを活かして、さまざまな回答が可能であるということです。

 

 たとえば、冒頭のトロッコ問題を紹介した方は、冒頭のツイートで遺族云々の解釈をしています。それはたしかに倫理的範疇に収まった回答ではありますが、しかし彼自身もまた、Aのように、勝手にトロッコに轢殺された人に、遺族がいることを想定しています。厳密にいえば、彼は設定を付け加えているといえます。

 

 しかし、それも良いのです。そこで扱われる問題は、もはや思想家の思想の文脈の中にはありません。それに、好意的解釈をすれば、この問題はそういった柔軟な発想をするために、単純化されているとも言えるのですから。

 

 

思考実験をどう扱うか

 

 ですが、私には勿体ないと思うことが一つあります。それは、多くの方が思考実験を、思考実験そのものへ問いを出すのみのものだと思っているかもしれないということです。

 

 トロッコ問題を提示されて、多くの人は、その問い自体をどう解決するかを考えます

 

 その問い自体をどう解決するか考えるというのは、その問題の設定の中で、あるいは新たに自分が設定・観点を付け加えた状況の中で、なるべく完璧な答えを探そうとすることです。

 

 一度トロッコ問題の内容を思い出してみてから、次のような思索を読んでみてください。

 

 レバーを引いた方が犠牲者は少なくなるのだからそうすべきでは? しかしその1人が芸能人だとしたら? 大ファンのスポーツ選手だとしたら? しかしそれを避けたとして、5人を犠牲にすることは正しいのか? 刑法的にはどのくらいの罰が与えられる? 社会的制裁は激しいものになるだろうか? 経済的な損失はどっちが高いだろう? いやいや、そもそも自分は選択を神に「押し付けられた」だけで、責任は自分には無いのでは? というより、大声で線路上にいる人たちに呼びかければ解決じゃないか。トロッコのレールの切り替えを甘くすればトロッコは止まるぞ! でも、どちらだろうが、生きる意味なんて無いし惰性で決めればいいか……。

 

 これは、先ほど申し上げた「思考実験の余白」、すなわち、さまざまな観点から思考実験を見たり、設定を付け加えたりしてみることを実行した例です。この人は懸命に、レバーを操作するか否かを考えています。このような思索も、実際かなり楽しいものです。この方はペシミズムに行き着いてしまっていますが笑、答えは様々な形で可能でしょう。

 

 しかし、先程述べたように、思考実験は思想家が、自分の考えを述べる過程で持ちだしたものでした。今やこの思考実験は元の文脈から外れそれ単体で見られていますが、元々はそうでした。

 

 そうであるなら、私たちもまた、思想家と自称すればひとりの思想家となるでしょうから、思考実験を自分なりにアレンジして、自分の文脈で用いても構わないわけです。

 

 どういうことか。

 

 つまりは、一つの思考実験から、一つの命題を取り出し、それについて吟味するやり方もあるのではないか、ということです。 

 

 思想家のやったことと、ほぼ逆のことをしようという試みです。

 

 

 たとえば、トロッコ問題では、厳密な設定下でも色々な問いが浮かんできますが、各々がアレンジを加えれば(=勝手に設定を加えたり消したりすれば)、さらに様々な問いが浮かび上がってきます。

 

 それでも十分なのですが、さらにもう一歩、何か問いを引っ張ってきて、それに応えようとすることも、またトロッコ問題への向き合い方の一つなのではないかと思うのです。

 

 そしてその問いや命題というのは、たとえば提唱者の倫理の文脈に従った命題なら、「殺すことと死なせることでは殺すことの方が悪い」といった倫理的命題でしょう。

 

 他にも、物理学的な問いなら、「トロッコがどれだけのスピードを出していれば致命傷となるか?」法学的な問いなら「レバーを操作せず5人がトロッコに轢殺された際、当事者の法的責任はどうなるか?」社会学的問いなら「どういった人が線路上にいれば人はレバーを操作するか?」などがそういった問いになるでしょうか(デタラメを言ってたらすみません)

 

 そしてそこからさらに、その問いに答えながら抽象化を進め、他の問題に応用できる形へ一般化し整えるのがベストです。ですが、実際のところは、そこまでできれば世話ない、といった感じですよね笑 私もそう思います。

 

 ともあれこのように、たとえばそれぞれの学問の対象領域から、新たな問いを見出すことが可能です。もちろん、学問という区別に囚われずに、「なんとなくレバーを操作したいと思った」人がいるなら、そのなんとなくの中身を一度考えてみることも、思索の一つです。

 

 

具体から抽象へ

 

 つまり結局のところ、私のこの話は、一つの具体的なことを聞いて、それを抽象的に捉え直そうという、よくある勧めに他なりません

 

 具体的なことが物語であるとするなら、たとえば聖書の「善きサマリア人の譬え」*1を読んで、「この祭司たちは酷いなあ」と思う人もいるでしょう。

 しかし、一方で、「ああ、この話はイエスの隣人愛を説いたものなのだなあ」と感嘆する人もいるかもしれませんし、「祭司たちはなぜ彼を助けなかったのだろう?」と問いを立てる人もいるかもしれません

 そして後者の人は、歴史的事実を踏まえてその問いに結論を出し、新たな知識を獲得することになるかもしれません。

 

 

 童話、たとえば「桃太郎」を読んで、「いい話だなあ」と思う子がいるのも良いことです。その一方で、「悪はなぜ懲らしめられなければならないのか?」という視点を持つ子もいるでしょう。きっとそういう子は近いうちに、「役割における善悪は視点によって変わる」ことを学ぶと思います。

 

 あともう一つ。少し前の例に戻りますが、トロッコ問題自体に対するAの「声を出す」という提案で言えば、それに必要な条件を考えてみるのもいいかもしれません。たとえば、狼少年のように、もしAに信頼がなければ、線路上の人は判断が遅れ、何人か逃げ遅れてしまうかもしれません。そう考えたとき、Aは「信頼は大切である」という命題を得ます。そしてAは、その命題が本当に真なのか、つまり、「本当に信頼はいつでも大切なものなのか?」を考えることになりましょう。

 

 このように、具体的な事柄を抽象的に捉え直して問いを組み立て、また新たな知識を発見するという、素晴らしい連関がここに成り立ちます。この連関によって蓄積されるものは、たしかに多くはすぐに役立つものでないでしょう。しかし多くのパースペクティブを必要とする世の中を見通すには、良い方法だと思っています。

 

 

 ここまでの言いたいことを、下に図式化しておきます。

 

 

 

思想家の意図

 思想→(言語化)→文章⊃思考実験

 

文章から摘出された思考実験

 文脈外の思考実験⇒多様な解釈可能

 

私たち

 文脈外の思考実験→抽象的問い→自分の思想

 

 

 

幅広い答え方

 

 トロッコ問題は、その厳密な問題設定の中では、おそらく批判されない完璧な答えは導けません。なぜならその理由の一つは、その問題を持ちだした思想家が、自身の思想を理解してもらうための取っ掛かりとして用意したものだからでした。本質的に言い換えれば、思想を伝えるのにジレンマが必要だったからです。数学のように、答えを望んで提示されたものではありません。ただ、自身の思想を有効に伝えられればそれで良かったのだと思います。

 しかし、文脈の外に置かれた思考実験は、提唱者の意図の鎖を外れ、自由な解釈を許容できるようになります。つまり、具体的問題から得られるもう一段階上の、抽象的問いへの足掛かりとなれるのです。

 

 たしかに、その思考実験の部屋の中で遊んでいるのも楽しいことです。ですが、もう一つの選択肢として、一歩階段を登り、抽象のはしごを駆け上って、その抽象的問いを見つけに行ってみるのも、また一興だと思うのです。

 

 先ほどから例を挙げているように、思考実験から発想された問いは、さらなる広がりを持ちます

 

 たとえばトロッコ問題は、漠然とした表現で言えば、人の倫理観など、物事の見方を問い直す効果がありました

 

 また、もっと現実味を持たせて、これから起こりうるだろう具体的事例に置き換えるならば、トロッコ問題はAIによる自動運転にも繋がります。

 

「AIが誤作動したのか、システムが制御不能になった。今、自分の乗る自動運転車が人に突っ込もうとしている。運転手はハンドルの操作だけはできるのだが、ハンドルを切って左に避けると壁に激突して自分が死に、右に避けると他の自動車に激突して、これもまた無事では済まない……」

 

といったジレンマです。

 

 この「事例への置き換え」は、ほぼ問題文が変わったに過ぎず、事象が単純化されているという事実は変わりませんが、現代への問題提起という意義はあります。

 

 このように、思考実験一つをとっても、実は展望は広く開けているのです

 

 少し余計なことを言うと、それを、厳密な状況設定にこだわって、固執し、人に考えの枠組みを押し付けてしまうのは、ちょっと寂しいことに思えるのです。

 

 

総括

 

 思考実験そのものについて考えることもまた楽しいものであります。特に、哲学などに普段触れない人ほど、思考実験は興味深く感じられるでしょう。

 

 そうです、たしかにそれは魅力的です。そしてもしその問題自体に考えを巡らせることに飽きてきたら、別の問題にチャレンジするのも良いことでしょう。難問はいくらでもあります。そして、もし良かったら、私の言うように、そこからもう少し抽象的な問いを取り出してみて、頭の体操をしてみるのも良いかもしれません

 

 

 

 以上、思考実験というものについて私がどういった捉え方をしているかを書いてみました。流行について、言わばメタ的な立場から書いた関係上、人によっては少し偉そうに読めた箇所があったかもしれませんが、ご容赦ください。私には啓蒙をたれるつもりは毛頭ありませんので。

 

 

 

おまけ:別の思考実験

 

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ヒラリー・パトナムの思考実験。

名取さなの配信でたまに見るやつ。

 

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