とらじぇでぃが色々書くやつ

とらじぇでぃが色々書くやつ

主にVTuberの記事を投稿中。

グッズが遺品になるとき

 

「これが——生だったのか」わたしは死にむかって言おう。「よし! それならばもう一度」と。(ニーチェ ツァラトゥストラⅡ 中公クラシックス p373) 

 

 

 

 VTuberは引退する。遅かれ早かれ、必ずである。例外はない。引退しないVTuberは、人間という存在から完全に離れたもの以外あり得ない。仮に演じる人間を何度すげ替えたとしても、彼らはいつか引退する。AIですら、人間が運営している限りは引退があり得る。これは間違いない。

 

 * * *

 

 2019年5月。蒼月エリが引退する、そう聞いたとき私は多少のショックを受けながらも、「ふーん」と流していた。別に気にすることも無いと思っていた。私は二次元キャラが好きだが、「推しができた」とか「ガチ恋」とかの気持ちは分からなかった。私は名取さなの言うところの、中途半端な、オタクになりきれないオタクなのだろう。

 しかし、蒼月エリは事実として、ハニーストラップにとってかけがえのない1ピースであった。彼女が引退してからそう気付くと、途端に気持ちが落ち込んだ。ハニーストラップの姉妹グループ、あにまーれから引退が出たとき、悲しんでいた人たちの気持ちが分かった気がした。

 

 * * *

 

 私の端末には、蒼月エリの「蒼い蝶」が入っていた。少し辛そうにも聴こえるが、しかし力強い歌声。お気に入りの曲だった。いやもちろん今も気に入っているのだが、しかし、彼女が引退した今では、胸に切ない気持ちがこみ上げる。

蒼い蝶

蒼い蝶

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 * * *

 

 最近、VTuberと死について考えているVTuberの引退は死である」とはよく聞くテーゼだが、それは比喩以上の説得力を持っている気がした。そうしてあれこれ考えていると、蒼月エリが引退した後残されたこの蒼い蝶は、遺品という位置付けになるのではないか、と思うようになった。

 

 ところで、なぜVTuberの引退は死なのだろうか。

 よく「引退は死だから悲しい」とか「引退という死には種類がある」とかいったことを聞くが、なぜ引退は死なのか書いた人はまだいないように思う。なので軽く触れる。理由は三点

 

 まず、死は絶対に訪れ、そして死者は絶対に復活しないことがある。知っての通り、死から生が帰還することはない。死んでしまえば終わりである。

 

もし死者が生き返ることができ、そしてもしこの死者の死が単なる一時的中断であったならば、それは(……)その死はすこしも死ではなかったということを証明することになろう。せいぜい長い冬眠か、ちょっとした気絶、なにか麻痺か潜勢化のようなものだ。 死 V.ジャンケレヴィッチ みすず書房 p83

 

 その意味では、実はVTuberの引退は死ではない。引退から舞い戻った笹木咲はゾンビではなくて、実際にまだ生きていると私たちは思う。それに引退が死だとしたら、復活はできないはずだ。だから、引退=死ではない

 

 しかしながら、引退からの復帰は困難を極める。個人勢ならまだしも、企業勢の引退は、言い換えれば退社だ。退職願を出した会社に戻りたいと思う人が一体何人いることか。

 また、引退はファンをひどく傷付ける。たとえば近親者が亡くなったとき、私たちは深い悲しみに打ちひしがれる。そこから立ち直るには、とても長い孤独の時間と、膨大な心的エネルギーが必要だ。いなくなった存在と心の内で対話して、なんとか、なんとか死を受け入れていく……。そういったように、引退はファンに莫大なリソースを消費させる。そうしたファンの姿を見ながらも復帰するのは、なかなか難しい

 だから、私は引退とは近似的な死だと思っている。たとえるなら、死刑に対する無期懲役だ。死刑は死が確実だが、無期懲役はわずかに仮出所の可能性がある。これは「引退=死」論ではなくて、「引退≒死」論だといえる。

 

 また、VTuberの引退が死に思えるのは、その特性にも関わっている気がする。VTuberは、私たちと同じ時間軸に存在するキズナアイは、バーチャルYouTuberについて次のように言う。

 

たぶんアニメのキャラにはその意味*1で「実在する」とは言えないのかもしれない、なぜなら同じ時間軸を生きていないから。本当のパーソナリティというのは、リアルタイムに同じ世界に存在していると認識できることだと思うんです。 ユリイカ2018年7月号 キズナアイインタビュー p35

 

 アニメやマンガのキャラクターの死は確かに死だが、それはいわば閉じた死である。そのキャラの死は、どこか別のところで、別の時間に起こった死で、フィクションの域を出ない。また、マンガの完結もキャラクターの死を意味しない紙の上の物語は、「今ここ」には無い。また、時間軸がそこだけで完結しているから、マンガが終わっても、その物語は時間が止まるか、永遠に続くかで、死を迎えることはない。キャラクターの死は想定できるかもしれないが、連載終了が直ちに死を意味したりしない

 しかしVTuberは、私たちと時間を共有する。だから相互的関係(双方向性)が生まれるし、彼ら自身がTwitterで呟いても違和感がない。彼らは、私たちと同じく生きているのである。だからこそ、引退という消滅は、死と形容される。完結が、直ちに死になるのだ。死は訪れた後何も残さない。無が広がるのみである。

 もちろん例外もある。先ほど触れた笹木咲や、たびたび夢月ロアの雑談に登場した「友だち(おそらく引退した久遠千歳)」などである。前者は復活であったが、後者は「生きていることの暗示」だ。後者をどう考えるか。たしかに暗示されてしまえば、「今どこかで生きている」ことにはなる。しかし、その「生きている」のは誰なのか? 久遠千歳だろうか。そう考えることもできる。否定はしないし、むしろその方が微笑ましくて良い。しかし一方で、私たちの知らない、VTuberでない「中の人」が生きているとも考えられる。もし「引退≒死」から考えるのであれば、そういう解釈になる。死とは消滅であり無になることだ。VTuberは消滅してしまっているから、そこで言われているのはネットに出てこない中の人である*2。とはいっても、久遠千歳と中の人は同じ人物でもあるから、些細な差ではあるかもしれない。

 

tragedy.hatenablog.com

 

 話が複雑になってきたので次に移る。

 

 また、引退は突然であることも根拠になる。死は絶対に訪れるが、それがいつかは分からない。同様に、全てのVTuberの引退は現状間違いないのだが、それがそれぞれいつなのかは分からない。今月中か、来月か、半年後か、5年後か、場合によっては200年後か……。それは分からない。

 ただ、引退がいつか、本人には分かるということが、一つ矛盾するところではある。死は自分で定めることができないからだ。自殺? そう形容したければしても良いが、あまり気持ちの良い表現ではない。ともかく、引退の日、時刻は本人が決め得るということが、死とは異なる点である。

 しかし、リスナーにとっては(そして今ここではまさにリスナーにとっての話をしている)、引退はいつか分からない。第三者であるリスナーが引退の日取りを決定付けることは絶対にできない。引退は突然訪れ、私たちはその別離によって、深い悲しみに突き落とされる……。その意味で、リスナーにとっての引退は死である

 

 * * *

 

 先日、なんとなくにじさんじの東京タワーくじを引いた。

 

 

 普段はグッズを買ったりしないのだが、本当になんとなく、夢月ロア目当てで5回。缶バッチで夢月ロアが出た。

 喜んだのも束の間、蒼月エリと蒼い蝶のことが頭に浮かんで、消えて、虚しくなった。夢月ロアが引退したらどうしよう。当たったこのグッズが、また遺品になってしまうじゃないか。もう、ふと目にして悲しくなるようなことは嫌だ。

 買わなければ良かったと後悔した。グッズは2月に届くという。長すぎる。もっと早く送ってくれないか。

 ……でも、思えば、遺品にならないものの方が少ない。私の祖父はいつまでも居るような気がしていたが、認知症で行方不明になり、亡くなった。捜索願を出しては帰ってくることの繰り返しを見ていたから、薄々そんな気はしていたが、本当に死ぬとは思っていなかった*3。休みのたびに行くのが楽しみだった祖父母の家が、途端に変わってしまったような気がした。いつも祖父が座っていた座椅子や、いつも使っていたペン、いつも見ていたテレビ番組、全部見るたび切なくなった。

 今生きている私の両親も、間違いなく死ぬ。そのとき、両親の周りのものはみんな遺品になる。

 ロアちゃんだって、ずっといるわけではない。演じる人の体が持たなくなれば、VTuberの体も持たない。そうしたら引退だ。グッズが遺品になるのは、仕方のないことだ。そう割り切るしかないんだろう。人間の宿命だ

 

 しかし、死をプラスに捉える仕方もある

 哲学者のジャンケレヴィッチ曰く、「人生の意味は決して生涯のうちに表れない*4らしい。たとえば元号の数少ない意義の一つに、「区切りをつける」ことがある。そうすることで、「昭和とは」「平成とは」と、それぞれの時代を語れるようになる。そういったように、人が生涯を終えることで初めて、残された人間は、その人がどのように生きたかを語れるようになる。死があるからこそできることがある*5

 

「引退=死」でよく言われる「語り続けているうちは生きている」「忘れないうちは死んでいない」は、はっきり言ってしまえば死からの逃避、一時的な慰めだろう。もちろんそれもある程度必要だが、それが到達点ではない。そうではなくて、死んでしまったからこそ語るのだ私たちの時間軸から消えてしまった、もう生きることのない存在について、事後的に語ること、これが私たちにできることだいなくなってしまったからこそ、言えることがあるはずなのだ

 

 冒頭の「これが生だったのか。よし!それならばもう一度」は、ニーチェの言葉で、いわば現在を肯定する合言葉だ。人生は虚無に満ちているが、しかしあえてそれを肯定していく言葉である。それは容易いことではない。しかし必要とされているのはその、もう一度」言える強さなのだろう。

 

 

*1:前述に、キズナアイの写真集を入手した人たちは、それを画集ではなく写真集として捉えるが、それは彼らがキズナアイをたしかに存在するものと考えているからではないか、とある。

*2:つまり過去記事でいう生身に属する部分だ

*3:思うに、「本当に」が大事だ。

*4:死 p136

*5:否定神学ではあるが、死にはこういうものが必要だとも思う

【レジュメ】①(p.1~p.62)『死』V.ジャンケレヴィッチ著

 

これはレジュメというか、私の思考メモとして書いたものです。

読んでもさっぱりだとは思いますが、一応ネットにアップしておきます。

 

 ***

 

死の神秘と死の現象

・死は哲学の問題なのか。

 ・《自然学》における死→はっきり分かる。悲劇性取り除かれ神秘性無し

 

1越経験な悲劇と自然な必然性

(著者は死を神秘的なものと考えている)

 ・宇宙論流の普遍化=「死を些細なこととみな」す

 ・合理的省察=「死を概念化して、その形而上学上の重要性を蔑視」する

 

①死は「越経験的な断絶」であり、以上のような考え方は「観念上の永遠のうちにごまかしこむ」行為。

②また死は同時に悲劇的で、置き換え不可能なもの。

死の性格はこの両者の矛盾に由来。「越経験的でありながら経験界のただ中で身近に到来する」。

e.g.)死は一方では新聞の記事(時間と空間の限定)、他方では「他の雑事のいずれにも似ていない」「他の自然現象と尺度を異にしている」。

これは奇跡のようだが、ただし、二重の制約↓

①死は消滅と否定。

②死は奇跡でありながら普遍的な自然現象。

「死はいみじくも"秩序を逸した秩序"だ」(生の途上の些事とは別の秩序で動きながら、それ自体秩序的)

「絶対とは、生命とはまったく異なった秩序に属する」

 

Q.なぜ死は人を驚かせるか? なぜ死は法外か? 至って正常な出来事である死がなぜ好奇心と戦慄を呼び覚ますのか?

→愛や訪れる春のように、死も若いから=何度も繰り返されてきたことだが、"その"死はまた新しいもの。

 →ここから身近さと疎遠さの混合が生じる。

  ・物理学では神秘性を無視してしまう。

「神は絶対的に遠いものだが、死は遠くして同時に近い。」

   ・自殺の誘惑について。

「夜中に訪れるべき凶報と、すでに襲った悲劇をいまだに知らぬ家族の平和な幸福との間、気遣う無意識と幸福な無頓着の間には、ガラス戸があり、庭があり、そしてこの暗黒の厚みがある。」

・「人間は時に自然法則のみを考慮して神秘を無視し、時には現象を無視して神秘の前に跪く」→この矛盾がまやかしを助長し、根拠のない特権が、自己の死を隠蔽してしまう。

 →しかしそれが死を考える最低条件(理屈には合わないが=死は全員を襲う)

 

Q.死すべき運命は非個人的な一特性か?

 →たしかにそうだが、近親者に対しては躊躇いがある。近親者は"人間一般"ではないと感ずる。人の死は機械的には現れない。死は死に、説明のつかない新しいものを付け加える。そしてそれらが証明されたことはない。

 →しかし死という真理は不死であって、証明されなくても存在し続ける。e.g.正義と人間の行為

 →それでも私たちは過去に確認されたはずの死を何度も確認する。死の真理とは「実際の死がわれわれに再考の機会を与える不透明な宿命」

 

 

2.真に受けること——実効性、即効性、身をもっての関与

 

・このような、自身が死すべき存在であるという発見は驚きである。

 ・「すでに潜勢的に、そして実体上自分でもあるのに、顕在的になることができるようなものだ。」[振り返り]

・近親の死は知っていた以上のことを教えない。しかし、国語には無いなにかを与えはする。

・死を「真に受けた」人間の自覚の貢献には3つの相がある。

①実効性(↔︎可能性)

「死の深刻さを自覚すること、それはまず抽象的で観念的な知識から実際の出来事へと転調すること」「違った秩序への移行(メタバシス・エイス・アロス・ゲノス)」

②即効性

実効性の時間上の形。

自己の死=けっして訪れない未来、しかしそれがもうすぐ訪れてしまう。

「準備されていた不意打ち」

③身をもっての関与

「人が《自分の番》が来たと実感する(=瞬間に直観する)とき、その人間は死に即刻呼ばれていると感ずると同時に、みずから身をもって関与していると感ずる。」↔︎"ふりをしている"脅威

・死の三段論法は正しいが、自分自身にそれを適用するとき直面しなければならない苦痛をすこしも免除しない点では間違っている。

・端的純粋な自分=冠詞無しのわたしは「特権的な一人の人間」=情念に由来するもの

・"私の死"は理性である哲学にとっての些細事

 

 

3 第三人称、第二人称、第一人称態の死

・死には何かしらの還元できないものがある。

 =「模倣不可能な死」

モナドの有限性(三人称中性)を補うことができる。

・第三人称、第二人称は「他者に対するわたしの観点あるいは他者のわたし自身(=他者から彼やあなたにされた私)」に対する観点。この二者は異なった二つの主体のまま。

・第一人称は「あなたのあなたに対する観点」で「意識の対象と《死ぬ》の主語が合致する自身の死の生きた経験」。

①第三人称…無名性

(病人-医者のたとえが登場する)

医者の記述、生物学、統計など

「個人の立場を離れて概念的に捉えられたものとしての自分自身の死」

・問題提起する。しかし神秘学に属さず。

・客観性の極致

・相互置換可能(←第一人称、第二人称により否定)

②第二人称…特権的

・近親(=第三人称の死と第一人称の死の仲介者)の死

・「親しい存在の死は、"ほとんど"われわれの死のようなもの、われわれの死と"ほとんど"同じだけ胸を引き裂くものだ。」

存在論的な意味で同じであるのではなく隠喩的な意味で。数の上では二者。

③第一人称…悲劇の主体性

・神秘性あり

・苦悶の源泉

・第一人称の死(=「わたしのことが問題なのだ!」)に対して第三人称の死は役に立たない。死はわたしを名指ししているから。

・人は一人で死ぬことになっている(パスカル)

 

それぞれの人称から見た死

・一人称→「一つの半端な出来事でありながら、一つの絶対」

 未来が特権的な時。わたしは死より前にいる。死が到来したときわたしはいない。

・三人称→「一つの相対的現象」

 ある死を好きに論じられる。∵非時間的、無名であると同時に無時間的。過去の無限の延長が特権的な("特徴的な"の意?)時。

・二人称→三人称と一人称両方の特性を併せ持つ。+現在が特質(特権的)。

  →これをもって、ようやく死の哲学が可能になる!

 

 (メモ:内観=内省、内部観察) 

 

 

こちら側の死、その瞬間の死、むこう側の死、その三つを以下考えていく。

 

 

第一部 死のこちら側の死

その三つはそれぞれ不可能さを抱えている。

・此岸(こちら側)の哲学→「その対象が常に死以外のもの」思惟するのは死でなく生

・死の瞬間の哲学→「瞬間が認識にとって把握不可能で使用不可能な”ほとんど無”」

・死のむこう側の哲学→「彼岸が全く認識不可能」「”まったくの無”」

 

第一章 生きている間の死

 1.死の省察

・「死の中には文字通りに”何も知るべきもの”はない。」

  死はほとんど思考の対象となり得ない→虚無の思惟はできない

Q.では、死についての省察とは……?

 死のまやかしについて考えること(=死を考えることはできない)

 この空しさは死が非存在であることに由来する。思惟は相対的に諸概念を考えるが、死は他とならぶものでないため、それ以上に思惟不可能。「思惟はつねに死に先を越されている」(そういえば、死は理性にはとらえるに限界のあるものだった)

 

死を考えるとすれば

①死"について"考える。死をめぐって、死に関して考える

 =周縁について考えるということ。

②死以外のものについて考える。e.g.生

  死すべき存在=生きた存在を考えることはできる。こうして生を考えることになる。

固定観念や宗教は死の認識を進歩させない。

 

2.深みおよび未来としての死

死は考えるべくしてできていないのでは。

死の思惟は不健全な思惟(存在は存在ならぬものを省察するために与えられていない)。知性の破壊的性格。存在を穿って深みを発見する者は自然の意向に逆らっているようにみえる。

パスカルは自然の保護的究竟性により深みを避けることを「注意の散逸」と呼ぶ

 

・気苦労、すぐれた記憶…わたしを深みへ向けさせ、生きるのを助ける。哲学の執心を払いのける。真理を隠蔽する。

 ↕

形而上学的平静…死の気苦労を追放する。根源的始源と決定的終結[おそらく生と死]の問題を絶えず蘇らせる。人々の無関心を乱す。

 

 ・現実主義的な一種の実体論→死を生の深みの中に探求するようしむける

 

ラファエルの無頓着さ…気苦労も悩みも無い。

 ↕

デューラーの悩み(憂鬱)=哲学者?…「越経験的な周縁の間隙の連続のさ中へのとるにも足らぬ闖入」

 

・「老人は直接に、若い娘は婉曲に、死を語るのだ。」

 ・「美はいみじくも現存在であり、形態の感性の極致であるために、悲観主義がこの傑作に傑作に対してことのほか激烈な恨み、ことのほか冒涜的な憎しみを抱く」

 

ニーチェ…異教の充全性の奥に憂鬱を読み取る。

 ・ショーペンハウアー(=デューラー)…生の歪曲した解説。現存在を不在に化す。

 →死は生の越経験的な裏側。

  ・誰もその死を見たことはないが、間接的に垣間見ることはおそらくある。

 

生に住み着いている死は原理でない。∵それは迷信。「此岸の死の思惟が空虚な思惟であるからには、此岸の死の哲学に一つの内容を与えることは決してない。」

 ⇒したがって、生の中の死は幻影である。

しかし、この口実の下に思考を拒絶=哲学的思惟の妥当性に意義を唱えること。

・人は「見えていないものを自分なりに見、見えないものを精神の視力で見る」

 ・未来におこりうること、顕在しないものを思索できる。=「帰結を先に見る視力」

 ・気苦労は軟体動物から脱却するための代価である。

  ・快楽には苦痛は見出されない。しかし、気苦労で理性的な人間は快楽を経験しながら、その快楽が前兆となる苦痛を思う。

 

・「思い煩いの深遠な合理的真理」と「無頓着の表皮的真理」とは互いに矛盾し、同時に両者とも等しく真実な二つの真理である。

 

 ・死の非存在は哲学の対象だが、他の対象と比べると疑わしい。

 ・死を特権的瞬間(=最後の瞬間が近づいたとき)に位置づけようとしてしまう。

 しかし、それは罠である。

  死(死の啓示)は最後の瞬間よりもっとずっと生命に由来する。

 

・死に関する省察は、注意力の集中(e.g.医師の診察)とは共通点がない。

 ・死は直観へのある程度の自己放棄を要求する。

 ・注意力の集中は死後でないと(徴候になってからでないと)役に立たない。

 ・死の省察は万人に可能である。

  ・そこで語られる悩みは、①偶発的に添加され②一部の人に訪れる困りごとであり③原因と全く一致する

・気苦労は逆説的に、救いをもたらす真の無関心を表象する。=動機をもった気苦労

・死の越経験的な苦悩は気苦労の欠如、ないしは無頓着=無動機な苦悩

楽天のあとには苦い後味が付きものだという暗黙裡の不十分さは、生命が生命であるという事実に由来する。存在の仕方によってではない。

 ⇒動機をもった気苦労(=注意力の集中)と無動機な苦悩(=死の省察)に共通点はない。

 

・生は死=非存在を語らない。生のみを語る。

この肯定性を希薄にすることはできないだろう。

・死について考えるなら、ある程度の形而上学的倒錯が必要。

 ・死は何にも関係が無く、同時に関係がある。楽観主義↔悲観主義

 ・どこにもいないものこそがどこにでもいる。「遍在-遍不在」e.g.神

・「生は同時に死に覆われており、死に貫かれている」「端から端まで死によって包まれ、死が滲みこみ、死に浸っている」

 →生は生のみを語る、というのは字面だけということに。

  →それどころか、生は死のみを語る。何を語ってもそれは死を語ることになる。

   e.g.希望、苦痛、時間……

・「存在と非存在の混合である仮象について省察すること、それは暗々裡に死について省察することだ。」

 

・生の死の公現は寓意的。つまり暗示。

・「いまとなっては、死のこの世における現実は、むしろ、生のおのれ自身の秘めた内奥への一種の精神的転向の中に姿を現すように見える」「この転向がわれわれに平静さを与える」

VTuberの見えない領域 ~魂と生身〜

 

 最近、有名VTuberの引退発表が続いてしんどいです。ちょうど「引退とは何か」などを考えていたのですが、より勝手な使命感を駆り立てられました。大学の期末試験を乗り切ったら書こうと思ってます*1

 

 さて、この記事ではその前座として、VTuber「魂」概念についての更新を試みます。流れとしては、魂のさまざな曖昧さを指摘し、そこから新概念として「生身」を提示、魂の詳細な述べ方を模索します。

 また、「VTuber」という総称はいまや意味が広すぎるという指摘*2を重く見て、以下においてはVTuber」をひとまず「にじさんじライバー」を指すものとし総称としてのVTuberは「バーチャルユーチューバー」と表記することにします。これがどこまで敷衍できるのかは、今後みなさんと一緒に考えて行けたらと思います。

 

 

 

 

魂の曖昧さ

 VTuber(=にじさんじライバー)とはなんぞやという話はもはや不要でしょうから、魂概念の確認から始めましょう。

 魂というのは、バーチャルユーチューバーの中の人を比喩的に指す言葉です。リスナーは、アニミズム的な「人間の肉体を動かす霊魂」という発想をもとに、 たとえばVTuberの立ち絵を「身体(=ガワ)」、その身体をモーションキャプチャーを用い動かす何かを「魂」と喩えました。具体例を出すと、月ノ美兎に対する「中の人」、つまり月ノ美兎の声を担当しかつ立ち絵を動かす何者かが魂です。

 

 しかしこの魂は、世間ではかなり曖昧で、意味が広く用いられているように思います。

 

 たとえば、今例に挙げた月ノ美兎は、第三者的には「誰かよく分からない人が月ノ美兎をやっている」という認識が一般的です。ここでは、魂のよく分からなさという元の文脈に準じて語が使われてますが、一方、バーチャルのじゃロリ狐娘YouTuberおじさん(現在は引退済)の「魂」はねこます氏で、この場合、第三者的にはねこます氏という実在の人間が魂ということになり、少し元の語義とは意味が逸れてきます。しかし、この異なる両者は、同じく魂と呼ぶことが暗黙に了承されています。

 

 これはバーチャルユーチューバーのタイプ分けの問題でもあります*3、同時に魂が、総括的な意味での「VTuber」と同じく広義で、議論に使うには少し不便であることも意味します。

 

 また、もう一つ例を出せば、のらきゃっとの「魂」は実際にはノラネコPですが、しかし彼女の場合はそう言ってしまっていいのか少し疑問です。のらきゃっとは合成音声で話しますから、身振りと口調さえ似せてしまえば、誰でも彼女になれるという蓋然性があります。私はアニメPSYCHO-PASSのたとえを一度呟いたことがありますが、そこで言及したストーリー上では、殺人犯が被害者からアバターを奪い取り、全く同じ声、同じような身振りを使って、被害者がそのアバターを使っていた時より、より多くの人々の支持を集める様子が描かれています。おそらく、現実にもそういったことは可能でしょう。

 

 

 そうしてみると、彼女と魂は、一対一の対応でなくともよいことになります。それはつまり、彼女一人に対して複数の魂が入り込み得ることを意味します。

 しかし、魂とは元の意味において、人間の体と一対一でのみ対応します。「別の魂が身体に入り込む」とは、外見のみ同じの別人になるということです。そして私たちは言葉を用いて議論するわけですから、そうなると、たとえば一つのアバターに複数人が入り込むことの是非や今後の影響を考えたいときに、その魂という語の先入観が、議論を邪魔してしまう可能性があります。

 

 ひょっとすると、バーチャルユーチューバーに使われる魂という概念は、バーチャルユーチューバーの多様化(下のツイート参照)によって、使い勝手が悪くなってきたのかもしれません。

 

 

 魂と身体の対応の仕方や、その語そのものが持つ制約など、まだ他にもあるかもしれませんが、ともかく「魂」は事実、議論の俎上では使いにくい言葉でしょう。

 そこで、魂を切り分け、かつ魂では見落とされがちな領域を指摘する概念として、「生身」を考えようと思います。

 

 

生身という考え方

ネットに追跡されないもの

 当たり前のことですが、VTuberはインターネットに生きていますYouTubeやミラティブで動画を公開し、配信し、Twitterで日常の諸々や配信予定などを呟くのが彼らの暮らしで、それらはすべてインターネットのうえで成り立っています。

 そのインターネットですが、それは誰もが誰とでも繋がれる場所であるとされています。私は自分が望むなら、関西から遠く離れたアメリカの人とシャドバの話もできるし、ネットの友だちとスマブラもできるし、有名なタレントに直接思いを伝えることもできます。そこではあらゆる情報があふれ、私たちは知りたいことを、調べる意志さえあればすぐに知ることができます。まるでそれは、ありとあらゆるものが揃う楽園のようにも思えます。

 しかしながら、私たちはすべての情報をネットに明け渡すわけではありません。私たちはネットリテラシーを要求されます。個人情報、つまり顔や住所などは、平均的な人間のほとんどは公開せず、手の内に持っておくのです。ネットは時に身勝手で横暴で、理性は通用しないことがありますから、そもそも渡さないに越したことはないのです。

 私はその、ネットの手に渡らない、公開されない情報群を、以下「生身」と呼びたいと思います。

 たとえば、私は「とらじぇでぃ」として活動しています。それは、「本を読むのが好きな法学部二回生で男で意味の分からないことばかり呟いている誰かさん」であり、それだけ見れば私はかなりの情報を(ライフログ含め)SNSなどに手渡しているのですが、しかし一方で、本名とか、住所、名前などは一切ネットに出していません。なぜならトラブルに巻き込まれる恐れがあるからです。私はそれらの総体を、ネットという巨大空間に包まれない、生の身体、生身だと言いたいのです。そしてその一方、「とらじぇでぃ」は一つの仮想(仮装)として機能します。その仮想は、私が出そうと思った情報を吸収し、成長していきます。この仮想を、以下「演者」と呼ぶことにします

 もう少し例を出しましょう。これは一つのアナロジーとして言うのですが、たとえばリアルの生活においても、生身と演者のようなものを見出すことができます。私は、実生活において、自分のことを誰にでも話したりはしません。それは「相手」をどの程度まで信頼すべきであるかという問いを経て、慎重に決定されます。また、それは家族に対してもそうです。誰でもそうでしょうが、自分のことをすべて、何もかも知っている他者というのは存在しませんし、またそういった人は、物理的側面においても言語的側面においても、存在できません。

 そこでいう「相手」は、本論においてはインターネットです。インターネットは先ほど言ったように、信頼できる相手とは言い難く、また、部分的に信頼できたとしても、すべてをさらけ出すことはしないでしょうし、もし本人がそう考えたとしても、実現は不可能です。なぜなら、時間的余裕も、言語の語れる範囲にも、限りがあるからです。

 

 

VTuberの生身

 

 同様に、VTuberにも生身が考えられます。

 

 

VTuberの構成

 VTuberは、VTuberのキャラクター人格と、生身から間接的に生み出された人格で構成されると想定できるでしょう。前者のVTuberのキャラクター人格」とは、そのキャラクター設定から導かれる人格を指します。また後者の「生身から間接的に生み出された人格」とは、一般に言う「中の人」の人格のことです。中の人とは、先ほどの月ノ美兎の例で言ったような、「誰かよく分からないがそのVTuberを動かしている人物」のことであり、その人格は、生身から影響を受けて決定されます。

 VTuberは、そのVTuberのキャラクター人格と、「中の人」の人格とがせめぎ合って成り立つ存在です。両者はある意味同一人物ですが、矛盾したことに、双方はもう一方を押さえつけ弱めようとするか、あるいは噛み殺そうとします。両者の均衡を保つことは、至難の業でしょう。しかし片方が消滅してしまうと、そのVTuberは消滅します*4。しかしながら、両者は間違いなく互いに別人です。

 ここには、キリスト教カトリックの三位一体のような難しさがあります。カトリックは、父・子・聖霊はすべてがイコールとなり神を指すとしつつ、しかしそれぞれは別のものだとします*5

 

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三位一体の図。WIkipediaから。

 

 そういったように、VTuberのキャラクター人格と、「中の人」の人格は、互いに一致して一つのVTuberを作りながらも、両者は別のものです。そういった複雑さの中で苦しむVTuberを、みなさんは見たことがあるでしょう。御伽原江良はその例として最も適当ではないでしょうか*6

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御伽原江良。かわいい。画像は@OtogibaraEra12月6日のツイートより。



 

不可侵領域である生身

 

 そして、重要なところですが、その両者は客観的に、つまり第三者的に見て区別されません。両者は見かけ上、同じに表象されます。もし第三者が、仮に区別がつけられたと思っても、それらは大抵、どちらかに断定することはできません。たとえば月ノ美兎の「もつ鍋とビール」も、一見すると「中の人」の人格がキャラクター人格に競り勝ったと見えますが、実は逆に、「飲酒する高校生」というアングラ的設定を暗示しているだけかもしれないわけです。私たちリスナーという第三者は、表に出てこないそれをただ類推できるのみで、その真意が分かるのはVTuberのみなのです

 ここでいう見えない部分が、VTuberの生身にあたります。その人だけの特権的領域であり、その人が気を許さない限りは不可侵の領域。私たちリスナーは、間接的にのみ、生身に触れることができます。

 ですから、よく VTuberは「アバターと人間を組み合わせたその重なり合う部分」だと言われるのですが、それはそのVTuberにとってのみの話であって、第三者から見るとそれはごちゃ混ぜになってしまって区別ができないのです。

 

 

演者の生身

 

魂と生身の範囲

 

 ところで、この生身というのは、魂と比べると狭い概念であり、同時に魂が掬いきれなかった領域をカバーする概念です。最も広い意味での魂を区切ったものが、中の人と演者、生身であるとも言えます。

 またそれらは、「魂」概念ではこれまでもたらされて来なかったであろう「ネット空間の内と外」の考え方を持ち込みます。演者と生身は「魂」という語のスピリチュアルな先入観からVTuberを解放し、インターネットの内外という側面から改めてVTuberを見つめることを可能にします

 

 では生身は、魂と比べてどのように狭いのでしょうか。

 生身をあえて魂になぞらえて言えば、それは「端的な魂」です。つまり、魂の魂、客観的には認識できない、つまり実在しない魂です。演者はネットにおいて実在しますが、生身はネットから認識できないという意味で実在しません。

 また、生身は魂と違って剰余の概念であり、否定形でしか語ることができません。生身はネットから確認“できない”、第三者からは認識“できない”概念です。ある第三者に演者と生身の境界が決定された状況において、その生身を肯定で語れるのは、その本人のみであり、その本人だけが、生身を知っています。なので、もし本人がそれを公開すれば、それは生身ではなくなります。ネットに譲渡されていないもの、それが生身なのです

 

 

認識できるもの・できないもの

 

 ここで発想のベースにしているのは、哲学者・永井均の思想です。永井は『存在と時間 哲学探究1』などの著作で「私」についての哲学を展開しています。それは私の理解する限りでいうと、次のようなものです:

「私」には、「実在的な私」「現実的な私」という二つの「私」がある。

 前者は「私」にも「あなた」にも「彼」にもなる、客観的に認識できる「私」であるが、後者は認識できない。たとえば、あなたが転んで膝をすりむいてしまったとする。この時、あなたは痛みを感じるが、その痛みはあなたしか感じることができない感覚であり、あなたでない人は、その痛みを感じることができない。

 この「現実的な私」を象徴する感覚は、全員にあるが、しかし、その感覚は唯一「私」にしかない。この世界で、痛みとか、熱さとか、そういったものを感じるのは、唯一この「私」しかいない……。

 

 ここで私が試みているのは、こういったことです。つまり、みんなが認識できる私とは別に、この私にしか分からない私、演者やVTuberにしか分からない私というものがあって、それは決して表に出てこない、顔を見せない存在であるのです。ただ、注意してほしいのが、永井哲学の「現実的な私」はいわば色のない、世界を見る視点(開闢の点と呼ぶ)であって、人格や記憶などその人に固有の要素は「現実的な私」そのものに関係しないのですが、私の言いたい生身はその点、人それぞれに全く異なるものだということです。

  演者の生身は言い換えると、「ネットに追跡されない」情報群であるともいえます。ネットに表れず、ゆえにネット住民に追跡され得ない情報群が生身です。その生身は相対的で、どんな情報がネットから隠されているかは人によって大きく異なります。

 また、生身は本人の「隠したい」という意志ではなく、実際にネットで追跡可能かどうかに依存します。たとえば、直接的にメタな話になりますが、VTuberにはニコニコ生放送で活躍していた人物が活躍している例があります。彼らはその経歴を、VTuberというキャラクターを守るために、また演者の人格が優越してしまわないように、表に出さないようにしますが、しかし、彼らのネットでの声や喋り方は生身が間接的に滲み出て、影響した結果であるので、調べればそのネットに漂う過去の経歴は、 VTuberにも繋がってしまうわけです。こうして追跡されるものは、生身ではなく、演者に属します

 そうして演者と生身の境界線は、第三者によって引かれていくのです。そのため、これも重要なことですが、生身はある第三者によって確定されるといえます*7

 そうして決定された生身は神聖不可侵であり、契約などに依らなければ露出するよう強制されず、思想の自由に守られるはずです。

 ただ、誤解して欲しくないので確認ですが、「演者」と「中の人」は違うものを指していました。「中の人」とは、「VTuberを動かす、生身から間接的にやってきた何者か」です。

 そのため、VTuberの人格については話が異なります。VTuberの場合は、キャラクター人格と、生身から間接的に生み出された人格(=「中の人」)とが融合してしまって、区別が付けられないのでした。

 

 

 VTuberと演者

 

VTuberも一人の演者である

 

 さて、多くのリスナーは、 VTuberの「中の人」のTwitterアカウント*8= VTuberの演者を、魂のアカウントだといいます。しかし、もしそれが「演者はVTuberの本質、中核である」という意味であるなら、ここまでの文脈上、それは少し違うといえるかもしれません。というのも、演者は生身ではなく、いまだネット上にある電子的存在です。つまり、そこにもVTuberのような仮想が存在しているわけです。たとえば、VTuberの別のアカウント、つまりVTuberの演者を覗くことは、実際のところ可能です。少し調べれば、ネット素人の私でも簡単に出来てしまいます。しかし、そのアカウントは、VTuberの本質ではないのです。それはVTuberとは別の、生身の一つの側面であり、生身がネットの仮想の皮を被った、もう一つの姿にすぎないのです。

 つまり、VTuberと演者というのは、生身を前にすると、同じ階層に立つことになりますVTuberも、演者も、同じ人に“演じられている”からです。その意味で、両者は両方とも演者なのです

 

 

VTuberは特権的な演者でもある

 

 しかし、そうは言いつつも、両者は同じではありません。 

 私たちが見るVTuberというのは、唯物論的に断定すれば、人間がアバターを動かしているに過ぎないのですが、しかしそれはあまりに単純なものの見方と言わざるをえません。VTuberはそう単純なものではなくて、VTuberは同時に、「外来のキャラクター性」を纏っています。「外来のキャラクター性」とは、先ほどの「VTuberのキャラクター人格」の言い換えで、生身に属する根源的な思想とか、性格とか、無意識の行動とかとは全く異なる、キャラクター設定から与えられた人格のことです。これが、「VTuber-演者」関係の、重要なファクターです。

 つまり、VTuberは、それ自体が演者であるが、しかし同時に、外来のキャラクター性と「中の人」の人格で成り立つ、演者とは異なった存在であるといえます。

 以上より、VTuberはいわば、特権的な演者といえましょう。 

 

 生身という観点が追加されると、私たちは一個の共通の基準を得ることになります。VTuber・魂の関係のみでは、議論には少し不便ですが、一方でVTuber・中の人・演者・生身という関係は、全人間が持つ共通の要素にVTuberの基盤を指示できます。そうして、生身という不可知に敬意を払い、また、VTuberと演者が同じくネットの存在であることを意識することで、たとえば引退についても視野が広がるのではないでしょうか*9

 

 

まとめ

 

 さて、ここまで色々と説明してきましたが、今一度、内容を確認します。

 

 メインの概念である「生身」とは、全人類に共通の、ネットから隠されたものであり、また否定形で語られる、剰余の概念でした。

 そして、「演者」とは、ネット世界に参入した人が仮想的表皮を身につけた姿であり、これもネットにいるすべての人間が持つものです。

 またVTuber」とは、生身から間接的に生み出されたキャラクター性と、生身由来ではない外来のキャラクター性が結合して成立する、通常の演者とは異なった特権的な演者です。

 最後に「中の人の人格」とは、「 VTuberにおける、生身から間接的に生み出されたキャラクター人格」でした。

 

 これらは魂を更新し、その語義から意味内容を解放します。そして、新たにネットの内外という視点を追加するのです。

 

 また、この三概念、とりわけ生身の存在は、まだ十分検討したわけではないので提示するだけにしたいのですが、実用的側面では、VTuberについての言説にゆとりを与えるのではないかと考えています。つまり、良い意味で人を懐疑的にさせ、健全な議論へ導く可能性を秘めているのではないかと考えてます。しかし今はうまく書けないので、これは今後の課題にしたいです。

 

 最後に、再三の確認になってしまいますが、この記事では「VTuber」をにじさんじライバーを指す言葉として、記号的に用いました。「生身」やその他の考え方を他の箱や個人勢にそのまま転用することはおそらくできないと思うので、どこまでどのように敷衍できるかも考えていくべきでしょう。

 

 以上、また長くなってしまいましたが、お付き合いくださりありがとうございました。よかったら他の記事も読んでいってください。

 

 

tragedy.hatenablog.com

tragedy.hatenablog.com

 

 

 

参考にしたもの

存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)

存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)

 
国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

死

 

ja.wikipedia.org

図の孫引きお許しを……

t.co

t.co

t.co

 

 

*1:上がらなかったら飽きたか諦めたと思ってください笑

*2:VTuberは4種類いる|hatosan|noteを参照

*3:同じくVTuberは4種類いる|hatosan|noteを参照

*4:確認ですが、ここでいうVTuberにじさんじライバーのことでした。

*5:まちがっていたら指摘お願いします……

*6:VTuberとして生きることの喜びと苦しみ・御伽原江良の場合|メルクマ|noteなどが分かりやすい。

*7:そしてその境界線は動的であり、常に生身は削られていくでしょう

*8:など別の活動名

*9:どう広がるかについては、次回の記事で書くつもりです。

アドバイザーやらせてもらってます

こたつで寝る人のイラスト

 

 

 ちょっと寒くなってきました。昨日なんて気温一桁だったらしくて震えましたね(二重の意味で)。まだ耐えられるとはいえ寒いのは寒いので、ぽれの家にはコタツが登場してます。あったかいです(コナミ

 

 さて、少し前にアドバイザーがやりてえ!的な記事を書いたんですが、ありなたいことに4チームから応募があり、アドバイザー、やらせてもらってます。

 今のところややこしい話もなく、順調に進んでいて、一安心です。もう既に炎上しているようなチームからの依頼はやめてほしいなあと思っていたので…w

 というのも、炎上してしまっているというのは、少し強い表現を使えば、そのチームが既に腐敗していることを意味します。炎上の後、そのチームは大抵解散しますが、それは炎上が解散を招いたというよりは、チームをして炎上に至らしめたチームの不和が解散を招いたのです。

 そしてそのような腐敗は様々な悪手が絡み合う複合的な原因によるものであって、そこからチームを救うにはかなりの困難が伴うでしょう。

 まあしかし、今回応募があったのは新設チームが2つに正常なチームが2つだったので助かりました。過去に手を加えていくようなしんどい作業はしなくて済みそうです。

 これからの仕事としては、リーダーさんの相談に乗ることが主となると思います。そのためには、リーダーさんが熟慮の過程で私に聞くことを思いつかなければならないわけです。

 

 思い出話を少しすると、私がリーダーをやり始めたころ、よくやってしまったのが「思いつきで行動して失敗する」ことでした。思いつきで行動して、成功すれば良いんですが(そして実際大半は成功したんですが)、失敗してしまうと物凄く後悔します。しかも、その失敗は簡単には取り返しがつかなかったりしました。なので私は考えまして、何かをしようと思う時は、公募をすべきかとかメンバーへのアナウンスをするかとか何にしても、副リーダーに意見を求めるようにしてみました。すると、そういったミスはかなり減ったのです。

 

 「私」の視点というのはかなり狭くて、相談した時の返事は大体肯定だったとしても、たまに思っても見なかった指摘をもらえることがあって、難を逃れられたりします。他人の視点は結構大事です。私がアドバイザーをやろうと思ったのは、そういうこともあるんですけれどね。

 なので、他人に聞くのは大事なんですが、そのためには一度思い留まることが必須なんです。哲学では判断中止(エポケー)といったりします。「こうに違いない!」と思ってしまっていることでも、一度それをカッコに入れてみて、「本当にそうかな?」と考えてみる。そうしたら、「ああかもしれない」「こうかもしれない」と色々な考えが出てきて、それらを検討してみる必要が出てくる。そしてその作業は一人では厳しいことがあるので、他者の助けが必要になってくる。

 どんなに優秀な人間もロボットではありませんから、毎回優れた判断ができるわけではありません。それを自覚すること。そして、自身に欠けた部分や、自身が見落とした部分を他者に補ってもらう、それができてこそ良い運営ができるのだと私は思ってます。

 

 

シャドバアマチュアチームのアドバイザーをやりたい!

 

 

両æãæ¡ã£ããã¼ãºã®ã¹ã¼ã姿ã®OLã®ã¤ã©ã¹ã

 

 とらじぇでぃです。

 先日、リーダーを務めていたBABELを解散し、シャドウバースも引退しました*1。悔いはありません。むしろ、リーダーを辞めたおかげでいつもより軽い気持ちでツイートができます。寂しさはありますが、良いこともあるものです。

 

 しかし2年と2か月もリーダーをしていたので、「あ、これ次の内戦に使えるな」とか思ってしまった時には虚しさが募ります。もう内戦はないのに。ため息モノですが、同時に、「このリーダーの経験をこのまま持て余すのも、なんだかもったいないな」という気持ちが出てきました。

 

 そこで、チーム運営の相談役というのを思いつきました。

 チームの運営に関する問題にのみ、助言と提案を行う仕事です。

 

 たとえば、チームを作りたての方。たいていが初めてリーダーをやるでしょう。

 それは極めて不安なことです。私もそうでした。

 初リーダーの方は、たいてい過去に所属していたチームを真似ていくものですが、それだけではすぐ壁にぶつかります。

 私もたくさんの問題に直面し、解決策を考えに考えましたが、それでも分からないことはありました。そこで頼ったのは、前に所属していたチームのリーダーです。そのアドバイスのお陰で乗り越えられたことはたくさんあります。

 自分でない他人への相談は突破口になり得ますし、そしてその他人は経験者であるほうが、より良い結果を得られます

 

 また、トラブルの多いチームにも、役に立てることがあるかもしれません。

 私はチームが炎上しないよう、2年余り、細心の注意を払ってきました。その甲斐あってかチームは不名誉な話も無く、有終の美を飾ることができました。

 そのノウハウ——といっても大したことではないですが——も、相談役として教えられます。

 また、仮に炎上が発生した場合にも、その対応に手を貸します声明など文章の作成も、言っていただければ手伝います理論武装の必要があれば、なけなしの哲学・法学の知識もお貸しします

 

 そうでなくとも、運営に不安がある方には助け舟を出したいと思っています。

 

 もし私が雇われた場合、チームの内情が分からないと意見ができないので、運営方針などを詳しく説明してもらったりチームのグループに入れてもらったりといったことが必要になってきます。中には不安を感じる方もいるかもしれませんが、心配は無用です。

 たとえば私の思いつく不安要素としては、①チームのシャドバ知識を漏らされる②チーム内の雑談を晒される③主導権を奪われる④コミュニケーションの邪魔になる、といったことがあります。

 

 ①「チームのシャドバ知識を漏らされる」は、死活問題です。チームの第一義は、自分が死に物狂いで得た情報を少数のみで共有し、全体を向上させ、より良い答えに到達することにあり、ゆえにその過程の漏洩は致命傷になりえるでしょう。

 しかし私はそんな気など全くありませんし、付け加えて言えば私はシャドウバースを引退しています。何が重要で何が蛇足か、今は少し推測できても、次第に分からなくなるでしょう。私はあくまで運営面で関わるのであり、シャドバについては口出ししませんし、口外もしません。仮に口外したとしても、得られる利益は皆無で、打撃は甚大でしょう

 

 ②「チーム内の雑談を晒される」は、たとえば愚痴などが該当します*2。ないとは思うのですが、仮に、スクショが出回れば一発でチームが崩壊するような発言があったとしても、私は何も致しません。いや、制止の提案はするかもしれませんが、外に流したりすることは絶対にしません。相談役を受けるにあたって、そのプライドはあります。

 

 ③「主導権を奪われる」。リーダーにとって、主導権・指揮権の喪失は恐るべき点です。「チームとはリーダーのやりたいことを実現する場だ」と言ったフォロワーがいましたが、主導権を失えばそれも叶いません。

 しかし、私がしたいのはあくまでも幾らかの提案です。私は提言はしますが、決断するのはリーダーやメンバーたちです。私はただ相談役としてのみ参加するのであり、それを逸脱しては行動しません。また、チーム内では一切発言しないので、私がリーダーに挿げ替わることもありません。

 

 ④「コミュニケーションの邪魔になる」も、真っ当な不安要素です。シャドバ引退者をチームに入れたら、シャドバとは無関係な話ばかりするかもしれないし、その結果、メンバー全員の士気を落とすことになるかもしれません。

 ですが、その心配はいりません。チームに入るとは言いましたが、先ほども言った通り、私は自己紹介を除き、チームでは一言も発しません。なので、邪魔になることは一切ありません。

 チームに入れてもらうのは、この目でやり取りをみているほうが提案もしやすいからです。百聞は一見に如かず、です。

 

 以上、一通りみなさんの不安解消に努めました。

 

 さて、相談役といっても、仕事は少ないでしょうから、チームはいくつか掛け持ちしたいと思っています。しかし、守秘義務は遂行しますし、またどこかを疎かにすることもありません

 

 そして、リーダーは私をいつでも解任できることにしましょう。もう独り立ちできると思ったり、もう必要ないと判断すればいつでも辞めさせてください。

 同時に、私も相談役を続けられないと感じた場合には辞めさせていただきます*3。が、よっぽどのことが無い限りは、全力で応援させていただきます

 

 見返りは、交友の輪を広げることで十分です。悲しいことに友だちが少ないので、一人か二人、気の合う人が見つかればと思っています。

 

  これらを踏まえ、条件は以下のようになります。

 

 

 【お手伝いできること】

 ・運営に関する諸々の提案、助言

 ・ルール作り(募集要項、除名条件、外でのマナーなど)

 ・炎上への対応

 ・いくらかの理論武装

 ・声明など文章の作成

 

  【ルール】

 ・守秘義務は遂行

 ・チームグループでは一切発言しない(自己紹介除く)

 ・リーダーに対して、もしくは意思決定機関でのみ提言

  ・助言、提案以上のことはしない

 ・文章作成は依頼された場合のみ行う

 ・相談役の存在は公表してもしなくても可

 ・リーダー及び意思決定機関は私をいつでも解任可

 ・相談役はチーム環境に不服の場合退任可

 

  【報酬】

 ・仲良くしてください……

 

 興味のある方は、私(@tragedy_ph)にDMを飛ばしてください。

 詳しいことはそこでお話ししましょう。

 

  お待ちしています。

 

*1:ゲームは自分で辞め時を決めるものでは無いと思っているのですが、おそらくもう遊ばないだろうという直感があるのでこう表現します。

*2:私のチームでは一切ありませんでしたが、そういったチームもありましょう

*3:私への態度が他人と接するにはあまりに横柄であるとか、罵詈雑言が飛び交うとか、全く話を取り合わないだとかいった場合を想定しています。