とらじぇでぃが色々書くやつ

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【レジュメ】①(p.1~p.62)『死』V.ジャンケレヴィッチ著

 

これはレジュメというか、私の思考メモとして書いたものです。

読んでもさっぱりだとは思いますが、一応ネットにアップしておきます。

 

 ***

 

死の神秘と死の現象

・死は哲学の問題なのか。

 ・《自然学》における死→はっきり分かる。悲劇性取り除かれ神秘性無し

 

1越経験な悲劇と自然な必然性

(著者は死を神秘的なものと考えている)

 ・宇宙論流の普遍化=「死を些細なこととみな」す

 ・合理的省察=「死を概念化して、その形而上学上の重要性を蔑視」する

 

①死は「越経験的な断絶」であり、以上のような考え方は「観念上の永遠のうちにごまかしこむ」行為。

②また死は同時に悲劇的で、置き換え不可能なもの。

死の性格はこの両者の矛盾に由来。「越経験的でありながら経験界のただ中で身近に到来する」。

e.g.)死は一方では新聞の記事(時間と空間の限定)、他方では「他の雑事のいずれにも似ていない」「他の自然現象と尺度を異にしている」。

これは奇跡のようだが、ただし、二重の制約↓

①死は消滅と否定。

②死は奇跡でありながら普遍的な自然現象。

「死はいみじくも"秩序を逸した秩序"だ」(生の途上の些事とは別の秩序で動きながら、それ自体秩序的)

「絶対とは、生命とはまったく異なった秩序に属する」

 

Q.なぜ死は人を驚かせるか? なぜ死は法外か? 至って正常な出来事である死がなぜ好奇心と戦慄を呼び覚ますのか?

→愛や訪れる春のように、死も若いから=何度も繰り返されてきたことだが、"その"死はまた新しいもの。

 →ここから身近さと疎遠さの混合が生じる。

  ・物理学では神秘性を無視してしまう。

「神は絶対的に遠いものだが、死は遠くして同時に近い。」

   ・自殺の誘惑について。

「夜中に訪れるべき凶報と、すでに襲った悲劇をいまだに知らぬ家族の平和な幸福との間、気遣う無意識と幸福な無頓着の間には、ガラス戸があり、庭があり、そしてこの暗黒の厚みがある。」

・「人間は時に自然法則のみを考慮して神秘を無視し、時には現象を無視して神秘の前に跪く」→この矛盾がまやかしを助長し、根拠のない特権が、自己の死を隠蔽してしまう。

 →しかしそれが死を考える最低条件(理屈には合わないが=死は全員を襲う)

 

Q.死すべき運命は非個人的な一特性か?

 →たしかにそうだが、近親者に対しては躊躇いがある。近親者は"人間一般"ではないと感ずる。人の死は機械的には現れない。死は死に、説明のつかない新しいものを付け加える。そしてそれらが証明されたことはない。

 →しかし死という真理は不死であって、証明されなくても存在し続ける。e.g.正義と人間の行為

 →それでも私たちは過去に確認されたはずの死を何度も確認する。死の真理とは「実際の死がわれわれに再考の機会を与える不透明な宿命」

 

 

2.真に受けること——実効性、即効性、身をもっての関与

 

・このような、自身が死すべき存在であるという発見は驚きである。

 ・「すでに潜勢的に、そして実体上自分でもあるのに、顕在的になることができるようなものだ。」[振り返り]

・近親の死は知っていた以上のことを教えない。しかし、国語には無いなにかを与えはする。

・死を「真に受けた」人間の自覚の貢献には3つの相がある。

①実効性(↔︎可能性)

「死の深刻さを自覚すること、それはまず抽象的で観念的な知識から実際の出来事へと転調すること」「違った秩序への移行(メタバシス・エイス・アロス・ゲノス)」

②即効性

実効性の時間上の形。

自己の死=けっして訪れない未来、しかしそれがもうすぐ訪れてしまう。

「準備されていた不意打ち」

③身をもっての関与

「人が《自分の番》が来たと実感する(=瞬間に直観する)とき、その人間は死に即刻呼ばれていると感ずると同時に、みずから身をもって関与していると感ずる。」↔︎"ふりをしている"脅威

・死の三段論法は正しいが、自分自身にそれを適用するとき直面しなければならない苦痛をすこしも免除しない点では間違っている。

・端的純粋な自分=冠詞無しのわたしは「特権的な一人の人間」=情念に由来するもの

・"私の死"は理性である哲学にとっての些細事

 

 

3 第三人称、第二人称、第一人称態の死

・死には何かしらの還元できないものがある。

 =「模倣不可能な死」

モナドの有限性(三人称中性)を補うことができる。

・第三人称、第二人称は「他者に対するわたしの観点あるいは他者のわたし自身(=他者から彼やあなたにされた私)」に対する観点。この二者は異なった二つの主体のまま。

・第一人称は「あなたのあなたに対する観点」で「意識の対象と《死ぬ》の主語が合致する自身の死の生きた経験」。

①第三人称…無名性

(病人-医者のたとえが登場する)

医者の記述、生物学、統計など

「個人の立場を離れて概念的に捉えられたものとしての自分自身の死」

・問題提起する。しかし神秘学に属さず。

・客観性の極致

・相互置換可能(←第一人称、第二人称により否定)

②第二人称…特権的

・近親(=第三人称の死と第一人称の死の仲介者)の死

・「親しい存在の死は、"ほとんど"われわれの死のようなもの、われわれの死と"ほとんど"同じだけ胸を引き裂くものだ。」

存在論的な意味で同じであるのではなく隠喩的な意味で。数の上では二者。

③第一人称…悲劇の主体性

・神秘性あり

・苦悶の源泉

・第一人称の死(=「わたしのことが問題なのだ!」)に対して第三人称の死は役に立たない。死はわたしを名指ししているから。

・人は一人で死ぬことになっている(パスカル)

 

それぞれの人称から見た死

・一人称→「一つの半端な出来事でありながら、一つの絶対」

 未来が特権的な時。わたしは死より前にいる。死が到来したときわたしはいない。

・三人称→「一つの相対的現象」

 ある死を好きに論じられる。∵非時間的、無名であると同時に無時間的。過去の無限の延長が特権的な("特徴的な"の意?)時。

・二人称→三人称と一人称両方の特性を併せ持つ。+現在が特質(特権的)。

  →これをもって、ようやく死の哲学が可能になる!

 

 (メモ:内観=内省、内部観察) 

 

 

こちら側の死、その瞬間の死、むこう側の死、その三つを以下考えていく。

 

 

第一部 死のこちら側の死

その三つはそれぞれ不可能さを抱えている。

・此岸(こちら側)の哲学→「その対象が常に死以外のもの」思惟するのは死でなく生

・死の瞬間の哲学→「瞬間が認識にとって把握不可能で使用不可能な”ほとんど無”」

・死のむこう側の哲学→「彼岸が全く認識不可能」「”まったくの無”」

 

第一章 生きている間の死

 1.死の省察

・「死の中には文字通りに”何も知るべきもの”はない。」

  死はほとんど思考の対象となり得ない→虚無の思惟はできない

Q.では、死についての省察とは……?

 死のまやかしについて考えること(=死を考えることはできない)

 この空しさは死が非存在であることに由来する。思惟は相対的に諸概念を考えるが、死は他とならぶものでないため、それ以上に思惟不可能。「思惟はつねに死に先を越されている」(そういえば、死は理性にはとらえるに限界のあるものだった)

 

死を考えるとすれば

①死"について"考える。死をめぐって、死に関して考える

 =周縁について考えるということ。

②死以外のものについて考える。e.g.生

  死すべき存在=生きた存在を考えることはできる。こうして生を考えることになる。

固定観念や宗教は死の認識を進歩させない。

 

2.深みおよび未来としての死

死は考えるべくしてできていないのでは。

死の思惟は不健全な思惟(存在は存在ならぬものを省察するために与えられていない)。知性の破壊的性格。存在を穿って深みを発見する者は自然の意向に逆らっているようにみえる。

パスカルは自然の保護的究竟性により深みを避けることを「注意の散逸」と呼ぶ

 

・気苦労、すぐれた記憶…わたしを深みへ向けさせ、生きるのを助ける。哲学の執心を払いのける。真理を隠蔽する。

 ↕

形而上学的平静…死の気苦労を追放する。根源的始源と決定的終結[おそらく生と死]の問題を絶えず蘇らせる。人々の無関心を乱す。

 

 ・現実主義的な一種の実体論→死を生の深みの中に探求するようしむける

 

ラファエルの無頓着さ…気苦労も悩みも無い。

 ↕

デューラーの悩み(憂鬱)=哲学者?…「越経験的な周縁の間隙の連続のさ中へのとるにも足らぬ闖入」

 

・「老人は直接に、若い娘は婉曲に、死を語るのだ。」

 ・「美はいみじくも現存在であり、形態の感性の極致であるために、悲観主義がこの傑作に傑作に対してことのほか激烈な恨み、ことのほか冒涜的な憎しみを抱く」

 

ニーチェ…異教の充全性の奥に憂鬱を読み取る。

 ・ショーペンハウアー(=デューラー)…生の歪曲した解説。現存在を不在に化す。

 →死は生の越経験的な裏側。

  ・誰もその死を見たことはないが、間接的に垣間見ることはおそらくある。

 

生に住み着いている死は原理でない。∵それは迷信。「此岸の死の思惟が空虚な思惟であるからには、此岸の死の哲学に一つの内容を与えることは決してない。」

 ⇒したがって、生の中の死は幻影である。

しかし、この口実の下に思考を拒絶=哲学的思惟の妥当性に意義を唱えること。

・人は「見えていないものを自分なりに見、見えないものを精神の視力で見る」

 ・未来におこりうること、顕在しないものを思索できる。=「帰結を先に見る視力」

 ・気苦労は軟体動物から脱却するための代価である。

  ・快楽には苦痛は見出されない。しかし、気苦労で理性的な人間は快楽を経験しながら、その快楽が前兆となる苦痛を思う。

 

・「思い煩いの深遠な合理的真理」と「無頓着の表皮的真理」とは互いに矛盾し、同時に両者とも等しく真実な二つの真理である。

 

 ・死の非存在は哲学の対象だが、他の対象と比べると疑わしい。

 ・死を特権的瞬間(=最後の瞬間が近づいたとき)に位置づけようとしてしまう。

 しかし、それは罠である。

  死(死の啓示)は最後の瞬間よりもっとずっと生命に由来する。

 

・死に関する省察は、注意力の集中(e.g.医師の診察)とは共通点がない。

 ・死は直観へのある程度の自己放棄を要求する。

 ・注意力の集中は死後でないと(徴候になってからでないと)役に立たない。

 ・死の省察は万人に可能である。

  ・そこで語られる悩みは、①偶発的に添加され②一部の人に訪れる困りごとであり③原因と全く一致する

・気苦労は逆説的に、救いをもたらす真の無関心を表象する。=動機をもった気苦労

・死の越経験的な苦悩は気苦労の欠如、ないしは無頓着=無動機な苦悩

楽天のあとには苦い後味が付きものだという暗黙裡の不十分さは、生命が生命であるという事実に由来する。存在の仕方によってではない。

 ⇒動機をもった気苦労(=注意力の集中)と無動機な苦悩(=死の省察)に共通点はない。

 

・生は死=非存在を語らない。生のみを語る。

この肯定性を希薄にすることはできないだろう。

・死について考えるなら、ある程度の形而上学的倒錯が必要。

 ・死は何にも関係が無く、同時に関係がある。楽観主義↔悲観主義

 ・どこにもいないものこそがどこにでもいる。「遍在-遍不在」e.g.神

・「生は同時に死に覆われており、死に貫かれている」「端から端まで死によって包まれ、死が滲みこみ、死に浸っている」

 →生は生のみを語る、というのは字面だけということに。

  →それどころか、生は死のみを語る。何を語ってもそれは死を語ることになる。

   e.g.希望、苦痛、時間……

・「存在と非存在の混合である仮象について省察すること、それは暗々裡に死について省察することだ。」

 

・生の死の公現は寓意的。つまり暗示。

・「いまとなっては、死のこの世における現実は、むしろ、生のおのれ自身の秘めた内奥への一種の精神的転向の中に姿を現すように見える」「この転向がわれわれに平静さを与える」