とらじぇでぃが色々書くやつ

とらじぇでぃが色々書くやつ

主にVTuberの記事を投稿中。

ルールとか罰則とかの話と、過去に勝手に頓挫した一つの提案

 

 以下の記事は、3月の頭に書き終わったものの時期を逃し、発表し損ねていたものです。

 3000字程度のものなら躊躇いなくお蔵入りにするのですが、加筆修正を加えているうちに文字数が10000を超えてしまい。ボツにするのも勿体ないということで、ひっそりと投下することにしました。

 

 本文に移る前に、念のためお断りしておきますが、私には、この記事で取り上げた2つの問題を蒸し返すような意図は、全くありません。各々の問題は、それ自体は解決したものであります。

 また、私はその問題自体に対して問題提起をしているわけではありません。

 主題のきっかけとして、そしてあくまでも、例えとして、つまり主題の理解の助けとして問題を取り上げているわけであり、さらに言えば、その問題に対する意見はあくまでも添えられたものであって、本筋である主題は別にあるのです。

 そのことを、読者のみなさん、どうかお忘れなきようお願いいたします

 

 

 

 

 

 

 

 

 とらじぇでぃです。

 

 いやはや、昨今のシャドバ界隈*1はひどい荒れ模様でしたね。

 

 特に大きな問題となったのは、アマチュアチームRovの除名問題*2や、同じくアマチュアチームのVOPメンバーの不正問題を発端とする一連の騒動*3でしょうか。

 

 私はこれらについて、タイムラインが騒ぎになっても話題に触れないよう意識しておりましたが、全く関心が無いわけではなく、まず私がアマチュアチームのリーダーでありメンバーが大好きであって、彼らを守る努力を尽くそうと考えているため、そういったいわゆる炎上の動向やパターンを分析しておくことは多かれ少なかれ役に立つであろうこと、また、悲しいかな、私の内にある知識欲と野次馬精神が騒ぎ出してしまって、暇なりに勝手に手が調べだしてしまうため、私は「無関心です」とはいられなかったのです。

 

 という私の事情はどうでもいいでしょうが、そうした不安定なこの界隈に、秩序を与えるためにはどうすればいいか、少し考えたところ、そもそも「ルールとは何か」から話を始めたほうがいいのではないかと思い始めました。

 

 そういうわけで本稿では、①ルールとは何か、それに伴う②罰則とは何か、①と②を基に話を進めていく③シャドバ界隈への適用、そして最後は私が1年ほど前に考えたが半ば諦めていた事柄に関する、④シャドバ界隈における権力、の4つを扱います。

 

 といっても、私がオリジナルに考えたことなどほとんどありません*4。人文系の本を読む方なら知っていて当然のことばかりでしょう。ですが、そうでない方ならきっと得るものがあるはずです。フランシス・ベーコン*5という人は「知は力なり」と言いましたが、ある程度の知識は視野を広げてくれます。

 

 また、書くにあたって、蛇足と思う箇所は脚注に放り込んでおきました。この記事を読んでさらに暇がある人は読んでみてください。

 逆に時間の無い方は、この記事を読むのを辞めるか(笑)、あるいは③のシャドバ界隈への適用から読むと良いと思われます

 

 目次

 

 

①ルールとは何か

 ルールとは何か。あまりにも漠然とした問いですが、頑張ってみましょう。

 

 まず、ルールの存在意義、次にルールと付き合ううえでの注意というように展開します。

 

 さて、物心ついたときから、私たちはルールに触れていますね。一番最初は、家庭内のルールでしょう。たとえば、「使ったおもちゃは元の場所に片づける」とか、「食事の前にはいただきますと必ず言う」とか。

 

 そして次に実感するのは、学校の校則でしょうか。「〇〇時〇〇分以降の登校は遅刻とする」とか、「試験の不正行為は停学または退学処分とする」とかがそれです。

 小学校ならば、同時に「信号は守らなければならない」などの社会上のルールも学ぶことになるでしょう。

 そして社会に出れば社則というものも存在します。

 

 そして、規範のおおもとになる法律も見過ごせません。

 たとえば刑法では、「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。*6」となっていますね。他にも民法や商法などの大きな括りの法律から、〇〇に関するなんたらかんたらといった特殊な法律まで様々なものが存在しています。私たちはこれらに従いながら、日々を送っています。

 

 こんなルールに対して、面倒だとか、なければいいのにとか思ったことが、誰しも一度はあるでしょう。ルールというものは、私たちに制約を与え束縛するものです。いわば、自由を制限するものであります。それでも、私たちはそれを守らなければなりませんし、実際、私たちはそれを許容して暮らしています。それが何故かといえばもちろん、そこにはそうするだけの理由があるのです。

 

 では、その理由とは? なぜルールは存在するのでしょう? その存在意義とはなんなのでしょうか。

 

 言うまでも無いでしょうが、それは私たちが平穏に暮らすためです。ですがこれではあまりに抽象的で大雑把ですので、一度個別的に見てみます。

 

 上の例に立ち返り、まずは家庭内のルールを参照します。

 

 「使ったおもちゃを元の場所に片づける」というのは、生活空間を清潔にしておく、つまり秩序だった空間に維持することを目的にしているでしょう。片付ける習慣をつける意味もおそらくあるはずです*7

 

 「食事の前にいただきますと必ず言う」というルールには、宗教的慣習的ニュアンスがありますね。そこに、食物に感謝するという意図があるのはみなさん知っての通りですが、小児がそういった意図を知りながら、そうしたルールに従っているかと言われれば、おそらくそうではないでしょう*8

 

 次に校則に移ります。

 

 遅刻の存在は、集団行動を余儀なくされる学校生活においては致し方ないことでしょう。一人の遅刻は全体の動きを止めかねませんし、登校時間が定められていなければスケジュールを組むことも難しくなります。「高校生程度なら主体性も備わっているだろう」という意見についてはデータが無いのでお答えできかねますが、学校が社会へ人間を送り込むシステムである以上、小中高にはあって然るべきルールだと考えます。

 

 また試験の不正行為というのは、公平公正を保つためには絶対に許してはならないことです。例えば高校では、その不正行為で誰かの推薦が消えてしまったなんてことになれば洒落になりませんし、中学校では評価が入試に直接影響します。多くの人が公立にあがる小学校は、その予行演習といえましょう。入学試験本番は論外です。絶対に許容してはなりません。これは間違いなく皆さん同意してくださるでしょう。

 

 そして、「信号は守らなければならない」は、安全上当然のことです。赤信号で横断歩道を渡れば、死んでしまっても文句は言えません。

 

 法律については言わずもがなでしょう。

 

 以上のように、ルールは全体の公平性や、個人の利益のためにあるのですが、興味深いのは、ルールは決して鵜呑みにしてはならないということです。

 

 該当ツイートは削除されているようなので直接引用はできませんが、一年ほど前、赤信号で横断歩道を渡ったことを、「人間が信号のためにあるわけではない!」といった趣旨の文言とともに堂々とツイートした、大阪大学大学院の刑法教授が炎上したことがあります。

 その内容はたしかに反感を買うもので、私も感情的には少しムッとしましたが、「法律に盲目的に従っていてはいけない」というごく一部分のメッセージを抜き出せば、それは頷けるものです。

 

 ルールには根拠が必要です。そのルールが本当に正しいのか、存在する意味が本当にあるのかなどは、普段から考えねばならないことです。

 

②罰則について

「まだシャドバの話にならないのか! 勘弁してくれ!」という方、申し訳ない。ですがこれも必要な話なので、もう少し辛抱してください。

 

 ルールがあれば、罰則があります。なぜなら、罰則がなければルールを強制的に人々に守らせることができなくなるからです*9

 

 法律でいえば、それこそ先ほど挙げたような、殺人罪への死刑や終身刑などが罰則にあたります。校則でいえば、不正行為への停学・退学処分などがそれです。

 家庭内なら、よく海外コメディーでは門限を破った子に対して「一週間外出禁止!」など親が言い放っているものですが、まあそういった類ですね。

 

 こうした罰則は、禁止された規定を侵させないための抑止力となっています。

 

 ところで、こうした罰則に共通点があることにお気づきでしょうか。

 

 そう、それは権力です。

 

 法律の罰則規定を実行するのは、裁判所といっていいでしょう。刑事裁判では、彼らは裁判を経て罪を精査し、論理的に然るべき罰を被告人に加えます。裁判所というのは、司法という巨大な権力です。その決定には、多くの場合従わざるをえません。

 

 校則を侵した際の罰則は、学校が加えます。この場合、退学という処分が一般的に考えて一番重い罰になるでしょう。そしてその学校という組織もまた権力です。そこに所属している以上、多くの場合その権力の決定は絶対です。

 

 家庭内ではどうでしょうか。この場合、を権力の持ち主とみなせるでしょう。親は上記2つのような罰を頻繁に与えるわけではないでしょうし、家庭によっては完全に放任であるとか、逆に親が厳しくてなんでも口出しをしてくるとか、様々な差異があるでしょうが、親を権力とみなすこと自体に不思議はないと思います。

 もちろん、子は望んでそこに生まれ出たわけではないので、親に権能を与えるのは無理があるとおっしゃる方もいるかもしれませんが、家族は少なくとも成人の手前辺りまでは同居するでしょうし、同じ生活集団にルールが生まれるのは当然のことで、その強制力もどこかにある必要があるのです。そして、その強制力は保護者に帰せられるのが合理的でしょう*10

 

 このように、罰則を遂行するとき、その組織には権力が存在しています

 

 ではなぜ、権力が必要なのでしょうか。

 

 その大きな理由の一つは、復讐を防ぐためです*11

 

 法律の大原則の一つに、自力救済禁止の原則というものがあります。

 

 自力救済とは、司法手続(裁判とか)を経ずに、自らの実力をもって権利の回復を図ることです。

 

 例えば、貸したお金がいつまで経っても返ってこないから、力づくで相手方の財物を奪い取るとか、家族を殺されたから、殺人犯を殺してやるとかがそれです。

 

 こういうものは、世間一般には復讐と名付けられています。

 

 復讐は簡単にスパイラルに落ち込みます。

 それを防ぐためには、公権力が絶対的で強大な力を持ち、個人の代わりに報復を行うことが必要だと、先人たちは考えたのです。

 公権力への復讐は個人単位では不可能ですし、そもそも、社会機構の中に囚われている人にとっては、公権力への復讐など思い浮かびさえしないでしょう。自力救済の禁止は、そういう意味で理にかなっているのです。

 

 

③シャドバ界隈への適用

 さて、お待たせしました。シャドバ界隈に少し目を向けてみましょう。

 ルールと罰則をめぐって揉めごとになるケースは今までもいくつかありましたが、そのうち、Rov、VOPの2件を考察してみます。

 

 まずはかのRovの騒動。私が把握している限りの詳細は冒頭の脚注を参照してもらいたいのですが、この騒動では「そんなことで除名していいのか」など、除名の条件をめぐっての批判が数多く巻き起こりました

 

 説明するまでもないと思いますが、除名というのは、アマチュアチームがそのチーム内からメンバーを追放することです。

 

 これは、先ほどの例でいう学校からの退学処分と条件が類似しているといえます。「入学した時点で校則には同意いただけますよね? 順守していただけないのなら罰則を与えて守らせるまでです、気に入らないのならやめていただいて結構」ということです。基本的には、その姿勢は間違ってはいません。

 

 ですが、Rovの件で、件の訴えを目にした人の中では、おそらく誰も、「上の決定だから従え」と主張するものはいなかったでしょう(そう信じたい)。

 片方の主張だけでは意見ができないとする慎重論か、話し合いが足りなかったのではないかといった分析、タメ語といってもかなり酷いものだったのではないかなど想像力を働かせた憶測が大多数だったはずです。

 もし訴えが事実ならあまりに理不尽であると、誰もが思ったからでしょう。

 

 除名というのは誰がするのか、といえば、みなさんは「リーダー」とか、「運営している連中」とか、そういう風に答えるでしょうが、しかし、それは単なる実行者の名称であります。その除名という効果を発動させるのは、ルールであるはずです。そしてそのルールが納得のいくものでない、すなわち非合理的なものであるならば、それは無効とすべきでしょう。

 

 ところで皆さんの中には、「他所のチームは他所のチームだ、口出しすべきではないのでは?」とおっしゃる方もいるかもしれませんが、それは違います。そういった立場を相対主義といいますが、それには限界があるのです。

 

 たしかに、ウチはウチ、他所は他所としてしまえば楽なのは間違いありません。他人を批判する必要がなくなるうえ、他所から批判される恐れも消滅するのですから。

 

 しかし、例えば国同士では、他国は日本の死刑制度やクジラ漁を問答無用で批判します。死刑制度は我々の価値観からすると少し理解しづらいところがありますが、未開の民族が惨い拷問を行っていることを想像すればいいのかもしれません。もしそうした事実があれば、我々は人道主義の名のもとに、それを止めざるを得ないでしょう。また、クジラは地球の海洋資産のひとつで、数が少なくなっているとなれば、日本は文化の一点張りで主張を通すことはできません。

 

 すなわち、相対主義では説明しきれない、普遍的要素も存在するということです。このように、相対主義は万能ではないのです。

 

 さらに言ってしまえば、先ほどから何度も申し上げている通りルールは合理的意義をもっていなければそもそも存在できないので、Rov運営側はこのとき、タメ語で発言してはならないというルールの存在理由を少なくとも当人には説明しなければなりませんでしたし、また、タメ語で良いと当人に言ったのにも拘らず、除名を行ったその訴えの真偽と、その判断理由も述べねばならなかったでしょう。

 

 結局、Rovは解散してしまったわけですが、この件を見てなのか以前からなのか、チームの公募に「除名条件」を載せるところがいくつか見受けられました。「応募の段階で除名の話をするのか!?」とも思ってしまいましたが、明文化によって不安材料を取り除くことはたしかに重要でしょう。ルールを理解してもらい、それから加入してもらうことで遥かにトラブルは減るはずです。もちろん、権力(=運営)がルールの上で権利を行使する前提でですが。

 

 ただ、私個人としては、除名というアマチュアチームの中では最も重い罰則をもたらすルールが合理的であったとしても、それは最終手段に留めておくべきという立場です。どういうことかといえば、極力様子を見るなり、話を聞くなりして、本人の意志を可能な限り引き出す作業が必要だということです。

 

 たまに、自分の世界の中で暮らしていて、それを外界にも投影してしまう人と遭遇します。おそらく無意識的に、他者の人格を決めつけてかかる人たちのことです。ドラマの記者などで、「〇〇さんは非常に苦労されてこの偉業を達成されたと思います、その途中で、辛かったことがあったでしょう、そのことについてお聞かせください」とかいったセリフがありますが、それです。一度判断を中止し、留保して、本当にそうか捉えなおす作業が欠けているのです。私はあなたではないし、あなたは私ではない。「あなたの気持ち、私は分かるよ」なんてことはあり得ないのです。

 

 さてVOPの問題に移りましょう。この件で問題になったのは、不正という行為そのものと、運営およびチームの機能についてでしょう。

 

 当然、不正は絶対に許されてはならない行為ですし、永久追放も視野に入れて考えるべき問題です。

 ですが、本人はこれからもシャドバを続けていくといった趣旨の発言をし*12、運営は不正の事実を公表する際、躊躇いがあったことをわざわざ付言したりと、首をかしげたくなるような発言をし*13、本人の所属するVOPは彼を除名せず、そのまま在籍させることを表明しました。

 

 私は正直驚きました。このまま彼は界隈に居座ろうと思っているのだろうか? 非公式アプリとはいえ、事実として実力の指標の一つとなっているRatingの運営がこんな態度でいいのだろうか? チームVOPが不正者を罰しないとするなら、その不正はチーム認可の行為とみられてもおかしくないが、それでいいのだろうか? そういった疑問が湧き上がります。

 

 同じような疑問を抱いた人は少なくなかったようで、まばらに声は上がりました。ですが、これも驚くことに、不正問題の炎上はRovの除名騒動より規模の小さなものだったのです*14

 

 大げさに聞こえるかもしれませんが、私はこの界隈はやっぱり駄目だったかと、幻滅せざるを得ませんでした。巷で騒がれる、二股とか、炎上商法と比べれば、遥かに危機感を覚えなければならない話題だと思っていたのですが。

 

 とにかく、私の立場は不正は断固として許してはならないというものです。試験のカンニングが駄目だと理解してるのに、非公式アプリのトス行為は許されるなどいうダブルスタンダードが通っていいわけがないでしょう。

 

 しかし、それでも擁護派が存在したとは、信じがたいことです。

 

 多かったのは、「不正は確かに許されることではないが、彼は実力を持っており、不正をせずとも首位をとれる力があった。彼を罰するのはやりすぎではないか」というものです。

 ここにはまさしく、実力至上主義の弊害が顕著にあらわれているといえます。つまり、彼らは、実力者がいなくなるのは勿体ないだとか、そういった理由で本人を擁護しているのです。ですが、不正を行ったものに実力があろうとなかろうと、不正は不正です。つまりルール破りの事実は変わらないのです。そこに罰則が伴わないわけにはいかないでしょう。

 

 「もうBANを食らった時点で制裁は食らっているし、これ以上非難を浴びせる必要はないのではないか」という意見もあったと記憶しています。

 たしかに、不正者*15はランキングから名前を削除されたのであって、その意味では制裁は加えられているのかもしれませんし、非難のなかでも罵詈雑言に近い類のものはただ自己満足で事件に便乗しているだけに過ぎず、許されません。ですが、一度不正を行ったプレイヤーが、すぐに復帰してまた競技に参加することがはたして許されるでしょうか。そして、みなさんはそれを看過できますでしょうか。客観的に言って、否でしょう。 不正者が自主的に活動を辞めないのであれば、何かの強制力が、彼を止める必要があると考えます。

 

 また、もう一つ、「彼を叩くのはやめよう、私刑は許されない」という意見もありました。たしかに、「叩く」が「罵詈雑言を浴びせる」という意味であればそれは同感だといえますが、「叩く」が「批判する」の意であれば、それは言論封殺に近い主張です。私刑という単語を使っているので前者だと解釈しますが、するとここで疑問が生じます。私刑が許されないというのは、先に述べた自力救済禁止の原則を示しますが、では一体、何が彼を罰するのでしょう?

 

 思い浮かぶのは、当のRating運営、VOP、シャドウバース運営、司法です。ですが、運営は不正者を擁護しており、一番その役目を期待されるVOPは然るべき処置をとらず、シャドバ運営には干渉する責任はありませんし、司法はまず法律にあたる要素を見つけられませんので動くことは当然ありません。

 

 困りました。状況を打破する権力が、どこにも見当たりません。

 

 

④シャドバ界隈における権力

 

 以上のように、自浄作用がきちんと働かないとすれば、クリーンな競技環境を整えていくことはこれから難しいでしょう。では、どうすればいいか。

 

 権力を作れば良いのです。個々のチームよりもう一段階上の権力があれば、トラブル解決に一役買うでしょうし、問題が起こることへのストッパーにもなり得ます。

 

 以下は、私が一年ほど前にふと思いついたはいいものの、実行するには程遠いと感じ、声を上げるには至らなかったものですが、この際提案してしまおうと思います。

 しかし、私はこれが実現できるとは思っていません。ただ、「こんなのがあればいいのになあ」という私の妄想だと思って読んでいただきたいです。

 

 さて、権力の樹立に必要なものは、おそらくマチュアチーム構成員全員の同意です。社会契約説みたいなものを想像してもらえればいいのですが、しかしそれは困難でしょう。

 

 ですが、アマチュアチームのリーダー全員に声をかけるのであれば、それでも困難は困難ですが、不可能ではないはずです。労力はかなりのものになりますが。そうしてアマチュアチームのリーダーに同意を得れば、それはすなわちその構成員からの同意を得たことになりましょう。

 

 そうした後、アマチュアチームのリーダーを集め、一つの組織を作り上げます。名前は何であっても良いですが、とにかくその組織が権能を持つこととなります。

 

 その組織が持てる役割は、トラブルの対処です。通常時、その組織内での雑談は行われず、あくまで公の場としての機能を持ち続け、そしてトラブルが発生し、その当事者間では問題解決が難しい場合には、組織が持ち込まれた問題に対して仲裁を行うのが理想です。

 

 ですが、組織内には、現在星の数ほどあるアマチュアチームリーダーが所属することになり、それ全体の多数決等による意思決定はかなり難しいものとなります。ですので、立候補で募った数人を代表として位置づけ、いくつかの任期で交代を繰り返すことことが最適な手段になるでしょう。

 

 つまり、私の思い描くイメージは、少し壮大ですが、国際連合のようなものです。全員が同意して加盟すれば、安全も図られ、また界隈のイメージをこれ以上低下させることも防げるはずです。

 

 もちろん、それ以外の役割として、対抗戦の募集などを行ってもいいかもしれません。先ほど述べた通り、雑談を行えるような雰囲気は避けたいので、何か掲示板のようなものを作り、簡潔なやりとりで対抗戦の日取りを決めると良さそうです。また、突発的な対抗戦であっても、ほぼすべてのチームに同時に声を掛けられるわけですから、開催の目途も立ちやすくなるでしょう。

 

 ただ、問題点は山ほどあります。

 

・権力が十分な強制力を発揮するためには、ほぼ全てのチームの加盟が必要

・チーム全てに声をかけることが困難

・アマチュアチームの中には加盟に十分なメリットを感じないところもある

・権力機構を作る意味を、全員にきちんと理解してもらう難しさ

・仲裁の決議に不備がある可能性

Twitter利用者の大半は学生で、十分な議論が交わされない可能性

・権力自体がルールを無視し暴走する可能性

・遊びに社会性の強いシステムを取り入れることで生まれ得る重苦しさ

・ 界隈に認知され権力として根を張るまでに途方もない時間がかかる

……などなどです。もっと考えればさらに出てくるでしょう。

 

 念のため繰り返しますが、私はこのアイデアが現実になるとは思っていません。ただ、もし誰か、界隈で発言力を持つ何名かが協力して、この考えをさらに具体化し、全体に呼びかければ、実現することも無きにしも非ずかもしれません。このゲームがこの先も続いていく前提での話ですが。

 

 

 

 さてみなさん、本稿で私の言いたかったことをまとめます。

 

①ルールは鵜呑みにしてはいけない

②罰則には権力が必要

③不正は断じて許してはならない

 権力の不存在

④権力機構樹立の提案 

 

 

 また、もう一度、念には念を入れて記述しますが、この記事は界隈の過去の問題を改めて考えようという趣旨では全くもってありません

 上にまとめたものが、この記事の主題であります。

 

 では、ここで書いた部分のどこかが、誰かの役に立てば幸いです。

 

 

*1:シャドバ界隈とは、インフルエンサーであるシャドバ実力者を中心としたTwitterコミュニティのことを指す

*2:Rovメンバーが数枚のスクリーンショットとともに「タメ語で話しただけで除名された」とツイートしたことを発端とする騒動。多くの批判が巻き起こり、Rov公式アカウントが声明を出すも焼け石に水。他何名かの脱退を経て、Rovはとうとう解散に追い込まれた。

*3:VOPメンバーの一人が、非公式アプリ「Rating for Shadowverse」の2pickランキングから突如削除。混乱の中、彼が不正を行っていたことが運営によって発表されました。それを受け、そのVOPメンバーは謝罪。しかし、その内容は不正という行為の謝罪にしてはフランクで軽く、またこれからも頑張っていく旨が表示されていました。さらに、不正行為については運営が発表するまで自白しなかったこともあり、物議を醸しました。そのうえ、問題となったのは運営の態度とチームVOPの対応です。運営は彼を糾弾するどころか、肩を持ち擁護するようなツイートを重ねました。これに対しては、不正を許してはならないはずの立場である運営がその態度なのはいかがなものかとの批判が見受けられました。VOPの対応というのは、不正したメンバーを除名等処分せず、お咎めなしでチームに在籍させたことです。これは後ほどリーダーの独断であったことが表明されましたが、これも非難に晒されると同時に、チームぐるみで不正をしていたのではないかなど、様々な憶測も飛び交いました。この騒動は不正をめぐるもので、何名かのインフルエンサーも言及していましたが、しかしあまり話題にあがっているようには感じられませんでした。声の大きい人物の多くがその不正をしたメンバーの擁護に走っているのではないかなどの推測もありましたが、とにかく話題に上りませんでした。しかし、火は消えるわけではなく、最終的にはVOPは改めて声明を出し、チームで話し合った結果解散を決めたと発表しました。

*4:そもそも、なんなら一生オリジナルの考えというものにはたどり着けないとも思ってます……

*5:16-17世紀、イギリスの哲学者。イドラという概念で有名ですね。

*6:刑法119条

*7:そうしてみると、社会を中心に家庭が回っているといいますか、家庭内に社会が侵食しているともいえそうですね。

*8:このように、ルールを守ってはいるがその意図を知らない状態は大人にもあり、これは少し危険に思います。たとえば著作権Twitterではしょっちゅう飛び交う単語になりましたが、その目的・趣旨(著作権法第1条参照)というのは文化の発展にあり、それを知っていればもう少し議論に深みが生まれるような気がするのです。

*9:無敵の人というのが一時話題になりましたが、彼らに対してはこうした罰則は無力です。そこへの対策もあればいいのですが、困難でしょうね……

*10:この記事を理解していただけたなら、この部分が虐待を肯定するものではないことが分かっていただけると思います

*11:これこそ完全に蛇足ですが、『暴力と聖なるもの』(ルネ・ジラール著、古田幸男訳、1982、法政大学出版局)は、冒頭で復讐、刑罰、供犠の関係について述べています。供犠はそもそも暴力の連鎖を止める役割をもっており、それは現代の死刑制度にまで受け継がれているのだ、というのが概要だった、と記憶しています。図書館で借りたのですが、2週間で読み切るにはあまりに内容が濃く、挫折してしまいました。また読む気が起きたら読んでみます。また、これを参考に書かれた『エロティシズム』(ジョルジュ・バタイユ著、酒井健訳、2004、ちくま学芸文庫)も面白いので是非。

*12:シャドバを続けること自体は、もともとシャドバが一人対不特定多数からランダムに選ばれる一人と戦うという性質をもつため問題ないかもしれませんが、「今後はまた誠実な態度でShadowvereseを楽しみたいと思います。」と呟くことは、反省の色が全く見えないと言わざるを得ませんし、本人が罪の重さを自覚していないと判断されても文句は言えない内容だったといえましょう。VOPが解散し、また相当な非難も浴びたでしょうから、追い打ちをかけるようなことを言うのもどうかと思いましたが、当時の状況を残す意味でも記述しておくことにします。

*13:いな@GameBox (@yuki_inaba44) からの引用「非常に悩みましたが、2pickレートの件について情報開示します。」(画像添付)(2019/2/25)、「レートアプリを開発したのは、シャドバプレイヤーが活躍できる場を増やす為であって、減らす為ではない。今後もし彼がRAGEやJCGで活躍したらそれは素晴らしいことで、賞賛されることだと個人的には思っている。」(2019/2/26)

*14:主観ですが、たしかに発言数やTLへの話題への上り方は、不正問題のほうが少なく感じました。同じような発言が、数人からあったことは確認しています(彼らも主観であることは変わりありませんが……)。

*15:不正者という日本語はないようです。ここでは不正を行った者の省略形として使っています。

シャドバ新環境初日

 

 どうも、新パック前にょぅι゛ょカードについて触れた方が良かったなと若干後悔してるとらじぇでぃです。

 

 さてさて来ましたシャドウバース新パック、「鋼鉄の反逆者」!

 

 まずはパック開封

f:id:sangonoumi5:20190328093722p:image

 36パック。

 

 いざ尋常に……。

f:id:sangonoumi5:20190328093824p:image

 見た目ゴールドで嵩まししましたけど、レジェ5なのでけっこう良い方ですね。グラブルの10連が渋すぎた反動かな?笑

 

 そして今回から実装されたギルド機能。

 上限30人、仮にBABELメンバー28人全員が加入してもなんとかなりそうということで、BABELのギルドも立てることにしました。

 f:id:sangonoumi5:20190328094135j:image

 なんて書けば良いのか、寝起きの頭じゃ考えられなかったのでとりま「ょぅι゛ょ」にしておきました。エンブレムもさっき当てたょぅι゛ょです。

 

 基本は対戦募集など用意された機能を活用する場になりそうかなと思ってます。

 

 あと、興味があるのが既存のチームとこのギルドとの関係で、他のリーダーさんがどのような認識でいるのかなど気になるところはいくつかありますね。

 

 ウチはというと、現時点では、ギルドは補助的ではあるけれど、あくまでもチームとは切り離された集団として扱っています。つまり、たまたまBABELと構成員が被っているだけの集団みたいな認識ですね。

 

 その証拠に(?)、元メンバーのるあも、所属チームの了承を得てギルドにやって来ました。

 

 これも、もしギルドとチームを同一視していれば出来ないことだったでしょう。

 

 

 さて、新カードですけど、モチベがグラブルに吸われているなうな感じもあって、あまり熱心に眺めていたわけではないんですが。ビショップのリモニウムとかいう元素みたいな名前の子は面白そう……。コスト踏み倒しはシャドバではほぼ必ず暴れてるし……。

 

 でもいかんせん、下げる先がそんなに強くないよね……っていう……。

 

 どうなのか一回使ってみませう。

 

 もし「聖獅子の方が強いやんけアホ」ってなったらローテ見捨ててまたアンリミ回しに行く。

 

f:id:sangonoumi5:20190328231925p:image

 

 急いでこしらえた機械ビショ。チェキババは砂時計と亀が落ちてアミュレット群がちょっと弱いかなと思ったので、ラピス軸で行くかと思ったけど、引けないときさっさと轢かれて終わりそうな気もしたので結局天狐です。

 

 10戦くらいやれば十分かな……?

 

 と思ったのですが、勝てなさすぎて途中で死亡。

f:id:sangonoumi5:20190328131836j:image

 

 ラピスに切り替えてみます。

 

 ……5連敗。

 

 とらじぇはブチ切れてグラブルに逃げたとさ。

 

 

 

 

 

 

 

 …………しかし、グラブルも熱が冷めたのか、あまり打ち込めず、結局シャドバに戻ってきました。

 組んだのがこれ。

 

f:id:sangonoumi5:20190328231939p:image

 

 機械ミッドレンジ。

 完全にリモニウム引けるかどうかのデッキになってしまったけど、楽しさは一番かも。

 これも微妙ってなりそうですけど、とりあえず、しばらくはこれでやってみます。

 

 

『笑い』で考える厨二病

 

 私は昔、厨二病という言葉が大嫌いでした。当時中学生の私に、なぜ、と問うても答えは返ってこなかったでしょうが、突如として友人たちの間で流行り始めたその言葉が、心に秘めた、私の空想の世界を刈り取ってしまうように思えたのはたしかです。

 

 つまりは、まさしく、中学生の頃の私はその厨二病だったのでしょう。いや、今もそうなのかもしれませんが、それは私の知るところではありません。

 

 ともかく、私は厨二病という言葉が嫌いでした。大げさに言えば、精神的負荷さえ感じました。

 

 私には、自分を悩ませたり、攻撃してきたりするものについては、それについて考え込むことで解決しようとする癖があります。一種の防衛反応のようにも思えますが、その時も私はそうで、厨二病とは何か」「なぜ笑われ、馬鹿にされなければならないのか」についてずっと考えこんでいました。

 

 しかし、大した思考材料もない中学生に結論が出せるわけもなく、せいぜい、厨二病自体は悪いことではない」と、ある意味(つまり私は自覚していませんが)、自分を弁護することで精一杯でした。その後、時が流れるにつれ、私の厨二病という言葉に対する興味も段々と薄れていきました。

 

 さて高校に入り、倫理を学んだ私は、哲学に興味を持ちます。

 

 いくつかの哲学書を読みましたが、一番衝撃を受けたのが、高校3年の終わりに読んだ、アンリ・ベルクソンの『笑い』という本でした。

 

 ベルクソンという彼自身は言わずと知れた哲学者ですので詳しくは書きませんが、『笑い』は文芸誌向けに書かれたというだけあって、他の本よりも内容が理解しやすかったように思います。そしてその本こそが、厨二病という言葉を解する大きな手掛かりになると確信したのです(ちなみにこの時受験真っ只中です、何をしているんだ過去の自分……)。

 

 さて、今まで厨二病厨二病と連呼しておいてなんですが、今後のために今一度、その語の意味についてざっくりと振り返っておきましょう。

 

 厨二病とは元来中二病と表記され、主に思春期に発生するもの、とされるようです。内容としては、みなさんご存知の通りですが、思春期の子どもの身の丈に合わぬ振る舞いなどが当てはまります。

 

 言葉というものはそもそも定義付けに先立つものでしょうが、そのうえネット上で流布するとなると、言葉はどんどん意味が大きくなる傾向にあります。厨二病という言葉も例外でなく、その意味内容は自虐から、揶揄に使われるものへと変わりました(と、Wikipediaにあります笑)。

 

 そして厨二病という概念は、ネットユーザーにとっての一般常識となります。

 

 そのネットに根ざすアニメやライトノベルにも厨二病は現れ、キャラ付けの一ジャンルとも化しました。有名な作品で思いつくのは、ラブライブ!サンシャイン!』津島善子や、斉木楠雄のΨ難「海藤瞬」などでしょうか。中二病でも恋がしたいなど、厨二病をタイトルに据えた作品もありましたね。

 

 創作が売れるために必要なものの一つは、受け手の共感です。ですから、こうしたタイトルが成功していることを見れば、厨二病というものが多くの人に、共感や、そうでなくとも何か引っかかりを与えていることは確かです。

 

 そして思うに、人の共感には、根底に共通項が必要です。対象と同じ、あるいは近しい経験や、それを想起するに十分な背景がそれです。つまり、そういった作品に触れる多くの人には、程度の差はあれ、過去にそういった経験がある、ということが言えます。

 

 これはまた、ネットで厨二病という概念が常識となったことにもいえそうですね。といっても、それは常識となりうる頻度でその語が使用された、その動機に依るので、その説明となりそうな事項は後ほどの紹介になりそうですが。

 

 それはさておき、では、厨二病とは何から生まれ出たものなのでしょうか。

 

 またWikipediaを参照することを許して欲しいのですが、どうやら自己顕示欲や承認欲求によるところが大きいという見方があるようですね。私も同意見で、そういった欲求を満たすための虚栄心が根底にあると考えます。厨二病「他人からよく見られたい」という感情に還元すれば、分かりやすいのではないでしょうか。それが空回り、奇異な目で見られてしまうというのは皮肉なことです。

 

 では、もう一つの問いである、「なぜ厨二病は馬鹿にされねばならないのか」について考えます。これこそが、この記事の本題です。

 

 この問いを解決するために、私は『笑い』を使いたいと思います。

 

笑い (古典新訳文庫)

笑い (古典新訳文庫)

 

 

 『笑い』は、笑いそのものを考察した本です。帯にはこうあります。「笑いのツボを哲学する。/おかしさはどこから生まれてくるのか?」

 

 ベルクソンはこの本の中で、笑いが発生する3つの要因を挙げました。人間的であること無感動であること他人との接触が維持されていることの3つです。

 

 一つ目の人間的であることとは、対象が人間であっても、そうでなくても、それに人間的なものを見出さなければおかしさは生まれないということです。

 後者が分かりにくいと思うので例を出すと、二足歩行で歩く猫だとか、段差で躓いて助けを求めるロボット掃除機といったものがそれです。

 

 二つ目の無感動であることとは、その対象への感情移入が全くないことです。

 みなさん、一度、自分が笑う時を思い起こしてみてください。そのとき、相手への同情の気持ちであるとか、怒りの気持ちであるとか、そういった感情はあるでしょうか。いや、ないでしょう。もし、対象になんらかの気持ちを抱けば、笑いは途端に絶えるはずです。

 これも例を出しましょう。サラリーマンが段差に転んだところ目撃すれば、あなたは顔にこそ出しませんが、内心苦笑するでしょう。しかし、実は彼が先日不慮の事故で片足を失い不慣れな義足で懸命に歩いていたことを知れば、きっと笑いは起こらないはずです。

 

 三つ目の、他人との接触が維持されていることとは、つまり、内輪でしか笑いは発生しないことを意味します。

 例えば、高校の友人同士で昔の担任について話し合えば、自然に笑いが生まれることもあるでしょう。しかし、レストランで隣の席から聞こえる誰かの、見ず知らずの担任の話では、クスリとも笑えません。

 

 また、ベルクソンは、笑いは社会の要請であるとも言います。

 

 つまり、笑いは社会的な価値観、固定観念、言い換えればマジョリティの持つ考え、すなわち「常識」によって、発生するということです。

 

 そしてそうした笑いは、法をもって罰するには値しないまでも、社会的に見て有用で無かったり、非効率的であったりする、言ってみればのけものに対して発揮されます

 

 笑いは屈辱を対象に与えることで、軽い罰を与え、そうしたことをこれ以上行わないよう、釘を刺すように、対象を縛り付け、枷を付け、そして対象が社会に適合した人間になるよう矯正する、というのです。

 

 そうした説明もありながら、彼はいくつもの例を挙げつつ、笑いについての考察を進めていきます。

 笑いを生むおかしさはひっくり返し、繰り返し、系列間の相互交渉の3類型によって生まれるとか、笑いは対象の硬直性が引き金になるとか、さらには創作にまつわる話まで。

 詳しくは説明しませんが、とにかく大変興味深い内容でしたので、みなさんも一度読んでみると良いと思いますおすすめです。*1

 

 そして最後を飾るべくして登場した概念が、私が光明と感じた「夢想の論理」でした*2。その説明をしましょう。

 

 ベルクソンはその具体例として、ドン・キホーテ』の風車との対決を紹介します。

 内容は知っている前提で進めますが、彼は自らを中世の騎士だと信じ込んでおり、風車が怪物であると確信しています。しかし、人々から見れば、中年が風車に突進していくようにしか見えないのです。当然、作中で彼は人々の笑いの種でした。

 

f:id:sangonoumi5:20190327194032p:plain

まさに「無謀なる戦」です。

 

 ここでベルクソンは、彼が自分を騎士だと信じて疑わないことに着目します。そして、それを夢を見ている人物に例えるのです。

 

 夢を見ている人は、自分が夢を見ているとは毛頭思いません

 ドンキホーテもまた、夢を見ているかのように、自身は騎士以外の何者でも無いと考えているのです。

 つまり、本来なら見たものが表象として認識され、観念として理解されなければならないものを、ドンキホーテ物語の中で見た観念を対象に映し込み理解するという、"通常"とはひっくり返った行いをしているのです。

 

 みなさんもう気付かれているでしょうが、厨二病の人というのは、まさにこの、夢見の状態なのです。

 

 ただ、井の中の蛙大海を知らずとは少し違います。彼らは無知だというわけではないからです。

 ドンキホーテに、それは怪物でなく風車だと言っても、信じることはないでしょう。それどころか、激高するかもしれません。そうだと信じ込んでいるのだから、そこに説得を加えて屈服させることは不可能でしょう。

 

 同じように、自身を堕天使だと発言する人へ、あなたは堕天使では無いと告げても、それが”改善する”ことは恐らくありません。

 

 それがドンキホーテのように確信があるからなのか、それとも知ってはいるが、それを修正する気が起こってこないのかは分かりませんが。ともかく、彼らは無知なわけではないのです。なので、厨二病は外部から矯正することは困難と言えます。

 

 フロイトを援用すると、彼も、精神分析を用いたノイローゼ患者の治療には、患者に自身の症状について理解させることが必要だと主張する一方で、ただ知識を伝えるだけでは駄目だと言っています*3患者は無意識的に、治ることに抵抗するからです*4

 

 厨二病の人は夢を見ている。経験と結びつけて、納得していただける方も多くいらっしゃると思います。

 

 夢見の状態は、社会の大きな枠組みから見れば、異質で、その仕組みから外れる存在です。

 

 彼らには健全なコミュニケーションは少し難しいでしょうし、ともすると、その尊大な自己愛をもって他者を傷つけかねません。彼らは、ベルクソンの定義*5を当てはめると、彼らはまさに笑いの対象なのです。

 

 「なぜ厨二病は馬鹿にされるのか?」は分かりました。では次に、「なぜ人々は厨二病を馬鹿にするのか?」についても考えてみましょう。

 

厨二病が馬鹿にされる理由はドンキホーテで直感的には分かったし、厨二病は笑いの要件に当てはまっているんだろう? もう話すことはないじゃないか」とそう思われるかもしれませんが、私としてはここからが一番大事だと思っています。

 

 何年か前、Twitterであるマンガを拝見しました。「あなたの作品を叩くものは、自分の過去を否定したいのだ」という趣旨だったと記憶していますが、これは当たっていると思います。

 

 ベルクソンは『笑い』をアンチ哲学への反撃として書いた、とする記述を見たことがあります。哲学は今でこそ高尚なものとされていますが、昔は役に立たない学問だと笑われていたことがあったそうなのです。

 そうしてみると、『笑い』は笑う人、あるいは笑いそのものへ疑問を投げかける書だとも解釈できそうです。そして、その文脈に組み込まれる「夢想の論理」はその意味でも、威力を発揮するのです。

 

 夢というのは誰しもが見ます。私も、あなたも、あなたの友人もそうです。夢を見ない人はいません。そう、夢は厨二病の人だけが見るものではないのです。

 

 ベルクソンは指摘します。人は笑うとき、その対象と自分は通ずるところがあるのに、笑いによって、その繋がりを遮断し、「俺はこんなやつとは関係ない、俺はまともな人間なのだ」とうそぶくのだ、と。

 

 思い返してみてください。あなたは心の底から笑っています。しかし、そのあなたの心の奥の奥には、実は冷たいものが潜んでいる……。

 

 思えば、喜怒哀楽の中に「笑い」というものは存在しないのです。私たちの笑い、それは実は、思いのほか空虚なものなのかもしれません

 

 最後に、『笑い』から次の文章を引用*6し、筆を置くこととします。 

 

 ——笑いは絶対的に正しいものであるとはいえない。—— 笑う人はすぐに自分のうちに舞い戻り、程度の差はあれ誇らしげに自分自身を肯定し、他の人格を自分が糸を操っている操り人形とみなす傾向があるということである。しかもこうした思い上がりのなかにわたしたちは少しばかりのエゴイズムをすぐさま見抜くだろうし、このエゴイズムそれ自身の背後に、もっと自発性に乏しく、もっと苦しみの多い何ものかをすぐさま見抜くだろうし、何だかよく分からないペシミズムが生まれつつあるのをすぐさま見抜くだろう。そのペシミズムは笑う人が自分の笑いに試案をめぐらすにつれてだんだんはっきりしてくるのである。

アンリ・ベルクソン著『笑い』増田靖彦光文社古典新訳文庫 258・259p

 

 

 

 

*1:ただ、私はこの本を読んでバラエティーや漫才、コメディーなどが今までのように観られなくなりました。なんというか、笑っている自分を意識すると、引け目というか、罪悪感というか、そういったものを覚えるようになってしまったのです。

*2:文章上、厳密にいえば、「想像力の論理」が正しいかもしれませんが、語感が好きなのと、今回の話と結び付けやすいことからこちらを使わせていただきます

*3:ジークムント・フロイト著『精神分析学入門Ⅰ』『精神分析学入門Ⅱ』懸田克躬訳、中公クラシックス、2001年

*4:個人的には、フロイトの記述は科学としての根拠が無いように思います。なのでこれを引っ張ることには少し抵抗がありましたが、理解の一助になればと引用しました

*5:定義とは言いましたが、正しくは笑いのもととなるおかしさを生む条件です。ベルクソンは他の哲学書のように、語の定義づけから始めることはしていません。

*6:ボールドは私が加えたもの。ダッシュは私が行った省略の箇所を指します

Vティークが届いた!

 

 昨日注文した、Vティークのvol.3が届きました!

 

 前回のvol.2も応援のつもりで買いましたが、思っていたより面白かったので今回も楽しみです。

f:id:sangonoumi5:20190327020043j:image

 しかし、昨日注文して今日届くとは、ありがたい限り……。配達員のみなさんには感謝しかありませんです。

 

 付録は「ときのそら楽譜風ノート」なるもの。

 

f:id:sangonoumi5:20190327020047j:image

 

 楽譜が載ってます。そらちゃんのものであろう書き込みがびっしりですね。

 

 肝心の中身はまだ読んでませんが、パラパラとめくった感じ、ときのそら、富士葵、ヒメヒナ、にじさんじや、恒例のさなねる診療室などを収録しているようです。

 


【名取さな】 #さなねる診療室 VOL.3【因幡はねる / あにまーれ】

 ↑最近のさなねる診療室(生配信版)

 

 

 たぶん、中身はすべて対談ですね。

 

 しかしちょっと不満があって、これは前回も思いましたが、字がめっちゃ細かい……! これは100%目疲れるやつ……。

 このブログも、デザインの都合上字が小さくなってしまっていたものを17ポイントまで大きくしたのですが、これはその元のサイズより小さい……。

 

 雑誌はこんなものかもしれないですけどね……。

 

 まあそれは置いておいて、対談がメインのVティークですが、何気に助かるのが巻末のVtuberギルド」です。

 

 Vティーク公式の募集ツイートに反応したVtuberが掲載されているのですが、ビジュアルが結構いい子もいたりして、前回は結構参考になりました。実際、そこからかなり伸びた子も何人かいましたしね。今回も見るのが楽しみです。

 

 現在なんやかんやで深夜の2時近いですが、少しだけ読んでから寝ようと思います。

 何か感想で書けるようなものがあれば、それも記事にしましょう。

 

 

高校二年生の時に書いた文章を振り返ってみる

 

 メモの中身を整理していると、ある文章が出てきました。

 高校二年生の春、書いたものです。

 私には当時、一歳下のネット友だちが居て、彼は高校入学に強い不安を感じているようでした。なので、私は彼を勇気づける意味をこめ、高校合格祝いと題しこの文章をTwitterのDMで送りました。

 

 まあ一旦見返してみましょう。

 

 それから、大学二回生、すなわち当時から三年たった今、読み返してどう思ったか、そして、同じような文章を書くとしたら、どういった内容になるかを書こうと思います。

 

 下に記述するのは、その例の文章です。

 

 

 

 あの日*1を以って、僕は晴れて高校生になったわけであるが。高校というと、僕にはどうも、なにか怖いイメージがあった。


 このイメージというのは、中学入学時、中学生のことを思って震えたあのイメージと似通っている。あの時は、小さい自分が見上げるしかなかったあの中学生たちと、同じ土俵に立つのだと思うと、なんだか怖い目に遭いそうで仕方なかった。まあ、結局そんなことはなく、のほほんと、日々は過ぎていったのだから、高校も、入ってしまえばなんのことなしに三年が終わるのだろうとも、そんな恐怖を抱く一方で思ってはいた。とはいえ、一ヶ月経たないうちにもう入学式があるのだと思うと、怖いし、緊張する。もう少し、心の準備をさせてくれたって良いじゃないかとも思う。僕は勉強を頑張ったんだし、もう少し休みが欲しい。

 

 しかしその休み——つまり春休み——は、楽なものじゃない。山積みの宿題が、高校から出される。数学は見たこともない複雑な計算式を解かされ、英語は与えられた問題集をほぼ丸一冊をやるハメになった。理科や社会は中学範囲の復習をするようにということだったので助かったが、もしそのほかにも宿題があったら、春休みの間遊び呆けていた僕には時間が足りなかったかもしれない。


 親友のIは、公立に受かっていた。あいつは勉強のできる方ではなかったが、安全校を選ぶことで、確実に公立に入る道を選んだのである。僕もそうすれば良かったかもしれないが、悔いはない。勉強は頑張ったし、塾の先生は「高校はあくまで通過点だ」と言っていた。つまり、高校受験で失敗しても、大学受験で成功しさえすれば、終わり良ければ全て良しの感覚で、人生良しとされるらしい。そんなうまい話になるのだろうかとは思うが、確かに、高校はどこへ通っていたかなんて、就職面接で聞かれるはずがない。


 だから、僕は思い直して、入学式を、少しの余裕をもって迎えることができた。私立だって、そりゃあ親に負担はかけるけれど、別に悪いところじゃない。イベントはそこそこ充実してるし、先生は良い人ばかりだ。食堂は失敗だったけれど……。入学してしまった以上は、仕方ない(ちなみに僕たちは一年かけて学校に働きかけ、やっと食堂の業者を変えてもらった。結果的に、味はかなり良くなった)。

 

 入学してすぐは、みんな静かだ。恐ろしいほど、誰も喋らない。まるでマネキンに囲まれて座っているような錯覚さえ覚えて、少し笑ってしまう。けれど、一週間、二週間経つ内に、みんな打ち解けて、近所で喋るようになる。一ヶ月以内には何かしらのイベントがあるので、その後の教室はかなりうるさい。


 僕は友だちと呼べる友だちが今のところ10人近くいる。学年は全員で400人ほど。1割にも満たない。でも、実際気の置けない友だちなんてのは、そのくらいになってしまうのではないだろうか。誰とでも話せる人というのは、羨ましい。

 

 中学の友だちはというと、通学の電車を見渡したときには、ほとんどの確率で目に入る。入学したては捕まえたり捕まえられたりして、よく喋っていた。お互いの高校のことを喋っていたら、話題は滅多に尽きない。かなり楽しい。

 

 けれど、しばらく経つと、お互いはお互いを避けるようになる。何故かは分からない。話すのが面倒になったからなのか、中学時代を忘れたくなったからなのか、自分の時間を優先するからなのか。自分でもよく分からないが、僕の足は、友だちが乗った車両とは別の方向を向くのである。おそらく、向こうもそうなのだろう。

 

 もちろん、中学にも親友と呼べるような友だちが僕にはいたから、そういう友だちとはお互いの時間を犠牲にしてどっぷり喋る。お互い楽しくやってることを確認するのは、なんだか心が落ち着くのである。

 

 高校の友だちと喋るときには、その親友と喋るような空気感が伴っている。きっと彼らとは一生の友だちになるのだと、直感的にだが、僕はそう思っている。

 

 この違いは、どこから生まれるのだろうか。高校の友だちは、みんな別々の場所から来たから、文化が違うし、考え方もなんとなく違う。土地のつながりが、ほとんどない。対して、中学の友だちには、それがある。

 

 そこで思った。もしかしたら、中学では、みんな近所に住んでいるというただそれだけで、繋がっていたのかもしれないと。だから、離れ離れになると、中途半端な友情は断ち切れるのではないか。対して、本当の友情は浮かび上がってくるのではないか。

 

 だから、友だちとの縁は切れ(あるいはかろうじて繋がっているだけ)、親友との縁は、その対比によって一層強まったように感じる。この関係は、意地でも守りたい。

 

 学校は、外から見るのと中から見るのでは、全く見え方が違う。先輩の感想を聞けばいいと言っても、そこには主観が入り込んでいるのだから、実際入学してみた未来の自分の意見と、その意見は一致しない。

 

 ドイツの人に、「物自体」というのを唱えた人がいる。

 

 例えばコップが目の前にあるとする。僕たちの目に、そのコップは、明らかにコップの形をして映し出されるだろう。だけれど、その認識は本当に正しいのだろうか?

 

 例えば僕が赤色のサングラスを掛けるとする。するとコップは元の色がなんであれ、強制的に赤色に変えられるだろう。当たり前のことだ。また、もし僕が急に目眩を覚えて(酒に酔ったとか、急病で倒れる寸前だとかだろうか)、コップを見たとすると、コップの姿というのはその僕には、少なからず歪んで見えるはずだ。

 

 となると、通常時の僕たちの目が映し出す像というのに対して、疑いが掛けられ始める。コップの姿、つまり像に、一定の形や色がないというのは、色付きサングラスと目眩の例で十分証明されてしまったからだ。とすると、コップ自体の本当の姿とは一体なんなのかという問いが浮上する。この正体不明の、物の本来の姿、これを数学で変数をエックスと置くように、そのドイツ人は「物自体」と名付けたのだ。


 物自体……。学校に対して向けられる視線にも、同様の事が言えるの僕は思っている。学校生活が、ある人から見ればとてもひどいもので、またある人から見ればとても良いものであるように、学校生活がどんなものであるかというのは、僕たちには知ることができない。

 

 「事実は存在せず、あるのは解釈のみである」とニーチェは言ったけれど、僕たちはただ目の前に提供される料理に対して美味い不味いを告げるか、はたまた無表情で咀嚼を続けるかを選ぶことしかできないのだ。

 

 だから、学校生活が絶対楽しいと、僕は思わなかったし、逆に、絶対つまらないとも僕は思わなかった。

 

 ただ、考えたのは、学校生活が面白いと、すなわち自分が学校で楽しく幸福感に包まれた毎日を過ごしていると、「思い込む」ことは可能だということだ。

 

 「事実は存在せず、あるのは解釈のみである」とするなら、こっちは、目の前にある事実というものを都合よく解釈してやればいい。

 

 先生の理不尽に腹がたつのなら、その理不尽を仕掛けてくる先生の愚かさを笑えばいい。そしてその時間はほんの少しだけにして、あとは好きな人のこととか、友だちと遊ぶ計画だとかを考えるのに、多くを費やせばいい。ただし、もし自分に非があった場合は、そのことを反省すること。好きな人のこと、友だちのことより長い時間をかけた方がいいと、僕は思う。恥ずかしい失敗だとかは、長いこと僕たちの頭を支配するけれど、このしつこい記憶については、考えないより考えた方がいい。押しやるより、「まずかったなあ」とか「もっとこうしたほうがよかった」と反省したほうが、かえって早く笑い話にできる。経験談だけれど。

 

 えっと、なんの話だったっけ。あ、そうだそうだ。確か先輩がどうとか言ってた。

 

 そう、だから、学校選びに後悔するなんてことは、当たり前のことだ。みんな見方がちがう。入って後悔しないなんて言われても、しない人なんてほんの一握りしかいないんじゃないだろうか、と思う(高校の方針と自分の進路の方針が違うなんてのは、自身の調べ不足を恨むしかないが)。

 

 僕も高校に満足しているほうだけど、たまに、この学校で良かったのかなと思うことはある。高校の友だちも、みんな思っているんじゃないだろうか。でも、結局、自分の選んだ(選ばざるを得なかった)この道が最善だと思わざるを得ない。そう思ったほうが自分の心のためになる。よく言われる話だけれど、やり直しは効かないからだ。

 

 当たり前の話をしたけれど、今の生活というのは結構楽しい。負けず嫌いの自分は勝手にライバルを他に作って勝手に自己嫌悪に陥ったりしているけど、そんな捻くれた人じゃなければきっと高校では簡単にうまくやれる。

 

 残念ながら、僕は恋愛のアドバイスはできないけれど、もしイジメというものが心配なら、目立つことをせず、上手に立ち回れというのは言っておきたい。それがいわゆるコミュ障に繋がっても、僕は責任を取れないけれど。

 

 さて、僕は君に、これをエッセイとして見せるか小説として見せるか迷っているけれど、友だちの名前とか、ところどころにフィクションが混ざっているから、これは小説とすることに決めた。せっかく書いたのだから、役に立つことをと考えたつもりだけれど、読み辛い点はどうか許してほしい。

 

 

 いや小説じゃないだろ、とまず突っ込みたいですが、まあいいでしょう。

 

 ですが、意見はだいたい今も同じです。今と比べると感覚重視というか、暗喩的な感じに書いている部分はありますが、高校二年生で意外とよく書けてるな、という風に思いました(三年越しの自画自賛

 ただ「いじめが心配なら目立つな」は、あまり褒められた手法ではないですし、今考えればデメリットが大きくてあまりおすすめできないですが。

 

 あと、「高校で仲の良い人が一生の友達になる」は、たぶん本当です。

 

 そしてもし、私が同じような文章を大学に入る人たちへ書くならば、要点は次のようになると思います。

 

・友だちは大急ぎで作れ、とにかく話しかけろ、向こうも待ってる

 

・サークルは最低一つは入っておくのが吉、幅広い人脈を求めての掛け持ちもあり

 

・文系の場合単位は普通に講義とテストを受ければくれる、大学受験は落とすためのものだったが大学の単位はあげるためのもの

 

・大学は自分に見合ったところに入るべき、私は中学→高校と来てまた中学に入学したような気分で大変後悔している

 

・浪人生は今一度進路を見直すべき、私は少し後悔している

 

・大学に入って一年経ったところで将来のビジョンなど生まれない

 

・暇

 

 ……こんな感じですかね。

 明確にやりたいことが決まっていないと、私みたいにニートして一年終わるので気を付けてください。

 

 では、新大学一回生の方々、頑張ってくださいね。応援してます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:入学式のことだろうと推測。