とらじぇでぃが色々書くやつ

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高校二年生の時に書いた文章を振り返ってみる

 

 メモの中身を整理していると、ある文章が出てきました。

 高校二年生の春、書いたものです。

 私には当時、一歳下のネット友だちが居て、彼は高校入学に強い不安を感じているようでした。なので、私は彼を勇気づける意味をこめ、高校合格祝いと題しこの文章をTwitterのDMで送りました。

 

 まあ一旦見返してみましょう。

 

 それから、大学二回生、すなわち当時から三年たった今、読み返してどう思ったか、そして、同じような文章を書くとしたら、どういった内容になるかを書こうと思います。

 

 下に記述するのは、その例の文章です。

 

 

 

 あの日*1を以って、僕は晴れて高校生になったわけであるが。高校というと、僕にはどうも、なにか怖いイメージがあった。


 このイメージというのは、中学入学時、中学生のことを思って震えたあのイメージと似通っている。あの時は、小さい自分が見上げるしかなかったあの中学生たちと、同じ土俵に立つのだと思うと、なんだか怖い目に遭いそうで仕方なかった。まあ、結局そんなことはなく、のほほんと、日々は過ぎていったのだから、高校も、入ってしまえばなんのことなしに三年が終わるのだろうとも、そんな恐怖を抱く一方で思ってはいた。とはいえ、一ヶ月経たないうちにもう入学式があるのだと思うと、怖いし、緊張する。もう少し、心の準備をさせてくれたって良いじゃないかとも思う。僕は勉強を頑張ったんだし、もう少し休みが欲しい。

 

 しかしその休み——つまり春休み——は、楽なものじゃない。山積みの宿題が、高校から出される。数学は見たこともない複雑な計算式を解かされ、英語は与えられた問題集をほぼ丸一冊をやるハメになった。理科や社会は中学範囲の復習をするようにということだったので助かったが、もしそのほかにも宿題があったら、春休みの間遊び呆けていた僕には時間が足りなかったかもしれない。


 親友のIは、公立に受かっていた。あいつは勉強のできる方ではなかったが、安全校を選ぶことで、確実に公立に入る道を選んだのである。僕もそうすれば良かったかもしれないが、悔いはない。勉強は頑張ったし、塾の先生は「高校はあくまで通過点だ」と言っていた。つまり、高校受験で失敗しても、大学受験で成功しさえすれば、終わり良ければ全て良しの感覚で、人生良しとされるらしい。そんなうまい話になるのだろうかとは思うが、確かに、高校はどこへ通っていたかなんて、就職面接で聞かれるはずがない。


 だから、僕は思い直して、入学式を、少しの余裕をもって迎えることができた。私立だって、そりゃあ親に負担はかけるけれど、別に悪いところじゃない。イベントはそこそこ充実してるし、先生は良い人ばかりだ。食堂は失敗だったけれど……。入学してしまった以上は、仕方ない(ちなみに僕たちは一年かけて学校に働きかけ、やっと食堂の業者を変えてもらった。結果的に、味はかなり良くなった)。

 

 入学してすぐは、みんな静かだ。恐ろしいほど、誰も喋らない。まるでマネキンに囲まれて座っているような錯覚さえ覚えて、少し笑ってしまう。けれど、一週間、二週間経つ内に、みんな打ち解けて、近所で喋るようになる。一ヶ月以内には何かしらのイベントがあるので、その後の教室はかなりうるさい。


 僕は友だちと呼べる友だちが今のところ10人近くいる。学年は全員で400人ほど。1割にも満たない。でも、実際気の置けない友だちなんてのは、そのくらいになってしまうのではないだろうか。誰とでも話せる人というのは、羨ましい。

 

 中学の友だちはというと、通学の電車を見渡したときには、ほとんどの確率で目に入る。入学したては捕まえたり捕まえられたりして、よく喋っていた。お互いの高校のことを喋っていたら、話題は滅多に尽きない。かなり楽しい。

 

 けれど、しばらく経つと、お互いはお互いを避けるようになる。何故かは分からない。話すのが面倒になったからなのか、中学時代を忘れたくなったからなのか、自分の時間を優先するからなのか。自分でもよく分からないが、僕の足は、友だちが乗った車両とは別の方向を向くのである。おそらく、向こうもそうなのだろう。

 

 もちろん、中学にも親友と呼べるような友だちが僕にはいたから、そういう友だちとはお互いの時間を犠牲にしてどっぷり喋る。お互い楽しくやってることを確認するのは、なんだか心が落ち着くのである。

 

 高校の友だちと喋るときには、その親友と喋るような空気感が伴っている。きっと彼らとは一生の友だちになるのだと、直感的にだが、僕はそう思っている。

 

 この違いは、どこから生まれるのだろうか。高校の友だちは、みんな別々の場所から来たから、文化が違うし、考え方もなんとなく違う。土地のつながりが、ほとんどない。対して、中学の友だちには、それがある。

 

 そこで思った。もしかしたら、中学では、みんな近所に住んでいるというただそれだけで、繋がっていたのかもしれないと。だから、離れ離れになると、中途半端な友情は断ち切れるのではないか。対して、本当の友情は浮かび上がってくるのではないか。

 

 だから、友だちとの縁は切れ(あるいはかろうじて繋がっているだけ)、親友との縁は、その対比によって一層強まったように感じる。この関係は、意地でも守りたい。

 

 学校は、外から見るのと中から見るのでは、全く見え方が違う。先輩の感想を聞けばいいと言っても、そこには主観が入り込んでいるのだから、実際入学してみた未来の自分の意見と、その意見は一致しない。

 

 ドイツの人に、「物自体」というのを唱えた人がいる。

 

 例えばコップが目の前にあるとする。僕たちの目に、そのコップは、明らかにコップの形をして映し出されるだろう。だけれど、その認識は本当に正しいのだろうか?

 

 例えば僕が赤色のサングラスを掛けるとする。するとコップは元の色がなんであれ、強制的に赤色に変えられるだろう。当たり前のことだ。また、もし僕が急に目眩を覚えて(酒に酔ったとか、急病で倒れる寸前だとかだろうか)、コップを見たとすると、コップの姿というのはその僕には、少なからず歪んで見えるはずだ。

 

 となると、通常時の僕たちの目が映し出す像というのに対して、疑いが掛けられ始める。コップの姿、つまり像に、一定の形や色がないというのは、色付きサングラスと目眩の例で十分証明されてしまったからだ。とすると、コップ自体の本当の姿とは一体なんなのかという問いが浮上する。この正体不明の、物の本来の姿、これを数学で変数をエックスと置くように、そのドイツ人は「物自体」と名付けたのだ。


 物自体……。学校に対して向けられる視線にも、同様の事が言えるの僕は思っている。学校生活が、ある人から見ればとてもひどいもので、またある人から見ればとても良いものであるように、学校生活がどんなものであるかというのは、僕たちには知ることができない。

 

 「事実は存在せず、あるのは解釈のみである」とニーチェは言ったけれど、僕たちはただ目の前に提供される料理に対して美味い不味いを告げるか、はたまた無表情で咀嚼を続けるかを選ぶことしかできないのだ。

 

 だから、学校生活が絶対楽しいと、僕は思わなかったし、逆に、絶対つまらないとも僕は思わなかった。

 

 ただ、考えたのは、学校生活が面白いと、すなわち自分が学校で楽しく幸福感に包まれた毎日を過ごしていると、「思い込む」ことは可能だということだ。

 

 「事実は存在せず、あるのは解釈のみである」とするなら、こっちは、目の前にある事実というものを都合よく解釈してやればいい。

 

 先生の理不尽に腹がたつのなら、その理不尽を仕掛けてくる先生の愚かさを笑えばいい。そしてその時間はほんの少しだけにして、あとは好きな人のこととか、友だちと遊ぶ計画だとかを考えるのに、多くを費やせばいい。ただし、もし自分に非があった場合は、そのことを反省すること。好きな人のこと、友だちのことより長い時間をかけた方がいいと、僕は思う。恥ずかしい失敗だとかは、長いこと僕たちの頭を支配するけれど、このしつこい記憶については、考えないより考えた方がいい。押しやるより、「まずかったなあ」とか「もっとこうしたほうがよかった」と反省したほうが、かえって早く笑い話にできる。経験談だけれど。

 

 えっと、なんの話だったっけ。あ、そうだそうだ。確か先輩がどうとか言ってた。

 

 そう、だから、学校選びに後悔するなんてことは、当たり前のことだ。みんな見方がちがう。入って後悔しないなんて言われても、しない人なんてほんの一握りしかいないんじゃないだろうか、と思う(高校の方針と自分の進路の方針が違うなんてのは、自身の調べ不足を恨むしかないが)。

 

 僕も高校に満足しているほうだけど、たまに、この学校で良かったのかなと思うことはある。高校の友だちも、みんな思っているんじゃないだろうか。でも、結局、自分の選んだ(選ばざるを得なかった)この道が最善だと思わざるを得ない。そう思ったほうが自分の心のためになる。よく言われる話だけれど、やり直しは効かないからだ。

 

 当たり前の話をしたけれど、今の生活というのは結構楽しい。負けず嫌いの自分は勝手にライバルを他に作って勝手に自己嫌悪に陥ったりしているけど、そんな捻くれた人じゃなければきっと高校では簡単にうまくやれる。

 

 残念ながら、僕は恋愛のアドバイスはできないけれど、もしイジメというものが心配なら、目立つことをせず、上手に立ち回れというのは言っておきたい。それがいわゆるコミュ障に繋がっても、僕は責任を取れないけれど。

 

 さて、僕は君に、これをエッセイとして見せるか小説として見せるか迷っているけれど、友だちの名前とか、ところどころにフィクションが混ざっているから、これは小説とすることに決めた。せっかく書いたのだから、役に立つことをと考えたつもりだけれど、読み辛い点はどうか許してほしい。

 

 

 いや小説じゃないだろ、とまず突っ込みたいですが、まあいいでしょう。

 

 ですが、意見はだいたい今も同じです。今と比べると感覚重視というか、暗喩的な感じに書いている部分はありますが、高校二年生で意外とよく書けてるな、という風に思いました(三年越しの自画自賛

 ただ「いじめが心配なら目立つな」は、あまり褒められた手法ではないですし、今考えればデメリットが大きくてあまりおすすめできないですが。

 

 あと、「高校で仲の良い人が一生の友達になる」は、たぶん本当です。

 

 そしてもし、私が同じような文章を大学に入る人たちへ書くならば、要点は次のようになると思います。

 

・友だちは大急ぎで作れ、とにかく話しかけろ、向こうも待ってる

 

・サークルは最低一つは入っておくのが吉、幅広い人脈を求めての掛け持ちもあり

 

・文系の場合単位は普通に講義とテストを受ければくれる、大学受験は落とすためのものだったが大学の単位はあげるためのもの

 

・大学は自分に見合ったところに入るべき、私は中学→高校と来てまた中学に入学したような気分で大変後悔している

 

・浪人生は今一度進路を見直すべき、私は少し後悔している

 

・大学に入って一年経ったところで将来のビジョンなど生まれない

 

・暇

 

 ……こんな感じですかね。

 明確にやりたいことが決まっていないと、私みたいにニートして一年終わるので気を付けてください。

 

 では、新大学一回生の方々、頑張ってくださいね。応援してます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:入学式のことだろうと推測。