とらじぇでぃが色々書くやつ

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主にVTuberの記事を投稿中。

ウマ娘をプレイすることに葛藤がある話

 

ウマ娘の勢いがすごい。
アニメ二期は大成功、マンガ(『シンデレラグレイ』)も本屋を何軒回っても見つけられないほどに好調で、何よりアプリゲームは世界の有名ゲームとも引けを取らない人気ぶり。一時は不安視されていたウマ娘だが、数年越しに逆転大当たりの様相だ。

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ウマ娘」とは、Cygamesが企画するメディアミックスプロジェクトであり、またその作品群におけるキャラクターたちの総称でもある。「ウマ娘」が提供するのは、過去に活躍した競走馬たちの擬人化コンテンツだ。トウカイテイオーオグリキャップなど、競馬に明るくない人でも名前くらいは聞いたことがある、そんな「名馬」たちがウマ娘プロジェクトでは美少女キャラクターに擬人化される。そして彼女たち自身が、自身のその脚で、芝やダートを駆け抜ける(美少女が馬に跨って走るわけではない)。

ウマ娘はメディアミックスプロジェクトなので、前述の通りアニメやマンガなど様々なメディアでコンテンツが発信されているわけだが、すべてに触れていると記事が長くなるだろうから、ここでは話題をアプリゲーム「ウマ娘 プリティーダービー」に絞りたい。

さて、かくいう私も、そのウマ娘のプレイヤーの一人だ。手を出す前は如何ほどのものかと思っていたが、実際プレイしてみると、このゲームがなぜ人気なのかとてもよく分かる。

その最大の理由は、やはり徹底された作りこみだろう。それはクオリティの高い3Dモデルや、アニメのように目まぐるしく変化する表情、ライブ演出、レース演出、実況など、様々な箇所に見て取れる。そして何より、元ネタである競馬へのリスペクトがしっかりと為され、史実が(アレンジされつつも)随所に細かく反映されている点からは、このゲームの本気度がとてもよく伝わってくる。

ウマ娘はそれ単体でも育成ゲームとして非常に質が高い。だが、競馬の歴史を調べると、話に深みが出てきてコンテンツをより楽しむことができる。たとえば育成キャラターそれぞれに割り当てられる「脚質適正」や「距離適性」などはモデルの競走馬を参考にしているし、各々のストーリーも、やはりモデルを踏まえたものとなっている。サイレンススズカ秋の天皇賞予後不良となってしまった話は有名だが、ゲーム内の同名レースでサイレンススズカが一着をとると、特別な実況が聞けたりする。史実を知らないと、何か違う実況が流れたな、と思うくらいで済ますか、素通りしてしまうかもしれない。しかし史実を知っていると、その知識が感動を付加してくれる。
だから、ウマ娘プレイヤーの多くは、今まで競馬に興味が無かったとしても、よりコンテンツを楽しむため、競馬の知識を蓄えようとする。

話によれば、本当かは分からないが、最近競馬の収益が上昇傾向にあるらしい。ウマ娘の流行と時期が被るので「ウマ娘効果では無いか」と言われているようだ。また、ウマ娘から競馬に入り、「初めて馬券を買ってみた」という話もよく見かける。的中させて儲けようというよりは、「推し」の子孫を応援するようなスタンスがほとんどのようだ。ゲーム内のキャラクター、「マルゼンスキー」の声優が、馬券で一発当てたというツイートも話題になった。

 

このような中で、私はウマ娘をプレイしていて良いのか、という葛藤に苛まれている。

なぜか。

まず、ウマ娘は競馬をその基礎としている。そして競馬は賭博であり、ブラッド・スポーツである。賭博もブラッド・スポーツも倫理的に怪しい気がする。すると、その怪しい競馬を基礎とするウマ娘も、やはり怪しい気がしてくるのだ。

まず、賭博はなぜいけない気がするのか。それは思うに、人の一生を破壊しかねないからである。人間は誰しもが・常に合理的だというわけではなくて、やはり誘惑に駆られることがある。ギャンブル依存症という言葉もあるが、一旦それに陥ってしまうと、たとえ依存のスパイラルから脱出できたとしても、それ以降の生活が、生きることだけで精一杯になってしまう可能性がある*1

ここでこう反論する人もいるかもしれない。いやいや、ウマ娘は賭博とは無関係だ。「一番人気」とか「二番人気」とかは本当に純粋な人気投票であり、獲得賞金もファン数に置き換えられている。だからウマ娘はクリーンだ、と。

たしかに、ウマ娘はゲーム内で競馬につきまとうネガティブなイメージを徹底的に削ぎ落とそうとしているし、実際それは成功していると思う。それはそうなのだけれど、しかしウマ娘をプレイすることで、プレイヤーがその基礎となっている競馬について調べ、その結果、仮に競馬人口が増える、または競馬の収益が増える事態に繋がっているのだとしたら、それは良いことなのだろうか……? つまり、アプリゲームが賭博行為への誘導口になっているのだとしたら、これは良いことなのだろうか?

次にブラッド・スポーツの問題点は、動物にとって負担であるという点に集約される。
競走馬は人間の娯楽のために生まれ、調教を施され、鞭打たれながら重い人間を乗せて走る。万一ケガをし、予後不良となると安楽死。無事にレースを退いても種牡馬などの役割をもって生きられるのは、ほんの僅かだという。

マルクス研究者の田上孝一は『はじめての動物倫理学』(集英社新書)で、次のように述べる。

 競馬の場合は他の動物利用競技に比べてそれが虐待であるというコンセンサスが取り難く、大規模に施行されていて確固とした伝統も築かれているため直ちに廃止することはまず不可能だが、その規模を縮小させて無益に殺されてしまう馬の数を減らすことはできるだろう。これはひとえに世間一般の動物への意識が高まるかどうかにかかっている。

 ギャンブルの是非はまた別の話で、ギャンブル自体が倫理的に問題があるものだが、それはひとまずおくとして、競馬でなければならないという理由はない。(中略)やはりここでも、人間が全て自分たちだけでやるべきで、動物を使うべきではないということである。(pp.163-4)

つまり、競馬は伝統があるうえ、動物実験などと比べると市民から虐待であるという認識を得られないから即座に廃止することは難しいだろうが、しかしやはりギャンブルとしてなら競艇や競輪など人間に代替できるのであって、競馬のようにわざわざ動物を使う必要はなく、現実的には規模を縮小させていくことが妥当な解決策であろう、ということだ。

柔軟な主張であり、賛同できる。競馬産業は、すぐにでは無くても、緩やかに縮小していくのが動物倫理に沿った実践だろう。そう考えた場合、競馬産業を逆に拡大させてしまうかもしれない、あるいは既に拡大させているウマ娘を、どう見るべきだろうか。

ウマ娘は、やはり悪なのだろうか。

しかし、話は単純ではない。忘れてはならないのが、動物に罪は無いという点である。ウマ娘のポジティブな側面として、レースから引退した馬たちへの寄付額が増加した例がある。最近では、ナイスネイチャ33歳のバースデードネーションで、目標金額を大幅に超える寄付があった。これは例年と比べても異常な額であり、ウマ娘効果であることは明らかだ。馬一頭を養うには多額の費用がかかる。人間の手で育てた馬を、自然に放つわけにもいかない。であれば、こうした寄付行為は動物倫理にもかなった実践であろう。

また、過去にこの世に生まれてしまって、レースに命をささげていった競走馬たちもまた悪くない。今、ニシノフラワーセイウンスカイのオーナーが綴ったブログが反響を呼んでいる。「こうしてわしが愛したセイウンスカイニシノフラワーを想い出してくれる人がいるだけでいいな。*2」と記されているように、ウマ娘は誰かの大切な思い出に再びスポットライトを当て、その輪を広げている。これもまた、ウマ娘のポジティブな側面である。

ここに葛藤がある。一方で、ウマ娘は賭博行為を(間接的に)促進し、動物倫理からして賛同しがたい競馬産業を下支えしている(可能性がある)。他方で、ウマ娘は引退馬を支える運動を生み出し、また誰かの思い出を掘り起こし改めて周知する役割を担っている。

こうしたジレンマに対して、「ウマ娘は悪か」という問いの設定の仕方では、上手く答えられそうにない。

では個人の実践のレベルではどうだろうか。つまり、「私はウマ娘をプレイすべきか」。

真っ先に思いつく考え方は、悪い面と善い面を比較してしまうことである。つまり、私という個人がウマ娘をプレイすることで、どんな悪い/善いことがあり、そのどちらがより重いかで判断する。悪さが善さを上回れば、ウマ娘をプレイすることは控えるべきだ。

たとえば私(筆者)は、賭博は絶対にしないと決めているから競馬産業には直接金銭を流さないだろう。しかし、私は一度だけウマ娘に課金しているから、ひょっとすると、そのお金の一部は競馬産業に流れているかもしれない(分からないが)。そうでなくても、私という1ユーザーがウマ娘をプレイしていることで、「ダウンロード数○○万突破!」といったウマ娘の実績に加担しているとすれば、間接的には競馬産業にプラスに働いてしまっているかもしれない。しかし、それは善い面でも同じだ。私はできた人間ではないので引退馬への寄付はしていない。だが、ウマ娘をプレイしていることで、間接的に寄付運動を起こす協力はできていたかもしれない。誰かの思い出に焦点を当てることも同じだ。

この両者を比較できるかと言われれば、難しい。数値を出せるわけではないからだ。

では、結果を比較するのでは無くて、個人の道徳的・倫理的な義務から考えてみるのはどうだろう。

個人は、引退馬に寄付をすべきだろうか*3。金銭に余裕があるのであれば、しないに越したことはない。引退馬は多くの場合、生きるために寄付を必要としている。人間の娯楽のために生まれた馬なのだから、人間が養うべきだ。「誰が養うか」という話をしていたら引退馬は寄付を受けられず亡くなってしまうかもしれないし、この寄付は一般的な義務として良いと考える。

しかし、その寄付は、競馬産業が無ければ本来必要のないものである。競馬産業は、競走馬を生産し続け、現状、多くの人間に寄付という名の金銭の負担を強いている。また、競馬産業は先述の通り動物倫理からしても肯定しがたい。このような観点から、競走馬を生産することは悪であるといえそうだ。だとすると、競馬産業を(間接的に)下支えするウマ娘をプレイすることも、推奨されないように思える。

以上を踏まえるとやはり、ウマ娘をプレイすることは、個人としては控えたほうが良いのかもしれない。とはいえ、理論を実践するかは個々人に委ねられているだろうし、私もそういったところでモヤモヤしている次第である。

 

 

*1:ただ、だから賭博はダメだ、禁止しろと言う気は無いし、誰かにギャンブルをするなと強いる気も無い。強要するとそれはパターナリズムだし、私としては、ギャンブルをするかしないかは、本当に個人が理性を働かせ合理的に判断できているなら、自由に決めて良いと思う。

*2: ウマ娘Twitterでバズる。 | 西山牧場オーナーの(笑)気分 

*3:賭博をするか否かは個人の自由だから問題外であるし、誰かの思い出に焦点を当てることはウマ娘をプレイすることに自動的に伴う結果だからこれも問題にしなくてよい。

2020年秋アニメ感想

 

新年あけましておめでとうございます(激遅挨拶)。

昨年はみなさん有意義に過ごせましたでしょうか。私はいつも通り無為に過ごしてしまいました。かなしみ。

さて、この記事では昨年最終回を迎えた秋アニメの振り返りをしたいと思います。

全部で7本、順番は適当です。

ネタバレを含むので、読むのは視聴後をおすすめします*1

※画像は全て、それぞれのアニメ公式サイトから引用しています。

 

 

アサルトリリィ

【総評】

女の子同士のイチャチャが和む。

anime.assaultlily-pj.com

 

 

 

【内容】

武器を持った少女たちが謎の敵勢力と戦うアニメ。

ジャンルは百合とアクションでしょう。

リリィと呼ばれる彼女たちは、戦闘集団であると同時に学校の生徒でもあります。その学校には、気の合う上級生と下級生が擬似的な姉妹となる制度、その名も「シュッツエンゲル制度*2」が導入されており、新入生である主人公の一柳梨璃(ひとつやなぎりり)と、2年生で孤高の一匹狼ながら人気者の白井夢結(しらいゆゆ)は、紆余曲折を経てそのシュッツエンゲルとなります。ストーリーの中心はこの2人です。

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1〜3話は梨璃と夢結の関係を、4〜6話はレギオンと呼ばれるチーム結成の過程を、7〜9話は不思議な少女との出会いと別れを、10〜12話は梨璃と夢結の心の傷を通して仲間の友情を描きます。

女の子同士のイチャチャが多く、百合好きにはおすすめできる内容です。ただ、念のため書いておくと、『Citrus』のようなガチガチの恋愛要素はありません。

 

【評価】

・キャラクター

とにかく多い。覚えきれないくらい多いです。しかし、そこは製作側も自覚しているようで、1話から最終話までテロップで名前が出るため「これ誰だったっけ?」とはなりません。ここは高評価ポイントでした。

キャラの多いアニメにありがちな「キャラを出しすぎて全員掘り下げが中途半端」という事もなく、中心の2人をフォーカスしながらも全員をバランスよく掘り下げているため、満足度も高かったです。2人以外のキャラクターにも、感情移入がしっかりできました。

場面写真

特に気に入ったのは白井夢結です。全生徒の憧れでありながらも過去の惨劇により心を閉ざすヒロイン、という王道な(ありがちな)キャラ造形ですが、その過去に向き合う様が丁寧に描かれており、とても共感しやすかったです。梨璃との関わり方も、最初は「絶対に仲良くなんてしてあげないんだから」という風な態度だったのに、中盤では既に「梨璃しゅきしゅき/////」と態度が豹変しており、そこがむしろ人間らしさを感じさせます。普段は「私を頼りなさい」みたいな雰囲気出しているくせに、ストーリー展開の上では「お前いつも妹に助けられてんなあ!」という感じはありますが(たしか戦闘シーンで三回ほど助けられている)、重い過去に押しつぶされそうになる夢結を救える可能性が一番高いのは妹である梨璃なので、それはそのメタファーではあるのでしょう。

場面写真

デザインについては、長袖制服とニーハイソックスやタイツといった露出を抑えた服装が気に入りました*3。ソックスと太ももの境界など、脚に強いこだわりを感じます

立ち絵

立ち絵

どのキャラもなんだかふんわりと丸みを帯びていて、百合百合な作風にピッタリだと思いました。 

 

・音楽

OPは最初どこか浮いている印象を受けましたが(激しい曲調、挟まるラップ?など)、何度も聴いていると好きになってしまいました。他は特に気になるところはありませんでした。

 

・構成/テンポ

悪くありませんでしたが、設定が若干複雑なのでその説明に時間が取られてしまう点は惜しかったです。そのうえ、その設定も大して面白く無いので、理事長室が映るたびに「またか……」と思わざるを得ませんでした。

しかし、全体として話はしっかり進展していくので、結果的にバランスはとれていたと思われます。

 

・設定

ギオン、シュッツエンゲル、ノインヴェルト戦術、ヒュージなど、造語が多い割には簡単についていけます。アニメやマンガをよく見ている方なら、文脈的にそれらがどういったものかすぐ分かるでしょう。

特に、レギオン、ノインヴェルト戦術、およびシュッツエンゲル制度は、「友情」を効果的に伝えてくれる点で見逃せません。

ギオンは9人1組の部隊のことですが、この9人は全員が主人公を慕って集まっており、一つの家族のような役割を果たしています。特に9話で発揮されるその絆の強さに、視聴者は心を打たれることでしょう。

場面写真

またノインヴェルト戦術とはその9人全員で繰り出す攻撃手法のことで、これもレギオンの絆を視覚的・直感的に伝えてくれます。

シュッツエンゲル制度については言うまでもありませんが、年の一つ離れた女子同士の「恋愛関係では無いけれど友情以上の」強い関係性を姉妹という言葉で表現することそれ自体がまず評価できます(これはエス文化に共通する点ですが)。「名付け」というのは効果的です。私たちは言葉を使って思考しているわけで、とある概念に名前がある場合とない場合では、当然ある場合のほうが把握はしやすいからです。シュッツエンゲルという制度の存在が、彼女たちの関係を効果的に印象付けます。

場面写真

また、姉妹関係は、最初はそこまで仲良くなかった女子同士も、姉妹関係であることそれ自体によって、いわば再帰的に、仲良くさせてしまいます。シュッツエンゲル(姉)はシルト(妹)を教育する必要があり、そのために2人は嫌でも関わらなければならないし、2人は自分たちが姉妹関係であるということを強く意識していますから、その意識が2人を姉妹らしく振る舞わせ、良好な関係を構築させます。こうした関係の形成が、1〜3話では行われるわけです。

このアニメのテーマの一つは友情だと思われますが、こうした設定はそれに大きく貢献していると言えるでしょう。

しかし、「レアスキル」や「マギ」といった設定には少し困惑しました。

マギは魔力と言い換えても良いと思うのですが、やはり魔法に近いことができる以上、ご都合主義感は出てしまいます(マギに何ができて何ができないかは脚本家が決めるため)。しかしこれは魔法の宿命なので仕方ありません。

また、レアスキルとは特技のことですが、アニメ中では大した説明が無く、どうやらアサルトリリィの世界では常識として扱われているようです。しかし、その「レアスキル」はゲームに登場する固有スキルのように扱われており、私はいささか混乱しました。「これはゲーム世界の話だったのか」と思ってしまったからです。実際、終盤には「上位スキル」のような概念も登場し、なんだかよく分からなくなってきます。

とはいえ、レアスキルのほうは、梨璃の「カリスマ」がレギオンを結成させたり、夢結の「ルナティックトランサー」が夢結の心の闇を映すとか姉妹関係を強化するとかに役立つなど、ストーリーに効果的に絡んではいるので、アサルトリリィというアニメに必要な設定ではあったといえるでしょう。

 

・ストーリー

ラストのスピード感には笑ってしまいました。ボスにあっさりトドメを刺してしまうのでビックリです。「ええ!?そんなに簡単でいいの!?」と思いました。

しかし、全体を通して見れば良い話でした。

特に結梨(ゆり)が登場する7〜9話は穏やかな日常と緊張感がせめぎ合うストーリーで気に入りました。相変わらず理事長の出るシーンは大して面白くありませんでしたが、過剰ともいえる百合成分の供給に比べれば些細なことです。

また、あれだけ性格のキツかった夢結が完璧にデレてしまう5話は衝撃的でした。「何をプレゼントしたらいいか分からない」と陰キャみたいなことを言い出したかと思えば、まさかラムネをプレゼントにするなんて! しかも結局努力が骨折り損だったというのも、妹への愛の大きさがよく伝わってくるオチでした。あと、シャフト感の強い画面構成が寂れた街とよく合っており、その点も評価したいですね。

場面写真

ラストは続編も匂わせており、アサルトリリィプロジェクトが今後どのように展開していくか楽しみです。 

 

【まとめ】

おすすめできる百合アニメです。

 

 

安達としまむら

【総評】

宇宙人いる???

www.tbs.co.jp

 

 

【内容】

2人の女子高生、「安達」と「しまむら」が過ごす青春アニメ。

安達はしまむらに対し恋心を抱いている一方、しまむらは他人と深く関わろうとしない性格。

構成としては、安達が挙動不審になりながらしまむらにアプローチし、デートして、安達がめちゃくちゃ喜ぶという流れが繰り返されます。

「ヤシロ」と呼ばれる青髪の少女が登場し、宇宙人を自称しますが、「安達としまむらの関係」という主題に直接関わるのは序盤の一回のみで、他はしまむらの妹と遊んでいるだけです。要するに何もしません。

1話ではこのアニメが「安達としまむらの関係性に主題がある」ことが示されて、2話と3話では宇宙人について、4話ではしまむらメインで親子について、5話と6話ではクリスマスについて、7〜9話ではバレンタインについて、10話と11話では進級について、12話ではお泊まりについて描かれます。

アサルトリリィと比べると散らかっているなあという印象を受けます。

私たちは、ほとんど安達の片想いを追うことになります。これは安達の恋路を応援するアニメなのかもしれません……。

 

【評価】

・キャラクター

髪色が気になる。

しまむらは終盤、自分の髪を茶色に染め直すか色を戻すか迷うのですが、だとすると安達の髪は青色に染まっているということになりますよね。安達たちの学校は、染髪が許可されているのでしょうか? また、最終話のお泊まりでしまむらの母親は安達を学校に真面目に行っている子だと思っていたようですが、一般的な感覚から言って(つまり外見での差別などは置いておいて)、青い髪の子を真面目な子だと思うでしょうか? 私はどうもそこが気になって落ち着きませんでした。

……と思ったのですが、なんと安達の髪色は黒という設定らしいです。あれで黒!?

キャラクターデザインは非常に魅力的、とまでは行きませんが、普通にかわいいと思います。おそらく、平凡さを意識したのでしょう。彼女らは普通の高校生ですもんね。

安達のチャイナドレスは作者の趣味が透けて見えるようですが、私も好きなので良いと思います。

 

・音楽

EDのほうが好きかな。飛ばしてたのであんまり聴いてないですが。

 

・構成/テンポ

ヤシロが要らないと思います。ヤシロは全話にちょっとずつ登場するのですが、2話と3話以外は安達としまむらに絡んでこないので、ほとんどは無意味極まりないものです。あの無意味なシーンを削って、主題である2人の関係をもっと描いて欲しかったし、どうしても登場させたいのならそれは2人に絡ませる形でするべきです。

全話通してモノローグが多用されるので、テンポは比較的ゆっくりです。ですが、キャラクターの心情というのは非常に重要ですし、内容もストーリーに関係のあることについて話していますから、良い作りだと思いました。

ただ、構成はちょっと変なところがあります。1番おかしいのはヤシロですが、特に4話でしまむらが安達の母親とレスバし始める箇所は、「なんか急だな」と違和感を感じました。

 

・設定

文句をつけるとすれば、まず彼女たちのモノローグです。モノローグによって、儚い青春、みたいな雰囲気は出ており、それは結構なのですが、どうも言葉選びが上手すぎるのが逆に不自然です。彼女たちは学校をサボるような"不良"で、成績も特別良いわけでは無いはずです。小説を読んでいるような描写もありませんでした。そのうえ彼女らはまだ高校一年生なのに、どうしてあのような語りができるのでしょう。それに、モノローグは比喩的な語りが多く、雰囲気重視で、私の聴いた感じ内容はそんなにありませんから、もっと年相応に(一般的な話として)素直な語りにした方が話のテンポとしてもよかったように思います。

また、ヤシロはやはり必要ありません。12話の長さやってきてほとんど出てこないなら、ヤシロについて語られた時間は無駄だったと感じてしまいます。この先どデカい展開に関わってくるのだとしても、もっと出し方に工夫が必要だと、素人ながらに思います。

 

・ストーリー

ストーリーは最初から最後まで、安達としまむらがダブル主人公のようにモノローグをぶつけ合いながら進んでいきます。そのうち恋心を抱いているのは安達のみですから、安達の片想いが成就するのか、視聴者は見守ることになるわけです。

ただ、女の子同士の恋愛アニメだと『Citrus』や『やがて君になる』などの強力な先駆者がいるため、どうしてもそれらと比較してしまいがちです。そうしたとき、最終話を迎えても目立った進展の無い『安達としまむら』は、見劣りしてしまいます。たとえばアニメの『Citrus』は同じ1クールで非常に内容が濃い話を3つほど重ね、晴れて恋仲になっているし、同じく『やがて君になる』も密度の濃い心情描写で畳みかけ緊張感を演出し、文化祭という大きなテーマを仕掛けてから最終話を迎えています。それらと比べてしまうと、安達としまむらの進歩のなさ、そして中身のなさが浮き彫りになってしまいます

とはいえ、モノローグが作る雰囲気は安達としまむら特有のものですから、それが武器になることは間違い無いでしょう。

 

【まとめ】

1話で気に入ったら見るといいかも。ただ、中身はあんまり無い。

 

 

神様になった日

【総評】

おすすめはしづらいです。

ただ、コメディ回は嫌いじゃありません。 

kamisama-day.jp

 

【内容】

神を自称する女の子(佐藤ひな)が、主人公(成神陽太)とわちゃわちゃするアニメ。

前半はコメディが続き、中盤からシリアスに転換していく展開です。

コメディパートはラーメン、映画撮影、恋愛、麻雀に夏祭りなど、様々な題材を用いています。シリアスパートは、佐藤ひなの正体に迫っていく内容です。

 おおよそ7話か8話あたりでコメディとシリアスが切り替わってきます。

 

【評価】

・キャラクター

デザインは好きです。宝石が光を反射するような色使いが印象的。

 

しかし、とても重要であるはずの人格面に、大した魅力を感じないのは問題です。

なぜ魅力を感じないのでしょう。

あるキャラクターが好きだ、と私たちが言うとき、本質的には彼らの何が好きなのでしょうか。思うに、それは人物が抱く確固たる信念、あるいはそれに類するものです。ストーリーや登場人物同士の交流を通し、視聴者は彼らの奥底にあるものに触れ、共感し、キャラクターに好意的な印象を持つのでしょう。人物の容姿とか台詞回しとかは、たしかに要素の一つではありますが、あくまでも副次的な要素なのです。

そういった信念を、『神様になった日』のキャラクターたちからは感じられませんでした。そもそも、後述しますがこのアニメは設定やストーリー構成が破綻しかけている/既に破綻しているので、それも大きく影響しているのでしょうが、とにかくキャラクターに対する印象は「薄い」の一言です。一応最終回まで観ましたが、「誰が好きですか?」と聞かれても答えに詰まります。

特に、主人公の成神陽太はブレがあまりにひどく、「こいつ何?」と思わざるを得ませんでした。というのも、たとえば彼は最初幼馴染にゾッコンだったのですが、終盤では幼馴染を差し置き、ぽっと出の佐藤ひなを危険を顧みず助けに行くからです。もちろん、幼馴染に対する感情は「Love」で佐藤ひなに対する感情は「Like」であることくらい分かりますし、その限りでは両立しそうに見えます。しかし、話のスケールはあまりに違いすぎます。彼は幼馴染へのアタックに躊躇し、佐藤ひなに猛プッシュされようやく決心するわけですが、そんな小さな話も自分で決心できなかった人物が、明らかに危ない橋を渡ろうと決心し実行するなんて、とても受け入れられません。また、コメディ回でのテンションの高さもちょっと怖かったです。人が変わりすぎて。はい。

ついでに佐藤ひなにも触れておきますが、彼女にもイマイチ感情移入できませんでした。一応設定を振り返ると、「そこらの女児と変わらないように見える佐藤ひなは、実は先天性の障害を持っていた。本来ならば寝たきりで会話もままならないはずが、祖父の開発した量子コンピューターを頭に埋め込むことで、佐藤ひなは多くの女児と変わらない生活を手に入れる。主人公たちと出会い、楽しい日々を過ごすひな。しかし、ひなの量子コンピューターは世界に危険を及ぼしかねないとして、ひなは頭のコンピュータを抜き取られてしまう。佐藤ひなは、短い間ではあったが、世紀の発明により「外で遊びたい」という夢を叶えることができたのだ——ほら、泣けよ。」という話なのですが、この設定にもツッコミどころが盛りだくさんです……。それらは設定の欄で触れますが、この設定のいい加減さにより、佐藤ひなへの共感がかなり薄れてしまっています。

脚本の麻枝准は、インタビューでこういったやりとりをしています。

 

——ちょっと感覚的な話なんですけど、『Charlotte』のタイミングでお話を伺ったときに、「物語の中に自分の経験は関わっていない、自分はこの中にはまったくいない」と麻枝さんはおっしゃっていて。で、『神様になった日』も、この中に麻枝 准さん自身がいるわけではないと思うんですけども、物語とか登場人物の振る舞いや言葉、行動に、麻枝さん自身のパーソナリティが映し出されているところは、もしかしたらあるのではないかな、と感じたんです。麻枝さんとこうしてお話するのは2度目ですし、正直どういう方なのかはよく知らないですけど、全体的にやさしい感じがした、というか。ご自身が書かれたシナリオ、登場人物の行動は言葉を振り返ってみて、そういう印象はありますか?

 

麻枝:いや、自分はもう完全に割り切って、虚構として書くので、自分の中の何かを反映させないタイプのクリエイターなんですけどね。*4

 

麻枝氏は、自分のパーソナリティを作品に反映させないと言います。

しかし、そんなことがあり得るんでしょうか……?

「パーソナリティ」とは何か、という点も考慮しなければなりませんが、それが性格や容姿だけでなく、蓄積された経験も含むのであれば、私は不可能だと思います。門外漢が出しゃばって言いますが、経験を生かさずして創作物を完成させることができるとは全く思いません。たとえば、作品を介して存在するコンテンツ受益者と提供者は、その作品に「説得力」があるか否かを、現実世界の在り方によって判断します。なぜなら、全員が明らかに共有しているのは、この現実世界だけだからです。現実に起こる諸々を経験しているからこそ、それを基盤として、アニメなどの描写を違和感なく受け入れることができるのです。

もしそれを使わず、「虚構として書く」ことができたとしても、そうして出来上がった虚構世界にどれだけの視聴者が付いていけるでしょうか。

そして実際、このアニメの評価は散々のようです。

 

・音楽

OPやEDは結構好きです。

 

・構成/テンポ

keyアニメは尺が足らず最後は駆け足になる、みたいな話をどこかで見かけましたが、それが事実ならこのアニメもその類だと言えます。

終盤のシリアスパートは、無理やりねじ込みましたと言わんばかりに飛躍した展開が続き、もう見ていられませんでした。

それを自覚していないのか、なぜか佐藤ひな(摘出後)の介護担当モブに回想シーンを付けるという明らかに無駄でテンポロスな場面もあり、何がしたいのかよく分かりません。

やはり、コメディパートに1クールの半分を割く必要は無かったでしょう。量子コンピューターとか、ハッキングとか、障害の話とか、丁寧に設定を説明する必要があることは分かると思うのですが。前作までは魔法を登場させていたらしいですが、それと同じように脚本を組んでしまったのでしょうか。魔法は超自然的なものなので説明できないことがあっても仕方ありませんが、コンピューターは科学に属するものですから、納得できる理屈の説明が無いと、視聴者は物足りなさを感じます。その分を計算に入れるべきでした。

とはいえ、高評価したい点もあります。それは、障害者を描くというその決断です。

特に、チップ摘出後の佐藤ひなと面会するシーンは、そこまでのストーリーがぐちゃぐちゃであったとはいえ、同情させるものがありました。佐藤ひなは、主人公のことを覚えていないのです。

私は親戚に認知症の人がいましたが、親しい人に忘れられるというのは本当に辛いものです。

一歩間違えれば(更なる)バッシングも免れない。にも拘らず障害というテーマを扱おうと決めたその心意気は称えたいです。

 

・設定

指摘する点は絞りましょう。ここでは「量子コンピュータ」だけ指摘します。

まず、現実世界において量子コンピューターは実現されていないらしく、今のところは完全にSFの産物です。しかし、科学であるからには、そこにはそれが動作する理屈が存在し、また何らかの限界も備えているはずです。だから、この作品内の量子コンピューターもそういうものとして考えます。

とすると、作品中で行われた予言のうち、これから雨が降るとか、バスが渋滞に巻き込まれるとかいった予測は、そのコンピューターが雨雲レーダーとか、監視カメラとかに瞬時にアクセスして、計算を行えば、そのコンピューターにとっては簡単なことでしょう。競馬の予測も、それぞれの馬や騎手のデータを総合して計算できるのなら、ひょっとしたらできるかもしれません。チンピラの動きを予測したのは少し納得いきませんが(名も無きチンピラの詳細なデータがサイバー空間のどこに漂っているというんだ)、量子コンピューターがそれくらいのことができるのだというのは一応受け容れておきましょう。

しかし、ひなの頭に埋め込まれた量子コンピューターが障害をすっかり取り除いてしまって、ひなを健康体の少女として活動させたというのは、どうにも理屈が分かりません。科学(医学)には疎いので的外れかもしれませんが、障害というのは遺伝的な(遺伝子的な)要素が絡んでいるのではないでしょうか。脳をいじれば解決、というような単純なものなのでしょうか。もっと複雑なものなのではないかと想像するのですが、どうなのでしょう。

もし仮に、量子コンピューターが障害を取り除く可能性があるとしても、チップを取り除かれた人間は、量子コンピューターが埋め込まれる前の状態に、そのまま戻るものなのでしょうか*5

たとえば、両脚を骨折し、そのせいで長いこと車椅子生活を続けている人がいたとします。彼は医者に言われ、ずっと両脚で立っていません。ある日ケガがようやく完治し、彼は立ち上がることを許可されました。嬉々として立とうとした彼ですが、どういうわけか、一生懸命動かそうとしているのに、脚がピクリとも動きません……*6

車椅子は、長期間、彼の脚の代わりを務めてきました。なぜ脚が動かなくなるのか、その正確な理屈を私は知らないのですが、とにかく、そういう例はあります。同じように、ひなの脳の代わりとして量子コンピューターは働いていましたが、それが取り除かれたとき、体に必要ないと見なされていたひなの脳は、もはや動かないかもしれません。

このあたりが、量子コンピューターについて私が疑問に思ったことです。

 

・ストーリー

物語としてはつまらなかったです。

ただ、コメディ一つ一つは笑えました。麻雀回は特に面白かったです。

 

【まとめ】

見なくても損しません。

 

 

魔女の旅々

【総評】

4話で切る程度には中身がつまらないですが、作画やキャラクターデザイン、音楽は超優秀。3話が乗り切れるかが分水嶺です。

majotabi.jp

 

※たいていの批判は既にやりましたから、以下ではそこで触れていないことを書きます。 四話までの感想になります。

tragedy.hatenablog.com

 

 

【内容】

話としては天才肌の白髪少女が旅に出てわーわーするものです。

本に出てくる魔女に憧れ、自身も魔女(魔法使いの中のエリート)になった主人公イレイナは、憧れの魔女と同じように、様々な国を旅して回ることにします。

 一話は魔女として認められるまでの話。二話は初めての旅先で、少女に魔法を教える話。三話は人を食う花畑と、幸せになれない奴隷の話の二部構成。四話は記憶を失くした王女の話です。

 

【評価】

・キャラクター

イレイナのデザインが天才的に良いと思います。白髪は賢さの象徴。大きなとんがり帽子は彼女が魔女であることを記号的に示します。紫、黒を基調とした服装も、古典的な魔女のイメージと合致します。また、それら服装、特に帽子、ローブ、リボンなどは体と比べてアンバランスに大きいですが、それは彼女がまだ未熟な少女に過ぎないことを暗に伝えています。

魔女の旅々が高評価を受けているのだとすれば、その多くはこの素晴らしいキャラクターデザインによるものでしょう

しかし残念ながら、イレイナは人格面で一貫していません。「出会った先で初対面の人を助けるか」という簡単な指標で見ても、二話では少女を助け、三話では奴隷を助けず、四話では王女を助ける*7という、一貫性の無さが露見します。イレイナにとって、全員が等しく初対面であるにもかかわらず、です。

これに対して、「助ける」の内容が異なるという反論もあるかもしれません。たしかに、それぞれの「助ける」は、二話では「魔法を教える」、三話後半では「奴隷を解放する」、四話では「危険なモンスターを退治する」で、それぞれ次元が異なることが分かります。魔法を教えることは、イレイナにとってなんでもないでしょう。奴隷を解放しなかったのは、面倒ごとを避けるためだったのかもしれません*8。危険なモンスター退治に参加する気になったのは、同業者である王女に同情したからでしょうか。

しかし、これらは私、あるいは視聴者の想像に過ぎません。なぜ助けたのか、なぜ助けなかったのか。アニメではこれらに説明を与えていません。イレイナの動機が分からずじまいであるというその一点で、面白さは大きく削がれています。

その説明に数秒もかからないはずですが、なぜ動機を語らないのでしょうか。もしくは、厳しい言い方になりますが、そんなこと考えていないので語れないのでしょうか。

また、イレイナの声も、キャラクタービジュアルのイメージから見て少し違和感がありました。先ほど、大きめの服は未熟さを暗示すると書きましたが、その「幼さ」のイメージと、(声優さんには失礼かもしれませんが)比較的年を重ねた大人の女性の声は、いまいち合致しません。慣れればどうとでもなるのでしょうが、そもそも多くのアニメではキャラクターと声の組み合わせに違和感を感じたりしないので、製作側のミスかもしれません。あえてそうしたということも考えられなくはありませんが……。

 

 

他の登場人物に関しては「感情移入」の「か」の字もありませんでした。残念です。

 

・音楽

文句なしで良いと思います。

 

・構成/テンポ

テンポは良いにしても、構成は意味不明です。

特に三話は物議を醸す内容でしたが、そうならないようアニメ監督の方で色々手を加えることもできたのではないでしょうか。それか、三話を丸々スキップしてしまうというのも、一つの手だったのではないでしょうか。

三話で問題なのは、登場人物に大した感情移入ができないこと、イレイナに奴隷を解放しない理由が特に見当たらないことです。また、もしイレイナが奴隷を助けないにしても、その心情描写が「その後どうなったのか知りたくもありません」ではあまりに人格が破綻していると思います。そうならないよう、アニメオリジナルで色々手を加えるのは、全く悪いことでは無いと思うのです。

色々調べましたが、コミカライズ版では一部イレイナの心情の描写が足されているそうです*9。ではなおさら、アニメ版でも描写を足すべきだったのではないでしょうか。

作画やキャラクターデザインが良い分、こういったところが本当にもったいないと思います。

 

・設定

一番突っ込みたいのは魔法です。

魔法がなんでもできる世界なら、たぶんとっくにその世界は滅んでいます。たとえば現実世界でテロや内戦、戦争が発生してきた/発生しているのは、少なからず悪意を(あるいは歪んだ正義を)持った人間が存在するからです。そのような人物がなんでもできる魔法を手にしたら、世界はきっとひどい有様になるでしょう。

そうなっていないのだから、魔法にも何らかの限界があるはずです。それが「なぜ作用するのか」は説明できなくとも、限界は説明しなくてはなりません。

しかし、『魔女の旅々』の魔法は序盤から「時間をまき戻す」なんてことをやり始めるので、限界が一気に跳ね上がっています。もうなんでもありです。これに関して原作者はツイッターで色々説明していますが、それは小説内でやっておくべきです。後付けのご都合主義と言われても仕方ありません。

 

・ストーリー

なんの味もしません。

悲劇的な話を書くなら、まず幸せを書けという話です。

 

【まとめ】

おそらく三話が一番酷い出来なので、万一それを面白く観れるなら、魔女の旅々適正があります。 

 

 

無能なナナ

【総評】

よくあるつまらん低予算アニメかと思いきや、良い意味で期待を裏切ったアニメ。おすすめできます。

munounanana.com

 

【内容】

舞台は超能力者だけが集まる学校。そこに潜入した「柊ナナ」が、能力者たちを頭脳で殺していく話。

柊ナナは、多くの人々にとって危険な能力者たちを始末するため、送り込まれた無能力者です。能力者たちに直接立ち向かっては勝ち目がないため、彼女は「私は他人の心が読める」と嘘をつき、虚を突いて一人ずつ確実に能力者たちを仕留めていきます。

不老不死であり、かつナナと同じくらい頭の切れる小野寺キョウヤの追跡を振り切りながら、ナナは能力者たちを葬るのですが、しかし終盤、他人を癒す能力を持つ犬飼ミチルとの交流を通じ、彼女の中にブレが生じていきます。ナナは犬飼ミチルも他の能力者と同じく多くの人を殺しているのだと思い込んでいましたが、実のところ、彼女は裏表の無い、本当に心優しい人物だったのだと知るのです。

真の意味で友だちになったナナとミチルでしたが、最終回でナナはミチルを失ってしまいます。

 

【評価】

・キャラクター

柊ナナのキャラクターデザインは、シルエットを意識した特徴的なものです。あの筆の穂先のような、あるいは犬の耳のようなツインテールは個性的でいいと思います。

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彼女は能力者に対し冷酷ですが、それは彼女が能力者の襲撃により両親を亡くしているからです。また、彼女に暗殺を命じているらしい「鶴岡」という男は相当な権力者らしく、ナナは彼に強く支配されているようです。ですから、熱心に危険な暗殺任務にも取り組むのでしょう。

彼女は人格面でも一貫性があり、また共感できるキャラクター性を持っていて、最初期待していなかっただけに素晴らしい造形に感じました*10

他のキャラクターは、お約束通りの見た目と性格の組み合わせで、無難な選択をしたのかなと思いました。面白みはありませんが、分かりやすさをとるなら良い判断だと思います。

 

・音楽

普通。

 

・構成/テンポ

テンポは本当に上手い。勢いが良いです。

あと、感心したのは犬飼ミチルの出し方でした。

「なんかこの子よく出るなー」と思ってはいましたが、あれほど重大な役目を負っているとは思いませんでした。

犬飼ミチルは最初(4話)、誰にでも優しい変わり者の女の子として登場します。

信用できない語り手(unreliable narrator)よろしく、そこまでの一話から三話で視聴者には「能力者=危険なやつ」という図式が刷り込まれていますから、私たちは「犬飼ミチルもまた裏があるのだろう」と疑ってしまいます。

常に優しい笑顔を見せるミチル。ナナの犯行が彼女にバレそうになったこともありましたが、ミチルはナナを疑うそぶりを見せません。その純真無垢さが、いっそう視聴者の疑いを強めます。

そして9話で、眠っていたナナにミチルがカッターを突き付けたとき、少なくとも私は、「やっぱり!」と思いました。彼女もやはり裏があったのだと。しかし、実はそれはミチル本人ではなく、彼女に化けた別の能力者だったのです。そしてナナはその能力者に敗北し、大やけどを負ってしまいます。

それを助けたのが、本物のミチルでした。

私も「疑ってすまんかった……」と思いましたが、それでも彼女に裏が無いと証明されたわけではありません。なので疑いは継続するのですが、その後、ミチルは「私の能力ではどうにもならない病気などを治すため、医者になりたい」と自分の夢をナナに打ち明けます。なんでも、ミチルは親友をがんで亡くしているのだと。本当か?と思う一方で、「本当に優しい子なんだな」という気持ちも私には生まれてきます。

ナナも自分の過去(両親を亡くしたこと)をミチルに打ち明けるのですが、その翌日からミチルの挙動がおかしくなります。何かを考え込んでいる様子です。ここでナナは「私の犯行がバレたのかもしれない」と疑いを強めます。

しかし、それは杞憂でした。ミチルの真意を確かめるため部屋に忍び込んだナナは、ミチルの日記をのぞき見します。日記には普通、本心を書くものです。そこには、普段のミチルと変わらない、優しい彼女の言葉が綴られていたのでした。ミチルの挙動がおかしかったのも、両親のことでナナを慰めようと頭をフル回転させていたからだと後に判明します。

これらを受けて視聴者は、今までのミチルの言動が、本当に本心から出たものだったのだと知ることになります。

ナナは自分の使命との間で揺れ動きながらも、ミチルを疑っていたことを反省し、彼女と仲良くなります。

しかし、当時は能力者が殺人事件を起こしていたのでした(犯人はナナではない)。その犯人は次のターゲットとしてミチルを襲撃します。ピンチに陥るミチルを、ナナは身を挺して助けるのでした。

ナナは瀕死の重体。ミチルはナナのため、今まで成功したことのない、しかも大きな代償を払うことになる「蘇生能力」を使うことにします。結果、能力は無事作用し、ナナは完全に回復、一方でミチルは命を落としました。

疑うことを続けてきた孤独なナナにとって、ミチルは希望の光だったのでしょう。

希望を描いてからの絶望。こうしたストーリーの、お手本のような構成です。魔女の旅々は見習いなさい。

細かい話を重ねながらも、こうしたラストへの伏線を上手く撒いていたのは流石だと思いました。

 

 

・設定

能力にしっかり限界を設けており、ナナの側からは、「こいつはどんな能力を持っているのか」「どんな限界があるのか」を探ることになります。

ただ、ツイッター上では「推理がガバガバ」といった意見が多いようです。多いということは私が気付かなかっただけで実際そうなのだと思いますから、普段推理小説を楽しんでいる方などは、論理のアラが気になって途中で切ってしまうかもしれません。

 

・ストーリー

どんでん返しが多く、予想がつかない話が大半でとても楽しめました。

「そこで終わるの!?」というところでエンディングだったので、できることなら続きも観たいです。

 

【まとめ】

おすすめ。

「推理や計画が結構杜撰なのに、登場人物がそれに気付かずイライラする」というパターンで切ることが多いようではありますが、一見の価値はあると思います。

 

 

魔王城でおやすみ

【総評】

頭を空っぽにして見るゆるーいアニメ。かわいいのが好きならハマる。

maoujo-anime.com

 

【内容】

よくあるRPG的な世界観で描かれる、ゆるふわ日常系アニメ。

王女「スヤリス姫」はある日魔王に連れ去られてしまいますが、人質であることを意に介さず、自由気ままに魔王城を荒らしまくります。

 

【評価】

・キャラクター

デザインは良いと思います。テーマである「睡眠」に合わせた、パジャマのような衣装*11と、就寝時の夜を思い出させるような小さな星が覗く瞳が特にかわいらしいです。

彼女が魔王城を荒らしまくると先ほど書きましたが、その目的はただ一つ、「安眠」です。具体的には、枕を作るためにクマから毛を頂戴したり、シーツを作るために布型のモンスターを切り刻んだり。やってることは自己中心的なのですが、彼女は大事な人質ですし、何より魔王たちモンスターはすごく常識的な良い大人たちなので、「仕方ないな~」みたいなテンションで許されてしまいます*12

 

・構成

スヤリス姫が何かを思い立ち行動を始め、魔王一同が驚き、最後には姫が目的を達成して眠りにつく。ほとんどがこの基本パターンで構成されています。

このアニメの見どころは、スヤリス姫の動向もそうですが、何よりそれを受けた魔王一同のリアクションにあります。彼らは全員が姫の一時的な保護者ですから、姫が城壁をよじ登っていたり、城から脱走していたりしたら当然大騒ぎになります。その慌てようがおかしくて良いです。

 

・音楽

OPの中毒性がすごくて、一回聞くと「ノンレム睡眠レム睡眠ノンレム睡眠レム睡眠……」と頭の中で何度も曲が流れてしまうほど。危険です。

 

・設定

世界観設定はよくある「異世界」を基調としており、お約束の連続なのでアニメオタクなら難なくついていけるでしょう。裏を返せば、それぞれのモンスターの説明とか、魔王とは何かとかの詳しい説明がないハイコンテクストなアニメなので、アニメ初心者が観るには向かないと思います*13。たとえば、しょっちゅう出てくる「クエスト」はゲームをする人でないと何のことか分からないでしょう。

 

・ストーリー

笑える/リラックスできるという意味で面白いと思います。

 

【まとめ】

頭を使わず楽しめます。おすすめです。

 

 

 

くまクマ熊ベアー

【総評】

なろう全開でウザいうえに中身はまるで無い作品ですが、作業のお供に流すくらいなら丁度いいと思います。

 

【内容】

 異世界転生した少女が無双する話。以上。

 

【評価】

・キャラクター

幼女キャラクターが多いという一点が高評価です。

ただ、セリフにリアルな幼女らしさが無いのでそこは残念でした。

 

 

・構成/テンポ

構成やテンポに問題はありませんでした。

展開も単純明快で、とても分かりやすいです。

 

・設定

普通です。

 

・ストーリー

主人公がなんの脈絡も無く得た力で敵をバタバタ倒し、称えられながら知り合いを増やしていくという普通のストーリーです。

 

【まとめ】

幼女ハーレムは良いと思います。ょぅι゛ょは最高なので。

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なんか二期決定してた

 

以上。

 

*1:と言うわりにはおすすめできるかできないかも書いているのですが

*2:このシュッツエンゲル制度は『マリア様がみてる』のスールなどをリスペクトしていると思われます

*3:アサルトリリィのキャラはドール化しているので関節部分を隠しているのだ、というツイートを見かけました

*4:全鍵っ子必見! クリエイター・麻枝 准の完全復活を告げる、新たな決意――『神様になった日』麻枝 准2万字インタビュー③ | アニメ ダ・ヴィンチ

*5:「そのまま」戻ったかどうかは、チップを埋め込まれる前のひなの明らかな描写が無いので分からないが、流れから察するにそういうことなのだろう

*6:当然ですが、一生動かないわけではありません。

*7:正確に言えば安全な城を抜け出して加勢しようとした

*8:しかし、この作品の魔法は時間を巻き戻せるほどになんでもできるようですから、たとえば人々の記憶を改ざんして奴隷を解放することも容易にできるでしょう。他人が幸福である場合と、不幸である場合。シャーデンフロイデが好きというわけではないなら、好ましいのはもちろん後者のはずです。そしてイレイナは、一話と二話の描写を見ると、メシウマするような性格には見えません。すると、助ける理由は見当たっても、助けない理由がイマイチ見えてこないのです。

*9:自分で読んでいないので信憑性に欠けますが

*10:ただ、推理は雑だという批判はあります

*11:寝ている間にさらわれていたような気がするので普通にパジャマなのかもしれない

*12:9話では姫にしびれを切らしますが、パターンは一緒です

*13:今となっては当たり前になりましたが、多くのアニメ・マンガ・ラノベは読者のオタク知識に頼って作られている部分があります。『神様になった日』の感想で、私たちは現実を基盤として作品を楽しむ、といったようなことを書きましたが、この場合は私たちにスキーマとして蓄積された「イセカイ」を基盤として作品を楽しんでいるのだと言えるでしょう。

出産するVTuber、その擁護と肯定

 

COVID-19の流行で想像が難しいかもしれないが、たとえば春の「お花見」では、何か食べ物を持参するか、現地調達し、複数人でそれらを囲む。

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その食べ物は家族やパートナーの手料理かもしれないし、出店の焼きそばやたこ焼きかもしれないし、コンビニ弁当かもしれないが、なんであれ、花見の場で食べた物は、自宅で食べるそれよりずっと美味しい。少なくとも私はそう感じる。特にコンビニ弁当は分かりやすい。あれらは機械で作られているのだから、料理が同じなら、違う容器に入っていても味は同じだ。にもかかわらず、コンビニ弁当も、花見など普段と違う場所で食べるだけで、いくらか味が良くなった気がする。

これは景色の新鮮さがその要因の一つだと何かで見たが、それが事実かはどうでもいい。問題は、私たちの味覚がどう感じたかである。科学に言わせれば、それは「錯覚」なのだろう。しかし、私はたしかに、より美味しいと感じるのである。

 

 * * *

 

VTuberが出産した。こういった類の報告は、これが初ではない。私が知っている限りでは、にじさんじのグウェル・オス・ガールが既に子持ちを公表している。しかし、こちらは大した話題にはならなかった。他方、今回の出産報告は、Twitterトレンド上位を獲得するほどの話題ぶりである。

おめがシスターズはVTuberの中でも指折りの動画投稿者だ。私の記憶では、彼女らはリアルを題材にする動画づくりで有名だった。実際に、現実世界の——バーチャルでない——店に出向き、撮影した実写動画を彼女らのアバターと合成して投稿する。当時、実写を組み込むVTuberを私は知らず、訝しく思ったものである*1

 

 

そんな彼女らの報告は、姉妹の片割れが出産したというものだった。

 

出産自体への祝福は当然だろうが、「VTuberが出産する」という事態には拒否的な反応も多くあった。検索上位の否定的なツイートを、いくつか引用させていただく。

 

 

 

 

 

報告動画の中で、おめがレイは一旦画面から消える。そして現れるのが、「おめがのハコ」だ。彼女が「おめがレイ」であることは明らかだが、建前上、彼女は「おめがのハコ」と「おめがレイ」は別人だと主張する。つまり、出産したのは慣れ親しんだ「レイ」ではなく「ハコ」のほうだと主張するのだ。
彼女らは賛否両論あることを予想していたが、それでも出産を報告したかった。「おめがのハコ」という演出には、彼女らなりのファンへの配慮が表れている(し、事実彼女たちも「視聴者と真剣に向き合った結果」だと語っている)。

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「実は、出産しました」1:42より

だが、それでも「グロく感じる」「商売として悪手」「もうVTuberじゃない」といった強い反応が返ってくるのだ。問題の根深さがよく分かる。

 

 * * *

 

出産とは、極めて生物的な行為である。生物の対比を機械としよう。以下でいう機械とは、とりあえず「ある一定の規則に従って自発的に動く人工物」としておく。これは人工知能(AI)やそれを搭載したロボットなどを念頭においている。

出産には、性交により子を宿し、それを胎内で育て、耐え難いほどの苦痛に抗いながら産み落とすという一連の工程が伴う。そうして、数千グラムの小さな赤子が産声を上げる。それは、か弱く、脆い。適切に世話をしなければ、簡単に死んでしまう。大人たちが必死に努力し、赤子が懸命に生きればこそ、彼/女は立派に育つことができる。

そこにかかるコストは気にするべきでは無いのかもしれないが、実際のところ、それは尋常ではない。両親は金銭的にも、体力的にも、精神的にも、多くのものを支払うことになる。多くを犠牲にしなければ、育児は成立しない。

人間が子を産み、育てるために必要なもの——母体への苦痛、精神や体力をすり減らす育児、度重なる出費など——は、私たちが有機的な生命体であるからこそ要求される。私たちは成長する。ほんの小さな受精卵から。

 

 * * *

 

機械は出産するだろうか。否。必要がない。

純化しすぎかもしれないが、同胞を増やしたいなら、工場で組み立てればよいだろう。産む側に苦痛はない。産んだ後の慎重なケアも必要ない。生物でいえば、組み立て完了時点で、少なくとも身体は「大人」だ。AIであれば、頭は経験が必要かもしれないが、それは半ば放任でも勝手にやることだ。人間の赤子のように、ミルクを温めるとか、おむつを替えるとか、そんな面倒なことは必要ない。もちろん、メンテナンスなど別種の面倒くささはあるだろうが、そうした面倒も、技術の進歩次第で無くなるだろう。

つまり、SF的な仮定だが、機械が自力で数を増やそうとしたとき、生物のようなコストの大きい繁殖方式はとらないだろう。機械の身体(パーツ)は成長しない。だから、出産することもない。

出産は、生物的な行為だ。

 

 * * *

 

自分でも大げさだとは思うが、VTuber消えゆく媒介者*2(the vanishing mediator)かもしれない。

消えゆく媒介者は、二つの概念を仲介する。たとえば、プロテスタンティズムは、封建主義と資本主義を仲介する消えゆく媒介者だ。封建主義の時代、宗教と経済は分離していたが、プロテスタンティズムは両者を結び付けた。プロテスタンティズムは勤勉や禁欲を説き、経済の領域にも宗教を浸透させたのである。そうして資本主義の土壌が出来上がり、資本主義が支配的になると、プロテスタンティズムは衰退する。消えゆく媒介者は制度の移行を助け、移行が完了したら、自然に解体するのだ。

 

VTuberは、生物(人間)と機械の消えゆく媒介者、ということになるだろうか。

VTuberは、いわば人間と機械の中間に位置する存在……は言い過ぎかもしれないが、人間でありながら設定の力を借りて機械を装うことが十分可能な存在ではある。キズナアイや出雲霞*3、Melody(Projekt Melody)など、そうした例は枚挙にいとまがない。

www.youtube.com

しかしそんなVTuberは、声も見かけも挙動も人間と全く見分けの付かないような自立型のロボットや、そんなロボットを実現できるだけのAIが完成すれば、衰退するかもしれない。AIは人間に比べればコストがかからないし、便利だ。

そうして、VTuberは消えゆく媒介者としての役目を果たす。今のVTuberは、未来の存在へ向けての準備期間だというわけだ。

……もちろん、そんな未来はやって来ないかもしれない。人間は消滅するのか、という話にもなってしまう。が、とりあえずここで未来予測は措こう。

大事なのは、VTuberが媒介者であるという点だ。

VTuberは生物の性質を持ちながら、機械の容姿を得て活動する。生物と機械を橋渡しするかのように。

 

 * * *

 

VTuber、実際(actual)のところ、人間が演じている*4。これはVTuberの視聴者みんなが知っていることだ。

他方、VTuberは人間が演じてはいない*5。これもみんな知っていることだ。VTuberは人間ではない何かであり、現に「それ」として存在している。

VTuberは人間であり、人間でない。これは撞着語法、つまり矛盾である。

しかし、冒頭の花見の例を思い出してもらいたい。花見で食べたコンビニ弁当と、自宅で食べたコンビニ弁当は、同じものでありながら、同じものでなかった。ある人は、味の違いを錯覚だと言うだろう。またある人は、味の違いを真実だと言うだろう。これは「どちらが正しいか」ではない。「どちらも正しい」のである。

つまり、VTuberは人間でありながら人間でない」は成立すると私は言いたい。これをダブルバインドというが、このままでは「VTuber」の語義の広さに負けてしまうので、少し改良する。

まず、「VTuberがそこにいるだなんて錯覚だ」という、VTuber視聴者が感じる虚構の性質を「虚構性」としよう。

他方、「VTuberがそこにいる」という、VTuber視聴者が感じる実在の性質を「実在性」としよう。

そして、先ほどの「VTuberは人間でありながら人間でない」を、二つの語を用いて、VTuberは虚構性を持ちながら実在性も持つ」と表現する。こうすれば、VRChatを主な活躍な場とするような、いわゆるアバター型のVTuberも命題に取り込めるのではないだろうか。もし取りこぼしがあればいくらか限定が必要だろうが、今はこれで話を進める。

 

 * * *

 

VTuberの商業的戦略*6において、虚構性と実在性は、不可欠な両輪である。

もし虚構性が欠ければ、それはVTuberではない何かだと判定されてしまう。

虚構性を生み出すものは、VTuberのいわゆる「魂」と「身体」の存在であるが、それが欠けるとはつまり、魂あるいは身体、もしくはその両方が欠損するということである。魂が欠ければ、それはただの絵や3Dモデルだ*7。片や、身体*8が欠ければ、それはただの人だ。両方が欠ければ、そこには何も存在しない。

そうなれば、「錯覚だ」と指摘する箇所も同時に消える。ゆえに、虚構性がなければVTuberVTuberではない。当然、そうなれば商業的戦略どころの騒ぎではなくなる。

 

また、実在性の欠如も、虚構性の欠如ほどでないにせよ、視聴者の獲得・維持に際して致命的だ

実在性は、「魂」と「身体」という裂け目が隠れることが、発生の必要条件である。

VTuberは「魂」と「身体」という分離——虚構性——を視聴者に意識させないよう行使する。たとえば設定があるVTuberなら、それと矛盾しないよう言動に気を付けるものだ。矛盾はすぐさま虚構性を視聴者に想起させるから。よほど大きな矛盾でなければ視聴者はまた実在性の物語へと入っていけるが、あえてすることではない。
また、設定の無い、例えばVRChatなどを主体に活動するVTuberたち——「新たな姿を手に入れた自分」を謳歌するようなVTuberたち——においても、特殊な場合*9を除き、わざわざ自分の顔とアバターとを並べて表示することはないだろう*10VTuberで活動しているときは、現実の肉体は措いて、VTuberとして振舞うはずだ。

実在性が欠けるとき、つまり視聴者が虚構性を思い出すとき、何が危険か。それは、「絵を画面内に置いてる配信者」や「絵畜生」などと言われてしまうことだ。その危険性は、3Dモデルが一番低く*11、動かない絵が一番高いだろう*12

実在性が欠けたVTuberを目の当たりにした視聴者は、実在性の壁をすり抜けて、その向こうの、虚構性を見てしまうのである。

繰り返すが、虚構性と実在性は、視聴者獲得を目的とした際の、VTuberの両輪である。
虚構性が欠けると、VTuberそれ自体が成り立たない。
実在性が欠けると、視聴者に虚構性を見せることになる。ただ、実在性の欠如が与える影響はVTuberによりけりで、普段から顔を明かしているような犬山たまきや、Bunnyらにとっては無問題かもしれないが、他方、でびでびでびるや、キズナアイが実在性を欠けば、その視聴者にとっては致命的になるかもしれない*13。そこは程度問題である。

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 * * *

 

あの出産報告動画を今までの話に当てはめよう。

姉妹は「おめがレイ」と「おめがのハコ」を分け、出産したのはあくまでも後者であるとするが、建前はそうでも、おめがレイが出産した事実は変わらない(実際、おめがレイは自身のTwitterアカウントで「出産しました」とはっきり発表している。先のツイート参照)。今まで見てきた通り、出産は生物的な行為であり、機械的な——生物でない存在としての——「VTuber」は到底しそうにない行為である。また、「おめがのハコ」は実写で登場しており、実在性を欠く。

ゆえに、是非は後に検討するとして、あの動画が実在性を欠き、虚構性を剥き出しにしていることは事実である

 

 * * * 

 

VTuberの視聴スタイルは様々だ。

その一つは、VTuberというフィクションを楽しもうというものである。つまり、ロールプレイングや、バーチャルの身体などがあってこそ、VTuberには価値があるという態度である。これを仮に「仮想至上主義」としよう*14

また、志向が禁止に働いて、VTuberに現実を持ち込むことを強く拒否する態度もある。VTuberに現実はいらない、という考え方だ。こちらは「現実禁制主義」とでもしておこう*15

両者は独立に存在するが、併存することもある。

VTuberの出産」といった事態に対する拒否反応において、台頭するのはこれらだ。

 

 * * *

 

VTuberの出産に対し、私の考えを述べておくと、私は彼女らの報告を肯定したいと思う

たしかに、商業戦略的に言えば、あの報告は明らかに間違いだ。彼女らは、仮想至上主義や現実禁制主義を抱えた視聴者をいくらか失うことになるだろうから。しかし、物事の決定基準は一つだろうか。いや、違う。他にも大切にすべきことは多い。

私が彼女らの報告を肯定し、擁護したいのは、彼女らの勇気を讃え、出産を祝いたいからではない。いやもちろんそうしたいが、直接の理由ではない。

私たちは、VTuberの虚構性の部分も肯定したほうが良い。

VTuberの実在性はよく語られる。「今ここにいる」「実在」などは、VTuber批評で頻繁に使われる言葉だ。しかし、先に見たように、VTuberのもう一つの中枢は、実は普段は隠されている虚構性の側にある

視聴者は普段、実在性という物語に浸っている。しかし、VTuberが人間であるという構造上の問題から、虚構性はどうしても垣間見える。そのとき、目をそらさずに虚構性を見つめ、受け止めることができるかどうか。それが鍵だ。

 

 * * *

 

虚構性を受け入れると、何が嬉しいのだろうか。

それは、VTuberという存在を、表面だけでなく、奥底から知り、真に支えることができるという点にある。

現在、VTuberは宙吊りになっているVTuberは視聴者に様々なコンテンツを提供するが、その仕方は十中八九虚構性を覆い隠すものだ。だから、視聴者側は実在性のみをVTuberの特質と見てしまいがちである。本当はその背後の見えない(invisible)領域で、VTuberは生物として生きているのだが、視聴者は表層の機械性のみに注目してしまう。すると、VTuber側は、生物と機械の狭間で大きく揺らぐことになる。

「私は人間であり、同時に人間で無い者である。私はその両方を大事にしたいが、しかし視聴者は私に人間ではないことの方を求めているようだ——」。

もちろん、視聴者が直接そう求めることは無い。しかし、間接的には? どうだろう?

 

 * * *

 

出産報告に際し、おめがシスターズは「罪悪感」というワードを口にした。葛藤があったのだろう。視聴者に求められる「人間でない私」と、求められていない「人間としての私」との間で。しかし、彼女たちにとって、「人間としての私たち」もまた、大事な「私」だった。だからこその、出産報告だった。

であれば、「VTuberとしての彼女」だけでなく、その「生きている彼女」をも肯定すること、つまり「彼女そのもの」を肯定することが、結果VTuberを根底から支えることにはなるまいか

 

 * * *

議論を簡単にまとめる。

VTuberは出産しない。VTuberはいわば機械の模倣だから。しかしVTuberが出産した。矛盾だ。

しかしそれは矛盾でない。VTuberは生物でもある。VTuberは生きている。

「生きているVTuber」は当然に虚構性を持つ。虚構性が見えると、視聴者は離れていきたくなる。特に仮想至上主義者は首を横に振る、「俺のバーチャルが壊れる!」と。現実禁制主義は血眼になって叫ぶ、「リアルが侵入してくる!」と。

だが、虚構性はVTuberの大前提である。事実として、VTuberは生きている。

虚構性の肯定は、VTuberの根底からの肯定である。命の肯定は、VTuberそのものの肯定である。

 

 * * *

 

VTuberは媒介者である。それは、生物でありながら、機械的な者だ。虚構性を持ちながら、実在性も持つ者だ。

今までのように、機械的な実在性だけを見て、生物的な虚構性を捨てさせるようでは、あまり良くない。虚構性を隠そうとするのはVTuberの努力だが、それでも時折、虚構性がこぼれ落ちる。そのとき、視聴者側がその虚構性を否定し捨てさせようとしてはいけない。それもVTuberの一部である。虚構性の否定は、VTuberの根底からの否定だ

できればそうではなく、虚構性も肯定しようVTuberの生も肯定しよう

出産という極めて生物的な行為をVTuberが経験したとして、それはなんらおかしなことではない。全く。

これが私の考えである。

 

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友達Vチューバーに、いきなり赤ちゃん見せてみた。【樋口楓 × おめシス】(7:20)より

 

 

*1:過去、私は現実をVTuberに持ち込むことについて否定的だった

*2:フレドリック・ジェイムソンの用語

*3:既に引退したが

*4:AIが演じている例も知らないだけであるのかもしれないが、視聴に耐えるレベルではまだ無いだろう

*5:これを満たすのはVTuberの一部だろう

*6:YouTubeなどで視聴者を増やすことにより人気や収入を得るための計画のこと、としておく

*7:2Dおよび3Dを扱うにじさんじやホロライブが一番これに妥当する。声だけをあて、身体は別の誰かが動かすタイプのVTuber(そういえばCTuberという言葉もあった)は先の例とは異なるが、こちらもやはり、声優がいなくなることが魂の消失だといえるだろう。実際、ゲーム部はモデルを動かすスタッフがおそらく変わらないにも関わらず、声優降板だけで騒動になったのだ。また、自身をVTuberだと主張しない「赤月ゆに」なども、ここでは便宜上VTuberの括りに含む。彼女が自身をそう呼ぼうが呼ぶまいが、彼女に「魂」と「身体」と呼べるものが備わっていることは事実だから。

*8:どこまでが「バーチャル」上の身体なのか、答えるのは難しい。現実の体を撮影し、その画像をアバターとして活用する場合、自分そっくりの身体がバーチャル世界を練り歩くわけで、そのアバターはバーチャル上の身体だといえるだろう。では、なぜ現実世界の肉体はバーチャル上の身体ではないのだろうか。私たちが画面越しに現実の人間を見ていれば、その彼/女の体はもうバーチャル上の身体ではないだろうか。しかし直観的にはそうでない。現に、YouTuberのヒカキン氏がVTuberであると考える人はいない。なぜ? 分からないので、ここでは「身体」を、「現実世界あるいは空想世界の生物・物体などを「デフォルメ化」した画像・モデル群」としておく。

*9:顔認識の技術的な説明などだろうか

*10:海外YouTuberにはワイプで自分の顔を写しながらVRChatをプレイする方もいるが、そもそも彼らをVTuberとみなす人はいないだろう

*11:過去に配信を行ったアイドルマスターの「星井美希」がVTuberであるか否かには争いがあるが、ここでは「魂」と「身体」を持っているとしてとりあえずVTuberに含むことにする。彼女の配信はファンに「星井美希が実在している!」と感激された。その「実在」がVTuberの「実在」と微妙にニュアンスが違うことは承知しているが、場数を積んだ声優とリアルタイムに3Dモデルを動かす方法が組み合わさったときのほうが、動かない絵より遥に実在感を生み出すことは明らかである

*12:配信画面にファンアートなどの一枚絵を出しておくという光景は、VTuberに限らず、ニコニコ生放送やYouTuberの配信でもよく見かける。VTuberはそれまでのVTuberとしての蓄積があるため一枚絵でもVTuberの身体として見てもらえるわけだが、絵に動きがない以上、その瞬間だけを切り取れば、両者の差異は「VTuberと名乗っているかどうか」くらいになってくる。そうしたとき、VTuberは虚構性を隠し続けられるだろうか。

*13:実際、キズナアイは過去窮地に追い込まれている

*14:仮想至上主義はキズナアイの系譜を引いていると私は思う。AIという未来を感じさせる設定を持つキズナアイは、今もVTuber界の代表として担ぎ上げられている。実際、黎明期のVTuberのほとんどはキズナアイを参考にしていた。仮想至上主義者の大多数はそれを覚えていて、VTuberキズナアイのような「バーチャルな」存在であるべし、という発想に至ったのではないだろうか。これは本文に言う「機械的な」VTuber像だ。しかし、そのキズナアイは自身をVTuberと呼ばない。それは後発のVTuberと立ち位置が異なることの表明だろうと私は推察する。

*15:現実禁制主義は、意地悪く言えば、「現実逃避の拗らせ」と表現できるかもしれない。現実禁制主義者は、あるVTuberが「バーチャルな存在」かどうかは気にしないかもしれないが、リアルの混入はひどく嫌う。どの程度まで混入を許容できるかは人によるだろう。「オフラインコラボ」という字面だけでダメな人、手が写らない実写は許容できるが肌が写るとダメな人、手はなんとか視聴できるが全身が写ると拒否反応が出る人などなど。だが共通するのは、「VTuberの生きている部分は観たくない」という考え方である。

どうした、『魔女の旅々』(4話まで視聴)

ハロウィンのキャラクター(魔女)

 

今期アニメ注目の一作、『魔女の旅々』。前評判は上々で、私も期待していた。キャラデザはかわいいし、絵も綺麗、これで外れたらすごいな~という第一印象。

majotabi.jp

一話は「思っていたほどではないな」と思いながら、期待を込めて二話も視聴した。

しかし旅の始まる二話では「うーん、なんかねえ」とモヤモヤしたものを抱えながら視聴を終える。とはいえ観れないものではないし、二話時点では「期待が高すぎたのかもしれない」と思い直した。三話では面白くなるかもしれないし、と。

 

で、三話。

 

は?

 

正直、驚きの連続だった。悪い意味で。

個人の感想だが、これ、ぜんぜん面白くない

というか、むしろ怒りまでこみ上げてきた。腹が立って仕方がない。なんだこれはと。

魔女の旅々は、"覇権"もあり得ると思っていただけに、はかり知れない衝撃を受けた。美しい絵と、かわいいキャラデザ、主人公の声はちょっと浮いてるような気もするが悪いわけではない、なのにそこからストーリーや構成で期待を裏切ってくるとは(悪い意味で)。

 

このアニメが面白いと感じていらっしゃる方には申し訳ないのだが、私にはあまりそうは感じられなかったので、自分の気持ちの整理も兼ね、ここでは現時点で『魔女の旅々』がなぜこんな出来なのか考えてみたい。

 

まず、はっきりさせておきたいのは、このアニメにおける「鬱展開」や「登場人物の性格」それ自体はあまり問題ではないということだ。

『魔女の旅々』に好印象を抱けなかった人たちの感想をググってみると、「鬱展開が萎える」「性格が悪い」「登場人物の道徳がねじ曲がっている」といった意見が見受けられる。

たしかに、三話の内容は人を鬱々とさせる内容であることは間違いないし、主人公のイレイナは情に厚いほうでは無く、打算的で、承認欲求にあふれており、おまけにナルシシズムにも浸っていて、性格が悪いと言われても仕方がないかもしれない。また、登場人物の道徳心・倫理観についても、魔女はイレイナの天才ぶりを僻んでいたし、イレイナの親は金で娘を売り渡したともとれる取引を魔女に持ち掛けていたし、二話で登場する少女は計画的に(つまり故意に)窃盗を働いていたしと、あまり「いい人」が出てこない。

以上のように振り返れば、たしかにそうした感想も正しいだろう。

が、それらは『魔女の旅々』が(少なくとも私にとって)面白くない直接的な理由では無いと、私は思う。

なぜなら、「鬱展開」で面白いアニメは五万とあるし、「性格が悪い」「道徳がねじ曲がっている」世界観で面白いアニメも当然存在するからだ。

たとえば「鬱展開」で有名なアニメは『ぼくらの』『魔法少女まどかマギカ』『結城友奈は勇者である』といった作品群であるが、これらはいずれも名作扱いされている。人を鬱々とさせるストーリーや、胸糞の悪い展開それ自体が、直接悪評に結びつくわけではない。

また、「性格」についても、『エヴァンゲリオン』シリーズの主人公、碇シンジは性格がいいとは言えない。彼はナヨナヨしていて、時に視聴者をイラつかせる。しかし、『エヴァンゲリオン』はそれも含めて高い評価を受けている。

「道徳・倫理観」に関しては言うまでもないが、たとえば『ハッピーシュガーライフ』に「いい人」はほとんど出てこない。だが、話として十分成立している(そのうえ個人的にはとても面白かった)。

このように、挙げられたそれぞれの要素それ自体は、必ずしもアニメの負の評価には繋がらないのである。

 

では、何がこの「面白くなさ」あるいは「物足りなさ」を生んでいるのだろうか。

それは「納得感」だろう、と考える。

納得感?

いわば、描写・伏線といった裏付けによって得られる、「それがそうあること」への同意の感情である。

たとえば、ピンチの場面で主人公が友情を糧に覚醒したとする。この覚醒に何の前触れもなければ、視聴者は置いてけぼりを食らうだろう。一方、その覚醒前に伏線として、丁寧に友情物語を描いていたとすれば、視聴者は特に頭の中で今までの話を整理していなくとも、納得をもってついていくことができる。

アニメ『Re:CREATORS』には「承認力」というものが登場したが、納得感とはまさしくそれだ。

『魔女の旅々』に決定的に足りないのは、この納得感を確保するための尺である。

思うに、このアニメは急ぎすぎだ。原作小説ではどうなっているのか知らないし、ラノベは読まない主義なので知る由もないが、少なくともアニメでの構成は失敗していると思う。

1話や2話にも突っ込みどころはあるが、長くなるので3話だけに限定しよう。

 

3話において、一番の失敗は20分ほどの尺に前後編二つの物語をねじ込んだことだ。前後編にするということは、それだけ尺が短くなるということである。『ご注文はうさぎですか?』などの日常アニメなら、5分や10分の話をいくつか挿入しても問題ないだろう。それぞれのキャラクターがどんな人物か、視聴者が把握しているためだ。しかし、それを新キャラクターが頻出するストーリー形式で採用してしまったのはどうしてなのか、大いに疑問だ。実際、前編は話として成立してはいるが、あまりに内容が薄く、視聴体験としての価値をほとんど感じ取れなかった。後編も物語として分からなくはないが、どこかで見たような内容で驚きも無く、展開も容易に予想でき、ただただ苦々しい思いが残るという、(少なくとも私の)視聴体験としてマイナス——つまり見なければ良かった——な出来栄えである。

これらの散々な評価は、思うに「尺不足に由来する話の単調さ」と、「イレイナの傍観者的態度」「鬱々とした展開の救われなさ」の三つに起因している。

 

まず話の単調さだが、そもそも悲劇的な話というのは類型があまりない、と私は思っている。だから大体結末は予想がついてしまうし、陳腐なものに感じてしまう。そのため、肉付けをしっかりしないと、ユニークさは出てこないだろう。そしてその肉付けのためには、時間をかけた丁寧な描写が必要不可欠である。

しかし、前後編にしたことで、尺は否応なしに削られ、前編はあのざまである。薄すぎて味がしない……とまでは言わないが、正直観る価値はあまり感じなかった。素人の案ではあるが、少なくともイレイナを兄妹としっかり対話させたり、お国柄やそこに暮らす人々などを描いて感情移入させてからあの結末にもっていかないと、「ふーん」で終わってしまう。観ていて非常に勿体ないと感じた

また後編は前編に比べればずいぶんとマシだが、しかし「しあわせ」なんてワードを出してしまったらネタバラシをしたも同然だろうと思う。プレゼントを受け取った奴隷ちゃんの演技は良かったが、それはそれとして「そんなになるほどか……?」という感想は拭えない。奴隷というほどなのだから、逃げ出しても食べていけないのだろうとかそういった予想はつくにはつくが、その点に関する奴隷ちゃんサイドの描写が大して無いので、やはりこちらでも置いてけぼりを食らってしまう。

こちらの感情を揺さぶりたいなら、それ相応の準備が必要である。 もっと時間をかけて人々の様子などを描けば、もっと良くなったのではないかと私は思う。

 

 

次にイレイナの傍観者的態度だが、確認として、私たちは、グリム童話を読んでいるわけではない。そうではなくて、イレイナの物語が観たいのである。三話のように、「イレイナが何も手を下さず、ただ見ているだけ」という展開は、あり得ないとは言わない。別に、イレイナにヒーローになってほしいわけではない。手を貸さなくても結構。一向にかまわない。

だが要望があるとするなら、たとえば三話後編、奴隷を助けるか否かのシーンにモノローグで葛藤があったりすれば、ガラリと雰囲気は変わったかもしれない。視聴者はイレイナに人間味を感じて、共感できたはずである。しかし、彼女のモノローグは基本的に舞台装置的な説明セリフばかりだ(あるいは多すぎる)。これでは、主人公であるはずの彼女の心が、よく見えない

後編の最後、彼女はプレゼント受け渡しの様子を見ず屋敷を立ち去るが、そこでぶちまけられるモノローグはお説教である。

 

好意が人のためになるとは限らない

 

大体予想がついていたとはいえ、思わずため息が出てしまった。

 

『魔女の旅々』を観ているとなんだかニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を思い出す。『ツァラトゥストラはかく語りき』は、ツァラトゥストラという人物が旅をし、訪れた各所で説教をして回る内容の詩だ。これは一応哲学書なので、作者の説教したいことが、主人公であるツァラトゥストラの口から語られる。ツァラトゥストラは、いわばニーチェの操り人形だ。ツァラトゥストラの言うことは、ほぼニーチェの言いたいことである。これは哲学書だから許されることではないかと思うのだが、しかし私にはイレイナも同じ扱いを受けているように思える。つまり、イレイナが作者の思いついた説教を喋らせる傀儡に見えてしまうのだ。

 

イレイナは3話において、ほとんど心身をさらけ出さなかった。おそらく、このアニメは「イレイナが何を考えているか」をもっと加えていくだけでもぐっと面白くなると思う。内面の描写が無さ過ぎるので、傍観者とか言われるのだ。イレイナがいくら"冷静沈着*1"だとはいえ、何も考えていないわけがないだろう。彼女も人間だ。それを表現しない意味は、よく分からない。心情描写がなさすぎるので、あまりに淡々とした印象を受けてしまう。『安達としまむら』並みのモノローグは挟まなくていいが、このままの調子で話を進めるつもりなら止めておけと言いたい。

それに、はっきり言って、イレイナが三話のような立ち位置に留まり続けるのなら、「イレイナ要る?」という話にもなってくる。私には彼女が、どこかで見たような悲劇を見せるためだけの舞台装置にされてしまっているようにも見えるのだが*2、だとしたらそれは別に、既にあるアニメのカメラの視点を使えばそれで構わないのだ。イレイナのセリフの代わりに、ナレーションでもいれてやればいい。そう、もう悲劇集みたいにすればいいのだ。この国ではこんな不幸があってね、あの国ではこんな不幸があってね、と。

——それはそれで需要があるのかもしれない。だが、私たちはそんな目的で視聴しているのではない。

私たちは童話を読んでいるのではないのだ。イレイナの話を観に来ているのである。にもかかわらず、イレイナは心でも体でも、積極的に話に関わってこない。それではつまらなさすぎる。

 

 

最後だが、三話で描かれた物語は単調であったとはいえ、やはり鬱々とした印象は免れない。一話や二話でも"前兆"は見え隠れしていた*3が、特に三話の鬱要素はそもそも必要だったのか疑問だ。

そもそも、鬱エンド(≒バッドエンド)が評価されるには、意味が必要である。昔私のフォロワーが言っていたのだが、物語の結末について読者の満足度が高いのは、順に

 

「意味のあるバッドエンド」>「意味のあるハッピーエンド」>「意味のないハッピーエンド」>「意味のないバッドエンド」

 

なのだという。これが真かはさておき、「結末に意味があるか否か」つまり「視聴者が結末に納得できるかどうか」は、作品評価に直結する重要なファクターであるだろうし、みなさんも同意するところだろうと思われる。

つまりこれも納得感の問題なのだが、『魔女の旅々』の鬱展開に、みなさんは納得できただろうか。

私には、少し難しかった。

もちろん、「イレイナが訪れたあの国では、たまたまあんな不幸なことが起こってしまったのだろうな」と理解はできる。しかし理解と納得は違う。先ほど述べたように、三話は説明不足が目立ち、それゆえ納得感が欠けている。姉と弟が植物に食われたのはいいが、それをなぜ私は観ているのか? 奴隷が不幸を悲しむのはいいが、それをなぜ私は観ているのか?

アニメ『ぼくらの』では——ネタバレだが——ジアースに搭乗していた少年少女は一人を除き全員死亡して、幕引きとなる。これは間違いなくバッドエンドである。だが、彼らが葛藤のなか「よく生きた」ことを視聴者は知っているので、納得して結末を受け入れることができる。

しかし、『魔女の旅々』は前述の通り描写がおろそかなので、納得感で鬱々としたラストを中和させることができず、拒否反応が出てしまう。

アニメは様々な役割を持つが、そのうちの一つが「娯楽」だ。視聴者を楽しませること抜きに、創作物は成立しがたい。にもかかわらず、『魔女の旅々』三話は、視聴者を楽しませる気などさらさら無いようにも思えてしまう。童話チックな鬱々とした物語を描いて、イレイナをカメラとして配置し、外から撮影して終わり、では面白くはならないような気がするのだが。

 

 

四話ではさすがに挽回してくれるだろう……と思っていたが、四話も満足のいくものでは無かった。

私は終始ぽかんとしていた。

物語は三話に比べればしっかりしていたほうかもしれない。三話に比べれば。

しかし、やはり説明不足は深刻だ。

たとえば、城にいた女の過去は女のフラッシュバックとしてわずかに映し出されただけで、よく分からなかった。この女のことをイレイナはもちろん視聴者もよく知らない。そんな女が急に「思い出した!」とか言って笑い出し、化け物をめった刺しにしだしたらドン引きだ。全く共感できない。

それに、父親を怪物に変えて人々を襲わせたというが、なぜその方法を選んだのか説得力に欠ける。それに、視聴者は父親の人柄を大して知らない。こちらもやはり共感できない。

イレイナも長旅の疲れで頭がおかしくなってきたのかもしれない。三話では奴隷を放っておいたのに、今回は出会ったばかりの女を助けたくなったそうだ。で、その理由は私の記憶の限り、結局語られない。もちろん、三話の奴隷の解放と怪物胎児の助太刀では面倒くささが違うというのもあるだろうが、そこは視聴者の想像に任せず、なぜ気が変わったのか説明してほしかった。これではあまりに共感しづらい。

また、女とイレイナのやりとりがいちいち取引に回収されてしまうのも見ていて萎えるところだ。イレイナの損をしたくないという傾向にも理由をつけてほしいと思う。たとえば、過去の経験から、人に無償でやさしくしてはいけないと悟ったからとか。

そしてやはり四話でもイレイナの人間らしい感情の揺れ動きは見受けられない。ベッドふかふか~というところだけはこどもっぽく喜んで、精神がぶっ壊れた女には冷徹な目を向けて退散。このアンバランスさ。まるで「ベッドがふかふか=無邪気に喜ぶ」のプログラムが組み込まれていて、その命令に従うことで人間らしく振舞うアンドロイドのようだ。

もし原作で細やかな心情描写がなされているのだとしたら、どうしてこうなるのか甚だ疑問である。

 

 

以上、『魔女の旅々』について、我慢ならなかったので記事を書いた。

それも、絵やキャラクターといった外観はとても良く、また世界観も面白くなる可能性を強く感じさせるものなのに、これではあまりに勿体ないという思いからだ。

また、巷の「魔女の旅々三話が鬱展開で炎上」という表現がおそらく正確ではないということも実は伝えたかった。繰り返しになるが、このアニメにおける鬱展開(バッドエンド)には、意味がないのである。いや、意味がないというのは言いすぎだが、世の中で評価されるバッドエンドというのは、それを視聴者が甘んじて受けることに何かメリットが存在するものだ。くどいようだが例を出すと、たとえば『魔法少女まどか☆マギカ』の最終回は、魔法少女を救うため、まどかが神に等しき存在となり、結果まどかの親友・ほむらはまどかと二度と会えなくなる*4、というものだった。これはハッピーエンドとは言いづらい。だが、視聴者には満足感があった。そのラストにおいて、「魔法少女を救ってほしい、救われてほしい」という視聴者の願いは聞き届けられたからだ。

しかし『魔女の旅々』三話では、そうしたカタルシスもない鬱々としたストーリーを投げつけられたのである。ゆえに「無意味な鬱展開で炎上」というのが正確かもしれない。いや、無意味は言いすぎだが。

 

ともかく、五話も同じなら流石に切ろうと思う。

 

*1:公式サイトにそうある

*2:もちろん極論である。言葉がイレイナというキャラクターの口から発せられている以上、人間的な側面を持たないはずがない。いくら説明台詞が多いといっても、説明の角度というのは人それぞれだからだ。

*3:一話でのあまり意味を感じられない虐待もとい修行シーン、二話での説得力を感じないサヤの窃盗など

*4:劇場版では出会うが

VTuberに「魂」も「ガワ」も存在しない

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※簡略版(3000字ほど)をnoteに投稿しているので、時間の無い方はこちらへどうぞ。

 

note.com

VTuber論投稿者の1人に、「余接」という方がいる。理路整然とした文章を書かれる方で、記事を見かけた際は必ず拝見している。

その余接氏が、先日私の記事(「VTuberの「中の人」は公表すべきか?」)を引用してくださっていた。「心身未分」の箇所を気に入ってくださったようである。ありがたい。

t.co

tragedy.hatenablog.com

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そこで、この記事では「心身未分」について、改めて論じてみたいと思う。

展開としては、余接氏の記事に適宜触れながら、心身未分とは何かを議論していくことにする。

まず心身未分を説明し、次にVTuberの「虚構性」と「実在性」という対立の解消を試みる。そして実在性を支持することの意義について考えたあと、どこまでこの議論が妥当するのか考え、最後に「引退と死」「実写動画」「アズマリム」に関して「心身未分」を使った軽い考察をしてみたい。

ちなみにだが、この記事のタイトルは目を惹くよう、わざと大袈裟に付けている。私は「魂も身体も全く存在しない」とは考えていないし、「魂も身体も主張すべきでない」とも全く考えていない。

もし時間に余裕があれば、じっくり読んでいただきたいと思う。

 

 

 原初状態

「心身未分」とは何か。そのまま読めば、「心と身体が未だ分けられていない」ことだ。VTuberの原初状態といってもいい。VTuberは最初、そのように認識されるのだ。

VTuberが現れた当時、「VTuberという虚構をどう捉えるか」はとても活発に議論されていた。いわゆる「VTuberとは何か」問題である。私もこの問題に魅かれ、あれこれ考えたし、色んな記事を読んだ。皆さんの考え方は十人十色で、様々なVTubeの姿がそこには描写されていた。どれも面白かった。その中でも特に私が支持したのは、簡略化して書くが、「VTuberには中の人、設定、モデルの三つの構成要素が存在する」という考え方だった。

lichtung.hateblo.jp

これによって、VTuberをそれらの強弱で捉えたりすることが可能になった。たとえば○○は中の人の要素が強いとか、××は設定が強く中の人がほとんど見られないとかがそうだ。この基礎によって、アバター型とか、キャラクター型みたいな一応の区別が可能になるわけだ。

note.com

 

今でも、VTuberについて理論的に考えようとするなら、こういった「中の人-設定-モデル」の図式を使うと楽だったりする。

といっても、みなさんの多くはこの図式を意図的に使ったことはないだろう。正直ややこしいうえに、周知されてもいないので気軽に使うには不便だからだ。

しかし、その三項をさらに簡略化した「魂-体」という二項対立は多くの人が使っているのではないか。一応説明すると魂とは演者のことで、体とはモデルのことだが、これらはTwitter上でもよく聞かれる表現だし、黎明期から今までずっと使われ続けていることを見ても分かる通り便利な表現でもある。

しかし、思い出してもらいたい。あなたが今、にじさんじの配信を楽しく見ているとしよう。あなたは没頭している。深く集中している。ライバーはずっと喋り続けている。面白い。ずっと見ていたい。

そのとき、あなたはVTuberの魂だとか、体だとか、設定だとか、そんなことを考えているだろうか?

十中八九、答えはNOだ。楽しく集中して配信を見ているとき、「このVTuberは設定の作りこみがすごいな」「このVTuberは設定を忘れて自由気ままに配信をしているんだな」なんて思う人はいない。そう考えている人はその間、VTuberの配信(動画)を見てはいるが見ていない。没頭している人は、そんなことは考えないものだ。

このように認識される「VTuber」というのは、それそのままである。VTuberVTuberのまま画面に表れているのであって、決して魂と体が分離した状態で表れているのではない。

当たり前である。つまり、魂とか、体とか、設定とか、そんなものは私たちが勝手に名付けて勝手にカテゴライズし、勝手に解体しているに過ぎない。そんな区分けは、認識されたそのままのVTuberには、そもそも存在しない。

これが「心身未分」である。VTuberの心と身体、つまり魂と体は分けられていない状態で、そのまま認識される。心と身体が未だ分けられていない状態。VTuberとは普段、そのように見える。

この言葉は、西田幾多郎の「主客未分」の発想を基にしている。

西田は西洋哲学が用いる「主体」と「客体」という区分に疑問を呈した。たとえば音楽を聴いたとき感じるあの感動には、主体も客体もないのではないか。それは主体と客体に分けられていない経験(純粋経験)であって、「主体」「客体」という区別はその後の反省によって付け加えられるに過ぎないのではないか——。

私は西田幾多郎の本を読んだことがなく、また彼の入門書を読んだことすらないので、にわか知識ではあるが、大まかには間違っていないはずだ。

これを今までの話に言い換えてみよう。すると、「認識されるVTuberにはそもそも魂も体も無いのではないか」「魂も体も、理性が後付けで加えるに過ぎない区別なのではないか」ということになる。

これは、多くのVTuberリスナーにとっては受け容れやすい話だと思う。

「心身未分」は、魂や体といった区別が後付けに過ぎないことを暴き、VTuberはそれそのものとして楽しまれているという一見当たり前のことを、私たちに再認識させるだろう。

 

虚構性と実在性

では「心身未分」はVTuberにとって、またVTuberリスナーにとって何がうれしいのだろうか。

それは、VTuberの実在を擁護する点において、である。

冒頭の余接氏の記事では、「中の人などいないという風潮」がキーコンセプトとなっている。VTuberが実在の人間として扱われることこそがVTuberの特徴であり、またVTuber文化を支える思想である、と。とても説得力があるし、私も同感である。

 

私たちはVTuberの配信(動画)を見ている時には多幸感を感じられるが、配信(動画)が終わってしまうと、人によってはVTuberという虚構——「中の人などいない」——によって享楽を与えられているというジレンマに悩むことがある。そういう人は、その悩みから逃避するためにも、再びVTuberの配信(動画)に顔を出す。そしてのめりこむ。

そういうサイクルが発生するとすれば、それは少なくとも配信(動画)を見ている間だけは、VTuberが実在しているものとして認識できるからだろう。

「中の人などいない」という強迫的な自己暗示は、ふと我に返ったときに強いられる、ある種の手続きだ。人間の理性(合理的思考)は、「VTuberは実在する」という命題に異議を申し立てずにはいられない。そんなものはマヤカシだ、理性が言う。もちろん、VTuberはマヤカシだ。VTuberには演者がいる。しかし、私たちが感じるVTuberは嘘なのか? 画面に映る彼/女*1は嘘なのか? いや、嘘ではない。私たちの認識は嘘を言っていない。しかし、理性も嘘を言っていない

この理性と感性が相反する状況は、一体なんなのだろう。

私はこれについて、まるでキリスト教の神のようだと思った。

神はどこにでもいるし、どこにもいない。もし神がどこかにいるのであれば、神はどこかにいないということになる。しかし、神はあらゆる場所にいなければならないから、それはあり得ない。であれば、どうすれば「どこにでもいる」ことが可能になるか。答えは、「どこにもいない」ことによってだ。

神は、どこにもいないということによって、どこにでもいることが可能になる。すなわち、「どこにもない」と「どこにでもいる」は同じことを言っているのだ。これを「遍在-偏不在」というそうだが、この逆説はとても興味深い。

VTuberが死生観について語る様子はたびたび話題になる。この前も、月ノ美兎と、リゼ・ヘルエスタが死について語る様子が切り抜きになっていた。

www.nicovideo.jp

ある哲学者*2によれば、生と死についても、「遍在-偏不在」と同じようなことが言える。生を語るとき、それは死を語ることになる*3。同じく、楽観主義と悲観主義も、一つの物事の両側面でしかない。たとえば死を、ポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるか、それが楽観主義と悲観主義の分かれ目である。楽観主義とはある意味悲観主義であるし、逆も然りである。

これらを試しにVTuberに当てはめてみよう。

VTuberはどこにも存在しないが故にどこにでも存在する」。言い換えれば「VTuberの非存在は、VTuberの存在のまたの名である」となるだろう。この命題は真だろうか。

答えはYESだ。この理性の判断は、逆説的だが、感性の判断に欠かせない。もしある人物が理性の判断として存在するといえるなら、感性はもちろん抵抗なくその存在を了承するだろう。たとえば、佃煮のりお氏の存在は理性も感性も認めるはずだ。

しかし、佃煮のりお氏に対する感覚と、VTuberに対する感覚は同じものだろうか。私は違うと思う。なぜ私たちがキズナアイに衝撃を受けたのか、思い出して欲しい。キズナアイへの感覚と、佃煮のりお氏への感覚は全く違う。それは虚構であるか無いかの違いだ。人間と人間の間に設けられたモデルという隔たり(=虚構の存在)が、VTuber独特の感覚を生み出している。理性は実際には人間であるキズナアイを虚構だと訴える、"ゆえに"、感性は彼女に「実在感」を覚える。この意味で、理性は感性の基盤でもある。

 

すなわち、理性と感性は、「遍在-偏不在」や「生と死」のように、裏と表の関係にある。そのうえVTuberは非存在"なのに"存在し、かつ、非存在"ゆえに"存在する。心身未分は、この理性と感性——「なのに」と「ゆえに」——による力のつり合いに基づく。

しかしこの「つり合い」とはなんだろう。

理性がVTuberを魂と体に切断することによって導く判断を「虚構性」、感性が心身未分に従って導く判断を「実在性」としよう。虚構性と実在性のつり合いとは、両者が互いを肯定し合い、かつ、否定し合う関係だといえる*4

このように、虚構性と実在性の関係は複雑である*5。虚構性と実在性は、互いに否定しながら、かつ互いに肯定している*6

私たちは、この虚構性と実在性が相反するものだとばかり思っていたが、実は、これらは互いを肯定し合うものでもあった。そのうえ、それらは一つのコインの裏表でもある。
そういうわけで、私たちの意識の中で、理性と感性が代わる代わる登場するのにも不思議はないのだ。理性と感性は、互いをののしり合い、ゆえに認め合っているのだから。

 

なるほど、理性と感性がつり合っていて、かつ裏表の関係にあることは理解した。

 では、VTuberリスナーにとっては、理性と感性どちらもバランスよく受け入れることが最善の選択ということになるのだろうか。

いや、それは違う。理性には負の側面も多い。VTuberの中の人を意識させるこの理性は、VTuberを楽しむうえではむしろ邪魔になる。VTuberを楽しむうえでは、感性(直感)に従うのが一番いい

虚構性と実在性との複雑な関係を考えると、理性を完全に排除することはできないだろう。しかし、可能な限り感性を尊重することはできるだろうし、その態度はVTuberコンテンツの楽しみを引き上げてくれるはずだ。

そしてVTuberを楽しむとは、VTuberと上手く付き合っていくことでもある。VTuberを楽しむとき、彼/女とインタラクトするのは普通のことだ。VTuber文化は双方向性によって構成される側面もあるわけだが、それはつまり、「こちらの態度が文化全体に影響を及ぼす」ということを意味する。私たちが、彼/女を純粋な存在として受け入れる態度は、たしかに余接氏の指摘する「中の人などいないという風潮」によって、見かけの上では実現されている。たとえば、配信のコメントでは、みんなが彼/女を一人の主体として見ている。しかし、それは同調圧力による面も否めない。それに、配信の外、特にVTuberから距離をとればとるほど、VTuberを人間のような主体とみなす言動は減っていく*7。これは、彼/女を主体としてみなす態度が不完全であることの証左だ。

 

私たちは、彼/女たちの主体性を、配信以外でも認めることができる。

そのためには、まず、一番手ごろな配信内での意識を強化することが必要だろう。

そしてその強化のためには、魂-身体の引き裂きが、理性によるものだと自覚することが必要だ。次に、心身未分という原初状態が存在することを知る。心身未分は、VTuberの主体性の核だ。主体性が芽吹く種だ。可能態だ。その原初状態によって、心には、「私はたしかに彼/女を見た」という事実が焼き付く。普通ならここで理性が異議を唱えるが、魂-身体の引き裂きを理解した今、人は理性を抑え込むことができる。そして、VTuberの主体性は、原初状態と言う核から徐々に範囲を広げていく。

とはいっても、その範囲は無限ではない。その限界が、理性と感性のつり合う場所だ。この場所がどこになるかは、人によって異なるだろう。そこが、この議論の問題点でもある。

 

だが、それでもかなり多くの人が、配信以外でもVTuberの主体性を認められるはずだ。その可能性は十二分にある。

 

そうした今、VTuberには魂も体も無くなった。彼らはその瞬間、確固たる一つの主体として扱われる。

 

概念による引き裂きが、彼らの鎖だった。牢獄だった。魂と体という引き裂きが、悲劇を生むこともあった。魂の交代は、その最たるものだった。

 

もしあなたが、「それでもVTuberが虚構であることに変わりはない」と思うなら、私はそれでも構わない。だが、もしあの実在性を少しでも感じたことがあるなら、それを忘れないでほしいと思う。VTuberが理性に引き裂かれる前の、あの原初状態にもう少し目を向けるだけでも、状況は変わってくると思うからだ。

 

議論が妥当する範囲の検討

さて、気になっていた方もいるだろうが、この話はどこまで妥当するのだろうか。VTuberといっても多様である。一括りにしてしまうのは無理があるかもしれない。

そこで、簡単な確認として、冒頭にも挙げたhatosan氏の4分類に、ここでの議論が妥当するか見てみよう。

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hatosan氏は、VTuberを「キャラクター型VTuber」と「アバターVTuber」に分ける。そしてそれぞれをさらに分類し、「キャラクターVTuber」と「着ぐるみ型VTuber」/「アバターVTuber」と「なりきり型VTuber」のように列挙した。

 

これらの定義については記事を参照してもらいたいが、キャラクターVTuber、着ぐるみ型VTuberアバターVTuberについては異論はないだろう。

しかし、「なりきり型VTuber」については少し難しいところがある。「ころな」は私の好きな動画投稿者だが、彼女はここに分類される。彼女はいわゆる転生組で、もともとは実写動画も投稿していたからだ。

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しかし、このような「なりきり型」のやり方は、一般人がTwitterを使っているような形とほぼ同じであって、そもそもVTuberと呼べるのかという点にも疑念がある(が、ここではVTuberとして扱っておこう)。

生身とVTuber人格の一致が公言されている「なりきり型」は、ほとんど嘘が無い。あるとすれば容姿くらいである。

だが、それでも十分かもしれない。「なりきり型」は容姿が体で、その他が魂である。魂-身体に分けられるのだから、虚構があることは間違いない。今までの議論を当てはめると、「なりきり型」が少しでも虚構を持つなら、それは実在性を成り立たせるはずだ。そして実際、小さいながらも、「なりきり型」も実在性を伴う*8。その実在性とは、後に紹介する「花譜」や「コインランドリーの名取」のように、彼/女が画面上の容姿と全く同じ姿で実生活に溶け込んでいるのではないかという可能性だ。

VTuberの範囲は非常に広いので、普遍的に妥当するとまでは言わない。新しい形態や、これらから漏れる存在があれば、みなさんが個別的に考えてもらえれば良いと思う。ただ、VTuberだと明確に言えるようなVTuberであれば、適用はためらわなくてもいいかもしれない。

 

 

 三つの考察

 最後に、三つの点について軽い考察を付したい。

 一つ目。「VTuberの引退とは死である」という思想は、「心身未分」の代表的なものとして挙げられるだろう。この思想はいくらかのリスナーから聞かれていたことだが、これは「中の人が引退する」という発想からは出てこない。「中の人が引退する」というだけでも、それはそれで悲しいことだ。だが、魂-身体の二項対立でVTuberを切り分ける発想だけでは、「引退を死と捉えざるを得ない悲しみ」には到達できないかもしれない。「心身未分」を経て、VTuberを主体として認めるからこそ、「引退=死」という「人間的な」発想が立ち上がってくるのではないか。

 

 

二つ目。余接氏は「実写動画やメタ発言が受け入れられるようになってきたのはなぜか」という点について、こう述べている。

 

「中の人などいない」というフィクションは、キャラクターが主体を持ったキャラクターとして認知されるために必要だった。言い換えれば、キャラクターがそれ自身として一人の人間として扱われているのならば、わざわざ「中の人などいない」と言う必要はない。そして、人間である以上、肉体を持ち、生活をしていても何ら不思議ではない。つまり、「中に人がいる」のは不自然なことではないのである。そして当然、中にいる「人」とは、そのキャラクター自身のことだ。キャラクターが完全な主体としてみなされる限り、そのキャラクターが現実世界で肉体を持っていることは許容されるのである

 

つまり、「中の人などいない」という、各々のリスナーが行う自己暗示がカバーできる範囲において、実写動画やメタ発言といったリアルな要素はリスナーに受け容れられるということである。

私もおおよそ同意できると考える。

「心身未分」で説明してみると、次のようになる。まず、VTuberはそれ自身で主体とみなされる。なぜなら、感性はそれを疑わないからだ。また理性はその裏返しであるから、そのつり合いの限界において、理性の側面を見ないで居続けることは可能である。

そのVTuberは、分かりやすい例を出すと、「街に佇む花譜」や「コインランドリーの名取さな」のように扱われるだろう。

 

 

 

先日、月ノ美兎は衝撃的な動画を投稿した。それはある料理動画のパロディだったが、 その途中で「アルコールが入っているほうのレモンジュース」が登場したのだ。モザイクはかかっていたが、今までの態度からはかなり踏み込んだ内容であるのは間違いない。また、実写動画であるという点でも、格好の考察材料であるといえる。

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実写動画の投稿は、果たしてバーチャルな行為なのだろうか
また、彼女の飲酒は許されるのだろうか。アルコール入り飲料——つまりお酒——は高校生が飲んではいけない。いや、実際に動画内では飲んではおらず、飲酒をしたかのように思わせるメトニミー(換喩)だったのだが、だとしてもそこには設定との明らかな矛盾がある。
しかし、私の直感としては、これは許容された。他のリスナーにとっても同様である。なんとか辻褄を合わせようとしているコメントは少なくないが、批判の声は見かけなかった。

これはなぜか。

第一に、実写動画は、撮り方に気を付ければ問題が無い。なぜなら、余接氏も言う通り、キャラクターが肉体を持ってこの世界で暮らすことは、キャラクターと人間が一致する以上、許容されるからだ。そして、月ノ美兎はこの点をクリアしている。

第二に、月ノ美兎による飲酒のメトニミーは、キャラクターと人間の一致(未分)によって許容される*9。つまり、逆説的だが、「高校生である」というタテマエがあるからこそ、飲酒のメトニミーは許容される。
分かるだろうが、もし、月ノ美兎が「私は高校生じゃないから」なんて言ってしまえば、大炎上である。高校生というタテマエによってこそ、飲酒のメトニミーが可能となるという逆説がここにはある。

ではなぜ逆説が発生するのか。それは、虚構と実在が互いを支えているからである。虚構を破壊してしまえば、実在も破壊される。たとえば教師RPをとってきたVTuberがいるとする。彼/女がもし教師RPを放棄して、その虚構を破壊してしまえば、彼/女の実在感も同時に破壊されるだろう。虚構と実在はそれぞれ独立しているわけではない。互いに複雑に絡み合っている。虚構が忌々しいからといって、それを捨ててしまうことは、自分の臓器を捨ててしまうことだ。臓器が無くなった人間は、しばらくは生きられるかもしれないが、早く処置をしないと、死に至る。虚構はVTuberに不可欠である。

そういうわけで、この動画には、「月ノ美兎が高校生だからこそ、飲酒(のメトニミー)が許される」という不思議な連結があるといえる。とても面白いと私は思うのだが、みなさんはどう思われるだろうか。

 

 

最後だ。VTuberの権利関係を考えるときにも、「心身未分」は役立つかもしれない

先日復帰を公表したアズマリムの、あの訴えは私の胸を打った。

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特に重要なのは、このツイートで切り抜かれた箇所だろう。一応、文字でも書き起こしておく。

 

よく聴いてください。

昨今のバーチャル業界は、かつてのアズリムと同じような苦しい思いを、あっごめんマイクに手当たった苦しい思いをしている人が、たくさんいると思います。まだできて間もない、道しるべが無い業界だからこそ、実際に活動する人も、運営する会社の人も、応援している人も、みんな、様々な立場で、悩みを抱えていると思います。

立場が違えば、考え方や悩みも変わってくるのは当然です。

アズリムは、様々な問題や悩みの起点は、「バーチャルユーチューバーがなんなのか」、整理されていないところにあると思います。

芸能人とも、アニメのキャラとも、着ぐるみとも違う「バーチャルユーチューバー」。

「しょせんはバーチャルだから~」って、その存在を、無いものとして扱う人がいます。バーチャルは、生きていないことこそがメリットで、そのメリットを生かして人格を変えたり、操作性が高いところを有効活用すべきだ、って。

逆に、「バーチャルだって生きている!」と、その存在をない、あっまちがえた、あるものとして扱う人もいます。バーチャルであっても、そこには一つの人格、魂があって、嬉しい気持ち、悲しい気持ち、そういう気持ちを、生み出していることには、変わりないよねって。

この二つの視点の食い違いが、結果的には熱量の差を生んで、いろんな問題が解決しないまま、置き去りにされてきたと思います。

アズリムは、バーチャルユーチューバーは新しい存在なんだから、強引に、既存の価値観にあてはめるのは無理があるのではないかと考えています。

新しくて、わくわくする、みんなが納得できる存在理由や、役割を探したいんです。バーチャルユーチューバーという存在は、契約だけで縛るものでも、特定の誰かの都合に従うべきものでも、お金を持っている人に従うべきでも、無いと思うからです。

このスピーチからは、彼女がVTuberについてかなり真剣に考えてきたことがよく分かる。「バーチャルユーチューバーとは何か」はまさにVTuber論が行ってきた議論であるけれども、彼女の経験はそれにさらなる説得力を持たせている。

アズマリムは、「VTuberを既存の価値観にあてはめないで」という。この既存の価値観とは、文脈から考えるとアズマリムの周辺で飛び交っていた言説のことだろう。「バーチャルだから」VTuberは存在しないとか、「バーチャルだけど」VTuberは生きているとか、アズマリムの周囲ではそんな話が飛び交っていた。しかし、その両者は両者とも固定観念に囚われているVTuberは存在しない(生きていない)わけではない。また、VTuberは存在する(生きている)わけでもない。VTuberはこの間で宙吊りになってしまっている。だから、もっと相応しい、「VTuberとは何か」を見つけたい。そう、アズマリムは言いたいのだろう。

私としては、この両極端に見える考え方が、どちらも「魂-身体」の引き裂きを前提とした発想であることに着目したい。「VTuberは存在しない」と考える人は、魂-身体だけを見ている。「VTuberは存在する」と考える人は、魂-身体の引き裂きを認めながら、その魂が感情を生み出しているという事実に注目する。つまり、前者も後者も、演者というマテリアルな人間を前提としている

これが、VTuberを宙吊りにする所以ではないか。

対して、「心身未分」は魂も体も無い状態に着目する。受け取られた彼/女そのものを重視する。「心身未分」は魂と体という引き裂きを縫合して、彼/女を一人の主体とみなす。「中の人? 設定? たしかにそうかも。でも、アズリムはアズリムだよね。私は、アズリムを心で感じているよ」。それは、VTuberの(少なくともアズマリムの)宙吊りを解放することにはなるまいか。

 

まとめ

さて、以上で書きたいことはすべて書き終えた。

この記事で一番言いたかったことは、「VTuberを主体として見よう」という呼びかけだ。

VTuberは魂と体で考えられがちだ。たしかにそれは必要なことだし、実際私もこの記事でその区別を使っている。
だが、彼/女たちに感じるあの気持ちも、また大切なことだ。あの感動の中で、彼/女たちは独立して、そこに存在している。あの気持ちは、決して嘘ではない。

 

 

 

*1:彼・彼女をこう省略することにする。

*2:ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ

*3:以下ジャンケレヴィッチ『死』みすず書房p61より引用。「生は、われわれに死について語る。それどころか、生は、死のみを語る。もっと先まで行こう。いかなる問題を扱うにせよ、ある意味では、人は死を扱う。なにかについて語るにせよ、たとえば希望について語るのも、必然的に死について語ることだ。苦痛について語るのは、名指さずして、死について語ることだ。時について哲学すること、それは、時間制の角度から、そして死をその名で呼ばずして、死について省察することだ。」

*4:VTuberはいない」という虚構性は「VTuberはいる」という実在性を否定するが、同時に、虚構性はVTuber独自の実在性を構築する。反対に、実在性は虚構性を否定するが、同時に、全く無いものを無いとはいえないのだから、虚構性を否定する実在性は、虚構性を前提として肯定する。つまり、実在性は虚構性を構築する。

*5:これをベルクソンは「器官-障碍」の関係と言う。

*6:つまり、繰り返しになるが、もしあなたが虚構性を支持しようとすると、それは実在性を支持することになる。VTuberは人間だと理性が訴えるとき、VTuberの実在性は前提とされるからだ。他方、もしあなたが実在性を支持しようとすれば、それは虚構性を支持することになる。その「実在感」は、人間という虚構が基となっているからだ。

*7:過去にも書いたが、VTuberのメタなゴシップなどは、YouTubeTwitterニコニコ動画、匿名掲示板のような順序で増加傾向にあるように思う。

*8:虚構性と実在性はつり合うので、虚構性が小さければ当然実在性も小さくなる。

*9:もし、実際に飲んでいたら話は違っただろう。もしそうなら、白けてしまう人が多かったかもしれない。ギリギリをついた、非常に考えられた内容であると思う。