進化ビショっぽい何か
シャドバでデッキ紹介とかはしないって言ったんですが、「なんかよく分からないけど強い」デッキができたので紹介しようと思います。
こいつです。
フニカルとヤヴン、グリームニルにオーディン、加えてスノホワと、自動進化がいくつか入ってる点では進化ビショです。
ですが一方で、るあj……もとい聖獣やガルラ二種が入っていたり、逆に5/3/5自動進化持ちが入っていなかったりと、少し進化ビショとは呼びにくい面もあります。
そういうわけでデッキ名が「進化ビショ?」なのですが、しかしあえて分類するなら進化ビショとしか言いようがないような気もします。
一応こいつ、アンリミで10連勝してます。
この後もけっこう勝率いい感じでした。
なので強いとは思います(そうじゃないと記事書かない)。
……回し方などが気になるでしょうか?
結論から言うと、自分はオカルト派、つまり感覚でしかプレイしない人間なので、要するに「分からん」のですが、それっぽいことを言うことはできなくもないです。
マリガンはふつうにやってください。
たとえばウィッチ相手にはソニアかバロンキープするとか、ドラゴン相手にはソニアかバロンキープするとか、エルフ相手にはソニアかバロンキープするとか……。
ビショ相手は獣姫をいい感じに引いていい感じにフォロワー展開できれば勝てます。
ロイヤルとヴァンプ、ネクロはぜんぜん分かりません。勝てるときは勝てる。獣姫→礼賛→聖獣→バロン→ガルラ→エンハソニアとかしてたらいいんじゃないかな。知らんけど。
ネメシスはそもそも時間の無駄なので即リタしましょう。
とにかく適当に強いムーブしていればオッケーです
……採用理由?
それも感覚なのでなんともいえませんが、ぽれとしてはなるべく低コストが多い方が使いやすいっていうのがあって、その意味で5コス自動進化は抜きました。
あと2コスのレインディアは感覚的に要らない気がしたので抜きました。
2コスの亀はよく分かりません。自分で試してください(なげやり
ガルラはバロンあけたり獣姫あけたりして気持ちよくなるためです。レジェガルラはフィニッシャーですけどあんまりアミュ来なかったりするので要らない説もなくはないです。
でも1コスでカウント進められるのはたまに助かるのでどうなのかなという感じ。
狂信者か病の神どっちを入れるかは気分で決めてください(ただ、並べるデッキなので狂信者のほうが良かったりするのかな)。
オーディンは長期戦だとラグナロク来たるときあるんですが、基本なぜか手札にいるので4点パンチにだいたい使います。
そんな感じです。
テミスがないのでソニアもバロンも引けずドロシーに先手打たれたら泣いてください。
……次の環境ゼウス入るかなあ?
『存在と時間 哲学探究1』を読んだ
永井哲学に出会ったのは古本屋に売ってあった『哲おじさんと学くん』が最初でした。
そのとき永井先生のことは全く知らなかったので、ぱっと見た時にはふざけた入門書か何かかと思ったのですが、序文がまずそれを否定していること、哲学を専門にしているような人にこそ読んでほしいと書いてあったことから興味を惹かれ、購入してみることにしました。
形式は対話篇。昔プラトンを読んだとき以来な気がします。
序文の固さから少し読みづらいかもしれないなと思っていたのですが、哲おじさんと学くんのセリフだけで進んでいく形式はとっつきやすく、意外に文章も読みやすい。
「なんだ読めるじゃないか」という感じで、すいすいと調子よく20章、30章(見開き1ページで1章という構成)と私は読み進めていきました。
しかし、40章あたりまで来たところで、違和感に気付きます。
「あれ? なにがなんだかわからなくなってる……」
あ……ありのまま今おこったこt
そうです、この本、読めはするんですが理解するのがめっちゃくちゃ難しい。
というのも、普段使うような簡単な言葉を極力使っているので文を追うのは難なくできるのです。対話篇なので体にも入ってきやすい。
しかし、その水面下ではかなり高度な論理展開が繰り広げられていて、最初からしっかりついていっていないと、いつの間にやら置いてけぼりを食らってしまうのです。
そんなわけで、『哲おじさんと学くん』は挫折。
挫折しただけでなく、内容を思い返すと腹が立ってくる始末です。
この立腹が私の表層的な拒絶で、実は受け入れなくてはいけないものがこの本にあるのだというのは確信としてあったのですが、しかし感情はやっぱり憤りを感じているので、『哲おじさんと学くん』はまたいつか戻ってこようと思い本棚にしまいました。
それから少しして、今度は対話篇ではなく普通の論文形式で一番新しいものをと思い、大学の図書館で『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』を探したのですがあいにく貸出中でした。そこでそのひとつ前の、『存在と時間 哲学探究1』を読んでみようと手に取った、というのがこれまでの経緯です。
さて、永井均とは。
永井さんは言葉にできないもの——ウィトゲンシュタインにいう語り得ないもの——にかかわる哲学を展開している人です。
この新書で言われる内容こそが自身の哲学の原点だと永井先生は言うのですが、このタイトルにある「私」「今」「神」を貫くものが、永井哲学の探究するものです。
それは何でしょう。
たとえば、「私」に関していえば、とらじぇでぃという私は、「その目からだけ現実に世界が見えており、その体だけが殴られると現実に痛く、その人の悲しみだけが現実に直接的に悲しい唯一の存在者*1」であるような私ですが、その性質を持っているのは、あまりにたくさんの人がいるなかで、やはり唯一この私だけです。
これは一体なんだろう、というのが永井哲学の問いたいことです。
……あまりよく分からないでしょうか。
それも無理はなくて、なぜなら永井先生の伝えたいことは前述のとおり、言語では伝えられないものだからです。
彼もなんとか色々な言い方を駆使して感じ取ってもらおうとしているのですが、私も『哲おじさんと学くん』を読んでいなければ導入で既に躓いていたかもしれません。
また、「今」に関していえば、「どの時点もその時点にとっては現在であるが、そうした諸々の現在の中にきわめて特殊な——それがなければ何もないのと同じであるような——ものが存在している。これはいったい何なのか!*2」というのが永井哲学の問いたいことです。
詳しい内容はここに挙げた著書か、その他の永井先生の著書を読んでもらえたらいいと思います。
さて、永井先生自身も書いていますが、この哲学は全く、全く役に立ちません。
なにしろ、実在しない「現実の<私>」を扱うのですから。
実用を重んじる現代社会にとっては残念なことです。
ですが、「哲学は他の諸科学・諸学問とは違って、各人が人生において直接に感じ取った問いをそのまま問い、そのまま探求する学問でなければならない*3」というような定義も頷けるところです。
すでに与えられている問いだけにしか答えようとしないのは、たしかになんだか違和感があります。
しかも、永井先生はそれを口先だけでは無くて、独創的な切り口で哲学問題に挑む姿勢を示してそういうのですからすごいです。正直尊敬できます。
永井哲学は、ニーチェやウィトゲンシュタインと通ずるところがあるようですが、実際本を読んでいると、ニーチェを読んでいた時のような高揚感が呼び覚まされることに気付きました。
そう感じるということは、きっと何かあるんだと思います。
でも、難解。読み切れたのはよかったけど。
次はVtuber記事を書くために、『動物化するポストモダン』を読もうと思います。感想書くかは気分で決めます……。
『ALTER EGO』をプレイして
ついさっき、スマホアプリゲームである『ALTER EGO』のエンディングを迎えました。
赤月ゆにちゃん様のツイートなどで前々から存在は知っていたのですが、
赤月ゆにとエスがひたすらにヘルマン・ヘッセの話をし、エーミール(『少年の日の思い出』の登場人物、と思われがちだけど、実は同作者の『デミアン』にも同名のキャラが登場。同作を発表した当時のヘッセの筆名でもある)についての考察をする動画
— 赤月ゆに 🦇 秋田赤十字で血を捧げよ (@AkatsukiUNI) 2019年5月11日
(ALTER EGO × 赤月ゆにコラボ企画)
app storeからのスパムみたいな宣伝メールに載っていたのを目にして、暇だし()やってみようと思ったのがきっかけです。
率直な感想をいえば、すばらしかったです。
どのくらいすばらしかったかと言えば、追加シナリオ2000円分課金するくらいにはすばらしかったです。
トゥルーエンドにたどりつくだけなら無料なので、みなさんにもおすすめします。
特に、心理学や哲学に興味のある方、美人の女性に罵られたい方はハマると思いますね。
少しどんなゲームなのか紹介します。
30秒でわかる『ALTER EGO』 pic.twitter.com/SWtdOPIf00
— 大野真樹@ALTER EGO (@date_maki) December 28, 2018
このように、時間経過、あるいは流れてくるふきだしをクリックすることによってポイント(=EGO)を集め、それを消費することによりエス(途中に出てきた女性)との会話を進めていくゲームです。
動画にあるとおりですが、途中エスからの質問に答えることがいくつかあります。それによってエンドの種類がかわるようになっているようです。
エンドは3つ。どのルートを選ぶかによって、要求されるポイントの量がかわってきます。
ALTER EGOのゲームデザイン
— 大野真樹@ALTER EGO (@date_maki) January 3, 2019
こういうゲームを作るぞと決めたり、シナリオやテキストを書いたりは「大野真樹 @date_maki」が担当しています。ALTER EGOは自分のEGOを貫く、というのがコンセプトでした。
中途半端に大衆に寄っても良くないと感じたので、なにを良しとするかは自分の好みを通しました。
このように開発者さんもおっしゃるだけあって、少し人を選ぶのかもしれませんが、先ほども言ったように、適性のある人はとことんハマると思われます。
さて、この先ネタバレを容赦なくねじこんでいくのですが、このゲームは見る人が見れば分かるとおり、心理学をその基礎としています*1。
登場人物は三人。
本に囲まれた狭い部屋に住むエス、壁男とよばれるエゴ王、そしてプレイヤー。
これらが無意識(エス=イド)、超自我(スーパーエゴ)、自我(エゴ)に対応していることは明らかです。
エスは衝動を時に抑えられなくなる場面があり、エゴ王は自我であるプレイヤーに規律を守るよう促します。
しかし、ALTER EGOとは?
それぞれが対応関係にあったのであれば、ALTER EGOも何かを指すはずです。
エンディング名も、イド、スーパーエゴの次はエゴエンドではなくオルターエゴエンドだったわけですから。
字義から考えましょう。オルターエゴというのは、通常の意としては別人格のことを指します。
といっても、おそらく多重人格者における一人格ではなくて、劇などで道化としてじが演じられる別人格のことです。
たとえば、俳優がドラマで刑事役を演じたりしたときの、その刑事としての人格をオルターエゴ、すなわち直訳にいう別の私*2として見るのです。
なので、この意味でのオルターエゴは、日常での仮面の使い分けとか、Vtuberのパーソン/ペルソナとかにも適用しようと思えばできる、広い意味の言葉のように思えます。
ちなみに、グラブルにもオルターエゴと名の付くスキンがあります。
コンジュラーは召喚士やらなんやらという神秘的・魔術的意味合いがあるようですし、また絆の象徴として知られる赤い糸が伸びていることからも、背景の人物が主人公の姿をした何かを操っていることは確かでしょう。
ジョブのフレーバーテキストはこうです。
無秩序の渦による侵掠の赤き糸を拒絶し、逆に支配下に置くための絡繰りとした勇姿。
人の子の身に余る大いなる力も、仲間と共に仲間の為に扱えば造作も無い。
そこまでしっかりグラブルのストーリーを見ているわけではないので的外れなことを言っていたら申し訳ないのですが、テキストを見る限りでは、そのままですが、操ろうとする何者かを逆に操っている様子がこのイラストということになりそうです。
もし、先の定義を無理やり押し込めるとするなら、「もはやその主人公は、前の主人公とは別人」だということになるのでしょうか。客観的にか、内在的にかは分かりませんが。
話を戻して、もうひとつ、オルターエゴは哲学で他我という意味にも使われます。
他我はすなわち他の私です。
つまり「他人が持つ私」のことですが、哲学ではその他我をどう感じ取れるのかといったことが問題になることがあって、それを他我問題といったりもします。
『ALTER EGO』のいうオルターエゴは、この意味で用いられていると推測します。
オルターエゴエンドの内容は、エスと共存する道を選ぶというものでした。
これはつまり無意識・衝動と共存することの暗示でしょうが、しかしセリフなどから総合的に判断する限りでは、エスはプレイヤーとは独立して存在しているようにも思われます。
彼女は例えば、狭い部屋が嫌だ、本を読むのが好き、私ってなんだろう、など独立した思考を持っています。擬人化ゆえにそうなったとも言えるかもしれませんが、しかしそれなら、なぜエンディングは順番として妥当な「エゴエンド」ではなく「オルターエゴエンド」なのでしょうか。
それはまさしく、「私」の内なる別人格としてのエスとの共存を指すのです。これは無意識的衝動を受容する以上の意味を持ちます。
というのも、ご存知のとおり、無意識というのは大海原のように広い領域だと言われており、その多くは自我のコントロールが効きません。
フロイトは、人間の自尊心は3回ショックを受けたといいます*3。その3回目のショックが、無意識の存在によるものです。人間は自らを制御できていると自負していたのに、実は無意識がその多くを占めていたと明かされれば、困惑するのも無理はありません。
そしてその無意識は、自分でも思ってもみなかったことを時たま露呈させます。
その意味で、思い切った言い方をすれば、私たちみんなが多重人格者であるわけです。
ユングは無意識の作用を、意識の対抗作用だと言っています*4が、無意識はそのように、意識のベクトルと逆方向に力をかけて、一旦その人を引き止め、考えを改めさせようとします。
ソクラテスはダイモーンの「否」の声を聞いたと言いますが、ダイモーンとはまさにその無意識の作用だったのかもしれません。
そしてその別人格としての私を受け入れるということは、そのユングの意味での精神的な健康を保つことを指しましょう。
少年マンガなどでよくある展開として、「登場人物の迷い→他なる私との遭遇→和解→解決」というものがあります。
自分とそっくりだったりすることの多い、精神空間で邂逅した何者か。それは往々にして、登場人物にとって目を逸らしたいことを、ダイレクトに投げかけてきます。しかしそれと最後はわかり合い、問題は解決に向かっていく。
これは、別人格としての私の声が、プラスの方向へと自分を導いていくことの暗喩であると解せましょう。
逆に、無意識の声を否定し続けることは、精神的疲労を呼び、場合によっては精神疾患すら引き起こします*5。
まとめましょう。
オルターエゴエンドはエスという内なる別人格の私との邂逅、そして和解を経た共存を表現し、それはユングの言う、あるべき精神の姿を示します。
その意味で、それはトゥルーエンドだったのではないでしょうか。
シャドバのライトユーザーについて
先日のナーフのときもそうでしたが、ライトユーザーという言葉はしばしばシャドバ界隈で用いられます。
それに対比されるヘビーユーザーという言葉もありますね。
これらライト・ヘビーというのは課金額・時間など、一つのコンテンツに消費する財産の大きさを指すものだと思われます。
Twitterで、ライトユーザーと検索をかけても、やはりライト・ヘビーは課金額のイメージが強いようで、結びつくのは大抵運営の資金繰りの話のようです。
これらライト・ヘビーの指標をこれから使うとして、もう一つ、別の視点からの指標も導入したいと思います。エンジョイ勢・ガチ勢についてです。
いうまでもなく、その切り分け方はプレイスタイルに依ります。エンジョイ勢はenjoy=楽しむことを目的にしますが、一方でガチ勢はガチ=真剣にゲームと向き合い、勝利を目指すことを目的にします。
それぞれの極端な例を言うと、相当なエンジョイ勢はコンスタントな勝利ではなく独創的なデッキを用い極々低確率で可能な勝ち筋を実行しようとします。
一方、相当なガチ勢というのは、そういった瞬間的・爆発的快楽でなく、コンスタントな勝利にやりがいを見出します。
これら2つが、ゲームプレイヤーをはかるうえでよく使われる指標でしょう。
しかしながら、血液型占いや星座占いで人間を4等分や12等分できないのと同じように、全プレイヤーをこれらの指標で二分するのは無理があります。
ライトユーザー・ヘビーユーザー、エンジョイ勢・ガチ勢という二項対立だけではその指示内容はあまりに広範であって、議論には適していないというほかありません。
……とはいえ、段階的にそれを名付けてみても切りが無いわけでありますから、この単純化された概念たちをその左右の振れ幅である数直線の中で、ある程度うまい具合に使っていかなければなりません。
それゆえ、以下曖昧な表現があるかもしれませんが、ご了承ください。
そしてもうひとつ、以下ではライトユーザーとエンジョイ勢をまとめてライトプレイヤー、ヘビーユーザーとガチ勢をまとめてヘビープレイヤーと呼称しますので、それも把握のほどお願いします。
さて、この記事で私が言いたいのは、ライトプレイヤーとヘビープレイヤーに一体どのような認識の齟齬があるかということです。もちろん、さきほど述べたようにこれら単純化にはデメリットもありますので、そこも考慮しながら書き進めるつもりです。
まず、それぞれの特徴を述べます。
ライトプレイヤーは基本的にシャドウバースを、俗にいうソシャゲの一つとして捉えます。
ソシャゲとはご存知の通り、SNSを基盤にしたゲームのことです。今は意味が拡大しスマホアプリゲームにもソシャゲの名が適用されるようですが、ともかくその特徴は手軽に遊べることです。たとえばパズドラにしても、グラブルにしても、好きな時に始めて好きな時に中断でき、一つ一つのタスクも小分けに、しかも少ない時間でこなせ、さらにほとんどの作業では特段頭で考えることなく成功を積み上げていくことができます。
シャドウバースはこの点対人ゲームである以上、中断の実行はポイントを失うリスクを伴うわけですが、しかし初期シャドウバースはその他の点ではさほど見劣りするものではなかったと思われます。
レッドエーテルシステムはなるべくソシャゲにお金をかけたくない層にとって革命的に都合の良いものでしたし、サイゲームスのカードデザインなどは他と比較しても突出していた(している)と思われます。それらはオタクの心を鷲掴みにし、新規獲得などにも大いに貢献したことでしょう。
そしてライトプレイヤーはこれら性質を兼ね備えた初期シャドウバースを歓迎するわけです。
彼らのもうひとつの特徴として、ライトプレイヤーに明らかに分類される層——時間もかけずのんびりとプレイし、課金もしないような、やれるときにやろうといったスタンスの人たち——はTwitterを大半がやっていないということがあります。
なぜそう言えるかといえば、Twitterでアカウントを作るというのは、より強くなりたい、勝ちたい、誰かと一緒にプレイしたいなどといった、ある意味シャドウバースへの執着が必要であるからです。
では今現在Twitterに見られるライトプレイヤーは一体何者かという問いが浮上します。「彼らは途中でシャドウバースに飽きたのだ」というのが簡単な答えですが、私が思うには、彼らは飽きざるを得なかったのではないでしょうか。これについては後々触れます。
この一方で、ヘビープレイヤーは初期シャドウバースには不満を持ちました。
なぜなら、彼らはカードゲームらしさを求めていたからです。
カードゲームらしいカードゲーム。
私は他のカードゲームにほとんど触れたことがないためよく分からないのですが、見かけていた話を要約する限りでは、盤面の取り合いが多く、考えることの多い、運ではなく実力で勝負が決まるような、バランスのとれたカードゲームを指すようです。
初期シャドウバースに対して「エロメンコ」「時間のかかるジャンケン」との揶揄を言い出したのはおそらく彼らの一部でしょう。あまりにも的を得た表現で、私も当時は喜んで使っていたこともありましたが…今となっては昔の話、ですね笑
まあしかし、上のように言っておいてなんですが、初期においては、Twitter上のライト・ヘビーの境目は、外観としてはあまりはっきりしていませんでした。
それはシャドウバースの性質自体がそうさせていたのです。
では次にそこを見ていきましょう。
シャドウバースの出発点*1は、先ほども触れたように一つのスマホアプリゲームでありました。
無課金でも充実して遊べることが長所としてユーザーには受け止められ、また当時の運営のスタンスもそのようなものであったと考えます。実際、カードゲームとして当然ながら初期はカードプールが狭く、さらに課金先もそのプールの狭いカードパックが主となっており、私の友だちなどは「課金するほうがバカ」というほどでした。
また、これも先ほど言ったようなシャドバの性質の一つですが、初期段階ではそれぞれのプレイヤーにはほとんど差が生じませんでした。ある決まったデッキや決まった動きをすれば勝負が決まるような場合が多々あり、最悪特に何も考えずとも、コストを毎ターン使い切っていれば勝てるといったこともありました。
これはベビープレイヤーからすると、悲観すべき状況に見えます。しかし、ライトプレイヤーにとっては大いに輝ける場であったのです。
彼らにとっての手軽さ、思考すべき要素の寡少などは、彼らの希望に適っていました。
そして、そうしたライトプレイヤーの中で、シャドバに熱中する者は、情報収集のためネットを活用します。
しかし情報といっても、それはおおよそ、流行りのデッキをいち早く手に入れるくらいの目的だったでしょう。
当時はデッキを知ることが勝つことに直結しました。
ゆえに、情報を求めるライトプレイヤーが発生したのです。
これが、ライトプレイヤーがTwitterに現れた動機の一つです。
デッキだけならまとめサイトなどにもあるにはありますが、それらはあくまでもツイートのまとめを行っているだけであり、であれば自身も発信しながら、直接情報を収集すればwin-winではないかと、こういうわけなのです。
しかしながら一方、もとから他のカードゲームに親しんでいたような人々は、これが異様な状況であることを表明します。力の限りをもって、このカードゲームらしくない環境を、カードゲームらしいものに“改善”しろと運営に求めるのです。
しかし努力むなしく、こういった環境は続いていきます。
状況が変わり始めたとプレイヤーが気付きだすのが、おそらくチョイスが実装されたころです。エンハンス、アクセラレートに続く第三の大型ギミックは試合をより複雑で困難な、かつ時間のかかるものに仕上げました。
そしてシャドウバースは、ある一定以上の思慮を要求するゲームになったのです。
既にローテーションフォーマットも実装され、いつの間にやら、ライトプレイヤーが喜んで享受していたような環境は去りました。その代わりに到来したのは実力環境です*2。
つまり、運営はかの叫びを聞き届け、カードゲームらしいカードゲームに近付ける努力を着実に実行していたのです。
この環境——今のような環境——においては、デッキタイプ・デッキリストは当然の前提とされ、それに加えて繊細なプレイングが問われます。つまり、過程を突き詰めなければ勝利につながりにくい環境になったということです。
ところで、ライトプレイヤーは過程ではなく結果だけを見て、すぐに「運だけ!」と鳴き声を上げると思われているようですが、そういった人が実在するかはさておき、ほとんどのライトプレイヤーも過程は考えます。ただ、そこに多大な時間は注ぎ込みたくないと考えているのです。
彼らの特徴を思い出してもらいたいのですが、ライトプレイヤーの認識というのはシャドバ=遊びなのであって、他のスマホアプリと同じように、苦痛に耐え忍びながら過程などを考えるよりかは、暇な時間をいかに即時的に気持ちよく埋められるかが重要なのです。
しかし、シャドウバースは変質し、そういったソシャゲ的性質はかなり薄れました。
この今現在をシャドウバースの主張に倣ってeスポーツ時代、初期シャドウバースをソシャゲ時代と呼びましょう*3。
eスポーツ化し競技性が高まった今、ライトプレイヤーはシャドウバースに見出していた手軽さを——簡単にカードゲーム感を味わえるといったところに見出していた長所を——失い、Twitterにいたライトプレイヤーというのは、シャドウバースから離れるか、フェードアウトしてしまいます。
なぜならば、重ねて言うようですが、Twitterにいたライトプレイヤーは、ソシャゲ時代における動機(=簡単に勝つための情報収集)によってそこに住まわっていたのですが、しかしeスポーツ時代においては、以前のような情報はあまり重要でなくなり、代わりに「マリガンは○○相手ならこうで、○○相手なら××は残す。○○相手の時〇ターン目にはこれは投げないけど、この手札で〇ppのときは投げる。ただし相手の場に○○があるときは裏目を警戒して……」といった、時間を掛けなければ入手できない(=体得できない)知識・経験が重視されるようになりました。
もはやeスポーツ時代においては、「Twitterにいることによって手軽に勝てる」という公式が通用しなくなってしまったのです。
つまり、ソシャゲ時代は経験なくともデッキリストさえしっかりしていれば簡単に勝てるようになっていたものが、eスポーツ時代においては暗中模索、無限にある選択肢のなか、何も見えない状態で何戦もこなし、ようやくわずかに、わずかに一筋の光が差すような、そういった場が目の前に横たわっているのです。
みなさんのTwitterの交友関係の中で、eスポーツ時代においても変わらずシャドバを続けている人と、シャドバから離れがちになっている人がいる理由は、以上のようなところにあると考えます。
もし、eスポーツ時代にあたって、そういった環境に向き合うことが「当然だ」と言い切る方がいれば、その方は間違いなくヘビープレイヤーに分類できます。
ライトプレイヤーにとってはシャドウバースは暇つぶしの一つだったわけで、彼らにとっては、バハムートを投げその圧倒的カードパワーで勝利するような、あらゆる手間を省いた勝利で十分だったのです。
シャドウバースの手軽さに惹かれていた人たち、言い換えれば、シャドウバースに多くの時間を注ぎ、生活内でのその優先順位を上げることに魅力を感じない人たちは、このeスポーツ時代には嫌気がさすでしょう。
彼らの「シャドバが好き」と、ヘビープレイヤーの「シャドバが好き」は、その意味する内容が異なっているのです。
ここまでの流れで分かるかもしれませんが、私自身はおそらくライトプレイヤーです。
正確にいうと、ややヘビープレイヤーよりのライトプレイヤーでしょうか。課金は今まで3万~5万ほどしましたし、その意味ではヘビーユーザーですが、しかし時間はグラマス3回ほどで、大してかけていません。
勝利数も3000ほどで、強者揃いのTwitter内ではかなり下に位置するでしょうから、その意味ではライトユーザーです。しかもシャドバに真剣に取り組んでいるということもあまり無いので、どちらかといえばエンジョイ勢になるでしょう。というわけで、総合的に考えれば、「ややライトプレイヤー」というような表現をすることになります。
さて、先日友人にシャドバのシステムについて、「負けても何か報酬があるならもう少し試合をこなせると思うんやけどねえ」と冗談交じりに言ったことがあります。私はシャドウバースが上手いわけではないし、シャドバに対してかなり向上心があるというわけでもなく、ゆえに下手なのですが、そうすると負け試合も多くなります。
そうしたとき、掛けた時間への物的対価があまりにも少なく、うんざりしてしまった経験があり、そうしたところから出た発想だったのですが、すると友人は「それは甘えじゃない?」との返答。
理由を聞くと彼曰く、負けてもなぜ負けたかを考えるのが楽しいというのです。
分からなくもありません。私にもソシャゲ時代には、どのプレイングが悪かったかと真剣に考えていた時期もたしかにあったのです。
ただそれはきっと、一定の手軽さがあったからこそできたことだったのでしょう。
そういったように、ライトユーザーとヘビープレイヤーとの断絶は思っていたよりはあるようです。
もう一つ話をすると、たとえばこれもその友人と話したことですが、Twitterでシャドバの引退宣言をすることについて、私は正直不要だと思っていたのです。しかし友人はどうやら、不必要ではないと思っていたようでした*4。
私の見解としては、シャドウバースはやはりゲームであり娯楽なのだから、やりたいときにやればいいし、やりたくないときはやらなくていいというスタンスがあって、これはすなわち、引退宣言は自分の枷になるから必要ないという主張を導出します。
大人しくフェードアウトして、また戻ってきたくなれば復帰すればいいだけの話で、わざわざ公言してけじめをつけるようなことをする必要はないと考えるのです。
一方で、おそらく友人は、シャドウバースを一つの競技として見ていて、サッカーや野球と同じように、継続的な努力を要求するコンテンツとして考えているのだと思います。
そうすると、第一線にいるプレイヤーなどは特にですが、ある故障やスランプ、またはやむにやまれぬ休止期間などを抱えてしまえば、それはその期間自分に課したノルマがこなせないことになり、その瞬間、他のプレイヤーをけん引したり、あるいは追随したりすることは不可能だと悟るわけで、そうなればその人は自分がそこに居座るに値しないと思い至り、引退を宣言します。
そういった事情を察知し、あるいは前提とするからこそ、引退宣言は彼らにとって効力を持つのです。
ここで冷笑主義的な感想が頭を出して「熱血的だな」などと言ってしまう人もいるかもしれませんが、しかしそう見えるような要素は真剣そのものだからこそ表出するのです。彼らにとってシャドウバースはもはや、単なるゲームではないのです。
こうして話した断絶ですが、それがプレイヤー間に現れるのなら、当然コミュニティ内にも現れてくるだろうと考えます。
というのも、おそらくeスポーツ化の過程で、アマチュアチームのメンバーは大幅に入れ替わったであろうし、またもしチーム内に両者が混在しているのであれば、その衝突は避けられないであろうと思うからです。
チームについては以前の記事で述べましたが、その存在価値は閉じたコミュニティの中で情報交換ができることでした。
しかしeスポーツ時代において、ユーザーがライトプレイヤー・ヘビープレイヤー*5に区別されると、両者にとって必要とされる情報の質は違ってきます。
たとえば前者はなるべく手っ取り早く、あるいは楽しいデッキを、後者は勝率を上げるためのプレイングや○○は何枚入れるべきかといった細かな調整に関する情報を求めるのです。
ライトプレイヤーはヘビーユーザーに不満を感じることはありません。動機が存在しないので当然です。
しかしヘビープレイヤーはライトプレイヤーに不満を覚えることがあるかもしれません。ライトプレイヤーの質問には全員が答えられますが、ヘビープレイヤーの質問にはライトプレイヤーが答えることは多くの場合適いません。プレイの目的、プレイスタイルが違うので当然のことです。
その結果、チームのチャットが過疎状態にあるように見えることも、あるかもしれません。
そして、このeスポーツ時代は、チームの在り方も限定的にしていくように思われます。
ここまで話した、シャドウバースをとりまく状況について思い返してもらえれば当然の帰結なのですが、チームは能力向上の、つまりヘビープレイヤー向けにしか機能しえない……というのは言い過ぎかもしれないですが、そういった方向でしか機能しにくくなっていることは確かだと、私は日々感じています。
なぜなら、eスポーツ時代以降にTwitterに集う人間というのは、ソシャゲ時代のような情報ではなく、プレイングなどの情報を求めてくる人が多くなるわけで、その意味でヘビープレイヤーなのです。
もちろん人間関係に飢えてTwitterを始める人もいるかもしれませんが、それでもeスポーツ化したシャドウバースに耐えうる時点で性質としては後者に近いものがあります。
そして、そうした情報の中でも本質的で核心をついたものは閉じられたコミュニティ、つまりアマチュアチームなどでしか共有されないために、そうしたヘビープレイヤーはチームを求めるようになるのです。
ソシャゲ時代においては、そういった秘匿しなければならないような情報は多くなく、むしろほぼ全員に共通した土台の比率がはるかに大きかったのですが、eスポーツ時代に至ってはその前提部分は比率としてかなり狭まり、個人の練度や、そうした情報がはるかに重要視されるようになりました。
そうなれば、チームは能力向上の場以外では成り立ちにくくなります。
……理想をいえば、私はゆるやかな繋がりを持ったチームも、さらに増えてほしいと思うのですが、しかし上のような背景に目立つのはやはりそういった技能を向上させることを第一目標に掲げるようなチームです。
そうなるのも仕方のないことかもしれませんが……。
さて、最後にですが、私はシャドウバースに真剣に打ち込む人たちを正直尊敬しています。たとえば私が読書に時間を注ぎ込むのと同じように、彼らはシャドウバースに身を捧げているのです。
もはや私にとってシャドウバースをするというのは、その一面においては戦場に赴くに等しい行為です。
eスポーツ時代を迎え、私はシャドウバースを娯楽として見ることが、少し難しくなりました。
シャドウバースは着々と競技としての体を成しつつあり、また生きがいとして耐えうる一つのコンテンツとなりつつあるのでしょう。
STRアディショナルとカオス
STRって見ると、MMOとかのステータス思い出すなあとかぼんやり思ったとらじぇです。
シャドバですが、先日追加内容が発表され、今日早速実装らしいとのこと。
しかしみなさんお気付きですか?
そうです、今回のアディショナルにはょぅι゛ょがいないんです!
ソニアはどうなん?って思われるかもしれないですが、いやあれはぽれ的にはょぅι゛ょではないです(一蹴
じゃあ基準はどこなんだよって、それはぽれの心に聞いてください、心を震わせた女の子がょぅι゛ょです。
しかし、ょぅι゛ょと言っても、果たして本当にそれがょぅι゛ょかと言うのは分からない話です。
たとえば、地球があって、それと見た目は全く同じもう一つの地球が、遠い遠い銀河のはるか先にあるとしましょう。
そして両方の地球にはょぅι゛ょが暮らしているのですが、しかし実のところ、地球に暮らすょぅι゛ょと、別の地球に暮らすょぅι゛ょとでは、その体を構成する分子が異なっているのです。
異なっているとはいえ、しかし、機能は同じなので、見た目やら仕草やらに全く違いはありません。だけれども、その構成する分子はやはり異なっているのです。
このとき、2人のょぅι゛ょは全く同じなのでしょうか……?
いえ、そうではなく、ょぅι゛ょという言葉の意味において、このとき2人は別物と言うべきです。これは、意味は私たちの主観だけでは定まらないということを示唆します。
だからなんだという話ですよね、特に意味はないです。
そういえば、先日バイトしてるとょぅι゛ょがじっとこっちを見てきたんですよね。
段ボールやらを解体してるのがそんなに珍しかったのか分かりませんが、とにかくずっと見てくるので、「お兄ちゃんのお家来る?」とか言いそうなりましたがそんなこと言ってしまったらおしまいですのでもちろん言いませんでした。
おしまいといえば、最近は本屋では珍しくセールをやっているところがあって、それが昨日終わったんですが、調子に乗って8冊くらい購入してしまいました。
ょぅι゛ょに関する本はさすがに買ってないんですが、バタイユ3冊買ったので実質そういうところがあります(ないです)。
外山滋比古の『異本論』もいつか買おうと思っていたのでようやく、という感じなのですが、最近の潮流を見てると時代遅れなのかなあ、という感はあります。読んで見ないと分からないですけど。
あと、好き嫌いはだめかなと思い、論理学の本も3冊ほど買って、バトってみることにしました。
バトってみるといえば、先日グラブルで開催されたゼノコキュ・ゼノウォフは全く回れず、ゼノウォフは完成させたのですがゼノコキュは最終日の3時間で死に物狂いで回って2凸しか出来んかったと。時間とのバトルにルーズしたわけです。
ルーズといえば、古戦場が知らないうちにダウンしてましたね。それも立て続けに。
ジオくんに敗北した説が濃厚ですが()、巷ではサイゲに無能が紛れ込んでるとか色々好き放題言われてますね。がんばれサイゲ。
がんばれといえば、応援していたvtuberグループのハニストから、蒼月エリちゃんが引退するんですよおおおおおおおおお
蒼月ぅ…もう完全に蒼月ロスです、心が終わってゐる。
なんというか、アイドル好きの気持ちが分かった気がします、アイドルの引退はそりゃ一大事ですわ、ニュースにもなりますわ。
彼女はまた別名義でか、元の名義でかで活躍するでしょうが、静かに見守ってあげたいなという所存です。
……なんの話でしたっけ。